淫夢厨社会人と封印から出れない妖狐 作:狐耳大すこすこすこてぃっしゅふぃーるど侍
夜も更けて、居間には静かな電子音と虫の声が響いていた。
ゲームの電源はもう落とされ、男は湯呑みを手にしながら畳の上でのんびりとくつろいでいた。
向かいでは銀狐が線香を焚き、どこか懐かしげな表情で天井を眺めている。
ふと、男がぽつりと呟いた。
「そういえば……。前に銀狐さん、負の感情が呪いになるって言ってたじゃないですか。あれって、実際にはどんな感じなんですか?」
銀狐はゆっくりと顔を向けると、少し考えるように顎に手を当てた。
「うむ、よい問いじゃな。たしかに“呪い”などと申すと、大層なもののように聞こえるが……実際にはもっと、じわりと染み出すようなものじゃ」
「じわりと、ですか?」
「うむ。人の感情には“重さ”がある。特に妬み、嫉妬、恨み……そういった負の感情は、心の底から湧き出す毒のようなものじゃ。しかし、たった一人のそれでは、呪いとしての力にはなりきらん」
「じゃあ、ちょっと嫌われたくらいじゃ、呪いにはならない?」
「そうじゃな。一人分の感情は、例えて言えば“朝霧”のようなものじゃ。触れたところで冷えるわけでも、濡れるわけでもない。しかし、これが50人、100人と積もればどうじゃ? どこかで身体が重くなり、やけに物を落とすようになったり、妙に足を引っかけるようになったり……そういう、微細な不調として現れてくる」
「……ああ、なるほど。“なんか最近ツイてないな”ってやつですね」
「まさにそれじゃ。そうして本人の運が削られ、守りが薄くなったところに、別の不運が割り込んでくるのじゃ。そうやって徐々に崩れていく。それが“無形の呪い”と呼ばれるものじゃな」
男はうんうんと頷いたあと、少し思案顔になって問い返す。
「じゃあ……有名人とかプロ野球選手とか、すごく目立ってる人って、妬まれ放題じゃないですか。そういう人ってヤバくなったりしないんですか?」
銀狐はくすりと笑った。
「ふふふ、確かに“幾千の呪いの言葉”はあろう。しかしの、それ以上に“幾億の賞賛と祝福”があるでの。ようはバランスじゃな。負の言葉が呪いとなるならば、正の言葉は祝福となり、力となる。大勢から『すごい』『応援してます』『ありがとう』と慕われておる者には、それだけの力が備わり……むしろ祝福で力が増幅されておると思うぞ?野球の翔谷王平選手なんてその最たる例ではないか?時代の英雄というのはこうして出来上がるわけじゃな」
「……つまり、褒められる力って、ほんとに力になってるってことですか」
「うむ。言葉には力がある。祈りには形が宿る。“がんばれ”と言われた者は前に進む。“死ね”と呟かれた者は足をすくわれる。そういうものじゃな」
男はしばし黙り込み、少し遠くを見つめるようにして口を開いた。
「じゃあ……お金持ちって、案外危ない立場なんですね」
「ほう、どうしてそう思うのじゃ?」
「いや、すごい資産を持ってるのに、称賛の言葉ってあんまり向けられないでしょう? むしろ“どうせ汚い金だろう”とか“税金払え”とか、妬まれるばかりで……。そんな人たちって、褒められて守られる機会、少ない気がして」
「……ふむ、なるほど、鋭いのう」
銀狐は湯呑みに口をつけ、ふうとひと息。
「たしかに、お主の言う通り、富を持つ者は称賛よりも疑念と僻みに晒されやすい。だからこそ、古来より地主やお金持ちは寺社へ派手にお布施をしたわけじゃな」
「……あ、つまり、金持ちが信仰するのって、自分を守るため?」
「そういう面もある。祈りは神への供物であると同時に、自らの心を整える“防壁”でもある。祈る者は、知らず知らずのうちに悪意から自分を遠ざける。人から祀られる神は強くなり、人を祀る神は人を守る。世とは、そういうふうにできておるのじゃ」
静かな夜の中、虫の音がまたひときわ大きく聞こえた。
男は、小さく笑いながら呟く。
「……じゃあ、僕ももうちょっと誰かを褒めるようにしてみようかな」
「お主がそれを口にするなら、ワシは安心して眠れるの」
そう言って、銀狐はふんわりと微笑み、立ち上がって封印の間の奥へと戻っていった。