「楽園の島の魔女」(完結)   作:雄魔雌

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17 調査兵団の分隊長

 リディアはハンジ、マガトと共に港の様子を偵察していた。リディアの予感とピークの報告の通り、イェーガー派はすでに港を制圧済みで、増援が来る可能性が高い。もはや時間との勝負であることは間違いなかった。

 

 リディアはもう、迷わない。ハンジと同じく、戦う覚悟を選んでいる。躊躇する仲間たちと、手出ししなくていいというライナーのことを振り切って、落ち着いた声で言う。

 

「もう時間がない。フロックがいるなら私を使った方がいい……そうでしょ? アルミン」

 

 アルミンは冷静にそれを却下した。

 

「……いや。リディアはミカサと行動してくれ。不意打ちで、奇襲をかけるんだ。君の生死はイェーガー派に伝わっていないから、その方が良い」

「了解」

 

 その作戦は、大きな賭けだった。

 アルミンとコニーが堂々とイェーガー派の前に姿を現し、車力の巨人が鎧の巨人と共に逃げ出したと話し、それを追いかけるために飛行艇を出すよう要求する。まるでエルヴィンのようなやり方だ。

 

 ミカサとリディアは、窓越しにアルミンと話すフロックの姿を確認した。周囲の兵士に見つからないよう、密やかに突入のタイミングを伺う。室内で、フロックがアズマビトの技術者に銃を突きつけるのが見えた。……撃たせるものか。そう思いミカサと共に突入を決めようと思った瞬間、キヨミがフロックを押さえつけた。

 

「……今!」

 

 窓ガラスが粉々に砕ける音。破片が床を転がるよりも早く、ミカサとリディアが室内に飛び込んだ。

 

 ミカサが一瞬で兵士たちを無力化する。リディアは反射的にキヨミの腕を引き、フロックの反撃から守るように引き剥がした。

 

「こっちへ!」

 

 アズマビトの技術者たちの動線を確保しながら、リディアは即座に出口への道を開く。だが、その一瞬の判断が、フロックを逃す隙を与えてしまった。

 

「この……裏切り者が!!」

 

 床に倒れ込んでいたはずのフロックが、転がるようにして身を起こした。目が合い、一瞬だけ彼の動きが止まる。その目にあったのは驚きでも怒りでもなく――絶望だった。

 

「……お前もか」

 

 その声は小さかったが、まるで最初から悟っていたかのようだった。

 

 リディアは即座に刃を向ける。

 

「……ッ!」

 

 しかし次の瞬間には、フロックが立体機動のワイヤーを飛ばしていた。そして体勢を立て直すよりも早く、建物の外へと飛び出した。

 

「待て!」

 

 思わず追いかけようとしたが、背後でミカサが叫ぶ。

 

「リディア、深追いしない!」

 

 立体機動で飛び出したフロックが、兵士達に向かって叫びを上げる。

 

「敵襲! ミカサ、アルミン、コニー……リディア!!」

 

 

「エルディアを裏切った! 殺せ!」

 

 フロックの叫びが、背中越しに突き刺さる。その声が、怒りと憎しみで張り裂けそうに震えているのが分かる。

 

「……殺せ、絶対にここで殺すんだ!」

 

 まるで、過去の自分を目の前にしているような感覚。

 さっき一瞬だけ目を合わせた時、フロックは――鎧の巨人を前にして、殺意に完全に呑まれていた頃のリディアと同じ目をしていた。

 それは、望まぬ戦闘だった。

 

 

 

 

 鋭い銃声が空気を裂く。

 四方八方に飛び交うワイヤー。

 かつて背中を預け合った兵士たちの眼が、今は冷徹な殺意に染まっている。

 

 ミカサと共に屋外に飛び出し、鎧の巨人に雷槍を打ち込もうと狙いを定めていた兵士の背後を取った。体を回転させ、刃が風を切り、兵士の肉体を切り裂く。

 腹を切り裂かれた兵士が、血を噴き出しながら宙に浮かぶ。彼の瞳には恐怖と懇願が混じり合い、最後の希望を託すようにリディアを見上げた。

 だがリディアは感情を押し殺し、立体機動装置のガスを強く噴射して垂直に上昇、その兵士から素早く離れた。

 

 風を切る音と共にハンジが高速で接近し、リディアの真横で停止した。その片目が切迫したような光を放ち、リディアに作戦変更を告げる。

 

「ライナーに伝えて!」

 

 リディアは躊躇なく方向を変え、灰色の煙を引きながら鎧の巨人に接近。その肩に着地すると、首筋に身を乗り出して叫んだ。

 

「作戦変更! 船で離脱、大陸へ向かう! 乗船援護を!」

 

 鎧の巨人の硬質な顔がわずかに動き、かすかに頷いた。その間も周囲の建物の屋根や壁面から、兵士たちが立体機動で弧を描きながら二人に迫ってくる。

 

 ライナーが巨大な拳を振り上げ、眼前の三階建ての建物に叩きつけた。衝撃で壁面が崩れ落ち、粉塵と瓦礫が爆発的に舞い上がる。

 兵士たちは一瞬の視界不良に咄嗟に距離を取り、散開した。だが彼らはすぐさま体勢を立て直し、安全圏から雷槍を狙い定めようと右肘を後方に引き絞る。

 

「させるか」

 

 リディアの瞳が鋭く光った。鎧の巨人の肩から跳躍し、アンカーをその肩甲骨に打ち込む。

 ワイヤーを引き寄せて振り子のように弧を描きながら加速し、体を水平に伸ばして回転する。刃が光の環を描き、二人の兵士を一気に切り裂いた。血煙が霧のように拡がり、切断された肉体が宙を舞う。

 

 

 鎧の巨人と女型の巨人が、アズマビト一行の乗船を必死に援護する。今はなんとか持ちこたえているが、次々と飛来する雷槍の攻撃を受け続ければ、いくら硬質化を駆使できても間に合わない。一発、また一発と命中するたびに、アニとライナーの耐久は限界に近づいていく。

 

 二人への援護が急務だと理解しつつも、リディアの視界の端に別の危機が映り込んだ。

 全力疾走する車力の巨人、ピークの姿。彼女は四方から襲いかかる兵士たちに囲まれ、必死に身をかわしながら応戦していた。車力の巨人は持久力があれど、防御力に劣る。一発でも雷槍が急所に命中すれば、それで全てが終わる。

 

 一瞬の判断でリディアは方向転換した。屋根板を踏み締めた後に跳躍し、建物から建物へと飛び移り、ピークへの援護に疾走する。

 

 兵士の雷槍が車力の巨人に向けられた、その刹那。鋼鉄の音が響いた。

 リディアの一太刀が、車力を襲う兵士の立体機動装置の中核部分を正確に捉え、機械部分を破壊した。

 宙に投げ出された兵士の体が、無防備に地面に激しく叩きつけられる。

 制御を失ったワイヤーが暴走し、近くで跳躍していた兵士を巻き添えにした。悲鳴を上げながら、建物の壁面や硬い屋上に叩きつけられる。

 

「クソがあああ!!」

 

 地面に打ちのめされた兵士が、怒りと憎悪で顔を歪めながら咄嗟に上半身を起き上げる。引き金に指をかけ、痛みに震える手でリディアに照準を合わせた。

 リディアは空中で体を低く沈め、その兵士めがけてアンカーを発射する。

 

「……っ、ぐあ……!」

 

 腕を貫かれた兵士は、仰向けに倒れる。その血が、弧を描いて飛び散った。

 

 回収したワイヤーを壁に飛ばし、空へ飛び立ったとき。前方わずか十メートルの場所にフロックの姿が出現した。

 互いの視線が宙空で交錯する。僅かな躊躇いが、一瞬だけリディアの動きを止めた。

 

 その隙を突くように、フロックは鋭い目つきで前進。リディアは咄嗟にワイヤーを二本同時に放った。フロックもまた、雷槍を構えた状態で、立体機動装置のガスを全開にして加速する。だが彼の視線はリディアではなく、その向こうにいる車力の巨人に固定されていた。

 

 身を翻し、リディアはフロックの軌道を遮るように斜め上から急降下。二人の交差する軌道が重なった瞬間、激しく衝突した。空中で回転しながら、リディアの刃と、それをかわそうとしたフロックの雷槍がぶつかり合う。

 金属が激突し、火花と共に鋭いうなりを上げた。リディアの斬撃を紙一重で回避したフロックだが、その衝撃でバランスを完全に失い、空中で体勢を崩して制御不能に陥り、急速に転落し始めた。

 

 絶体絶命の危機の中、フロックは咄嗟に近場の建物の屋根にワイヤーを打ち込み、自分の体を強引に引き寄せて衝突。肩を痛めながらも何とか踏み留まると、そこから足元を蹴り、さらに高く飛翔した。

 

「調子に乗るなよ、この売女がァ!!」

 

 憎悪に満ちた言葉が、風を切り裂く。

 

 直後、轟音と共に眩い閃光が空を引き裂き、建造物が一瞬で粉砕された。灰と瓦礫の雲が立ち上る中から、顎の巨人の獰猛な姿が悪夢のように現れる。

 

「ファルコ!」

 

 リディアとピークの声が重なった。

 

 フロックも一瞬だけ意表を突かれ、視線を新たな脅威へと向けた。

 その隙を突き、車力の巨人が獲物を捕らえるように大きな口を開け、猛烈な速度でフロックに突進する。だが彼の反応は鋭く、すぐさま雷槍を構える姿勢へと移行した。

 

「待ってピーク! 撃ちこまれる!」

 

 リディアは警告の叫びを上げながら、全力でワイヤーを射出。建物の側面を滑るように水平に加速し、フロックとの距離を一気に縮めようとした。

 

 しかしフロックはリディアの接近を完全に無視し、立体機動装置のガスを限界まで噴射して更に上空へと舞い上がった。

 彼が雷槍で狙いを定めたのは、車力の巨人ではなく……全ての命運を握る、船の底部だった。

 

 狙いを定めた瞬間、鋭い銃声が静寂を引き裂いた。

 フロックの体から鮮血が噴き出し、彼の体は弓のように反り返って無防備に宙へと放り出された。制御を完全に失った体は、重力に従い、ゆっくりと光を失った目で空を見上げながら、漆黒の海へと落下していく。

 

「……落ちた」

 

リディアの冷静な言葉が、一瞬だけ戦場に静寂をもたらした。

 

 敵のリーダー失墜の衝撃が兵士たちの間に急速に広がり、動揺と共に彼らの動きに明らかな隙が生じた。リディアは血に染まった刃を構え直し、残存する敵兵と冷徹に対峙する。だが、何人かの兵士の目からは既に戦意が消え失せ、生存本能だけが残っていた。

 

 そしてファルコの巨人としての暴走が静まり、薄暗い空の下、リディアたちは急ぎ足で船へと乗り込んだ。未知なる大陸への逃避行が、今まさに始まろうとしていた。

 

 

 

***

 

 

 

 港での死闘を経て、船中では、波の音が静かに響いていた。鉄と油の匂いが入り混じる狭い空間で、リディアはハンジの隣に立ち、血相を変えたアニと向き合っていた。

 マガトのこと。オディハへの航路のこと。そして……地鳴らしが進む先のこと。

 

 アニの顔から血の気が引いていくのが分かった。

 

「私が戦う理由はなくなった……」

 

 アニはその場に崩れ落ちた。拳を握りしめ、震える手で床を支える。まるで力が抜けてしまったかのように。

 

 リディアはその姿に、かつての自分を重ねた。瀕死のまま、ボロボロの身体で空を見上げ、「もう何もない」「生きられない」と言っていた、あの時の自分を。

 だからこそ、今のアニの気持ちが痛いほどに分かった。

 

「もう……戦いたくない」

 

 かすれた声が耳に刺さる。リディアは拳を握った。だが、それ以上、何も言えなかった。

 何も言えるはずがなかった。

 

「……港で戦ったのは」

 

 沈黙の中、コニーがぽつりと口を開いた。

 

「敵じゃなくて、仲間だった」

 

 その言葉が、重く、静かに空気を沈ませる。

 

「でも、誰かがやらなきゃいけなかったんだ」

 

 コニーの肩がわずかに震えているのを、リディアは見逃さなかった。

 

「こんなことを繰り返さないためにも、エレンと話さなきゃいけない」

 

 アルミンの静かな声が響いた。だが、それに誰も続くことはなかった。

 皆、沈黙していた。痛いほどに、静かだった。

 

「……私も」

 

 リディアが、ぽつりと呟いた。

 

「レベリオで、シガンシナ区で。ライナーと話ができなかったら……今頃、イェーガー派にいたのかもしれない」

 

 誰かが息をのむ気配がした。

 

「今日殺した兵士たちの中に、きっと私もいた」

 

 自分で言いながら、喉の奥が痛くなった。

 

 あの時、ライナーに「殺してくれ」と言われた。許せなかった。一瞬、本当に殺そうかと思った。

 でも、リディアは対話を選んだ。それは結果として、彼女の生き方を決める選択になった。

 

 だが、それがアニにも通じるとは思っていなかった。

 沈黙が、再び落ちる。

 

「……だったら、何なの」

 

 アニが低く呟いた。四つん這いのまま、苦しげな息を吐きながら、それでも視線だけリディアに向ける。

 

「私はあんたみたいに……全部飲み込むことなんて、できない」

 

 その声には、憤りと、諦めと、どうしようもない悔しさが滲んでいた。

 

「ただ、言いたかっただけ」

 

 アニの痛みを、消すことも癒すこともできない。アニの選択を、強いることもできない。

 

「選ぶのは、アニ自身だから……」

 

 リディアの声は、ただ静かだった。

 

 対話を選んだところで、エレンの選択によっては……アニの言う通り、殺しあうしかないのかもしれない。

 リディアはフロックの瞳を思い出した。彼は撃たれ、海に落ちた。……まず、助かることはないだろう。

 あの虚な瞳が、脳裏に焼き付いている。絶望の色に染まったまま、彼は最後に何を思ったのだろう。

 あんなに長く一緒にいたフロックと、まともに対話すらできなかった。そんな自分が、アニに何かを言えるわけがない。

 だから……無理強いはできない。

 リディアは強く拳を握りしめた。

 

 

 

 

 戦闘の傷を癒すため、それぞれが束の間の休息をとることになった。

 船の甲板で、リディアは一人、静かに海の向こうを見つめていた。

 

 潮風が髪を揺らし、雲ひとつない空には鳥が優雅に舞っている。波の音が規則的に響き、海面は穏やかに揺れていた。今、この瞬間も、世界のどこかでは無数の人々が地鳴らしによって踏み潰され、命を奪われているはずなのに、この海の上は、あまりにも静かだった。まるで、何も起こっていないかのように。

 

 リディアの隣に、いつの間にかライナーが立っていた。

 

「怪我は、もういいの」

 

 静かに問いかけると、ライナーは短く頷いた。

 

「あぁ」

 

 二人の間に沈黙が流れる。

 潮の香りを含んだ風を感じながら、ただそこに立っていた。戦いと殺し合いの日々の中で、こんな静かな時間は、久しくなかった。

 

「リディア、これ」

 

 ふと、ライナーがポケットから何かを取り出す。リディアが目を向けると、彼の手の中には、かつて返したはずのブローチがあった。

 

「やっぱりお前が持っていてくれ」

 

 ライナーの手が、そっとそれを差し出す。

 

「返すって言ったでしょ……」

 

 リディアは眉をひそめながら、それを見つめる。

 それは、過去に決別したはずのもの。

 

「手放したいなら、自分で捨てて」

「本当に……もう必要ないのか?」

 

 ライナーの声には、どこか未練が滲んでいた。リディアは小さく息を吐くと、ブローチから視線を外した。

 

「そうだよ。私たちの因縁はもう終わり」

 

 断言するように、そう告げる。

 

「もう私に負い目を感じる必要はない。全部チャラにしてさ。あとは一緒に……戦おうよ」

「……俺は、俺がリディアにしてきたことを、なかったことにはできない」

 

 ライナーの声は低く、そして硬かった。

 

「そう。真面目だね、相変わらず」

 

 リディアは皮肉混じりに微笑んだ。

 

「でも、謝られても困る」

 

 ライナーの眉がわずかに動く。

 

「だって、そんなことされたら、私……」

 

 リディアの声が、微かに震えた。

 

「余計に、みじめになる」

 

 静かな海の音の中で、その言葉だけが際立って響いた。

 

「……すまん。俺のせいだな、全部……」

「だから謝られても困るんだって!」

 

 リディアが思わず声を荒げた。

 

「すま……あ、いや……」

「揉めてんの?」

 

 不意に、ピークがひょっこりと現れた。

 

「そういうわけじゃ……」

「そう。私たちは、昔からずっと揉めてる」

 

 否定しようとするライナーと違い、リディアはさらりと答える。

 

「へぇ」

 

 ピークは興味なさそうに肩をすくめた。

 

「揉め事なら早めに解決しておいた方がいい。……オディハに着くまでには、終わらせておいて」

「あ、ピーク……」

「じゃ」

 

 ライナーが呼び止める前に、ピークはひらひらと手を振って去っていった。

 

 再び、二人きりになった。

 

「……」

「……」

 

 しばらくの沈黙の後、ライナーが口を開いた。

 

「今さらこんなことを言われても、困ると思うが……」

 

 彼は真っ直ぐリディアを見つめる。

 

「お前が好きになってくれた俺は、自分を兵士だと思い込んでいた時の自分だった。そして、その頃の俺は……」

 

 少しだけ、言葉を区切る。

 

「本当に、リディアのことが好きだったよ」

 

 静かに告げられた言葉。

 リディアは、一瞬だけ息を詰まらせた。

 

「……そっか」

 

 その言葉を噛み締めるように、ゆっくりと呟く。

 

「……ありがと……」

 

 リディアは遠くを見つめている。

 

 その様子を見てライナーは、自分の言葉がまるで届いていないことを悟った。慰めのための嘘だと思われている……そう思った。

 

 しかし、リディアの受け止め方は違っていた。

 ……「兵士のとき」は、好き「だった」。

 過去形でしかない言い方に、胸が強く痛むのを感じた。

 今は、違うのだろうか。強い執着をなくした今でも、自分は、本当は、まだ……

 

「私は……」

 

 リディアはそう言いかけて、すぐに首を振った。

 

 もう二度と、同じことは繰り返さない。

 

「……?」

 

 ライナーが不思議そうにリディアを見る。

 

「ううん。何でもない」

 

 リディアはそう言って、静かに笑う。

 

「全部が嘘じゃなかったなら、もう死んでもいいや」

 

 悲しげに微笑み、ライナーの目を見る。

 

「……死ぬなんて言うな」

 

 ライナーは表情を険しくした。

 

「壁の外の人類を救うって、決めたんだろ」

「……そうだね。何やってるんだろ。こんな時に」

 

 

「できるかな。私たち」

 

 リディアが問いかけると、ライナーは少し躊躇いながらも、まっすぐに答えた。

 

「あぁ。とりあえず……できることをやろう」

 

 

「……その言葉が聞けてよかった」

「え?」

「殺してくれなんて、もう絶対に言わないで」

 

 リディアの視線が、ライナーを鋭く貫いた。

 

「……あぁ」

 

 ライナーは頷いた。

 

「もう、あんなことは言わない」

「一発逆転の自己犠牲で責任を帳消しにしようとするなんて、無しだからね。絶対に」

 

 リディアが笑う。ライナーも、僅かに口角を上げた。

 しかし、それでも……リディアがブローチを受け取ることはなかった。

 

 

 

 

 

 オディハに到着した。しかし、誰の姿もない。人気のない港には、冷たい潮風だけが吹き抜けている。この場所もまた、世界の終焉を予感して息を潜めているかのようだった。

 

 リディアはミカサと共に歩き、アニに声をかけた。アニの決意は、やはり変わっていなかった。彼女は戦いから降りることを選んだ。無理強いなどできない。それはアニ自身の選択なのだから。

 ミカサが飛行艇の方へと戻った後も、リディアはアニのそばに留まり、ゆっくりと口を開いた。

 

「本音を言うと、私はアニにも来て欲しい」

 

 そう言うと、アニはリディアの目を見ず、どこか気まずそうに視線を逸らした。

 

「……だろうね」

 

 かすかに苦笑するような声。リディアは静かに続ける。

 

「でも、その決断を否定はしないよ。……私も以前、もう戦えないと思ったことがあったから」

「あんたが?」

 

 アニの目が意外そうにこちらを向く。リディアは少しだけ、過去を振り返るように目を伏せた。

 

「戦えるようになるまで、年単位で時間をかけたかも」

「長すぎ。よくノコノコと舞い戻れたもんだね」

 

 アニの声には、呆れたような、それでいてどこか感心したような響きがあった。リディアは肩をすくめ、軽く笑った。

 

「本当にそう。みんな、私に甘すぎる」

「……フッ」

 

 その言葉に、アニがふっと笑みを漏らす。ほんの一瞬、戦いも、別れも、遠く感じるようだった。

 

 静寂の中、リディアはそっと手を差し出した。

 

「アニが友達だって言ってくれて、嬉しかったよ」

 

 アニがその手を見つめる。

 

 一瞬の躊躇いの後、彼女はゆっくりと手を伸ばし、リディアの手をしっかりと握り返した。

 

「……私も」

 

 二人の手が、温かく重なる。

 

 世界がどうなろうと、どんな違いがあっても、二人の間にあるものは、決して変わらない。

 

 

 

 

 

 立体機動の準備が整った。飛行艇の整備や発進準備も万端だという報告が入る。地鳴らしが到達する前に、オディハを発つことができそうだった。

 リディアは念入りに装備の再点検をしていた。

 

 しかし次の瞬間、激しい銃声が響いた。

 飛行艇の方からだ。リディアは反射的に顔を上げる。

 

「何が……!」

 

 銃声の発生源に向けて、ミカサが即座にワイヤーを発射する。銃声が止んだ。リディアは現場を確認し……その姿を確認した瞬間、その場に立ち尽くした。

 

 そこにいたのは、フロックだった。

 喉にアンカーが突き刺さり、血を噴きながら、仰向けに倒れている。

 

 思わず駆け寄った。地面に広がる血溜まり。その中心に、フロックは横たわっていた。

 目の焦点が合っていない。もはやその目は、何も映していない。

 

「……っ」

 

 息ができなくなった。

 リディアの身体は強張り、肺が空気を求めているのに、呼吸ができない。

 

 フロックの発砲によって、飛行艇の機体に穴が開いたらしい。技術者たちが慌ただしく動き出し、溶接の準備を始める。地面が震え、建物がガタガタと揺れ始める。「地鳴らしが近付いているぞ!」と叫ぶ、誰かの声が聞こえる。

 

 けれど、リディアは動けなかった。血を流すフロックから、目を離せない。

 フロックの指先が、血に濡れた床を引きずるように動いた。震える手は、何かを求めるように彷徨う。手を宙に伸ばす力すら、もう残っていないのだ。

 彼の唇が、何かを言っている。喉が潰れているせいで、声はかすかにしか聞こえない。

 リディアはその声に必死に耳を傾ける。かろうじて聞き取れた、いくつかの言葉。

 

「行くな……」

 

 その言葉に、喉が詰まった。それは一体、誰に向けられたものなのか。

 

(私たち、全員に?)

 

 フロックの声が、どんどんかすれていく。

 

 リディアは、その様子を見ていた。

 

「……死んだ」

 

 フロックの最期の言葉を聞いたハンジが、ジャンやリディアに……そして自分自身に言い聞かせるかのように、それでも諦められないと言った。

 

 リディアは地響きの音の中、フロックの目元に手を伸ばした。

 

「……ごめん、ね……」

 

 リディアは震える声で呟いた。

 そう言葉にした瞬間、リディアにとって、目の前のフロックは完全な亡骸になった。

 

 リディアの指先が、小さく震えながら、フロックの目元をそっと覆った。

 

「フロック……」

 

 喉の奥が焼けるように熱くなり、息が詰まる。

 

「ずっと、助けてほしいって……訴えてたん、だよね……」

 

 リディアの声が震える。ハンジとジャンが、黙ってリディアの言葉を聞いていた。

 

「……私の、責任だ……」

「お前のせいじゃない」

 

 ジャンが静かに言う。

 

「……でも」

 

 言葉を選びながら、続ける。

「最後に……リディアの名前を呼んでいるようにも、聞こえた」

「……」

 

 リディアはゆっくりと目を閉じて、涙が落ちるのを防いだ。

 

「……聞き間違いかもしれないね」

 

 ハンジがそう言って、そっとリディアの手を取り、フロックの遺体から離した。

 

 フロックもまた、迷子だった。

 向き合って話をすることを拒み続けたのは自分だ。時間を、関係を、戻すことはできない。彼は死んだ。

 ずっとそばにいた迷子を、リディアは見殺しにした。

 その後悔はきっと、永遠に……心に残る傷として、彼女から消えることはない。

 

 地面の揺れは、どんどん激しくなる。

 地鳴らしが、近づいている。

 

 

 

 

 この世界を揺るがす衝撃が、次第に激しさを増していく。港の建物が軋み、崩れそうな音を立てる。海面に広がる波紋が、絶え間なく震え続ける。

 

 巨人たちは、もうそこまで近付いていた。

 それでも飛行艇の修理は続いている。時間がない。わかっている。だけど、あと少し。あと数分でも稼げたら……。

 

「エンジンの調整は!?」

「溶接はあとどれくらい!?」

「燃料の残量は!?」

 

 各所から飛び交う声は、明らかに切迫していた。

 

「僕が残って足止めを……」

 

 アルミンがそう言って、ライナーが止める。

 割って入ったのは、装備を整え、ひどく真剣な表情をしたハンジだった。

 

「みんなをここまで率いてきたのは私だ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、リディアの心臓が跳ねた。

 

 ハンジの目はどこまでも冷静だった。いや、冷静に見せかけているだけだ。その奥にあるものを、リディアは瞬時に理解した。

 

「そのけじめをつける」

 

 行くつもりなのだ。あの、巨人の群れの中へ。

 

「じゃあね、みんな」

 

 リヴァイはアルミンの下っ端だからコキ使ってくれ、と言いながら、ハンジは微笑む。

 その笑顔を見た瞬間、リディアの身体が動いた。

 

「……待ってください!」

 

 思わず、ハンジの腕を掴んでいた。

 

「駄目です、私が行きます! そんなの……!」

「リディア」

 

 優しく、それでいて確かな力で、その手は外された。ハンジの瞳は、もう迷いの色を帯びていない。

 

「これは私の役目だ。私は、最後まで……皆を見送らないといけない」

 

 リディアの指先が震えた。

 否定の言葉が、頭の中で叫ぶ。

 

 嫌だ。

 行かないで。

 行くな。行くな。行くな。行くな。行くな。行くな。行くな。行くな!

 

「ハンジさん!」

 

 叫び声にも似た言葉が、喉から飛び出す。

 ハンジは静かに微笑んだ。

 

「いつか、君が言ってくれたよね。自分はいつまでもハンジ班だって」

 微笑みながら、ハンジは続けた。

 

「これは団長命令であり、君の班長の命令だ」

 

 

「リディア・ノイマン。君が……次の分隊長だ」

 

 その言葉が、どこか遠くから響いてくるようだった。

 

 ハンジの目に、迷いや躊躇などなかった。

 リディアは、何も言えなかった。言葉を紡ごうと口を開いた瞬間、喉の奥が焼けるように痛くなり、声が出なかった。

 

「第四分隊リディア班、爆誕! ……なんてね」

 

 冗談めかして、ハンジは笑った。

 リディアの唇が震える。

 

「……分隊も、部下もいないのに、分隊長って……なに、言ってるんですか……」

 

 笑おうとした。けれど、笑えなかった。

 ハンジがいなければ、リディアはここにいなかった。生きて、戦って、ここまで来ることすらできなかった。

 

「もっと……話がしたかった」

 

 リディアの頬を、熱いものが流れる。ハンジはただ、静かに微笑んだ。

 

「行ってくるね」

 

 そう言って、ハンジは背を向ける。離れた場所で、リヴァイと何か話している。

 リディアは、涙を拭うこともできず、ただその背中を見送った。

 

 飛行艇の準備が整った。

 離陸する。

 

 やがて、飛行艇の窓の外で、小さな火が上がった。

 飛び散る炎の中で、巨人たちが崩れ落ちていく。その中心に――ハンジの姿があった。

 

 炎に包まれながら、命を燃やしながら、それでも……最後の最後まで、戦い続けた。

 泣き叫ぶ仲間たちの声が、機内に響く。

 リディアは、静かに拳を握りしめた。

 

(ずっと、足手まといの部下で、ごめんなさい)

 

 初めてハンジと出会った日のことを思い出す。

 あの日、ハンジは言った。「きみの父親は、私をかばって死んだんだ」と教えてくれた。

 

 今、ハンジをかばって死んだ男の一人娘は、ハンジにかばわれる形で、生き残った。

 だからこそ。絶対に。

 ハンジが最後に選んだ覚悟を――絶対に無駄にはしない。

 

「……敬礼」

 

 そして静かに、左胸に手を掲げた。




フロックに一番言わせたかった台詞が「この売女が」だったので、ようやく書けて満足しています。最期に主人公の名前を呼んでいるかどうかについては「リディアとエルディアって名前の響き似てるな」くらいのテンションでねじこんだネタなので、多分呼んでないと思います。
フロックの扱いについて思うところがありすぎたので、pixivにはイェーガー派ifストーリーを載せてます。
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