淫夢厨社会人と封印から出れない妖狐 作:狐耳大すこすこすこてぃっしゅふぃーるど侍
快晴。
よく晴れた空に白い雲が少し浮かび、春風がシャツの裾を揺らしていた。
まだ朝の十時前だというのに、今日はなぜか少しそわそわする。
理由は単純だ。今日は銀狐さんと商店街に行く予定だった。
封印が解かれてから、現代の文化を学んでいく一環として、近所の商店街を案内すると約束した。
ただ──何だろう。
妙に胸が落ち着かない。楽しみというか、緊張というか、いやでもそんなはずは──
「……よし、行こうか、銀狐さん」
「うむ。商店街とやら、存分に案内してくれぃ」
玄関で靴を履きながら返事をする銀狐さんの声は、いつも通り柔らかい。
けれど、なぜかその声の調子が、ほんの少しだけ──優しすぎる気がした。
(……気のせいだよな?)
並んで歩き出す。今日の銀狐さんは、淡い色合いの着物に現代風のアレンジを加えた和装。袖口にはほんのりと香が漂っていて、思わず距離を取らないと落ち着かない。
なのに、銀狐さんは歩幅を自然に合わせてくれていて──
(いや、ほんとに今日はなんだこれ)
風が心地いいはずなのに、なんだか汗がにじんでいた。
商店街に着く頃には、俺の心拍数はようやく落ち着きを取り戻し始めていた。
八百屋や古本屋、惣菜屋に、駄菓子屋。昭和の雰囲気が残るその商店街に、銀狐さんはキョロキョロと目を輝かせながら歩いている。
「お主、あれはなんじゃ? パン屋か? なんとも良き香りじゃのう」
「あ、あそこ美味しいですよ。焼き立てのあんバターが有名で」
「……一緒に、食べてみんか?」
「え?」
その一言が、なんだか不意打ちだった。
何でもない、ただの提案のはずなのに、言い方が──いや、目線が──いやいや、考えすぎだ。
「もちろん。じゃあ、あんバターと、クロワッサン買って、半分こしましょうか」
「ふふ、それは良い提案じゃの」
にっこり笑う銀狐さんの横顔が、やけに綺麗に見えて──俺は目を逸らした。
パンを食べながら歩いていると、今度は雑貨屋で足を止めた。
「ほれ、見よ。この柄……お主に似合いそうじゃ」
「え、俺に?」
「うむ。柔らかい色合いが、なんというか……今の、お主らしい」
(“今の”? “お主らしい”? なんだその評価……)
妙に丁寧で、妙に近くて、妙に気にされている気がする。
……いや、いやいやいや。落ち着け、俺。
「この飴はなんじゃ? 透明で、丸くて、子供向けのようじゃが──」
「それはラムネですね。駄菓子屋に置いてあるやつです」
「なるほど、試してみるのも一興じゃな。のう、お主もどうじゃ?」
「……はい」
そんな会話が何度も繰り返されるたびに、心の中の“何か”が膨らんでいく。
その極めつけが──
銀狐さんが、俺の袖をほんの少しだけ引いたときだった。
「なあ、これ見てみたいのう」
「……っ」
その一瞬、心臓が跳ねた。
たぶん、銀狐さんにとっては本当に“ちょっとした仕草”だったんだろう。
だけど、その距離感と、柔らかく触れた指先の感触、上目遣いでこちらを見る美しい顔、やけに強く印象に残ってしまった。
(いや……いやいやいや、これは……まさか……)
帰り道、俺は頭の中がまとまらないまま歩いていた。
銀狐さんは、ずっと楽しそうだった。
俺も、それは素直に嬉しかった。
「今日は、楽しかったの」
「俺も」
自然なやりとりだった。けど、なぜかその一言が、やけに深く響いた。
(……いや、でも、これはどういうことなんだ?)
ここまでずっと一緒にいた。
俺の家に住んで、朝も夜も生活を共にして、食事をして、くだらないテレビ番組で笑って──
(これって……どういう関係なんだ?)
玄関を上がる時、つい我慢できなくなって、言いかけた。
「……あのさ。銀狐さんって、俺のこと──」
「ん?」
振り返った銀狐さんの表情は、穏やかで、いつも通りだった。
それが逆に、怖くなった。
「……いや、なんでもない」
「ほう? 気になるのう?」
「ううん……気のせいだったかも。たぶん、そうだよ」
自分でも、そう言ってしまったことが、なんだか悔しかった。
夜、布団に入ってからも、答えは出なかった。
何度も今日の出来事を思い返しては、思考が堂々巡りになる。
パンを分けた時の笑顔。
袖を引かれた時の距離感。
“楽しかったの”という言葉。
(……まさか。いや、まさか)
銀狐さんが、俺のことを──
いやいや、でも、仮にそうだとして、俺は──
その答えに向き合う勇気は、まだ、持てなかった。
静かな夜。天井を見つめながら、俺はゆっくりと目を閉じた。
明日になれば、何かわかる気がして──
けれどきっと、また“気のせい”のふりをするんだろう。