3年後に世界が滅ぶと知ったメジロアルダンとトレーナー 作:ポンタ4
エリザベス女王杯から一か月後。
最後のレースとなるその場所、有馬記念へ私は出走を決めていました。菊花賞よりも短く、だけど長距離であるこのレース。そのレースに向けて、私とトレーナーさんは控え室で今日のプランを振り返っていました。
「ヤエノムテキにサクラチヨノオー、それにスーパークリーク…名だたるメンバーが揃った感じだな」
「はい…本当に強敵ばかりかと」
ヤエノさんやチヨノオーさんはいざ知らず、菊花賞を勝利したクリークさん。他のウマ娘達もこのレースに名乗りを上げていました。まさに最後の最強を決める相応しい場所でしょう。
地球が滅ぶという話は残り二か月という所まで迫っていました。それに合わせ、レース自体もこの有馬記念を区切りとして終了を迎えます。
本当の最後。勝っても負けても、勝利を得ても得なくても最後のレースでした。
「レースは16人。アルダンは12番の外枠だから体力を消耗しやすいから、出来る限りは内枠に…………アルダン?」
「…あ、はい?」
トレーナーさんが言葉を紡ぐも私はその言葉が耳に入っていませんでした。何処か浮ついており、だけどそれは気が逸れているというわけではありませんでした。
私の視線は彼ではない何かを見ていました。
「……人生を振り返っていました。私の…今までを」
「人生…?」
「はい。この世に生を享受し、そしてウマ娘として生きてきたこの人生を」
私は彼から視線を逸らしては、控え室にかかっている壁時計に視線を移していく。パドックに集まる時間まで残り30分。振り返るには十分な時間です。
「覚えていますか、最初に出会った時にトレーナーさんに言った言葉を」
「…覚えているよ。今でも、しっかりとね」
貴方にスカウトされた方はきっと幸せでしょうね、私はあの時に出会った彼に伝えた。きっとあれは私にとって諦めの一言に近かったのかもしれません。
本格化が始まり、それでも私の身体は熱で蝕まれ、まともに走る事さえも許されなかった。そんな時に見た彼の手帳の内容。私にとってはとても羨ましかった。あそこまで真摯に走りについて考えてくれ、ウマ娘としての生きがいに焦点を当てている。
それが─────────眩しかった。
どんな時でもメジロアルダンという生涯を歩んでいれば付きまとう二つ名。姉様の妹、メジロ家のウマ娘。私の走りではなく、背後に付いているその称号を欲しがる方ばかり。
選抜レース後にトレーナーさんがスカウトしてくれた時、私はとても嬉しかった。この人となら私をレースの世界で輝かせてくれる、と。
「今でも思います。貴方にスカウトされて幸せでした、と」
「…それ、クラシックの時も聞いたよ」
トレーナーさんは少しだけ苦笑いを浮かべていました。この言葉はどれだけ積み重ねても足りません。
「何度でも言いますよ。貴方が…私のトレーナーさんで良かった」
「…さすがに照れるね」
彼は口元を片手で覆っては視線を逸らしていく。その瞳は何処か嬉しそうにも見えてしまいました。そんな表情を見せられては私も釣られて緩ませていきます。
「…だから、そんなトレーナーさんに恩返しをしなければなりません」
「恩返し?」
「憧れ、です」
トレーナーさんは一瞬、瞳を大きく開いていきました。だけど直ぐに細めては
「もう…沢山憧れているよ」
と。私は脚を動かして、トレーナーさんの隣まで移動していく。私よりも身長が一回り高い彼。私は顔を上げては上目遣いになっていきました。
「私も、トレーナーさんに憧れています」
「俺に…?」
こくん、と1つ頷き。
「貴方の見せてくれた走りは…姉様とのレースは私の心に火を付けて下さりました。あの走りは…私にとって今までで一番のものですよ」
「あんなみっともない姿が、か…なんだか恥ずかしいね」
少しだけ頬を赤く染めている彼が何だか可愛らしく、私は口元に指を添えてはくすくす、と笑ってしまう。その様子を見た彼は拗ねたように唇を突き出してしまう。それがまた可愛らしかった。
「私にとってそれだけ…あの走りは心を動かすものでした。だから…私もトレーナーさんと同様に嫉妬をし、憧れました」
既に砕けてしまった彼の脚。あの時に見せてくれた姉様との200mのレースはとても眩しく、羨ましかった。姉様とトレーナーさんの清々しい表情。そこには負の感情は存在せず、ただお互いを称え合う姿。
私は憧れてしまったのです。
「そして私の為に考えてくれた走法。トレーニング。全てが嬉しかった。一度ひびが入ったガラスの脚を支えるためのこの走り方。誰よりも私という、メジロアルダンを見てくれた貴方が…嬉しかった」
「……そこまで言われるとは思わなかったよ」
トレーナーさんは肩をすくめ、困ったような表情を浮かべていました。何処か自分の事では無さそうに、まるで別の人を褒められているのではないか、と。
「そこまでの事をしたのです。だから、今この最後で…伝えたかった」
私は全てを伝え終えれば瞳を閉じ、ゆっくりと深呼吸をしていく。とくんっ、と伝え終わった後に心臓の鼓動は一度早鐘を打ちました。今までの人生で彼に伝えたいこと、それらを終えれば自分の手に少しだけ力が入るのを感じています。
ゆっくりと瞳を開けていき、目の前のトレーナーさんを見据えていく。
彼もまた、何かを告げたそうに口を小さく開け始めました。
「俺もだよ」
「…?」
私は彼の言葉に首を傾げてしまいました。憧れているのは、前から聞いていたからです。それも去年の時に。
「いや、ごめん。言い方が悪かったね。その…最初から君に嫉妬をして憧れていたんだ」
「…そ、そうだったんですか…?」
「うん…最初に君の事を調べた時に。そのあと、君に尋ねたことを覚えてる?」
「確か…」
【君は何故走りたいんだ?】
あの時にトレセン学園の廊下で聞かれたことを思い出していく。私が倒れ、そして彼に支えられた時に尋ねられた言葉。私は命を賭し、そして今を輝かせたい、と答えました。
「…その答えを聞いた時、俺は羨ましかったんだ。もう、その時には既に嫉妬して、それで…烏滸がましいんだけど、君と俺を重ねていたんだ」
トレーナーさんの本音。最後だからこそ打ち明けてくれる心の内。きっと最後のレースだからなのでしょう、お互いに感傷的になっているのかもしれません。
私とトレーナーさん、2人とも脚を壊れ、似た境遇だったが故にきっと彼は重ねたのでしょう。
「ずっと、最初から俺は君に嫉妬していたんだ。そして選抜レースで憧れてしまった。ずっとずっと、俺は最初から君にそんな感情を抱いていたんだ」
「ふふっ…では、私は最初からトレーナーさんの憧れだったんですね」
「今思えばね。こんなことに気づくのが…だいぶ遅くはなってしまったけど」
彼は少しだけ視線を伏せてしまう。
そうなんですね、彼は私よりも早く…私の事を憧れ、嫉妬していたんですね。少しだけ、そのことに羨ましいと思ってしまいました。
「メジロアルダンさん、準備をお願いします」
見計らうように控え室の扉の向こうから声が聞こえてくる。其方に視線を向けた後に今の時間を確かめようとすると既に時間は迫っていました。
「…早いものですね」
「…だね、行こうか」
2人で控え室から出ていく。長い通路、その通路から差し込まれる光の方に自然と体は向いていました。その光の奥からは観客たちの歓声。今か今か、とレースを待つ人たちで溢れている声。
「凄い声だ、今までで、一番って言っても良いぐらい」
「…はい、本当に」
クラシック三冠を目指したときの菊花賞、姉様と競い合ったエリザベス女王杯、それらよりも強く響いている声。流石にここまでの大舞台は私も経験したことが無く、早くなる心臓を落ち着かせるように片手を胸元へ添えていく。
どくん、どくん、と強く拍動しているこの心臓。自分の身体が、手が、脚が、震えているのを感じる。緊張、初めてクラシックを目指したときよりも強く感じていました。
「アルダン」
彼がそっと手を添えてくれる。その手は暖かく、そして私と同じように震えています。どうやら私と同じようでした。
「…緊張されていますね」
「アルダンこそ」
お互いの視線が合っていく。視線が合ってしまうだけで2人揃って笑みを浮かべていました。今この時、本当の意味で私とトレーナーさんの心が通ったのだと、そう感じてしまいます。
この暖かな手を放したくはありませんでした。だけど、もう行かなければ。繋いでいる手から体温が離れていき、少しだけ名残惜しさが残ってしまう。本当に一瞬、刹那ともいえる程ですが、繋いでいる手に力が入ってしまいました。
「行ってきます、トレーナーさん。私だけの輝きを求めるために」
「行ってらっしゃい、アルダン。君だけの輝きを見せて欲しい」
その光を求め、私は歩き出す。通路に響く私だけの足音。
もう、震えは止まっていました。
□■□■□■□■□■□■
「お疲れ様、アルダン」
「ありがとうございます、トレーナーさん」
控え室から出てくる彼女を迎え入れる俺。既にアルダンは制服に着替えていた。彼女の荷物を俺は受け取り、肩に下げていく。既に太陽は落ち始め、日の光は橙色へと変わり始めていた。
荷物を受け取ると俺は歩き出すも、数歩歩いて気づいた。彼女はレース場へ繋がる道を見ており、そのまま立ち竦んでいる。体の向きを変えて彼女へと近づいた。
「行くか?」
「…良いのですか?」
「あぁ、良いよ。最後だしね」
2人で並んでその通路を歩きだしていく。少し歩いていけば、芝のコース場。そして今日の結果を知らせるように、最期というのを残すように掲示板には着順が残されていた。その掲示板に視線を向けていく。
12番、5着、1
彼女は1着を取ることが出来なかった。元よりは無謀な挑戦で合ったことは重々承知の上。アルダンの適正距離は中距離であり、長距離は適性外とは言わないものの、彼女の脚質には合っていなかった。合っていないから、という理由でトレーニング内容はしっかりと見つめ直している。だけどそれでも栄光には届きえなかったのだ。
少しだけ、鞄を握る力に手が入ってしまう。
「……終わったね」
「終わりましたね」
アルダンは瞳を閉じて、空を仰いでいた。気持ちよさそうに、全てを終えたようにその表情はとても柔らかで解放感に満ち溢れている。大きく息を吸っては、芝のコース場に広がる独特な匂いを肺一杯に取り入れようとしていた。
「最期、ですので。この光景と匂いを忘れないように」
「なら、俺もそうしようかな」
彼女の隣で俺も大きく息を吸っていく。鼻腔を通り、その匂いが肺一杯に広がっていく。吸い切れば今度は一気に肺に残っている空気を吐き出しては、自分の体の中に緑の芝一色に、血液中に行き渡らせる。
少しだけ、気持ちいいと思ってしまう。
「清々しい顔、だね」
「走り切りましたから。私の…全てのウマ娘のレースはこれにて全て終了です」
アルダンは視線を伏せながら、そして頬を緩ませている。
全てのレースが終わる。これより先のレースは行われず、有馬記念を最後にして、全てのウマ娘とそして見に来た観客の夢を乗せて終わったのだ。
5着。余りにも悔しい結果。過去のレースを顧みれば、初めての負けなのだ。菊花賞を除けば、初めて突きつけられる敗北という二文字。掲示板入りをしているため、上々だと言う人物もいるかもしれない。だけど、上々という言葉で片付けて欲しくない、という思いも出てしまっている。
また、手に力が入っていく。唇も噛みしめ、その掲示板を見上げているとアルダンが俺の手に自分の手を重ねてくる。
「アルダン…?」
「悔しい、と思いなのですね」
「…あぁ…」
悔しい、やり直したい。後悔しても、悔やんでも戻る事のない時間。最期のレースだから、初めての敗北だから。それらが自分の胸に突き刺さり、現実を突き付けてくる。
「勝たせられなかったのは…俺のせいだ。俺がもっと…出来ていれば…」
「トレーナーさんは…強欲になられたのですね」
「…強欲……そうだね。君と一緒に人生を歩んで、本当に強欲になってしまったのかもしれないな」
ラモーヌと勝負をした時にアルダンから言われた二文字。
強欲。
それほどまでに俺は彼女に理想を抱き、憧れて、嫉妬をする。彼女の実力であれば勝てるのだ、と。そしてその力を引き出すのはトレーナーである自分の力だ、と。そして負けてしまえばそれは自分のせい、と自らを責めていく。
「変わられましたね」
「君のせいだよ」
「ふふっ、私のせいですか?酷い人です」
アルダンは芝のコースを歩いていき、俺との距離は少しずつ離れていく。両手を後ろに組み、その足取りはどこか軽く、楽しそうであった。
「トレーナーさん、私の人生は既に輝きに満ちたものとなりました」
彼女は此方に振り向き、そして後ろ歩きで離れ続けていく。俺はそれに付いていくように歩いていくも、彼女の方が歩くのが早く、確実に離れていってしまう。
「貴方のおかげで、レースという過酷な世界を走り抜けられましたーっ!」
「そういう俺もっ…君のおかげでここまで来れたんだっ…!」
お互いの距離が離れていき、声を届けるように少しずつ張り上げていく。
「だから…私は満足なんですっ!トレーナーさんがここまで連れて来て下さり、2人で共に走り抜けられ…私だけの今を求めることができましたっ!」
「俺もだよっ!アルダンという存在のおかげで、君のせいで走りの楽しさを思い出してしまったっ!そして君にずっと…ずっとずっと憧れて、嫉妬して生きてきた!」
アルダンの表情は緩んでいる。遠く、表情は微かに判断できないが、笑顔を浮かべているのだけは分かった。少しだけ、歩幅を大きくしては彼女に近づいていく。だけど近づくのを阻む様に彼女も同様に歩幅を大きくして、離れていく。
まるで、近づいて欲しくなさそうに。
「私は…もう今を十分に生きましたっ!何も…これ以上求めてしまいたくない…ほど…に……十分に………」
声が小さくなっていく。俺は小走りになって彼女に近づいていく。ぴたり、と脚を止めているアルダン。表情が見えるようになれば、彼女は唇を噛みしめ、流れ出そうになる涙を堪えていた。
これ以上彼女と離れたくなく、手を伸ばしては彼女の腕を掴んでいた。
「…もう……失いたくないのです…。レースが終わり…世界も終わり…これ以上求めては…私は……強欲になりたくありません……」
「…アルダン…」
涙を堪えていた。必死に。だけど、直ぐに彼女の頬に一つの雫が流れていく。その雫は日の光に照らされており、綺麗だと思ってしまった。
強欲になりたくない。俺と彼女の気持ちは正反対だった。彼女の言葉は震えており、発している言葉が嘘だという事が直ぐに分かってしまう。
「これ以上……は……私には…辛いんです…。レースを走り切れました…。自分だけの今を、輝きに……届きました…」
アルダンは必死に笑顔を浮かべている。唇は震え、そして強く噛みしめ、流れ出る涙をただ堪えている。その涙を見ては、俺の手に力が入ってしまう。
「私、は……トレーナーさん……」
「アルダン」
彼女を強く抱きしめていく。両腕で包み込むようにして、彼女がもう離れてしまわないように、強く。アルダンは一瞬驚きの表情を浮かべるも、そのまま顔を俺の肩に押し付けるように擦り寄せてきた。
「強欲でも…いいんだよ。俺だって生きたいさ。もっと君のレースを見て、憧れて嫉妬をしたかった」
来年走る君の姿はどんな姿なのだろうか。
「レースだけじゃない。君の普通の人生も見たかった」
来年一緒に見る四季はどんなものなのだろうか。
「卒業した後も、君がどうしたいのか知りたかった」
レースを終えた君は未来に何を見るのだろうか。
「強欲なのは…悪い事じゃないんだ。色々な事がしたいって、思うのは普通なことなんだから」
「…本当に……トレーナーさんはずるい人です…」
彼女の肩を両手で掴んでは少しだけ距離を離していき、彼女の瞳を見つめながら訴えていく。アルダンの薄紫の瞳から透明な雫が零れ続けていた。それを拭うことをせず、ただお互いに見つめている。
今の彼女はレースを終え、自分の生きがいとなったものが無くなってしまった。そんな彼女がこの後に訪れる死を、ただ待つだけの存在になるのは耐えられなかった。
「……では…強欲になろうとしている私の願いを…聞いてくれますか…?」
アルダンは俺の両頬に手を伸ばし、そして包み込むようにしてくる。その手は少しだけ冷たく、冬の寒さを思い浮かばせてしまう。思わず、彼女の手に自分の手を重ねていき、体温で暖めようとしてしまった。
「あぁ、いくらでも言ってくれ」
俺は頷いて答えていく。ここまで二人三脚で共にレースの世界を生きてきたのだ。今更アルダンの願いを断る事なんてするつもりはなかった。
彼女は瞳を細め、そして嬉しそうに微笑んだ。ゆっくりと近づいてくる彼女の表情。
「──────えっ」
自分の唇に柔らかな感触。しっかりと重ねられ、俺の脳は理解が出来ずに処理が止まっている。数秒後、その感触は離れていき、今度は自分の胸元にアルダンが頭を押し付けてくる。何度も何度も顔を擦り寄せ、彼女という存在を俺の中に刻み込んでいるようだった。
「…好きです、トレーナーさん。この世で一番、好きです」
俺の胸元に頭を押し付けたままの彼女の告白。どくんっ、どくんっ、と心臓の拍動が大きく、それは彼女にも聞こえてしまう程だった。突然の事に少しずつではあるも理解をし始めていく。
アルダンが…俺の事を好き?
「その……はは、まさか……のだね」
「はい、まさか、です。強欲になった私はトレーナーさんでも止まりませんから」
微笑んでいる彼女が可愛く、先程の感触を思い出してしまう。何度も何度も彼女に抱いてしまっているとある心。
彼女の為に何故ここまで尽くしたのか?
トレーナーという職業であるから、己の壊れた脚でまた走ろうと考えたのか。
彼女の走りに惚れ、それに憧れてしまい、嫉妬し続けるためにしたのか。
新しい走法を彼女に伝えたのは気高い彼女を見たかったからか。
全てそうだった。メジロアルダンという1人のウマ娘。
俺は彼女に心を動かされた。彼女に人生を助けてもらった。文字通り、生かされていたのだ。
そしてそれと同時に彼女に────────惹かれていた。
トレーニングの時も、彼女の出かける時も、レースに出ている時も、彼女が入院している時も、花火を見ようと思った時も、どんな時でもアルダンを喜ばせようと行動をしていた。
それに気づいてしまえば自分の心臓がまた早鐘を打ち始める。
あぁ、なるほど。俺はアルダンの事が好きなんだ。それを理解してしまえば自然と彼女の肩から背中に手が伸びていく。強く抱き寄せ、求めてしまうように包み込んでしまう。
「と、トレーナーさん…?」
どうやらアルダンも同じくいきなりの事で処理が追いつかないようだ。そんな彼女が可愛く、余計にまた力を込めてしまう
「も、もう…そこまで…されると痛いですよ」
楽しげな声、彼女もお返しと言わんばかりに力を入れてお互いにより密着していく。俺は体を少しだけ仰け反らせていき、アルダンの表情を覗いていく。不思議そうに首を傾げている彼女。既に好き、というこの感情を享受した自分には余計に魅力的に見えてしまう。
「…俺も好きだよ、アルダン」
「─────っ…!……生きてきた人生で…一番嬉しい言葉です…っ」
既に一度涙が無くなった彼女はまた流れ出ていく。その涙は頬を伝っては、芝へ落ちてしまう。
涙が伝う彼女の頬に自分の手を当てていく。彼女は俺の手に自分の手を重ね、気持ちよさそうに手に擦り寄ってきた。
少しだけ擽ったい。
「アルダン、君の事が好きだ。ずっと……ずっと前から…俺は君の事が好きだったみたい」
「ふふっ…つまりは、両想い、というものですね」
既に沈み始めた太陽の光。2人で見つめ合いながら、そして笑っていく。彼女と生きる残りの二ヵ月。これからどんな事をしようか。
レースは終わってしまった。トレーニングも必要ないだろう。ならば、彼女と2人の時間を、2人きりの時間を紡いでいくのも悪くないだろう。
彼女の瞳を見つめていく。かつて見たあの覚悟の瞳。その瞳は今は柔らかなものへ変わっており、苦しんでいた彼女はもういなかった。
「次は…トレーナーさんからお願いします」
アルダンは瞳を閉じて、少しだけ唇を突き出してくる。どうやら俺からして欲しそうなのだが、流石にこうやって求められてしまうと気恥ずかしさが勝ってしまう。
「…えぇっと…こ、今度じゃ…ダメか?」
「駄目です。強欲な私は今してくれないと満足できないので、なんて」
最後にふふっ、と一度笑みを浮かべる。いつも見た彼女の笑顔。その表情はいつもよりも愛らしく、そして愛おしくも感じてしまう。
「一度、だけだから」
「はい、構いません」
弾んでいるその声がなんだか憎らしい。だけど嫌味とは思えなかった。
ふぅ、と1つ息を吐いては、彼女へ唇を近づけていく。
二度目の感触は、少しだけ長く続いた。
****
「次は─────トレセン学園前、トレセン学園前」
バス内に響くアナウンスの声。俺とアルダンは一緒に荷物を持ってはバスから降りていく。既に外は暗くなっており、空を見上げればもう月が昇っていた。
冬空の中、吐く息は白く、自然と自分の両手を擦り合わせては暖かくしようとする。それを見たアルダンは此方に手を伸ばしてきては
「繋ぎませんか?」
と一言。その手を見ては、直ぐに彼女の方へ視線を移していく。自分の左手を彼女の右手に重ね、そしてしっかりと握っていく。彼女の手は同様に冷たかった。
「冷たいね」
「その内暖まりますから」
学園の前。門は開いてはいるが、既に生徒や他のトレーナーはおらず、帰路についたと思われる。今この場に居るのは2人だけの世界。そう思ってしまう程静かだった。
「帰らないと、ね」
彼女に言い聞かせるように俺は手の力を緩めていく。しかし、彼女はそれに対して手の力を緩めず、むしろ強めてきた。
「良ければ寮まで、ご一緒に」
彼女は覗き込む様に、少しだけ悪戯心も秘めた表情。今日の彼女はやけに積極的だが、それが少しだけ嬉しいと思ってしまうのはそれほど絆されているのだろう。
「分かった。アルダンがそう言うなら」
「ふふっ、ありがとうございます」
彼女と手を繋いだまま歩き出していく。その歩き出すのと同時に、空から降ってくる淡い白の塊。
「雪だ…今日は降らないって言ってたのに」
「祝福、なんですよ。きっと」
「ロマンチストだね、アルダンは」
「トレーナーさんに影響されてしまったのかもしれませんね」
俺のせいなのか、自分がロマンチストだと思ったことは無かったが、彼女が言うならそうなのだろう。雪が降り始めたせいで少しだけ冷えていく。彼女の体温を求めるように俺は肩を寄せていく。応えるようにして、彼女も寄せて来ては歩きづらさもあった。
「くっ付き過ぎだよ」
「良いではありませんか。それだけトレーナーさんと一緒にいたいのですから」
そう言われてしまえばもう断る理由も無かった。
彼女の手を握り、そしてゆっくりと今度は指を絡めていく。アルダンもそれに応えては絡まり、交差をしていく指同士。
寮まで着くのはまだ距離がある。空から降ってくる雪、この雪景色はあと何度彼女と見ることができるのだろうか。手の温度は既に暖かく、彼女の掌から伝わる熱は、とても心地よかった。
まだ着くな、そんなことを思いながら足取りを2人で小さくした。