3年後に世界が滅ぶと知ったメジロアルダンとトレーナー   作:ポンタ4

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こちらは後編となっております。


過去、今、未来(後編)

 

 今日の仕事を終えた後に俺は1人暮らししているマンションへ。トレセン学園近くで偶然借りられた賃貸、そこそこ部屋も広く悠々自適に過ごしている。とはいっても男の1人暮らし、テレビや本棚というよくあるもので、何か面白いものなどは特になかった。

 

「えぇっと…確か…ここに…」

 

 そんな中、俺は既に使わなくなったものを仕舞い込んでいるクローゼットを物色中。季節外れの服や上着をしまってはいるものの、そのクローゼットはかなり広々としている。使わなくなったものや実家から自分の所有物であるものを持ってきては半分倉庫のようになっていた。

 

 そして倉庫であるということはかなり乱雑にしまっているため、見つけるのにも時間がかかるということ。色々な段ボールを開けては30分程。遂に目的のものを見つけた。

 

 小さな段ボールの上には”学生時代”と書かれたもの。大人になってから何度も捨てよう捨てようと考えては結局捨てきれず、そしてクローゼットの奥底に眠っていたものを開けていく。

 

 まるで自分の過去を覗くようなそれが少し照れくさい。段ボールの上には埃が積もっており、開けるとそれが舞ってしまうため、手で軽く払いのけていく。

 中を覗き込めばそこにはユニフォームと青い表紙のノート、そして写真立てが入っていた。いずれも少し埃を被っているため、俺は乾いたタオルでそれらを拭いていく。

 

 まず手に取ったのはユニフォーム。綺麗に折りたたまれており、それを広げていくと淡い緑色を基調としており、そして肩の部分に白のボーダーが入ったタンクトップ型のランニングシャツ。そして白の短パンのランニングパンツ。俺が当時着ていたものだ。

 

 「うわぁ…今これ着れるかな…」

 

 既にあの故障した時から数年着ていないため心配があった。だが、これを着ると不思議と自分が速くなるような気持ちになり、そして高揚感を与えてくれる。ウマ娘でいう勝負服と同じものだろう。

 

 しかし、洗ってからは一度も着用していないとはいえ、流石に一度は洗って清潔にしておきたいのもある。あの頃から大きく体格も変化をしていないため、多分着れると思うが今度試着をしておこう。

 

 さて次に取り出したのはノート。それは俺の練習メニューが書かれていたものだった。選手として速く走るためにはどうしたら良いのか、効率的な練習はどのようにしたらよいのかをまとめたもの

 

 このノートは常に練習するときに持っていき、そして何かあればその度に追加をしていった。所謂俺だけの秘伝書みたいなものだ。ぱらぱら、と中を開いていくと柔軟の方法や走り方のコツ、足を着地させた後にどのように動かせばより前に出るか、そんなものがまとめられている。時間が経っているため、少しだけ文字が色褪せている部分もあった。

 

 「一部はもうできないけど、他の練習は今ならまだできるな」

 

 さすがに練習で走ってしまうとあの右足首が傷んでしまうため、スタートダッシュを鍛えるための練習などはできないが、他の柔軟や上体トレーニングならば可能そうだ。これなら仕事のちょっとした休憩時間や家でもできるため、普段に取り入れてもいいかもしれない。

 

 そのノートの後半まで読み進めていくと今度はウマ娘と人間における走り方の共存は可能か、というもの。人間がウマ娘の走りをした場合、果たして早くなるのか、というのを自分なりにまとめたものだ。

 

 まぁ、前傾姿勢を試してはそのまま前のめりに転びそうになり、足を力強く地面に叩きつけて走ろうとすれば、今度はタイムが遅くなって更に足を痛めそうになったりと中々無茶なことをしたものだなぁ、と思う。それだけ俺はウマ娘という種族の走りに対して憧れや羨望を抱いていたのだ。

 

 「懐かしいなぁ、この時は本当にただ走る事ばっかり考えてるおかしいやつに思えてくるよ」

 

 ノートの中身をどれを見ても走る事ばかり、まさに走る事を愛していたといってもよいほどだ。そんな昔の自分、走る事への純粋さが羨ましく思えてしまった。

 このノートは6日後のラモーヌとのレースまでにおけるトレーニングも使える。どこまであの時の走りが戻せるのかは分からないが、出来る限り踏ん張ってみよう。

 

 最後に残った木で作られた写真立て。件の写真は段ボールの方を向いており、写真が見えないようになっている。まるで、これを見たくないように俺が封じているみたいだ。

 しかし、この写真立てには俺は見覚えは無かった。もしかしたら足を壊したときに入れてそのまま視界に入らないようにしていたのか、それともただ仕舞っていただけなのかは定かではない。

 

 その写真立てに俺は手を伸ばしていき、そして持ち上げて写真を確認する。

 

「あ…これ…小学生のころだ…」

 

 小学生の頃に大きな大会で100m走を走り、1位になった写真。たしかこれは6年生の時だ。

 写真の中央には俺が満面の笑顔を浮かべ、賞状を手に持ち、そしてブイサイン。首からは金メダルを下げている。両親は俺を挟むようにして並んでおり二人とも笑顔を浮かべ、父親は俺の頭に手を乗せて褒めている。

 

 思い出した。

 

 これは俺が昔両親と暮らしている家で俺の部屋に飾っていたものだ。脚が壊れてしまったあの日、俺はこの写真が憎く、そして写真立てを倒してもう見えないようにしていたが、この段ボールにしまった記憶はなかった。

 

 もしかして両親のどちらかがしまってくれたのだろうか。お節介だな、なんて思うも今はそのお節介が俺にとっては嬉しかった。

 その写真立てを俺はリビングへ持っていく。そしてリビングの一番目に付く棚の所に置いては飾っていく。

 

 両親とは既に一人暮らしをしてからは連絡すら取っていない。脚が壊れた時は俺を気遣って脚の話題を出さないようにしつつ、他の趣味を色々提案してくれたり、トレーナーになるための教材やその学校の手続きなどを手伝ってくれた。

 

 だけど俺はその礼を返せていない。もう地球が崩壊するのに約1年だというのに、このまま顔を合わせないでいるのは親不孝者だ。声だけでも何処かのタイミングで聞かせよう。

 

 あと6日、それまでにラモーヌとのレースに備えて、まずは柔軟でもしていこうか。俺はリビングのスペースがある所に座り込み、そしてノートを開いていく。

 

「えぇっと、まずは…足の開脚。……足を大きく開くことによって、足のバネをもっと使えるようにするのか…。まず柔らかくする方法は──────」

 

 

 

 

 

□■□■

 

 

 

 

 

「アルダンさん、此方ですよ!」

「お久しぶりです、チヨノオーさん。もうリハビリは終わったのですか?」

「はい!まだ本気で走るのはダメですが、リハビリに関しては殆ど完了です!」

 

 6日後。

 トレーナーさんの伝言通りに私は午後5時にコースに間に合うよう、トレセン学園へ午後4時30分に訪れました。私が松葉杖を持って車から降りていくと、そこにはチヨノオーさんとヤエノさんの姿。チヨノオーさんの脚は既に包帯で巻かれておらず、しっかりと二本の脚で立っていました。まるで私が来るのを知っているかのように2人からのお出迎えです。

 

 本来であれば松葉杖を使うために病院で暫く過ごすこともありますが、小さい頃から使っていることもあったためすぐに慣れてしまい、主治医からも外出に関しては許可が下りました。

 

 2人に支えられるようにして私は芝のコース場へ向かっていく。トレーナーさんが指定した時間には少し早いですが、早い分には特に問題はないでしょう。それにしてもやけに芝のコース場へ向かう人が多いですね。だれか有名な人でも走っているのでしょうか。もしかしてその有名な人の走りを見せたくて…?そんなことを考えていると耳に入ってくる話し声。

 

「ねぇ!ラモーヌさんがレースするんだって!」

「えっ、嘘!?誰と?」

「人間だって!誰かのトレーナーって聞いたよ!」

 

 私の前を通り過ぎる栗毛色の髪をしたウマ娘2人の言葉を聞いて、私はずきんっと右足が痛みます。姉様が走る、それはまだ分かります。それで周りがどよめくのは分かります。最近まで走っているのを殆ど見せていないのですから。ですが、トレーナーというのは私にとって分かりませんでした。

 

「ええっと…ごめんなさい、私は把握できていないのですが、お二人は何か…?」

「行けば分かります。アルダンさん、今はコース場へ向かいましょう」

 

 ヤエノさんが私に視線を合わせて下さり、そして笑みを浮かべてくれる。姉様と走りたがるウマ娘は居るかもしれませんが、それが人間となると尚の事、不思議でしかありませんでした。

 

 もしかして…トレーナーというのは私のトレーナーさんのことでしょうか。ですが、彼は既に脚を壊してしまい走れるはずがありませんでした。妙に高鳴る心臓の鼓動を一緒に連れたまま、私は芝のコース場へ。

 そしてそこで見た光景に私は─────────忘れることができないでしょう。

 

 

 

「姉様と…トレーナーさん……?」

 

 

 

 

□■□■

 

 

 

 

 

「…凄いギャラリーが増えちゃったけど大丈夫か、ラモーヌ?」

「構わないわ、それだけ皆気になっているということでしょう」

「まぁ…君が言うなら。というかこんな大騒ぎになってしまうとは…」

 

 誰にも言わないようにただ芝のコースを借りる手続きをして、そしてここでラモーヌと俺は時間になるまで待っていた。しかもラモーヌは白と黒を基調とし、そこに藍緑が加わったドレス。彼女の勝負服を着ている。俺自身も学生時代に来ていたユニフォームに着替えており、右足首にはバンテージを巻いている。

 

「というか俺のために勝負服まで着ているけどいいのか?」

「あら、これは私の為よ。それにあんな答えを貰ったのであれば、それに応えなければ誠実ではなくて?貴方の方こそ勝負服のようなものでしょう?」

「そうだけど…言われてみればそれもそうか」

 

 ラモーヌが勝負服でここで待っており、そして俺も人間でいう勝負服。何処からかこの光景を見かけたウマ娘があれよあれよと広げてしまえばそのまま伝わっていき、レースをすることも知れ渡っている。芝のコースの周りにはウマ娘やトレーナーが集まっており、ざっと見るだけでも100人近くはいるだろう。まさか人間とウマ娘の無謀なレースに興味を持つものがいるとは思っていなかった。

 ここまでの騒ぎになるとは思っておらず、少し緊張してしまう。

 

「あはは…場所、変えます?」

「いや、今更変えるのも面倒だし…あとはアルダンを待とうか」

 

 パーマーが気を遣って俺に提案してくれるも変えるとなった際の場所が思いつかなった。レースになればきっと明らかな力の差で直ぐにこの観客たちも減るだろう。

 あとはアルダンさえ来れば、と思いその観客の方に視線を動かすと此方に向かっている松葉杖を持った薄青の長髪をした一人のウマ娘。メジロアルダンを見かけると俺は彼女に小さく手を振った。

 

 彼女はゆっくりと松葉杖を使いながら、ヤエノとチヨノオーに支えられて階段を下りてくる。俺は彼女の所まで走っていくと

 

「来てくれてありがとう、アルダン」

「トレーナーさん…これはどういう事なんですか?それにその恰好…」

「あぁ…あんまり見たことないよね。ウマ娘でいう勝負服かな?」

「そういう意味ではありません!何故姉様と走る事になっているのですか!貴方の脚はもう…!」

 

 彼女は聞いたこともないほどの大きな声を出している。俺の服装やラモーヌの勝負服、そしてギャラリーの雰囲気からして俺とラモーヌがレースをすることを理解したのだろう。俺の脚を心配してくれるあたり、彼女はやはり優しい子だなと思ってしまった。

 

「脚さ、今凄く調子が良いんだよ。神様からの贈り物かね、担当の子に走りを見せてあげろっていう」

「………それでも…」

「無謀って思う?」

「…はい…とても」

 

 彼女は顔を伏せて、そして小さな声で答えてくれた。今日は右足首は不思議と痛まなかったのである。バンテージをきつく巻いているせいなのか、それともそこから更に痛み止めも飲んでいるからなのかは分からなかったが、過去一番調子が良かった。

 アルダンの無謀という気持ちはとても分かる。だけど()()だからこそ、このレースには意味があるのだ。俺は彼女にまたあの問いを投げかける。

 

「アルダン…走るのは好きか?」

「……それは…菊花賞の前に答えたはずです…」

「…俺自身の答えは出してないよな。それを今から見せるよ」

 

 俺はチヨノオーに手招きをして、此方へ呼び寄せる。ヤエノはアルダンを近くに用意した青いベンチに座らせて2人でこのレースの特等席で観戦。チヨノオーと並んで一緒にラモーヌへと近づいていく。

 

「チヨノオー、ありがとうな。後でヤエノにもお礼を言わないと…」

「そんな…気にしないでください。アルダンさんを迎えに行くって言いだしたのは私とヤエノさんなんですから!」

「本当に助かってるよ。更にもう一つで悪いんだけど、スタートの合図をしてくれないか?」

 

 俺はチヨノオーに新品で購入し、まだプラスチックの袋に包まれた黄色のホイッスルを手渡していく。彼女はそれを開けて、紐を首の所にかけてはこくりと頷いてくれた。本当にこの子は凄く良い子だ。アルダンは良き友人に恵まれた。それが少し羨ましくも感じてしまう。

 

「それと、そのホイッスルのスタート合図はどんな理由であれ必ず鳴らして欲しい」

「分かりました、必ず鳴らします」

「ありがとう。よしっ、ラモーヌ。今一度確認しようか」

 

 チヨノオーからラモーヌの方に視線を向ける。彼女は腕を組み、そして静かに目を瞑っている。まるで今から本気のレースをするかのように集中していた。俺が声をかけると彼女はゆっくりと目を開いて此方を見ていく。

 

「ついにね、いいわよ」

「勝負は6本勝負。あそこにハロン棒と今ここにあるハロン棒の200mで勝負。それで往復してレースだ。スタートはチヨノオーのホイッスルの合図で…それ以外に質問は?」

「無いわ」

「よし、じゃあ並ぼうか」

 

 俺はラモーヌと共にハロン棒の横に並んでいく。彼女は内側、俺は外側である。今回は直線の200mの勝負であるため、内の有利などは存在しない。ただ、200mをどちらが速く走れるかの勝負。

 視線をアルダンの方へ向けていく。彼女は心配そうに俺を見つめており、まるで何も起きないで欲しそうに両手を強く握りしめていた。

 そしてチヨノオーへ。チヨノオーに一度頷いて合図をする。彼女もその合図をみればこくり、と頷き返し、そしてホイッスルを咥える。

 

 芝のコースに少しだけ風が吹いている。今日はよく晴れた一日。今までの雨が嘘かと言えるほど大晴れであり、芝もしっかりと乾いていた。既に冬が近づいているため空は橙色、その色は芝を染め上げ、緑と差し込まれた光で反射している。

 

 なるほど、ウマ娘達が走る前のこの光景。これはとても美しく、また羨ましいと思ってしまった。

 心臓の鼓動が速くなる、この走る前の緊張感。吹いている冷たい風の心地よさ。早く、早く、と合図を心の中で急かしてしまう。

 

 俺はスタンディングスタートでチヨノオーの合図を待っている。本当はクラウチングスタートの方が良いのだが、生憎それをするための道具があってこそ出来るものであるため、今回はラモーヌと同じ姿勢でスタートをする。

 

 そしてついに解き放たれるように

 

 

 

 ピ―――――っ!

 

 

 

 と甲高い音、それが聞こえると俺は一気に走り出した。

 

 

 

 

 そしてそれと同時に隣から聞こえる力強く地面をどんっ!と蹴り上げる音。一気に俺を置き去りにするように彼女は駆け出し、既に置いてけぼり。

 俺もラモーヌに追いつこうと必死に前へ前へ足を踏み出し、体を出来るだけまっすぐに伸ばしては足を上げていく。昔と比べたらだらしないフォームかもしれないが、今はこれが精いっぱいである。

 

 だが、走っている最中に頬に伝わる風の気持ちよさ、そして地面を蹴り上げた時の前へどんどん進むこの爽快さ。やっぱりこの感触が好きだった。

 久々に走ることでの息苦しさや太腿に溜まっていく疲労感、本来はそれらは苦しいものであるが、今の俺にとってはその苦しさも心地よく感じてしまう。

 

 そしてラモーヌの2倍以上の時間を使い、1回目のゴール。足を止めると一気に疲労感が体に蓄積されていく。やはり久々に走るというのは中々体に堪える。しかし、不思議と昔のように走れ、右足首の痛みも感じなかった。

 

「まずは1本目は私の勝ち、ね」

「あぁ、だけど次はどうなるか分からないぞ」

「ふふっ、強気ね」

 

 彼女と会話をしながら2回息を吸っては2回息を吐いては呼吸を整えていく。これで効率よく酸素を取り込めるというのだが、果たして本当なのだろうか。昔はやっていたのかもしれないが、既に過去の事であるため、もう体が忘れてしまっている。

 1本目の勝負は大敗、2本目の勝負を始めるために、俺は手を上げてチヨノオーに合図をしていく。そしてまたラモーヌと俺は走る姿勢を整え、そして合図を待つ。

 

 

ピ―――――っ!

 

 

 そのホイッスル音が聞こえると俺も最初の一歩を強く踏み出す。これで少しは追いつけるのかも、なんて思ったがやはり甘い考え、既にラモーヌは俺の横を一瞬にして通り過ぎ、ドレスのスカートを風に靡かせながらすぐにゴールにたどり着いてしまった。

 対する俺は少しだけ先ほどよりも早くゴールできたが、結果は大敗。これで400m、少しだけ息が切れているが、これくらいならまだいけそうだ。

 

「さすがに早いね、ラモーヌ…っ」

「あら、もうお疲れ?」

「まだまだ…あと4本あるんだ。こんなところで終われないよ」

 

 ラモーヌに対して強がりを見せていく。だけど体の調子は(すこぶ)る良かった。右足首の痛みは感じず、それどころかまだ速くなれそうなほど脚に余裕がある。走っているだけであのコースの上をひたすらに走っていた時を思い出す。

 今回は人生で初めての芝で走っているが、これはこれで悪くない。芝の柔らかさは少し足を取られそうになるが、少しずつ走るコツも掴めてきた。

 

「脚は…大丈夫ですか?」

 

 チヨノオーが俺に声を掛けてくれる。普通なら走る事ができないのに、走れているのだ。一度ケガをした彼女からすれば尚のこと心配になるはずだ。俺は彼女に笑みを浮かべていく。

 

「大丈夫!問題ないよ!次の合図をお願い」

 

 チヨノオーはほっと胸を撫で下ろし、そしてまた俺は合図を待つ。アルダンの方に視線を移すと俺が走れていることに驚きを隠せないのか両手で口元を覆っている。既にギャラリーに関しては減り始めており、どう走るのかを興味があって来たようだが、ただ大敗して負けているレースだ。ウマ娘からすれば理解のできない勝負で見るも値せず、トレーナーも本来の業務に戻っている。

 残っているのはもう両手で数えられる程度のギャラリーとメジロ家一行、そしてヤエノとチヨノオーだけだった。

 

 視線を正面のターフに移していく。まだ走れる、いやもしかしたらまた走れるようになるのかも、なんて思ってしまう。あの星空の下で鎖に繋がれていた右足首。今は翼が生えているかのように軽々としていた。

 

 

 

 ピ―――――っ!

 

 

 

 またホイッスルが聞こえ、俺は一気に走り出す。初速が大事だ、この初速のまま脚に速さを乗せていけばなんて考えるが、それらを全て無に帰すようにラモーヌは走り抜けていく。彼女のその走りは全てを覆してしまうほど速く、そして美しかった。

 自分の間近でそもそもウマ娘が一緒に走ってくれているのだ。本来はあり得ない話である。そのあり得ない話が現実になっていることが嬉しかった。

 

 この走りに俺は憧れていた。

 嫉妬していた。

 羨ましかった。

 

 あの速さに辿り着けばどれほど気持ちいいのだろうか、どれほど清々しいのだろうか。そしてその走りを見て俺はやはり嫉妬を覚えてしまう。

 

 

 

 

 

 

 あぁ、やっぱり俺は走る事が好きなんだ

 

 

 

 

 

 アルダンに言われた”嫉妬するほど好き”という言葉。初めて俺は自分で理解が出来た気がする。俺はきっとアルダンが走ったとして今後ずっと嫉妬するだろう、そして憧れ続けるのだろう。

 それでも構わない。沢山嫉妬をしてやろう。沢山憧れよう。だって好きなんだから。

 ウマ娘の走りが、俺がこうやって走る事が、アルダンが走ってくれることが。

 

「はぁっ、はぁっ…これで3回目終了だなっ…」

「先ほどまでの強気はもう終わり?」

「馬鹿言うなっ…まだ…終わって…っ!?」

 

 ずきん、と右足首が強く痛む。

 あの痛みだ。今まで俺を苦しめていた痛みが忘れていたのか、と俺に警告するように痛んでいく。俺はその場で屈みこんでは右足首の痛みを両手で抑えていく。

 

「…痛むの?」

「…問題ない、まさか手を抜くなんて言うのか?」

「あら、心外ね。どんな相手でも抜く気はないわよ。準備はいいかしら?」

 

 バンテージを外しては更に強く巻いていく。痛みは少しだけましになったが、まだずきずき、と棘が刺さったように痛んでいく。俺はその痛みが何でもないようにゆっくりと立ち上がっては、ラモーヌに頷いた。俺はまたチヨノオーに腕を上げて合図をお願いする。

 そして、スタンディングスタートで合図を待つ。その間何度も痛み続ける右足首。早く走らせろ、それを思うとまるで考えを読み透かしたかのように

 

 

 

 ピ―――――っ!

 

 

 

 という合図がなった。

 俺は右脚に力を入れて、左足を前に踏み出そうとするも強く痛む右足首。

 

「うぐっ…!?」

 

 一瞬前に倒れてしまいそうになるもなんとか左足を強く踏みつけ、そして体を持ちこたえさせる。その反動で前へ出ようと右足を踏み出しては、地面を蹴った反動で右足首にずくんっ、と鈍い痛み。思わず下唇を噛み、少しでもその痛みを逃がすように全身に力が入ってしまう。

 

 力が入ってしまえばその脚が付いた瞬間の反動が活かせなくなり、脚の動きは遅くなってしまう。痛まないでくれ。この後沢山痛んでもいい、だけど今は痛まないでくれ。

 そう思って走り続けるも徐々に強くなるその痛み。自然と走る力もなくなり、よたよたと年寄りが走るような走り方になってしまう。

 

 ラモーヌは此方に視線を向けており、そのまま何も声をかけない。それで構わない。俺はただ走りたいだけなんだ。同情はいらない。

 ラモーヌがゴールしてかなりの時間を要し、そして辿り着く。右足首から伝わるその強い痛み、バンテージできつく巻いても誤魔化せなくなってきている。また両手でその右足首を抑えていき、そして少しでも痛みを抑えるようにした。

 

「だ、大丈夫ですか…?」

 

 チヨノオーが此方に近づいて声を掛ける。彼女は耳を垂れ下げており、明らかに心配している。俺は顔を上げては彼女に出来る限りの笑顔で答えていく。

 

「大丈夫っ…!ちょっと痛むけど、これくらいなんともないよ」

 

 少しふらつきながら立ち上がっていく。既にラモーヌはスタート位置に付いており、言葉を交わさずとも準備が整っていることを伝える。俺もそこのスタート位置に右足を引きずりながら行こうとする。

 

「もう、止めてください!」

 

 

 背後から聞こえる声、其方に振り向くと松葉杖で立っているアルダンの姿だった。

 

 

 

 

□■□■

 

 

 

 

「もう、止めてください!」

 

 私は松葉杖を携えてはベンチから立ち上がり、トレーナーさんに声を荒げる。自分がここまでの声を出すのは初めての事でした。近くにいるヤエノさんやチヨノオーさんは驚いており、私の方に視線を向けています。トレーナーさんと姉様も此方に向けていますが、2人は驚くというより何故そんな大声を出しているのか?と不思議そうな表情をしていました。

 

 私は松葉杖を使いながら、2人が並んでいるスタート位置に近づいていきます。1歩、2歩と近づいては姉様も此方へと近づいてくる。そして私がこれ以上近づけないように前に立っては、

 

「アルダン、来てはだめよ」

「何故です!トレーナーさんは脚を痛めて、それに苦しんでいるのにこれ以上する意味が───」

「彼をよく見なさい」

 

 姉様に声を遮られる。トレーナーさんの表情?そんなの苦しんでいるに決まっています。脚を痛めて、姉様とレースをしてただ負けているだけ。こんなレースに意味なんてありません。こんなのを見せられても私の意志は変わりませんでした。そして姉様の言う通り、トレーナーさんに視線を動かすと

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

─────────笑っていました

 

 

 

 

 

 

 痛みで眉間に皺を寄せており、苦痛の表情を浮かべていますが、彼は口角を上げて笑っていました。その笑みは強がりには見えませんでした。早く走らせろ、次の走りをさせて欲しいと本当に心から楽しんでいる人の笑顔でした。

 

 理解が出来なかった。何故負けているのにあんな笑顔を浮かべれるのか、どうして脚が痛んでいるの前へ進むことを諦めないのか。私にはとても眩しすぎました。

 

 「よく見ておきなさい」

 

 姉様が一言それを告げると、背を向けてスタート位置へ戻っていきました。私はヤエノさんに連れられ、一緒にベンチへ座っていく。私が座って2人を見ていく。チヨノオーさんがそれを確認してはまたあのホイッスルの音。

 

 2人して一斉に走り出しました。いえ、正確に言えば1人は走れていませんでした。右足に力を入れようとするとその度に痛むであろう右足を抱えるようにしては左足で前に出ていく。走る、というよりも左足で飛ぶようにして前へ進んでいました。到底走る、という行動ではありません。

 

 そして姉様は振り返ることもなく全力で走り切り、ゴールまで辿り着いてしまう。姉様がゴールにたどり着いたとき、トレーナーさんはまだ4分の1をいけたかどうか。

 

「ねぇ…あれ大丈夫なの?」

「そりゃ…良くないでしょ…そもそも無謀な話なんだし…」

 

 数少なく残ったギャラリーからは呆れや同情の声。それも当然の話です。ウマ娘と人間が走れば人間が適うはずがないのですから。仮に勝負を仕掛けたとすればそれは何か策があると思われるはず。なのに彼はただ200mを走っているだけ。そんなものは勝てるはずもない戦いでした。

 

 1人、2人、と見ていられないのかギャラリーは更に減っていき、気づけばもう見ているのはチヨノオーさんとヤエノさん、そして私の大事なメジロのウマ娘達だけでした。

 

 そしてそこから時間が経ってはやっとトレーナーさんはゴールいたしました。足首がやはり痛むのか遠目でも足首を抑えているのが分かります。もう見ていられませんでした。彼の痛みながら走っているその様子が心苦しかった。見れば見るほど胸が締め付けられ、私の今と重なってしまう。

 

「目を逸らしてはいけません、アルダンさん」

「でも…こんなの……」

「今あの人を見て、何も思いませんか?」

 

 私が目を逸らし、この光景を見ないようにしてしまう。それをヤエノさんが阻止するように声をかけてきた。彼女の声は少しだけ震えており、唇を噛みしめている。まるで白熱したレースを見ているかのような緊張感でした。

 

 何も思いませんか、と言われても私は分からなかった。彼の笑顔を見ても、何故笑顔なのか私には理解できなかった。普通であれば負け続けると悔しいと思ってしまう、でも彼は真反対でした。

 

 そしてまた鳴り響く無慈悲なあのホイッスルの音。これを聞いてしまうだけで、また彼が走り出してしまう。私は視線を逸らそうとすると、ヤエノさんが手を握ってきました。まるで目を逸らしてはいけないというように。

 

 強く、強く私は握りこぶしを作っていく。見たくないものを無理矢理顔を動かして、其方に向ける。姉様は相変わらず変わらない速度で駆け抜け、私の前を通り過ぎてしまった。対する彼は脚を引きずり、最早走ってはいません。

 

 左足を常に前に出しながら、右足が重りのように彼を繋いでおり、前に出るなと命令されているようでした。しかし、彼は命令を無視するようにひたすらに右足を引きずり、その重り全てを背負って1歩、また1歩と前進を止めませんでした。

 

 彼は痛みに堪えた表情。だけど彼は笑顔を浮かべていました。苦痛のはずなのに、悔しいはずなのに、それでも彼は笑みを浮かべ、まるで無邪気な子供のようでした。

 

 私は少しずつ、トレーナーさんから目が離せなくなり始めました。彼のその必死さに当てられたのか、それとも同情なのか分かりませんでした。彼が私の前を通り過ぎ、ゴールまでもう少し。そのゴールまで辿り着いた後、彼は全ての力が抜けてその場でばたんっ、と仰向けに倒れていきました。

 

「トレーナーさん!」

 

 6回勝負の終了。私は松葉杖を持って立ち上がり、ヤエノさんに支えて貰いながら彼に近づいていきます。近づいている最中、彼と姉様が話している声が聞こえました。

 

「あー…いや、滅茶苦茶強いな…ラモーヌ、くっそ悔しい…」

「当然でしょう?それに悔しいだなんて傲慢ね」

「これでも昔は早かったんだよ。また機会があったら勝負してくれよ」

「ふふっ、残念だけど今回限りよ。でも、私も熱くなれたわね。とても……そう…良かった、といいましょうか」

 

 まるで好敵手同士が勝負を終えた会話。どこか清々しさを感じてしまうそれが私は羨ましかった。トレーナーさんに近づいていくと気づいたのか顔を上げて、私に手を振ってくださりました。

 

「やぁ、アルダン。情けない所見せちゃったね」

「情けないとか今はそうではありません」

 

 私は彼の傍に脚を伸ばして座り込んでいきます。お互いに対面になり、顔をしっかりと見えるようになりながら私は彼に叱責を致しました。

 

「こんな痛めつけるようなことをして、もし歩けなくなったらどうするのですか」

「大丈夫だよ、ちょっと休めば歩けるさ」

「それに…こんな辛い事を何故…私に…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「俺、今日楽しかったよ」

 

 楽しかった。彼の言葉を聞けば瞳を少し見開き、私は彼の瞳を見つめていく。嘘偽りのない心からの言葉でした。彼は柔らかな笑顔を浮かべて、そして私に続けていきます。

 

「やっぱりさ、俺は走るのが好きなんだよ。こうやって走るのが楽しくて、風を感じるのが心地よくて、それに勝ち負けがあって…悔しいとか辛いとかあるけど、それを感じるのはやっぱり好きだからなんだ」

 

 悔しさ、辛さ、そして走れることの楽しさ。

 

「夏合宿の時、教えてくれただろ。嫉妬するほど好きなんですよって。それを今こうやって走って、改めて実感したよ。好きなんだ、嫉妬するほどにそれに憧れるほどに」

 

 彼は表情を空に見上げて淡々と話していく。彼の表情はこの青空のように晴れやかで、まるで己の心全てを理解しているようにも見えました。

 

「アルダン、俺は君の走りが好きだ。君の頑張る姿が好きだ。君が勝った時に喜ぶ姿が好きだ。あの覚悟を帯びた瞳が好きだ。俺は君の覚悟を見てから、そして君を通じて走る事をまた好きになれたんだ」

 

 私の…走りが好き?頑張る姿、勝った時の喜び、そして覚悟を決めたあの瞳、そんなことは初めていわれました。病院で言われた()()()()()()()()というあの言葉。私はあの時、1人の人生に生きがいを与えられて嬉しいと思いました。

 

 ですが違いました。生きがいではありません、文字通り彼の人生そのものを変え、走ること自体を好きにさせられたのです。

 

「俺はこれからずっと嫉妬するよ、君たちウマ娘の走りに、そしてメジロアルダンというウマ娘に。そしてその分俺は憧れるよ。だって、走る事が好きなんだから」

 

 嫉妬、憧れ、私が抱いていた姉様の感情。彼は既にその感情を私に抱いていました。私は姉様の光に追いつきたくて、超えたくて、でもそれらを目指そうと思えば苦しかった。

 

 

 

 

 

 

 でもそれらの感情は全て走る事が好きだったから…………?

 

 

 

 走る事が好きでなければきっと抱かないその感情。走りが好きだからこそ抱いた感情。私は自分の心が分からなくなりました

 

 

「私は……もう分かりません…」

「小さい頃、君は走りたかった?」

「…それは…そうです」

「俺もだよ。昔の俺も好きで、そしてそのまま走ってはこの脚は壊れてしまった」

 

 トレーナーさんはぽつり、ぽつり、と言葉を紡いでいく。

 

「俺は走るのが好きじゃなくなったと思ってたんだ。でも違った。好きだったんだよ。好きだと自覚してしまえばあの過去を思い出して苦しくなってしまう。だから見ないフリをしていたんだ。」

 

 走る事から目を逸らし、そしてただ生を貪っていたあの日。

 

「でも君に会ってから俺は変わってしまった。…違う、気づいたんだ。走る事が好きなんだって。君のおかげで俺は今こうやって過去に向き合えるようになったんだ」

 

 私は過去に賭けた覚悟が無駄になり、そしてそれらを見ないように逃げている。

 

「アルダン、俺はまた君の走りを見たい。残酷な願いかもしれないけど、俺は君と残り少ないこの1年を一緒にまた歩みたいんだ」

 

 残り少ない1年。最後の1年。目を逸らしたくて見たくなかった、過去。今の現実が私の中で広がっていく。

 

「…私は…もう覚悟を持ち合わせていません…」

「なら、一緒に進もう。俺の覚悟と君の数少ない覚悟を持って」

 

 私は前進を止めてしまいました。一度脚を止めたものはもう─────

 

「私は一度脚を止めてしまいました。きっと…重要な時でも私は脚を止めてしまうかもしれませんよ」

「それを言うなら俺もそうだよ。でも、俺は今日一度も脚を止めずに走れた。君が止まりそうになるなら俺が横に立って、君を支え続けるよ」

 

 胸の中で止まっていた時間が動き始める。既に私の中で硬くなって動かなくなった針がゆっくりと傾き始めました。

 

 

 

 

 

かちんっ

 

 

 

 

 その音が私の胸の中で広がっていく。一度広がれば今まで冷たかった私の手や足が暖かくなっていく。血液が無く、このまま腐り落ちていくだけの体に体温が戻る感覚。トレーナーさんが見つめながら私にまたあの問いかけをしてきました。

 

 

 

 

「アルダン、走る事は好きか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はいっ…好きです…っ」

 

 

 

 

 

 それを一度言葉にしてしまえば、溢れ出していく私の思い。

 走る事が好き、負けたくないほど好き、勝ちたいほど好き、あの小さな頃に窓から見てた景色。私より輝くあの子たちが、そして姉様が羨ましかった。

 私が勝てばより輝く姉様の威光、でもそれすらも羨ましいと思えたのは

 

 

 

 

 

 

 

 

 走る事が好きだったから。

 

 

 

 

 

 

 全部、全部そうでした。私の体が弱くても走りに向いてないと言われてもそれでもレースを選んだのは好きだったから。それを自覚してしまうと私の胸の中は暖かくなっていきます。

 

「好きです…また……走りたい、あのターフっ…の上で…」

 

 誰よりも走る事が好き、だから私は覚悟を捧げた。そしてその覚悟が折られ、私はそのすきに対して見ないフリをしていました。 

 でもトレーナーさんは寄り添ってくれると言ってくださりました。彼が一緒に進んでくれると言ってくださりました。

 

「とれーなーさんっ……ごめんなさい…私は…まだ走りたい…、諦めたくないっ…こんなみっともない私でも…まだ…支えてくださると言ってくれますか…?」

「支えるよ、ずっと…これからも」

 

 もう止まりませんでした。既に流れ出てしまった涙は止まることなく、でも彼から視線を逸らしたくなかった。トレーナーさんが少し腰を動かしては私に近づき、そしてそのまま肩へと抱き寄せてくださりました。

 

「君に抱えさせ過ぎてごめん、もう1人にはさせないから。苦しむ時も辛いときも、悲しいときも俺も一緒に抱えるから」

 

 彼の優しい声色、それが私にとってとても嬉しかった。ですが、これでは私だけ痛みを半分こにしており、そして彼の痛みは彼のもの。それを私は許せませんでした。

 

「では…トレーナーさんの痛みも、私が一緒に抱えますから…これからもずっと…一緒ですよ、トレーナーさん」

 

 あぁ、トレーナーさんは魔法使いさんではなく─────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

王子様だったのかもしれません

 

 

 

 

 

 

 

 

 

□■□■

 

 

 

 

 

 

 

 

「いたたたたっ!ちょっとヤエノ!?もう少し優しくしてほしいかも!?」

「馬鹿を言わないでください、あんな無茶をするからです」

 

 俺はなんとか脚を引きずりながら、なんとかベンチに座っては右足首の治療。冷たいタオルでその右足首を冷やしているのだが、痛みにプラスで冷たさが加わっており俺は悶えそうになっている。離そうとすればヤエノが押し付けて来ては逃げられないようにする。

 俺は助けを求めるようにアルダンに視線を動かすも彼女はにこにこ、と何処か怖さを持った笑みで

 

「助けを求めてもダメですよ、トレーナーさん。しっかりと応急処置をしましょうね」

「さっき痛みを一緒に抱えるって言わなかったっけ!?」

「それとこれは別ですよー」

 

 悲しいかな、彼女はくすくすと笑っては流してしまう。でもいつも通りの表情で笑っており、それが俺にとっては嬉しかった。

 ラモーヌがこの場から気を遣って立ち去ろうとするのが見えると俺は彼女に声をかける。

 

「ラモーヌ!ありがとう!」

 

 彼女は此方を振り向くことなく、少しだけ手を挙げては軽い挨拶。そのまま歩き去ってしまった。他のメジロの子達も会釈をして、俺も頭を下げていく。これも全部ラモーヌが付き合ってくれたおかげである。もし彼女が付き合ってくれなかったらきっと全てが上手くいかなかった。今度何かお礼をしないとな、なんて考えていると

 

「あ、トレーナーさん。契約解除の紙ってどこにありますか?」

「ん?あぁ…それなら………ここに」

 

 俺はベンチの下に置いてあるバッグを取り出し、そこから紙を取り出していく。契約解除と書かれた用紙。既に俺とアルダンの名前と押印が入っている。アルダンにその用紙を手渡しては、彼女がまじまじと見ていった。

 もう提出する気はないその用紙を見ている彼女。もしかして何か不備とか…それこそまずい事でも書いてあったのだろうか、そんなことを考えていると

 

 

 

びりりっ

 

「えっ、アルダン?」

 

びりっ、びりっ、びりりっ

 

「ちょ、ちょっとアルダン?」

 

 

 

 突然彼女はその契約解除の紙を破り始めてしまう。それはもう跡形もないほど完全にばらばらにしてしまった。そしてその紙片を今度は両手で丸め込めるようにぐしゃり、と潰してはベンチ近くに備え付けられたごみ箱に捨ててしまった。

 すっきりした表情の彼女。対する俺とチヨノオー、ヤエノは口を開けて呆然状態。

 

「どうされました?」

「……ははっ、いや、アルダンも結構やんちゃなところがあるんだなって」

 

 彼女のその行動に俺はおかしく思い、そして思わず吹き出して笑ってしまった。そしてそれに続くようにヤエノとチヨノオーも笑いだしてしまう。

 

「な、なんで笑うんですか!?」

「だって破るとは思わないだろっ…ははっ」

 

 アルダンは少しだけ、あたふたとした表情。それが余計に面白く思えてしまった。アルダンは少し拗ねるようにして口を尖らせてしまうも、釣られて一緒に笑ってしまう。

 

 

 

 4人で過ごしたあの夕暮れの日、俺はきっと忘れることのない人生の1日になるだろう。

 

 

 

 

**

 

 

 

 

「それでは…私は病院に帰ります。トレーナーさんも痛むようでしたら明日ちゃんと検査を受けてくださいね!」

「分かってるよ。また明日な、アルダン」

「はい、それではまた明日」

 

 俺とヤエノ、チヨノオーはトレセン学園の前にアルダンを送っていった。少しだけ脚の痛みは和らぎ、ちょっと引きずるような形ではあるが歩けるようにはなったので彼女を一緒に見送ることにしたのである。

 

 アルダンが車の中へ入り、扉がばたんっ、と音を立てて閉められていきました。そして扉を閉めた人物、ばあやが此方を向いては頭を下げていく。

 

「ありがとうございます。アルダンお嬢様の表情は戻られ、そして……悔いなきご選択をされました」

「俺はするべきことをしたまでです」

「それでもです。本当にありがとうございます」

 

 ばあやは深々とまるで命の恩人に礼をするように頭を下げていく。そこまでされると流石に気恥ずかしさが勝ってしまう。これは俺だけではなく、チヨノオーやヤエノ、ラモーヌといった協力者がいたからだ。俺だけの力ではアルダンを再帰させることは不可能だった。

 

「これからはより茨の道となりますでしょう…ですが…どうかお嬢様を…」

「はい、必ず支えます」

「ありがとうございます。その言葉が聞けて何よりでございます。それでは…」

 

 ばあやは車へ戻っていき、車のエンジン音が響く。アルダンが此方を向き、そして窓が開いていくとにこやかな表情を見せて手を振ってくれた。3人で彼女に手を振っていき、そのまま車は走り去ってしまう。

 

 残された3人、車が見えなくなるまで見送っていく。

 

「2人とも本当に今日はありがとう、助かったよ」

 

 と改めてお礼をする。2人は嬉しそうに笑みを浮かべ、尻尾もぱたぱたと揺れている。それだけアルダンが復帰することを決めてくれたのが嬉しいのだろう。

 

「とんでもないですよ!私たちはお手伝いをしただけです。全部アルダンさんのトレーナーさんが頑張ったからですよ」

「そうは言っても一番近くで、そしてライバルなのは君たちなんだ。頑張ってくれよ」

「敵にエールを送るだなんて余裕ですね、トレーナー殿?」

「そりゃもう…アルダンが一番最高だって思ってるからな」

 

 俺は自信満々に2人に告げていく。きっと彼女はより強くなって戻ってくる。そう確信できるほど俺は彼女を信じているからだ。

 

「あ、そうだ!2人に何かお礼をしないとな…何かあるか?」

「いえ、大丈夫です!アルダンさんが笑顔で帰ってくれば私にとって既に最高のお返しなので!」

「私も同意見です。ライバルとしてアルダンさんが帰って頂ければ、またあのレースの戦いが出来れば十分なお礼になります」

「そうか……分かった、全力でそのお返しをさせてもらうからな」

 

 2人のその表情は笑顔を浮かべているが、既に勝負は始まっているんだぞというような勝負師の瞳。それを見てしまえば自分の気が引き締まっていく。

 これはあくまでまだ準備段階、ここからがとても大変なのだ。彼女のリハビリ生活や彼女の両親の説得などがある。だけど俺は彼女を支えたい、走りが好きな彼女にとって茨の道であれば俺は少しでもその茨を取り除こう。

 

 2人はそのまま寮に帰宅するとのことで解散。1人残された俺は少し重くなった右足を引きずりながら、トレーナー室へ着替えに帰っていく。

 

 背中に当たる橙色の夕日がやけに暖かった。11月でまだ秋であるも、秋特有の木枯らしの寒さではなく、春の訪れを感じる暖かな風を感じた。

 

 バッグに入っていた携帯からLANEの通知音、それを見ると俺の母親からだった。

 

【連絡が遅くなってごめんなさい。最近どうかしら?】

 

 と簡単なもの。俺から連絡を断っているというのに向こうから謝ってくるのが申し訳なく思えてしまった。

 俺はそれを見ながら、そのまま通話ボタンを押して電話を掛ける。数秒後に電話越しから焦りの声が聞こえてきた。

 

「ど、どうしたの!?急に電話だなんて、何かあった!?」

「大丈夫か!?父さんもここにいるぞ!?」

 

 どうやら両親が2人で電話の前に集まり、焦っている様子。それが面白く思えてしまい俺は笑ってしまった。

 

「ははっ…ううん、ただ報告したいことがあって。今まで連絡できていなくてごめんなさい」

 

 電話の向こうはそのまましん、と静かになってしまう。あれ、電波でも悪いのだろうか。「もしもーし」と声をかけるとすぐに反応が返ってきた。

 

「ううん、良かった。もし何かあったらと思って心配してただけよ。それで、報告って何かしら?」

 

 2人の真剣な声、父さんは多分母さんの隣で聞いているのか、うんうん、と低く頷く声が聞こえてきた。2人が心配してくれている、俺は本当に家族に酷いことをしてしまった。

 2人の心配を無下にして、そして1人逃げ出してきた。だけどその逃げ出した男は1つ気づきを得たのだ。そしてそれを一番に報告したかった。今まで影で支えてくれた両親に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「2人とも。俺はまた走る事が好きになれたよ」

 

 

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