悪役令嬢、耐久力999で破滅フラグを物理的に叩き折る! ~頼れるのは鉄バットとクソゲー知識でした~   作:星灯ゆらり

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銀札時代の日常2
短編『小さな牙の見る景色』


腹の虫が、くぅ、と静かに鳴った。

 

その微かな音で、シロは温かな微睡みの海から意識の岸辺へと押し上げられる。

 

最後にまともな食事をしたのはいつだったか、ぼんやりとした頭で考える。

 

陽光の匂いが染みついた清潔なシーツの感触と、ふかふかとした寝台の心地よさ。

 

かつてゴミ山で、湿った地面と見分けのつかないぼろ布にくるまっていた日々を無意識に思い出し、シロは小さく身震いした。

 

長い冒険から帰還したばかりの寝室は、主であるセレスティアの徹底した管理が行き届かず、少しだけ埃っぽい。

 

だが、それすらも今のシロにとっては安らぎの一部だった。

 

ふと、隣にいるはずの温もりが消えていることに気づく。

 

盟友クロの不在。

 

しかしシロはもう驚かなかった。

 

静かにベッドを抜け出すと、足音を殺して主の寝室へと向かう。

 

案の定、というべきか。

 

クロは主の大きなベッドにやすやすと潜り込み、セレスティアの体に絡みつくようにして健やかな寝息を立てていた。

 

その体勢は、かつてシロが訓練で見た、寝込みを襲う敵に仕掛ける関節技の形にそっくりだった。

 

常人ならば悲鳴を上げているだろう。

 

しかし主は眉間にわずかな皺を寄せ、少し寝苦しそうに身じろぎするだけだ。

 

(リーダー、また頑丈になった……)

 

子ドラゴンとの一件以来、主の頑丈さは人知を超えた領域に達しているように感じられた。

 

シロは畏敬の念を抱きながら、そっと声をかける。

 

「リーダー、朝だお」

 

「ん……シロ、か」

 

セレスティアは瞼をわずかに持ち上げることなく、かすれた声で応じた。

 

「今日は一日休む。メシは自分で用意しろ」

 

それだけを告げるとセレスティアは億劫そうに腕を動かし、自分にまとわりつくクロを(驚くほど優しく)引き剥がして、再び深い眠りの底へと沈んでいった。

 

死の淵からの復活と多数の高位ドラゴンを相手にした交渉は、さすがの主に相当な疲労を強いたようだった。

 

一方、引き剥がされたクロは寝ぼけたままもぞもぞと動き、今度は主の腹を枕にして満足げな寝息を立て始める。

 

その光景をシロは静かに見つめていた。

 

(クロちゃん、またリーダーに自分の匂いを……)

 

セレスティア本人は気づいていないだろうが、シロのように鼻の利く種族には、主の体から濃厚なクロの匂いが感じられた。

 

それはまるで、強い絆で結ばれた親子の証のようだった。

 

セレスティアへの感情は「絶対的なリーダー」と「親」が混在している。

 

臆面もなく「子」として甘えるクロに、シロの胸の奥で、チリっとした小さな棘が刺さるのを感じた。

 

自室に戻ったシロは、私物の手鏡を覗き込みながら櫛で丁寧に髪と犬耳の毛並みを整える。

 

これもセレスティアから教わった「身だしなみ」という習慣だ。

 

最後に、すっかり馴染んだ革製の帽子を深く被る。

 

玄関の鍵を入念に開け閉めし、朝の冷たい空気が満ちる庭へ出た。

 

向かうは、敷地の隅にある井戸だ。

 

「おや、シロちゃんじゃないか。おはよう」

 

「おはよう! 遠征から戻ったのかい?」

 

井戸へ向かう途中、身なりの良い近所の住民たちから声がかかる。

 

この地区に住む者は皆、一定以上の所得がある人間たちだ。

 

彼らが人間ではない自分に友好的なのは、ひとえに「金払いが良く、銀札の実力者であるセレスティアの手下」だからだと、シロはもう理解している。

 

「おはよう、だよ! リーダーはお休み中!」

 

シロは、できるだけ愛想良く、元気に挨拶を返す。

 

「さすが銀札冒険者様だねぇ。教会に行くような怪我はないってことか。おっと、俺はパンを買いに行くからこれで」

 

「そういや、荷車が見当たらないようだけど?」

 

住民の一人が、空になった小さな厩舎を指さす。

 

ゲオルグとの死闘で燃やされてしまった光景が脳裏をよぎり、シロの犬耳がしょんぼりと垂れた。

 

「燃えちゃったお……」

 

「そうか。滅茶苦茶儲けてても、金もかかるもんだねぇ」

 

同情的な言葉を背に、シロはぺこりと頭を下げて彼らを見送った。

 

井戸で汲み上げた冷たい水で顔を洗い、セレスティアに倣って濡らした布で体を拭いていく。

 

これを怠って主に拳骨を食らっているクロを思い出し、小さく息をついた。

 

体を清潔に保つと思考もすっきりする気がする。

 

シロは家から運んできた大きな甕に何度も水を汲んで満たし、主と盟友が起きてきたときにすぐ使えるよう、台所の隅にそっと置いた。

 

埃が入らないよう木の蓋をすることも忘れない。

 

主への、そして盟友への、ささやかな気遣いだった。

 

再び玄関に鍵をかけシロは朝の街へと駆け出す。

 

顔見知りと挨拶を交わしながら目的地であるパン屋へ向かう。

 

彼女の健康的な体躯と手入れされた装備は、セレスティア一党が順調であることの無言の証明となっていた。

 

いかにも頑固親父といった風情の店主が営むパン屋で、シロは大きなパンを袋一杯に買う。

 

「一枚だ」

 

「はい!」

 

銀貨一枚を丁寧に渡し、ずしりと重い袋を受け取って背負う。

 

駆け去っていく小さな背中を、店主がほんの少しだけ微笑ましいものを見る目で見送っていた。

 

シロが次の目的につくまで、少し時間がかかった。

 

到着したのは、町外れのスラムじみた場所をさらに越えた先にある獣人たちの粗末な野営地だった。

 

セレスティアから管理を任されている、いわば自分の部下たちだ。

 

「おめーら全員いるかー?」

 

街での丁寧な態度から一変し、シロは主を真似た威圧的な声で呼びかける。

 

リーダーのリナが慌ててテントから飛び出してきた。

 

「おはようございます、シロさん!」

 

「おはよう。おめーら全員いるか、早く報告する」

 

「は、はいっ。全員無事ですっ」

 

リナの報告を聞きながら、シロは獣人たちの数が少し増えていることに気づく。

 

リナに問い詰めると、昔の生き別れの兄弟や、彼らの暮らしを羨んで新たに加わった者たちだという。

 

(リーダーの許可もとらずに手下になろうとするなんて、馬鹿にしてる)

 

怒りで表情がこわばるが、シロはそれを穏やかな笑みの下に隠した。

 

しかしリナを含む古参の獣人たちは、その笑みが何を意味するかを知っている。

 

今のシロの表情は、敵や利用する対象を見るときの、セレスティアの表情によく似ていた。

 

新入りの中には、小柄なシロを侮る者もいる。

 

(リーダーのやり方じゃなきゃ、殺して分からせるのが一番早いのに)

 

シロはコボルトの血を引く者の本能と、セレスティアの群れの方針との間で葛藤し、ため息が出そうになるのをぐっと我慢した。

 

「今から狩りに行く。リナ、ここの見張りに3人残して、残り全員で着いて来い」

 

数時間後。

 

森の奥深くで、二頭の巨大な魔物の猪が絶命していた。

 

その体には、鋭利な刃物による鮮やかな切り傷が少数刻まれているだけだ。

 

これを仕留めたのはシロただ一人。

 

獣人たちは、遠くから騒いで猪を誘き出したり、血抜きの作業を手伝わされたり、そして今、重い死骸を森から運び出している。

 

出発前はシロを侮っていた新入りの獣人たちも、今はその小さな背中に畏怖の視線を向けている。

 

絶対的な実力差を前に、群れの格付けは完全に完了していた。

 

(威力がありすぎてこえーお……)

 

シロは腰に差した解体用ナイフに触れる。

 

これは普段使いのものだ。

 

浮遊島で得た魔法金属製のナイフは、その恐るべき威力のせいで今は革袋の奥深くに封印している。

 

人前で軽々しく使うべきではないと、本能が告げていた。

 

「リナ、全員にパンを半分ずつ食べさせろ。盗んだらこれだお」

 

ナイフの柄に手を触れると、それだけで獣人たちが震え上がった。

 

都市まで戻っても足は止まらない。

 

シロは獣人たちに獲物を運ばせ、皮なめし職人の工房へ向かう。

 

ここでは威圧的な態度は鳴りを潜め、礼儀正しい一人の冒険者として振る舞う。

 

「お久しぶりです」

 

「おう。嫁のところに買い物に来てくれているそうだな。ふむ、こいつは……」

 

職人は素早く、しかししっかりと獲物の状態を確認する。

 

「血抜きは良いが冷やすのは不十分だな」

 

値踏みしながら提示された価格は銀貨六枚。

 

相場よりは低いが、人間ではない種族に提示する額としては破格だった。

 

「交渉成立だお。……使わない肉を引き取っていいなら手伝うお?」

 

「技を盗む気か? まあお前一人なら構わん」

 

シロは頷き、獣人たちに獲物を運び込ませた。

 

半日もかからず銀貨六枚も稼いだシロを、リナたちは尊敬の目で見る。

 

しかしシロ本人は浮かない顔だった。

 

(リーダーと一緒のときの稼ぎとは、金貨と銀貨以上の差がある……)

 

主の偉大さと、自分の未熟さを改めて痛感する。

 

これが、更なる成長への渇望に繋がっていることを、シロ自身はまだ知らなかった。

 

獣人たちに分け前として銀貨二枚と肉を渡し、シロは彼らと別れて家路についた。

 

自宅の庭では、クロが新しい魔法金属製の棍棒を鉄バットとして扱うための振り方を研究していた。

 

何度か振っては小首を傾げ、また振り始めることを繰り返している。

 

「おかえり!」

 

「ただいまだお。クロちゃんもたまにはリナたちの面倒見ないと駄目だお」

 

クロは「くぅん」と情けなく鳴く。

 

この盟友は、戦闘力は自分より上だが、経営の才はからきしだった。

 

シロは自分たちの役割の違いを改めて実感し、それでいいのだと思った。

 

家の中に入ると、セレスティアが薄暗い部屋で一人、帳簿と格闘していた。

 

「……手持ち資金が消えたのが痛いな。装備を売っても購入した場合の半額未満でしか売れないだろうし……」

 

金策に頭を悩ませる主の横顔に、シロは自分が稼いだ銀貨の重みと、そしてその軽さを同時に感じていた。

 

「シロか。メシは出来ているから腹が減っているなら食っておけ。夕食の分は残しておけよ」

 

セレスティアはシロに気づくと、帳簿から顔を上げて穏やかに言った。

 

厨房の鍋には、古くなった干し肉と近くの店で買った野菜や芋をじっくり煮込んだ料理が入っていた。

 

蓋を開けただけで、食欲を刺激する香ばしい匂いが立ち上る。

 

一日中リーダー代理として張り詰めていたシロの緊張が、ふっと解けていくのが分かった。

 

シロは大皿に自分の分をよそってから、食卓につく。

 

頼り甲斐のあるリーダーと、長い間ともに生き延びてきた盟友がいる。

 

温かい食事と、安全な寝床がある。

 

この、当たり前ではない日常こそが、自分の帰る場所。

 

「いただきます」

 

強い満足感が胸に広がるのを感じながら、シロは木製の匙を口に運んだ。

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