「楽園の島の魔女」(完結)   作:雄魔雌

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14 一条の光

 さっきまで温かかったレストランが、地獄のような場所に変わった。

 ガビは自分の混乱の中に沈み込む。視界の端に、厩舎の人たちが映った。

 

「うわぁあああ!」

 

 さっき自分を殺そうとしてきたカヤが、今は大きく泣き叫んでいる。彼女は家族に強く抱きしめられて……リディアも、そこにいた。

 リディアがカヤの小さな体をしっかりと抱きしめ、何度も背中を撫でていた。カヤはリディアの肩に顔をうずめ、体を大きく震わせている。

 

 ガビはただ、それを見ていた。

 憎しみに染まるはずの光景が、そうならなかった。

 なぜ?

 リディアは、厩舎の人々を次々に抱きしめていた。時には母親のように、時には娘のように。

 その姿が、ガビの心を奇妙に締めつけた。

 

 

 

***

 

 

 

 レストランで自分たちに銃口が向けられた瞬間、リディアはすべてを察した。

 フロックは今、かつての仲間を「拘束すべき敵」として見下ろしている。

 

「おとなしくしろ」

 

 その声は乾ききっていた。

 リディアのことなど気に留めることもなく、驚くほど淡々と、手を後ろに回すよう指示する。

 

 リディアは、わずかに目を細めた。

 

「……」

 

 フロックが初めてリディアに視線を向ける。だが、それはただの確認のような、無感情な目だった。

 

 指示を受けた兵士によって、リディアは手首を縛られる。ぎりぎりときつく締められた縄の感触を、リディアはただ受け入れた。自分がどう扱われようと、もはや驚くことはない。

 

 だが、隣で拘束されるハンジが別の兵士によって引き立てられるのを見て、思わず口を開いた。

 

「待て。ハンジ団長をどこに連れて行くつもりだ」

「リディア、ここは彼らに従おう」

 

 ハンジがリディアを止めようとして声を掛けると、フロックが冷たい声で言った。

 

「おかしな動きをするんじゃない」

 

 後ろ手を拘束されたリディアが一歩前に踏み出した、そのとき。

 

 強烈な衝撃が、リディアの頭を叩きつけた。

 銃だ。フロックが銃床を振り抜き、リディアの側頭部を殴ったのだ。

 理解した時には、もう遅かった。体が横に流れ、地面に叩きつけられる。視界が白く弾け、鈍い耳鳴りがする。

 

「っ……」

 

 リディアは咄嗟に手をつこうとしたが、拘束された腕が動かず、そのまま転がった。唇の内側が切れたのか、口の中に血の味が広がる。

 

「やめて……!」

 

 カヤたちの怯える声が聞こえてくる。リディアがゆっくり見上げると、フロックが銃を持ったまま、冷めた目でリディアを見下ろしていた。

 

「お前……!」

 

 ジャンが驚愕したようにフロックを見た。コニーも口を開けたまま絶句している。

 

「……銃がなきゃ、殴ることもできないんだ」

 

 倒れたまま、リディアはフロックを見つめた。

 

「おい、リディアも……やめろ!」

 

 リディアが挑発するような言葉を発したことに、ジャンも焦りを覚える。

 しかし、リディアに何を言われようと、フロックが特に反応することはなかった。

 

「誰かあれを地下牢にぶち込め。俺はハンジ団長を連れていく」

 

 

 

***

 

 

 

 鉄格子の向こうでは今、何が起きているのだろう。

 リディア達は、ブラウス厩舎の人たちやニコロと共に、地下牢に拘束された。これだけ人数がいるのに、異様に静かだった。

 カヤは椅子の上で膝を抱えたまま、じっと床を見つめている。ジャンは壁にもたれ、コニーは牢の鍵を睨みつけ、アルミンは思案しながら俯いている。ミカサだけが、じっとリディアの動きを見つめていた。

 

「お湯が沸きました」

「お茶が飲めそうやね」

 

 ニコロが湯を沸かし、サシャの父のアルトゥルが、ティーカップを準備する。

 

「私がやりますよ」

 

 リディアは、茶葉の箱を手に取った。

 

「いいって……」

 

 ニコロが自分でやろうとするが、リディアはそれを制止する。

 

「私にやらせて。お茶をいれることだけは、得意なの」

 

 

「何してるの?」

 

 カヤがぽつりと呟くと、リディアは穏やかに微笑んだ。

 

「お茶を淹れてる」

「こんな時に?」

「こんな時だから」

 

 カヤは膝を抱えたまま、小さく唇を噛んだ。声がかすかに震えている。

 

「ねぇ、リディア……」

 

 

「あの子は……ミアは、あなたのことも殺そうとしてた」

 

 牢の中の空気がわずかに変わった。

 ジャンが少しだけ視線を向け、コニーが息を飲む。アルミンは目を伏せたまま、何も言わなかった。

 リディアは、ゆっくりと顔を上げてカヤを見つめた。

 

「何かを聞いたの?」

 

 カヤは顔を上げずに、小さくうなずいた。

 

「お姉ちゃんを殺して、それだけじゃ足りなくて、今度はリディアのことまで……」

 

 カヤの拳がぎゅっと握られる。

 

「カヤ」

 

 自分のカップを机に置き、リディアはカヤの隣に座る。

 カヤはぎゅっと歯を食いしばる。リディアは、カヤのカップをそっと手に取った。

 

「こんな時に、味なんてわからないよ」

 

 カヤが小さく呟く。リディアは、穏やかに微笑んだ。

 

「でも、温かいでしょう?」

 

 カヤは、小さく瞬きをする。そして、ゆっくりとカップを受け取った。

 

「……うん」

 

 小さな声が聞こえた。

 

 

 

 

 しかし、穏やかな時間はほんの一瞬だけだった。

 同期達がエレンの真意を探ろうとする中、地下牢にイェレナが現れ、ジークの「安楽死計画」が明かされることになった。

 そしてすぐ、地下にいても分かるくらいの激しい音が響く。

 これは……開戦の合図だ。

 

 混乱した状況下で、オニャンコポンが牢の鍵を開ける。

 

「エレンの真意は別のことにあるのでは」

 「イェレナに話を聞いた時点で、ジークの味方として振る舞うしかなかったのでは」

 

 ……アルミンの言うとおりであれば、エレンは仲間たちを見放したわけではない。彼はまだ、自分が信じたエレンのままなのかもしれない。

 リディアはジャン達と共に、地下牢を飛び出した。真実を知るのは、彼を守ってからでいい。エレンが目的を果たした後、ジャンやコニーと、思う存分エレンを叱ってやればいい。

 

 

 

 そう思った。

 でも、だめだった。

 

 

 

 エレンの真意は、リディアの想像など及びつかないようなものだった。

 戦いの中、白昼夢のような世界で、リディアはエレンの声を聞いた。

 

「すべての壁の硬質化が解かれ、すべての巨人は歩み始めた」

 

 エレンがかつて言った言葉。

 絶対にヒストリアを犠牲にしない方法がないか、そう問いかけた時の、あの言葉。

 

「そんな方法があったとして、それが正しいかどうかは分からない」

 

 ……これがその答えであり、そして、エレンの真実だった。

 

 

 

***

 

 

 

 地鳴らしが始まった。

 世界が終わる音がする。

 

 ガビは、重傷を負ったライナーを民家にかくまった。

 蒼白な顔で横たわるライナーを見ながら、ガビは不安に駆られていた。彼はしばらく動けない。ライナーが死んだら、もう何もかも終わる。助けてくれる人なんていない。ここにガビの味方はいない。

 

 この家の付近に巨人の姿は見えない。だからきっとライナーは大丈夫……ガビがそう思っていた矢先のことだった。

 

「まだ、いる……」

 

 正面から、一体の巨人がガビに向かって走り寄ってきた。四肢をぎこちなく動かし、口を大きく開けたまま近づいてくる。ガビは恐怖で震える足を踏ん張り、巨人を見据え、しっかりとライフルを構えた。

 

 心の中で誓う。ライナーは自分が守る。ここにいる巨人を駆逐して、絶対にファルコを連れてくる。そのためにも、目の前の敵を仕留めなければ……!

 

 しかし、そう決意した瞬間、背後で建物の崩れる音がした。

 

「……!?」

 

 その音に気をとられ、正面の巨人から目線を外してしまった。

 その一瞬の隙をつき、巨人がガビに飛び掛かる。油断した。引き金を引くのが、間に合わない。

 

(食べられる……!)

 

 ガビが死を覚悟したその瞬間、目の前で巨人が崩れ落ちた。ガビの視界の端に、血に染まったブレードを引き抜く兵士の姿があった。鋭い目、引き締まった顔立ち、瞬時の判断で巨人を仕留める動き。

 

「……あなたは」

 

 そこにいたのは、飛行船でガビたちをかばい、ガビがずっと殺したいと願っていた、リディアだった。

 その姿を見て、ガビは息を呑んだ。血で汚れた制服に、揺らめく衣服。巨人の血が蒸気となって立ち上る中、リディアの顔には一筋の汗が流れていた。敵のはずの彼女が、ガビの命を救った。

 

「こんなところにいたら危ない。ついてきて、避難場所がある」

 

 リディアの声は冷静だったが、どこか急いでいるような焦りがあった。彼女はブレードを構え直し、周囲を警戒している。

 

「待って!」

 

 ガビは必死に駆け寄る。その声には、恐怖と決意が混ざっていた。

 ここにはまだ巨人がいる。誰も信用できない。でも、ライナーを助けるためには誰かを頼るしかない。そして自分は、ファルコを救いに行かなきゃいけない。だったら、今、自分にできることは……。

 

 ガビは目の前のリディアを見る。そして、レストランでの光景を思い出す。まるで本当の家族であるかのように厩舎の人々を抱きしめていた、あの姿を。

 自分はこの人を、憎んでいるはずだった。

 プライドが邪魔をする。こんなことを頼めば、それはリディアが自分の敵ではないと認めることになる。でも今、ライナーの命がかかっている。

 

「何?」

 

 リディアの問いかけに、ガビは再びリディアの目を見た。

 その目には、ガビに対する敵意など微塵もなかった。

 

 どうしてこの人は、飛行船で自分たちをかばった時と同じ目をしているんだ。

 ガビはファルコの言葉を思い出す。「何も見てないだろ」と言われた、あの日。

 

 ガビは唇をかみしめた。そしてその目に惑いと決意を浮かべながら……震える声で、目の前のリディアに懇願した。

 

「どうか、お願いします……ライナーを守ってください……!」

 

 まっすぐ頭を下げるガビに、リディアの目がわずかに揺れた。

 

「ライナーが、この近くに……?」

 

 リディアはしばらく言葉を失ったが、すぐにガビに言葉を返した。

 

「今ここにいる巨人達は、この島の兵士だった」

 

 リディアは静かに言った。風が吹き、彼女の髪が顔にかかる。それを払うこともせず、彼女は続ける。

 

「そして私は、彼らの仲間」

 

 リディアの手が、小刻みに震えた。その目には、悲しみと葛藤が浮かんでいる。

 

「ライナーを喰わせれば、誰かを人間に戻すことができる」

 

 リディアの言葉を聞き、ガビの声が震える。

 

「そんなことを……させたくないの……」

「私はライナーを殺すために兵士になった」

 

 リディアの表情は真剣そのもので、ガビの瞳を射抜くような鋭さを持っていた。

 

「そんな人間が、あなたの頼みを聞けると思う?」

 

 その問いにガビが小さく頷くと、リディアは突如、声を荒げた。

 

「私なんかに頼んだら一番助からないって、どうして思わないの!?」

 

 その言葉には、自分自身への嫌悪と、状況の理不尽さへの怒りが込められていた。

 あまりにも皮肉な運命。ライナーに母を殺されたリディアが今、ライナーを守ってほしいと懇願されている。

 

 

「あなた、リディアでしょ……」

「……覚えていたのね」

  

 ガビの言葉に、リディアの喉が、かすかに動いた。その目に驚きが浮かぶ。

 

「あなたは飛行船で、殴られる寸前の私をかばった」

 

 ガビの声は、次第に確かなものになっていった。彼女の中で、何かが変わりつつあった。

 

「だから、あなたなら……ライナーを殺さないって信じられる……気がするの」

 

 リディアはガビの顔を見つめた。その顔には複雑な感情が交錯していた。

 

「……どうして、私を……」

 

 リディアの声は途切れた。

 

 ガビは目を伏せたまま一歩前に進み、再び頭を深く下げた。

 

「お願いします……どうか、ライナーを……!」

 

 その姿勢には、彼女のプライドの放棄と、絶対的な信頼が込められていた。

 

 リディアの心の、何かが軋む。手は微かに震え、瞳が揺れる。

 

 ライナーを守る?

 できるわけがない。自分は復讐を誓った兵士で、最大の仇を守る義理などない。

 

 でも。

 目の前の少女が、自分を信じようとしている。

 かつてのリディアと同じように、憎しみと復讐に囚われていたであろうガビが……リディアを信じて、必死に頭を下げている。

 

 リディアの目が、ふと広がった。どこかから現れた無垢の巨人が、こちらに向かって唸り声を上げていることに気が付いた。

 

「あなたに、私に、ライナー……こんなところに三人もいたら、また巨人が寄ってくる」

 

 リディアはブレードを構え、ガビを見た。その目にはもう、迷いなどなかった。

 

「ファルコはきっと、ジャンたちが確保してる。きっと本部の一番高い砦に向かってる。火の手を迂回できる道は、あっち」

「……!」

 

 ガビの目が見開かれる。リディアがファルコの安否まで考えてくれたことに、驚愕した。

 

「この場所を、アルミンという兵士に伝えてほしい。私がライナーと共にいるということも」

 

 リディアは静かに微笑んだ。それは穏やかで、どこか諦めたようにも見える笑顔だった。

 

「約束する。ここの巨人に、ライナーを喰わせたりしない」

 

 リディアの言葉に、ガビの目から涙があふれそうになる。心の中の壁が、少しずつ崩れていくのを感じた。

 

「私がライナーを守る」

 

 ガビは息をのんだ。

 リディアの表情にも迷いはない。あるのは純粋な決意だけだ。

 

「だから、行って!」

 

 ガビは決意したように頷く。一つの家屋を指でリディアに示して、すぐに走り去っていった。

 

 

 

 

 

 リディアは立体機動に移り、家屋の屋根の上に飛び立つ。そして一瞬で状況を把握した。こちらに近づいてくる巨人が一、砦に向っている巨人が三。彼らの進路、そして残された時間。

 自分が仕留めるべき四体について、決断を下す。

 

 ワイヤーが飛んだ。石造りの家屋の壁に食い込むアンカー。リディアの指先が引き金を引き絞ると同時に、体が弾かれるように宙を舞った。

 

 風が頬を撫で、髪が乱れる。巨人の動きは遅い、リディアにとっては。

 

「そこだ!」

 

 体をしならせ、回転の遠心力を刃に集中させる。巨人のうなじに刃が食い込み、血煙が噴き出した。肉を裂く感触が手に伝わる。

 

「次!」

 

 足場を失う前に、次のアンカーを即座に発射。弧を描いて空中で姿勢を立て直し、着地の衝撃を受け流す。

 無駄にするな、ガスもブレードも時間も、すべて。

 

 残りの三体はすでに砦に向かって大股で進んでいる。

 左の巨人に照準を合わせた。風切り音が耳をつんざく。建物と建物の間を縫うように飛翔しながら、巨人の死角に回り込む。

 

「ここだ!」

 

 肉を一気に貫く。ザクリという生々しい手応え。リディアの刃を受け、巨人が膝から崩れ落ちる。

 

「あと二体!」

 

 間髪入れず右へ。ガス噴射を最大出力に切り替えると、加速で体が潰されそうなほどの圧力を感じた。視界が一瞬だけぼやける。

 巨人が異変に気づき、鈍重に振り向き始める。だが遅い。

 立体機動のワイヤーが、巨人の首元を軸にして弧を描く。リディアの体が巨人の周囲を旋回し、刃が光を反射する。

 一閃。首の後ろから噴出した鮮血が、蒸気と化す。巨人の動きが止まり、ゆっくりと前のめりに崩れ落ちていく。倒れる巨人の上を飛び越え、リディアは着地点を見極める。

 

「最後!」

 

 最後の巨人は少しだけ賢かった。

 リディアの接近を察知し、両腕を狂ったように振り回し始める。建物が粉々に砕け、瓦礫が降り注ぐ。無差別な攻撃圏内に踏み込めば、即死は避けられない。

 

「くっ……」

 

 咄嗟に回避を優先。屋根を蹴り上げ、体を反転させる。アンカーを連続射出。左、右、さらに上へ。三次元空間を這い回る。

 巨人の腕が建物を粉砕する度に、衝撃波が体を揺らす。バランスを崩しかける度に、リディアは咄嗟にワイヤーの張力を調整し、姿勢を立て直す。

 

「落ち着け。息を整えろ……」

 

 鼓動が耳に響く。時間が遅く流れ始める。

 

「タイミングを見極めろ」

 

 リディアの瞳が鋭く細められ、巨人の動きのリズムを読み取る。

 そこだ。巨人の腕が振り下ろされた直後の、わずか一瞬の隙。無防備になる瞬間。

 

「今!」

 

 弾丸のように飛び出す。低空で一気に駆け抜け、巨人の死角に回り込む。垂直に上昇、うなじに照準を定め、全身の力を込めて刀を突き立てる。

 

 刃が深く沈み込む感触。巨人の全身が硬直する。

 一拍。二拍。

 巨人の巨体が重力に屈し、地面へと崩れ落ちた。

 

 リディアは反動を利用して体を反転させ、次の屋根へと着地。巨人の亡骸を背に、立ち上る蒸気の中で一瞬の静寂を味わう。

 鼓動と荒い息遣いだけが耳に残った。

 屋根から飛び降り、一人、約束の場所へ向かう。

 

 

 

***

 

 

 

 砦に引き付けられた無垢の巨人が凄まじい轟音と共に駆逐された。

 マーレ兵が全滅した地獄のような光景を潜り抜け、ようやく砦に辿り着いたガビは、震える声でアルミンにリディアのことを伝えた。

 ミカサとアルミンは目を見開きながら、その予想外の伝言を呑み込んだ。

 

「……リディアが、ライナーを……」

 

 ミカサの声は細く、疑念と期待が交錯していた。

 

「どうしてそんな危険なことをしたの? パラディ島の兵士に託すなんて、鎧の巨人の力が奪われる可能性の方が高かった」

 そしてアルミンの声にも、不安と困惑が入り混じっていた。

 

「あの人は……」

 

 ガビは一瞬言葉に詰まったが、胸の内を整理するように小さく息を吐いた。

 

「私を助けてくれた。巨人に襲われた時も、飛行船で殴られそうになった時も。……それに、約束してくれた。ライナーのことを、守るって」

 

「ファルコだって、レベリオから逃げる時、あの人に誘導されて逃げ道を確保したって言ってた。だから……」

 

 ガビの言葉には切実な思いが込められていた。

 

「あの人……リディアなら。信じられると、思ったの」

 

 ガビの真剣な目に、アルミンが喉の奥で唾を飲み込む音が響いた。彼の頭の中では、様々な可能性が目まぐるしく駆け巡っていた。

 だが、とりあえずリディアがライナーを確保したということなら、鎧の巨人のことを気にする必要はなさそうだった。その一縷の希望に、彼の緊張した肩がわずかに緩んだ。

 

「ガビ。他の誰かに、この事を伝えた?」

「ううん、リディアが……」

 

 ガビは首を横に振り、小声で続けた。

 

「アルミンって人にだけ伝えてくれって……」

「……そうか、ありがとう」

 

 アルミンの表情に、複雑な思いが交錯した。安堵と新たな不安が入り混じり、これからの展開を思案する影が浮かんでいた。

 

 

 

***

 

 

 

 アルミンがコニーを追い、残されたミカサは、静かに銃を構えるフロックを見つめていた。

 義勇兵の額に狙いをつけ、引き金を引く。人が倒れる様を、フロックは無感情に眺めている。

 

 エレンの代弁者を名乗るフロックは「島の外の問題を解決するのがエレンで、島の中の遺恨を消し去るのが自分の役割だ」と主張した。

 妙に穏やかな笑みを浮かべ、ジャンに向かって「もう自由だ」などと言う。

 

 ミカサは言葉を失った。

 一体、何からの自由なのか。何がフロックをここまで変えたのか。そもそも彼は変わったのか。元からこういう人間だったのか。

 

 フロックは微笑みながらジャンに問いかけた。

 

「リディアはどこだ?」

 

 その名が口から発せられた瞬間、ミカサは一瞬だけ目を細める。

 

「知らん。地鳴らしが始まってから、姿を見ていない」

 

 ジャンがそう答えると、フロックはミカサに視線を移す。

 

「ミカサ、お前はどうだ」

「知らない。……死んだのでは?」

 

 ミカサは淡々と、とぼけるように言った。

 

「……そうか」

 

 その瞬間、フロックの笑みが消えた。

 彼はわずかに目を伏せ、それから、静かに言葉を紡いだ。

 

「あいつのことだ、もしかしたら鎧の巨人の居場所を掴んで、そこにいるんじゃないかと思ったんだがな」

 

 ミカサが眉をひそめた。

 

「なぜ、そんなことを……」

「四年前もそうだった」

 

 静かな声だったが、その響きには確信があった。

 

「リディアは狂っている」

「……なんだって?」

 

 ジャンが低く問い返すも、フロックは淡々と答えた。

 

「もうずっと、正気じゃない。あいつは何者にもなれなくて、鎧の巨人にこだわることにしか存在意義を見出せないから、ずっとライナーに執着してる」

 

 フロックは静かに息を吐いた。そして独り言のように呟く。

 

「でもそれは、リディアを生かした俺の責任でもある」

 

 ジャンが息を呑んだ。

 

「もう、まともに生きる術を持ってない。何度も同じことを繰り返して、またどこかで……もう生きられないって、自分には何もないって……血だらけで泣くことになる」

 

 

「だからまた、見つけてやらないと」

 

 

 静寂。

 ジャンとミカサに、寒気が走った。

 

 ジャンは淡々と話すフロックを見て思った。

 狂っているのは、どっちだ。

 エレンに従い地鳴らしを進めること、エルディア帝国を復活させること。そして、リディアを自分と同じ場所に連れ戻すこと。それらがフロックにとっての存在意義の証明になってしまっている。

 

 緊張した空気が漂う中、フロックが続けて話し出した。

 

「レベリオで、リディアがエレンの指示通りにライナーを殺していれば……」

「……は?」

 

 ジャンが鋭い目線でフロックを睨みつけた。

 

「おい。さっきからお前、正気で言ってんのか?」

「殺害の指示なんてなかった。そもそもリディアは丸腰でエレンに呼び出されている」

 

 ジャンとミカサは憤然とした表情で口を挟んだが、フロックは完全に無視するようにして言葉を続ける。

 

「あいつは本物の馬鹿だからな。戦場になることを分かっていて、素直に丸腰で向かうくらいには……。鎧の巨人に執着する割に、自分を弄んだそいつを殺すこともできない。ただの馬鹿が、兵士ごっこをしていただけ」

 

 その吐き捨てるような言葉に、リディアへの軽蔑が浮かんでいた。

 

「リディアはずっとお前を理解しようとしてきただろ。そんな相手に対する物言いが、それか?」

「もう聞いてられない。フロック、これ以上リディアを侮辱するようなら……」

 

 ミカサが拳を振るわせる。

 

「侮辱なんかしてない」

 

 しかしフロックは、微かに笑って言った。

 

「地鳴らしが終わったら責任を取る。ちゃんとあいつを貰ってやるよ」

「……は?」

 

 予期せぬ言葉に、ジャンとミカサが衝撃で固まった。

 

「リディアは未熟だけど、まだ利用価値がある」

 

 ジャンが思わず眉をひそめ、ミカサは強くフロックを睨んだ。

 

「……彼女の意思はどこにあるの」

「意思?」

 

 ミカサの声は低く、抑えきれない怒りに震えていたが、そんな彼女をフロックは鼻で笑った。

 

「そんなものこそ必要ない。必要なのは都合のいい『物語』だろ」

「なっ……」

 

 ジャンは言葉を失い、戦慄と共に息を呑んだ。

 

「エレンや女王以外にも……エルディア帝国の統率や平和維持のために、もっと民衆に近い旗印が欲しい。性別も女の方が便利だ。別に誰でもいいし、それはミカサでも良いんだが……」

 

 フロックはミカサを値踏みするような視線を向け、続けた。

 

「リディアの経歴が使いやすい」

 

「戦後傷ついた民衆を慰めるための、ちょっとした物語になってくれればいい。俺らがそういう仲だと思ってる兵士も多いようだし、籍でも入れておいたら楽だ」

 

 

「なぁ、本当に……さっきから何言ってんだ?」

 

 ジャンの声には、憤怒と同時に戦慄すべき恐怖が混じっていた。

 

「そうだな。まだ地鳴らしが終わったわけじゃないし、壁内には問題が山積みだ。それらを一気に片付ける方が優先だよな」

 

 フロックの声からは何の感情も感じられない、空虚な響きだけが不気味に部屋に満ちた。

 

「それに、まあ……共に地獄を見てきた女なわけだし、ちゃんとリディアのことは愛してるよ」

 

 それは、愛する人について語るような声色ではなかった。

 フロックはただ、死んだ魚のような目で、何もない壁を見ながらそう呟いていた。

 

 

 

 

 ジャンは去っていくフロックの背中を睨みつけたまま、無言で歯を食いしばった。

 

「……クソが……」

 

 言葉にならない憤りが、拳に力を込めさせる。フロックは最後まで、どこか淡々と、すべてを理屈で処理していた。

 物語としてリディアを利用する。旗印としてリディアを持ち上げる。それが当然であるかのように。そして、それを正当化するために「愛してる」などと、心にもないことを口にした。

 空虚な響きだけが残るその言葉に、怒りよりも嫌悪が込み上げる。

 ジャンは頭を抱えながら、深く息を吐いた。

 

「この期に及んで、何ふざけたこと言ってんだよ……」

 

 静寂が降りる。ミカサが、その沈黙を破った。

 

「……ジャン」

 

 ミカサが小さな声で話しかける。普段と変わらない冷静な響きだったが、わずかに揺れが混じっていた。

 

「フロックの推測どおり、リディアはライナーのところにいる」

「はぁ!?」

 

 ジャンが即座に食ってかかる。ミカサは目を伏せ、冷静に続けた。

 

「ガビが、リディアを信じて託した。ライナーは重症を負っているようで、リディアが回復を待ちながら彼を守っている。ガビとファルコが合流したら、そこに案内させる。だから、それまでは……」

「……わかった」

 

 ジャンは、そう言うしかなかった。リディアが無事であることに安堵するべきか、それとも新たな危険に身を投じていることを嘆くべきか。どちらにせよ、今ここでどうにかできることではない。

 

 ……自分がこれからどうするべきか、今はそれすら決まっていないし、分からないのだ。他人のことより、まずは己の覚悟を決めなければならない。自分の選ぶ道、そして未来を。

 

 

 ジャンは、かつてリディアがぽつりと漏らした言葉を思い出した。

 

「迷惑なら、はっきりフロックに言っておいたほうがいいぞ」

 

 ジャンがそう言った時、リディアは少し困ったように笑いながら、こう言った。

 

「……でも、放っておけないよ。私の存在を確認しないと、自分が生きているか死んでいるかわからなくなる時があるんだって」

 

 

 ジャンは、拳を握りしめながら、苦々しく呟いた。

 

「あいつには俺が必要……だと?」

 

 笑わせる。本当に必要としているのは、どっちだ。




もし「進撃2」のゲームに続編が出ていたら、地鳴らし開始後にライナーを守る戦闘シーンがあったんじゃないかなと妄想して作りました。
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