ウマ娘を抱きしめたり抱きしめられたりする話 作:最後までHEATたっぷり
忙しい時というのは誰しもがしばしば直面する事態だ。
それをうまく捌くのが社会人のコツ……とはお上手に言うものの、こういう所にもレースのように展開のアヤというか、自力ではどうにもならない事が度々起こる。
そこに誰が悪いがあるという訳ではないが、直面する身としては心身共にいいものではない。
疲れ切った身体とすりガラスのようにぼやけた精神を抱えたままに、屋上の壁にもたれて座り込むのが今ややっとの有様。
まだもう少しだけ今日やらねばならないことが残っていたが、一度手が止まると何もする気力が起きない。
そこに近づく聞き慣れたはずの足音にも気付くことができなかった。
「トレーナーさん、トレーナーさん。随分、お疲れのようじゃね」
「アキュート……」
「おっと、トレーナーさんはそのまま。そのままお座り~」
担当ウマ娘であるワンダーアキュートに呼びかけられて反射的に立ち上がろうとしたが、額を抑えられて戻される。
座り込む体勢に逆戻りしたその隣にアキュートも座り込んだ。
思えば彼女とはよく屋上で大事な話をしている気がする。
初めて出逢ったのもそういえばここだったな、とぼんやり思い出す。
あれはもうずっと前──もう九年も前になるのか。
自分はあの頃から随分、歳を取ってしまった。
疲れもそのせいなのかもしれないと今更に思い至る。
アキュートは何も言わずに隣に座ったまま。今はそれが無性に有難かった。
「アキュートは──」
疲れていないのか。そう言いかけて口をつぐむ。考えてみれば聞くまでもない事だった。
身体の内の火が消えるまで走り続ける事を選んで、今日までずっとそうしている。
疲れていても、少し休んでまた立ち上がればいいことをよく知っている。そういうウマ娘だ。
疲れて頭が回っていない。
アキュートに次何を聞こうとしたんだっけ。今日の残りのタスクやらなきゃな。
詮無い事が頭の中を取っ散らかって霧のように覆う。
ふと、頭を撫でられる感触がした。
ぽんぽんと優しくゆっくりと、手がさすっていく。
「限界は迫っても無理に超えるものじゃないよ。自分のペースを大事にせんとね……あたしのときもそうだったでしょう?」
少しだけ元気が出た気がした。そういえばこうして誰かに慰められることなど、いつ以来だろう。
思い出そうとしたが、もうぼやけてよく分からない。
今、アキュートの手から来るものが全てだ。
このままで居たい気持ちがある。心地よさに身を預けたいと思う。でも、そういう訳にはいかない。
自分はトレーナーだから。そういう生き方を選んだ。
撫でるアキュートの手をそっと戻してやり、立ち上がろうとする。
「ありがとう、アキュート。……そろそろ行くよ」
「そうかい。それじゃあ──トレーナーさん!!」
立ち上がろう、として頭に一気に重心が集まり重くなる感覚。
ほんの一時、ここぞというタイミングでの立ち眩みがもうすぐ立てるはずだった身体を前に倒す。
その身体をいつの間にかアキュートが抱きとめていた。
見た目よりずっと華奢で儚い体躯に潜む、得も言われぬ安心感と安定感がのしかかる体重をブレなく支える。
また、世話になってしまった。立ち眩みの痺れが抜けきらない頭にそれだけが咄嗟に浮かぶ。
「……アキュート、ごめん。もう大丈夫だから……」
「私は粘り強いのが強みだからねぇ。落ち着くまでこうさせてもらうよぉ」
アキュートは離すことなく、さらにもう少し強く抱きしめてくる。
彼女の纏うどこか懐かしい匂いが、まだ重たい身体に染み入って解していく。
「そうね、トレーナーさんもその、”はぐ”するとええよ。疲れにいいって聞いたからねえ」
その言葉に従うままにアキュートを抱きしめる。
線の細さの中にある柔らかさと熱が強く感じられて、それを確かめるようにもう少し力を強めた。
しばらくの間その時間が続く。
屋上にあって不思議と誰か来るという事もなく、だだふたりの時間が流れる。
やがて立ち眩みの影響も去って、脚に立てる力が戻った頃にどちらともなく示し合わせた様に離れた。
「今日はなんだか、随分世話になっちゃったな」
「なぁに、お互い様じゃよ。いつも、そうでしたでしょう」
今日のアキュートにはどうにも敵わない。そういう日なのかもしれない。
何か返したかったが、またにしよう。そういう日だっていつか来るはずだ。
そう思ったところでひとつ頼まれごとを思い付く。
「そうだ。世話になりついでに……背中を叩いてくれないか?いつも君にやっているように」
「ええよ。でもちょーっと強めかもしれないよ」
「……今はそれくらいがいい」
「じゃあ遠慮なくやるよぉ~」
言うが早いか、背中を容赦なくバシン!バシン!と叩かれる。
結構痛いな、と思いつつもそれがアキュートから分けてもらった火のようで。
まだちょっと草臥れていた神経にその火が灯されていくらか力を取り戻していく。
今日はもう少しだけ、やっていける気がした。