淫夢厨社会人と封印から出れない妖狐 作:狐耳大すこすこすこてぃっしゅふぃーるど侍
アリスが帰ったあと、部屋の中には、少しだけ紅茶の残り香が漂っていた。
ちゃぶ台の上には、彼女の使っていた湯呑みと、未開封の角砂糖がひとつ。場に残された名残が、つい先ほどまでそこに会話があったことを示している。
男はいつものように鞄を置き、スマートフォンを確認して「あとでアリスに連絡しておくよ」と軽く言いながら立ち上がった。
そのまま台所の方へ歩き、冷蔵庫を開けて中をのぞいている。
銀狐はちゃぶ台に残ったまま、何となく、男の背中を目で追っていた。
騒がしくもなければ、気まずくもない。けれど妙に静かで、落ち着かない空気が部屋を包んでいる。
(……うむ、悪くはない話じゃ)
銀狐は心の中で繰り返す。
今日アリスと話し合った“社”の件。清明連が手配し、立地も準備も整えた上で銀狐が相談を受ける拠点とする──一神格としての新たな生活の始まり。
話としては、確かに“良い話”のはずだった。
(……社、か)
ふと、口の中で言葉を転がすように呟いた。
その響きは、自分の中にある“過去の常識”と強く結びついている。
(社というのは、神の棲み処……つまり、ワシの家)
記憶の中に浮かぶのは、昔の社の光景だった。木々に囲まれた森の中。常に鈴の音が揺れていて、時おり近所の老婆が餅や芋を供えに来ていた。
あの場所には、確かに“居場所”があった。
現代に戻ってからは、この部屋──男の部屋──がその代わりだった。封印の間を抜けて出てきて、最初は警戒もあったが、今となっては炊飯器の蓋も自然に開けられるようになった。
(ここが、ワシの家になったと思っておったのに……)
立てるという“新しい社”。
そこに住むのが“自然”という話。
でも、それはつまり──今の生活を“畳む”ということではないか。
(……それって、独り暮らしってことじゃろ?)
ぐるりと部屋を見渡す。ちゃぶ台、テレビ、畳の擦れた跡。一緒にアマゾンで選んだ家具。電気ケトルにウォーターサーバー。さらに奥には、寝床用の毛布が畳まれている。
ここには、二人の生活の跡がある。
炊飯器の蓋を開けるときに「まだご飯ある?」と聞かれるあの感じ。
夜、テレビを見ていて、何とはなしに隣にいることの安心感。
カレーのスパイスが強すぎて、思わず笑い合ったこと。
……それらすべてが、好きだった。
(……ワシ、けっこう、この生活が好きだったんじゃよ)
言葉にした瞬間、頬がほんのりと熱くなった。
思っていた以上に、本気だったのかもしれない。
「……はぁ……」
銀狐は、ちゃぶ台に突っ伏すようにして大きくため息をついた。
畳の感触が額にじかに伝わってくる。冷たい。
(いやいや、でも待てよ……)
思考が、また一巡して戻ってくる。
(男はなんて言っておった?)
銀狐の脳裏に、さっきのやりとりがよみがえる。
『名義くらいなら全然いいよ。責任者っていうか、保証人? そっち関係なら任せて』
さらりと、躊躇なくそう言った。
それはとてもありがたい言葉だった。行動力もあるし、信頼もできる。
──でも。
(“保証人”って、そういう意味じゃないじゃろ)
銀狐の心に、じくじくと染み込むような感情が広がっていく。
(それは“ワシの暮らしを保証する”という意味ではない。手続き、書類、そういう話じゃ。男は、儂がそこに住むということを、どう思っておるのじゃろうか)
それを考え出すと、止まらなくなった。
──たとえば、朝。
一緒にご飯を食べて、味噌汁の塩加減を二人で確認する。
それが毎朝のルーティンになっていた。
──たとえば、夜。
映画を一緒に観て、銀狐が涙ぐんだときに、男が黙ってティッシュを渡してくれたこと。
(ああいうの、ワシだけが“良い時間”だと思っていたのか?)
思えば、男はずっと自然体だった。
「一緒に住んでる」という自覚すら、もしかするとあまりなかったのではないか。
(……それは、儂の“勘違い”じゃったのかの)
くるり、と畳の上で体を丸めて寝転がる。
昔、神通力で子供を助けたり、狐火をともしたりしていた自分が、今は何をしているのか。
ただ“現代の暮らし”を理解することだけに精一杯で、電子レンジの音にも驚き、エスカレーターでは未だに若干挙動不審になる。
(ワシ一人で、やっていけると思うか?)
──いや、やっていけるわけがない。
男がいてくれたから、今の暮らしがある。
彼がいたから、ワシはここまで現代に慣れた。
だからこそ、社が建って“一人”になるという選択が、何よりも怖いのだ。
(……いや、違う。怖いというより、寂しいのじゃ)
心に正直になったその瞬間、銀狐の目元がじわりと熱くなった。
泣いてなどいない。
けれど、たしかに“なにか”が、流れ出しそうになっていた。
(ワシ、ほんとは──)
──「一緒に居たい」と言いたかった。
でも、それが言えない。
神格たるもの、誇りをもって生きねばならぬ。
だからこそ、簡単にすがるようなことは、言いたくなかった。
──けれど、誇りだけで夜を越せるほど、心は強くなかった。
(……お主は、気づいておるのかの……)
銀狐の視線は天井の木目へと移り、言葉にならない問いだけが、心に残された。
夜になり、男は風呂から上がってきた。
濡れた髪をタオルでくしゃくしゃと拭きながら、銀狐がいる部屋に入ってくる。
「ふぃー、さっぱりした……。あ、銀狐さん、まだ起きてた?」
「うむ」
銀狐はちゃぶ台に座ったまま、テレビのリモコンを持っていた。
画面には深夜のニュース番組が流れているが、内容は頭に入っていなかった。
「……なんか、元気ない?」
男が何気なくそう訊いてきた。
その問いは、ほんの小さなものだった。
けれど、それは銀狐の心をひどくかき乱した。
(……気づいておったのか?)
声をかけるということは、何かを感じ取っていたのだろうか。
それとも、単なる挨拶程度のものか──
「少し、考え事をしておっただけじゃ」
そう答える声は、自然なトーンを保っていたと思う。
銀狐は自分の内心を押し隠すことにかけては、千年の積み重ねがある。
「そっか……でも、あんまり無理しないでね。明日、清明連の人からまた連絡くるみたいだから、無理なら俺が出るよ」
「……うむ、助かる」
男はそれ以上、何も言わなかった。
けれど、銀狐はひとことだけ、どうしても確認したくて、口を開いた。
「……お主」
「ん?」
「“社”が建ったら……そっちに通うつもりでおるんじゃろ?」
ふと、銀狐が静かに問いかける。
胸の奥に、寂しさと怖さが入り混じった感情が渦巻いていた。
だが、男はきょとんとした顔で言った。
「え? うん……まぁ通うつもりだけど──」
一拍置いて、にこっと笑いながら言葉を続ける。
「……遠い場所だったら、二人で毎日そこに行くとなった時大変そうだね。駅とかバスとかだと時間かかるし、あっでもそしたら銀狐さんのお弁当とか期待できるかな?」
「……二人で?」
「うん? だって、銀狐さんも俺も、一緒に“やる”んでしょ?」
あまりにも自然に、そして当然のように言われたその言葉に──
銀狐の中で、ずっと張り詰めていた何かがふっと緩んだ。
(……そうか。こやつ、最初から“二人で通う”つもりだったのか)
そう、思い返してみれば、男の口からは一度たりとも「別々に住む」とか「引っ越す」とか、そんな話は出てこなかった。
社という言葉を、銀狐は“住処”として受け取っていたが──
(……こやつにとっては、“社=二人の仕事場”くらいの感覚なのじゃな)
気づけば、気持ちがすっと軽くなっていた。
変に深読みして、独りで悩んで、勝手に不安になって──何をしておったのか、我ながら可笑しくなってくる。
「……ふふっ」
「え、なに? なんか面白いこと言った?」
「いや、なんでもない。ただの、心の整理じゃ」
銀狐は肩の力を抜きながら、ようやく本当に笑った。