まだ訓練兵だった頃のことだ。
いつものようにリディアが遠くからライナーのことをぼんやり見つめていると、見かねたミカサが頭を軽く叩いた。
「リディア、見すぎ」
「な、なにが!?」
リディアは大慌てでミカサの方を振り向いたが、彼女は一言注意したきり、どこかに去って行ってしまった。
「まぁ、わかりますよ。獲物から目を離さないのは狩りの基本ですからね」
「……いや、それも何の話!?」
サシャがリディアの隣でうんうんと頷いていた。
「でもそんなに殺気を出したら逃げられますよ。もっとさりげなく、かつこちらの気配を悟られないように……」
「阿呆か。リディアはあいつに見てほしくてやってんだろ。どんどん殺気出してけ、ほら」
そこにユミルが現れ、左腕を伸ばしてリディアの肩に絡む。
「この熱視線に気付かなきゃ、ライナーも相当なクソボケだな。ホラホラ、ウインクでもしてみろよ」
ユミルが右手でリディアの頬を掴み、その顔を強引にライナーの方へ向けようとした。
「やめなよユミル、リディアにはリディアのペースがあるんだから!」
ヒストリア――当時はまだクリスタと呼ばれていた――が、ユミルをたしなめる。……すると。
「あ」
さっきまでこちらを気にも留めていなかったライナーが、一瞬だけリディア達の方を見た。
「……」
今のは……クリスタの声に反応しただけだ。この場で、リディアだけがそれを理解していた。
彼は、自分になんか、まるで興味がない。
リディアは少し視線を落とした。
「ほら、ユミルが騒ぐから、リディアが固まっちゃったでしょ」
当のクリスタはよく分かっていない。
「……つまらん。飽きた」
ユミルは突然リディアを解放し、クリスタを連れてどこかに行ってしまった。
残されたリディアは、サシャと二人で話していた。
「ユミルは狩りをわかってませんね! あんなに騒いだら、そりゃ気付かれますよ」
「私、別にライナーを狩りたいわけじゃないんだけど……」
「え? ライナーを見てたんですか?」
「えぇ、何だと思ってたの?」
「ほら、あそこ……さっきまで枝に止まっていたんですよ」
サシャが指差した先に、特徴的な羽冠を持った渡り鳥の飛び去る姿が見えた。
「わ、全然気付かなかった」
「てっきりアレを狩りたいのかと」
「サシャ、すごいね」
「え、えへへへ……この程度、すぐ見つけられますよ」
「もしかして、この状態からでも……あの鳥を撃てる?」
「さぁ、それはどうだか……でも」
「敵から逃れたと思っている瞬間が一番油断してるんですよね」
ばーん。サシャは指で鳥を撃つような仕草をして、満足そうに笑った。
「すごいな、サシャは」
「ふふん、でしょう?」
サシャは、どこか得意げな顔をして微笑んでいた。
はっと、我に返った。
ついさっきまで、サシャが目の前で笑っていた気がする。でも、そこには何もない。ただ、ひとつの墓標があるだけだった。リディアは、固く握りしめていた拳をそっと開いた。すると、腕の中のカヤが嗚咽を漏らした。その小さな手がリディアの服をギュッと握っている。
「なんで……どうして……っ、お姉、ちゃん……」
リディアは、カヤの頭をそっと撫でた。
***
「おかしい」
ガビは、ブラウス厩舎の馬房近くで思案を巡らせていた。
「私達がマーレから来たって分かっていて、未だに尻尾を見せないなんて、やっぱりおかしい……」
「お前なぁ……またかよ。何日も食わせてもらった挙句、寝床まで提供してもらってるんだ。少しは感謝しないと」
「ありえない。悪魔と私達が分かり合えるわけないじゃない」
「ありえないことは、ないだろ。だってライナーさんも……」
数日の穏やかな時間が、ファルコを油断させていた。
「は?」
ファルコはしまった、と思った。うっかり、余計なことを口走ってしまった。
「ライナーが何だって?」
ガビが顔を歪ませながら、ずんずんとファルコに近付く。
「あんたがライナーの何を知ってるっていうの?」
「ライナーを馬鹿にするな! 島の悪魔達を殺すため、大いなる目的を果たすため、そのためにこんな島に来ていたんだよ!? 戦士の使命を侮辱するつもり!?」
「声デカいって……!」
ファルコは今にも暴れだしそうなガビをなだめながら、レベリオでの出来事を思い出していた。
怯え切ったライナー、生きる気力を失った姿、そして……彼の頬を撫でた、リディアの姿を。
「お前だって……何も見てないだろ」
そして、よせばいいのに、ついガビに反論してしまった。
ファルコはガビが激怒するだろうと思って、顔を逸らした。
そして軽く目を閉じたのだが、ガビの返事がない。しばらくして、おそるおそる目を開けると、彼女は馬房の掃除用フォークをファルコに突きつけていた。
「……あんたは、何を見たの」
持ち上げられた大きなフォークの先から、藁がパラパラと落ちる。
「ライナーは帰ってきてから、ずっと様子が変だった。あんた、何か知ってるんじゃないの?」
ガビは真っすぐ立ち、決してファルコから目を逸らさない。
「ライナーに何があったの、言え!」
「お、オレが知るかよ!」
その時ガビは、ふと飛行船内で起きたことを思い出した。なぜか自分達をかばって兵士に殴られた女の姿が、脳裏に浮かんだ。
「……飛行船で私達を拘束した、あの女……」
「は?」
ファルコは思わず身構えた。突然ガビがリディアのことを引き合いに出したので、自分の思考が読まれたのかと思った。
「あいつ、教えてもいないのに、なぜかファルコの名前を知っていた……」
フォークを突きつけられたファルコが、ハッとした顔でガビを見る。ガビはその表情を見て察する。
「ねぇ……あいつなの?」
「あの女がライナーに何かしたの? 私が何も見てないって何? あんたは何を見たの!?」
「……」
ファルコに答えられるわけがなかった。しかしその沈黙は、その問いに対する肯定としてガビに受け止められた。
ガビは、突きつけていたフォークをガシャンと投げ捨てる。
「あの女……確かリディアとかいう名前だった。私達マーレの戦士候補生を侮り、名前を教えたのが運の尽きだ……」
一人でぶつぶつと呟くガビを見て、ファルコが複雑そうな顔を浮かべる。悩んだ末、ガビに言うべきかどうか迷っていたことを口にする。
「……あの人は母を殺され、自分も殺されかけたんだ」
「だったら何? 私達だって故郷を焼かれたし、大切な人を何人も殺された」
「……それでも、たぶん……」
ファルコは、自分でも納得いかない部分がありながらも、ガビに告げた。
「あの、二人は……いや、オレも信じたくないけど……でも」
「なに? モゴモゴしてたら聞こえないんだけど!」
「……恋人同士だったんだと、思う」
「……は?」
ファルコは、地下室での様子と、鎧の巨人の掌の中で起きたことを思い出して、確信した。
本当にあの二人が無関係なら、その身を挺して守ったりしない。優しく触れたりしない。親の仇に向かって「死なないで」なんて言えるわけがない。
「はぁああああああああ?」
当然、ガビには理解不能だった。
「そんなわけないでしょ? あんた私のこと馬鹿にしてる? 絶対にありえないんですけど!?」
「いや、オレだって……おかしいって思ってるよ、でも……!」
「仮に何かあったとしても、おかしな力で悪魔の女に誑かされただけ! これ以上馬鹿にしないで!」
「おかしな力って……お前何言ってるんだよ」
ガビの声が震えていた。怒りに満ちていた表情が、少し揺らいでいる。
「ライナーは私たちの誇りなの! 戦士なんだよ!? それを、そんな……!」
拳を握りしめたまま、ガビは震えながら俯いた。
「どうせ……個人的な復讐とか、くだらない理由で近付いたんでしょ!? 私達の使命に比べたら、取るに足りないような、小さなことで……!」
口にしながら、ガビは自分の言葉が揺らいでいることに気づいた。
「ライナーがそんな奴に騙されるなんて、そんなの……」
ガビは、その言葉を口にした瞬間、息が詰まるような感覚がした。
「私の知ってるライナーじゃ、ない……」
話しながら、ライナーへの信頼が揺らいでいる自分に気がついて、そんな自分に失望している。
「……ガビ」
「私がその女……リディアを殺す。そして、戦士としてのライナーを取り戻すんだ」
ガビが顔を上げてファルコを睨む。ファルコはガビに返せる言葉がなく、しばらく二人は無言で睨み合う。
「ベンの話、本当のことじゃないかな」
突然の声に、ガビとファルコは肩を震わせた。
「い……いつから聞いてたんですか?」
「二人はいつも声が大きいね。私しかいなかったけど、ほとんど聞こえてたよ。それに殺すとか……そういうことは、あんまり言わない方がいいと思う」
いつの間にか、二人の近くにカヤが立っていた。
「い、いやー、恥ずかしいな、兄妹喧嘩を見られちゃったみたいで」
「リディアなら私も知ってるよ」
カヤは、何の疑いもなく、ただ事実を告げるように言った。
「お姉ちゃんの友達で、私たちの家族。恋人がいるなんて話は聞いたことないけどね」
カヤの言葉を聞いたガビの全身が強張る。
「でも、昔もらったブローチを、ずっと大事にしてるんだって。たぶん今も持ってると思う」
ファルコが息を呑む。
「……だから、まだ好きなんじゃないかな。その人のこと」
ガビとファルコは無言のままカヤを見る。
「お昼にしよ。みんな待ってるよ」
カヤが厩舎の外に向かって歩き出した後、ガビは拳を握り絞めながら俯き、独り言のように呟いた。
「そんな……そんなわけ、ないでしょ……」
ありえない。そんな恐ろしいこと、考えたくもない。
「ブローチ? あげた? ……嘘に決まってる」
そう言いながらも、ガビは揺らいでいた。心臓がドクンと鳴る。そのまま目を閉じて、更に強く拳を握りしめた。
***
義勇兵の軟禁が決まった。リディアたちがマーレに潜伏している間に、すべてが決まっていたのだ。
こうして仲間達と話していても、誰にもエレンの目的は分からない。室内には疑心暗鬼の空気が流れていた。
ミカサとアルミンは、何があってもエレンを信じたい。コニーは、もはやエレンを信じること自体が難しくなっている。ジャンは中立的な立場を取っているが、揺らいでいる。
そしてリディアもまた、揺れていた。
「リディアは……レベリオでエレンに会ったの?」
アルミンがそう尋ねると、ミカサが複雑そうな顔をした。ジャンもリディアを見る。ずっと気になっていたらしい。
「……そう。エレンが巨人化した地下室に、私もいた」
「は? 地下室? お前、そこからどうやって生き延びたんだよ」
ずっと窓の外を見ていたコニーが、驚いてリディアの方を振り向く。
「それってつまり、エレンはお前を殺そうとしたってことだろ」
「……リディアを戦地に置き去りにするような作戦自体、おかしいと思っていたが……」
ジャンが片手で眉間を押さえる。しかし、ジャンが思考するのを遮るように、コニーが言葉を続けた。
「理由は分からないが、地下室か戦場のどっちかでリディアが死ぬように仕向けてたんだ。回収場所すら指示になかったことがその証拠だ」
「違う。現にリディアは、こうして生きてる」
ミカサはエレンをかばう。
「そんなの偶然だ。サシャは死んだんだぞ!?」
コニーの言葉に、全員が沈黙した。
「リディア」
重い沈黙の中、最初に口を開いたのはジャンだった。
「他に、誰かいたのか」
「……ライナーと、戦士候補生のファルコがいた。飛行船で捕まった、捕虜の男の子」
「やっぱりライナーか……何となく、そんな気はしてた」
「でも、私は何もできなかった。ヴィリー・タイバーの宣戦布告と共にエレンが巨人化して、それから……」
そこでリディアは口をつぐんだ。
ライナーに庇われて助かったという事実を仲間に伝えることが、どうしても躊躇われた。
「鎧の巨人を弱体化させたのはエレン。私とファルコが生き残ったのは、本当に偶然でしかない」
しかし、誰も深く尋ねることはしなかった。
「……私には、もうエレンが分からない」
リディアが小さく呟くと、ミカサが「そんな……」と呟いて、顔色を変えた。
「エレンなら、ヒストリアを絶対に犠牲にしないと信じていた。だから私はエレンを信じて、地下室に行った」
リディアは、孤児院で見たヒストリアの笑顔を思い出していた。
「殺されかけた理由も、わざわざライナーに会わせた理由も、全部分からない。でも、もうそんなことを考えている余裕はない。それよりも、エレンがジークの手を取るというのなら……」
リディアの言葉を聞くミカサの目には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「それなら……私はエレンとの対立を避けられない」
ミカサが「あの時のことを思い出して」と言った。
一年前、鉄道工事をしていた時のこと。皆がエレンの巨人を継承すると言う中、リディア一人だけが少しずれたことを言っていた。
「悩むなぁ。私は女型の巨人を継承しようと思ってたんだけど、こんな流れじゃ、私しか適任がいないじゃない」
「……女型?」
アルミン以外の全員が、目を丸くして驚いた。
「いっそ二人分頂いちゃおうかな」
「どっちもダメだ」
無茶苦茶なことを言っていたら、エレンに止められた。
「オレはお前らに継承させるつもりはない」
そう言って夕日の中、顔を真っ赤にしていたエレン。
いつだって仲間のことが本当に大切で、その犠牲を避けようとしてきたエレン。
彼を疑うなんて、ありえないことだと思っていた。
しかしリディアは、違う日に交わした会話のことも思い出していた。
「絶対にヒストリアを犠牲にしない方法だと?」
「何か、ないのかな……」
リディアはエレンと二人で話していた。
部分的な地鳴らしを実行しても、それはせいぜい島が生き残るための時間稼ぎにしかならない。他の仲間達だって、他の方法が見つからない限り、いずれヒストリアの犠牲が避けられないという事実に気が付いている。
「そんな都合のいい方法が存在すると思うか?」
「そうだけど……まだ時間はある。何か、私達にできることが……」
「そんな方法があったとして、それが正しいかどうかは分からない」
リディアはエレンの言い方に一瞬だけ違和感を覚えた。何かを含ませるような言い方をしているようだった。しかし、エレンは受け流す。
「ずいぶんヒストリアにこだわるな。拾われた恩返しか」
「そんなんじゃない。ただ、私がヒストリアに生きていてほしいだけ。そのためなら私は何だってする」
「……その結果、自分が死ぬとしてもか」
「もちろん」
その時は大して気にも留めていなかったが、なぜエレンはあの時、死への覚悟なんてものを聞いてきたのだろうか。
解決することのない疑心暗鬼の中、アルミンとミカサが、エレンの真意を確かめるために兵団に掛け合うことを決めた。
……そしてその後、フロックら多数の兵士が、情報漏洩の罪で懲罰房に入れられることになった。
***
リディアは、懲罰房に拘束されたフロックと対峙していた。というか、フロックが看守を通じてリディアを呼び出したのだった。
「マーレの潜入調査で得たものはあったのか」
フロックはベッドに腰かけたまま、わざと横顔のままでリディアに話しかけた。
「何もなかっただろ。俺の言った通りだ」
リディアが無言でいると、フロックはゆっくりと続ける。
「飛行船で、どうしてお前じゃなくてサシャが死んだと思う?」
「……え?」
突然の問いにリディアは言葉を失った。フロックの声には、どこか意地の悪い響きがあった。
「お前を庇って死んだんじゃないか」
サシャが自分を庇った? そんなことはありえない。彼は何を言っているのだろうか。
フロックが顔をリディアの方に向けた。その目はリディアがマーレに発つ直前に見た目と同じで、相変わらず何かに取り憑かれたような鋭さを持っていた。
「サシャだけじゃない、たくさん人が死んだ。その犠牲の上に、お前はこうして生きている」
フロックの言葉は、リディアの胸に冷たい棘のように刺さる。
「どうしてそんなことを言うの。いつもいつも……」
リディアの声にはわずかな震えがあった。フロックはそれを見逃さず、満足げに小さく笑った。しかし、その表情はすぐに元の無表情に戻る。
しばらく沈黙が続いた後、フロックがさも思い出したかのように言った。
「レベリオで、ライナーに会ってたんだろ」
「……」
その問いに、リディアの体が一瞬固まる。誰から聞いたのか、それとも推測なのか。いずれにしても、答える必要はないと思い、リディアは沈黙を守った。
「答えないだろうとは思っていた」
フロックはため息をつき、立ち上がった。鉄格子に近づき、その両手で冷たい鉄を握る。
「なぁ」
格子の隙間から漏れる光が、彼の顔に不気味な影を作る。
「お前にとって、俺は何なんだ」
質問は唐突だった。そしていつもと何かが違う。フロックの声には、いつもの攻撃性だけでなく、何か脆いものが混じっていた。
「……私にとって、命の恩人。そして104期の仲間」
リディアは正直に答えた。
すると、フロックの顔に一瞬だけ、何かが走った気がした。そしてすぐに彼の表情は硬くなる。
「それならどうして、牢の外から俺を見てるんだ。何故いつも言うことを聞かない?」
フロックの手が格子を強く握りしめる。その青白い指が、まるで彼の内面の苦しみを表すように見えた。
リディアはため息をついた。どうしてフロックと話していると、いつもこうなってしまうのか。彼が何を求めているのか、どうしても理解できない。
「……あなたは昔から、私のことを対等だと思っていなかった」
心の奥にあった言葉が、静かに漏れ出た。フロックの目が見開かれる。
「言うことを聞くって何? 同期で、仲間で、同じ戦場を生き抜いてきたんだから、せめて……同じ目線で話してよ」
フロックは両手で牢の格子を握り、まっすぐにリディアを見おろしている。
彼の目には、怒りと共に何か別の感情――恐れ、あるいは悲しみ――が宿っていた。
「私はあなたの言う通り、決して優秀ではないし、流されてばかり。だけど最後にはいつも、自分自身で道を選択してきたと思っている」
リディアは一歩前に出て、フロックと目線を合わせた。彼との間には鉄格子があるだけなのに、どこか遠い存在のように感じられた。
「あなたは私に何を望んでいるの? 自分を肯定してくれる人が欲しいのか、共に人生を歩いて欲しいのか、それともただ……自分という光の、影になってほしいのか」
フロックの手が格子を離れ、ゆっくりと下がる。その目からは先ほどの鋭さが消え、代わりに何かを隠すような曇りが生まれていた。
「私はあなたの望む人間にはなれないし、それが何なのかも分からない」
「……」
「教えて。あなたが望んでいる私って、何?」
リディアの問いに、フロックは答えなかった。ただ、静かに格子から離れ、ふっと視線を逸らした。その表情には、かつての空虚さではなく、何か生々しい感情が浮かんでいた。彼は格子から離れ、リディアに背を向けた。
「……お前は、俺のことを何も分かっていない」
一瞬だけ、フロックの声が感情的に震えたような気がした。それを聞いてしまったリディアは、何も言えなくなった。彼の背中からは、いつもと違う緊張感が伝わってきた。肩が微かに震えているように見えた。
「わかった。もういい。……今まで悪かったな」
彼の声は、いつになく静かで、どこか諦めたような響きを持っていた。
「……もう、俺の前から消えてくれ」
フロックは俯き、リディアに背を向けたまま、ほとんど聞こえないほど小さな声で呟いた。
「俺だって、訓練兵の頃からずっと……お前のことが気に入らなかった」
その言葉は、嘘のように聞こえた。まるで自分自身に言い聞かせるような、そんな響きがあった。リディアはもう一度何か言おうとしたが、言葉が見つからなかった。フロックの背中には、何かが崩れていくような、そんな脆さがあった。
――これで対話を終わりにしていいのか?
懲罰房を去る際、リディアは自問した。
フロックが何を言いたかったのかも分からないまま、その手を振り切ったままで終わらせるなんて、本当にそれでいいのか?
彼が求めるものさえ分かれば、まだ、手遅れじゃない。もう一度わかり合えるのではないか。
踵を返し、リディアはもう一度フロックのもとに向かおうとした。しかし、
「面会の時間は終わりだぞ」
にやついた看守が、房に戻ろうとするリディアに声をかけた。
「恋人が捕まって心配なのは分かるが、規則は守ってもらわなきゃな」
「違う。そういう関係じゃない」
「まぁ安心しろよ、どうせすぐに出られるんだから」
「……すぐに出られる?」
看守の何気ない言葉が、引っかかった。
「いや別に? 労りの言葉だと思ってくれ」
看守はそれ以降黙り込んでしまった。これ以上詮索しても、何も出てこないだろう。
リディアは、一度だけ後ろを振り返り、懲罰房を後にした。
しかしその後、フロックを含めた100名余りの兵士が牢から姿を消した。
エレンと共に脱獄したと見られ、彼らは兵団から「イェーガー派」と呼称されることになった。
***
(エレンは、エルディアにとっての光だ)
しかし時に眩しすぎる光は、守るべき存在である島の人間達すら灼き尽くしてしまう。
強すぎる光を吸収できるのは、何よりも色濃い闇。
(俺がそうならなきゃいけない)
代弁者とはそういうことだ。触れられないほどの存在を、民衆の手に届くところまで降ろしてやる。それが、代弁者たる自分に託された役割なのだと、フロックは今や確信していた。
(俺がやるんだ。俺しかできない。悪魔を使役し、エルディア帝国を復活させる。やっと、俺の順番が来たんだ)
地下の懲罰房で、鉄格子の向こうにいるリディアが冷たい声で「あなたは私を対等に見ていない」と言ったとき、フロックは彼女が何を言っているのかまるで理解できなかった。
ただ戦友たるリディアを救いたかっただけなのに、彼女は自分を必要としなかった。フロックは拒絶され、救いとして差し出した手すら振り払われた。
フロックはこの世界で、ついに生きる目的を見つけた。自分はもう、誰にも見てもらえず誰からも選ばれないような「影」ではない。
リディアのような、何者でもない存在とは、もう違う。
エレンとミカサほどの関係性があれば「お前にとって俺は何だ」という言葉が人生の分岐点になりえますが、信頼関係を構築できていない者同士だと悪手にしかなりません。
関係を深める努力を放棄したまま「通じない問い」を突きつけても、それは「試し行為」にしかならないんですよね。