昭和十二年、春。
慎也は海軍兵学校・2号生徒へと進級した。彼にとってこの一年は、単なる“学年の一区切り”ではない。航空兵科への選抜試験を受け、実際にその道に進むかどうかが決まる、分水嶺の年だった。
教官は進級初日の訓示で、こう告げた。
「貴様らは“兵学校の心臓部”に到達した。予科三学年は、これまで以上の精神力と責任を問われる。ここで挫ける者には、士官の道は開かれん。特に航空兵科志願者は覚悟せよ。選抜されるのは、ほんの一握りだ」
教室の空気が、少しだけ緊張を孕んだ。
慎也は、静かに拳を握る。
(ここからが本番だ。俺は“その一握り”になる)
航空兵科志望者には、追加の講義と実技が課される。座学では、航空力学・機構学・航法計算が重点的に教えられ、さらには気象、エンジン構造、電気系統の基礎も叩き込まれた。特に「即応力」と「空間認識力」が試される設問は、他の兵科と明確に異なっていた。
慎也は毎晩、寝る前に独自にまとめたノートを復習し、さらに翌日の講義予習まで済ませてから眠りについた。前世の記憶も生かされるが、それ以上に“今”の自分が「真に飛べる士官」になるために、努力を惜しまなかった。
だが――それは、競争の激しさを意味した。
特に航空志望の中に、もうひとり“手強い存在”がいた。
桂木英明(かつらぎ ひであき)――元華族の家系にして、物理と数学で常に首席を争う俊英だった。慎也と並んで航空兵科の筆頭候補とされ、周囲からは「西の桂木、東の鷲尾(慎也の苗字)」と囁かれていた。
桂木は、慎也のことを敵視していた。
「君は、なぜ空を目指す? まるで“過去の借りを返す”かのような執念だな」
ある昼休み、桂木が声をかけてきた。
慎也は迷わず答えた。
「俺はただ、もう一度“飛ぶ理由”を持ってるだけだ。それだけの話だ」
「その“理由”が、誰かを救う力になればいいな。空は残酷だ、鷲尾。理想だけでは生き残れん」
その言葉は、慎也の胸に小さな棘を残した。
(桂木は……見えてる。戦争の本質を)
五月。航空兵科の最終選抜に向けて、適性検査と模擬教練が行われた。
慎也は、重力加速度の変化をシミュレートした回転機に乗せられ、極限下での視野保持、判断速度、目標追尾を試される。多くの生徒が眩暈を訴える中、慎也は顔色ひとつ変えず、冷静にスイッチと反応を繰り返した。
「記録更新です。5.8Gまで安定、認識正常」
監督教官が小さくうなる。
「こいつ、化け物か……?」
桂木もまた、同様に高い記録を叩き出していた。慎也と桂木――二人は、まさに“空を許された候補”だった。
そして、試験の最終日。
指名された者のみが通される「航空兵科進路内示」が告げられる。生徒は全員、背筋を正して整列していた。
「――航空兵科、合格者。鷲尾慎也、桂木英明、他三名」
その瞬間、静寂が広がり、次に拍手と歓声が湧き上がった。
小田嶋が、慎也の肩を叩いた。
「おめでとう、慎也……いや、もう“航空士官候補生”って呼ばないといけないか」
「ありがとう、小田嶋。……でも、ここが本当の出発点だ」
慎也は、教官室に貼られた航空戦死者の慰霊写真に一礼した。前世の仲間の名も、どこかに記されていたのかもしれない。
夜、寮の窓から見上げた星空は、どこまでも静かだった。
「――今度こそ、“空のすべて”を、この手で掴んでみせる」
そう呟く声は、風の中に溶けていった