昭和十三年十二月。
練習航海を終え、帰国した慎也たち海軍兵学校第六十六期生は、それぞれの進路を割り当てられる時期を迎えていた。
広島湾の朝霧に包まれた呉軍港。軍楽隊の音がまだ耳に残る中、慎也は再びその地を踏みしめた。
「相澤少尉候補生、霞ヶ浦海軍航空隊へ配属」
辞令を手にした瞬間、彼の胸は高鳴った。空を目指していた──それは、幼い頃に見上げた飛行機雲の記憶、そして練習航海で目にした米国の工業力を見た時に確信に変わっていた。
短い帰省の後、慎也は霞ヶ浦海軍航空隊に赴任した。茨城の冬の冷気が、緊張とともに肌を刺す。そこには、全国から選び抜かれた若者たちが集まっていた。
「貴様らの目は鳥のように空を捕らえているか? この隊は貴様らを飛ばす場ではない。鍛える場だ」
そう告げたのは教官の中佐、五島信一。真っ直ぐに部下を見つめる鋭い目と、的確な指導で知られる航空隊の名教官だった。
訓練は容赦なかった。
初歩の操縦、緊急脱出、航法、気象学──さらに飛行前の点検、機体整備、エンジン音の違いを耳で聞き分ける感覚の養成。
慎也たちは九〇式中間練習機の後席に乗り、まずは教官の操縦で空を感じた。その後、操縦桿を握るたびに、慎也の心は震えた。
「少尉候補生、高度が甘いぞ! もっと引け、だが引きすぎるな!」
五島教官の怒声が無線から響く。
最初は機体が言うことを聞かず、離陸もままならない。しかし慎也は、持ち前の勘と集中力で急速に技量を身につけていった。
中でも航法訓練では、地形を読み、風速を体で感じ、地図と照合しながら数百キロを単独で飛び切った。慎也の冷静さと判断力は、他の候補生たちを驚かせた。
だが、全員が順風満帆だったわけではない。同期の一人、加納は滑空訓練中に着陸に失敗し、脚を骨折。誰もが空の怖さを知った。
夜には、戦術講義や座学が待っていた。特に米英の航空戦力に関する分析は、慎也の心に残った。
「航空戦の鍵は、機体の性能と同時に、操縦者の判断力と忍耐力だ」
五島教官のその言葉を、慎也は繰り返しノートに書き写した。
同期の中には、帝大出身の理論派・島崎少尉候補生もいた。彼とは最初反発し合ったが、互いの能力を認め合い、次第に良きライバルとなっていく。
そして迎えた第一回目の飛行選抜訓練。
各自が与えられたコースを飛び、着陸までの総合評価で選抜されるというもの。
「相澤、どうだった?」
島崎が声をかける。慎也は微笑み、小さくうなずいた。
「まあまあさ。だけど、空ってのは、どこまでも難しい」
霞ヶ浦の夕日が水面を赤く染める中、慎也の影は飛行場に長く伸びていた。
その日、慎也の名は、教官方の選抜リストに最上位で記された。
──空を駆ける戦士としての道が、いよいよ本格的に始まろうとしていた。
昭和十四年四月。
海軍飛行予備学生課程を終え、慎也は正式に「海軍飛行学生」として第一航空隊に配属された。場所は横須賀航空基地。空に夢を抱いた若者たちが、最前線の空を目指して集う場所である。
飛行服に着替えた瞬間、自分がようやく「空に立つ者」となったことを実感する。だが、それは栄誉ではなく、覚悟を問われる装束だった。機体に命を預ける者の顔は皆、若くも、どこか老いていた。
訓練初日、最初に乗るのは練習機「赤とんぼ」こと九五式一号練習機。複葉で、速度は鈍重だが、操縦性に優れている。
「相澤、離陸するぞ」
後席には教官の中尉が座っていた。軍歴十年以上、日支事変でも空を舞った歴戦の男だ。操縦桿を握る手が、慎也の掌の汗で滑る。
エンジンが唸り、木製のプロペラが回る。滑走路を走り始めた機体は、やがてふわりと地を離れた。地上が遠ざかる。その瞬間、重力から解き放たれるような快感と共に、恐怖が胸を満たす。
「上昇角が甘い!もっと引け!」
怒声が耳元で炸裂する。反射的に操縦桿を引き、機体がぐんと鼻を上げた。
「よし、そのままだ」
慎也は唇を噛みながら、水平飛行へと移行した。眼下には相模湾が広がっている。だがその美しさを感じる余裕など、なかった。
その日の午後、空中姿勢の回復訓練が始まった。教官が機体を意図的にスピン状態に持ち込み、学生が姿勢を回復させるのだ。
「回せ!」
機体が突然、横倒しに傾き、左にぐるりと回り始めた。視界が回転する。体が浮き、地がどちらか分からなくなる。目が回り、冷や汗が噴き出す。
「バンクを戻せ!ラダーを踏め!」
教官の怒号に半ば自動的に操縦桿とペダルを操作すると、視界が水平に戻った。だが、直後、吐き気と共に慎也は機体内で嘔吐した。
訓練後、整備士が気遣わしげに近づいてきた。
「大丈夫ですか、候補生殿。最初はみんな吐きますよ」
「……情けないな」
思わずこぼすと、整備士はふっと笑った。
「でも、空じゃ情けなくていいんです。生きて帰れば勝ちですよ」
慎也はその言葉を胸に刻んだ。
日を追うごとに、訓練は熾烈を極めていった。宙返り、急降下、急上昇、旋回――空中戦の基礎動作を叩き込まれる。
そして、模擬空戦。
同僚の石川候補生とペアを組み、訓練用戦闘機に乗る。敵役の教官機を相手に、機銃の照準を合わせる。
「石川、俺が囮になる!左旋回して奴の下を取れ!」
「了解!」
慎也はスロットルを開け、敵機の正面へと突っ込んでいく。まるで自殺行為だ。しかし、それが空戦の常道。敵の注意を引きつけておいて、僚機が死角を突く。
だが――教官の技量は群を抜いていた。
くるりと半回転し、慎也の後方に張り付く。鋭い旋回性能と自在な操舵が、戦場の格を見せつける。
「うわっ……!」
操縦桿を引き、必死に振り切ろうとするが、機影は離れない。照準線が機体の胴体を貫いた時、無線で教官の声が響いた。
「バンッ。撃墜だな、相澤」
訓練が終わると、慎也は悔しさを噛み殺して格納庫の隅に座り込んだ。汗まみれの飛行服が体にまとわりつく。仲間たちの笑い声が、遠くに聞こえた。
そこに石川がやって来た。
「慎也。気にすんなよ。あの中尉、現役の撃墜王だぞ」
「……勝ちたかったんだ」
「次があるさ。お前となら、絶対、空で勝てるよ」
その言葉に、慎也は静かに頷いた。
空に生きる者たち――それは、常に死と隣り合わせで、そして何より、仲間と信頼に支えられていた。
夜、宿舎の窓から見上げた空に、星がまたたいていた。
「――いつか、俺も。あの星に届くような飛行をしてみせる」
そう、心に誓った。
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