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「ぅ―――――――――あ、っ」
あれから一体どれ程の時間が経ったのか。
彼の体感としては、それこそ数百年もの長い長い時間が経ったかの様な感覚なのだろうが、しかし現実は残酷なまでにそれを否定する。
少年がこの世界に―――『アークナイツ』と呼ばれるゲームの舞台である『テラ』に転生してから経過した時間は、たった数十分だ。
その数十分の間、少年はただひたすらに絶叫し続けていた。もはや喉の水分は枯れ果て、声を出そうにも声は出ない。ぱくぱくと口を開けば、ヒューヒューと掠れた呼吸音が嫌という程に耳に残るばかりだった。
どうしてこんな事になったのか。どうしてこんな目に遭ったのか。そんな簡単な事すらも、この少年は既に失いつつあった。
此処はテラ。異世界。自分が好きだったもの。それはまだ残っている。確かに記憶の中で生きている。
だが―――自分が誰なのか。何を目的としていたのか。何故この世界に居るのか。彼にとって重要な事であり、彼にとって生きる指針となる筈だったそれを、彼自身が既に忘れ欠けていた。
「ぃゅ――――――」
頭の中で木霊する慟哭と悲鳴。
身体の中を駆け巡る怨嗟と憎悪。
きもちわるい。きもちわるい。きもちわるい。
自分が自分でなくなっていく、自分が何であってのかが消えていく。
抗う事など到底出来はしない。ただただ無慈悲に、少年は色褪せた大地の上で死に体のまま、自分から自分が失われていくのを何も出来ないままに眺めている。
きもちわるい―――それだけは、確かに残っていた。今こうして見上げている灰色の空にすら、もう起こる筈もない吐き気をさらに抱いてしまう。
「――――――――――――っめ、ぁ。はゃ、ぅぅぐ、な、き」
空も大地も等しく、少年にとってはきもちわるい。だが、このまま斃れ伏したままでは、何も始まらない。
……動け。
動け。動け。動け。
動かなければいけない。歩かなければいけない。走らなければいけない。進まなければいけない。
誰かに出会う為に。
復讐する為に。
誰かに守ってもらう為に。
仇を討つ為に。
立ち上がれ。それだけの事の筈だ。
そうする事しか出来ない。
「あ゛―――――――――――――――」
ぴくりと指先を動かしただけで、身体が破裂してしまいそうになる。昂り、滾り、盛り、暴れ続ける負の感情が、それだけの行動に即座に反応して暴れ出す。
やめろ。
やめろ、やめろ、やめろ。
やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろ。
「ぃぎぎっ、がぶぼがぱばばばばばばばばばばばばばばばばばッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッ――――――――――――――――――――――――――――――!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
不相応な力を望んでごめんなさい。不用意に踏み込んでごめんなさい。不躾に覗き込んでごめんなさい。
「…………………………………………………………………………………………ち、が、う」
謝罪なんて必要ない。そんなものは必要ない。
動け。ただ動け。ひたすらに動け。
立て。立ち上がれ。
「ゃ、だ」
否定は意味を成さず、その身体は少年の意志を踏み躙る様に力を込める。
「いゃだ」
何度言葉を繰り返しても、身体は動く。
「ぁ、あ――――――」
パキッ、と何かに罅が入る。
頭が割れた。両目が溶けた。手足が崩れた。自我が壊れた。
世界が色褪せて、ぐちゃぐちゃになっていく。あぁ、なんて―――
「―――きもちわるい」
少年は遂に立ち上がり、ボロボロになった肉体で世界を捉える。
色褪せ、壊死しつつある大地の上に立つ自分。
空を見ても、大地を見ても、ただひたすらに「きもちわるい」という感情だけが湧いてくる。或いは、もはやそれ以外の感情など、死に絶えつつあるのかもしれない。
一歩を踏み出す。増長しては止まない負の感情の濁流に自我を呑まれながら、それに操られる様に。
パキリッ、とまた罅が入る。
自我か。それとも魂か。どちらにしたって、どうしようもない事であるのは確かだろう。
これは咎であり罰。何と無様で滑稽な話だろうか。
「ぎぁ、ぐッッッッッ――――――ぅぅぁぁぅあぅあぅぁあぅぁぁぁぁ――――――――――――!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
喉が裂ける様だった。
ボタボタと血反吐が溢れる。視界が歪む。体の内側で何かが大きくなってくのが、嫌でも分かってしまう。
ぶちぶちと、何かを引き裂かれる様に。殻を破る蝶の様に―――ソレは、少年の右腕から突き出た。
「ぃ、ぇっ……お、おりっ、じ、にうむ……」
まだ微かに残された記憶が、それを引き出した。
黒く半透明な鉱物は、莫大なエネルギーを宿しており、それに加えて勝手に増殖するという特徴を持つ。
莫大なエネルギーを持ちながら自己増殖するその鉱石は、テラの生物達にとっては都合のいいエネルギー源だ。発電や機械の動力といったエネルギー源としても利用されて、このテラの生活には欠かせない万能資源となっている。
だが、世の常とも言うべきか、そんな便利なものが何のデメリットもなく使用出来る訳もなかった。
源石を利用することで物質の形や性質そのものを変化させる技術を、テラでは『アーツ』と呼ぶ。そのアーツを使い続ければ、体内或いは体表の原石が増殖し、いつしか死に至らせる。
彼はこの世界に転生する際に、『アーツ』を得たのだ。それはつまり―――鉱石病の感染者になるという事に他ならない。
「は―――っ、ぁは、はっ、はは、」
不思議と、口元が釣り上がった。
失笑。或いは嘲笑か。いっそ笑えてくる程のどうしようもない呆れが、少年にようやく笑みを浮かばせた。
頭がおかしくなったのかもしれない。精神が狂い歪んだのもかしれない。だが、この際そんな事はどちらでもいい。
もう『自分』は『自分』ではない。激痛に悶え苦しんで碌に機能しない思考でも、そればかりは容易に理解出来た。
「…………」
ふらりとした足取りで、前を行く。
腕から源石から出てからか、激痛が和らいでいる。未だ内側で負の感情は暴走したままだが、それでも先程に比べればマシだ。
遠く、重たい一歩。ただ前に踏み出すというだけの行為が、まるで重たい枷でも取り付けられているかの様に
変わり映えのしない色褪せた景色は、あいも変わらず「きもちわるい」。歩けど止まれど、其処に居るだけで―――テラの大地に居るだけで、その土地に染み込んだ悲しみと憎悪がなだれ込んでくる。
「ぅ、ぉぉ、ぅぇっ」
吐瀉物の一つでも吐き出せたなら、楽だった。
だが、少年はこの世界に来て何一つ口にしていない。食べ物はおろか、水すらもだ。胃袋には何一つとして入っていない。
苦味ばかりの液体がとろりと零れるだけで、それ以上には何も無い。いっそ吐血でも出来たなら、まだ苦ではなかったというのに。
「み、ず……」
枯れ切った喉に必要な水分は、周囲には存在しない。
辺りを見渡しても、少年を嘲笑う様に水辺など一切として顔を出してはいなかった。
「―――」
たすけて、なんて。
そんな事を言おうとして、喉が詰まる。
助けなんて必要か?
このまま死ねば―――楽になれるのに?
逃げたい。さっさと逃げてしまいたい。
とっとと野垂れ死んで、こんな世界から――――――
「ごっ、ぉ? ががが、ぎっい――――――ゃゆぃぃあぁがぁぁぁぁぁぁぁぁぃぁぁあぃぁぁぁぁぁぁぁッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
体の内側で、何かが炸裂した。
―――許さない。許さない。許さない。
逃げる事なんて許さない。死ぬ事なんて許さない。目を逸らす事なんて許さない。
前を見ろ。前を向け。前を行け。
あらゆる全てを踏み潰してでも前に進め。後退なんてさせるものか。
「――――――――――――――――――――――――――――――――――――……………………………………」
もはや、少年に残された道はたった一つだった。
いや、そもそもこの世界に来た時点で、それは決まっていた。
少年は、もう―――この世界で生きて、生き延びて、生き残る他にない。