これは、夢だ。
もう何度も見た、同じ夢だ。いつもの悪夢の始まりだと分かっていても、抗うことができない。
夕暮れ時、兵舎の裏。斜めに差し込む夕日に照らされて、リディアの髪が輝いていた。緊張した面持ちでライナーのことを見て、両手を背中で組んでいる。
「あなたが好き」
リディアはそう言って、頬を薄紅色に染め、恥ずかしそうに微笑んだ。長い睫毛の影が頬に落ちている。
「ずっとあなたのことが好きだった」
リディアが一歩近づき、そっとライナーの背中に手を回す。その手は小さくて、温かい。
思わず、彼女を腕で包み込んだ。この笑顔を守るためなら、自分ができることは何でもしてやりたい。リディアの体は想像以上に華奢で、壊れそうなほど繊細だった。
震えたようなささやき声。抱きしめた時に感じる、ほのかな桃のような匂い。両腕の中の、小さな肩。
「私が死んでも、私のこと、忘れないでほしい」
しかし、彼女にまつわる全ての記憶が、何故かどんどん曖昧にぼやけていく。次第に温もりは薄れ、手の中から全てが消えていくような感覚があった。
「待っ……」
その顔が、思い出せなくなっていく。
目の色は? 鼻の形は? 唇の線は?
何も思い出せない。ただぼやけた輪郭だけが残る。
腕の中を確認しようとすると、幸せな夢は形を変える。夢の風景が歪み、色彩が暗転する。
突然、周囲の景色が変わる。
どこだか分からない廃墟のような場所。腕の中にいたのは、腹部から鮮血を流し、虚ろな目をしたリディアだった。
彼女の身体は切り裂かれ、血に濡れている。瞳から光が失われ、じっとライナーを見つめたまま、動かない。
ライナーは自分の手を見る。指先から手首まで、真っ赤に染まった手が、目の前の事実をライナーに突きつける。鼻腔に鉄の匂いが満ちる。喉の奥が痙攣し、胃の内容物が上がってくる。
そこで、ようやく思い出した。
あのときリディアの体を切り裂いて、壁から突き落としたのは、自分だった。
逃げ出したいと願った瞬間、また風景が変わる。
今度は、薄暗い部屋の中。
まだ生きているリディアを組み敷いて、その上に覆いかぶさっていた。彼女の隊服は乱れ、傷だらけの肌がのぞいている。恐怖と憎悪の入り混ざった目で、リディアはライナーを睨みつけていた。
ライナーはリディアを押さえつけながら、それでいて縋るように、彼女の耳元で必死に「好きだ」と囁いていた。気味が悪いほど、必死に言葉を繰り返す。自分の声が耳障りなのに、止めたくても、止められない。
「お前も、好きだって、言えよ……」
なぜ、ここまで必死にその言葉を言わせたいのか。それで許された気持ちになりたいのか。
ライナーの手が、彼女の喉元を押さえつける。リディアは苦しそうに喘ぎながらも、憎しみに満ちた目で、じっとライナーを見返していた。そこに優しさや憧れの影は、もうどこにもない。あるのは純粋な嫌悪だけだ。
「……」
リディアは一言も発さず、ただ無言で、冷たくライナーを拒絶していた。その沈黙は、言葉以上に彼を責め立てる。
「……愛してるんだ、だから……」
そんな言い訳にもならない言葉を吐きながら、ライナーは自分自身に強い嫌悪を覚えた。
「……卑怯者……」
かすれた声で吐き捨てられた一言が、ライナーの心を鋭い刃物で突き刺すようだった。
目を閉じて、リディアの首筋に顔を埋める。記憶の中にかろうじで残った甘い匂いを求めるも、その肌には何の温もりもなく、ただ無機質な冷たさだけが存在した。
どうか好きだと言ってくれ。
俺のことが好きなんだろ。
そうだろ。
卑劣な行為に及びながら、それでもリディアに好きだと言って欲しくて、何度も彼女の名前を呼ぶ。この暴力に屈してほしいと願う姿が、吐き気を催すほど醜く思える。
リディアの目に涙が浮かんだ。そこに映る自分の姿が、ライナーには醜悪な怪物のように見えた。
リディアの姿は、更に曖昧になっていく。
肌の感触、髪の匂い、声の響き……全てが遠ざかっていく。それでもリディアの「卑怯者」という言葉だけは、耳に奥に焼き付いて離れない。
「お前だけは、絶対に私が殺してやる」
完全な拒絶を受けても、それでも夢の中のライナーは、なおも彼女を求め続けた。
「……」
当然、寝覚めは最悪だ。
どうかしている。人生史上最低の夢であることは間違いなかった。
ライナーは自分の手のひらを見つめた。爪が食い込んだ半月状の傷が、幾つも重なっている。いつの間にか、自分を傷つけることでしか、現実に引き戻されなくなっていた。すぐに修復できるという考えが、無意識の自傷行為をより容易にしていた。
これは、呪いだ。
もう二度と手に入らないものを歪んだ形で取り戻そうとしても、かえって自分の愚かさと醜さを思い知ることになるだけだ。夢の中でリディアを求めるたびに、得られるのは更に深い自己嫌悪でしかない。
……愛してる? どの口がそんなことを。そうやって自分が犯したおぞましい行為の数々を正当化しているだけで、結局はただの言い訳だ。
こんなもの、愛じゃない。罪悪感を慰めるための道具であり、ただの贖罪の代用品だ。自分自身にさえ嘘をつき続けている。吐き気がするほど滑稽で、痛ましい。
そのうえライナーを更に苦しめるのは、夢の中でリディアに「卑怯者」だとなじられる度に、ひどい劣情が彼を襲うことだった。夢の中では常に、その言葉がきっかけでリディアに対する暴力的な行為が止められなくなってしまう。
夢の後にはいつも、自身への憎悪が倍増して戻ってくる。自分の中の獣に対する嫌悪感と、それでも消せない欲望の狭間で、ライナーは日に日に精神を蝕まれていた。
これは、あまりにも倒錯している。
最悪な形で心の均衡を保とうとしていることが自分でもわかった。もう何度もこの夢を見たが、そのたびに激しい吐き気がライナーを襲う。
自分で彼女を殺しておいて、何をしているんだ。
生きているわけがない。鋭い刃で切りつけ、あんな高さから突き落としたんだ。生きていられるはずがない。それなのに、なぜ夢の中で彼女を求め続けるのか。
眠るのが怖い。眠りにつけば、何度もあの夢を見る。
見たくない。でも見たい。リディアに会いたい。でも会いたくない。
矛盾した感情が、ライナーの眠りを更に浅くし、疲労を蓄積させていった。
かつてユミルからは「好きだと言われて一瞬その気になっただけ」と断定された。
違う。いつかの自分は、本気でリディアと生きる未来を考えていた。惚れていないわけがない。本気だった。彼女のことが本当に好きだった。だからこうして、今だってリディアの夢を見るわけで。衝動に負けて手を出したわけじゃない。そんな無責任なことはしない。自分は父親とは違う。ちゃんと、本当に好きだった。だから彼女の気持ちに応えたんだ。
今さら何にもならないが、自分にそう言い聞かせていないと、もう正気を保てそうになかった。それが、誰にも届かない自己正当化の言い訳であったとしても。
「卑怯者……」
ライナーはリディアの言葉を思い出していた。その言葉は、刻印のように彼の脳に焼き付いていた。目を閉じても、耳を塞いでも消えない。
そうだ。自分は卑怯で、卑劣な男なんだ。あれだけ傷つけて裏切って、それでいてなお、リディアを汚すような夢が止められない。
もう、どうすればいいのか分からない。だから、どうか。夢の中でもいいから。
「……お前が俺を殺してくれ……」
***
アルミンは、うっすらと見える「彼」の記憶に出会った。
「オレ以外にもいるよ、調査兵団志望のヤツ」
記憶の中のエレンが、ライナーとベルトルトに話をしている。
今、アルミンはベルトルトだった。
隣にいるライナーが肩を震わせたのが分かった。だが一方でベルトルトは、そんな人間がいてもおかしくないよなと思い、ただ黙って俯き、話を聞いていた。
仕方がなかった。恨まれるようなことをした。でも自分たちには、どうしようもなかった。
「ライナー……アニも言っていたけど、君は何を考えているんだ。あんなことをしたら、リディアは嫌でも君のことを意識するようになる」
リディアのブローチの件について、ベルトルトは怯えながらライナーに忠告した。しかしライナーは明るく笑いながら答える。
「そんなことないだろ。あいつ、妹みたいでほっとけないんだよ」
「君に妹なんていないだろ……」
リディアがいると、ライナーがおかしくなる。
戦士の時に見せないような顔で笑うのはやめてくれ。こっちまでおかしくなりそうだ。
「頑張ってるよな、あいつ。昨日の訓練なんか何回もアニに投げ飛ばされてたぞ。そこまでしてでも、やりたいことがあるんだろうな」
「……鎧の巨人への復讐だよ」
ベルトルトが静かに呟くと、ライナーがハッとした顔をした。
おかしくなっているのはライナーだけじゃない。アニはいつもリディアと一緒にいた。
「重心が高い。腕を引くのが遅い。足を伸ばしきるな、何度も言ったのに」
「要するに?」
「全部できてないってこと」
「あぁー……」
「あんたに力技は向いてない。ただ、柔の動きの方だったらまだ伸びる可能性はある」
「関節技ってこと?」
「知ってて損はないよ、これは怪我の治療にも応用できる。だから……その体に、しっかり刻み付けな!」
「待って待って痛い痛いって!」
「戦場で巨人にも同じことを言うのか?」
「巨人は関節技なんかかけてこないって言ってたじゃん!」
「……フッ」
アニが、楽しそうだった。
そんな顔、どうして今まで一度も見せなかったんだ。
ライナーと三人で話すときのアニは、いつも疲れて苛立ったような顔をしていた。ベルトルトにしか見せない特別な表情なんて、一つもない。
でも、リディアといる時だけ、アニの瞳は生き生きとしていた。
もうやめてくれ。リディアがいると仲間がどんどん狂っていく。
次は誰だ、自分なのか? 奇妙な力を使って、自分のことまで誑し込んでしまうのか? やめてくれ、こっちにくるな。笑うな!
「どうしたの? 顔色が悪いみたいだけど……」
遠くから、リディアが近づいてくる。
嫌だ、やめろ。
「……来るな……」
「ん?」
「……あ、いや、違う。大丈夫だ、気にしないで……」
目の前にリディアが立っている。心配そうな顔でベルトルトの様子を伺う姿は、はたから見ればただの善良な人間でしかないだろう。
しかし、ベルトルトの目から見える、小さなリディアの姿は、まるで……
アルミンはそこで我に返った。
ついさっき覗きこんだ記憶を、必死に思い出す。
怪しい力で次々と仲間を籠絡していく恐ろしい少女。その正体は、言うなれば……
「……魔女……」
「ん、なにそれ?」
アルミンの真隣に、リディアが腰掛けていた。その顔を見て思わずアルミンが後ずさる。
「う、うわぁっ! リディアじゃないか!」
「さっきから一緒にいたでしょ。ボケてんの?」
ヒッチが呆れている。
ここはアニが幽閉されている地下だ。以前に比べてずっと警備が緩くなっている。
アルミンは何度かここを訪れてはヒッチに呆れられていたが、ここでリディアに会うのは初めてのことだった。
「アニに手紙出してたの、あんたなんだ」
「親友を自称して、訓練兵の頃からまとわりついていたからね」
「ミカサやサシャやヒストリア女王を見てればわかる。アニと仲良くできる子なんてリディアくらいでしょ」
「どう言う意味?」
「あんた、自分が普通の人間だって思ってるかもしれないけど、相当変わってるわよ。自覚ないの?」
「ない。え、私、変なの? アルミン、そうなの?」
「……えっと……」
ベルトルトの記憶を見た手前、答えにくい質問だった。アルミンは苦笑いを浮かべながら話題を反らすことにした。
「リディアがここに来るのは初めてだよね。どういう心境の変化があったの?」
「……ただ、思い出したから」
「怒ってないんだ、アニのこと」
「怒ってるよ、もちろん」
「同意」
ヒッチがリディアに同意した。
「アニ。あんたさぁ、喋らなさすぎなのよ」
「そう。自分の好きなことには早口になるくせに、興味がない話になると急に心を閉ざしましたーみたいな顔してどっか行っちゃうし……」
「ははっ、言われてるよ。悔しかったら言い返してみなよ。そんなところで寝てないでさ」
ヒッチとリディアが水晶のアニに話しかける。当然、返事はない。
「アルミン。今、義勇兵と捕虜の力で、島の技術は驚異的に向上しているよね」
「そうだね。僕たちは100年の遅れを取り戻そうとしている」
「ってことはさ、アニの水晶を砕けるような機械が開発される可能性だってあるわけだ」
「……あったとしても、今の技術では水晶ごとアニまで壊してしまうだろう。彼女を傷付けずに取り出すには、もっと繊細で高度な方法が必要かな」
「でも、脊髄液さえ取り出す方法があればいい」
「うん……え?」
「アニの寿命が近づいたら、マーレに奪われる前に、私が女型の巨人を継承する」
アルミンは言葉を失った。
「なんてね。巨人化する注射もないんだから、無理か」
リディアがそっと水晶のアニに触れる。彼女は本気で言っている。アルミンはそう思った。
リディアが立ち去った後、アルミンはヒッチと二人だけで地下室に残された。さっきのリディアの言葉の意図はよく分からない。なぜあんなことを言ったのだろう。
「アルミン。あの子、気を付けたほうがいいよ」
「気を付ける?」
「すごく危なっかしい気がする。ここに来たのも、何か迷いがあるからでしょ? それに、前から変な噂も流れてるし」
「一体、どんな……」
「女王陛下の愛人だとか、フロックの女だとか。とにかくそういうゲス方面ね。良くない傾向だと思う」
「愛人って……まさか、そんなわけないよ。特にフロックに関しては、リディアも前から迷惑に思ってるはずだ」
「噂を舐めない方が良い。放置してるうちに事実が塗り替えられるなんて、あんた達も経験があるでしょう」
「……分かった。ありがとう」
***
ヒッチが聞いた噂は、リディアが護衛兵になった直後から流れ始めていた。誰かが悪意を持って流したというわけでもなく、それはいつの間にか広まっていた。
だが、フロックには別にどうでもいいことだった。
彼は、そう思いたい奴がいるなら勝手に思っておけばいいと思っていたし、特に嫌というわけでもない。
だが、噂を真に受けた兵士をいちいち相手にするのは面倒だった。
「お前、リディアに二股かけられてるんだって? しかも相手が女王って。あんな顔して両刀使いとはなぁ……厄介な女に捕まったもんだな」
「は?」
当初の噂は、こんな話ではなかった。
目を覚まさない恋人のもとに足繁く通う一途な男。最初はそういう噂だったはずだ。それはちょっと気分が良いくらいで、悪くない構図だったのだが。いつの間にか話は大きく変わっていた。
なんだ、その話は。
いつの間にか、噂の主体がフロックではなく、リディアに移っている。立ち位置が入れ替わっている。
(それじゃ、俺が下にいるみたいじゃないか)
「別に。事実じゃないから、俺はどうだって構わない」
噂を否定するでもなく、フロックは相手を適当にいなした。
どいつもこいつも何も分かっていない。男と女というだけで、すぐこういう話になる。女同士でも噂になるらしいが。
「生意気なじゃじゃ馬は手篭めにしてやれよ」
絡んできた兵士は、ずいぶん物騒な提案をしてくる男だった。
だが、そんなことをする気にはなれなかった。リディアは既に十分弱く、今以上に彼女を貶める必要はない。彼女を屈服させたいとも思っていない。
「そんなことはしない。でも、まぁ……」
フロックは少し思案した。
「女王に捨てられたとしても、俺は拾ってやるよ」
そう言うと、感心された。
尊敬するような目で見られると、まるで自分が高潔な存在になったかのように感じて、わだかまる気持ちが少し楽になった。
噂のことは、当然リディアの耳にも入っていた。
その上フロックも「勝手に言わせておけばいい」と言って積極的には否定しないものだから、なかなか話は消えてくれなかった。
リディアは、はっきりと否定してほしかった。
フロックに助けられたことは事実で、彼に心から感謝していることは間違いない。だからこそ、信頼できる仲間としての関係を、こんな安っぽい噂に着地させないでほしかった。
同じ地獄を見た者同士なのだから、本来はもっと分かり合えるはずなのに。
それなのに、いつも対話がうまくいかない。リディアとフロックは、どこかで常に話が噛み合わないままだった。
***
迷いなんて、ない。
アニを訪ねる前に、リディアはエレンから話があると呼び出されていた。不安になりミカサに相談したとき、彼女は同席すると申し出てくれたが、エレンがそれを拒否していた。
リディアが一人じゃないと、話はできない。エレンはそう言っていた。
「よぉ」
最近のエレンは、外見も性格もすっかり変わってしまったように見える。
「最近は身に着けてないみたいだが……あのブローチ、まだ持ってんのか」
唐突に出された言葉に、リディアは一瞬、呼吸が止まる。
「持ってるんだろ。別に文句を言うつもりで聞いたんじゃない」
淡々としたエレンの口調には、感情がほとんど滲んでいない。
「……そうだよ」
「捨てられない理由があるんだよな」
「どうかな」
「何か引っかかってるってことは、やり残したことがあるってことだ」
エレンは窓際の椅子に腰かけ、テーブルを挟んだ手前の椅子にリディアが座るよう、軽く手で示した。
「なぁ、お前さ」
「なに?」
「本当はまだ、ライナーと話したいんじゃないか」
一瞬、空気が凍った。
「そんなこと……!」
リディアは反射的に返事をした。
「私がされたこと覚えてるでしょ。親や仲間を殺されて、心を弄ばれて、体を切りつけられて。そんな相手に残る感情なんて……」
自分を必死に奮い立たせるように、言葉を並べた。目の前のエレンは、その全部を受け止めるかのように、じっと見つめ返していた。
「普通に考えたら……殺意と復讐以外に、ありえない」
絞り出すように言ったその言葉は、自分自身への言い聞かせのようでもあった。
エレンがじっとリディアの目を見つめる。嘘をつくなと言わんばかりの強い目線に怯みそうになる。
「お前は、普通なのか?」
「……え」
掠れた声が、反射的に漏れる。
「オレはそう思わない」
その言葉は、まっすぐにリディアを貫いた。
「オレが思う普通のヤツっていうのは……」
エレンは一拍置き、言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開いた。
「突然巨人化した同期をかばって、上官に刃向かったりしないようなヤツのことだ」
その言葉を受けて、リディアの脳内に過去の記憶が蘇る。
旧調査兵団本部で、エレンはリディアに「ありがとうな、信じてくれて」と言った。あの頃のまっすぐなエレンの瞳と、今のエレンの寂しそうな瞳……雰囲気はまるで違うけれど。
エレンは今も、信じて欲しいと思っている? 本当のことを話してほしいと言っている?
仲間に嘘なんてつきたくない。けれど、本心を知られたら、きっと見限られてしまう。
リディアは再度エレンの目を見た。目の前のエレンは、意外にも穏やかな目をしていた。
(……本当に、信じていいの?)
リディアは唾を飲み込み、ゆっくりと話し始めた。
「……私、狂っているのかもしれない」
体が、小刻みに震え始めた。
自分でも理解できない感情が、内側から彼女を引き裂いていく。
憎しみと愛情、復讐心と許しの願い、怒りと懐かしさ。それら全てが渦を巻き、彼女の理性を飲み込んでいく。
「あんなこと、されたのに……」
声は震えていた。
どす黒い気持ちが胸の奥でせめぎ合う。
「狂ってるんだと思う。そうでなきゃ、こんなのおかしい。間違ってる」
エレンは静かにリディアの話を聞いている。
「裏切られても、あれだけ傷つけられても、どれだけ自分を否定しても……どこかで、まだ話ができると思ってしまっている」
口がうまく動かない。どうしようもない矛盾だらけの感情が、リディア自身を引き裂いていく。
「……話したいよ……もう一度」
エレンの突き刺すような目線は、リディアの震えを見逃さない。
「……ライナーに、会いたい……」
頬を伝った涙は、一滴落ちただけだった。
しかしその一滴が、耐え続けていた感情の堤防を容易く壊してしまう。
涙は次々と溢れ出す。
視界がぼやけ、声も息も止まらない。顔を覆う手の指の間から涙が滴り落ち、膝の上に小さな染みを作っていった。
「……お願い……」
悲痛な言葉に滲むのは懇願だった。
「他の誰にも、言わないで……」
その肩は、小さく揺れていた。長い間押し殺してきた本音が、制御不能になって溢れ出す。
「こんなことを知られたら、今度こそ……調査兵団に、いられなくなる……」
誰よりも、居場所をくれた仲間たちを裏切るような行為だと、自分が一番よく分かっていた。けれど、それでも、心は嘘をつけなかった。
「みんなが帰って来いって言ってくれたのに、私、未だに、こんなことを……」
言葉を紡ぐたびに、自分を責め立てる声が頭の中で大きくなっていく。
「……こんな気持ちを抱くなんて、絶対に間違ってる。間違ってるって、分かってるのに……」
分かっていても、その間違いに縋りたい気持ちが確かにある。
この矛盾こそが、リディアを最も苦しめていた。
エレンは、ゆっくりと椅子の上で身を乗り出した。
その目には、怒りも失望もなかった。ただ、痛みを分かつ者のような、同情でもなく、軽蔑でもなく、静かな理解があった。
胸が締め付けられるような痛みと共に、リディアは言葉を絞り出した。
「私はやっぱり、自分を変えられない……」
その声は、今にも崩れそうに震えていた。
「世界や、人類のことじゃなくて……今も、自分のことばかり考えている。本当に、どうしようもない馬鹿なの」
息が苦しくなり、リディアは胸元を強く掴んだ。呼吸するたびに鋭い痛みが走る。
罪悪感と自己嫌悪が、物理的な痛みとなって彼女を責め立てる。
「だけど、それでも、やっぱり……」
涙で曇った目を見開いて、リディアはエレンを見つめた。
「……もう、一度だけ……」
喉から漏れたのは、嗚咽だった。
復讐したい。でもその前に、たった一度でいいから、あの時のライナーに会いたい。あの優しかった人が、本当はどこにいるのか確かめたい。
「リディアに残されていた道は最初からふたつしかない。殺しあうか、対話するかだ」
「……うん。そう、だね」
震える声でリディアは言う。
「本当は殺しあわなきゃいけない。だって敵だから、対話の余地なんてない。だけど、だけど……」
リディアの頭の中で、記憶が走馬灯のように駆け巡る。
優しく肩を叩いてくれたときの笑顔、励ましの言葉をくれたときの声、ブローチを渡してくれた手のひら。そして……全てを裏切り、リディアを切りつけた瞬間。
もうどれが本当で、どれが嘘なのか。リディアには区別がつかなくなっていた。
「たった……っ……一言、だけでもいい、声を……聞きたいだけ」
もはやまともに言葉を紡ぐことすら困難になるほど、リディアは激しく泣いていた。
「そうしたら、私、今度は絶対……ちゃんと兵士に、戻るから……」
涙に濡れた指が、無意識のうちに首元を探り、装着してもいないブローチの形を辿っていた。
触れられないものを求める指先には、切ない記憶だけが残っていた。
「ごめん、なさい……」
リディアは、誰に謝っているのか分からなかった。
謝罪したい相手は、目の前のエレンなのか、共に戦う兵士達なのか、殺された母親なのか、奪われて散っていった多くの命なのか……とにかく全ての人に謝罪したかった。
まるで、自分の奥底に残されたままの感情が、世界中の全てに対する裏切りであるかのように。
「……理屈なんか、どこにもないの……」
そんなリディアを、エレンはただ静かに見つめ続けていた。
責めもせず、慰めもせず、無理に言葉を挟むこともなく。ただ、最後まで。
「わかった」
やがて、エレンはそっと椅子を引いて立ち上がった。
「お前の考えてることを知りたかった。オレがなんとかしてやる」
何かを決意したようなエレンを見て、リディアは涙を止めた。
「待って、どういうこと……」
「どこに行くの、話って何のことだったの? エレン、待って……!」
リディアは慌てて席を立ったが、エレンは既に彼女に背を向けていた。扉に向かって歩き出す姿は、どこか迷いもなく、冷たくさえ見えた。
「エレン!」
思わず手を伸ばす。しかし、エレンにはもう届かない。
しんとした部屋に、リディアの震える息だけが残る。
胸の奥が、強く、嫌な予感で締めつけられていた。
神聖かまってちゃんの「ロマンス」を聴きながら書きました。諌山先生もおすすめの楽曲なので、是非聴いてみてください。私は最初、笑いました。