淫夢厨社会人と封印から出れない妖狐 作:狐耳大すこすこすこてぃっしゅふぃーるど侍
屋上の風が、制服の裾をはためかせた。
高層ビルの端に立つ金髪の女――佐竹アリスは、双眼鏡を下ろして深いため息を吐く。
「……何日、これを続けておりますの……」
街は夕焼け色に染まり、帰宅ラッシュの音が下界に響く。
彼女の視線はただ一人の男を追っていた。
その男の姿に異常はない。
昼は普通に働き、夜には家に帰り、たまに買い物にも出る。
ごく普通の、地味でのんびりした一般人――にしか見えない。
だがその男を中心に、“異様な威圧感”が常に漂っていた。
霊的に鈍い者には見えずとも、アリスの目にははっきりと映る。
(間違いありませんわ……この人の背後には、何かがおりますの……)
威圧感。霊的な格の高さ。
低級な妖は本能的に逃げ出し、術者たちでさえ距離を置くほどの“霊的存在”が、彼の近くにいる。
――だが姿はない。
周囲の結界反応も、探査符も、何も引っかからない。
間違いなくかなりの格がある存在のはず、それだけの大物が近づけばすぐにわかると踏んでいたが……。
実際には男は会社と家を往復するばかり、そのような存在は一向に現れなかった。
思わず握りしめた手の中で、監視用のお札がくしゃりと音を立てる。
(……これ以上、外から調べても無意味ですわ……!)
アリスは歯噛みするように言った。
「せめて、話ぐらいは聞かせていただきますわよ……見えない威を持つ者について」
夕暮れ時。男がスーパーの袋を片手に下げ、住宅街の道を歩いていた。
その帰路の途中、ふと顔を上げると――
小さな交差点の先に、見覚えのある金髪の女性が立っていた。
やや気まずそうに一礼しながら、彼女は近づいてくる。
「……すみません。少しだけ、お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
「ああ、はい。何かありましたか?」
男が立ち止まって応じると、彼女は一瞬言葉を詰まらせたが――
すぐに視線を、彼の胸元に落とした。
「その……首から提げていらっしゃる、それ。もしよろしければ、少し拝見しても?」
「これですか? ええ、大した物じゃありませんが……」
男が和風の組紐に結ばれたお守りを手に取り、見せる。
古めかしく、どこか素朴な作りだが――
男が差し出したお守りに、アリスは静かに目を凝らしていた。
その表情からは、普段の気取った様子が抜け落ち、真剣な気配が漂っていた。
「……このお守り、とても強い“威”を発していますの。
見た目は素朴でも、これは本物。間違いなく、何かが“護っている”気配」
男は少し困ったように笑った。
「そんなすごいもんだったんですか、これ……? 実は、もらい物でして。あんまり意味とかは、考えたことなかったんですけど」
アリスはゆっくりと手を下ろすと、改まった口調で口を開いた。
「……突然のこととは存じますが、わたくし――退魔師でございますの」
「……えっ?」
「この地域で“霊的な威圧感が観測される”との報告を受け、調査のため派遣されておりますの。
これまで遠方からの観測にとどめておりましたが……本日、ようやくその中心が“あなた”であると断定できましたわ」
男はきょとんとしながら、手にしたお守りを見下ろす。
「つまり……これが、そうさせてるってことですか?」
「ええ。あなたご自身が霊的存在であるようには見受けられません。
ですがこのお守りは、強い“威”を放ち続けています。
このような品は、現代ではまず見られません。おそらく――文明開化以前の、神々が姿を隠すよりも前に造られた、神具級の宝具と思われますの」
アリスは一拍置いて、静かに言葉を続けた。
「……差し支えなければ、このお守りの入手経路を教えていただけませんか?
もちろん、もし問題ないようであれば、私の所属組織には“無害”として報告いたします。
ですが、万が一――不正に流出した神具であれば、見過ごすわけにはいきませんので」
男は、明らかに動揺していた。
「……い、いや、別に盗んだとかじゃないです。っていうかそんな大層なもんだとは……」
「では、どちらから?」
男は一瞬、考え込むように言葉を選んだ。
あまり裏の世界を知らない人間が、突然“退魔師”に調査されている――というのだから当然だ。
「……知り合いから、ですね。家に住んでる人、というか、妖? らしいんですが」
アリスの目が鋭くなる。
「……そのような方が“今もご在宅”で?」
「ええ。我が家にいます。銀狐って名乗ってました。
よくわからないけど……その人が、ある日“礼に”って渡してくれたんです」
アリスは数秒の沈黙ののち、小さく息をのんだ。
「まさか……現代において、これほどの神具を“造れる”存在が、まだ……」
彼女はふっと目を伏せ、口調を柔らかくする。
「……その、銀狐さまとやらに、ぜひ一度お目通りを願いたいのですが。
もちろん、無理にとは申しません。ご迷惑をおかけするつもりもございませんわ」
男はやや戸惑いながらも、頷いた。
「ええ、確認してみます。勝手なことはできないので……返事はまた、後日でよろしいですか?」
「もちろんですわ。ありがとうございます。――本当に、感謝いたしますの」
銀狐の名を聞いてからも、アリスはしばらく押し黙っていた。
やがて静かに口を開く。
「……しかし本当に、すごいものをお持ちですのね。うらやましいですわ」
「そんなにすごいものなんですか? これ……」
男が胸元のお守りを見下ろすと、アリスはコクンと真面目に頷いた。
「ええ。たとえば――あなた様は、“小妖”をご存じかしら?」
「……なんかこう、ちっちゃい妖怪って感じのやつ?」
「ええ、いわゆるゴブリンのような、知能も力も低い雑魚妖怪のことですわ。
昔は彼らが枝を振り回して飛び出してきても、蹴り飛ばして終わりでしたの。
でも――現代は違いますのよ」
アリスの口調が、わずかに重くなる。
「今では、そういう小物が――銃火器を手にして、爆弾を巻き付けて、
事務所や屋敷に突っ込んでくる時代ですわよ?」
「ヤクザ者から横流しされた銃火器、3Dプリンター製のショットガン、インターネットに作り方が乗ってる火薬の製法……現代は妖とこれらが組み合わさりますの」
「……え?」
「パン! パン! と銃声がして、静かになったかと思えば――突然、ドカーン!ですのよ。
しかも、見えないまま襲ってくることもある。霊感がないと存在すら把握できませんの」
「うわぁ……怖……」
「幸いにも、そういった物理的な攻撃に対しては政府の対妖組織が非常に重武装かつ強力ですので、表立った事件にはなっていませんけど――
裏社会ではヤクザや悪い術師たちが、こうした“武装妖怪”を操ってることもあるのです」
男はお守りを持ち直し、まじまじと見つめた。
「……じゃあ、これって……」
「はい。その“お守り”は、それら小物妖怪が本能的にひれ伏すほどの威を放っていますわ。
持っているだけで、襲撃そのものを未然に防ぎます。
冗談抜きに、お金持ちなら――10億出してでも欲しがるのではないでしょうか?」
「……そんなに!? というか、これ……軽い呪いも防いでくれるって銀狐さん言ってたんだけど……」
「……っ!」
アリスの表情が固まった。
「……その効果、確認済みなんですの?」
「いやよくわからないけど、銀狐さんがそう言ってたから多分効果はあると思う」
アリスは目を見開いたまま、呆然と呟く。
「……それ、本当にヤバすぎる道具ですわよ……」
「そんなに……?」
「それ単体で……高位の結界術と同等、もしくはそれ以上の効果。
しかもその威は、ただの防御だけではありません。
――“これは私の守護対象です。手を出したら、報復は覚悟しなさい”という、格上からの威圧の宣告ですの」
「……そりゃ怖いな……」
「だから、誰も奪おうとはしませんわ。
強奪したところで、“報復”があると思えば、誰も触れたくなくなる。
欲しくても奪えない。――これ以上に、強力な守護の証がございます?」
男はやや呆れ顔で、お守りを見下ろした。
「……いやぁ、まさかこんなヤバいもんとは思ってなかったっすね。
銀狐さん、すごすぎでは?」
その夜。
いつものように封印の間の襖を開け、男が顔を覗かせた。
「銀狐さん。ちょっといいですか」
「うむ。どうしたのじゃ?」
畳に正座して、湯呑を手にしていた銀狐が、のんびりとした様子で振り向く。
「さっき、ちょっと変わった人に声かけられまして。金髪の、なんかすごくお嬢様っぽい人で……」
「ああ、なんじゃ。婿入りの話か?」
「いや、違います。というか何それ怖い。
その人、実は退魔師らしくて。俺に強い“威”が漂ってるから、調査してたそうです」
「ふむ……なるほど、気づかれたか」
男は少し居心地悪そうにお守りを見下ろす。
「このお守りから威が出てるのが原因らしいです。んで、その人……“銀狐さんに会って話がしたい”って言ってたんですけど、どうします?」
銀狐はしばし黙考したあと、くすりと笑った。
「……そういえば、昔もあったのう。儂を神か祟り神か判別できん連中が、挨拶せにゃバチが当たると震えながら来たもんじゃ」
懐かしむように目を細め、湯呑を軽く傾ける。
「ま、地元の勢力と仲良うせんとな、“つまはじき”にされるのはどこの世でも同じよ。
わざわざ敵を増やすよりは、礼を通す者とは話しておいた方がええ」
「……じゃあ、会ってもいいってことです?」
「うむ。ただし、ちゃんと“許しを得て訪ねてきた”という形にしてもらおう。
不意打ちや覗き見の類とは違うと分かるようにな。礼は大切じゃ」
「了解です。それじゃ、明日あたり連れてきます。変なこと言ったらごめんなさいね」
「ふふふ。楽しみにしておるよ。さて、久々の客人に備えて、少し身嗜みでも整えるかの」