とあるビルの上層階、会議室
上有史浩はMFG役員会に総括本部長として出席。
部長以上のクラスが集まった10人ほどの会議...部門毎の部長全員がまずは現在の進捗を確認する。
「ドライバーの申請数ですが、現在は800人ほど。プロもアマも問わずに世界中での募集なので、更に増える見込みです。募集期間が終わり次第、AIを併用した書類審査を行い、予選出場者を500人ほどに絞り込みます」
「スポンサーですが、世界各国様々な大手の自動車メーカーやパーツメーカー、更には飲料メーカーやスポーツメーカーなどジャンルを問わないメーカーが名乗りに出ています。資金確保は充分なものかと」
「自治体との交渉ですが、現在7件ほど何とかなりそうです。しかし、予定通り各方面毎に予選というのは難しいかと...予選は一回限りでそれで各方面で本戦のみというのも視野に入れた方が良さそうです」
「開催時のボランティアの人員確保ですが、現在難航しています。開催地域近辺の自動車整備関係の学校に声を掛けてますが、なかなかいい回答は得られません。スポンサーの集まり次第で有償にした方がいいかと...」
様々な報告が上げられる中、次は広報担当の若手部長の発表だ...だが、彼は手足をプルプルと震わせていて顔を青ざめさせている。そんな彼に仕切り役だった史浩は背中を押すように一言告げた。
「次、広報担当。進捗を報告してくれ」
呼ばれて「は、はい!」と資料を手に立ち上がる若手部長。
深呼吸するようにスゥ....と息を大きく吸ってから恐る恐る進捗を発表し始めた。
「こ、広報ですが....現在、テレビCM費を少し削減してその分、ネットやSNSでの広告を増やしました。プレビュー数は以前よりも上昇しました。ですが....」
"ですが"というフレーズからなかなか話さない若手部長。睨みを聞かせるように史浩が「ですが、なんだ?」と確認すると彼は恐る恐るながらも答え始めた。
「本部長が希望されていた大会内でアイドルを作って広報するやり方ですが、社内アンケートを取ったところあまり印象が良くなくて...」
史浩の目付きが鋭くなると共に他の部長達が耳打ちするようにしてざわざわと会話を始めた。内容的には「ちょっと昔っぽいやり方だよな」や「まだ第一回なのに無名の女の子かき集めてアイドルってのもな...」というネガなものばかり。
その状況を黙らせようと史浩はバンッ!と机を叩いてから広報担当を睨むと「何がおかしい!」と語り始めた。
「大会内でアイドルグループ...
名付けるならユニット名は"MFGエンジェルス"!何がおかしいんだ?これよりもいい案があるなら教えて貰いたいのだが」
詰めるような問いかけ方をしている間に他の部長が「本部長がアイドルプロデュースしたいだけでしょ...」と小声で呟くとギッ!と史浩が睨みつけて黙らせる。その間に話す隙が出来たと広報担当は「えっと...」と語り始めた。
「社内で一番多かった意見は人気のタレントや女優、アイドルをオフィシャルアンバサダーとして起用する案です。費用は多少掛かりますが、より幅広く確実にアピール出来ると思われます。それに、次回開催時にも同じ娘を雇うことも出来るため、人材を探す手間も省けます」
·
―チューニングショップ、スパイラルゼロ
ハジメはこの日、奥山にNSXの整備を頼んでいた...
アライメントの調整だ。
最新の3Dアライメントテスターで調整されているNSX...しかし、彼が注目したのはそこではない。整備しているのが奥山ではなく、若い男だったことだ。
「奥山さん、人雇ったんですね」
隣で一緒に作業を見ていた奥山にハジメが問いかけると、彼は「あぁ」と頷いて答えてからその理由について語り始めた。
「整備してる時に腰をやり掛けてな...もう歳だなって実感すると共に俺一人で回すのもしんどいなって思い始めたんだ。今はアイツに色々教えてる段階...一応大手量販店でピット長の経験があるらしいが、俺からすればまだひよっこなのよ」
そう言いながらも作業を見守る奥山。時々、「そこ違うぞ」と色々指摘している彼の姿を見ていたハジメだったが、ふとしたタイミングで「そういえば...」と奥山から何かを思い出したように問いかけられた。
「あかねちゃんとはどうなんだ?上手くやってるのか?」
「ええ、まあ...相変わらず師匠と弟子の関係ですよ。でも、教え始めた頃よりかはかなり上達してますし、のめり込んでます。今度、スパイラルでデフ組むかもって言ってます」
ハジメの言葉に「そうかそうか」と笑顔で頷く奥山。しかし、それから間もなくして「いや、俺が聞きたいのはそうじゃなくて」とノリツッコミを入れるように切り替えてから詳細に問いかけた。
「男と女の関係として、だ。」
「は、はぁ....まあ、特には何も。強いて言えば、今週の水曜日に江ノ島行くって約束しましたが」
その発言に「えぇ!?」と珍しく驚く奥山。
彼は何が何だか分からずにキョトンとしたハジメに対して軽く詰め寄るようにした。
「お前、それ...!向こうから誘ってきたのか!?」
「ま、まあ...でも最近出来たばかりのカフェでって話だったんで、単に一人で行って浮かないようにするためかなって」
「そんなわけあるかよ、間違いなくデートのお誘いだ!!」
奥山からの指摘にあまりパッとしない様子のハジメ。彼は戸惑った様子で頭の上に"?"を浮かべては頭をポリポリと片手で軽く掻くようにしながらもその理由について答えた。
「アイツ...どうせ彼氏いるんじゃないですか?芸能界っていったらイケメンなアイドルとか、かっこいい俳優とか山程居るじゃないですか」
ハジメの意見に黙り込む奥山。彼はハジメが何かマズいことでも言ったかな?と疑問に思っている間に少し間を空けるようにしてから「お前、本当に何も知らないんだな」と若干呆れた様子でため息混じりに語り始めた。
「何年か前、あの娘は大切な男を亡くしてる。相手は芸能関係者...リアリティーショーでの交際をキッカケに舞台か何かで色々共演してたりしてたが、事故で亡くなったらしい」
「事故って...」
「溺死だとさ。揉み合いになって落ちたとか、色々説が上がってるらしいが...詳しい原因は分かってないようだ。確か、芸名は..."アクア"だったような?」
·
―水曜日、約束の日
天気は晴れ...最高のお出かけ日和
集合場所近くのコンビニの駐車場でNSXに乗りながらもあかねからの連絡を待つハジメ。
白のラフなワイシャツに黒いカジュアルジャケット、黒いチノパンと無難な格好。腕には三角型で黒い革ベルトがついた特徴的なデザインの腕時計を付けている。時刻を確認...予定時刻10分前だ。「ふぅ...」と小さく息をつきながらも腕時計のHの刻印が印されたリューズをジリジリ...と鳴らすように巻いて時間を潰す。
「(一応それっぽい格好したけど、黒川が俺に気があるなんて信じられないな。でも、それ以上に信じられないのはアイツも恋人を亡くしてるってこと。それも調べたら二年前...ったく、神様ってやつは嫌がらせにも程があるだろ)」
そうこうしているとあかねから連絡が来た...通話ではなく、DMだ。
"集合場所のガソリンスタンドに着きました。私が停めてるレーンとは出来るだけ離れたレーンで給油してください。直接の会話はナシでしばらくは通話で会話します"
この内容からして誰か追っ手がいるのだろう。
週刊誌?またはパパラッチ...?
色々と考えながらも"了解、着いたら連絡する"と伝えて移動すると目的のガソリンスタンドに到着...ガラガラのセルフスタンドだ。あかねのBRZが左から2番目のレーンに停まっていたため、一番右のレーンに入って車を停めるとBluetoothを耳に付けて小声で通話開始。向こうのことは気にしないように給油する素振りを進めた。
「スパイ映画っぽいことやってるけど、誰かいるのか?」
「―はい、隣のスーパーマーケットの駐車場....角に白いカローラがいるの見えますか?」
隣のスーパー...ちょうどハジメの真後ろにある場所だ。さり気なくスマホのインカメラで見てみると確かに白いカローラが隅の方に停められていた。運転手が手元をゴソゴソと動かしているのが見える。確認してところで「見つけた」と告げるとあかねは行動に出ようとハジメに指示を出した。
「―私が先に出ます、五十嵐さんはあの車が出たのを確認してから出て下さい」
「わかった。何となく何やるかも想像ついた」
そう答えてから間もなくしてあかねのBRZがガソリンスタンドを後にすると白いカローラがスーパーマーケットから出ていく。それから数秒ほど間を空けてハジメのNSXも出た。
二車線の道を走る3台...
次の交差点であかねがちょっと加速してカローラを突き放しつつも左にウィンカーを出すとカローラも左へ曲がろうとウィンカーを出す...しかし、その間に割って入るようにハジメが急な車線変更をするとカローラは急ブレーキを踏んで一気に減速。カローラはビーッ!とクラクションを鳴らしつつも急いでBRZを追おうとNSXを追い越し、既に変わった信号を無視。そのまま左へ曲がるもそこにBRZの姿はない。
「チッ、見失った...!」
そのまま急いで探そうと次の交差点まで移動するもなかなか見つからない...それもそのはず、あかねのBRZは信号を左へ曲がった後に交差点ではない脇道に入り、そこから最初の道に戻ったからだ。NSXの後ろからひょこっと姿を見せるBRZ...隣に停まるとあかねは運転席のハジメを軽く覗き込むようにして見ながらBluetooth越しに「行きましょうか」と伝えて高速道路まで直行。ハジメもそれに続くようにNSXを走らせた。
·
―江ノ島
適当なコインパーキングに車を停めて降りる二人。
今の今までBluetoothの通話のみでやり取りしていたが、ここに来てようやく本日初のご対面...あかねは白Tシャツの上に透け感のあるシアーブラウスを羽織り、ライトブルーのロングスカートを合わせたコーディネート。変装の為に赤縁の眼鏡とベージュのバケットハットを被っている。
正直ハジメの好みだ、かなりどストライク。
「えっと、そのなんだ...その格好、イケてる。流石は女優だって感じ」
「え、あ...ありがとうございます。その...五十嵐さんもその三角の腕時計、よく似合ってます」
「あ、ありがとう...現役時代のレースで一番最初に勝った時に自分へのご褒美で買った時計なんだ。めちゃくちゃ久々に着けたけど....」
互いが互いを褒め合うものの、何だか気まずい...謎の空気感からそこから何も言えずになっていたが、その状態を打壊しようと動き始めたのは意外にもあかねの方からだ。ハジメの手を取っては軽く引くようにしながら先導し始めた。
「五十嵐さん、はやく行きましょっ。またさっき振り切った追っ手が来るかもしれないですし....」
「ちょっ、そんな急かさなくても...」
そのまま手を引かれるがままに連れていかれたのはカフェでも何でもない場所だった...新江ノ島水族館。江ノ島の観光スポットの一つではあるが、何も聞かされてない五十嵐は「ちょっと待った...!」と声をあげる。しかし、あかねは聞く耳を持たずに大人のペアチケットを買って「さっ、行きますよー!」と張り切った様子で一緒に中に入っていった。
中に入るとハジメは"仕方がない"と諦めて付き合うことにした。
まず二人を出迎えたのは相模湾のゾーン。
大水槽で優雅ながらも力強く泳ぐ魚たちに目を奪われているとあかねがあるものを指差してこんな事を言い始めた。
「あ、あのエイの裏側。なんか機嫌が良い時の五十嵐さんそっくりですね」
「全然似てないし、失礼だぞ。お前」
次に足を運んだのは日本初の本格的な有人潜水調査船「しんかい2000」の展示室。マジマジと見る五十嵐の横顔をあかねは少し離れたところから見ていた。
「やっぱり、男の人ってこういうの好きなんですね」
「まあな。深海でドリフトとかしたらギネス載るんじゃないか?今から目指そうかな」
「え、そんなのどうやってやるんですか?」
「さあな...ま、デフ組めば何とかなるだろう。デフ組めば」
「どこに組むんですか...」
次に訪れたのは新江ノ島水族館の一番の目玉とも言えるクラゲファンタジーホール...大小様々なクラゲが展示された幻想的な空間に二人はすっかり目を奪われてしまっていた。
「綺麗ですね...」
「あぁ...身体の9割以上が水分で出来てるから焼いたらほとんど無くなっちまうのにな」
「今の言葉で色々台無しです」
その後もペンギンを見たり、イルカショーを見たりと水族館を堪能し尽くした二人。最後にお土産ショップに立ち寄るとあかねがあるものに注目した。ちょっと可愛らしいデフォルメ化されたクラゲのキーホルダーだ...青とピンクの2色ある。
「五十嵐さん、これどうですか!?」
「どうって...黒川が欲しいなら買えばいいと思うけど」
「いえ、青とピンクでペアで買おうかなって...!」
あかねの大胆な提案に「はぁ?」と言わないばかりの表情を見せるハジメ。あまり乗り気ではないようだ...
「黒川ぐらいの年齢ならまだ許されるが、俺なんてアラサー入ったからな...第一こんな可愛い感じのキーホルダー似合わな」
そう言っている間に売店の会計まで持っていって買ってしまったあかね。「おい!」と静止させようとするも、そのまま購入が済まされて「はいっ」と手渡されると流石に購入後ということもあって拒否することも出来ず、渋々受け取る。
まだ受け入れようとしない彼の態度にあかねはプクーと顔を膨らませてからこう告げた。
「いいですよ、別に気に入らなかったら付けなくても」
「おいおい、なにもそう怒らなくても...」
「いいですよ、その代わり次のお店で奢ってくださいね」
「あれ、女優だから金あるんじゃ...?」
「それとコレとは別です」
そう言いながらも外に出ると外はすっかり夕方...江ノ島の綺麗な夕焼けを見ながらのんびりとした足取りで歩いていると当初の目的地であったカフェに到着。落ち着いた店の雰囲気に反して結構並んでるような感じだ。
「流石に他のところに行った方が...」
ハジメの言葉に聞く耳持たない様子のあかね。
順番待ちのリストに書き込むことなく近くにいた店員に「すいません」と話し掛けてやり取りすると親指をグッと上げて見せてきた。
「(よ、予約してたのか...ここまで計算済みで動くとは)」
彼女のハンドサインを見てそう察すると共に苦笑いしながらも一緒に店内に入ると窓際の席ではなく、奥の個室へと案内される。元々団体向けに作られた席なのか、二人で座るにはちょっと広い。何でわざわざと思ったハジメだったが、ちょっと考えれば分かる話だった。黒川あかねという人物が女優だからだ...改めてそれを思い知らされると彼女と自分の間に見えない壁があるように感じてしまった。
「...五十嵐さん?」
一瞬現実世界からかけ離れた思考の世界に飛ばされてしまったものの、あかねの問いかけでようやく戻ってこれた。
「悪い、なんだった?」
「これ、メニュー表です。オススメはコチラのパフェですかね。大きくてとにかく映えるって話題なんですよっ」
「へぇー」となりながらもパフェがどんな感じか見るハジメ...かなりの数がある。普通の店がせいぜい4種類あったら多いかなぐらいなのに対し、その3倍の種類はある。
「スゴい力の入れようだな...黒川はなににする?」
「私は抹茶のパフェにしようかなって。五十嵐さんは?」
「んー、キャラメルにしようかな」
そう答えてはお冷を持ってきた店員に声を掛けて早速注文。注文が終わり、店員が去ったところで話そうと切り出したのはハジメだ。軽くクイッと身体を伸ばすと満足そうな表情で語り始めた。
「今日は楽しかった、一人じゃこんな歩き方絶対にしないからな...」
「そうですか、よかったです。ちなみに一人ならどう歩かれますか?」
「そもそもこの類の場所を歩こうって思わないからな。なんとも言えないな」
そう言いながらもお冷を一口飲むとピロリンとハジメのスマホに通知が来た。ポケットから手に取って見てみるとニュース通知だ..芸能関係のニュースだ。
「ストーカー被害...か。最近多いな、この手の芸能関係ニュース。黒川も気を付けろよ?」
ハジメの心配に対して「えっと...」と返事を濁し始めるあかね。何か変なことでも言っただろうか...?ハジメが不思議そうにしてると彼女は少し間を空けるようにしてから答えた。
「はい、気を付けますが...その。そろそろ私のことをあかねって呼んで欲しいのですが。私たち、初めて会ってから結構経ちますよね....?」
あかねの言葉にイマイチ理解出来ずに頭上に"?"を浮かべるハジメ。あかねは"しまった...!?"と内心思いながらも慌てた様子で「い、今のは気にしないで下さい...!」と伝えてから別の話題を考えるもなかなか思いつかない様子。そんな彼女に呆れた様子で「ふぅ...」と小さく息をつくとハジメは目線を少し外側に逸らすようにしながらも助け舟を出すようにこう問いかけた。
「スパイラルでデフ組むって話してたよな。どこのデフ組むんだ?"あかね"」
その言葉に二パァァァ!と子供のような笑みを浮かべるあかね。直ぐにスマホを手にすると狙ってるメーカーのものを次々と見せてきた。
「足回りと同じようにCUSCOでいいかなって。でも、OS技研も気になるんですよね....それから」
·
―土曜日、ボンボヤージュ店内
ラッシュの時間帯過ぎ、一息ついていたバイトちゃんに対してウキウキ気分で配達用のパンを準備するハジメ。押し潰さないように持ってきたコンテナにパンを敷き詰めていると不思議に思ったバイトちゃんが「テンチョー?」と話し掛けてきた。
「なんか、今朝からやけにルンルンしてますね。なんか良いことありました?何時もならこの時間帯、燃え尽きたような顔してますけど...」
「んー、まあ言うような事でもないさ」
ハジメの言葉に疑問に思いながらもとりあえず、彼が配達の準備をするのを見届けていると何時の彼からは信じられないような行動を取り始めた。パンをNSXに詰め始めたのだ。
「えっ、いつもならボロい軽トラなのにその車で行くんですか!?」
「どの車使おうが俺の勝手だろ」
狭いトランクスペースにギチギチの状態でパンが入ったコンテナを敷き詰めるとトランクを閉め、帽子をポケットに仕舞うと運転席に乗り込む。セルを回してヴォンッ!とエンジンを掛けるとパワーウィンドウを開けて顔を出した。
「今日は長くなりそうだから時間になったら勝手に上がっていいぞ。あ、時間前に勝手に店閉めたらバイト代減らすからな」
そう伝えて車を出す前にエアコンフードに取り付けたスマホホルダーにスマホを横向きに取り付け。ナビアプリで行き先を入力してから道中の暇潰しにと動画のサブスクアプリを開いて"黒川あかね"で検索...あかねが出演している様々なドラマや演劇が出てくる中、あるモノに目を付けた。
"今からガチ恋始めます"
...4年前の恋愛リアリティショーだ。
「(アイツ、こんなの出てた時期もあったのか...)」
こういう類のものは普段絶対に見ないが、ちょっとした興味から選択すると外から覗き込んでいたバイトちゃんが「テンチョー、そういうの興味あるんですね」と話し掛けてきた。
「い、良いだろが。人が何観ようが...」
「ふーん、にしても...4年前のシーズンの今ガチですか。かなりSNSで炎上してた回の奴ですね。私、当時中学生でしたがリアタイで見ていて鮮明に覚えてます」
そう言っている間にオープニングがスタート、今でも何となく名前を聞くような出演者から無名の出演者まで多種多様な様々な出演者に混ざり、あかねが紹介される。この時は今より無名だったこともあり、やや初な感じだなと内心思っていると、その次に紹介された男の出演に表情が思わず険しくなった。
金髪で人を魅了するような青い瞳の美形な俳優...名前はアクア。
それを見てふと数日前に奥山が言っていた言葉を思い出した。
―何年か前、あの娘は大切な人を亡くしてる。相手は芸能関係者...リアリティーショーでの交際をキッカケに舞台か何かで色々共演してたりしてたが、事故で亡くなったらしい。
確か、芸名は..."アクア"だったような?
「テンチョー、アクアくんのこと気になります?惚れちゃいました?」
色々と思考を巡らせていたハジメだったが、バイトちゃんの言葉聞いて「いや、そっちの毛ないしな」と顔を横に振ってから険しい表情のまま彼女の方を見て単刀直入に問いかけた。
「バイトちゃん、コイツのこと詳しかったりする?」
「ん...?まあ、昔ちょっとした追っかけみたいなことしてたので。演技も上手いし、カッコいいしで文句ない人だったんですが...二年前に事故で亡くなったんですよ。本名がちょっと変わってて。星野愛久愛海(ホシノアクアマリン)、だったかな?」
「星野、か....」
·
―都内、とあるビルの高層階
映画の試写会に出たあかね。
記者からの質問攻め攻撃の並みを乗り越え、控室で「ふぅ...」と小さく息をつくと次はファンの交流のためにと映画スポンサーの希望で設けられた握手会の準備をすることに。なかなかこの手の仕事はしないため、内心ドキドキしながらもスタッフからの「黒川さん、お願いしまーす」の声を聞いて表舞台に出ると男女様々な年齢層を混ぜた人々が長蛇の列をつくって待っていたのだ。
「(こ、こんなにたくさん...!?)」
色々な人に支えられているんだと改めて実感しながらも「いつもありがとうございます!」と握手を交わしていく。
「いつも見てます!」
「あかねちゃん、がんばって!」
「応援してるよ!」
様々なファンからの声を受け取りながらも握手を交わし続けると、一人の男性があかねの前に現れる。全身真っ黒の格好で肩まで伸びた髪...挙動不審で目の焦点がなかなか合わない様子の男にちょっとした疑問を抱きつつも「大丈夫ですか?」と小さく笑みを浮かべながら問いかけると彼は「は、はい!」と答えてあかねと力強く握手を交わした。
「い、いつも見てるよ!ふぁ、ファンレター見てくれたかな!?黒い封筒のやつだけど!!」
男の言葉を聞いて内心そんなのあったかな?と疑問を抱くあかね。一通りは目を通したつもりだが、そんなものを見た覚えは特にない。もしかしたら、事務所側で削除したのかも...等と考えるも、本当の事を言ったら気分を害してしまう可能性もある上に適当に見たと言ったら面倒なことになる可能性もある。そう思考を巡らせると「ごめんなさいっ」と謝ってから即興の演技を混じえつつもこの場を乗り越えようと試みた。
「皆さんのおかげでいっぱいお仕事を頂けるようになってからあまり時間がなくて見れてません...時間が出来たら必ず見させていただきます」
「そ、そっか、はやく見てね!返事待ってるから!!」
時間になったため係員に連れ出される男...今まで直接接したことが無いようなファンのタイプ。その姿を片手を上げて見送るも内心ではかなりの不審感と恐怖心を抱いていた。
それからしばらくして握手会を終えると、控室で青いパステルカラーのTシャツにジーンズというラフな私服に着替え、サングラスや黒い野球帽を身に着けて軽い変装。
皆とは出る時間をずらして裏口から出ると少し離れた地下駐車場へと歩いて移動....なるべく人目がつかないようにと思って停めた一番下の地下5階までエレベーターで降りる...。片隅に停めた自分のBRZの隣に黒いセダンが停まっているのが気になるが、恐らく偶然だろう。そう思いながら近づくと黒いセダンの方から一人の男が出てきた...握手会の時に居たあの怪しい男だ。
「あ、あかねちゃん...手紙読んでくれた?」
まさかの出来事に心の準備が出来ていないあかね...一気に込み上げてきた恐怖心から流石の天才女優も演技なんてしている場合ではなかった。このストーカー男から逃げようと踵を返して懸命に走り始めると少し出遅れた男が「待ってよ...!」と手を伸ばすようにして追ってくる...意外と足が速い。振り切れないと察すると曲がり角で適当な車の後ろに隠れてやり過ごそうと試みる。しかし、1台1台確認する様子だ...見つかるのも時間の問題。
「(どうしよう、こんなことになるなんて...!)」
せめて、もっと時間を稼ごうと少し離れたポイントにあった物置部屋を発見。なるべく足音を立てないように移動して入ると中は真っ暗の状態だが、道具が敷き詰められていてかなり狭い...隙間から外を覗くと男は車の裏を確認しながらコチラに確実に近づいている。恐怖からか少しの音も立てたくない....故に110番するのも怖かった。
「(どうしよう、どうしよう...!)」
そんな中、スマホがヴゥウ!と一瞬振動した...何かメッセージが来たみたいだ。ハジメからだ。
"今、パン配達で近くに来てるんだ。よかったらどっかで落ち合うか?"
·
―とある家の前。
道の脇にNSXを路駐し、最後の配達を終えたハジメ。
「ありがとうございましたー」と伝えてNSXの車内に戻ると直ぐにスマホを手に取り、SNSアプリであかねに送った自分のDMの内容を見返すと既読の文字が...スルーされたかな?と思い軽く頭を抱えてしまった。
「流石にちょっとキモかったかな...」
そう言いながらも走らせようとエンジンキーを差し込んだ時にピロリンとスマホが着信を受け取る。メッセージを確認するとあかねからの返信だった。
"―助けて下さい、ストーカーに追われてます"
あかねからの返信にどこかウキウキしていたが、直ぐにその表情が緊張したものへと変わる。わざわざメッセージでの返信で助けを求めてきたということは喋れる状況ではないということ...そう察するとそのままやり取りをかわし続けた。
"どこにいる?"
"もみじテレビ近くの三橋系列の地下コインパーキングです。地下5階です"
ここで一旦やり取りを切って検索アプリを開く。
"もみじテレビ近辺 三橋 地下 コインパーキング"で検索....徒歩圏内で3つ出てきた。何れも現在地からかなり近いが、一分一秒を争うような事態...一つ一つ見て回る時間はない。
"同じようなコインパーキングが3つ出た。他に絞り込めそうな情報はある?"
"―私がいる地下5階が最下階です。F列の角の物置の中に隠れてます"
再び検索アプリで絞り込んでみると1件に絞り込めた。距離的に警察が来るよりかは自分が行ったほうが早そうだ...
エンジンのセルを回し、ヴォンッ!と始動させるとギアを入れて一気に走らせる。空は曇り空から少しずつだが、小雨が降り始めている...路面が悪くなっていくが、気にせずかっ飛ばす。何時もなら停まるようなギリギリのタイミングでの信号の変化も気にせずに走らせていくとコインパーキングの入り口が見えてきた。ゲートの前で車を一旦停車させ、急いで駐車券を発券機から抜き取るも、この時にあることが脳裏に浮かび上がってくる。
どうやってストーカーをあかねから引き剥がすか?ということだ。
「(ストーカーがあかねの近くを彷徨いてるなら、まずはなんとかして気を逸らさないと...)」
·
―コインパーキング 地下5階
狭い物置部屋に隠れていたあかねだったが、ストーカー男が確実に迫ってきてる....その距離はもうドア1枚越し、すぐ目の前にいるような状況。とてつもなく執念深い...が、そのままどこかへ行ってと内心思っているとコチラには目もくれず違う車を見始め、少しずつ離れていく。
「(よかった...)」
内心ホッとした様子でもっと離れたらこっそりと抜け出そうとドアノブに手を伸ばした時、ふと腕が何かに当たって床に落ち、コンッ!と音が鳴ってしまった。真っ暗で具体的には分からないが、感触的にバケツか何かだろう...だが、問題はそんなことではない。音に気付いたストーカーが直ぐにこっちに振り向いてきた。間違いなく今ので何か勘付いたのだろう。
「あかねちゃん、そこにいるの...?」
ゆっくりとした足取りで近づいてくるストーカー...もうダメだと強く目を瞑るとマナーモードにしていたスマホが返信をキャッチした。
"俺が引き付ける。隙を見て逃げろ"
そのメッセージを確認した時にヴォンッ!ヴォォンッ!!と地下駐車場内で甲高い咆哮のようなエキゾーストノートが鳴り響く...聞き覚えのあるサウンド感に何か察し、希望の光が差し込んでくるような感覚に見舞われるあかね。エキゾーストノートは徐々に大きくなっていくと共に時折キィィ!!とタイヤのスキール音を響かせ始める。流石のストーカーも気になり始めたのか、立ち止まって辺りを見回すような素振りを見せた。
「な、なんだ!?」
パシパシパシ!と素早いパッシングと共にあかねの視界にNSXが飛び込んでくる。キィィィィ!!とタイヤのスキール音を響かせ、ドリフト...速いドリフトではなく、スライド時間の長い上にわざとリアを外側に膨らませ気味にするような所謂魅せるドリフト。そのまま道路上にいたストーカー男に当たらないギリギリのラインで飛び込もうとすると、彼は「のわぁ!?」と声を出しながらも他の車の後ろに飛び込んだ。
「な、なんだアイツ!危なっかしいな!!」
すっかりストーカー男の意識はNSXの方に向けられた...今しかない。エキゾーストノートとスキール音に被せるようにドアを開けると姿勢を低めにしてなるべく音を立てないように移動するあかね...その一方でハジメはステアリング操作とフットワークに全神経を集中させていた。
「(タダでさえこの手のドリフト苦手な上に、後輪駆動とは言えどミッドシップ...正直滅茶苦茶やりづらいし、場所も場所だからやりたくないけど。やるっきゃないだろ...!)」
綺麗にキィィッ!とサイドターンを決めて180度ターンした状態で停車。再びストーカー男と向き合うような形に...彼は車の裏から姿を見せて何やら怒って罵声を浴びせているような様子だが、距離も距離な上に此方は車内。彼が何を言っているかはよく分からない。
「(わりぃけど、ブチギレてえのは俺の方なんだよな。ガラにもねえ場所で、ガラにもねえ運転させるような状況にしやがって....!)」
内心そう思っている時にストーカー男が何かに気付いて振り向くような素振りを見せる...物置部屋のドアが開いていることに気付いたのだ。マズい、あかねがそこから逃げたのがバレる...!
急いでNSXを再び走らせるとストーカー男が行動に移す前に彼が動くラインに被せるようにしてNSXを飛び込ませた。
「くそ、邪魔ばっかしやがって...!」
ストーカー男の動きが一瞬止まったところでドリフトして入ってきた道を見直すと、必死に走るあかねの姿が。見つけた...!直ぐに走らせて横につけるようにするとウィンドウを開けた。
「乗れ!早く!!」
「はい!!」
BRZまで逃げるよりも確実だと感じ、直ぐに助手席に乗り込んでくるあかね。ストーカー男が「待て!どこ行く気だ!!」と言って追ってくるが、お構いなしに急発進。時折ドリフト走行を混じえながらも離れていく姿にストーカー男もハァ、ハァ...と息を荒らげながらも流石に諦めた...
「あ、あかねちゃん...」
ポツリと儚げにそう呟きながらも自分の車に戻ろうとした時、あかねのBRZが無防備の状態で置き去りにされていることに気付いた。
·
―1時間後、NSX車内
警察署まで行ってからあかねを送ろうと助手席に乗せるハジメ。信号待ちでチラリとその姿に目を向けると恐怖からか俯いて小さく身体を震わせていた。
「...大丈夫?」
「あ、はい!大丈夫です。気にしないで下さい」
そうは言うもののどこかぎこちない様子...天才女優というものの、いかにも無理して言っているような口振り。相当精神的に参っているのだろう...BRZを取りに行くのは後日にして家の最寄りまで送ろうと思っていたハジメだったが、少しでもいいから気を紛らわせてやろうとプランを変更しようと提案してみた。
「...あかね、ちょっとスパイラル寄ってもいいか?奥山さんに用事ある」
·
―チューニングショップ、スパイラルゼロ
あかねを横に乗せた状態でNSXが入って駐車場に停まると驚いた様子で店内から出てきた奥山。それもそのはず、今日はショップに行くなんて話を一切聞いてないからだ。しかも、いつもは私服で着てるのに帽子を被ってない調理服姿...疑問が積み重ねられる中、ハジメと私服姿のあかねが降りてきた。
「こんばんは、奥山さん」
「こ、こんばんは...!」
何か言いたげな様子でハジメに近づこうとした奥山だったが、彼から話されたら気遣いしてるのがバレてしまうと先手必勝で近づくハジメ。そのまま後ろにいるあかねに聞こえないぐらいの小声で耳打ちした。
「...ちょっと訳ありで来ました。事情は後で話すんで、適当に話合わせてください」
「あ、あぁ。わかった...」
そこから話を適当に合わせる2人。以前から会うたびに少し話していたコンピューターセッティングの話を始めると、ハジメはキリのいい適当なタイミングであかねの方をチラッと見て声を掛けた。
「あかね、話長くなりそうだから奥で待ってて。いいですよね?奥山さん」
「あ、ああ。ゆっくりしていきな」
2人の言葉に「ありがとうございます」と言いながらも奥の商談スペースまで歩くあかね。彼女が扉を閉めて完全に部屋に入ったのを確認したハジメは奥山に事情を話した。
「あ、あの娘がストーカーに...!?」
「そうなんですよ。てなわけで、しばらく気持ちを落ち着かせるためにもストーカーの奴が絶対知らないこの場所に居させて欲しいんですが...」
「まぁ...今日はこれから商談の予定もないから別にいいが。にしても、そうならそうで来たとき言っててくれればいいのに...なんでこんなまどろっこしいことするんだ?」
「アイツ、妙に他人ファーストで自分の気持ちを抑える癖があるので...なるべくこっちが気を遣ってるっていうのを勘付かれたくなかったんです」
そう言いながらもチラリと窓越しに商談室を見てみる...あかねは相変わらず俯きながらもずっと困惑した様子だ。こういうのは時間がいるとはよく聞くが、少しでも早く治療出来るような特効薬があればなと思っているとピット内にある作業台の上に置かれていたブックスタンドで立てられた整備マニュアルの横にあった赤いアルバムに目を向けた。
「奥山さん、アレをお借りしても?」
「...まあ、事態が事態だしな。いいぞ、持ってって」
奥山の了承を聞いてピット内に入り、赤いアルバムを手に取るハジメ。雇われたばかりの新人スタッフが何処かで使ってるであろうインパクトのグインッ!グインッ!という作動音を聞きながらも商談室に入るとあかねはビクッ!と身体を反応させながらも驚いた表情で入り口のドアを見る...が、ハジメだと分かればすぐに胸を撫で下ろした。
「い、五十嵐さん...でしたか」
「悪い。ノックした方が良かったな」
「いえ、お気になさらず....」
あかねの言葉を聞いてまだ参ってそうだと察する。気分を晴らしてやろうとハジメは持ってきたアルバムをフリフリと振るように見せては「いいの持ってきた」と伝えながらもそのまま彼女の隣に間隔を空けるようにして座り、パッと開いて挿入されていた写真達を見せた。チューニングショップ·スパイラルゼロが出来る前の奥山とその仲間達の写真だ。
「こ、これは....?」
「スパイラルゼロが出来る前の奥山さんの写真。スパイラルゼロは元々奥山さんがいたチームの名前で、このアルバムにはチームで活動してる時の写真が挟まれてる」
ハジメの言葉を聞きながらペラペラと写真を捲っていくあかね...昔の奥山の写真。片目を隠すほど髪を伸ばしていて、如何にもキツそうな雰囲気を醸し出している姿を見て物凄く意外そうな表情を見せた。
「え....!?これ、ホントに奥山さん...?」
「そ、これが若い頃の奥山さん。今の雰囲気からは考えられないだろ?本人曰くカミソリみたいな性格だったっけな」
ペラペラと捲るとGPスポーツのエアロを組んだ青色のS15と奥山の2ショット写真が何枚も出てくる...あかねは興味深そうに見ると富士スピードウェイの駐車場で撮られたらしき写真があるページでページを捲るのを止めた。
「この車、ひょっとして奥山さんの....?」
「そっ、奥山さんの愛車...日産のS15型シルビア。かなり速かったって話だよ」
そう説明するとペラッとページを捲り、次のページの写真を見始めるあかね...奥山とS15の隣にイングスのフルエアロを組んだ赤いZ33をバックに写る頭を丸めた威厳がありそうな男の姿に目が止まる。「あれ...?」と呟くとそのまま注視するように顔を近づけた。
「この人、どこかで見たことがあるような...?」
「あぁ、池田さんか...小田原市の市議会議員だ。多分、選挙ポスターかなんかで見たんだと思う」
「し、市議さん...ですか?」
まさかの言葉に驚いた反応を見せるあかね。少しは気が紛れ始めてると内心思いながらもハジメはそこから補足するように色々付け加えた。
「この人、色々出来る人でさ...モータースポーツでの青少年育成を目的としたゼロ·アカデミーっていうところの主宰である上に実家の関係で寺の住職もしてるんだ」
「スゴいですね...!私もそんな色々出来る女優になれたらなぁ...」
思わずポツリと呟いていると奥山がコンコンとノックしてから「邪魔するぞ」と言って入ってきた。手には来客対応用の小さな缶コーヒーが3つ。2人と向き合うように座るとテーブルの上にそれを置いていきながらもふぅ...と安堵するように一息ついた。
「あかねちゃん、悪いな。砂糖入ってるのちょうど切らしててブラックしかないんだ」
「いえ、大丈夫です。お気になさらないでください」
あかねがそう笑みを浮かべながら答えている間に奥山のS15が富士のホームストレートを疾走している1枚に目を向けるハジメ。ふと一つの疑問が浮かび上がってきた。
「そういや奥山さん、このシルビア...どこに行きましたか?昔は安価なスポーツカー扱いされてた時期もあったとは謂え、コレだけガチガチに組まれてるコンプリートカーみたいなのそう簡単に手放したら勿体ないなぁって」
ハジメの言葉を聞いてから缶コーヒーの栓をプシュッと開ける奥山...そのまま手に取り、ゴクッ...ゴクッ...と2回喉を鳴らすように飲んでから「ふぅ...」と安堵するように息をつくと懐かしそうな表情を浮かべながらもこんな風に答えた。
「さあな...でも、まだどこかにあるかもな」
「なーんか、物凄いぼんやりした答えですね...」
「いいだろ、ハジメ。答えるか答えないかは俺の自由」
2人のやり取りを聞きながらもアルバムのページをペラペラと捲り、写真を眺め続けるあかね。小さく自然な笑みを浮かべている様子から少しは気が晴れてきたのかもしれない。
「どうした、あかね?そんな笑み浮かべて」
「いや、これ見てると昔にタイムスリップした気分になって....私はこの場に居ないし、行ったこともないけど...いい時代だったんだなぁって、なんだか暖かい気持ちになれるんです」
そう呟きながらもチラッとハジメを見るあかね。クスリと笑ってから小声で「お気遣いありがとうございます」と伝えてきた彼女に対し、ハジメは思わず釣られるように小さく笑みを浮かべながらも「気を遣った覚えはねーよ、用があってここに来たから」と答える。そんな中、奥山が「そう言えば、あかねちゃん」と何かを思い出したかのように切り出してきた。
「頼んでたデフ、明日届くぞ」
「ほ、ホントですか!?」
デフを組みたいという話は聞いていたが、組むという話は未だ聞いてないハジメ。いきなり過ぎて取り残された感覚に見舞われながらも「まじかよ!?」と驚いた表情を浮かべた。
「どこのデフにしたんだ?」
「CUSCOです、やっぱりある程度統一した方がいいかなって...」
あかねの言葉になるほどと言わないばかりに頷くハジメ。そんな中、奥山が再び話し始めた。
「あかねちゃん、取り付けはどうする?余裕もって1日掛かると思ってくれてもいい内容だが」
「そうですね..今週はドラマの撮影が立て込んでいるので来週の月曜日の夕方に持ってきて、火曜日に受け取る形でも大丈夫ですか?」
「月曜日か。オーケー、その日なら作業できる」
·
―数日後、昼
あかねのストーカー事件の件だが、テレビのニュースどころかネットの記事にすらなってなかった。警察に被害届を出したにも関わらずおかしい...事務所側が意図的に隠してる可能性もある。そう思ったハジメはパンの配達ついでにあかねの事務所である劇団ララライに足を運ぶことにした。
近くのコインパーキングにボロい軽トラを停め、スマホの地図アプリを時折チラッと見ながらも進んでいく...それらしき建物が見えてきた。が、ここからどうしようかは具体的に考えてなかった....
「(変に突撃して単刀直入に言ったところで不審者扱いされるだろうし、かと言って電話で伝えるだけだとパンチが弱いよな...)」
入り口付近でキョロキョロと挙動不審な動きを見せていると一人の男がやってきた。眼鏡を掛けて無精髭を生やした自分と同い年ぐらいの男...どこかで見たことあるような。そう思っていたが、間もなくしてふと誰なのか思い出した。
劇団ララライの一番の看板役者...姫川大輝だ。
「えーっと...誰?オーディションなら先月終わったはずだけど。と言っても...見るからに役者って感じじゃないな」
「えっと...あ、その道に迷ってて!ショッピングモールってどっちでしたっけ?」
即席で演技しつつも身振り手振りで問いかけると姫川は「あっち」と指を差して答えた。なんとかやり過ごせた...そう思いながらも「ありがとうございます」と背中を見せて立ち去ろうとするハジメだったが、姫川は「でさ....」と彼を静止させるように声を掛けてきた。
「本当は何の用できたの?下手な演技でやり過ごせると思ってた?」
姫川の言葉に動揺した様子を見せてしまったハジメ。流石、一番の看板役者...賞をいくつも取った上に現在も数多くのドラマで主演クラスの役を掻っ攫ってるだけのことはある。適当な誤魔化しでは言い逃れ出来ないと察し、覚悟を決めると振り向きながらも単刀直入に問いかけた。
「...黒川あかねがストーカー被害に遭ったって話、ご存知ですか?」
ハジメの言葉に顔をポリポリと軽く掻くようにしながら「さあ?」と答える姫川。如何にも面倒くさいと言わないばかりの雰囲気を醸し出しながらもそこから続けてこんな事を言ってきた。
「知ってたとしても、ただの一般人相手に話すわけないじゃん。これ以上は答えないし、答える気もない。あまりしつこいと警備員呼ぶけど?」
かったるそうではあるが、向こうの言い分は充分に分かる。一般的な職場ならまだしも、相手は芸能界の第一線を走る一流クラスの女優...なんだか彼女の背中が急に遠く感じてしまう。
このままだと自分がストーカーと間違えられると察したハジメは「わかった、わかった。帰りますよ」とため息混じりに伝えてその場を後にした。コインパーキングまで戻り、軽トラに乗り込むと何か引っ掛かると感じたのか、そのままあかねに電話することにした。
「―もしもし?」
「もしもし、あかね?今、時間ある?」
「―はい、撮影も今終わったので...何かありましたか?」
キーを差し込みながらも肩と顔でスマホを挟むようにすると少し間を空けるようにして気になった事を単刀直入に問いかけた。
「あかね、ストーカーの件って本当に警察に話した?」
不意打ちだったのか、「―えっ...!?」と驚いたような声が聞こえてきた。やっぱりか...と言わないばかりに「はぁ..」と小さく息をつくとそのままどうして勘付いたのか話し続けた。
「テレビでもネットでもニュースにならないし、事務所も把握してないみたいだった...おかしいだろ。お前ぐらいの女優がそんな目に遭っても誰も気にしないなんて」
「―でも、五十嵐さん。私と一緒に警察署に...!」
「車で送迎しただけで一緒に中に入ってないからな。お前の事だ...直前になって皆に迷惑掛けたくないからって言うの止めたんじゃないかって」
図星だったのか、電話越しに黙り込んでしまうあかね...その間にハジメは軽トラのキーを回してスカスカなエンジンを掛けると顔と肩で挟んでいたスマホを手で持ち直すと少し重くなった空気を打壊しようと一言彼女に伝えた。
「一人で抱えてないで誰かになんか言ってみたらどうだ?少なくとも、俺にはもっと色々教えてくれてもいいんじゃないか...?あかねが被害に遭ったのも知ってるし、犯人の顔もなんとなく覚えてる...他に何か知ってることとかあるか?何かあってからでは遅いから出来るだけ知りたい」
そう問いかけると電話越しに「―ん....」と考え込むような声が聞こえてくる。そして、若干間を空けてから知ってることを語り始めた。
「―あの人がついてきたのは映画の試写会後の握手会からです。事務所や製作側ではなく、スポンサーの意向で決めたもの。一応、安全性も考慮して参加者はプロフィールなどを元に選考しているものなのですが...」
「じゃあ、プロフィール上は健全なやつだったんだ。他に何かある?」
「―私のBRZの横に車を停めてたのですが、黒色で...多分外車です。槍の先みたいな形のエンブレムがついてました」
槍の先...このフレーズを聞いて思い浮かぶメーカーは一つしかない。イタリアの高級スポーツカーブランド、マセラティだ。
そうとなればと適当によく走ってそうな車種の画像をSNSのDMに送り、「この中に同じ車ある?」と問いかけるとあかねはそれほど間も空けずに直ぐに答えてきた。
「―上から2枚目の画像の車です、間違いありません」
此方でも確認するとその車はマセラティのギブリ。ハードトップタイプのスポーツセダンだ。
「ナンバーは?」
「―ごめんなさい、詳しくは...でも、世田谷ナンバーだったのは覚えてます」
世田谷ナンバー、黒いマセラティ·ギブリ....ハジメはその車をしっかりと覚えながらも「ありがとう、何かあったら連絡してくれ」と伝えて通話を切った。
·
―月曜日 夕方
撮影を終えたあかねはどこかウキウキした様子でBRZに走らせた。今日はスパイラルゼロでデフを組む当日...組み上がるのは明日でそれまで車はお預けだが、それでも楽しみだ。
道中、適当な寂れた感じのコンビニに寄ってちょっとした飲み物を購入...そろそろ奥山から連絡が来る頃だと思いながらも車に乗り込もうとするとドアノブに手を伸ばすと後ろから誰かが来るような気配を感じ取った。
「(え、誰だろう...?)」
ゆっくりと振り向こうとしたその時、突然口をハンカチのようなもので塞がれた。「んぐ..!?」と目を見開きながらも抵抗しようと手足をバタバタと動かすもビクともしない...そんな最中でBRZの窓の反射で誰がこんな事をしているのか分かった。全身真っ黒の格好で肩まで伸びた髪...あのストーカー男だ。
「捕まえたよー、あかねちゃん...車に発信機仕込んでおいてよかった」
不敵な笑みを浮かべながらもしっかりとあかねの口を塞ぎ続ける男。あかねは必死に抵抗しようと試みるも、次第に意識が遠のいていくような感覚が...恐らく、ハンカチに何かクスリを仕込んでいるのだろう。
「(だれか...たすけ....)」
·
―30分後
NSXに乗って適当に店近辺の道をゆっくりとドライブするハジメ。仕事終わりということもあって白いTシャツにジーパンというかなりラフな格好だ。
店も閉店時間を過ぎてここから先は夜の自由時間...かっ飛ばすのもいいが、こんな風にテキトーな物思いに更けながらもテキトーな道を流すのも好きだ。
そんな物思いに更けてるときにある言葉がふと脳裏に浮かび上がってきた...事務所に行こうとした時に姫川に言われた"ただの一般人"というフレーズだ。何か言い返したい気になったが、何も言い返せなかった...その通りだ。今はしがないのパンを焼いているだけのアラサーに差し掛かったただの男。
現状に「はぁ...」と小さく息をついていると突然スマホが鳴り始めた...奥山からだ。耳に掛けていたブルートゥースイヤホンを通じて電話に応じてみた。
「もしもし?」
「―あー、ハジメか。あかねちゃんにデフの取り付けのことで連絡したんだがなかなか出なくてな...一緒にいるか?」
「いや...俺、今一人ですけど」
この時間なら仕事も終わってそうだ...しかも事前に入れている予定の確認で律儀な性格のアイツが出ないなんて珍しい。そう考えるとなんだか嫌な予感がしてしまう。奥山に「俺からもちょっと掛けてみます」と伝え、一旦通話を切ると路肩に車を停めてあかねに掛けてみる...なかなか出ない。が、掛け直そうとした時にピッと通話状態になった。
しかし、なかなかあかねの声が聞こえない...
「...あかね?」
確認するように問いかけるも、返事はない...くぐもった感じの風切り音とガタッ、ゴトッ...と揺れるような雑音から車内にいると分かる。だが、耳を澄ませて聞こえてくるエンジン音はBRZのボクサーエンジン特有の"ドコドコ"というリズム感があるようなサウンドではない。どちらかというとV型寄りのやや整った感じ...しかも野太い。...V8エンジン?そう考えているとそれから間もなくして何かがマイクを叩くような音が聞こえてくる...指で叩いているのだろうか?一定のリズムで何かを伝えるように繰り返し、繰り返し聞こえてくる。
「(...モールス信号?)」
頭がいいあかねがやりそうなことだ。しっかりと連打される音に耳を傾ける。
モールス信号として繋げるとこうなった。
" ··· --- ··· "
「(これって...!?)」
モールス信号には詳しくないが、このサインは何処かで見たことがある。通話を繋げたまま急いで検索を掛けると直ぐに結果が出た...SOSのモールスだ。それから間もなくして位置情報が送られてきた。湯河原美術館の辺りだ...それから1分置きに位置情報が送られる。まるで人気を避けるようなルートだ。
これで全て察しがついた....急いで通話を切ると今度は奥山の方に掛け直した。
「―どうだ、繋がったか?」
奥山の言葉に対してどう答えようか悩むハジメ。しかし、悩んでいる間にも彼女の身が危ない...そう思うと単刀直入に答えた。
「アイツ...ストーカーに誘拐されたみたいです」
·
―湯河原美術館近辺
静寂な夜道をゆっくりと走る黒いマセラティ·ギブリ。あかねは後部座席で後ろ手に縛られ、口をガムテープで塞がれた状態で横になっていた。しかし、意識はある...正確に言うと戻ったばかり。そのことには運転しているストーカー男も気付いていない。更に、ラッキーなことに男は自分がスマホを持っていることに気づいていない様子だ。
縛られた状態ながらもスマホを手に取り、ウィンドウの反射を利用して画面を見つつも操作しようとするとハジメから連絡が来た。ミュート状態にしていたため、男に気付かれていない。口を塞がれていて喋れないが、何とか助けを求めよう....何度も何度も、繰り返し指でスマホのマイクを叩いて助けを求める。が、通話が切れてしまった...気づいてないかも。何とか振り向かせようと位置情報をアプリで飛ばす。3タップぐらいで終わる動作だが、後ろ手に縛られてウィンドウの反射を利用して...となるとかなりの時間を要した。
お願い、これで気付きますように...!
内心そう思いながらも次にと行動を移そうとした時に急ブレーキを踏まれた。前に動物が飛び出してきたようだ。
「ぅッ!?」
いきなりのことで声を上げそうになりながらも前に姿勢を崩すと手に持っていたスマホをボトッと音を立てるように落としてしまう。が、運転していたストーカー男は「あ、危ないな...!」と呟いて再び車を走らせ始めた。
内心ホッとしたあかねだったが、頼みの綱だったスマホを落としてしまった...何とかして拾おうと考えるが、今の状態だと下手に動くと怪しまれる。仕方ない、寝た振りを決め込もう...再び目を瞑ってやり過ごすことにした。
·
―スパイラルゼロの裏ヤード
中古車販売に回される前の車両や部品取り用の古い車両などが置かれたこの場所まで通話しながら歩いてきた奥山。
ハジメから聞いた話を整理し、突然途絶えた位置情報の動向を線で結ぶと箱根の峠方面に向かってるのが分かる。ここから先は迷路みたいに入り組んでいる...道にある程度詳しくても一人で探すにはかなり骨が折れるのは二人には目に見えて分かった。
「ハジメ、どうするんだ?」
「―もちろん、助けに行きます」
「そうか、お前もわかってると思うが...箱根の峠は入り組んでる。1本道じゃ...」
「―わかってますよ!でも、動かないと....!!」
電話越しにハジメの焦ったような言葉を聞くも、奥山は落ち着いたような表情だ。まるでパニック状態の子供の話を聞く親のようだ。彼はふぅー....と小さく息をつくとそのまま話し始めた。
「..."俺達"に任せな。手伝ってやる」
「―俺、達...?」
そう言い残して通話を切るとヤードの片隅にあった車庫まで足を運び、シャッターを開ける...中にはGTウィングを装着した青いクーペボディのスポーツカーが。
「(さてと、若い奴等が困ってる。久々に行くか...)」
小さく不敵なを浮かべながらも再びスマホを手に取る奥山...電話帳アプリからある人物を選択。
「...もしもし、池田さん?」
·
―アネスト岩田 ターンパイク箱根
芦ノ湖スカイラインや箱根峠などを経由し、この場所まで走ってきたハジメのNSX。
体感だとかなり長い時間をグルグルと走らせているが、それらしき車は見当たらない...ついに一番走りたくないこの場所に来てしまった。しかも、ここから先は下り区間....嫌な思い出がフラッシュバックしてくる。
忘れたくても忘れられない思い出を感じつつも大観山展望台前の上り坂を上りきればいよいよ、下り区間に差し掛かる。まるで滑降を始める前のジェットコースターを思わせるような急勾配を上り切り、下り区間に差し掛かった時に1台黒いセダンの姿が見えてきた。
「(っ、あの車....?)」
ペースを上げていくとゆっくり巡航速度で走ってた先行車にはあっという間に追いついた...世田谷ナンバーの黒いマセラティ·ギブリ。あかねが前に言っていた車種、ナンバーも世田谷で一致してる。
「見つけた....!」
協力してくれると話していた奥山に位置情報を共有しようとするハジメ。一方、ギブリを運転していたストーカー男はバックミラーに映るNSXの車影を確認。まだ車種こそは分からないものの自分達を追っているヤツだと察すると、「チッ」と軽く舌打ちしてから一気にアクセルを踏み込んでペースを上げた。
「っ!?」
急な加速Gに身体が揺さぶられると思わず声を上げそうになるあかね。が、今までの感じとは何だか違う...身体を捩らせるようにして起こすとリアガラス越しに1台の車が見える。暗くて視覚的には具体的な車種は分からないが、聞き覚えのあるレーシーなVTECサウンドから何なのか察した。粘着が弱くなったガムテープを口と舌で強引に剥がすと絶望から救って欲しいという思いからストーカー男になりふり構わずに叫んだ。
「五十嵐さん!!」
必死な呼びかけ...聞こえるはずもないそれに応えるようにハジメはアクセルを踏み込み、ギブリとの距離感を一気に縮めるとストーカー男は「なっ....クソが!」と怒鳴りつけながらも更にアクセルを踏み込んだ。
「こ、こっちはV8 3.8リッターツインターボ、580馬力だ!簡単に追いつけると思うなよ!!」
急な下り勾配...まるでレールのない動力源があるジェットコースターに乗っているような気分に見舞われながらも離れていくギブリに応じるようにアクセルを踏み込む。しかし、向こうもそれほどアクセルをしっかりと踏み込めてない...この辺りでは下り勾配のスピードの乗り方から恐怖を感じて踏み込めないのだろう。
「(上りならまだしも、ここの下りでその馬力ってなると素人レベルで扱えたもんじゃねえよ...待ってな、あかね。今すぐそこから連れ出してやる)」
普通の峠ではあり得ないようなスピードレンジで右、左、左、右とコーナーを抜けていく2台。コーナーを抜けきるとNSXと直線で離していたアドバンテージはあっという間に縮んでいた。それどころか、完全に相手に余裕を見せつけるようにバンパーを突くか突かないか、ギリギリのラインまで寄せているような状態...
まるで"勝ち目がないから勝負から降りろ"と言わないばかりの詰め寄り方だ。
「こ、小癪な...!」
再びストレートで踏み込んで突き放そうと試みるストーカー男。しかし、それほどアクセルを開けられずに直ぐに左、大きなU字コーナーとハイスピードコーナーに差し掛かる。ブレーキングをしっかり入れてコーナーから立ち上がろうとするギブリだが、出口で姿勢が崩れそうになった。電子制御のお陰で立ち直れたものの、大きな失速に繋がる。その間にもNSXは余裕そうに後ろについてきた。
「(どうした?それ以上は踏めないか。車が辛そうだぞ)」
「ふ、ふざけんなよ....!」
ストレートで再び踏み込んで離そうとしてきたが、次のコーナーでまた詰め寄られるギブリ。なかなか往生際が悪いやつ。映画なんかだとここで銃を取り出して...となるが、ここは法治国家日本。そんな都合の良いものはない、古典的な方法で停めるしかない。
次のコーナー出口の立ち上がりでミッドシップのトラクションの良さを活かしてサイドバイサイドの状態に並ぶNSX...このまま車体半分ほど前に出て幅寄せして停める作戦だ。が、車種が旧型のNSXと分かればタダでさえ往生際が悪いストーカー男は車内で更に激昂して怒鳴りつけた。
「あんな古のポンコツごときが...!調子に乗るなァッ!!」
幅寄せされる前に逆にぶつけてきた。NSXの姿勢が少し崩れた...
「五十嵐さん...!」
態勢を立て直しても追随するように横から何度もガンッ!ガンッ!!とぶつけてくるギブリ。しかし、前方不注意で道幅が若干狭くなっているのに気付かなかった。
「うぉわっ!?」
気づいてステアリングを切った時には既に遅かった。ギブリの車体は土手に片輪を乗り上げたような状態に...素人のストーカー男には厳しい状況だ。ガタガタ!と大きく揺れる車内に「キャァッ!?」と声を上げるあかね。なんとか抜け出したかと思えばガードレールの端にガガガッ!!とボディを削るようにぶつかりながら曲がることになった。
なんとか抜けきれたが、ここでストーカー男からとんでもない一言が繰り出される。
「は、ハンドルがうまく動かない....!」
恐らく、ガードレールにぶつけたときに片側の足回りが逝ったのだろう。ストーカー男の言葉に顔を青褪めさせながらも「と、止めて!」と訴えるあかね。しかし、ストーカー男の足元を見るとブレーキペダルを踏んでいる様子だ。そう、ブレーキもフェードしてたのだ...
このハイスピードステージでハンドルも動かない、ブレーキも効かない状態はまさに地獄へ向かう暴走機関車に乗っているも同然。
あぁ、もうダメ...!
目を瞑って自分の過去の記憶が走馬灯のように頭の中を駆け抜けていく..
有馬かなという天才子役を夢見て演劇を始めた幼少期。
そこから芸能界の影の部分を見せるられながらも成長...高校時代に今ガチに出演。炎上騒ぎで自殺しようと思った...嵐で何も考えずに陸橋に立ち、そこから飛び降りようとしたときに自分の身体を抱きしめて助けてくれた彼の姿を未だ忘れない。まだ彼が生きていたらこんな状態でも助けてくれるのだろうか?
そんな事を考えている時だった。
横からガンッ!という大きな音が聞こえてきた。
衝突した?
もう天国にいるのかな?
そう思いながらゆっくりと目を開けて確認すると信じられない光景が広がっていた。NSXが幅寄せて横から押していたのだ...この先の脇にあるブレーキが効かなくなった時の緊急退避所まで押し出そうとしているようだ。
「死なせない、ここでは誰も...!」
そう呟きながらもなんとか救おうと試みるハジメ。だが、ボディがミシミシ...と悲鳴あげ始めた。
「(コイツの軽量なアルミボディが裏目に出てる!アルミは軽い分、鉄と比べて耐久性がない。耐えてくれ、NSX....!!)」
2トン以上あるボディを押し出すにはNSXにはキツい話だ。
それでも押し出そうとし続けると、思いが通じたのかギブリの走行ラインが緊急待避所の方に向いた。それと共に一旦離れて減速態勢に入るNSX。
そのまま緊急待避所に突っ込んで停車するギブリ...ハイスピードで突っ込んだ車体は盛り上げられた土に埋もれてしまうも、それ以外は無傷で済んだ。
「あかね!」
近くにNSXを停めて待避所で動かなくなったギブリに駆け寄るハジメ。足元を土塗れにしながらも勢いよく後ろのドアを開けると縛られた状態の黒川あかねの姿が...「痛たた...」と小さく呟いているものの無事そうだ。そのまま抱えるようにして車外に連れ出し、土のない路面で後ろ手に縛っていた拘束を外すと彼女は顔を感情のあまり顔を整った顔をぐしゃぐしゃにさせるように大泣きしながらもハジメに抱きついた。
「怖かった....!ものすごく...!!」
「そっか。遅くなって悪かった、もう大丈夫だ...」
そう言いながらも落ち着かせようと背中をそっと擦るとNSXの方に案内しようと一旦離れるハジメ。だが...後ろから何か気配を感じる。泣きじゃくっていたあかねの表情が再び怯えたようなモノになったことからいい状況ではないと察しながらもゆっくりと振り向くとストーカー男の姿が。手にはサバイバルナイフが...
「あ、あかねちゃん、酷いよ...新しく男作ってたなんて」
「お、男って...そん」
「黙れ!僕らファンを裏切ったなんて許さない!!ここで償えよ、クソアマァァッ!!」
あかねに向けて勢いよく刺そうと試みるストーカー男...
あぁ、今度こそ本当にダメだ。
恐怖から力強く目を瞑る...が、ズサッと刃が肉を貫く音が聞こえても痛みという痛みは感じない。
ゆっくりと目を開けるとハジメの背中が...彼が間に入って自分を庇ったのだろう。
「っ...ぅ...!」
流血によってハジメが着ていた白いTシャツが赤色に染まっていく。口から少量ながらも吐血し始めた。目標とは違うが、邪魔者の一人は消えたとナイフを引き抜こうとするストーカー男...だが、そうは出来ない。ハジメがしっかりと柄を持ってそれを阻止していたのだ。
最後の力を振り絞ってストーカー男を蹴り飛ばすハジメ。後ろに倒れて痛みから動けなくなったストーカー男だが、ハジメも立つことすらままならない状態。「五十嵐さん!」と咄嗟に身体を支えるあかね。
どうしよう、自分のせいで....!
そう考えると涙が止まらない。
彼を救いたいが、この状況で自分が出来ることはないに等しい...そんな中、彼は「あかね」と彼女に呼びかけるとポケットから何かを取り出して見せる。NSXの鍵だ...しかも水族館で買ったあのクラゲのキーホルダーまで付いていた。
「これ使って逃げろ...」
「い、いや...!そんなこと!」
「いいから、逃げて...くれよ...!」
そうしようとしている間にストーカー男が立ち上がってあかねに目を付けた。ハジメのことを救いたい一心だったが、この状況下で彼を抱えて逃げたら間違いなく追いつかれる。
ごめんなさい...!
頭のなかで必死に謝りながらもその場から急いで離れようと走るとストーカー男も追ってきた。が、途中で動きが急に鈍くなってしまう...ハジメが脚を掴んでいたのだ。
「そっちに...行かせるか、よ...!」
必死に掴もうとするが、直ぐに払い除けられてしまった。これであかねとストーカー男の間を塞ぐものはなにもない...必死に走るあかね。だが、ストーカー男の方が相変わらず足は速い...このままだとNSXに乗り込む前に追いつかれてしまう。
そう考えていた時だ...
自分とストーカーの間に1台の青い車がキィィッ!とスキール音を鳴り響かせるようにして飛び込んできては停車してきた。驚きながらも車を見るとその車には見覚えがあった...GPスポーツのフルエアロを組んだGTウィングを装着したS15。そう、奥山のS15だ。
「お、奥山...さん!?」
思わず呟きながらもゆっくりと運転席から降りてきた彼の姿を見ていると上り側と下り側から挟み込むように次々とスポーツカーがやってきた...ストーカー男が驚いて辺りをキョロキョロと見回すも、降りてきた男たちにあっという間に取り押さえられた。
「よかった、間に合って!」
「奥山さん、五十嵐さんが...!五十嵐さんが...!!」
あかねが泣きながらも奥山に伝えるとナイフが突き刺さった状態のハジメを発見。奥山は急いで彼を抱え、可能な応急処置を済ませると助手席に乗せた。
「お前、うちの常連でも結構太い客だからな。こんなとこで死ぬなよ?」
「奥山さん、私も...!」
「悪い、あかねちゃん。この車、リアシートはないんだ...病院行きたいなら他のヤツに乗せてもらえ」
そう言う残してS15は勢いよくターンパイクの下りを走り始めた...そうだ、NSXの鍵を貰ったんだ。この鍵を使って...!と力強く鍵を握り締めてNSXの方に向かおうとすると、後ろから誰かに「やめておいたほうがいい」と冷静な口調で停められた。
振り向くと見覚えのある姿....頭を丸めた威厳がありそうな男。
現在の小田原市の市議会議員、池田竜次だ。
「黒川あかねさん...だったよな?」
「あ、はい....」
「池田竜次だ。今のキミは冷静さを失っている...その状態で運転してもロクなことにならないだろう」
「で、でも...!でも...!!」
焦っている様子のあかねに対して落ち着いた様子の池田。少し間を空けるようにしてから自らが乗ってきた赤いRZ34の方に親指を差してこう提案してきた。
「よかったら、俺が乗せて行こう」
·
―RZ34車内
助手席に座っていたあかねは池田のドライビングテクニックに驚いていた。
無駄がなくスムーズなドライビング...落ち着いた様子だが、消して遅くはない。寧ろかなり速い...まるで宇宙空間にも飛ばされたような不思議な感覚になりながらもチラリとステアリングを握る池田を見ると彼はゆっくりとした口調で語り始めた。
「キミのことは奥山から聞いている。五十嵐くんの友達なんだろう?」
「えっ、あ...はい。池田さんは五十嵐さんのこと、ご存知なんですか?」
「まあな。彼が現役の時、アカデミーの特別講師として何度か呼んだことがある...第一線から引いてからは一切音沙汰なしだったが」
そうこうしている間にターンパイクを下り切ったRZ34。「来てくださってありがとうございます」と礼を言うあかねに対し、「いや...」と池田は否定から入るように話し始めた。
「礼を言うなら奥山に言ってやってくれ。ヤツが声を掛けなければ、俺も昔の仲間を引き連れて動こうとは思わなかった」
「昔の仲間って、あの他の方々はスパイラルの...?」
「そうだ、掻き集められる限り掻き集めた。スパイラルは走り屋チームだが、峠の自警団的な役割もしていてな。解散したとは言え、峠の秩序を乱す輩は断じて許さないのが俺達のモットーだ」
そのまま救急病院にたどり着いたRZ34。駐車場には青いS15の姿が...ちょうど刺されたハジメがストレッチャーへと移され、中へと運び込まれるタイミングだ。近くに停まるや否や、先程まで落ち着きつつある感情を再び取り乱し始めるあかね。バタッ!と勢いよく車から降りると、急いでハジメが乗ったストレッチャーへと駆け寄った。
「五十嵐さん!」
救急外来の看護師や医師たちによって手術室へと運び込まれるストレッチャー。しばらく付き添うようについてきたが、二人の間を引き裂くようにドアが閉まる手術中と赤いランプが点灯...その場で力が抜けるように座り込んで見上げるように見るあかね。
少し離れた位置からその姿を見ていた奥山だったが、後ろから人の気配を感じてチラリと目を向ける...池田だ。ゆっくりとした足取りで歩み寄ってきた。
「池田さん...」
「とりあえず、出来ることはやった。助かるかどうかは神のみぞ知る...だ」
そう言っていると二人の目線はあかねの方へと向けられる。感情を爆発させて再び大泣きしてる彼女を見ていると少し間を空けるようにして池田から「なあ」と奥山の方へ話しかけた。
「あの二人、お前からは友達って聞いたが...」
「まあ...ただ、傍から見るとよく言う友達以上恋人未満ってやつが正しいかも」
「なるほどな...にしても、2年前にもいたよな。五十嵐ハジメとそういう関係性を持つ女」
池田の確認するような聞き方に「確かに」と答える奥山。手術室の前で泣きじゃくる女性がいるという重苦しい状況が続く...病院中に響きそうな泣き声に神妙な面持ちになりつつも「池田さん」と呼んでこんなことを問いかけた。
「もし、ハジメのヤツが無事だったとして...あの二人、上手く恋愛出来ると思います?」
奥山の問いかけに腕を組みながらも「さあな」と答える池田。が、それだけで済ませるのもつまらないと思ったのか少し残念そうにしながらもこう自分の見解を述べた。
「俺は恋愛の達人ってわけでもないから100%こうとは言えないが...経験上、上手くいかない気がするな」
「...理由は?」
奥山の問いかけに対して人差し指と中指を立てるように見せて「2つある」と言ってからゆっくりと語り始めた。
「一つは身分の差だ。五十嵐くんがただの一般人なのに対し、あかねくんは第一線を駆け抜ける一流女優の一人だ。二人の間で上手くいっても、世間が認めてはくれないだろう」
「なるほど。それで...もう一つは?」
奥山の問いかけに対してコレはあまり言いたくなかったと言わないばかりに躊躇いの表情を見せる池田。しかし、答えないわけにもいけないと思えば間を空けるようにしてから答えた。
「...二人とも、本人を見ているようで見ていない。実際に見ているのは背後にいる影のようなものだ」
「その影っていうのは...?」
確認するように繰り返し問いかける奥山。ここで否定しない限り、彼も同じ意見なのだろう...内心そう思いながらも池田は仕方なしに語り続けた。
「黒川あかねは五十嵐ハジメに対して星野アクアの影を。そして、五十嵐ハジメは...黒川あかねに対して斎藤真奈美という人物の影を見ている。それぞれが本人を見ていない...いや、心境的に見れないのだろう。悪い言い方をすると...」
「本人がいないから代わりになる者で代用してる...と」
そうこう会話していると奥から神妙な面持ちをした看護師が現れた...手にバインダーのようなものを持って手術室の前で座り込むあかねの方へと歩み寄るとしゃがみ込むようにして目線を合わせれば、恐る恐る話し始めた。
「....輸血用の血液が足りていません。ご協力頂けませんか?」
「は、はい...!」
せめてここだけでも助けて上げたい...!その思いからハッキリと答えるあかね。その思いが通じたのか、看護師曰く彼の血液型はAB型だそうだ...あかねの血液型もAB型。運命的な何かを感じながらも別室で検査を受ける...が、しばらくして彼女に残酷な結果が言い渡された。
「血液型、不適...合?」
最後の交差適合試験で引っ掛かったのだ。これであかねの血液は輸血できないと判明した...彼に救われたのに、救うことが出来ない。絶望に打ちひしがれながらもただ立ち尽くすことしか出来なかった。
·
―数時間後、病室
個室の角部屋に移されたハジメ...
あかねが輸血出来なかったものの、スパイラルのメンバーたちに助けられて何とか事なきを得たようだ。だが、意識自体はまだ戻ってない...付き添うように用意されたパイプ椅子に座っていると一人の白衣を着た男が入ってきた...
アラフォーに差し掛かったぐらいだろうが、年齢の割にやや彫りが深めの顔。少し疲労からか窶れた感じの目の目元はクマのような物がある。さっぱりと短めに切った黒髪...
恐らく彼の執刀医だろう。胸ポケットに"北条 凛"と書かれた名札が目に入った時に彼はあかねの方を見て語り始めた。
「見ての通り、手術は成功した。そのうち起きるだろうが、いつ起きるまでかは俺には分からない...日が昇るまでに起きるかもしれないし、2〜3週間起きない可能性もある。とりあえず気長に見てやることだ」
そう説明する凛はそれだけ伝えて病室を出ていった...次の仕事があるのだろう。あかねは立ち上がって「ありがとうございます...!」と頭を下げて彼を見送ると再び椅子に座って意識がないハジメを見つめた。
「五十嵐さん、私...ずっとここに居ますから」
それから時間が過ぎに過ぎた...時々強烈な眠気にも襲われるも、寝ている間に彼が起きたらダメだと必死に堪えていく。
そして、ふと外を見ると薄らと日の光が差し込み始めていた。
スマホで時間を確認するともう少しで朝の6時を迎える頃だ。
そんな時、ガチャッとドアを開けて誰かが入ってきた。奥山だ。
「おはよう、って...あかねちゃん、まだ居たのか」
「おはようございます、奥山さん。何だか離れるの申し訳なくて...」
寝不足ながらもずっと張り付いている彼女を見て「まるで忠犬ハチ公だな」と冗談交じりに苦笑いする奥山。しかし、いまだ起きないハジメの様子を見て深刻そうな表情で小さく息を吐いた。
「起きそうにないな...」
「はい...」
しばらく黙り込むようにして起きないハジメを見ていた二人だったが、沈黙を一番最初に破ったのは奥山だった。「なあ、あかねちゃん」と切り出しつつも目をあかねの方に向けてこんなことを問いかけてきた。
「コイツの過去について...知ってるか?」
「いえ、詳しくは...誰か身近な人が亡くなったというのは分かりますが、あまり詮索しすぎるのも流石に申し訳ないですし...」
「...詳しく知りたい?」
唐突な問いかけにキョトンとした表情で「えっ...?」と言葉を漏らすあかね。だが、直ぐに「大丈夫です」と断った時に奥山はそこから続けて確認するように問いかけた。
「もし、断った理由がコイツに"申し訳ない"とかそういうのだったら遠慮しなくていい。理由は俺があかねちゃんの過去をコイツに話したからだ...両方に話さないと流石に不平等だろ。もし怒られそうになったら...俺から聞いたって言っておけ。納得するだろうからな」
そう言われて少し考え込むように間を空けるあかね...何だか開けてはいけないパンドラの箱を開けるような気分だ。だが、知りたい...その欲から小さく頷いて「...教えて下さい、お願いします」と頼む。すると、奥山は窓越しに見える景色を遠くを見据えるように眺めながらもゆっくりと語り始めた。
「...あれは5年前か。
うちの店がオープンして間もない頃、アイツは一人の女の子を引き連れて店にやってきた。女の子の名前は斎藤真奈美...ヤツの2個下で同じ高校の出身だったそうだ。乗っていたのは白のトヨタ86GT、前期型で当時はまだドノーマルだった」
「真奈美さん...どんな人でしたか?」
「スゴい可愛かったよ。ただ、あかねちゃんみたいな清楚系じゃなくて、どちらかって言うと小悪魔系な感じか...東京で歩いてるときに何度か芸能プロダクションからスカウトされたって話を聞いたが....その話も素直に納得できるようなレベルの子。人を惹きつけるような天性的な魅力があった」
若干懐かしそうな表情浮かべる奥山...
この昔話は傍観者の一人であった彼にとっても心地の良いものだったのだろう。耳を傾け続けながらも聞いているあかねに対して彼は引き続き語り続けた。
「彼女とハジメとの関係は今のあかねちゃんとの関係にそっくり...というか、ほぼ一緒だった。ハジメが走りの師匠として技術を教え、真奈美は弟子としてそれを学ぶ...走りのレベルに応じてステージも変わった。最初は潰れた旅館の駐車場、次第にサーキットや峠...ドノーマルだった86もホイール、車高調、デフ....給気系に加えてタコ足からマフラーまでエキゾースト系は手を入れられ、終いには現車合わせでコンピューターも組んだ。NAのままで出来ることはもうボアアップぐらいしかなかっただろうな」
「...やっぱり速かったんですか、真奈美さんって」
「ああ。速かった...才能もあったが、見かけによらず努力家だったんだ。二人で富士の走行会に顔を出してるのもしょっちゅう見たよ...ハジメの白いNSXが先行し、そのラインをなぞるようにして真奈美の白い86が後追いで走る。たまにハジメのNSXの助手席に真奈美が乗り、逆に真奈美の86の助手席にハジメが乗ることもあった。白いNSXに白い86...裏で"ホワイトツインズ"なんて愛称で呼ばれてたよ」
「富士スピードウェイってかなりレベルが高いイメージがありましたが...そこでそう呼ばれるなんて相当凄かったんですね」
あかねの言葉に小さく頷く奥山。しかし、懐かしそうにしていた彼の表情が次第に険しいものへと変わっていく...今までのが前置き、ここから先が本題なのだろう。言うのも覚悟がいるのか、スゥ...と気持ちを整えると再び語り始めた。
「そういう日々が送られて何年か経った頃...今からだと大体2年前ぐらいかな」
·
―2年前、スパイラルの商談室
少し走る前にこの場所で落ち合うことになったハジメと真奈美。
作業が一段落ついた奥山は暇つぶしと休憩も兼ねて中に入ると真奈美はテーブルの上に嬉しそうに1枚の紙を広げていた。
「真奈美ちゃん、それは?」
「これですか?ああ...奥山さんはドリームエンジェルスっていう企画あるの知ってますか?」
ドリームエンジェルス...
女性プロドライバー、佐藤真子が企画した女子プロ育成プロジェクト。選び抜かれた女性ドライバーが何ヶ月かの育成期間を経て、卒業時に有名メーカーとのプロ契約が取り付けられるというサクセスストーリーへ導いてくれる有名な企画だ。奥山が「ああ、知ってるが...」と答えると真奈美は「ふふーん...!」と胸を張りながらもテーブルに広げていた紙を手にとってバッと見せてきた...
その紙はドリームエンジェルスの2次審査通過通知だ。
結果は合格、残るは最終審査のみという状態...このショップの常連から初の女子プロが出るかも知れないという期待から奥山は「おぉ!!」と嬉しそうに声を漏らした。
「やったな、真奈美ちゃん。最終審査通ったらプロまっしぐらだ」
そう褒める奥山に対し、一人は若干冷めたような顔をしていた...ハジメだ。テーブルに置いていた缶コーヒーを一口飲んでから「ふぅ...」と小さく息をつくと彼は自分の意見を述べ始めた。
「真奈美、あまり浮かれるなよ。まだ最終審査も通ってないし、通ったところで今のお前の腕じゃたかが知れてる」
「たかがって..でも、もうちょっとでプロってところまで来たんだよ?少しぐらい褒めてくれても....」
真奈美の言葉に対してあまり動じずにコンッと音を立てるように缶コーヒーを置くハジメ。ハァ...とため息をつくと呆れた様子で彼女を見ながらも自分の意見を述べた。
「プロになったところで食っていけるやつなんてほんの一握りだ。バイトなんかいくつも兼業しながらやってるやつもいくらでもいる...それが嫌になって辞めたやつも知ってる。あまり夢持ちすぎるなよ、お前が思ってるよりも渋いぞ。この業界」
自分の師匠ではあるが、現役のプロからも言葉に神妙な面持ちになる真奈美...少しグッと胸に何かが突き刺さるような感覚になりながらも、反論しようとするもそれを防ぐようにハジメが言葉を被せてきた。
「今のお前じゃ、行き詰まってドライバーとして野垂れ死にするのが目に見えている。下手くそだしな」
「そんな、でも...走行会とかでも褒められたりするときあるし...!」
「それは御世辞で言ってるか、あるいは褒めてるやつも下手くそなんだろう。あまり真に受けるなよ」
ハジメの言葉に手をグッ握って震わせる真奈美...そのまま少し立ち尽くすと「ちょっと走ってきます」と言い残して商談室から出ていった。特に追うこともなく落ち着いた様子のハジメに対し、奥山は「ハァ...」とため息をついてから彼に注意した。
「現役プロの意地で言ったにしては、言い過ぎなんじゃないか?」
「良いんですよ、あれぐらい鞭を与えた方が伸びるんです。アイツ...」
そう言いながらも商談室の窓越しに86に乗り込む真奈美の姿を見るハジメ...特に追おうともなんともしない。
が、この時...彼は知らなかった。
これが最後に見る彼女の姿になろうとは。
·
―現在、病室
斎藤真奈美の話を続けていた奥山だったが、ショップから彼女が姿を消したところで躊躇うように話を止めてしまう。そんな彼の心境が気になるところだが、ここから先の事がどうしても気になったあかね...様子を伺うようにしながらも恐る恐る聞くことにした。
「それで...真奈美さんはどうなったのですか?」
いい結果ではないのは分かるが、中途半端では前に進めない...
単刀直入に問いかけてきたあかねに対して奥山はスマホを手にし、二年前に起きたあるネットニュースを見せる...
それはターンパイクでの事故のニュースだった。
「この記事に書いてある死亡した21歳の女子大生が彼女だ...偶然一緒に走ってた連中曰く、ターンパイク以外にも色々な場所を走ってたみたいだ。その日の間に闇雲に色んな峠を攻めるように走った挙げ句、最後に走ったのがこの場所...ブレーキが完全にフェードし、ガードレールを突き破ってそのまま谷底に落ちたらしい。車は谷底で木に刺さったような状態で見つかり、即死だったそうだ」
話の結末を語り終えて外を見る奥山...空は雨こそは降っていないものの、光を一切遮るように曇っていた。まるでこの結末に対するハジメの感情を表現してるなどと内心思いながらも見つめていると、沈黙を破るようにあかねがこう問いかけてきた。
「その...聞きづらいのですが、五十嵐さんと真奈美さんはやっぱり付き合ってたりとか...?」
あかねの言葉に対して奥山は意外にも「いや...」と首を横に振るようにして答える。ただ、そこから付け加えられた言葉は更に残酷なものだった。
「よく言う友達以上恋人未満の関係...ただ、間違いなく両思いだった。当時、二人から裏でチラホラとそういう話を直接聞いたしな」
「じゃあ...どうして付き合わなかったのですか?」
あかねの問いかけに黙り込む奥山。確認するように寝たきりのハジメの方に目を向けるとはぁ...と小さく息をついてからこう答えた。
「さあ...ただ、ハジメの方がそうした理由は何となく分かる。
一番楽で過ごしやすかった関係性、それが恋人同士という距離感になって崩れるのが怖かったんだろう」
あかねの問いかけに対してしっかり受け答えした奥山。今度は彼の方からあかねに質問があると、目を向けながらも逆に問いかけ始めた。
「コイツがあかねちゃんにどういうことを教えてるのかまでは知らないが...今のを聞いて何か引っ掛かるようなこと言ってなかったか?」
寝不足ながらも考えてみると、引っ掛かるようなことは直ぐに頭の中に浮かび上がった。
"1割以上の安全マージンの確保"
"箱根ターンパイクは走らないこと"
すぐに気づいたような表情を浮かべるのを見て色々と察した奥山はあえてそれ以上は聞かなかった...
·
―モノクロの世界。
自分の身体だけは色があり、それ以外はモノクロの状態。
ここはどこだろう...?
そう辺りを見回すと事務所のような場所だと判明。
二人の男と一人の女が居るのが見える。
それを見てそこがどこだか分かると必死に呼び掛けた...が、向こうには何も聞こえない。
やがて、女の方が立ち上がって自身の車の方へと行ってしまった....
行かないでくれ。
そう必死に呼び掛け、手を伸ばすも向こうは全然気づいてくれない。そのまま車に乗り込もうとするのを止めようと駆け出すと、場面が切り替わった。
今度は広い駐車場...大観山の展望台だろうか。
1台の車がポツンと止まっている...さっき女が乗り込んだ車だ。
必死に駆け寄り、ドアを開けると世界の色が変わり始めた。
車内からは大量の血が溢れ出て、ダラダラと周囲を赤色に染めていく...
呆然と立ち尽くしていると車内から血で出来た腕が伸びてきて此方の首を絞めてきた。
「アンタが殺した」
「アンタのせいだ」
「アンタが悪いんだ」
色んな人物のそんな声が何度も耳に飛び込んでくる...
藻掻いて逃れようとするも、全然ビクともしない。
やめろ、それ以上は....
やがて抵抗する力も無くなり、視界がボヤケてきた。
視界が見えなくなる直前、追い打ちを掛けるように最後の一言が耳に飛び込んできた。
「"逃げることはできない"」
·
―病室
意識が遠退いたかと思った時に目の前に見えたのは白い天井。
それと共に首を絞められたような感覚の反動からか一気に吐き気がハジメに襲い掛かってきた。
誰もいないと思い込み、口を押さえては部屋中に響き渡るようにえずく。すると、隣から心配するように誰かが背中を擦ってきた...落ち着いたところで目を向けるとそこにはあかねの姿が。
寝ていないのか、いつもより表情が疲れている。
心配そうに顔を覗かせながらもペットボトルに入ったミネラルウォーターを差し出してきた。
「大丈夫...ですか?お水、ありますけど」
「っ...あぁ、悪い」
青褪めた顔でミネラルウォーターを受け取るハジメ。蓋を開けて何口かゴクゴクと飲み終えると呼吸を整えてから辺りを見回す...
「ここは?」
「病院です。傷口が開くといけないので安静にしてて下さい...」
そうか、そう言えばナイフで刺されたっけな...
そう思いながらも気持ちの整理をさせていくとあかねの方が恐る恐る問いかけてきた。
「五十嵐さん、今のパニック発作...ですよね?」
「そんな大層なもんじゃないさ。最近見てなかった悪い夢を久々に見たってだけ...それにパニック発作って起きてる時に出るものだろ?」
「いや、睡眠時パニック発作というものもあります...私も私の身近にいた人も一時期パニック発作が起きてた時期があるので分かるんです...基本的に何かしらのトリガーみたいなものが働いてそれで起きるのですが」
それを聞いて何となくそのトリガーのようなものは自分でも理解してるのか、特に考える素振りも見せないハジメ。答えようともしない...が、あかねには直ぐに見抜かれてしまった。
「真奈美さんのこと...ですか?」
「っ、調べたのか....?」
「いえ...奥山さんからお聞きしました」
あかねの答え方に特に怒るような素振りを見せずに「そうか...」と答えるハジメ。雲が無くなり、夕焼け色に染まる景色を眺めるように見ながらゆっくりと語り始めた。
「寝る直前にアイツのことを考えると起きるんだ...全く、やっと治ったかと思えば全然治ってないな」
自嘲染みた笑みを浮かべながらもそう呟いているとあることが脳裏に浮かんだ...店のことだ。
「っ、やば..!今日、店の営業日...!」
咄嗟に動こうとすると腹部をズキィン!と強烈な痛みが襲い掛かってきた。ギャグ漫画のように「アデデデ...!!」と腹部を押さえるとあかねが気を使って安静な態勢に戻してくれた。
「お店のことは大丈夫です....バイトの子にお店しばらく閉めるように電話で連絡したので」
「バイトの子って...お前、大丈夫か?お前の立場で伝えるのって...」
「私を誰だと思ってますか?女優ですよ、看護師に成り済して伝えました」
さらっと答えてはくれたが、あかねの演技力の高さが分かる一言...やっぱりこの娘はスゴい。
が、それと同時に姫川のあるフレーズが脳裏に浮かび上がってきた。
ただの一般人というフレーズだ...
やっぱり自分とこの娘は身分がかけ離れている。
内心そう距離感を感じてしまっていると、もう一つ疑問が浮かび上がってきた。
「あかね、仕事はいいのか?」
「大丈夫です。事務所には連絡して1週間お休みをいただいたので....」
ストーカー被害に遭ったとようやく認識したのか、しっかりとしたメンタル配慮をしてくれた事務所の動きにホッと胸を撫で下ろすハジメ。ふとスマホを手にとって見るとあかねのストーカー関連のニュースで埋め尽くされていた...が、どの記事も自分に関することは一切書かれていない。やっぱり、ただの一般人がそれに巻き込まれたって書いたところでたかが知れてるのだろう...
そんな中、あかねの口からこんな不安が出てきた...
「私、演技続けられる自信がなくなりました...また同じ目に遭わないっていう保証もありませんし...」
自身も殺されかけた上に周りに迷惑を掛けてしまった...その配慮と優しさ、恐怖から溢れた一言。彼女ほどの逸材がここで途絶えてしまうのも勿体ないと、ハジメは「あかね」と彼女を呼ぶとスマホを操作してあるものを見せる。
有料サブスク動画の視聴履歴だ...
履歴はあかねが出演したドラマ、舞台、バラエティで埋め尽くされていた。
「え、コレって....!?」
「...配信されてるのは全部観た。東京ブレイド舞台とかかなり良かったよ。俺、原作読んでたけどまんま鞘姫のイメージそのままで驚いたよ」
ハジメの言葉に少し嬉し恥ずかしそうに頬を赤らめながらも「あ、ありがとうございます...」と答える彼女。そんな彼女の背中を押そうとハジメは更に一言付け加えた。
「あかねの演技は見てる人を惹きつけるものがある...女優辞めるなんて言うなよ。俺みたいな一般人が応援してやるからさ」
嬉しそうに大きく頷いて見せたあかね。だが、少し間を空けるようにしてこんな事を聞いてきた。
「五十嵐さんは...どうなんですか?」
「どう、って?」
「また...走らないんですか?プロとして」
あかねの言葉に「そうだな...」と溜めるように返しながらもどう答えようか悩むハジメ。そこから少し間を空けるようにしてから窓越しに見える夕焼け色の空を眺めるようにして誤魔化すようにこう答えた。
「まずはこの怪我治さないとな、答えはそこからだ」
イマイチ答え方に納得がいかないあかね。そんな彼女が言及する前にハジメもそこから話を逸らそうと試みた。
「にしても、悪いな。この身体じゃ...ドラテク教えようにも教えられない」
「いえ、いいんです...それに私を庇ってそうなってしまったので、謝るのは私の方です。ごめんなさい」
そうこうやり取りしてると手に書類を持った状態の誰かが入ってきた...執刀医だった北条凛だ。入ってくると少しホッとしたような表情をハジメに対して向けるも、彼はよく分かっていない様子...それも仕方ないと再び自己紹介が始まった。
「キミの主治医兼執刀医の北条凛だ」
「五十嵐ハジメ...です。ありがとうございます、えっと...何と言えばいいのか」
何を話せばいいか分からないハジメに対し、苦笑いの笑みを浮かべる凛。持っていた資料を渡すと今後のスケジュールについて話し始めた。
「とりあえず、しばらくの間は入院だ...安静にして欲しい。傷が再び開く可能性がある。それから様子を見て問題なければ抜糸を行う...傷が傷だから一カ月は見た方がいいかもしれないな」
·
―モノクロの世界
街中の陸橋の上。
自分の身体だけ色があり、他はモノクロ...
飛び降りようとすると後ろから力強く抱き締められた。
暖かい...優しく自分を包みこんでくれるその存在に目を向けようとすると泡になっていく。
「っ、まって...!」
手を必死に伸ばすも完全に消えてしまった。
場面は変わって山沿いの道路のような場所...
目の前にナイフを持った大きな黒い影が現れた。
勢いよくコチラに走り込んできたかと思えば、間に誰かが庇うように割り込んで来た。
一気に血の赤色に染められて消えてしまうのを見ることしか出来ない自分に嫌気が差し、思わずその場で力を無くすように膝をつくとモノクロの世界は黒一色へと変貌していった。
自分一人しかいない...孤独から絶望感が身体を覆い尽くすような感覚に見舞われてしまうと、後ろから聞き覚えのある女性の声が追い打ちを駆けるように聞こえてきた。
"結局アンタは一人。
アンタに近づくと皆死ぬ。幸せになんてなれない"
·
―黒川あかね、自室
急に出てきた夢に急に胸が苦しくなるような感覚に襲われるあかね。過呼吸になりながらも起き、ハァ...ハァ...と何度も呼吸を繰り返して落ち着いたところで辺りを見回すと、ハジメの付き添いでほとんど寝てなくて爆睡したんだということを思い出す...
にしても、直前に見た夢は恐らくパニック発作の一種...思わず一人で自嘲染みた笑みを浮かべてしまった。
「私も...人のこと言えないなぁ」
そう呟きながらもテーブルの上に置いてあったデジタル時計で時刻を確認....朝の3時だ。記憶が正しければシャワーを浴びた後に部屋に戻った19時ぐらいから記憶がないので、そこから今に至るまでずっと寝ていたのだろう。それにしても中途半端な時間...何をしようかと内心悩みながらもとりあえず、喉の渇きを潤そうと冷蔵庫から買い溜めしていたペットボトルの水を手に取り、グラスに注いでゆっくりと飲んでいく...
生き返るような感覚。ふぅー...と安心するように小さく息をつくと、次はスマホを手にとって通知確認。
ストーカー被害を心配するような通知で埋め尽くされている。
中でも21時ぐらいに来ていたものは特に印象に残る様なもの...今ガチで共演していた鷲見ゆきからのメッセージだ。
"あかね、大丈夫!?
もし不安とか悩みあったら聞いてあげるから!!"
あざといながらも友人思いな彼女からの久々のメッセージに思わず懐かしそうに笑みを浮かべるあかね。この時間に返信するのも申し訳ないし、また時間をずらして返信しようと思いながらも他のメッセージに目を通すと他の心配するようなメッセージとは一際違うような内容のメッセージがあった。ハジメからだ...同じように21時頃に受信されたものだ。
"はやく寝ろよー。夜更かしはお肌の敵だぞー"
周りと比べて明らかに緩い感じの心配の思わずプスッと小さく笑ってしまうと「もう寝てますよっ」と小さくツッコミながらもスマホをしまう。しかし、ここから寝ようにも寝られない...
「もう一回、シャワー浴びよっかな...」
そう呟きながらもゆっくりとシャワー室に移動しようとした時、ふと外の景色が視界に入ってきた....自分のBRZが駐車場で寂しく停められていた。ハジメの指導がしばらくないと考えるとソロでの練習になる...正直、何をどうすればいいかも分からないためモチベーションも以前よりか低いと自分でも感じている。ワクワクしてた日常の一部が切り取られた気分だ...
「私、どうしたらいいんだろう...?」
·
―朝、病室
外は快晴。雲一つない...
ボーッと暇そうに窓越しの景色を眺めていたハジメだったが、コンコンとノックされると共にドアを見ると磨りガラス越しに人影を確認...誰か分かれば「どーぞ」と一声掛けて招き入れる...
訪ねてきたのは池田竜次だ。
「お久しぶりです、池田さん。先日はありがとうございました」
「いやいや...どうだ、体調の方は?」
「お陰様ですこぶる良好です。でも、まあ...不満なところがあるとすれば病院食がクソマズいってことぐらいです」
冗談交じりにそう答えると「そうか、そうか」と釣られるように笑みを浮かべながらも横にあった来客用の椅子に座る池田。「それで...」と話を仕切り直すようにしてから神妙な面持ちで本題に入ることにした。
「仮にも小田原市の市議である俺を仕事の合間に縫わせるような形で呼び出したわけだが...どういう話をするつもりなんだ?」
池田の問いかけに真剣な表情を見せるハジメ。彼も時間がないからここは手短に...と単刀直入に伝えることにした。
「市議としての貴方ではなく、ゼロアカデミーの主宰の貴方にお願いがあります。黒川あかねを...指導して頂けないでしょうか?」
意外な頼み込みに少し驚いたような表情を浮かべる池田。
ゼロアカデミー...
モータースポーツによる人材育成を目的とする団体だ。
本物志向でプロを志すような者から、個人の趣味レベルで楽しむ者まで様々なレベルの男女が通い、メディアでも度々取り上げられている。
腕を組んで考え込むようにする彼の背中を押そうとハジメはもう一押しすることにした。
「アカデミーの会費は俺が払います。ダメですか?」
「いや、そういうことではなくてな...そんなに彼女に入れ込む理由が知りたい。キミも知っているだろうが...ウチは比較的安価で運営してるとは言え、そうポンと出せるような金額じゃない。況してや自分自身のためではなく、赤の他人のためだ...」
池田の言葉を聞くと"自分でも呆れてる"と言わないばかりの表情で天井を仰ぐように見始めるハジメ。そして、そっと瞳を閉じると小さく微笑むようにしながらその理由を答えた。
「アイツ、走ってる時なんか楽しそうなんですよ。多分、プライベートの時に一番楽しそうにしてるのは走ってる時だと思います...その時間を奪ってはいけない。そう思ったんです。それに...」
何かを付け加えようとしてきたハジメ。その内容を催促しようと池田が「それに?」と問いかけると彼は少し間を空けるようにしてから答えた。
「....才能ありますよ、アイツ。ただ、今回の件は俺から頼まれてやったってことは言わないで下さい。また変に自分の気持ち押さえられてもアレなので....」
·
―病院の廊下
しばらくハジメと話し合って病室から出た時にちょうどサングラスなどで軽く変装したあかねと遭遇。
水色のシャツをアウター代わりに使うように前のボタンを全て開けていて、その中に白のトップス。スカートも白で合わせてある...見るからに気合いが入ってそうな感じだ。
「お、おはようございます...!」
まさか池田と鉢合わせることになるとは思わず、ヒッ...!となりながらも挨拶すると彼も「おはよう」と返す。この際なので先程の件をナチュラルな形で切り出そうと話し始めた。
「あかねくん、奥山のヤツから聞いたが...キミはBRZに乗ってるそうだな」
「あ、はい...!と言っても、乗ってるだけでそれほど上手くはないのですが...」
「ほお。そうか、そうか。なんか今不満に思ってることとかはないか?車に関してでもいいし、自分の腕に関してでもいい」
池田の問いかけにあかねは自分の顎を軽く持つようにして軽く首を傾げながらも「うーん...」と小さく唸って考えてから答えた。
「やっぱり、パワー...ですかね。私の腕が未熟なのもありますが」
「ほほう、そうなると...近々ターボ化するのかな?」
そうなったらこうだろう?と言わないばかりにニヤリと笑みを浮かべる池田。しかし、それに対して意外にもあかねは首を横に振っては「いいえ..」とそれを否定。そこから自分がやるべきこととやりたいことを言い並べた。
「今、デフを組む為に奥山さんのお店にあの娘は預けてあるのですが...まずはそのデフを組んだ状態で試しに走らせて。そこから次にやることの順番を考えようかなって」
「順番...ということは、やることは決まってると?」
「はい、クロスミッションと等長エキマニ、触媒、フロントパイプのような排気系統...これらは順番を決めてませんが、そこから最後に現車セッティングですね。あと剛性に不安があれば補強用のタワーバーやロワアームバーも入れようかなって」
地盤を固めて最後にポンと決めるスタイル...チューニングのバランスの取り方としては最適解とも言える。しかし、ターボ化しないという言葉がイマイチ引っ掛かる。
BRZの心臓であるエンジンはFA20。
水平対向4気筒、排気量2.0リッターNA(自然吸気)でカタログ値は200馬力と表記されているが、実測180馬力もないと言われている。エンジンパワーはスポーツカーとして見るにはかったるいという意見が多い。そんなことからチューニング時のターボ化はほぼ当たり前とも言える...
街乗りのみなら燃費の悪化などの懸念があるため、やらないのも分かる。だが...スポーツ走行をしてるのにやらないどころか、やろうという願望がないことに池田は理解出来ないような表情を見せていた。
「キミがターボ化しない理由はなんだ?ターボラグの懸念か?それとも、エンジンの負荷が増えることを考えてなのか?」
池田の確認するような問いかけに「それもありますが...」と言いながらもある方向に顔を向けるあかね。その行き先を辿るように池田が目を向けると、そこにはドアの窓越しに見えるハジメの姿が。
「あの人がいるから、です」
ハジメのNSXの心臓であるエンジンはC30A。
V型6気筒、排気量は3.0リッターNA。ホンダの可変バルブシステム、VTECの採用によりカタログ値は90年代の馬力規制の限界である280馬力。フルノーマル時の実測でも270馬力ぐらいは出ている。彼もずっとノンターボで走らせている上、現行モデルの格上の車相手をもねじ伏せている。
だが、あくまでもそれは彼の腕がいいからの話。
「でも...」とそれを伝えようとする池田だったが、あかねは彼が話す前に小さく笑みを浮かべながらも「分かってます」と言ってから自分の意見を述べた。
「あの人がノンターボで頑張ってるので、それでがんばりたいなって。私、あの人の車...大好きなんです。音も走り方も。なんか感性に訴えかけてくるような魅力のようなものがあるんです。もちろん...彼のような車に仕上げることは出来ないですし、追いつくなんて到底無理だろうけど。ずっと後ろを追いたい...そんな気分にさせられます」
この時、池田の脳裏にある人物が浮かび上がった...斎藤真奈美だ。
彼女の86GTもずっとNAだった。
彼女の時は今ほどプライベーターで86/BRZのターボ化が普及してなかったからと思っていたが、もしかしたら同じように拘りがあったのかもしれない。
色々と考えているとそんな魅了された側の人間のことをもっと知りたいと気になってしまった。
「あかねくん。キミは技術をもっと学べる場があるとしたら、どうしたい?」
「それはもちろん学んでみたいです。あの人の背中をもっと追えると思うので...」
話していてよく分かった...
黒川あかねはドライビングに対して自分自身の軸のようなものはない。だが、持っていない代わりに五十嵐ハジメという他人を基軸にして自分を仕上げている。天性の才能だろうか...まあ、いい。この流れだと自然な形で誘えそうだ。
「キミが良ければ、ウチのアカデミーで学んでみないか?五十嵐くんがあの調子では練習しようにも出来ないだろう」
·
―しばらくして
池田は病院の屋上の手摺りに前から凭れ掛かるようにして空を仰いでいた。何だかもどかしい気分だ...
「(何が走ってる時に楽しそうにしてる、だ。あまりにも言葉足らずだ。彼女が楽しいと思う本質的な部分はキミに教わり、キミと一緒に走ることだ。鈍いんだかなんだかな...)」
互いに思いはあるが、過去の足枷で踏み出せない...傍から見ても分かる距離感に「はぁ...」と思わずため息をついていると後ろから誰か近づくような足音が聞こえてきた。姿勢を直してゆっくりと振り向くとそこには白衣を着た北条凛の姿が....
「久しぶりだな、池田」
「そうだな...お前と会うのはプロジェクトDの最終戦以来か」
白衣のポケットに両手を突っ込んだ状態で横に並ぶようにして立ってくる凛。チラリと池田に目を向けるようにしては鼻で笑うようにしてきた。
「小田原市の市議ともあろうヤツが何か悩んでるようだな」
「まあ、な。と言っても...俺のことじゃない」
「ほう...話を聞かせてもらおうか」
興味深そうに聞いてきた凛に対して今にもため息をつきそうな表情で語り始める池田。五十嵐ハジメと黒川あかねの一般人と一流身分の差...そして、今になっても背負っている過去の事まで。それを聞いた凛は意外にもフフッと小さく笑うようにしていた。
「いい歳したオッサンが若者二人の恋愛の行く先が気になると?」
「わ、悪かったな...!なんか見てるだけでツラくなるんだよ、あの二人」
凛の茶化すようなツッコミに目を逸らしながらも腕を組む池田。そんな彼をあまり突っつくのも無礼だと気を取り直すように「にしても...」と神妙な面持ちで切り出した。
「スーパーGTのGT500クラスの次期ドライバー候補になったこともあろうやつがあそこまで落ちぶれるとはな。今はただのパン屋か」
「ああ。奥山曰く、パンを作るの自体は元々趣味でやっていて真奈美くんにも配ってたそうだ...詳しくは分からないが、パン屋をやってるのも彼なりの弔いなのかもしれないな」
池田の言葉を軽く目を閉じるように聞くと小さく笑みを浮かべる凛。「何がおかしい?」と問いかけると彼はゆっくりと笑みを浮かべた理由について答えた。
「相変わらず理屈っぽいな、池田。実家の寺を継いだこともあって線香臭さが増してるぞ」
「なっ...!?」
再び目を逸らす池田。それに対し、凛は再び真剣な表情に変わると共に空を軽く仰ぐようにして自分の意見を語り始めた。
「身分がどうとかはどうしようもしてやれないが、過去との分別はどうにか治せそうだ。万能な抗生物質とまではいかないが、そこらの市販薬よりかは効くだろう...セカンドオピニオンは俺に任せておけ」
背中を見せて立ち去ろうとする凛の言葉にフッと小さく笑う池田。ニヤリと笑みを浮かべながらも彼の背中を目で追うようにした。
「抗生物質とか、セカンドオピニオンとか...お前こそ消毒液臭さが増してるぞ」
「悪かったな...だが、俺なら話をつけられる。任せておけ」
【....富士山噴火まで残り1年半】