「楽園の島の魔女」(完結)   作:雄魔雌

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前編
01 壁の中の少女


 父親が調査兵団の分隊長だった。巨人に喰われて死んだらしい。

 

 当時の団長が、シガンシナ区にある家を訪ねてきた日を覚えている。雲ひとつない青空は、高い壁の向こう側にも広がっているようだった。家の中からは母のすすり泣く声が漏れていて、リディアはそれを聞いていられなくて、外でぼんやりと空を眺めていた。

 団長に随行してきた兵士がひとり、リディアの隣に立った。メガネをかけた若い兵士だった。しばらく黙って同じ空を見上げてから、その人は申し訳なさそうに言った。

 

「きみの父親は、私をかばって死んだんだ」

 

 父の身体は、すべて巨人に持っていかれたという。棺に入れるものすら残らなかった。くすんだ色の、ボロボロのブローチがひとつ。それだけが家族に残された形見だった。

 母は生前の父を、よくこう言って笑っていた。

 

「どうしてあの人のマントだけ、いつもあんなにボロボロなのかしら。留め具がすぐに壊れるからって、わざわざブローチでマントを留めているのよ。きっと立体機動が下手なのね」

 

 そのブローチは、母が父に贈ったものだった。飾り気のない、安物の。父はそれを、勲章か何かのように毎日つけて壁の外へ出ていった。

 妻子がいながら調査兵団に残り続ける人間は少ない。ボロボロのブローチでマントを留めた姿も相まって、父は兵団内でも有名な変わり者だったらしい。リディアは、そんな父に無邪気に憧れていた。

 

「壁外調査ではね、行方不明になる兵士も多いんだ」

 

 父は、幼いリディアによくそう話した。

 

「死んだと決まったわけじゃない。巨人に喰われることもなく、どこかで助けを待っている仲間がいるかもしれない。彼らが生きているなら、迎えに行かないと」

「壁の外は、巨人だらけなのに?」

「そうだな。でも、生死がわからないからこそ、探しに行くんだよ。可能性はゼロじゃないだろう?」

 

 迷子を放っておけないのが調査兵団なんだと、父はいつも言っていた。

 

「壁の外には、行方不明のまま生き続けている人たちが、今もさまよっているかもしれない」

「え?」

 

 メガネの兵士が、リディアの独り言に振り向いた。

 

「父が、言っていました。そういう人がいたら、助けに行ってあげたいって。私も……それは正しいことだと思っています」

「そうか。彼は、そんなことを……」

「私、調査兵団に入るつもりです。父が死んだ今でも、気持ちは変わりません」

 

 それまで曖昧な相槌しか返さなかった少女が、急にすらすらと喋り出したからだろう。兵士は目を丸くした。それから何かを考えるように空を見上げ、もう一度リディアを見て、軽く微笑んだ。

 

「きみは……リディアといったね」

「はい。リディア・ノイマンです」

「その歳なら、入るのは南方訓練兵団の第104期になるのかな。卒業するときには、スカウトに行くよ。私と一緒に働いてほしい」

 

 若い兵士の名前は、ハンジ・ゾエといった。

 

 

 団長とハンジが帰った後、リディアは家の中に戻った。母は泣き腫らした顔のまま、震える声でリディアに告げた。

 

「だめよ……調査兵団なんて。兵士なんて……」

 

 見れば、形見のブローチが床の隅に転がっていた。母が投げ捨てたのだろう。リディアは母に気づかれないようにそれを拾い上げ、こっそりとポケットにしまった。

 ついさっき、ハンジに調査兵団に入ると宣言したばかりだった。それなのに、母の泣き顔を見たとたん、それが正しい選択なのかどうか、わからなくなった。ポケットの中のブローチに指先で触れると、父の言葉がよみがえる。

 

(壁の外では、今も誰かが、助けを待っているかもしれない……)

 

 母の悲しむ姿は見たくなかった。

 それなのに、父の言葉を忘れることもできなかった。

 答えの出ないまま、リディアはただ、ポケットの上からブローチを握った。

 

 

 そんな母も、数年後にあっけなくこの世を去った。

 

 845年。超大型巨人が壁の外に現れた、あの日。

 シガンシナ区から船で避難しようとする人の波の中に、リディアと母もいた。門はもう目の前だった。そこに現れたのが――鎧の巨人。

 鎧の巨人が門を突き破るのと、ほとんど同時に母は死んだ。砕けて飛んできた壁の破片が、母の身体を押し潰した。

 あまりにも唐突で、あまりにも一瞬だった。悲鳴すら聞こえなかった。声を出す暇もないくらいの一瞬で、母は死んだのだ。最期に何を思ったのか、娘の名を呼ぼうとしたのかどうかさえ、リディアには永遠にわからない。

 わかっていることは、ひとつだけ。

 あの日のことを思い出そうとするたび、瞼の裏に浮かぶのは母の最期の姿ではなく、いつも決まって、蒸気の向こうに屹立するあの巨体だということ。

 

 巨人。

 鎧の巨人。

 母を殺した巨人――。

 

 

 そして、時は流れた。

 リディアは今、南方訓練兵団第104期生として、同年代の若者たちと整列している。

 教官が目の前で立ち止まる。落ち窪んだ目……どこかで見た顔だと思ったが、どこでだったか思い出すより先に、怒声が飛んだ。

 

「貴様は、何しにここへ来た!」

 

 左胸に拳を添えて、リディアはまっすぐに教官を見返し、答えた。

 

「鎧の巨人を殺すためです」

 

 壁の外で助けを待つ人がいるなら、迎えに行きたい。

 そう思っていたはずの少女の心は、いつの間にか、目先の復讐だけで塗りつぶされていた。

 

 

 鎧の巨人を殺すのだと意気込んで訓練兵になったリディアだったが、肝心の成績は酷いものだった。

 端的に言うと、ドベである。

 

 母を亡くしてからの二年間、開拓地の作業で鍛えた身体にはそれなりの体力こそあったものの、そもそもの運動神経が悪かった。立体機動はまるでダメ、座学はさっぱり、対人格闘訓練にいたっては論外中の論外。調査兵団で分隊長を務めた父の才能をまったく受け継いでいないことだけは、入団二週間で証明された。

 

 時々、父が空の上から自分を見下ろしているような気がして、リディアは息が詰まった。こんな娘を見て、どう思うだろう。それでも、進むしかなかった。どれだけ成績が悪くても、どれだけ馬鹿にされても、彼女に「開拓地に帰る」という選択肢は最初から存在しなかった。

 

 救いもあった。同郷のエレン、アルミン、ミカサという幼馴染三人組との出会いだ。最初に仲良くなったのはエレンだった。シガンシナ区の生き残りで、調査兵団志望。親しくなるのに、これ以上の理由は必要なかった。なにせ巨人だらけの壁の外へ自分から出たがる変わり者なんて、百人を超える同期の中にも数えるほどしかいない。

 訓練は厳しく、成績は相変わらず底を這っていたが、開拓地での日々に比べれば――こんなことを思うのは不謹慎かもしれないが――同年代に囲まれた今の生活は楽しかった。友人と呼べるほど親しい相手はまだ少なかったけれど、リディアは少しだけ、幸せだった。

 

 そんなとき、事件が起きた。

 

 

「それ何ですか?」

 

 夕食の時間。父の形見のブローチを指先で転がしていたリディアに、隣に座っていたサシャが声をかけてきた。

 背中合わせの隣のテーブルでは、すでに食事を終えた男子たちが今日も騒いでいる。ジャンがエレンに喧嘩を売ったらしく、いつ胸ぐらの掴み合いが始まってもおかしくない雲行きだ。

 

「これ? 父の形見。いつもは寮にしまってるんだけど、急に見たくなって」

 

 今日はことさら訓練が辛い日だったから、少しだけ父の存在を感じていたかった。この小さなブローチに触れると、どこか安心する。

 

「そうですか、てっきり木の実か何かかと……非常食ということなら、腐る前に分けていただけないかと思って」

「たっ、食べ物じゃないよ!」

 

 慌ててブローチをサシャの視線から隠し、両手で包み込んだ、その瞬間だった。背後で椅子の倒れる音がして、リディアの背中に衝撃が走った。

 

「おいエレン、ジャン! いい加減にしろ、また教官が来るぞ!」

 

 ライナーだった。喧嘩の仲裁に入ろうと勢いよく立ち上がった拍子に、その大きな身体が、背中合わせに座っていたリディアにぶつかったのだ。

 衝撃で、ブローチが手から滑り落ちた。カラン、と乾いた音を立てて床を転がっていく。よりにもよって、二つのテーブルの間――仲裁に向かうライナーの足元へ。

 

「あっ」

 

 リディアが床のブローチへ手を伸ばした、そのとき。

 ガリッ、と。何かが砕ける耳障りな音が響いた。

 

 目の前にあったはずのブローチが、消えていた。

 そこには、大きな軍靴の足があった。

 

「あ、すまん。何か踏んだか?」

「はっ……」

 

 サシャが顔色を変えた。

 

「あ、あの……足元に……」

 

 リディアは声が出なかった。伸ばした手が、床の上で止まったまま動かない。

 エレンとジャンが喧嘩をやめた。周りの訓練兵たちが「なんだ?」とこちらを見ている。

 ただならぬ空気を感じ取ったライナーがそっと左足を上げると、粉々になったブローチの残骸だけが、そこに残されていた。

 その光景を見た瞬間、リディアは胸の奥が凍りつくのを感じた。

 

「大丈夫ですかっ!?」

 

 サシャが慌ててしゃがみ込み、ブローチの残骸とリディアの顔色を見比べている。リディアは椅子から滑り降りるように床に膝をつくと、散らばった「ブローチだった物」の欠片を、無言で拾い集め始めた。

 

 ──大丈夫だよ。心配しないで。

 そう言いたかった。でも、喉が詰まったように言葉が出てこない。

 

 黙々と欠片を拾う。指先が震えて、小さな破片がうまく掴めない。集めたところで元に戻らないことはわかっている。それでも、拾わずにはいられなかった。床に散らばっているのが、父の記憶そのものであるような気がして。

 

「うわ」

「粉々じゃん」

 

 ひそひそと声が聞こえる。

 エレンとジャンが顔を見合わせ、「お前がつかみかかるから」「いやそっちが」と責任を擦り付け合っているが、その言葉にもう覇気はなく、この居心地の悪い空気を変えるだけの力を持たなかった。

 顔色を失ったライナーが、リディアのそばに片膝をつく。おそるおそる、声をかけてくる。

 

「すまんリディア、それ……」

 

 しばらくの沈黙の後、最初に声を発したのは、別のテーブルのユミルだった。

 

「壊されて困るようなもんなら、しまっとけよ。わざわざ不用意に見せびらかしたりするからそうなるんだ」

 

 床を見つめていたライナーが、ばっと顔を上げてユミルを睨んだ。当のユミルは気にする様子もなく、夕食のスープを口に運んでいる。

 食堂全体が静まり返った。誰に非があるのかを探り合うような、嫌な空気がその場を満たした。

 

「ちょっとユミル! そんな言い方しなくても……リディア、大丈夫?」

 

 見かねたクリスタが駆け寄って、リディアの背中に手を添える。

 視界の端では、どうすればいいのか分からなくなったライナーが、おろおろと周囲の様子をうかがっていた。

 クリスタの気遣いはありがたかった。でも、騒いでいたジャンやエレンに非がないことも、ライナーが悪くないことも、責任が自分にあることも、リディアには全部わかっていた。

 

「ユミルの……言うとおりだから。ライナーも、気にしないで」

 

 正直なところ、誰かを責めたい気持ちが胸の片隅にあった。でも、それは違う。悪いのは自分だ。父の形見を、父と母の思い出の品を、大事にしまっておけなかった自分自身だ。

 

「そういうわけにはいかない。教えてくれ、何が壊れたんだ?」

「いいって。ただのブローチ。でも、今日はちょっと……戻るね」

 

 ライナーが食い下がったが、そのときのリディアには、彼を気遣うだけの余裕がなかった。涙を堪えるのに必死だった。

 誰にも見られたくなかった。弱い自分を、情けない自分を。壊れたのはブローチだけではないような気がしていた。

 欠片を両手の中に集めたリディアは、静かに食堂を出ていった。扉が閉まった後も、重苦しい沈黙だけがその場に残った。

 

 残された訓練兵たちは顔を見合わせ、どうするべきか戸惑っているようだった。

 

「なぁ、俺、何かまずいこと……したんだよな。あれは……」

 

 気まずそうにつぶやいたライナーに、じっと様子を見ていたアニが「親の形見らしいよ」とボソッと言った。ライナーが目を見開く。

 

「……! 俺、もう一回あいつのとこに」

「やめとけって。自分が悪いってあいつも言ってただろ。それに壊れちまったもんは……謝られたってどうしようもねーよ」

 

 腰を浮かせたライナーを、コニーが止めた。

 

「う……」

「その、ライナー。オレらが騒いでたのも悪いし、お前だけが気にすることじゃねーよ。なぁ、ジャン?」

「お、おう、そうだな。リディアには俺たちの方からも謝っとくから、なぁ?」

 

 エレンとジャンが不自然に肩を組みながらライナーをかばったが、それでも食堂の空気は、最後まで晴れることはなかった。

 

 

 消灯前。リディアが誰よりも早く寮のベッドで横になっていると、珍しくアニが話しかけてきた。

 

「……暗すぎて見てられないんだけど」

「気を遣わせてごめん」

「そんなんじゃない。ただ、寝床、隣だし」

 

 アニにそんなことを言われるのは初めてだった。そもそも、アニの方から誰かに話しかけること自体ほとんどないのに。その意外な声に戸惑いながらも、リディアはどこか救われたような気持ちになった。

 

「私は大丈夫。本当に、ユミルの言う通りだから。ここには親がいない人もいれば、形見も残らないまま家族と別れた人だって大勢いる。そんな中で自慢げに見せびらかすなんて、私が無神経だったの。だからこんなことになったんだ」

「私は別にそうは思わないけど」

「ありがとう。でももう、本当に大丈夫だから……」

 

 言葉とは裏腹に、布団に潜り込んだ後は、父の顔を思い出しながら、小さく震える肩を誰にも見せないように夜を過ごした。

 

 明日になれば、いつもの顔で訓練に戻るつもりだった。

 でも今夜だけは、弱いままでいることを自分に許そう。

 形見は物で、物は壊れる。けれど、誓いは物ではない。壊されようがない。

 その誓いを守るために、自分は兵士になるのだから。

 

 

 アニと一番仲が良い訓練兵は自分なのだと、リディアは自負していた。

 訓練兵の中で、アニほど他人と距離を置いている者はいなかった。彼女は常に一歩引いた場所から周りを観察し、必要以上の会話を避けていた。そんな彼女から声をかけられたことは、当時のリディアにとって特別だった。

 ――今思えば、それはリディアが何も知らなかったからこそ成立した関係だったのかもしれないけれど。

 

 二人の最初の会話は、訓練兵になってまだ間もない頃だった。

 

「ねぇ、あんた」

 

 訓練を終えて寮に戻る途中、突然後ろから声をかけられた。振り返ると、いつも無表情なアニが腕を組んで立っていた。

 

「鎧の巨人を殺したいんだって?」

 

 誰に聞いたのか、と一瞬思ったが、訓練初日にそれを大口で宣言したのはリディア自身だったため、知られていて当然だった。

 アニの視線には、いつも他人を値踏みするような冷たさがある。けれどその日、彼女の目に浮かんでいたのは、純粋な好奇心のようにも見えた。

 

「うん、まぁ。変だよね」

 

 慣れた調子で、リディアは先回りした。

 開拓地出身で成績も振るわないリディアは、同期のからかいの的になることが多かった。特に「鎧の巨人を殺す」という無謀な目標を聞いた者は、決まって嘲笑うか、呆れた顔をするのだ。

 

「別に馬鹿にするわけじゃないけど」

 

 しかしアニは笑わなかった。見下す様子もなく、ただ、こう呟いた。

 

「いい趣味してるって思っただけだよ」

 

 リディアは戸惑った。今まで、誰もそんな反応をしなかったからだ。「いい趣味」とは、一体どういう意味だろう。

 用は済んだとばかりに背を向けたアニを、リディアは思わず追いかけた。

 

「ねえ、待って。どうしてそんなこと聞くの?」

 

 アニは足を止め、面倒くさそうに振り返った。

 

「いや。ただ、どっかの誰かさんが似たようなこと言ってたから、気になっただけだよ。それじゃ」

「それエレンのこと? あ、待って、帰らないで! あともうひとつ!」

「はぁ……何か?」

 

 アニは明らかにいら立った様子でため息をついた。

 そこでリディアも、日が暮れかけた訓練場の端で二人きりになっていることに、ようやく気がついた。

 

 実は、今日の対人格闘訓練で、リディアはみじめな思いをしていた。身体がまるで思うように動かなかったのだ。途方に暮れて周りを観察していたとき、目を奪われたのがアニの動きだった。小柄な身体が大柄な男を軽々と投げ飛ばす、まるで舞うような体さばき。

 このままでは訓練についていけない。誰かに助けを求めなければ。そう思った矢先に、あの姿を見た。

 

「あのね、私に……対人格闘技を教えていただけないでしょうか」

「……は?」

 

 だからこそ勇気を出し、考えていたことを口にすると、アニの顔に珍しく驚きが走った。

 誰もが避けて通るアニに、わざわざ自分から近づこうとする者などいなかったのだろう。正直、その冷たい雰囲気にリディアも一瞬だけ怯んだ。でも、この場所で生き残るため、そして目標に少しでも近づくためには、彼女の力が必要だ。

 

「今日、あなたが自分より大きいエレンやライナーを簡単に投げ飛ばしてるのを見て、すごいなって思って。一朝一夕じゃ身につかないよね。ずっと訓練してきたんでしょう?」

 

 アニは再び面倒くさそうな顔に戻り、リディアを見た。

 

「巨人相手に役立つ技術じゃないと思うけど」

「私、格闘技どころか喧嘩の経験もなくて。だからあの訓練も、どう動けばいいのかさっぱり分からなくて……ずっと周りを観察してた。そしたらアニの姿が見えたの」

「人の話聞いてる?」

 

 聞いていなかった。正確には、聞いた上で、譲る気がなかった。

 あの訓練場のアニは、独特の低い構えで立っていた。小柄な身体からは想像もつかない威圧感があって、彼女の周りだけ空気が違って見え、組み合ったエレンが一瞬で地面に叩きつけられる様は残酷なほどに美しかった。

 

「……で?」

 

 アニの声には、明らかな警戒心が混じっていた。腕を組み、一歩引いた位置からリディアを観察している。夕暮れの光が金髪を赤く染めて、その表情をいっそう鋭く見せていた。

 

「私、アニの動きや身のこなしが好き。格闘技もそうだけど、立体機動の動き方も」

 

 言いながら、リディアは先日の立体機動訓練を思い出していた。多くの訓練兵が力任せに飛び回る中、アニだけは無駄のない軌道で、空気を切り裂くように進んでいた。

 

「だから、アニに教わりたい」

 

 アニは片眉を上げ、困惑したように視線を外した。誰かに真正面から褒められることも、頼られることも、慣れていないのだろう。

 

「ミカサに頼みなよ。同郷なんだろ」

「あなたがいいの」

 

 アニの声には薄い苛立ちが混じっていた。確かにミカサの実力は群を抜いているが、それでもリディアはアニに教わりたかった。

 リディアが更に一歩近づくと、アニはわずかに身体を引いたが、その場から逃げはしなかった。

 

「私、アニの動き方が好きだから」

「……なんなの?」

 

 その声は小さく、あからさまな戸惑いが混じっていた。普段の冷たさが、少しだけ溶けたように感じる。

 ここが勝負どころだと思い、リディアは最後の切り札を出した。

 

「それに、ほら。人に教えることが、本人の一番の上達に繋がるって言うでしょ?」

 

 これは教官の受け売りだった。教えることで自分の技術も整理され、より洗練される、という理屈だ。アニはその言葉に、少し考え込むような顔になった。

 

「……」

 

 沈黙は長かった。

 空には夕焼けが広がり、食堂の方から他の訓練兵たちの賑やかな声が遠く聞こえてくる。二人だけが、この場所に取り残されているかのようだった。

 

「駄目かな。やっぱり」

 

 リディアは肩を落とした。アニに近づこうという試み自体が、無謀だったのかもしれない。

 ところが、その弱気なひと言が、かえってアニの決断を促したらしかった。アニが深くため息をつく。

 

「……まぁ、別にいいよ。私も退屈してたところだし」

「あ、ありがとう!」

「ただ、見込みがなさそうだったら、すぐに見限るから」

「見放されないように頑張ります!」

「はぁ」

 

 アニは心底うんざりした顔をしてみせたが、その目に、ほんのわずかな好奇心が混じっているようにも見えた。

 

 

 翌日から、二人だけの特別な訓練が始まった。リディアとアニは隙を見つけては、人気のない訓練場の片隅で汗を流した。

 アニの指導は容赦がなかったが、リディアは確かに上達していく自分を感じることができた。投げられて、起き上がって、また投げられる。その繰り返しに、ただ格闘技を学ぶという以上の何かがあった。

 

 リディアにとってのアニは、訓練兵団という特殊な場所で初めて得た、かけがえのない友人。

 それは一方的な思い込みだったのかもしれない。それでも、アニが時折見せる柔らかな表情や、素っ気ない言葉の裏の気遣いは、少なくともリディアには特別だった。

 アニが何を考え、何を感じていたのか、本当のところはリディアには分からない。ただ確かなことは、あの時間は、二人の間に確かに存在していたということだ。

 

 

 一方その頃、アニはそんなリディアに頭を悩ませていた。

 就寝前の喧しい女子寮で、彼女は無言で天井を見つめていた。隣の寝床のリディアが、こちらに向かってずっと何かを喋っている。

 この島に来てからというもの、目的のためだけに動いてきたはずだった。余計な感情も、繋がりも必要としていなかった。それなのに、いつの間にかリディアの存在が計画の隙間に入り込んでいる。なぜ稽古の誘いを断らなかったのか、アニは自分でもうまく説明できなかった。

 そして今、気がかりなことが一つ増えている。

 

「……ねぇ。私は相槌とか打てないから。自慢話なら他の奴にしなよ」

「でも、でもね! どうしても最初にアニに聞いてほしくて!」

 

 リディアが父の形見のブローチをライナーに壊された件は、その場で見ていたからよく知っている。本人が「大丈夫」と言っていたから、それ以上つつかなかったのだが、問題はその後だった。

 

「ライナーがね、私にって。デザインも自分で選んで、買いに行ってくれたんだって……!」

 

 リディアの声が、嬉しさに震えていた。彼女がこれほど明るく、心の底から嬉しそうにしているのをアニは見たことがない。

 その手に、真新しいブローチがあった。

 彼女はそれを大切そうに、愛おしそうに撫でている。

 アニは、その様子を横目で冷ややかに見つめた。

 

「はー……」

 

 なんなんだよ、このブローチ。

 何考えてんだ、あいつ? 一体何がしたいんだ?

 

 呑気にはしゃぐリディアの声を聞いていると、腹の底がざらついた。

 あいつ――ライナーが普段纏っているものなど、意味もなく貼り付けられた「兵士の顔」でしかない。あの表情が作り物だということなど、アニは嫌でもよく分かっている。

 罪滅ぼしのつもりなのか何なのか、こんな安い贈り物で取り繕おうとする男。そして、こんな単純なものにコロッと絆されてしまうリディアとかいう女。そのどちらもが、アニには耐え難かった。

 

「棄てな。気色悪い」

「そんなことしないよ。ずっと……ずっと大事にする」

 

 リディアの瞳は、今までに見たことのない輝き方をしていた。

 

 なんてことだ。……気持ちが悪い。

 浅はかな贈り物に浮かれるリディアも、それに付け込むようなライナーの行動も、全部が気持ち悪い。

 

 暗闇の中、アニは目を閉じたが、眠れなかった。自分の中にあるこの感情が何なのか、理解できない。リディアの無邪気な笑顔、ライナーの意味不明な行動、そして名前のつかない自分の苛立ち。それらが頭の中で混ざり合い、複雑に絡み合っていた。

 明日も訓練がある。そう自分に言い聞かせながら、アニは無理矢理、不安定な眠りに落ちていった。

 

 

 ブローチ破壊事件からしばらく経ち、訓練にも慣れてきた頃。同期たちとの関係も少しずつ形になり、リディアにとって兵団生活は徐々に日常となっていった。

 だが、成績が悪いという現実だけは変わっていない。

 

「リディア、今日の訓練も散々だったなー」

 

 そのことでからかわれるのはもはや日常茶飯事で、リディアもいちいち気にしなくなっていた。

 訓練に使った道具を片付けていると、同じ班だったフロックがニヤニヤしながら近づいてきて、リディアの背中を軽く叩いた。

 

「自分より酷い奴がいるってのは、安心材料にはなるけど。どうか足だけは引っ張るなよ?」

「フロック。その辺にしとけ」

 

 少し離れた場所で片付けをしていたライナーが、自然な動きでフロックとリディアの間に割って入った。

 

「な、なんだよ」

「人をからかう暇があるなら、片付けを手伝った方が良いと思わないか。一緒にやれば捗る。ほらフロック、こっちを持て」

「あー用事思い出した。俺もう戻るわ」

 

 フロックは気まずそうに距離を取り、そそくさと立ち去っていった。

 

「リディア、荷物を抱え過ぎだ。俺が半分持つよ」

「あ、ありがとう……ほんと優しいよね、ライナーって」

「仲間を手伝うくらい当然だろう。そうだリディア、さっきの訓練だが、前より大分動きが良くなってたな。ただ集中しすぎると姿勢が崩れて前のめりになる癖があるから、そこに気をつければもっと良くなるんじゃないか」

「えっ、そんなところまで見てたの?」

「まぁな。お前はちょっと危なっかしいところがあるからな」

「はは……」

 

 食堂での一件以来、ライナーは毎日この調子だった。

 立体機動訓練で木に引っかかって落ちかけたリディアを引き上げてくれたり。

 基礎体力訓練で、しっかり姿勢を観察したうえでのアドバイスをしたり。

 アニと仲良くやっていけているのか気にかけてくれたり。毎日話しかけてくれたり。笑いかけてくれたり。今みたいに、からかってくる相手との間に入ってくれたり。

 ――ブローチの件で、負い目を感じさせてしまったせいだろう。それ以上に深い意味はないのだ。リディアはそう自分に言い聞かせて、なるべく自然に、普通に、彼と会話するよう努めていた。

 すっかりライナーに調子を狂わされているリディアだったが、なぜか今日は、少しだけ彼の様子が普段と違っているように見えた。

 

「リディア。ちょっと話があるんだが……片付けが終わった後、時間あるか?」

「え? うん、もちろん」

 

 

 陽が落ち始めた頃、寮から少し離れた訓練場の端で、二人は向かい合って立っていた。

 

「この前、調整日があったろ。その時に街で見つけたものなんだが」

 

 ライナーはポケットに手を入れ、しばらく迷ってから、小さな包みを取り出した。慎重な手つきでそれを開く。中に収められていたのは、飾り気のないシンプルなブローチだった。彼は少し緊張した様子で、それをリディアに差し出した。

 

「え……ブローチ?」

「前に持っていたもの、形見だったんだってな。悪いことをした。本当に申し訳ないと思っている。こんなもので埋め合わせになるとは、とても思えないが……」

 

 リディアは目を見開き、口が小さく「あ」の形になったまま固まっていた。

 

 なんで? どうして? どういうこと?

 言葉が出てこない。頭の中は疑問符でいっぱいだった。

 なぜ、ライナーが自分なんかに贈り物を?

 口を開けたまま両手を差し出すと、手のひらにそっとブローチを乗せられた。彼の指先が触れた瞬間、リディアの肩がわずかに跳ねた。

 余計な装飾のない、シンプルな金属製のブローチ。父の形見と同じように、マントを留めるのにも使えそうだった。

 

「以前のものがどんなデザインだったか分からなかったからな。どれにするか悩んだ」

「わざわざ買っ……たの? 私のために?」

 

 休日に、街で? 支給品でもなく、自分のお金で?

 油断すると浮かれそうになる自分を抑え込み、リディアは努めて冷静に続けた。

 

「えっと……あ、そうか。エレンとかジャンと、割り勘したんだ?」

「おいおい、それじゃ意味がないだろう。俺が自分で選んだよ。リディアをイメージして選んでみたんだが……どうだ。ちょっと付けてみてくれないか」

「わっ、私をイメージして!?」

 

 取って付けたような冷静さなど、ライナーの言葉一つで簡単に崩れてしまった。

 今、信じられないことが起きている。リディアの頭の中で、さっきから小さな火花のようなものが暴れ回っている。胸の奥の何かに火をつけてしまいそうな熱が今、身体中を駆け巡っている。

 

 震える手で、ブローチを胸元に着けてみた。父の形見と違って傷ひとつなく光るそれが、これから始まる何かを予感させる。

 ちらりとライナーを見ると、彼は満足そうにうんうんと頷いている。

 

「うん。似合うな」

「えっ、と、その」

 

 素直に喜びたかったのだが、今、それ以上に困惑が勝っていた。

 

「どうして、ここまでしてくれるの……?」

 

 感謝より先に口をついて出たのは、素朴な疑問だった。

 

「どうして、って。そうしたいと思ったし、するべきだと思ったからなんだが……やっぱり迷惑だったか?」

「そんなことないよ! ただちょっと、びっくりしちゃって。こんな素敵なものを誰かにもらったの、初めてだから……」

 

 胸が熱くて、顔も熱い。急に体温が上がった気がする。

 ──嬉しい。嬉しい、本当に嬉しい! こんな素敵な事があっていいの!?

 リディアの心は、もうすっかり喜びで飛び回っていた。

 

「ありがとう。本当に嬉しい」

 

 ライナーの優しさに触れて、リディアは久しぶりに、心の底から笑うことができた。

 

 

「お、おぉ……」

 

 自分に向けられた本心からの笑顔に、ライナーの胸が一瞬だけ高鳴った。

 今まで全然気がつかなかったが、彼女はこうして見ると……なかなか、可愛らしい。

 そんな感覚を覚えた自分に動揺し、ライナーは一度だけ咳払いをして、その感情をごまかした。

 

「えっと、父親が調査兵団だったんだってな」

 

 そして、さりげなく話題を変えた。

 

「うん。壁外調査で巨人に喰われて……」

「……気の毒だったな。お前も、お前のご家族も」

「……でももう、私には母もいないから」

「なに? 亡くなったのか?」

「うん。……忘れもしない。845年。シガンシナ区で」

 

 その言葉に、ライナーの胸が、さっきとは別の重いもので締めつけられた。

 

「……そうか……」

 

 表情がこわばるのが、自分でもわかった。

 

「瓦礫の下敷きになって、母は死んだ」

 

 リディアは淡々と続ける。

 

「でも、私は……」

 

 そして少しの間をおいて、彼女は視線を遠くへ向けた。

 

「母を殺したのは、鎧の巨人だと思ってる」

「……!」

 

 とてつもない寒気が、ライナーの全身を駆け抜けた。

 ふわふわとした心地よいまどろみから、急に現実へ引きずり戻されたような感覚だった。

 

 リディアが「鎧の巨人を殺す」と公言していることは、初日から知っていた。同期なら誰でも知っている。シガンシナ区の出身だということも、エレンから聞いて知っていた。

 だが、それはただの言葉だった。訓練場で何百回も聞き流してきた、威勢のいい目標のひとつでしかなかった。

 

 だが今、その言葉に、明確な「死」の存在が浮かび上がった。

 門を破壊したあの日。飛び散った瓦礫のどれかの下に、リディアの母親がいた。

 

 なぜ自分はリディアに構ったのか。放っておけばよかったはずだ。訓練中の事故で死んでもおかしくない、成績最下位の兵士。それでも、どれだけからかわれても、ひたむきに努力を続ける姿――まさか、かつての自分の姿を重ねたのか?

 ブローチは、単なる罪滅ぼしのつもりだったのか? どう考えても、関わるべきじゃなかった。

 ……でも、何もせずに、ただ見ていることができたか?

 

「私は、鎧の巨人を殺すためにここに来た」

 

 その言葉を口にした瞬間、リディアの目に、冷たい決意の色が浮かんだ。

 さっきまでキラキラした瞳でこちらを見ていた少女が、別人のように目を鋭くしている。かと思えば、次の瞬間にはもう、柔らかな表情に戻っている。その落差が、ライナーの不安をいっそう掻き立てる。

 

「ライナー、あなたは? あなたのこと、もっと教えてほしいな」

 

 目の前で優しく微笑む存在が、急に恐ろしく感じた。この笑顔が、訓練中の鋭い目つきに変わる瞬間を幻視して、ライナーは思わず半歩後ずさる。

 

「……っ」

 

 どう見ても不審な反応だったが、浮かれているリディアはまるで気がつかない。一瞬だけ不思議そうな顔をしたものの、すぐにまた無防備な笑顔で声をかけてくる。

 

「大丈夫? もしかして疲れてる? 今日も大変だったもんね」

「い、いや……俺は平気だ」

「あ、もうだいぶ陽が落ちてるね。そろそろ戻らないと」

「ああ、そうだな。またな……リディア」

 

 助かったとばかりに肩を落とし、ライナーは深く息を吐いた。そして踵を返し、数歩歩き出したところで、再び背中に声が飛んできた。

 

「ねえ、ライナー!」

 

 立ち止まり、ゆっくりと声の主を振り向いた。

 

「ブローチ、絶対に大切にするね!」

 

 夕焼けに照らされた、眩しい笑顔。潤んだ瞳。赤みを帯びた頬。

 

(……俺に気があるんじゃないか、これ)

 

 ライナーの中で、様々な思考がぐるぐると回り始める。

 

(いや、なぜ呑気に親の仇に向かって感謝の言葉を述べてるんだ?)

(何も知らないからだ。知ったら、どんな顔をするのだろう)

(素直で、飲み込みが早くて、いい子なんだよな)

(悪魔の末裔のくせに、意味のない目標に向かって無駄な努力をして、何になる?)

(さっき近づいたとき、いい匂いがした。桃のような、何とも言えない香りで……あと、笑った顔がやけに胸に響く)

(もし彼女が本当に鎧の巨人にたどり着いたら、その時は)

(目の前の奴が鎧の巨人だとわかっていて笑みを向けているのか? 何を考えている? お前の親も、形見も、全部俺が奪ったんだぞ? なぜ笑う?)

 

 優しくしたいのか、警戒しているのか。兵士なのか、戦士なのか。

 相反する思考は最後まで噛み合わないまま、ライナーは頭が割れてしまいそうだった。

 

 

 リディアがライナーに惚れているらしい。

 その噂は、一瞬で同期全員の共通認識になった。

 

 ブローチの話を聞いたのはアニだけのはずだったが、狭い女子寮でそんな秘密が成立するはずもない。アニにが周囲に言いふらすなんてことはあり得ない。よほどリディアの態度が分かりやすかったのだろう。

 それが理由なのかどうか、ミカサは前よりリディアに優しくなった。ユミルは面白いネタを見つけたと言わんばかりに「周囲にバラされたくなかったら、しばらく私とクリスタのパシリな」とリディアをからかった。もっとも、パシリになろうがなるまいが、翌日には男の訓練兵たちまで揃ってリディアを弄っていたのだが。

 

「あのねリディア、本当にユミルは誰にも何も言ってないの。でも、みんながいつの間にか知ってたみたいで」

 

 クリスタが申し訳なさそうに言うたび、ユミルがゲラゲラと笑う。

 リディアの恋心は、秘密の体裁だけを保ったネタ話として同期の間で共有され、消費されるものになってしまった。

 

 それでもリディアは噂を否定しなかった。

 ライナーに抱いている感情なんて、もはや自分でも否定できないほどに明白だ。誰かにこんな気持ちを抱いたのは初めてで、どう扱えばいいのかまるで分からない。

 リーダーシップがあって、頼れるところ? いや、違う。なぜかいつも助けてくれて、優しくしてくれて、なのにその優しさの奥に、後ろめたさのような、かすかな怯えが垣間見えるところ。

 彼には、自分しか知らない一面がある――そういう思い込みは、人を簡単に恋に落とす。

 好き。

 そう思いながらブローチに触れると、心の奥が満たされるような気持ちになった。

 

 

 一方ベルトルトは、ライナーが何を考えているのかまったく分からず、この状況にひどく胃を痛めていた。

 ライナーがリディアにブローチを買い与えた意図を、直接尋ねることなどできなかった。返答の内容次第では、ライナーが徐々に壊れ始めているという事実を、認めざるを得なくなってしまう。

 大丈夫、まだ間に合う。僕たちは、戦士だ。

 そう自分に言い聞かせるベルトルトだったが、同期にリディアとの仲を聞かれたライナーが「あいつは妹みたいなもんだよ」などとふざけたことをぬかしているのを聞いて、胃だけでなく頭まで痛みはじめていた。

 

 ――ライナーの前では、リディアの話は避けよう。

 自分を殺すために兵士を目指している人間がすぐ近くにいる。それがライナーに強い精神的負荷をかけているだけだ。そうに決まっている。せめて自分と一緒にいる時くらいは、リディアの存在を忘れさせてやらないと。

 本当はリディア本人に「あまりライナーに関わるな」と言ってやりたかったが、そんな不自然な真似、ベルトルトにできるはずもなかった。

 

 そしてアニはというと、ベルトルト以上に、この状況に怒りを溜め込んでいた。

 

 

 その夜、人目につかない場所に、三人は密かに集まった。

 月明かりだけが互いの表情を照らしている。ただでさえ連夜の「仕事」で寝足りていないところに、ライナーの顔を見て、アニの中に溜まっていたものが一気に膨れ上がった。

 

「あんた、どういうつもりなの。いい人ぶって、どうしたいわけ」

 

 リディアの話を出さないわけにはいかなかった。彼女の寝床はいつもアニの隣。親の仇に贈られたブローチの自慢を毎晩毎晩聞かされる方の身にもなれと、怒りに任せて全部吐き出してしまいたい気分だった。

 しかしライナーはアニの睨みに動じもせず、淡々と会話を続けていた。

 

「あれほど鎧の巨人に殺意を持っている奴だ。些細なことで俺たちの正体に気付くかもしれない。だから仲良くしておいて損はないだろう」

「は?」

 

 アニの声色に含まれる苛立ちを察したのか、ライナーは早口でまくしたてた。

 

「お前こそ人のこと言えるのか? 噂じゃずいぶん仲がいいようだな。お前の友人を一人挙げろと言われたら、おそらく同期全員がリディアだと答えるだろう。今夜のこの外出だって、本当にあいつにバレていないと言い切れるのか?」

 

 アニは唇を噛んだ。

 人の苦労も知らないで、こいつは!

 大きな物音を立てられない状況でなければ、アニはライナーを思い切り地面に叩きつけていただろう。

 すると、睨み合う二人の横で、それまで黙っていたベルトルトがポツリと静かに呟いた。

 

「せめて、訓練中の事故とかで、何も知らないうちに死んでくれたなら……」

 

 ライナーとアニがベルトルトを見て、そして、黙った。

 

「あぁ、そうだな」

「……」

 

 どうせいつかは、壁の中の全員を殺すのだから。

 この一瞬だけ、三人は同じことを思った。

 

 

 リディアにどう接すればいいのか分からないが故に、ライナーは必要以上に彼女に親切を働いている節があった。

 向かい合って話している時はいい。問題は、離れている時のリディアだ。訓練中に見せる鋭い目。あのひたむきさ。その全てが、自分を殺すためだけに磨かれているという事実を、どう受け止めればいいのか。

 

 リディアに笑顔を向けられるたび、罪の意識がライナーの身体を蝕んだ。その怯えと震えを誤魔化すように、ライナーはリディアに優しくあり続けた。

 それは贖罪か、自己満足か、あるいは。

 そして少なくとも、それは恋心なんていう優しく甘い感情ではなかった。

 




進撃の巨人2の主人公が女性で、しかもライナーに惚れていたらどうなるんだろう?という発想から生まれた作品です。よろしくお願いします。
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