悪役令嬢、耐久力999で破滅フラグを物理的に叩き折る! ~頼れるのは鉄バットとクソゲー知識でした~ 作:星灯ゆらり
昼下がりの熱気が夕暮れの涼風にその座を譲り始めても、鍛冶工房に満ちる鉄と汗の匂いは凪ぐことを知らない。
一日の過酷な作業を終えた男たちが、土間の休憩所で汗まみれの作業着を脱ぎ捨てていく。
その中に、リックの姿もあった。
「お疲れさん、リック! さすが元銀札冒険者、体力が違うぜ!」
「うるせえよ。跡取りが俺らと同じだけ汗水流してんだ。手ぇ抜けるか」
同僚の職人たちが軽口を叩きながらも感心の目を向ける。
その視線の先にあるリックの背中には、冒険者時代のものだろう生々しい傷跡が幾筋も走っていた。
その下の筋肉は他の職人たちより明らかに分厚く、過酷な過去を物語っている。
「姐御(セレスティア)には死ぬほどしごかれたっすから。これくらい何でもないっすよ」
リックは笑って応じながら自分の掌に目を落とした。
冒険者時代、常に握りしめていた剣の柄によってできた「たこ」は薄れ、今では鍛冶仕事で振るうハンマーの「たこ」が、その場所を主張するように硬くなっている。
知識も経験も足りない分を、体力と労働時間で補う日々。
だが、その生活には確かな充実感があった。
「よう、跡取り! 今日も一杯どうだ?」
「悪いっすけど、嫁さんが待ってるんで。一杯だけ付き合わせてもらいます」
酒場での喧騒も早々に、リックは工房へと踵を返した。
目的は一つ。
最近、希少金属の研究に没頭するあまり、鬼気迫る様子を見せている父の様子を確かめるためだ。
親方専用の工房へと続く扉に手をかけた、その時だった。
内側から、まるで待ち構えていたかのように扉が開いた。
「お前か」
そこに立っていたのは、やつれた様子ながらも、その瞳の奥にギラギラとした熱を宿した鍛冶親方だった。
彼は無言のままリックの腕を掴むと、その体つきと手のひらの状態を無遠慮に確かめる。
「……ぎりぎり及第点か」
父親としての喜びか、経営者としての叱咤か。
そのどちらともつかない言葉にリックは苦笑するしかない。
「それ、褒めてるんすか? 親父が倒れていないか見に来ただけなんで、俺はもう寝るっす」
立ち去ろうとしたリックを、鍛冶親方は真面目な表情で呼び止めた。
「リリさんを呼んでこい。他人には聞かせられない話だ」
リックは一度だけため息を吐き、リリを呼びにいく。
それからしばらくして。
重々しい空気が、親方の私室を支配していた。
組織のトップとしての威厳を纏った親方を前に、リックとリリは緊張した面持ちで座っている。
「お前たちに聞きたい。セレスティア殿と会っていなかった時期があるな。その前後で、あの方はどう変わった。同一人物だと思うか?」
親方の問いは唐突で、そして核心を突いていた。
彼はセレスティアと取引するにあたり、その素性を徹底的に調べている。
その上で利益がリスクを上回ると判断したのだ。
だが、拭いきれない疑念が残っていた。
「変わってないっす」
リックは即答した。
「あの無茶苦茶な性格と気合は、絶対姐御そのものっすよ」
彼の信頼はセレスティアの内面的な一貫性に向けられている。
しかしその隣でリリが静かに、しかしはっきりと首を横に振った。
「いいえ、別人です」
「えっ」
リックを、リリは落ち着いた目で見つめる。
「この人ならそう思うでしょうね」とでも言いたげに。
「だって、別人じゃない。前の姉御なら、金が手に入ればすぐに酒や化粧品に消えていたはずよ。今の姉御は……その、まるで学者か商人みたいに知識が異常だわ。戦い方は前より激しいのに」
リリの指摘は、金銭感覚、知識、立ち居振る舞いといった外面的な変化に基づいていた。
それは、共に生活し、彼女の荒れた様を見て一度は距離を置いた自分だからこそ気づける変化だった。
「そ、そりゃあ、何かきっかけがあっただけじゃ……」
リックは自信なさげに反論するが、妻の鋭い観察眼には敵わない。
議論が平行線を辿る中、リリがふと「危ないといえば……」と、数日前に訪れた美容院での出来事を口にした。
「店主のミレット様が、なんだか私の……その、お腹のあたりを、じっと」
その言葉を聞いた瞬間、鍛冶親方を包んでいた厳格な空気が、まるで熱した鉄が水に浸けられた時のようにジュッという音を立てて霧散した。
彼の顔に、隠しきれない喜びと期待がみるみるうちに広がっていく。
「リリさん!」
親方はリリの妊娠を確信したのだ。
「明日から、いや今日から仕事は軽くするように! 足りない分は儂がやる! リック!! 儂が早く引退して『ジジ』になれるよう、お前には徹底的に仕込むからな!!」
殺気にも似た気迫で宣言する親方の暴走に、リックは「親父、いきなりどうしたんだ?」と完全に困惑し、リリは自分が妊娠していると思われていることに気づいて、顔を真っ赤にしながらもその未来を想像してまんざらでもない表情を浮かべるのだった。
翌日。
リックは親方の言いつけで、献金と封印された手紙を手に教会の炊き出し場所へ向かっていた。
そこで、見知った小さな後ろ姿を見つける。
「シロちゃん! ここで会うのは珍しいっすね」
リックの声に、シロはぺこりと頭を下げた。
彼女の傍らには、穏やかな微笑みを浮かべた老シスターが立っている。
親方から「絶対に失礼な態度はとるな」と厳命された相手だ。
リックは緊張で背筋を伸ばした。
「急ぎ?」
シロが問う。
「いやー、どうかな。シロちゃんこそ」
「ううん。長期遠征に出かけるから、まとめて持ってきただけだお」
シロが頑丈そうな革袋を軽く振ると、金貨が擦れ合う重々しい音がした。
老シスターは微笑ましそうにそれを見守り、「お金を持っているときは注意しないといけませんよ」と上品に諭す。
「はい! ごはんありがとう! たすかりました!」
シロは改めて深々と頭を下げた。
この炊き出しについての感謝ではない。
先日、この街まで連れて来た保護した獣人やケンタウロスたちへの、食料と水の供給に対する感謝だった。
「姉御の手下なのになんでこんなに行儀正しいっすかねぇ。あ、すみません。これ、親父からです」
リックが手紙を渡すと老シスターは穏やかに受け取った。
「しかし長期遠征っすか……。今度は何を狙うんです?」
リックが小声で尋ねる。
その問いに、シロは悪気なく、そして誇らしげに答えた。
「ドラゴンだって! あたしが切って、ハネッコちゃんが実験するの!」
その言葉が放たれた瞬間、場の空気が凍りついた。
老シスターの表情は、穏やかな微笑みをたたえたままだ。
だが、その瞳の奥から放たれる冷たい光は、真っ直ぐにリックを射抜いていた。
(天使様を危険な冒険に巻き込んでいるのは、ドラゴンの素材を欲しがるお前たち鍛冶職人か?)
言葉はない。
だが、その無言の圧力は、もし事実であれば一族郎党根絶やしにされかねないほどの、絶対的な意志を伝えていた。
リックは冒険者を辞めてから初めて感じる明確な命の危機に、声もなく全身の血が凍るのを感じた。
必死で首を左右に振り、全身で否定する。
その横でシロだけが二人の間の凄まじい緊張に気づかず、「がんばるぞー!」と小さな拳を握りしめているのだった。