この戦いの終わりに、何が残るのだろう。
アルミンが作戦を説明する声が、重く、鈍く響く。対話を尽くす。それでも止める術がない時には――超大型巨人の爆発で、エレンごと吹き飛ばす。
この場にいる誰もが、覚悟を決めているように見えた。
リディアはミカサの横顔を盗み見る。彼女の表情には、まだ「話し合い」の可能性が残されているという淡い希望がにじんでいた。
だが、それが本当に叶うものなのか。
ここにいる全員が、罪を抱えている。だからこそ、手を取り合って戦う。
すべては、この地鳴らしを止めるため。
ライナーは、エレンの考えていることが少しわかる気がすると言った。
彼の考えるエレンの姿は、リディアの中にあるエレン像と、まったく同じだった。
エレンは普通の人間だ。大量虐殺に耐えられるような心の持ち主じゃない。だから……
「終わりにしてほしい……」
ライナーの低い声が、リディアの心をかき乱す。彼は一瞬だけリディアの方を見て、それからミカサへと視線を移した。
「誰かに……」
――その瞬間だった。
世界が、裏返るような感覚に襲われた。
目の前に広がるのは、果てしなく続く真っ暗な「道」。
どこからともなく、エレンの声が響く。
そして、彼はそこにいた。子供の姿をした、エレンが。
現実へと引き戻されたとき、リディアは真っ先にミカサの隣にしゃがみこんだ。
ミカサの呼吸が荒い。肩が、小刻みに震えている。リディアの心臓も、痛いほど早鐘を打っていた。今の今まで、エレンと話していたはずなのに……戻ってきてしまった。
エレンは彼らに「答え」を突きつけた。
対話はない、と。
アルミンがミカサの肩に手を置く。リディアも、そっと手を添えた。
彼女の体が震えている。でも、手を乗せている自分の指先も、同じように震えていた。
……どうしても、戦わなければならないのか?
リディアは、かつてのエレンの言葉を思い出す。殺し合うか、話し合うか。方法は二つしかないと彼は言った。なのに今、彼は選択肢をたった一つに絞った。
リディアは、シガンシナ区でのライナーの言葉を思い出した。
「俺のことなんか守らなくていい」
「何をしても、誰を救っても、何者にもなれない」
「殺してくれ」
今のエレンは、あの時のライナーと同じだ。
ようやく理解できた。レベリオで、エレンが見せていたあの穏やかな表情の意味を。
エレンとライナー。二人は、本当に、同じなのだ。
(私は、ライナーを殺すことを拒否した。それは間違っていなかったと思う)
どれだけ生きるのが辛くても、ライナーにはまだ贖罪の道があった。
……でも、エレンは?
この地鳴らしで失われたものは、人の命だけじゃない。文化も、自然も、動物も。何もかもが、まっさらな大地に戻されている。
罪の規模が、あまりにも違いすぎる。
対話でエレンに地鳴らしを諦めさせるということは、エレン一人に贖いきれないほどの大罪を背負わせた挙句、その全てを孤独に背負って生き続けろと、そう願うことだ。
それこそ、無責任だ。
そんなことはできない。
エレンが犯した罪を共に背負うという気持ちがあるなら……もう、エレンを殺すしかないのだ。
彼が地鳴らしを選んだ時点で、最初から選択肢は一つしかない。
「……やろう」
そう呟いたリディアを、ミカサが絶望の眼差しで見ていた。
***
燃料は残りあとわずか。
オニャンコポンは、飛行艇をぎりぎりの高度で操縦した。リディアは、巨人の背中へと降下する。
当初の攻撃目標は、獣の巨人。だが、その中身はもぬけの殻だった。この骨だらけの巨人の身体から、彼らはエレンとジークを見つけ出さなければならない。
空からの襲撃が届いたのは、その直後だった。
アルミンが捕らえられ、振り上げたリディアの顔に映ったのは、九つの巨人たちが次々と実体化する悪夢のような光景。歴史の中から呼び戻された戦士たちが、まるで時を超えて湧き出るように現れる。
雷槍が、圧倒的に足りない。それでも頭の中で、誰かの声が響く。
(戦え――戦え!!)
エレンの頭部に走ったピークも、爆弾の起爆に失敗する。どれだけ倒しても、巨人たちは次々と姿を現す。
アルミンを取り戻す。他に活路はない。
リディアは迫り来る巨人の群れに向かって突進した。雷槍の閃光が暗雲を切り裂き、巨人のうなじを焼き尽くす。一体、また一体と倒していくが、倒した数以上に新たな巨人が現れる。まるで時間との戦い……そして、時間の方が勝っていた。
更に追い討ちを与えるように、始祖の傀儡と化した超大型巨人が迫り来る。
ジャンが、コニーが、リヴァイが。
無数の巨人たちに襲われ、次々に戦えなくなっていく。
すでに戦線は崩壊寸前だった。今も動けるのはミカサとリディアだけ。ミカサが叫び、空を切り裂くような鋭い声が響く。
その時――暗い空を引き裂くように、羽ばたく翼の影が現れた。鳥のような、しかし人の意思を宿した巨人の姿。ファルコの顎の巨人が、まるで希望の化身のように現れた。その背中に、アニとガビの姿があった。
ファルコの背中で、リヴァイが決断する。
二班に分かれて、エレンを討つ。
わかっている。
飛行艇を飛び出す前に、そう決意したはずだった。
言わなきゃ。ミカサに。
でも。
でも。
言葉が、出なかった。
代わりに、ジャンが言った。
「エレンを……殺そう」
ジャンは、それができる人だった。
リディアは立体機動装置の鋼鉄のワイヤーを射出しながら、ジャン、ライナーと共に起爆装置の方向へ向かう。
空を切り裂く風の音と、耳をつんざく巨人たちの唸り声が交錯する中、彼女の全身の筋肉は極限まで緊張していた。
「二手に分かれろ! 俺が起爆する!」
ジャンの叫び声に頷き、リディアは左側へ軌道を変える。
前方から、過去の顎と思しき巨人が不気味に飛び掛かる。リディアはガスを噴射し、加速する。世界が一瞬で流れ、視界の中で色彩が溶け合う。
「ッラアアアアッ!」
刃が巨人の後頸部を深く抉る。肉が裂ける感触と蒸気の噴出。一体目を仕留めた瞬間、左右から新たな二体が襲いかかる。
「分かってたけど……終わりなしか!」
彼女の全身が戦闘本能で動く。刃を交換する時間さえ惜しみ、回転しながら次の巨人の首筋に食らいつく。鋭利な刃が肉を切り裂く音と、噴き出す蒸気。血が彼女の顔を覆い、視界を赤く染める。
刃を振るう度、腕の筋肉が悲鳴を上げる。どれだけ倒しても、敵の数は増えるばかり。リディアの呼吸は荒く、冷たい汗が背中を伝い落ちる。
「あと何体……?」
彼女の問いに答えるように、地面が揺れる。新たな巨人の群れが、遠くから押し寄せてくる。その数、十を超える。
突如、空気が震えた。轟音と共に視界が揺れ、戦場全体に衝撃波が走る。リディアは空中で体勢を立て直しながら、鎧の巨人――ライナーの方へ視線を向けた。
そこで彼女の瞳に映ったのは、絶望的な光景だった。
ライナーが食い止めていた戦鎚の巨人たちが、結晶化した巨大な槍を形成し、鎧の巨人の背中へと突き刺していく瞬間。結晶の槍が、鎧の巨人の装甲を貫く音が、戦場に鋭く響き渡った。
「ライナー!」
リディアの叫び声が引き裂かれた空気に溶ける。彼女の視界が一瞬、恐怖と怒りで赤く染まる。
立体機動装置のワイヤーを射出し、彼女は猛烈な勢いでその方向へと飛んだ。風圧が彼女の顔を打ち、傷ついた体の痛みが全身を貫く。しかし、その痛みすら彼女の決意を鈍らせることはなかった。
鎧の巨人の周りを、六体の戦鎚の巨人が取り囲んでいた。それぞれが異なる武器を結晶化させ、次々とライナーの装甲を穿つ。蒸気が噴出し、巨大な体が揺らめく。
(雷槍もない……このままじゃ……!)
リディアは冷静に状況を分析する。戦鎚の巨人に生身で挑むことが完全な自殺行為であることは明らかだった。結晶化した武器は、通常の刃では太刀打ちできない。
(それでも、やるしかない)
瞬時にブレードを交換する。冷たい金属の感触が、覚悟を固める。
リディアは意図的に高く飛び上がり、日の光を浴びながら、戦鎚の巨人たちの視界に飛び込んだ。
「来い! 狙え、私はここだ!!」
彼女の叫び声と共に、ガスを一気に噴射して不自然な動きで宙を舞う。
自分を囮にして鎧の巨人を守る――それが今、彼女にできる最善の策だった。
思惑通り、戦鎚の巨人が数体、リディアに食いついた。長剣を手にした巨人が、その矛先を鎧の巨人からリディアへと向ける。結晶化した巨大な刃が、太陽の光を受けて不気味に輝いた。
リディアの心臓が激しく脈打つ。時間が遅くなったように感じる。
十メートルの距離……五メートル……三メートル……
戦鎚の巨人の剣が彼女に迫る。その刃先が、風を切る音が耳に届く。
リディアの指がトリガーに掛かる。
身体を回転させ、戦鎚の巨人の腕の付け根を狙う。鋭い刃が、巨人の関節に食い込む。
血しぶきと蒸気が噴出し、彼女の視界を覆った。しかし完全な勝利ではない。結晶化した部分は傷つけられず、巨人の腕はまだ動いている。
リディアは咄嗟に再び回避し、次の一撃を放つためにバランスを取り直す。呼吸が荒く、肺が焼けるように痛い。
「絶対に……」
彼女の額から血が流れ、視線を曇らせるが、それでも彼女は目を離さない。戦鎚の巨人たちの動きを見極め、次の瞬間を予測する。
「殺させるものか!!」
リディアの叫びが戦場に響き渡る。
それは、かつて鎧の巨人を殺そうと願った少女の、兵士としての――命を懸けた誓いだった。
そのとき、ピークの叫び声が突如として戦場を引き裂いた。
「後ろ!!」
全身を貫く警告。突如、リディアの視界がぐにゃりと歪んだ。空気が濃くなり、時間が遅れて流れる感覚。別の戦鎚の巨人が振りかぶった鋭い大斧が、リディアの背中をかすめた。
「ッ……ぐぁっ……!」
火傷のような激痛が背骨から全身へと広がる。肺の中の空気が、一気に弾け飛ぶ。温かい液体が背中から溢れ出る感覚。リディアの視界が一瞬、真っ白になる。
(……っ、まずい……!)
虚空に手を伸ばす。片側の装置が破損したのか、ワイヤーが発射されない。装置のトリガーが空しく引かれる。
風を切る音とともに、リディアの身体が無重力の中へ投げ出された。回転する世界の中で、彼女は下を見る。
飛ばされた先で、車力の巨人が大きな口を開けて待ち構えている。獲物を待ち受ける、飢えた獣のようだった。
「リディア!!」
ジャンに抱えられたピークが、遠くから絶叫を上げた。
「来ないで! 私より、ライナーを!」
リディアは血の混じった声で叫び返す。
宙の中で、彼女は破損していない方のトリガーに指をかける。背中から流れる血が、彼女の制服を濡らし、装置のベルトをぬめぬめと滑らせる。
(まだ、いける!)
痛みが意識を奪おうとするのを、歯を食いしばって押し返す。指先に残った感覚で、ワイヤーを発射し、刃を握りしめる。
(戦え――!)
リディアの瞳に、決意の炎が灯る。
その時。
巨人たちが、動きを変えた。襲いかかってくるはずの敵が、その相手を変える。
何かが違う。巨人たちが、味方してくれている……?
リディアは、その隙に難なく着地した。
大地が揺れる感覚が消えた。何かが、変わった。
地鳴らしが、止まっている。
ジャンが、起爆装置を押す。ライナーが、首から現れた「何か」を抑える。仲間達を乗せたファルコが、飛んでくる。
そして。
――アルミンが、骨ごと、エレンを吹き飛ばした。
しかし、すべてが終わったわけではなかった。砂埃と煙の舞う戦場の中心に、姿の違う巨人と化したエレンがまだ立っている。巨体の影が、踏み荒らされた大地に長く伸びる。
そして彼は、ゆっくりと歩き出した。
彼が向かう先には、光を放つ虫のような生物――あの「始祖の力」の象徴が蠢いている。
家族との再会に涙する仲間たちを背に、リディアは焼けるような痛みに苛まれながら、その光を見つめていた。
その時、コニーが苦しげに息を吐き、小さく呟いた。全員の視線が、ゆっくりとコニーの方へ向けられる。
これから……ラガコ村と同じことが起きる。
リディアの指先が、ほんのわずかに震えた。
もし、またあの「光る虫」とエレンが接触すれば、すべてが振り出しに戻るかもしれない。せっかく止めた地鳴らしが、また繰り返されるのかもしれない。
でも、この煙を吸ったからには……
(私にできるのは、ここまで)
これで、終わりか。
ファルコと、その背中に乗せられた仲間達が、遠ざかって行く。
ジャンとコニーが肩を組みながら、戦場の煙の向こうを見つめて、二人で話していた。リディアはゆっくりと二人のもとへ歩み寄り、静かに肩を組む。
肩を組んだ瞬間、ふっと体の力が抜ける。
風が、血と硝煙の匂いをかき消していく。全身が疲労に包まれながらも、リディアは微笑んだ。
「……悪くない人生だった」
思ったよりも、その言葉はすんなりと口から出た。
決して幸せばかりではなかった。だが、家族がいて、友だちがいて、好きな人がいて、支えてくれた仲間たちがいた。
傷つけ、傷つけられ、それでも最後には一緒に戦えた。どうしようもなく絶望した日々の中にも、確かに幸せだと思える瞬間があった。
だから、これでいいんだ。
「あぁ」
ジャンが頷く。その隣でコニーも、目を閉じながら「……そうだな」と、微かに口を動かした。
空が、遠い。高く、どこまでも。
あの日、パラディ島の港で。ジャンとコニーとサシャに海に投げ飛ばされたときと同じような。そんな色の空だ。
そう思うと、不思議と心は穏やかだった。
視界が揺れる。こんなにも、空は遠かっただろうか。
音が、遠のいていく。意識の奥で、血の匂いだけがはっきりと感じられる。
そうやってリディアは、この場にいる多くのエルディア人たちと共に……無垢の巨人に、姿を変えた。
***
シガンシナ区の町の中で、幼い姿をしたエレンは、まるで何でもないことのように言った。
「正直に言って、リディアが生き残るとは思ってなかった」
その言葉を聞いた瞬間、リディアの心臓が強く締めつけられた。
「……私も」
そう返しながら、自分の声がわずかに震えているのが分かった。
(最初から、私の生死なんて、エレンにとってはどうでもよかったの?)
しかし、ゆっくりとエレンの顔を見ると、彼はただ静かに笑っていた。生きていてくれてよかった、と言わんばかりに。
エレンは、静かな町の階段に腰かけながら続けた。
「お前が死んでも、生きていても。オレの見る範囲の未来では、影響を与えることはなかった」
それでも、と彼は言う。
「リディアが、オレの大切な存在であることには違いない」
「だから、生きていてくれて、嬉しい」
リディアは青空を仰ぎ、ぽつりと呟いた。
「私の存在程度で、未来は揺らがないか」
少しだけ、安堵した。
「……よかった」
「未来を変える英雄なんて、器じゃないもの」
「あぁ。お前は、普通のヤツだよ」
エレンが笑う。その目の奥に、深い影を落としながら。
「オレと同じ、普通のヤツだ。だからこうして、友人になれた」
リディアは、ゆっくりとエレンの顔を見つめた。
「ずっと、壁の外で行方不明になってる人を救いたいって言ってただろ」
「うん」
「探しに行こう」
二人は世界を彷徨った。
知らない街、知らない言葉。
迷子になった子供たちを、大人たちを、行くべき場所へと導いていく。それは、リディアが願ったことだった。
壁の外で行方不明になった人々を、探しに行く。壁の外で生活を送る人たちに、会いに行く。
かつて願った夢を、エレンが叶えてくれた。
「これが……父の見たかった世界」
リディアは、空を仰ぎながら呟いた。
「ありがとう、エレン。こんな景色を見せてくれて」
振り返る。
だが、そこに広がっていたのは――
地鳴らしで踏み荒らされた大地だった。
すべてを失った、赤黒い荒野。見渡す限り、何もない。死体も、街も、草木すらも。
その場に立ち尽くすリディアの隣で、エレンはただ、俯いていた。
「これが、オレの選択の結果だ」
リディアは、言葉を失った。
何かを言おうとしたが、声にならなかった。
「……私の責任でもある」
リディアは静かに言った。
「私たちは、同罪」
エレンが何かを言いかける。しかし、リディアはそれを遮るように、真っ直ぐ彼を見つめた。
「……それでも、エレンは人間だよ」
全てを失った荒野で、リディアは小さく呟いた。エレンがただの、一人の人間であることを。
リディアは、突如現れた血だまりの中に、そっと手を入れた。
「だから、これは……」
指先が、赤黒く染まる。
「あなただけのせいじゃない」
二人は、訓練兵の姿をしていた。
「ねぇ。どうして私をレベリオに連れていったの?」
「は? だってそりゃお前……リディアがそう望んだからだろ」
「えっ」
「お前がライナーに会いたいって号泣するもんだから」
「……」
「二人で会わせてやれるのはここしかないって思ったんだ」
「えぇ……」
リディアは軽く眩暈を覚えた。
「ずいぶん前になるけど。巨人化実験のとき、たった一人で、オレの味方をしてくれただろ」
「そうだね。あれは……早計だった」
「はは……そうだな」
「だけどオレは、多分お前が思ってる以上に、嬉しかったんだ」
エレンは目を伏せ、静かに言葉を紡ぐ。
「新しい環境で、自分も仲間たちもどうなるのか分からない中、無条件で味方してくれるリディアがいたから……本当に安心できた。ひとりぼっちじゃないって、思えた」
「だから、いつかお前にも、何かしてやりたいと思ってた」
「待った。その結果が、丸腰レベリオだったってこと? 発想がぶっ飛びすぎでしょ」
リディアは苦笑した。
今の二人は、調査兵団の制服に身を包んでいた。
「リディアがフロック側の勢力に靡くんじゃないかって、割とヒヤヒヤしてた」
どこか懐かしい街並みの中、並んで腰を下ろす。
「そうなったとしても、それはリディアの選択だから、まぁ仕方ないことなんだが……でも、オレは嫌だった」
「どうして?」
エレンはリディアの顔をじっと見つめた。
「オレが、お前とライナーに幸せになって欲しかったから」
「は……はぁ?」
予想外すぎて、思わず聞き返す。
「だって嫌だろ。お前の相手がフロックだったら」
「いやちょっと、何それ……それはまず、ないんだけど……」
リディアはエレンの唐突な発言に苦笑するしかなかった。
「オレは友人として、お前に幸せになって欲しい。当然、ライナーにも。この先も……ずっと」
エレンの表情は真剣だった。軽口ではない。本気でそう願っている顔だった。
「ありがたい願いだけど……それは、どうかな」
リディアはふと視線を上げ、空を見つめた。
「先のことは分からない。それに、ずっと続く幸せなんて、あるのかどうか」
「なんだ。もう冷めたのか?」
「そういうわけじゃないけど」
「それともまだ、復讐したいと思ってるのか」
「そんな昔みたいに激烈な感情は、さすがにもうないよ」
リディアは、静かに言葉を紡ぐ。エレンは腕を組みながら、うんうんと頷く。
「そもそもライナーは、別に私のこととか好きじゃないし」
「お前まだそんなこと言ってんのか」
エレンは呆れたようにため息をついた。
「ライナーは、軽々しく女に手を出せるような男じゃない。本当にいい奴だよ。だから……もう少し信用してやれって」
リディアは視線を逸らす。
「恋心自体が、もう遠い過去の話って感じなんだよね。相手を不幸にする復讐なんかも望んでないし、私はライナーが幸せに生きられるなら、それでいいよ」
「……ウソつけ」
不意に、エレンの声が硬くなる。
リディアが軽く肩をすくめると、彼は真っ直ぐに彼女を見つめた。
「何が?」
「ここで引いたら、お前ら一生一緒になれないぞ。そんなんじゃ、お前が受けた仕打ちにも見合わない」
リディアは苦笑しかけたが、エレンの目が冗談を許さない光を帯びているのを見て、思わず息を呑んだ。
「なんでエレンがそこまでお節介焼くかなぁ」
「こんな時までリディアが明らかな嘘をつくからだろ」
彼の声は静かだったが、揺るぎなかった。
「オレには分かる。お前は一度決めたことを貫き通すまで満足できない、頭が固くて、一途な奴だ。そうでなきゃ、いつまでもあんなブローチ持ってるわけがない」
「……もう返したよ」
リディアはそっけなく言いながらも、なぜか胸の奥がざわついた。
「幸せになりたいと思うのは、人間なら当然の本能だ」
その言葉が、不意に胸に突き刺さる。
「そこから逃げるな、リディア」
リディアは言葉に詰まる。静かに紡がれた言葉が、ずしりと重い。
エレンは、まるで自分自身にも言い聞かせるように呟いた。
「オレだって、皆と、一緒に……」
「……こんな形じゃなく、本当に……お前らと、皆と、未来を生きていたかった」
エレンは、その言葉の意味を噛み締めるように、目を伏せた。
リディアは、まるで自分の胸の奥まできしむような感覚を覚えた。
「エレン……」
気づけば、エレンの頬を涙が伝っていた。肩が震えて、息が詰まるような嗚咽をこらえている。
「ごめん……ごめん」
何に対する謝罪なのかは、明らかだった。
それは世界中を踏み潰す行為に対する後悔であり、その選択を選びたくて仕方がなかった自身の本性に対する絶望であり、それでも仲間には幸せに生きてほしいと願ってしまう、矛盾した祈りだった。
リディアはそっと、正面から彼の肩を抱いた。
その瞬間、エレンは押し殺した嗚咽を漏らし、震える手でリディアの背中を掴んだ。
「ううん、いいよ……話してくれてありがとう、エレン」
言葉が詰まりそうになったが、それだけははっきり伝えたかった。
しばらく、二人は何も言わなかった。
「……あのね」
沈黙の中、リディアが静かに口を開いた。
「私は結局、エレンの考えてる通り……何をされても、どんな仕打ちを受けても、ずっとライナーのことだけが好きだった」
エレンは涙を拭いながら、リディアの瞳をじっと見つめる。
「でも。それだけじゃ、本当に先はないんだよ」
彼女の言葉に、エレンの眉が少し寄った。
「未来が欲しいなら……人を愛する覚悟を持てなければ、進む道の先はない」
リディアの言葉に、エレンが眉をひそめる。
「……愛?」
エレンが戸惑うように呟く。
「恋とかいう感情の話じゃなくて、愛という行動を選ばなきゃいけない」
「うん……うん?」
エレンは訝しげにリディアを見つめた。コイツいきなり何言ってんだ? とでも言いたげな顔をして。
「エレンがミカサにしてきたこと。私はそれが、愛だと思うよ」
「……愛」
リディアは、ふと目を伏せ、ぽつりと呟いた。
「ミカサがエレンに示してきたことも、愛だと思わない?」
「……どうだかな」
エレンの目が揺れる。
「でも……そうか。そう、だな……愛。ミカサがしてきたこと、が……」
そして、落ち着きなく視線を泳がせる。
「なに、照れてるの?」
「お前が急に変なこと語り出すからだろ! なんでミカサの話なんか……」
「……ミカサのことは」
「色々あって、アルミンに殴られた」
「あぁ……」
リディアは苦笑し、エレンはため息をついた。
「愛とか何とか……オレは理解しきれてないけどさ。一つ、リディアに提案がある」
唐突に、彼は妙に真面目な顔をして言った。
「どうせライナーのことが嫌いになれないんだったら、リディアなしじゃいられないくらいグズグズに依存させて、完全に堕としてやるのはどうだ」
「え?」
「リディアなしじゃいられない身体にしてやるんだ」
リディアの思考が、一瞬止まった。
「……は? 何言ってるの?」
ぽかんとしているリディアを見て、エレンは 「あれ、なんか間違えたか?」というような顔をしながらも、そのまま続ける。
「お前がライナーを服従させるんだ。そうすれば復讐にもなる。一石二鳥だ、完璧だろ」
「……えぇっと……?」
「これも一つの愛じゃないか?」
エレンは至って真剣な顔をしていた。そのあまりにも堂々とした態度に、リディアは戸惑いながら口を開きかけたが、言葉が出てこない。
考えれば考えるほど、その理論の破壊力がすごい。
何より、エレンが本気でそれを言っているのが分かるからこそ、リディアの脳が処理に時間をかけた。
数秒間の沈黙。
エレンは不安そうにリディアを見つめている。
(何この人……本気で返事を待ってるの?)
沈黙に耐えきれず、リディアは堪えきれなくなったように吹き出した。
「あははっ……いいね、それ」
「だろ?」
「……バカみたい」
「お前もな」
本当にくだらない。けど、それが何よりも心を軽くするものだった。
二人は、しばらく笑い合った。まるで、あの頃に戻ったかのように。何の憂いも、迷いもない、ただの二人だった頃のように。
しかし、それは決して過去に戻れないと知っているからこその、一瞬の幻想だった。
二人は時を変え、姿を変え、場所を変え、色々なことを話した。
皆のこと。今後のこと。始祖ユミルのこと。地鳴らしのこと……人類を大量に虐殺したという事実のことも。
いつまでも、どれだけ話しても、話し足りない。言葉は尽きることなく、次々に溢れてくる。
でも、一緒にいられる時間には限りがある。
「リディア、時間だ」
エレンの声が、どこか遠くから響いた。まるで、現実へと引き戻す鐘の音のように。
「エレン」
「地獄でもまた、友達になってね」
まだ話し足りないことがたくさんあったのに。まだ聞きたいことが、たくさんあったのに。
対話は、唐突に終了した。
リディアの意識が、一瞬で現実に戻る。
暖かい光が差し込む中――彼女は、無垢の巨人から、人間に戻った。
そっと開いた掌の中に、エレンと交わした会話の温かい記憶が残されていた。
鎧の巨人への復讐を目標に生きてきた女が、全身全霊で鎧の巨人を守る。これが書けただけで満足です。