「楽園の島の魔女」(完結)   作:雄魔雌

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19 愛について

 天と地の戦いが終わってから、すでに二年以上の歳月が経過していた。

 

 リディアはすっかり打ち解けたガビやファルコと共に、土地の緑化に使う手押し型播種機の整備をしていた。まるで遊んでいるかのような雰囲気で、工具を手に機械の手入れを進めていたが、気づけば、作業は競技のようになっていた。

「誰の手入れが一番丁寧か、判定してもらおう!」

 突如ガビがそんなことを言い出し、リディアもすぐに乗った。

 

 審判役にされたリヴァイは、黙々と部品を確認しながら、じっくりと仕上がりを見比べる。そして静かに判定を下した。

 

「……ガビの勝ちだ」

「えっ、なんで!?」

 

 リディアが思わず驚きの声を上げる。

 

「リディアさん、途中から完全にスピード重視になってましたよね……」

 

 ファルコが苦笑しながら言うと、ガビが「よっしゃーっ!」と勝ち誇ったように叫んだ。

 

「あんまり調子のんなよ」

「リディアに勝ったぞおおお」

 

 ガビのはしゃぎっぷりに、ファルコが呆れた声を漏らすが、当の本人は意気揚々としている。

 ガビは両手を高々と上げて、思い切りガッツポーズを決めた。

 

「兵長、私の方が頑張ってません?」

 

 納得いかない様子のリディアがリヴァイに訴えると、彼は淡々と答えた。

 

「甘ったれんな。お前の立体機動装置がどんな状態で使用されていたのか……今さらだが、不安になる」

 

 リヴァイは車椅子に乗ったまま腕を組み、じっとリディアを見つめる。

 

「それに、もう兵長じゃない」

「うーん、でも、リヴァイさんって呼ぶのはちょっと抵抗が……」

 

 リディアが微妙な顔をすると、リヴァイはわずかに口角を上げて応えた。

 

「それなら俺もお前を分隊長と呼ぶぞ」

「えっ! 嫌です!」

「なら、他の機械整備も全部やれ」

「リディア分隊長! 負けたんだから、私の分もやって!」

「……こら、ガビ!」

 

 ファルコが調子に乗るガビを叱るが、そのやりとりすらも穏やかな日常の一コマだった。

 

 

 戦争を終えた世界の中で、ようやく訪れた穏やかな時間。

 勝ち負けに熱くなるガビ、呆れながらも付き合うファルコ、相変わらずのリヴァイ。リディアはふと、こんな何気ない時間こそが、本当に守りたかったものなのかもしれないと、そんなことを思った。

 

 

 

 そこへ、ガビの両親とカリナが揃って姿を現した。三人の表情は柔らかく、ガビを迎えに来たようだった。

 カリナとリディアの関係は、最初こそ言葉にできないほど気まずいものだった。二人とも、レベリオでの出会いを鮮明に記憶していたからだ。

 かつてリディアが復讐を誓った男の実母であるカリナ。そんな彼女の息子を憎み、殺そうと決意していたリディア。お互いに複雑な感情を呼び起こす存在だったことは間違いない。

 しかし、そんな二人の関係も、今では少しずつ変わりつつあった。

 

 天と地の戦いの後、初めて会話を交わしたとき。カリナはリディアの目をまっすぐ見つめ、深く、ゆっくりと頭を下げた。

 

「息子のことは、本当に……なんと言葉にすればいいのか……」

 

 その静かな声音は震えていた。だが、そこに込められた後悔と感謝の思いの重さを、リディアは胸の奥深くで感じ取っていた。

 

 

 

 そして今。

 カリナは両親と和やかに会話を交わすガビの姿を見つめてから、ゆっくりとリディアの方へ視線を移した。そして、かつてないほど穏やかな微笑みを浮かべて言った。

 

「あなたがあの子を赦してくれたから、今、こうして平和な時間を過ごすことができる。……心からありがとう」

 

 しかしリディアは、その言葉にわずかに表情を曇らせた。

 

(私は……彼を「赦した」のか?)

 

 赦すという言葉が、どうしても心に引っかかる。

 ライナーのことは今も好きだ。憎しみを超えて、何度もぶつかって、それでも最後に選んだのは、仲間として共に歩む道だった。

 でも「赦した」のだろうか? その言葉がついて回ると、どうにも居心地が悪い。違和感がある。

 

 赦されなきゃ、いけないのだろうか。

 赦さなきゃ、いけないのだろうか。

 

(それなら……私の罪を裁くのは、誰なんだろう)

 

 巨人との戦いで、多くの命を奪ったこと。レベリオで死なせた数々の人々のこと。地鳴らしを止めるために、かつての仲間に刃を向けたこと。フロックを見捨てたこと。そして……エレンを殺したこと。

 

 自分が犯した大罪を誰が裁くのか。誰が「お前を赦した」と言ってくれるのか。

 

 リディアは深く考えないようにした。考えたところで答えは出ない。

 

 

 

 それに、もうひとつ。気づいていることがある。

 カリナも、ガビも。二人が何気なく……いや、わざとらしいほどに「リディアにライナーの嫁になってもらおう」と誘導しようとしているのが、伝わってくるのだ。いやむしろ、二人はそうなることを確信しているようにすら見える。

 リディアは敢えて、それを受け流していた。

 リディアとライナーはそういう関係でもないし、そんな話もしたことがないのだから、そもそも受け止めようがない。

 

 

「おばさん」

 

 ガビの声が聞こえる。

 

「リディアが、ライナーのところに来てくれたらいいのにね」

「……そうね」

 

 カリナの遠慮したような声も続く。

 二人が遠くでそんな話をしているのが、しっかりと耳に届いた。リディアはため息をつき、そっと視線をそらした。

 

 

 

***

 

 

 

 世界を救った英雄などと言われても、アルミンたちはそれぞれに悩みを抱えていた。

 エレンが思い描いたような「この世で最も敬意を表される存在」になったとは、とても言い難い。

 

 世界が求めるのは「象徴としての英雄」であり「物語としての英雄」である。自分の言葉で語り、その意思を示す生身の英雄は……時に、都合の悪い存在となる。

 今はパラディ島との関係があるから、誰も表立って邪険にするようなことはない。しかし、この先も同じ立場でいられるかどうかなんて、誰にもわからない。

 誰もが、戦後の現実に疲弊しきっていた。

 

 そんな中、酒の場を用意してくれたのはオニャンコポンだった。

 

「こんな機会めったにないからな。今日は楽しんでくれ」

「なんだよ、男連中しかいねぇのか」

 

 そう言いながらも、ジャンはホッとした顔をしている。杯に注がれる琥珀色の酒が、揺れる灯りに照らされて輝いていた。

 

「こういうのも、悪くないだろ?」

 

 オニャンコポンが快活に笑い、大きなジョッキを掲げる。

 

「乾杯!」

 

 

 五つのジョッキがぶつかり合い、泡が飛び散った。

 

「くそっ、もう半分こぼれた!」

「そんなに惜しがるな。今夜は好きなだけ飲むさ」

 

 コニーが文句を言いつつも笑い、ライナーがさらに酒を注ぎ足した。

 

 リヴァイも不在だったため、オニャンコポン、ジャン、コニー、ライナー、アルミンの五人で、酒場の隅の一つのテーブルを囲むことになった。

 

「なんだか久しぶりだな、こういうの」

「そうだな」

  

 アルミンがつぶやくと、ジャンがジョッキを傾けながら答えた。

 

 男同士で、久々に酒を酌み交わす。

 料理の皿が次々と運ばれてきて、テーブルは肉やパンで埋め尽くされていった。

 オニャンコポンが故郷の歌を歌い始め、コニーが変な踊りで応じる。アルミンの顔は酒で赤くなり、普段は言わないような冗談を口にしていた。

 

「おい、この次は誰が奢る番だ?」

 

 ジャンが空になったジョッキを叩きながら言う。

 

「前回は俺だったよなあ!」

 

 コニーが笑いながら嘘をつく。

 

「前回なんてあったっけ?」

 

 アルミンも顔を赤くして笑う。

 

 

 楽しく盛り上がっていると、ライナーが立ち上がった拍子に、ポケットから何かが落ちた。カランという小さな金属音が床に響く。

 

「何か落としたぞ」

 

 オニャンコポンが伝えると、ライナーがそれを拾い上げる。

 

 それは、見覚えのあるブローチだった。

 

 

 

 空気が凍る。

 酒の席での笑い声が一瞬にして途切れた。さっきまでの喧騒が嘘のように、テーブルに沈黙が降りる。

 ライナーは黙って手の中のブローチを見つめている。酒で上気していた顔から血の気が引いていくのが見えた。

 

「え、お前……それ、マジ?」

 

 コニーが、明らかに顔を引き攣らせながら尋ねた。

 

「ジャン、これやべぇよな!? やばくないか!?」

 

 恐怖を隠せないコニーが、隣のジャンに助けを求めるように目を向ける。

 

「シンプルに気持ち悪い。そいつを墓にまで持ってくつもりか」

 

 ジャンは酒を一気に飲み干し、がつんとテーブルにジョッキを置いた。

 

「……そろそろ現実と向き合った方がいいんじゃない?」

 

 今度はアルミンが、静かに言った。

 

「リディアに返されたブローチをずっと持っていることで、君は何を証明したいの?」

「……」

 

 言葉が出ない。ライナーは酒に手を伸ばし、一気に喉に流し込んだ。

 自分がしていることがどれだけ未練がましいか、どれだけ情けないか……そんなことは、痛いほど自覚していた。

 それでも、手放せなかった。リディアに返された時点で、何の意味もないはずなのに。彼女がもう自分を必要としていないことくらい、二年も前から、わかっているのに。

 

 ライナーは、視線を落としたまま、搾り出すように言った。

 

「……自分が気持ち悪いことは自覚している。でも、どうにもならないんだ、本当に……」

 

 苦しそうな顔。

 それを見たジャンが、またため息をつく。酒場の喧騒が遠くから聞こえてくるだけで、彼らのテーブルだけが異様な静けさに包まれていた。

 

「救いようがねえな」

 

 ジャンは空になったジョッキを掲げ、通りかかった店員に合図を送る。

 

 オニャンコポンは、明らかに困惑していた。

 

「いや、お前らの事情はよく知らんが……」

 

 そう前置きしながら、ライナーをじっと見つめる。

 

「俺たちも忙しすぎて放置してたけどさ。お前とリディアの関係、一体何なんだ? 宙ぶらりんすぎるだろ」

 

 ライナーは答えられなかった。それは、ライナー自身が一番よく分かっていることだった。汗ばんだ手のひらでブローチを握りしめ、ゆっくりとポケットに戻す。

 

 あまりにも気まずくて、しばらく沈黙が流れた。空になったジョッキの代わりにグラスが満たされると、全員が酒を口に含む。

 

 この空気をどうにかしようと思い、ジャンはわざとアニの話をし始めた。

 

「そういやアルミン。この前アニが言ってたぞ。お前のこと、良いよなって」

 

 ジャンの唐突な話題転換に、アルミンは赤面する。アルミンをからかうためだと気づいたコニーやオニャンコポンにも笑顔が戻る。

 

「なにを、いきなり……! 冗談だろ」

 

 アルミンが抗議するが、耳まで赤くなっている。

 

「マジだって。この前はっきり聞いた」

 

 ジャンが大げさに手を振って見せる。

 

 

 また、酒が進む。肩を叩き合い、笑い声が戻ってくる。テーブルの上の皿が少しずつ空になっていく。

 ライナーも思わず、アルミンいじりに乗っかる。

 

「アルミンからも、可愛いとか言ってやったらどうだ? あのアニがどんな顔をするのか見てみたい」

 

 しかし、そうすると……急にアルミンから反撃された。

 

「随分と余裕だね。君がリディアにしたこと全部、この場でみんなに話してもいいんだけど」

 

 ほろ酔いで少し顔を赤くしたアルミンが、調子に乗るなよというような顔でライナーを見る。

 

 ライナーはあからさまに動揺した。

 酒のグラスを取り落としそうになり、慌てて受け止める。視線を彷徨わせながら、なんとか誤魔化そうとするが、酔いの回った頭ではうまく言葉が出てこない。

 

「お、おい。アルミン……何を言う気だ? 何を知ってるんだ、お前は」

 

 ライナーの声が震え、テーブルの上の皿がかちゃりと音を立てた。

 

「さぁ、なんだろうね」

 

 アルミンは、わざとらしく笑う。

 

「ちょっと待て。その言い方だと、まるで何か掴んでるみたいな……」

 

 ライナーの声が震える。

 

「あぁん?」

 

 既に相当酔っているコニーが、酒瓶を乱暴に置いて、ガラ悪くライナーを睨む。

 

「お前、おい。マジで何した?」

「いや、だから……何も……」

 

 コニーの迫力に、周囲のテーブルからも視線が集まり始めた。ライナーは必死に言い訳しようとするが、焦りすぎて余計に怪しい。

 

「……」

 

 静まり返る空気。

 ごくりと、誰かが唾を飲みこむ音がした。

 

「一回だけ……」

 

 ライナーが、ぽつりと口を開いた瞬間。

 

 

「はああああああああ!?」

「はっ? え? ……やったんか!? いつ!?」

「ち、違う! お前らが想像してるようなことは何もしていない!」

 

 爆発するテーブルの向こうで、コニーとジャンが騒ぎ始めた。

 

「おいおいおいおい……マジかよライナー、お前……やったのか……?」

「俺たち、なんで今まで知らされてなかったんだ!? おいジャン、これは問題だろ!」

「おう、大問題だ! 今すぐ詳細を聞かせろ!!」

「違う! お前らが勝手に勘違いしてるだけだ! ……アルミン、お前も何か言え!!」

 

 ライナーが助けを求めるが、当のアルミンは頬杖をつきながら、ニヤニヤとライナーを見つめている。

 

「くそっ……最初から俺をはめるつもりで言ったな……」

「僕だって、こんな簡単に自爆してくれるとは思ってなかったよ。というか本当に何をしたの?」

 

 かまをかけられただけだったと気づいたライナーは、顔を真っ赤にしてテーブルを叩く。

 

「いっ……」

「い?」

 

 アルミンが繰り返す。

 

 ライナーはしばらく葛藤したのち、

 

「……言えない、これ以上は。リディアの名誉を守るためにも……」

 

 と、静かに言い放った。

 

「そういう言い方が誤解を生むんだよ……」

 

 アルミンがため息をつく。

 

 

「おい! ちゃんと白状しろ!」

「ど……どうだったんだよ……」

  

 机をドンドンと叩くコニー。ジャンに至っては完全に勘違いしており、顔を赤くして動揺している。

 

「やめてやれって」

 

 オニャンコポンだけが、苦笑いを浮かべながら事態の成り行きを見守っていた。

 

 結局、ライナーはすべて白状することになった。

 かつて告白を受けたこと。それに応えてキスをしてしまったこと。全てが何年も前の話で、そのうえ調査兵団の新兵だった頃の話だった。

 

 そしてそれを聞かされたジャンとコニーはというと。

 

「なんだ、その話かよ……」

「ガッカリだ……」

 

 という、あまりにも白けた反応をしていた。

 もっと過激なことをしたと思われていたのだろう。二人はあからさまに興醒めしていた。

 

「お前ら、なにを期待してたんだ……」

「だってお前、そんな重大なことみたいな顔して言うからさぁ!」

「紛らわしいんだよ!」

 

 しかし、ジャンは酒を煽りながらも、真剣な目でライナーを見つめる。

 

「それで……結局どうするんだ、これから」

「……」

 

 ライナーは黙り込んだまま、グラスの中の酒を見つめる。コニーも冗談っぽい顔から一転して、じっとライナーを見据えた。

 

「いつまでも逃げてんなよ」

 

 その一言に、ライナーは言葉を失った。

 ジャンが続ける。

 

「その気がないなら終わらせろ。そうじゃないならハッキリしろ。いつまでもリディアを振り回すな」

 

 もう、誰もふざけた顔をしていなかった。

 

 ライナーは、酒を一口飲み干して、ゆっくりと頷いた。

 

「……分かってる」

 

 ジャンは「ほんとに分かってんのか?」と疑わしそうに睨んでいたが、コニーが「ま、見守ってやるか」と言って、酒瓶からグラスに酒を注ぐ。

 

 すると突然、ライナーがやたら重苦しいトーンで呟いた。

 

「俺は……リディアのことを愛している」

 

 全員が、再び沈黙した。

 

「……えぇ……?」

「いや、ここで俺らにそんなこと言われても……」

 

 オニャンコポンが露骨に困惑した表情を浮かべ、コニーも冷めた視線を向ける。

 

「未練がましくブローチを持ち歩いてる時点で、そんなこと分かってるよ……」

「だから本人に言えよ」

 

 アルミンが呆れたようにグラスを傾け、ジャンがズバッと正論をぶつける。

 

 

 ライナーは目を伏せ、手元のグラスを見つめたまま動かない。

 

「でもそんなの、虫が良すぎやしないか」

 

 酒のせいだけではない。声が震えていた。

 

「リディアには幸せになってほしい。あの笑顔を失ってほしくない。この先も彼女がずっと笑っていられるなら、俺は何だってしてやりたいと思う。でも……」

 

 グラスを握る指に力が入る。

 

「俺にそんなことを望む資格があるのか」

 

「大罪人たる俺が、誰かを……愛そうだなんて。そんなことが許されるとは、とても……」

 

 静かな酒場に、ライナーの言葉が沈んでいく。

 誰もすぐには返事をしなかった。

 

「……罪があるのはお前だけじゃないだろ」

 

 重い沈黙を破ったのは、ジャンだった。

 

「俺たち全員同じだ。当然、リディアも含めてな」

 

 酒の席は、再び静かになる。

 誰も笑わない。誰もが心のどこかに、同じ苦しみを抱えている。

 

 

「なんかもう、拗らせすぎてて面倒くせえな」

 

 ジャンが、無造作にグラスを置いた。

 

「本人をここに呼ぶ」

「えっ」

 

 ライナーが驚き、顔を上げる。

 

「二人きりにしてやる。そこで答え出せ。明日、結果聞くからな」

「無理だ……」

「無理じゃない。やれ」

「ま……待て、本当に無理だ。話せるわけがない」

「ライナーからまともな結果が聞き出せなかったら、リヴァイ兵長を交えてまた話をしよう」

 

 アルミンが淡々と付け加えた。

 

「それは勘弁してくれ……」

 

 ライナーの悲痛な叫びに、ジャンとコニーがニヤリと笑う。

 

「だったら、ちゃんと答えを出せよ」

 

 ライナーは酒を飲み干し、深く息を吐いた。

 もう、逃げられない。

 

 

 

***

 

 

 

「うわ、酒くさ……」

 

 ドアを開けた瞬間、むわっとしたアルコールの匂いに、リディアは顔をしかめた。

 ライナーは、少しだけ気まずそうに眉を寄せる。

 

「すまない、あいつらが結構な量を……」

「で、飲んだ当人たちは?」

「……帰った……」

「……」

 

 リディアは顔を歪めて怪しんだ。酒の場に呼び出された挙句、一人を除いて既に撤退済み。どう考えても、何か企みがある。

 

「私も少しだけ飲もうかな」

 

 とりあえず椅子に腰掛け、リディアは新しいグラスを受け取る。

 

「それだけ飲んだら、もう帰ろ」

「……わかった」

「部屋まで送るよ、この酔っ払い」

 

 冗談めかして肩を軽く叩く。ライナーは少しだけ眉を下げて微笑んだ。

 

 

 

 リディアは一杯だけ酒を飲み、顔の赤いライナーと店の外に出た。

 夜風が静かに吹き、月明かりが二人の影を長く伸ばした。遠くから、犬の鳴き声が聞こえる。

 

「なんか話があるって聞いてきたよ。何?」

「……」

 

 ライナーは口を開きかけたが、何かを迷うように沈黙する。

 

 しばらくして、ようやく重い口を開く。

 

「俺は、リディアには幸せになってもらいたいんだ」

「はぁ。それはありがとう」

「でも、俺にはそうしてやれるだけの自信がない」

 

 リディアの足が、ピタリと止まる。

 

「え、何? 私、いま振られてるってこと?」

「……違う、そういうことじゃなくて」

「なら何?」

 

 不機嫌そうに眉を寄せるリディアに、ライナーは視線を泳がせた。それでも、何かを決意したように小さく息を吐く。

 

 言い合っていると、ちょうどライナーの部屋の前に着いた。

 

「……もうちょっとだけ、飲んで行くか?」

「……うん」

 

 リディアはしばらく彼の顔を見ていたが、少しだけ頷いた。扉を開けると、二人の影が消えていった。

 

 

 

 

 ライナーの部屋は狭かった。英雄と呼ばれていても、贅沢が許されるわけではない。置かれているのは最低限の家具と、わずかな日用品だけ。

 小さなテーブルを挟んで、二人は向き合って座った。貰い物の酒を注ぎ、ちびちびと飲む。

 

 ライナーは、ぽつりと呟いた。

 

「俺は本当に、取り返しのつかないことばかりしてきた」

 

 顔が赤い。すでにかなり飲んできたのか、項垂れたまま、低く呟く。

 

「赦されるとは思っていない。だがリディアが幸せになるためなら、俺は何だって手伝いたい」

「さっきからそんなことばかり言ってるけど……具体的に何の話?」

 

 リディアが訝しむように問いかけると、ライナーは酒を一口飲み、ふっと苦笑した。

 

「ジャンに、アルミン、コニー……オニャンコポンも、兵長も。みんな、本当にいい奴らだよな」

「そうだね」

「お前が一番仲がいいのはジャンだったな」

「一番かどうかは……でもまぁ、気軽ではあるかな」

「もしも、だ。リディアにその気があるっていうなら、俺が取り計らって……」

 

 ライナーが言い終える前に、リディアは気付いた。

 

(……こいつ。私を誰かにあてがうつもりか? で、それで幸せになれと?)

 

 その瞬間、リディアの中に、激しい怒りが燃え上がった。

 なんなんだ。

 昔からずっと、いつもいつも、人を振り回して。

 ベロベロに酔っ払って急に呼び出した挙句、意味深に部屋に招き入れて二人きりになったかと思ったら、わけのわからないことばかり言い出して。こちらがどんな覚悟で部屋に入ったと?

 人の気持ちも知らずに、この男……!

 

 

「ふざけんな! いい加減にしろこのボケがぁ!!」

 

 

 バシン! という乾いた音が響く。

 リディアは勢いよく椅子を押しのけて立ち上がり、机の向こうにいるライナーの頬に強烈なビンタをお見舞いした。

 ライナーは驚きに目を丸くした。はたかれた片頬を押さえ、そのまま呆然としている。

 

「え、な、なんで……」

「すっとぼけやがって……」

 

 リディアはライナーの隣に歩み寄り、座ったままのライナーの胸ぐらを掴んだ。

 

 

「後にも先にも、私が好きなのはあなただけだよ!」

 

 ライナーの肩がびくりと震える。

 

 

「他の誰かに同じ気持ちを抱くことがあるなんて、考えられない!」

 

 キレているのか告白しているのか、もはや自分でも分からない。

 

「あなたがしてきたこと赦してなんかいないし、今も怒ってるし……だけど、それでも好きだよ!!」

 

 叫ぶように言い切ると、胸の奥から溢れそうな感情がこみ上げた。

 何度も心を踏みにじられた。何度も傷つけられた。赦せない。赦すつもりもない。でも、好きでいることをやめることもできなかった。

 

「怒りを忘れたり、捨て去ることなんてできない。そうすれば、これまで私を支えてきたものを全部捨てることになる」

 

 静かに、それでいて熱を帯びた声で続ける。

 

「怒りも、赦せないと言う気持ちも……私を構成する一部。だから私は、あなたのしてきたことを絶対に忘れない」

 

「それに……私がこの世界にしてきた仕打ちだって、忘れることはないし、なくなることもない」

 

 リディアの脳裏に、幾度も蘇る光景。壊されるシガンシナ区、死体だらけの戦場、崩壊するレベリオの街……

 

「私たちは、地続きの人生を歩まなきゃいけない。過去を無視して新しい人生を作るなんて、そんな都合のいいことはできないし、生まれ変わることもできない」

 

 ライナーが、息を詰める。

 

「でも、生まれ変わることができなくても……新しい関係を築くことはできるよ」

 

 リディアは、掴んでいたライナーの胸ぐらを、そっと離す。

 

「ただ、そのためにはまず、私はこの初恋を終わらせなきゃ進めない」

 

 リディアは、座ったままのライナーの両肩をガシッと掴む。真っ直ぐに顔を近づけ、彼の目を上から覗き込む。

 

「あなたがきちんと終わらせてくれないなら、私にだって考えがある」

 

 低く囁くように、しかし力強く。

 リディアの瞳の奥にあるものを見つめ、ライナーは、息を飲んだ。

 

 

 

 そしてリディアは――躊躇いも迷いもなく、その唇を奪った。

 

 ライナーの目が、大きく見開かれる。

 リディアは肩に置いていた手を離し、両手で彼の耳を塞いだ。そしてお構いなしに、自分の舌を絡ませる。

 

「……!」

 

 体を引き、リディアを押し返そうとする。しかし抵抗しようとすれば、リディアの舌は更に深くに押し込まれる。激しく暴れ回る熱に、次第にライナーの抵抗は消えていった。

 ……完全に、リディアの勢いに飲まれた。

 

 咥内に響く水音。耳を塞がれているせいで、それがいやに大きく感じる。逃げ場のない快楽が、脳を支配していく。

 

「……っ……う」

 

 ライナーの喉から、思わず低い声が漏れた。それでも、リディアはキスを止めない。乱暴で、執拗で、何かを叩きつけるような……それでいて、蕩けそうになる口づけだった。

 

 ライナーが両手をリディアの後頭部に添えたとき、彼女は気が付いた。

 

(……は?)

 

 最初は困惑し、抵抗していたライナーが……途中から、その主導権をリディアから奪おうとしている。

 

(何なの、この人。抵抗してたくせに!)

 

 その事実に、無性に腹が立った。

 

(バカみたい。なに、一人で悦に浸ってんの)

 

 舌を引っ込め、乱暴に唇を離す。

 

「……っ」

 

 濡れた唇の間で、唾液が細く糸を引いた。

 

「はぁ……」

 

 息は荒く、互いの鼓動が速くなっているのが分かる。

 

 ライナーは恍惚とした表情で、熱に浮かされたようにリディアを見つめていた。まるで夢心地のように、微かに唇を開いたまま。

 それがリディアには、どうしようもなく腹立たしい。

 

 

「はい、終わり!」

「えっ?」

  

 リディアはライナーの肩を掴み、強引に彼を引き離す。まだ夢の中にいるようなライナーの声が、間抜けに響いた。

 

「はぁ……もう、酒くさいったらない」

 

 リディアは手の甲で口元を拭う。しかしライナーの思考は、全く追いつかない。

 

(何が、終わり?)

 

 たった今、自分はリディアと……。

 それで終わり? 今のキスは何だったんだ?

 喉がカラカラに渇いているのに気づく。心臓が、まだ騒がしく跳ねている。

 

「これで、私の恋は終わり」

「……あ……」

 

 ライナーの声にならない声。

 

「お互いこれからは赤の他人として、それぞれ頑張って生きていきましょう」

 

 リディアは、まるで何事もなかったかのように、軽くライナーの肩を叩いた。

 

「それじゃ」

 

 そう言って、立ち去ろうとする。

 

 

 

(……嘘だろ)

 

 ライナーは立ち上がり、すぐにリディアの腕を掴んだ。

 

「何? 文句ある?」

 

 リディアが、振り返る。冷たい目でライナーを見る。

 

「違う、違う……その」

 

 ライナーの声は、ひどく震えていた。腕を掴む手にも、迷いがある。それでも。

 

「……行かないでくれ」

 

 リディアの肩が、微かに揺れた。

 ライナーは、自分が何を言っているのか分からなかった。ただ、リディアが本当に去ってしまうことだけは、耐えられなかった。

 

 ライナーの目が、捨て犬のようだった。

 絶対に振り切って帰ってやろうと思っていた心が揺れる。哀願するような、必死な瞳。そんな目をしないでほしい。帰れなくなるから。

 リディアは苛立ちを覚えながらも、振り切ることはできず、その場にとどまることを選んだ。

 

 

 

「……レベリオで、何度もリディアの夢を見た」

 

 ライナーの声は、ひどく静かだった。

 

「俺のことをずっと好きでいてくれる、都合のいいリディアの幻だった」

 

 リディアは眉をひそめる。

 

「自分で殺したと思い込んでいたのにな。お前が生きている可能性すら考えることなく……ただ、夢だけを見ていた」

「……」

「また会えるなんて思ってもいなかった」

 

 ライナーは、俯きながらぽつりと呟いた。

 

「赦してくれとは言わない。言える立場じゃないからだ」

 

「でも、リディアが生きていて……こうしてまた話すことができる。それだけでも、本当に幸せなんだ。だからこれ以上望むのはおかしい。そう思っていた、けど……」

 

 ライナーは一度息を呑み込んで、静かに、しかし強く言った。

 

「……頼む。俺の前から、消えないでくれ……」

 

 それは、情けなくて、歪で、不器用な懇願だった。

 

「……先に私の前から消えたのは、そっちでしょ?」

 

 リディアの言葉に、ライナーは目を伏せる。

 

「そうだ……そうだったな……」

 

 沈黙が落ちる。

 

 

 

 リディアはゆっくりと語る。

 

「あなたが夢で見た私と、本当の私は、きっと違う」

「あぁ、分かってる……」

 

 ライナーの表情には、苦しさと理解が混じっていた。

 

「だけどね」

 

 リディアは一歩、ライナーに近づく。その表情に複雑な感情が宿っていた。

 

「もしもライナーが望むなら。あなたのことをずっと好きでいるために、努力することならできる」

 

 その言葉は、静かな空気を震わせた。

 

「えっ……」

 

 ライナーの瞳が揺れる。困惑と、僅かな希望が混ざり合っていた。

 

「あーもう」

 

 リディアは儚げに微笑んだ。

 

「私、本当にダメだな……」

 

 そして更に一歩、ライナーに近づいた。立ったままの二人の間には、もう僅かな距離しかない。

 

「やっぱりどうしても、あなたのことが嫌いになれない。さっきは怒って、赤の他人になろうなんて言ったけど……」

 

 リディアは頭を横に振った。

 

「無理」

 

 その一言には、長い葛藤の末の諦めが宿っていた。

 

 

 

「……あなたは、私と同じ努力ができる?」

 

 ライナーの喉が、ごくりと鳴った。

 

「無理をしてでも一緒にいてね、って意味じゃない」

 

 リディアは急いで付け加えた。

 

「何があってもそばに居る覚悟があるか、それだけ聞きたい」

「……」

 

 ライナーは、何かを言おうとして、言葉を飲み込んだ。

 

「重い?」

 

 リディアが、自嘲めいた微笑みを浮かべながら問いかける。

 

「……そうだね」

 

 彼女は自分の言葉を受け入れた。

 

「私の愛は、重いから。逃げるんだったら今のうちだよ」

 

 ライナーは、リディアの目を真っ直ぐに見つめる。

 

「……愛」

「そう」

 

 リディアは少し微笑んだ。

 

「好きってだけで一緒にいられるほど、私たちは子供じゃないでしょ?」

 

 リディアの言葉に、ライナーは静かに頷く。

 

 彼女は、恋という一瞬の感情ではなく、愛を継続する覚悟を問いかけていた。

 愛は感情ではなく、行いである。継続する努力を怠れば、それは簡単に失われてしまう。

 

「……思えば、知らないことだらけだ」

 

 しばらく逡巡をめぐらしたあと、ライナーはふっと小さく息をついた。

 

「これだけ色々あったのに、未だにリディアのことをよく分かっていない」

「仕方ないよ。私たち、別の人間なんだから」

「だからもっと、教えてくれ」

 

 リディアは小さく目を見開く。彼の予想外の言葉に、信じられないという表情で、リディアは問いかける。

 

「そんなに知りたい?」

「あぁ」

 

 ライナーは迷いなく頷いた。その瞳には確かな光があった。

 

「どうして?」

 

 リディアは試すように問いかける。もう一度、彼の言葉を確かめるように。

 

「俺が……リディアのことを」

 

 ライナーは後頭部をかきながら、少し照れくさそうに言った。

 

「……愛したいと願っているからだ」

 

 それは、いつか聞いたような過去形の告白ではなかった。

 思いもしなかった言葉に、リディアは息を飲んだ。

 あのライナーが、こんなことを言うなんて。

 それは過去の気持ちを懐かしむのではなく、未来に向けての宣言。リディアは思わず、熱いものが瞼の裏に広がるのを感じた。

 

 リディアはそっと、指先でライナーの手を取った。震えているのは自分か、それともライナーか。もう分からなかった。

 

「……本当に? 信じてもいいの? 嘘じゃない?」

 

 震える声。まっすぐな瞳。揺れる感情が、リディアの身体から溢れそうになっている。

 その震えを見逃さなかったライナーは、考えるよりも早く口を動かしていた。

 

「当然だ」

 

 自分で言った言葉の重みが、遅れて押し寄せる。

 愛している。

 軽々しく使っていい言葉ではない。その響きには、重たい責任が伴う。

 

 

「だったら」

 

 リディアの表情が崩れた。長い間堰き止めていた感情が、決壊するように溢れ出す。

 

「……もう二度と、私を独りにしないで……」

 

 その言葉は、静かに、しかし決定的に空間を満たした。

 それは、長年リディアを遠ざけてきたライナーへの、最も痛烈な刃だった。

 

 

 

 

 ライナーは静かに手を伸ばし、リディアの髪を撫でる。

 結局いつも、リディアを傷つけてばかりだ。今だって、こんなに泣かせて。自分のような人間といたら駄目だと分かっているのに、それでも、手離したくなかった。

 

「私のこと、一途で健気な女だと思ってる?」

 

 リディアが小さく笑った。

 

「そんなんじゃないよ。もうずっと狂ってるんだと思う。そうでなきゃ、こんなにあなたにこだわらない」

 

「ずっと昔から、生まれた時からこういう人間だから……この気質は、どうしようもないの」

 

 そう言って、リディアは嬉しそうに涙をこぼした。

 

 ライナーは、その涙をどうしても拭えなかった。その姿が、あまりにも綺麗だったからだ。

 

「本当に……いいのか」

 

 さっき離したくないと思ったそばから、またライナーはこうして迷っている。

 涙目のリディアは、微笑みながらゆっくりと首を振った。

 

「たとえあなたが地獄に落ちたとしても、絶対に離してあげない。どこまでも一緒にいる」

「俺はお前を幸せにしてやれる自信がない。俺がしてきたことは、あまりにも……」

 

 ライナーの喉が、かすれた息を漏らす。

 

「もちろん責任はとりたいと思っている。ただ、俺なんかが手に入れていいものなのか。本当に……幸福なんてものを、望む資格があるのか」

 

 リディアは、小さく舌打ちをした。

 

「知らないよそんなの。しつこいなぁ」

 

 苛立つように言いながら、でも、その声はどこか優しかった。

 

「あなたがどう思おうと、私はそばにいる」

 

「私は守られる存在じゃない。あなたが何もしなくても、何もできなくても、勝手に幸せになる」

 

「それが……何かを成し遂げないと落ち着かない、あなたへの復讐になるのかもね」

 

 ライナーは言葉を失った。

 それは、あまりにも彼女らしい愛の形だった。

 

 

「私たちの罪は、一生では償いきれないくらいの重さかもしれない」

 

 リディアは静かに告げる。

 

「だからこそ長生きしなきゃいけない、途中で死んじゃいけない。死で償える一発逆転なんかない。ずっと続く、暗くて長い贖罪の道を……歩かなきゃいけない」

「……」

「でも、その道中で寄り道して、少しの幸せな光を拾い上げることも許されないなんて……ありえないよ」

 

 リディアが、ライナーの手を握る。

 小さな手なのに、その熱は強くて、まるで命そのもののように燃えていた。

 

「だから、せめて」

 

 リディアは、ライナーの手をそっと引きよせた。

 

「長い道を、一緒に歩こうよ」

 

 ライナーは、震える手で、リディアの手を握り返した。強く、絶対に離さないと誓うように。

 

「……あぁ」

 

 その声は、震えていた。でもそれは、過去に囚われるのではなく、確かに未来を選んだ瞬間の声だった。

 

 

 

 

 

「ねぇ、私のことを夢に見たって本当?」

 

 リディアの問いに、ライナーは短く頷く。

 

「どんな夢?」

 

 一瞬、沈黙する。

 よりによってそこを掘り下げられるとは思っていなかった。

 

「……忘れてくれ、その話は」

「えっ、なんで? 言えないような夢なの!?」

 

 鋭い。こういう時のリディアは妙に勘がいい。

 

「すまん、本当に、それだけは……」

「ふーん。へー……そう」

 

 納得していないようだったが、リディアは目を細めて何かを企むような顔をした。

 

(……引かれたか?)

 

 ライナーは心の中で冷や汗をかく。しかし、リディアは小さく笑っている。

 

「違うんだ……そんな話をして、幻滅されたくない」

 

 すると、リディアはふっと息を吐いて、少しだけ顔を近づけた。

 

「幻滅なんてしないよ。私だよ? 形見を壊されても体を斬られても、それでもあなたが好きな私だよ?」

 

 ライナーの喉が詰まる。

 

「だから今さら何をされたって、嫌いになんかならないよ」

「……そうだな」

 

 確かに、すごい説得力だった。

 

 

 小さく笑う彼女の肩を、ライナーはそっと抱き寄せた。二人は立ったまま、抱き合う形になった。

 

「明日、一緒に母さんに会ってくれないか」

「うん」

「ガビやファルコにも改めて紹介したい。ジャンたちにも礼と報告がいるし……忙しいな」

 

 リディアはその言葉に思わず吹き出した。

 

「なにそれ……ふふっ。結婚の挨拶じゃないんだから」

「え」

 

 ライナーが固まる。

 

「え?」

「……あ……」

 

 自分で言って、自分で気づく。気持ちが先走りすぎていた。

 

 リディアが、じっとライナーを見つめる。

 

「私と結婚するつもりだったの?」

「……すまん、先走りすぎた……どうして俺は、いつも、こう……」

 

 ライナーが自嘲気味に呟いた瞬間、リディアは小さく微笑んで、静かに言った。

 

「……いいよ」

「え」

 

「結婚しよ」

 

 ライナーの息が止まる。その言葉が、あまりにも自然で、優しくて……でも、強いものだったから。

 彼女の言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。

 

「……本当に?」

「うん」

 

 リディアは、まっすぐに彼を見て、もう一度、微笑む。

 

 

 

 すると、ライナーが、ポケットから小さなブローチを取り出した。

 

「えっ、これ……まだ持ってたの!?」

 

 思わず大きな声を出すリディアに、ライナーは苦笑しながら頷く。

 

「これのせいで、今日、散々からかわれた……」

「そりゃそうでしょ……」

 

 そう言いながらも、リディアの目は驚きよりも、どこか嬉しそうだった。

 

「そんなもの、いつまでも持ってるとか……」

 

 リディアが言葉を選ぶように、ゆっくりと呟く。

 

「……いつかの私みたいだね」

 

 微笑みながら言うリディアを見て、ライナーの胸が熱くなる。

 

 そっと、彼女の胸元にブローチを装着する。

 

「やっぱり、似合うな」

「ありがとう」

 

 リディアは、心からの笑顔を見せた。

 

「本当に嬉しい」

 

 今度は自然に、二人の顔が近づいた。唇が重なる。やわらかく、深く、温かい。長いキスだった。

 

 

 しかしリディアが舌を絡ませようとした瞬間、ライナーが諌めるように身体を離す。

 

「なんで」

 

 リディアが不満そうに唇を尖らせる。

 

「いや、リディア……ちょっと、今日は本当に勘弁してくれ」

「こんなの初めてじゃないでしょ」

「さっきのが初めてだろう、いや、そういうことじゃなくて。これ以上されると、その……」

「……」

 

 リディアはじっとライナーを見つめた後、少し背伸びをして、ライナーの後頭部に両手を伸ばした。彼の顔を自分に近づけて、その瞳を覗き込む。

 

 

 

「これ以上されると、どうなるの?」

 

 ライナーの喉が、音を立てて動く。

 

「……は……?」

 

「ねぇ」

 

 リディアが、ライナーの右の頬に軽くキスをする。

 

「どうなるの」

 

 次は、左の頬。

 額。

 鼻の先。

 

 ライナーの顔を、左手だけで引き寄せる。自由になった右手は彼の手を取り、指を絡ませる。

 

「……っ、リディア、いい加減に……」

「好きだよ、ライナー」

 

 耳元で囁かれて、ライナーの肩がびくりと震える。

 

「……!」

「大好き……愛してる」

 

 こんなのもう、お手上げだ。誰が抗える?

 

「ねぇ」

 

 そしてリディアが、鼻先が触れるくらいの距離で、甘えるような上目遣いで見つめてくる。

 

「……してくれないの?」

 

 その一言で、最後の理性は完全に崩れ落ちた。

 

 

 ライナーは、観念したように一息を吐く。

 リディアの両手をそっと自分から離し、少し不安そうな表情になったリディアの瞳を見つめ、そして次の瞬間――がばっとリディアの後頭部を掴み、貪るように唇を奪う。

 

「……んっ……」

 

 驚いたように目を見開いたリディアだったが、すぐに目を閉じて、その熱に溺れるように身を任せた。

 心臓の音が響く。互いの熱が、夜の冷えた空気を溶かすように、ゆっくりと深く絡み合う。

 

 その夜、リディアは帰らなかった。

 

 

 

***

 

 

 

 静かな部屋。暖かな体温。

 リディアは、ライナーの腕の中で目を覚ました。

 彼の胸に頭を寄せる。肌と肌が触れ合うこの距離は、今までにないほど近い。

 

(目を覚ましたら、どんな顔するんだろう)

 

 土下座して「なかったことにしてくれ」なんて言い出したらどうしよう。全裸でそんなことを言われたら、さすがに笑ってしまうかもしれない。

 

 ……まぁ、逃がすつもりなど、さらさらないが。

 

 昨日、完全に酔った勢いで結婚の約束まで取り付けてしまった。

 でもライナーのことだ。きっと一晩経ったらまた「本当に俺でいいのか……」などと言い出して、同じ話を繰り返しかねない。

 

 

 だから、リディアは先に仕掛けた。

 帰らなかったのは、わざと。既成事実を作らせた。

 ……かなりお酒が入っていたから、ちょっと心配だったけど。

 

 ライナーは、未だにリディアを「純粋で健気な少女」だと思っているかもしれない。

 でも違う。リディアは、欲しいものを手に入れるためならそれなりに狡く立ち回るし、演技だってする。

 

(この人は、私を抱いたと思ってるかもしれないけど……実際は、私がこの人を抱いたようなもの)

 

 だからちゃんと責任は取るし、ライナーにも取ってもらう。

 リディアはさらに身体を縮め、機嫌良くライナーの胸に密着した。

 

 しばらくすると、彼が目を覚ました。まだ眠そうな目が、じっとこちらを見つめている。しばらく無言で見つめ合い、リディアが先に口を開いた。

 

「もっと驚くかと思った」

 

 ライナーが眉をひそめる。

 

「酒のせいで覚えてないとか、許してくれとか、そういう……」

「……そんなに俺は信用がないか」

 

 ライナーは呆れたように苦笑する。

 

「そりゃ心配だよ。昔、大して好きでもない私に好きって言われて、勢いでキスしてきたような人だもの」

「……ちゃんと、あの頃も好きだったって言ったろ」

「どうかな。いつもヒストリアばかり見てたじゃない」

 

 そう言って、リディアがわざと拗ねたように口を尖らせると、ライナーの口元が緩んだ。

 そして、目元が、ほんの少しだけ優しくなる。

 

「なんだ……嫉妬か」

 

 まるで、どうしようもなく愛おしいものを見つけたかのように。

 

 リディアはぷいっと顔をそむける。

 

「ちがいますー」

「わかったわかった」

 

 ライナーは、リディアの腰に腕を回して、ぎゅっと抱きしめる。

 

 当然、拗ねたふりもわざとだ。ライナーが喜ぶと思ってやった。

 ばれてるかな。そう思いながら、リディアは彼の体温に身を寄せた。

 

「朝日が昇るには、まだ早いよ」

「そうだな」

 

 ライナーが、リディアを抱きしめたまま身体を転がす。リディアが彼の下になる形で、ベッドに押し付けられた。

 

「……重いって」

「いいだろ。もうちょっと、このままで……」

 

 優しい声。ゆっくりとした動作。

 この瞬間だけは、何もかも忘れていい。

 

 結局、二人して、寝坊した。




この物語を書くにあたって、絶対に使いたくないのが「あなたを許す(赦す)」と「許して(赦して)ほしい」という言葉だったので、これだけは主人公にもライナーにも言わせないようにしていました。「俺をゆるさないでくれ」的なセリフも同じですね。そういう表面的な言葉を使うと関係性が軽くなるし、説得力も消えてしまう気がして……。
ライナーは自分の罪と言葉の重みというものをよく知っているはずなので、とにかく自己完結しがちというか、「ゆるして」にしろ「ゆるさないで」にしろ、そういう他人の度量に甘えたような台詞は使いたがらないんじゃないかなと。
だから実は、後半のシーンよりカリナとの会話の方が気合いを入れて書いています。
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