「楽園の島の魔女」(完結)   作:雄魔雌

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15 壁の外の迷子

 ガビに伝えられた家の前で、リディアは一瞬、足を止めた。

 

「……やっぱり、ここだ……」

 

 過去の記憶が、脳裏を掠める。懐かしさの中に、どこか居場所のない寂しさが入り混じる。

 風が吹き、かすかに汚れた窓ガラスに自分の姿が映る。もはや記憶の中の少女ではなく、血に染まった兵士の姿。

 それでも彼女は扉を押し開けた。木製の扉が、重くきしむ音を立てる。

 

 

 

 部屋の中ではライナーが横になっていた。かろうじて意識はあるようだが、顔色は悪く、荒い息をついている。

 

「リディア……?」

 

 彼女の姿を認めると、ライナーの表情が歪んだ。それは、苦痛とも、驚きとも、恐怖とも、あるいは……安堵とも取れるような表情だった。

 

「あなたを殺しに来たんじゃない」

 

 リディアは意識的に、冷たい声で言った。その声は、かつて抱いていた復讐心とは裏腹に、どこか空虚に響いた。

 

「私はあなたを守りにきた」

 

 ライナーの目が大きく揺らぐ。言葉の意味を理解できないかのように、彼は混乱した目でリディアを見つめた。

 

「な、んで……」

 

 困惑と絶望が入り混じる顔。かつてリディアが憧れた顔は、今や憔悴しきっていた。その顔を見て、リディアは思わずため息をついた。

 

「ガビと約束したから」

「ガビが……」

 

 ライナーは慌てて身を起こそうとするが、傷の修復が間に合っておらず、体を支えることすらままならない。

 

「ガビは、どこだ。無事なのか!?」

 

 その声には切迫した焦りがあった。

 

「ガビは生きている。今、ファルコのもとに向かっている」

 

 ライナーは安堵したように息を吐いた。その肩から力が抜け、崩れるように戻る。

 

 その反応を見て、リディアは僅かに視線を落とした。

 

「彼女と約束したから、私もあなたを兵団に引き渡すようなことはしない。ただ勘違いしないでほしいんだけど、マーレのお仲間がここに現れたとしても、あなたを返すつもりはない」

 

 窓の外から入り込む夕日が、部屋の中に長い影を落とす。その影がリディアの顔を半分だけ覆い、彼女の表情をより厳しく見せた。

 

「あなたに、レベリオでの借りを返す。ただそれだけ」

 

 

 ライナーは、唇を噛んだ。彼の瞳には、諦めと自己嫌悪が浮かんでいる。

 

「リディア……俺は……」

「何」

「……俺、を……」

「無理して喋らないで。傷の修復が遅れる」

 

 リディアの声は冷静だったが、その奥に隠された感情の揺らぎを、ライナーは感じ取ったようだった。

 

「俺を、憎んでいるんだろう」

 

 リディアの瞳が、一瞬だけ揺れた。光と影の境界線に立っていた彼女の顔に、感情の波が走る。

 

「……」

 

 彼女は何も答えなかった。その沈黙がライナーの胸を刺した。

 

「俺のことなんか守らなくていい」

 

 ライナーは天井を見つめながら、ぼそっと呟く。その声は絶望的なほど弱々しく、しかし決意に満ちていた。

 

「俺は……何をしても、誰を救っても……結局、何者にもなれない」

 

 部屋の隅から、古時計の音だけが響く。ゆっくりと刻まれる時間の中で、過去の記憶が二人の間で交錯する。

 

「自分の家族を守りたくて、立派な息子になりたくて、戦士になった」

 

「でも……結局、何も守れなかった」

 

 ライナーの言葉は、部屋の中に重く沈殿していく。リディアは壁際に立ったまま、動かない。

 

 

「……殺してくれ」

 

 その言葉を聞いたとき、リディアの拳が激しく震えた。心臓が胸を突き破るように高鳴り、その震えが全身へと広がっていく。

 

 ライナーは、痛みを押し殺すように目を閉じる。その顔は死者のように青ざめていた。

 

「俺がお前にしてやれることなんて、それくらいしかないんだ。自分のしてきたことを考えれば……」

 

 彼の声はかすれ、後悔と諦めが混ざり合った、生きる意味を見失った者の声をしていた。

 

「……」

 

 リディアは、爪が手のひらに食い込むほどの力で拳を握りす。胸の内で渦巻く怒りと悲しみが、今にも溢れ出しそうだった。

 刻々と深まる夕暮れの中、二人の影が壁に長く伸びる。その輪郭はまるで、互いを引き裂こうとするかのように歪んでいく。

 

「リディアが最期を決めてくれるんだったら、それで俺は、もう……」

「うるさい!!」

 

 リディアの怒声が閉ざされた部屋に響き渡る。ガラス窓が悲鳴をあげるように震え、空気そのものが凍りついたようだった。

 それは、リディアの何かが決壊した瞬間だった。

 ブレードを抜き、リディアは一瞬でライナーに近付いた。その動きは風のように速く、ライナーが反応する暇すらなかった。

 

 冷たい鋼の刃が、ライナーの喉元に突きつけられた。

 刃先が皮膚に触れる寸前で止まり、その冷気がライナーの肌を這う。

 

「黙って寝てろ、ライナー・ブラウン!!」

 

 ライナーの呼吸が止まる。その瞳に、怒りに震えるリディアの姿が映る。

 リディアは、ライナーの上にまたがる形でその顔を覗き込んでいた。少しでも動けば、その喉に刃が突き刺さり、全てが終わるだろう。その目には燃えるような怒りと、深い、底なしの悲しみが渦を巻いていた。

 

「ここで死んで楽になれるのは、あなただけ」

 

 刃が感情を映し出すように小刻みに震える。リディアの手も、抑えきれない感情の嵐に翻弄されるように揺れていた。その指先から伝わる震えが、ライナーの命運を握っている。

 

「あなたはずっと……訓練兵の頃からずっとそうだった。私を気にかけているようで、私のことなんか、結局一度も見ていなかった」

 

 長年封印してきた言葉を、胸の奥底から搾り出すように吐き出した。

 

「……!」

 

 ライナーの目が、恐怖と衝撃で大きく見開かれる。リディアの言葉が、鋭い刃物のように突き刺さる。

 

「今なら分かる。私を気にかけてくれたのも、ブローチをくれたのも……全部、自分の心を守るためだったんでしょう」

 

 刃の先が、わずかにライナーの肌を掠める。血の一滴が、彼の首筋を伝って流れる。

 

「自分の罪を想起させる存在が、自分を慕って付いて回る……さぞ怖かったでしょうね」

 

 リディアの声は低く、しかし鋭かった。震える唇から紡ぎ出される言葉の一つ一つが、長い間抑え込んできた憎しみと悲しみの重みを帯びていた。

 

「あなたが兵士になりきって逃げたつもりでも、私は……私が存在するという、ただそれだけで、あなたを傷つけ続けた」

 

 彼女の声には、決して癒えることのない傷の痛みが滲んでいた。目に涙が浮かぶが、決して流さない。その炎のような揺らぎは、ライナーを捉えて離さない。

 

「存在すること、それだけで人を追い詰めることができるなんて、知らなかった……」

 

 その声は、次第に囁きのように小さくなっていた。

 その静けさはかえって激しい怒号よりもこの場の空気を重くし、二人の間に広がる沈黙が、これまでの長い年月を想起させた。

 

 

「私が死んでいれば、あなたも楽になれたの?」

 

 その言葉に、ライナーの喉が音を立てて動く。呼吸が乱れ、目に涙が浮かぶ。言葉にできない罪悪感が彼の全身を締め付け、息も満足にできない。

 

「私だって、ずっと……」

 

 リディアの声が震えた。

 

「何も知らない、壁の中の少女のままで……死んでしまいたかった……」

 

 その瞳に満ちた涙が反射して輝き、今にも零れ落ちそうになっている。リディアはそれを必死に堪えていた。しかし弱さを見せまいとする強がりが、かえって脆さを浮き彫りにしていた。

 

「どうしてレベリオで私を守ったの? それも自分の心を守るため?」

「それは……」

 

 違う。それだけは違うとライナーは必死に言いたかったが、言葉が喉に詰まって出ない。

 口を開いても、声にならない。過去の行為が、これまでの嘘と裏切りの重さが、巨大な波となって今の彼を打ちのめそうとする。

 

「そのうえ今も、私のためだとか言って、自分を殺してくれとか……」

 

 リディアの声が裂けそうになる。

 

「……そんなのって、ないよ……」

 

 彼女の声には、もはや燃えるような怒りではなく、深く、底知れない悲しみが刻み込まれていた。

 声は部屋の隅々まで静かに響き渡り、二人の間に横たわる埋めようのない溝を浮き彫りにする。

 

 

 

「ここで死んだら、あなたは英雄になれる」

 

 リディアが、震える手で刃を振り上げる。その刃先が不吉な輝きを放っている。彼女の顔は涙と汗で濡れ、荒い息遣いがライナーの顔に吹きかかる。

 

「私の知らない、どこかの誰かにとってはね」

 

 光を受けて輝く刃が、ライナーの目を眩ませる。その鋭い光が、彼の人生の終わりを告げるようだった。

 

 ライナーは覚悟して、静かに目をつぶった。長い間抱え続けてきた罪の重荷から解放される瞬間を、彼は受け入れようとしていた。

 これで終わる。ようやく全てから解放される。そんな諦めと安堵が入り混じった思いが胸を満たした、その瞬間。

 

 

 ザクっという音が、耳の横に響いた。

 

 リディアの刃は、彼の喉元を掠めることなく、床に深々と突き刺さっていた。

 刃が木の床に突き刺さる振動が、ライナーの体を伝う。恐る恐る目を開けると、ライナーの頬に水滴が落ちる。

 

 リディアが、泣いていた。

 

 

 

「……この家が、どこだか分かる?」

 

 一滴、また一滴と、顔に落ちてくる温かい雫。ライナーは言葉を失ったまま、リディアを見つめるしかできなかった。

 

「ここは、私の生まれ育った家だった」

 

 リディアは、抑えようもなくボロボロと涙を流していた。それは唇の端で震え、やがて空中に落ち、ライナーの頬を濡らしていく。

 その涙は、彼女の心の奥底に封印されていた、長い長い悲しみの結晶だった。

 

「今はもう、違う家族が暮らしている」

 

 夕闇が深まる部屋の中で、二人の影だけが静かに揺れている。

 

「でも、残っているものもある。机も、洗面台も、鏡も、柱の傷も……私が住んでいた頃と同じ」

 

 その言葉は、ライナーの心を打ち砕くほどの重みを持っていた。

 

「……そんな場所で、私に手を下せと言うの?」

 

 もはやライナーには、何も言えなかった。

 胸が締め付けられるような痛みを感じた。自分が奪ったものの大きさを、今初めて真に理解したかのように。

 

 このような場所でリディアと対峙していたことが、あまりにも残酷な皮肉に思えた。彼女の過去と現在が交錯する場所で、ライナーは自らの罪と真正面から向き合わざるを得なかった。

 彼女はここで、自分と向き合おうとしてくれていた。それを拒絶して死を望んだのが、自分だった。

 

「最低だ……俺は」

 

 静かに呟いた言葉には、もはや言い訳も弁解もなかった。ただ純粋な自己嫌悪と、謝罪の気持ちが込められていた。

 

 リディアは刃を握る手を緩めると、まるで全ての力が抜けたかのようにゆっくりとライナーの上から降りた。その動作には、長い戦いを終えた兵士のような疲労感が滲んでいた。

 近くにあった椅子に腰を下ろすと、彼女は深いため息をついた。

 夕日の光が窓から差し込む最後の赤い光線が弱まり、部屋は徐々に青い闇に包まれていく。二人の顔は、薄暗がりの中でぼんやりとしか見えなくなっていた。

 

「少し寝る」

 

 そう言って、リディアは重たい頭をテーブルに突っ伏す。

 

「もし誰かが来たら、自分で何とかして」

 

 どう見てもなんとかできる状態ではないライナーに、リディアは最後の言葉を言い捨てた。その声は疲れ切っていたが、かすかな安堵が混ざっているように聞こえた。

 

 

 

 

 窓の外では、星々が一つ、また一つと瞬き始めていた。

 リディアは机に突っ伏しながら、レストランで聞いたサシャの父の言葉を思い出した。

 

「サシャが殺されたんは……森を彷徨ったからやと思っとる」

 

 命の奪い合いを続ける巨大な森の中。

 壁の外も、壁の中も。どこにいたって、巨大な森の中。

 

(そこから出られないうちは、私たち……)

 

 リディアは重く瞼を閉じた。頭の中で、104期生たちとの記憶が交錯する。

 

 エレンと語り合った夢。アルミンに教わった知識。ミカサの圧倒的な強さ。ジャンとの軽口。サシャやコニーとの悪ふざけ。マルコのはにかんだ笑顔。アニとの秘密の訓練。ベルトルトの不安そうな表情。ユミルのからかい。ヒストリアの香水。フロックの虚ろな目。そして、ライナーの……

 

 机から少し顔を上げ、床に横たわるライナーを見た。

 傷を修復しながら、彼は眠っている。その顔は苦しみに歪んでいるようにも、安らかなようにも思えた。

 

 その姿を見て、リディアはレベリオで出会った女性のことを思い出した。

 小柄で金色の髪をしたあの女性は、どこかライナーに似た目をしていて、間違いなく彼の母親だと思った。ライナーのことを「あの子は私の誇りだ」と言って、リディアをマーレ人だと思い込み……卑屈な笑みを浮かべていた。

 

 

「ねぇ」

 

 リディアは、静かに呟いた。闇が深まる部屋の中で、彼女の声だけが浮かび上がる。

 

 母が誇る立派な息子、使命を果たすための戦士、皆に頼られる兵士、リディアの憧れた人。

 

「……どの姿でいるのも、辛かったの?」

 

 

 

 ライナーは答えない。聞いているのか聞いていないのかも分からない。彼の胸が、呼吸に合わせてゆっくりと上下している。

 

 リディアは立ち上がり、再びライナーに近づいた。木の床がきしむ音が静かに響く。

 彼の隣でしゃがみこみ、改めてその顔を観察する。彼は苦しそうな顔で眠っていた。額の汗が床板に流れ落ちている。

 

(なんか……ずいぶん老けたな。しかも痩せてる)

 

 無精髭が生えている。身なりに気を使わないのは、精神が疲弊している証だ。

 

 

 

 ――この人は、迷子だ。

 

 月明かりが窓から差し込み、ライナーの顔に青白い光を落とす。リディアは眠るライナーを眺めながら、心の中でそう思った。

 壁の中にも、壁の外にも、どこにも居場所がない……ただの迷子。

 

 部屋の中を改めて見回すと、壁に落書きの跡を見つけた。

 以前ハンジと共にこの家を訪れたときに見たものではない。幼い頃にリディアが描いた落書きの上に、別の絵が重ねられている。リディアの絵は、完全に塗りつぶされていた。

 

「……私はもう、ここにはいないんだ……」

 

 その言葉には、悲しみよりも受容があった。

 迷子なのは、この人だけじゃない。自分だってそうだ。もうずっと、何のために、誰のために戦ってるのか、分からないままでいる。

 

(壁外調査で行方不明になった兵士を探したいとか、鎧の巨人を殺したいとか、そんなことばっかり、言ってたっけ……)

 

 壁の落書きを見つめて、思い出す。自由の翼を真似て、下手な絵で、壁に落書きをしていたあの頃。

 心は純粋で、目標は単純だった。

 

「今の私は、何がしたいのかな……」

 

 ただ、ヒストリアを犠牲にしたくなかった。

 ただ、代案があるのかと問われても何も思いつかなかった。フロックやイェーガー派に従わなかった理由だって、はっきりとは答えられない。

 

「目的がなきゃ、兵士じゃないの?」

 

 カヤの言葉を思い出す。純粋なその問いが、リディアの心に響く。

 

 そのとき、突然の閃きが訪れる。まるで霧の中に一筋の光が差し込むように。

 

(私やライナーだけじゃない。エレンも今、壁の外で行方不明になっている迷子……)

 

 旧調査兵団本部で「エレンは人間です」と言って彼を庇った日のことを思い出した。

 エレンはあの時と変わらない。彼は人間だ。あの時そう言ったのに、どうして彼を疑ったんだろう?

 

 リディアの信じたエレンは、普通の人間だった。リディア一人に信じてもらえただけで泣きそうな顔を浮かべるほど、普通の少年だった。

 彼が彷徨った末にこんな選択を取らざるを得なくなったのであれば、それは何も選べなかった自分たちの責任でもある。

 

 エレンを止めたい。

 ライナーが目覚めたら、エレンの地鳴らしを止めに行く。

 

 世界のこととか人類のこととか、何が正しいのかなんて、リディアには今も分からない。

 ただ、それでもエレンを止めたい。

 視野が狭くて自分のことしか考えられない自分でも、それでも今は……自分を信じたい。

 強い決意がリディアの中で固まっていく。それは小さくとも確かな炎のように、彼女の心を温める。

 

(私は、自分を信じるために調査兵団の一員になったんだ)

 

 夢や目的や目標など、ずっと色々なものを探してきた。でもそれは結局、自分自身を信じるための軸を探していただけ。

 自分はとことん凡人だ。優秀じゃないし、そもそも兵士に向いていない。これだけはフロックの言う通りだったのかもしれない。

 

 

 ライナーは今も眠っている。傷の修復は順調に進んでいるように見えた。呼吸が落ち着き、顔の色も少しずつ戻ってきている。

 仲間たちは、絶対にライナーを探しに来る。エレンを、地鳴らしを止めるために。そのためにも、鎧の巨人……いや、ライナーは不可欠だ。

 ガビがアルミンに場所を伝えているはず。だからこそ、リディアはここを離れるわけにはいかない。

 

 このまま地鳴らしが進行すれば、ライナーの家族も、故郷も、この世界から消えてしまう。ただでさえ迷子になっているこの人を、更に路頭に迷わせるのが、自分の望み?

 

 ――そんなわけ、ない。

 

 月光の中、リディアはそっと手を伸ばし、ライナーの髪を撫でた。指先に伝わる感触は、不思議と懐かしく感じられた。

 触れると、ライナーの目がうっすらと開いた。自分の髪を撫でるリディアの姿を、ぼんやりと見つめている。その目には、言葉にならない何かが浮かんでいた。

 

 

 ずっと探していた「壁の外の迷子」は、ここにいた。

 

 そう思うと、急に、憑き物が落ちたような気持ちになった。不思議と気分が爽やかで、心が軽い。

 

(この人に執着していたのは、私が自分を見失ったまま、迷子になっていたからだ)

 

 ライナーに対する怒りや復讐心や恋心を、ずっと自分の軸にしていた。

 でも、自分は何者でもない。ただの凡人で、復讐を遂げる悲劇の英雄なんかじゃない。

 

 ライナーは、リディアじゃない。

 他人に自分の生きる軸を委ねてはならない。

 

 

 ラガコ村でハンジにもらった言葉を思い出した。

 

「怒りは悪いことではない、それは原動力になるから。でも間違えてはいけない。それを晴らすことだけを目的にしてしまうと、自分を見失ってしまうからね」

 

 リディアは思わず微笑んだ。ハンジの言葉はいつも、リディアを進むべき場所に導いてくれる。

 

 かつてのような強い殺意と復讐心、そしてずっと抱えてきた恋心までもが……ゆっくりと、胸の中で溶けていくような気がした。

 決して、この人を許したというわけではない。それでも今の気持ちは、不思議と穏やかだった。

 

 リディアはポケットの中からブローチを取り出し、眠るライナーの傍に置いた。月明かりに照らされて、それは静かに輝く。

 

「……返すね」

 

 ブローチはコロンと音を立てて、静かに床の上に転がった。その小さな音が、大きな変化の始まりを告げていた。

 

 

 

 

 髪を撫でる手の温もりが消え、ライナーの眼前には懐かしいブローチだけが残された。

 

 リディアが外の様子を見てくると言って部屋を出たとき、ライナーはその後ろ姿に無意識に手を伸ばした。

 

「待っ……」

 

 しかし声は届かず、リディアは扉の向こうに消えた。

 彼の手が宙に残されたまま、胸の奥がずんと重くなる。自分に対して垣間見せていた温かさが遠ざかっていくようで、過去の執着が一気に断ち切られたような気がした。

 

(……終わった)

 

 ライナーは力なく手を下ろし、床に転がっているブローチに再び目を落とした。拾い上げ、片手で強く握りしめる。その冷たさが掌に染みる。

 

 自分がリディアに渡したブローチ。

 これを渡したとき、彼女は心から喜び、微笑んだ。「ありがとう、本当に嬉しい」と言われたときのことを、ライナーは今でもはっきり覚えている。

 

 あの笑顔はもう二度と戻らない。どれだけ手を伸ばしても、もう遅い。

 現実を突きつけられたライナーは、どうしようもなく寂しさを覚えた。

 

(俺は……リディアの気持ちがずっと続くものだと、勝手に思っていたのか)

 

 ライナーは再びブローチを握りしめた。その感触が、罪の重さを思い出させる。自分の思い込みがどれほど傲慢なものだったのか、今になってようやく理解する。

 

(そんな都合のいい現実なんて、あるわけがない)

 

 リディアはもうライナーを見ていない。過去に執着することなく、未来を見据え始めている。そしてライナーは、その未来にはいない。

 

(俺は、もう必要ないんだな)

 

 そう分かった瞬間、胸が締め付けられるようにリディアのことが恋しくなった。

 失いたくない。この思いが突然、彼の心を打ちのめす。先ほど彼女が立ち上がったとき、行かないでくれと言いそうになった。頭では理解しているのに、心が追いついていない。

 手を伸ばしたところで、彼女は戻ってこない。あれだけ傷つけておいて、心の中で「リディアは自分のもの」と無意識に思っていた。このむなしさが、驕りの証明だった。

 

 扉が開く音。

 リディアが外に出ていたのはほんの数分だった。しかしライナーには、その数分間が永遠のように長く感じられた。

 部屋に戻ってきたリディアを見た瞬間、ライナーは思わず息を詰めた。月明かりに照らされた彼女の姿が、かつてないほど神々しく見えたからだ。

 

 

 リディアはライナーの隣に座り込むと、静かに口を開いた。

 

「本当はね、今すぐにでもエレンを止めに行きたい」

 

 リディアはライナーを見ることなく、淡々と呟く。その声には揺るぎない決意があった。

 

「地鳴らしをやめさせたい。でも、巨人の力がなければエレンに届かない。だからあなたが必要なの」

 

 ライナーはその言葉を噛みしめた。リディアの目は、過去ではなく、確かに未来を見据えている。

 

「……そうか」

「パラディ島の兵士がこんなことを言うなんて、おかしいと思う。策だって何もないのに、ただエレンのところに向かおうと思ってる……馬鹿のやることだと思ってるし、島に対する裏切り行為なのかもしれない」

 

「それでもエレンのところに行かなきゃいけない。私はもう、壁の外を知ってしまったから」

 

 その声は、冷静で力強かった。

 

「ハンジさんだって、リヴァイ兵長だって、104期の皆だって……きっと同じことを言うと思う」

 

 リディアの言葉は、どれも嘘偽りのない真実だった。ライナーは胸の奥に痛みを感じながら、それを黙って聞いている。

 

「地鳴らしで全てを平にすること、エルディア人すべてを安楽死させること……どちらかを選ぶことなんてできない。この島にも海の向こうにも、人が住んでいる。生活している。私たち調査兵団は、それを見てきた。壁の中と外、どちらかを選んでどちらかが滅ぶべきだなんて……私にはできない」

 

「安楽死計画も、地鳴らしも。どちらも罪のない人たちを巻き込んだ……壮大な自殺でしかないと思ってる」

 

 罪のない人たちを巻き込んだ自殺。

 その言葉は、殺されることで英雄になることを望んだライナーの心に痛く響く。

 

「それに、あなたの家族も助けたい」

 

 ライナーは、リディアの突然の言葉に息を詰まらせた。

 

「……な……」

 

 不意に放たれたその言葉が、まるで心臓を鷲掴みにするように響く。

 

「な、んで……」

 

 喉が乾いたように声が掠れる。言葉がうまく出てこない。

 

「私はね」

 

 リディアは静かに、けれど確かな強さを持って言葉を紡ぐ。

 

「自分自身を信じるために、調査兵団に入ったんだよ。鎧の巨人に復讐するためだけじゃない」

 

 ライナーはリディアを見つめる。彼女の決意が迷いなく形を成していることが、痛いほど伝わってくる。

 

「今がまさに、その時なの。目の前に迷子がいるのに、それを放っておくなんて、そんな人間にはなりたくない」

 

 

「ねぇ、ライナー。あなたはどうしたい?」

 

 リディアが、ライナーの目を見た。

 ライナーは言葉に詰まる。目の前にいるリディアは自分の記憶の中にいる姿とはかなり違っていて、その大人びた表情に目を奪われた。

 

「俺は……」

 

 その問いは、確実にライナーの心を抉った。

 

 答えられない。言葉にしようとするたび、喉が締めつけられるような感覚に襲われる。

 自分がどうしたいのか。それは、ずっと答えを出せずにいた問いだった。

 そんなライナーに、リディアは迷うことなく言葉をかけた。彼の家族を助けると言った。彼の命を捨てさせないと示した。

 

「昔から、ただ……」

 

 そしてライナーは、呟くように声を絞り出した。

 

 

「世界を救う英雄に、なりたかった」

 

 言葉にした瞬間、その願いの幼さと純粋さを自覚して、恥ずかしさを覚えた。

 

 英雄。そんな単純な言葉で自分の罪を正当化していたのだ。

 答えになっていないかもしれない。けれど、それが今のライナーの精一杯だった。すべての言葉は嘘のように思えて、ただその一言だけが、本当に自分の中から出てきた言葉だった。

 

 

「そっか」

 

 リディアの声は、意外なほど優しかった。糾弾や軽蔑ではなく、ただ受け入れるような声。

 そして優しく微笑みながらも、すぐにライナーから顔をそらした。その横顔は穏やかだったが、どこか寂しげでもあった。

 

「変わらないね……あなたは」

 

 月明かりの中で、リディアの姿がくっきりと浮かび上がる。

 ライナーは仰向けのまま、その横顔を見つめた。その表情には、かつての彼女が持っていた幼さや迷いがなく、強い意志と静かな決意が宿っていた。

 

(……綺麗だ)

 

 無意識にそう思った。

 

 

 二人はずっと、この世界に存在するというただそれだけで、お互いを傷つけ合ってきた。

 だが、限界まで傷つけ合わなければ分かり合えない関係というものが、この世界にはどうしても存在する。

 傷つけ、傷つき、踏みにじり、それでも忘れられなくて。そして今、これほどの時間をかけて……ようやく二人は、相互理解のスタートラインに辿り着いた。

 

 なぜエレンやユミルがあれほど怒っていたのか、ライナーもやっと理解した。

 自分はリディアの恋心を都合よく扱い、弄び、ただ見て見ぬふりをしていた最低の屑でしかなかった。自覚がない分、なおさら性質が悪かった。

 リディアが確実に傷つくことを知っていたはずなのに、見ないふりをして逃げることしかできなかった。彼女の笑顔を見ている方が、罪悪感を抱えて生きるよりもずっと楽だったからだ。……なんて酷い話なのだろう。

 

 彼女がかつて自分に向けてくれた想いが、今更になって素直に嬉しかった。それと同時に、その気持ちがもう自分には向けられていないという事実がひどい喪失感となって胸に突き刺さる。

 今、ライナーの中に湧き上がってくる感情は、贖罪や義務感ではない。

 浮かぶのはただ純粋に、この人をもっと理解したいという気持ちと、生きてほしいという願いだけだった。

 

 

「お前は……変わったんだな」

 

 やっとの思いでそう口にすると、リディアは優しく目を細める。

 

「どうだろう。あなたには、私がどう見える?」

「……そうだな」

 

 ライナーは、そっと手を伸ばした。

 

 昔のように、彼女の頭を撫でたかった。

 だが今の自分にそんなことをする資格はない。そもそも横になっているため、手が届かない。

 

 代わりに、リディアの片手に自分の手を重ねた。

 リディアの肩が小さく揺れる。驚いたのか、それとも別の感情なのか、ライナーには分からなかった。

 

「すごく……綺麗になったと思う」

 

 その言葉が口をついて出た瞬間、リディアは弾かれたようにライナーの方を振り向いた。

 

「……はあ!?」

 

 その顔が、闇の中でも分かるくらい、真っ赤だった。

 

(……なんで今、こんなことを言った?)

 

 ライナーは一瞬、自分の口から出た言葉を噛み締める。

 

(いや、でも、本当にそう思ったんだ)

 

 あんなに一途だった彼女は、もう自分を見ていない。それがどれだけ寂しくても、それでも彼女は美しかった。

 

「い……いいからもう寝て!」

 

 リディアはその手を振り払って立ち上がり、乱暴に椅子に腰かけ、机の上に突っ伏した。

 

 

 ライナーは、振り払われた手を見ながら、小さく息をつく。リディアの小さな手の温度が、まだ掌に残っている。

 あの頃なら、こんな風に手を振り払われることなんてなかった。彼女はこちらの手を握り返すはずだった。

 過去の記憶と現実の落差が、冷たさをより鮮明に感じさせる。リディアの心が自分から離れてしまったことを、改めて痛感する。

 

 

 

 ライナーは横になりながら、じっとリディアの姿を見つめた。彼女の生存が確認できるというだけでも幸福を感じたが、その一方で、リディアの方からライナーに視線が送られることはなかった。

 重要な作戦の前なのだ、浮かれていられるわけがない。そう思いつつもライナーは、こっちを見てくれないだろうか、と思わずにはいられなかった。

 それでも、その願いが通じることはなく、彼女と目が合うことはなかった。




この話を書くために始めた物語なので、主人公がシガンシナ区出身というのは絶対に外せない事項でした。
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