旧治安局に、冷たい雨が降り始めていた。
屋上にはゼレフが立っていた。ずぶ濡れになった旧治安局の制服が、身体に張り付き、傷口から流れる血と混じり合っている。
――あの日の夜、俺は逃げた。
エーテリアス化していく仲間たち。消防隊員、救急隊員、市民――誰もが絶望に沈む中、俺はただ祈っていた。
「来ないでくれ」「俺には構わないでくれ」――と。
そして、生き残った。
周囲の友人も、親友も、頼れる先輩も、初めて出来た可愛い後輩も、全員を見殺しにして。
「⋯⋯俺が⋯⋯俺が臆病者じゃねえか⋯⋯」
雨に紛れて、背後から足音が聞こえる。
振り返ると、そこにはトリガーがいた。濡れた髪が額に貼りつき、無言でゼレフを見つめている。視線は真っ直ぐ、揺るぎなく。
「来ると思ってたよ」
「⋯⋯ゼレフ」
二人の間を、風が吹き抜ける。雨が叩きつけるコンクリートの音だけが、場を満たしていた。
「アベルのこと⋯⋯本当は、俺もずっと考えてた。あいつがいたから、俺は前を向けてた。けど、あの日、俺は何もできなかった。助けられたかもしれないのに!」
トリガーは一歩、ゼレフに近づいた。
「それでも、貴方は逃げたあとも、ここに戻ってきた。ゼレフ、貴方は臆病者じゃありません。まだ答えを探してるだけです」
「⋯⋯綺麗事ばかり言いやがって。お前は、それで納得してるのかよ。こんな腐った世界を見て、それでも前を向けるってのかよ⋯⋯!」
ゼレフの声が怒りに震える。
そして、二人の間に沈黙が落ちる。
次の瞬間――同時に、ライフルが構えられた。
トリガーも、ゼレフも、銃口を向ける。互いの心にわだかまる思いが、銃身に込められていた。
「⋯⋯やるしかないんですね」
「⋯⋯ああ、やらなきゃ終われない」
雷鳴が遠くで鳴る。
その瞬間――
ドンッ――!
爆音とともに、建物の一部が崩落した。雨に濡れて弱った構造が、ついに限界を迎えたのだ。建物全体が揺れて、トリガーとゼレフ、どちらもが倒れてライフルを落としてしまう。
「うっ⋯⋯!」
「くっ!」
ライフルはどちらも、手に伸ばせば拾える場所にある。
だが、二人の視線は同時にライフルを捉える。
「これが俺のッ!」
「貴方へのッ!」
そして――同時に掴み、同時に狙いを定め、同時に引き金を引いた。
「戦いだ!!」
「レクイエム!!」
――破裂音。
雨音の中に、鮮烈な音が響いた。
「っ⋯⋯!」
トリガーの左腕に熱が走る。弾丸がかすめ、血が弾け飛んだ。
だが、次の瞬間――
「⋯⋯が⋯⋯っ⋯⋯!」
ゼレフの身体が、くずおれるように膝をつき、そして仰向けに倒れた。口元から赤い泡があふれ出る。
胸を押さえ、苦しげに喘ぎながら、口を開く。
「⋯⋯やっぱり⋯⋯お前は⋯⋯強いな⋯⋯」
トリガーはゆっくりと立ち上がり、ゼレフの元へと歩いた。
「⋯⋯肺に当たりました」
「⋯⋯だろうな⋯⋯もう、助からねえよ」
ゼレフは嗤いながら言う。
その時、今度は大人数の足音が聞こえてくる。カロンや依頼人を助けに行った、メンバーがやって来たのだ。
「結局⋯⋯ライアー小隊は一人も殺せなかったか⋯⋯」
依頼人はゼレフを見て、悲しげな表情を浮かべて俯く。
「ゼレフ⋯⋯お前は間違えた。その復讐を我々ではなく、エーテリアスや旧都陥落を引き起こした真犯人に向けるべきだった」
カロンが言うと、ゼレフは涙を流しながら怒鳴る。
「俺だって⋯⋯俺だってそうしたいさ! 旧都陥落を引き起こした犯人を特定してぶっ殺してやりたいさ!! でも、犯人はわからない⋯⋯時が経つにつれて復讐の機会が無くなるんじゃないかって怖かった⋯⋯だから、手の届きやすいお前らに復讐したんだ!! わかってるんだ。お前らを殺しても復讐にはならない⋯⋯アベルの敵はとれない⋯⋯ごほっごほっ⋯⋯わかんねえよ⋯⋯俺が⋯自分が何をしたいか⋯わがんねえよ⋯」
「そうですか⋯⋯貴方も⋯⋯」
ああ⋯そうだった。彼も被害者なのだ。仲間と家族を奪われ、その復讐の機会すらも消えそうな被害者。私たちと同じなのだ。
「ゲホッ⋯俺だって平和に生きたかった⋯仲間⋯友達と皆で馬鹿な事で笑って、一緒に仕事して、普通に過ごしたかっただけなのに⋯⋯みんな消えた⋯みんな死んだ⋯⋯俺だけ置いてくなよぉ⋯⋯アベル⋯王明⋯武流⋯どこに行ったんだよ」
ゼレフの願い。それは、ありふれた日常を送ることだった。それが、一番幸せだと彼は知っていた。だからこそ、失ったものは大きい。そして、二度と取り返せない大切なもの。
「俺は臆病者だ⋯⋯何もできず、死ぬことが怖くて⋯⋯仲間の跡も追えない⋯⋯クソ野郎なんだ」
トリガーは近づき、静かに、そして優しくゼレフの手を握る。
「⋯⋯死ぬことに恐怖するのは、人として当たり前のことです。少なくとも、旧都陥落の時の貴方を非難する者はいません」
誰もが英雄のように自らを犠牲に、誰かを助けられるわけではない。彼のように人間として、当たり前の行動をする者だって大勢いる。そして、それが間違えだとは到底思えない。
「⋯⋯ははは⋯⋯お前らに勝負を挑んだのが⋯間違えだったかもな」
ゼレフはウエストポーチを開け、中にあるものをトリガーへと渡す。
「これはっ⋯⋯」
ゼレフが取り出したもの、それはアベルが愛用していた拳銃だった。45口径のロングマガジンとフルオートに改造された、この世界でただ一つの拳銃である。
「逃げる時に拾ったんだ⋯⋯アベルの遺志を誰かが継がなきゃって、そう思った⋯⋯お前が継いでくれ」
「アベル⋯⋯」
トリガーはアベルの拳銃を手に取り、大事な宝物のように抱え込んだ。
「それと⋯⋯そこのプロキシ⋯来てくれないか?」
「⋯⋯わかった」
リンの操るボンプ、イアスがゼレフに近づく。
「これを⋯⋯あの子に会ったら頼めるか?」
そう言ってゼレフが手渡したのは、女物の髪飾りであった。
「これは?」
「⋯⋯星見雅⋯その母親の髪飾りだ」
「どうして、あんたがこれを」
「⋯⋯脱出する途中で助けたんだよ」
星見雅、史上最年少の虚狩りとして新エリー都で知らない者は居ないと言われるほど有名な人物で、対ホロウ六課の課長であり、とてつもない強さを持つ。
なぜ、ゼレフがあの日、星見雅を助けたのかはわからない。少しでも芽生えた市民を守るという勇気なのか、子どもを捨てておけないという慈悲なのか。
「先程、貴方は自分のことを何もできない臆病者だと言いました。しかし、それは間違っています」
「⋯⋯?」
「貴方の助けた少女、星見雅は虚狩りとなり、数多の人間を助けました。それは、貴方があの旧都陥落の日に星見雅を救ったから⋯⋯」
ゼレフはハッとした表情になる。
「貴方も多くの人を助けたのですよ」
再びゼレフの目から、大量の涙が溢れ出る。
自分も人を救えたという喜び、自分が犯してしまった罪、ライアー小隊の優しさ、色んな感情がごちゃ混ぜになり、彼は涙した。
そして、ゼレフは涙を流しながらも、どこか安堵したように笑った。
「⋯⋯そうか。俺にも、意味があったんだな」
空を見上げる。冷たい雨は止む気配もないが、彼の心に差していた闇は、少しだけ薄らいでいた。
その時、彼の目の前でトリガーが立ち上がり、背後に控えていた仲間たちが静かに見守っていた。誰も彼を責めようとはしなかった。
「ゼレフ」
カロンが一歩進み出る。
「今からでも遅くはない。罪を償いたいなら、私たちがその道を用意する。お前の望む未来が少しでも見えるように」
「⋯⋯今さらかもしれないけどな」
ゼレフは苦しげに笑いながら、胸元を押さえる。咳き込みながらも、顔を上げ、真っ直ぐにカロンを見つめる。
「それでも、お前らの言葉に救われた。ありがとな⋯⋯ライアー小隊」
静かに、ゼレフの手が力を失い、トリガーの握る手の中で冷たくなっていく。
「⋯⋯ゼレフ?」
誰かが呟いた。
その場の空気が、凍りついたように静まった。
雨が、また一段と強くなる。
トリガーはそっとゼレフの瞼を閉じた。
「安らかに」
彼の顔に浮かんでいたのは、ほんの少しの笑みだった。罪に塗れ、憎しみに囚われながら、それでも最後に彼が見たものは、赦しと、優しさだった。
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ゼレフ・ヴィンセンス(29) 元巡査
旧都陥落を生き延びた上級射撃徽章持ちの元治安官であり、仲間の復讐の為に堕ちた者である。復讐に囚われた絶望に屈した者ではあるが、後に虚狩りとなる少女を助けた希望でもあった。最期はトリガーとの早撃ちに敗北、肺を撃ち抜かれ旧治安局で亡くなった。遺体は共同墓地に埋められ、次の慰安の日には、彼の写真が王明とアベルの隣に置かれていた。