ジャンを筆頭とした訓練兵の一部がエレンのことを「死に急ぎ野郎」と呼んでからかう一方、リディアをそんなあだ名で呼ぶような訓練兵はいなかった。ジャンですら呼ばなかった。
エレンが調査兵団の話をすると皆呆れたり笑ったりするのに、リディアが同じ話をするとその場の空気が少し重くなり、沈黙が流れ、その後誰かが話をそらし、最終的にはライナーのことでからかわれる。いつもの流れだった。
「別に変なあだ名を望んでるわけじゃないんだけどね」
リディアにはその扱いの差がやや不満だった。立体機動装置の部品整備をしながらそう呟くと、机を挟んだ目の前でアルミンが言った。
「みんなリディアを心配しているからじゃないかな?」
アルミンの隣で、マルコも小さく頷いた。
座学や機械の整備に関しては、アルミンとマルコに教えてもらうことが多かった。二人はいつでも真剣に相談に乗ってくれる。
「エレンには人を扇動する力があるし、調査兵団を目指しているって言ったところで悲壮感もないし……あと本人には内緒にしてほしいんだけど、ミカサがいるから大丈夫だろうって、みんな思ってる」
アルミンが器用にネジを締めながらリディアに話す。
「でも君はそうじゃない。僕だってそうだ。もしも僕がエレンみたいに調査兵団になりたいって言い張っていたら、リディアだって心配してたと思うよ」
「そうだね。私も、アルミンは技巧に進めばいいんじゃないかって、皆が言ってるようなことしか言えないや」
リディアがそう言って少し笑うと、アルミンの隣にいるマルコが優しく微笑んだ。
「君に好きな人がいるって噂が流れたとき、みんな面白おかしくからかっていたけど」
マルコは言葉を選ぶように少し間を置いた。
「その実、結構安心してたんじゃないかな。これでリディアの……気を悪くしないでほしいんだけど、調査兵団志望という名の自殺願望が消えて、駐屯兵団でも目指してくれるようになるんじゃないかって」
自殺願望。
その強烈な言葉に、リディアは思わず苦笑する。そう思われるのも、結局は自分の実力不足のせいだ。エレンと自分の最大の違いは、結局そこなのだ。
「確かに私も、もしマルコが急に調査兵団を目指すとか言い出したら、何か嫌なことでもあったのかなって心配しちゃうかも」
リディアの言葉に、マルコは目を丸くした。思わず身を乗り出すように姿勢を変え、手元の部品を置いて真剣な表情になる。
「なんだよそれ。面白いこと言うよなぁ、リディアって。嫌なことがあった程度で調査兵団を目指すって、なんだよ」
マルコとリディアは顔を見合わせて笑い合う。マルコの笑顔には、リディアが気づかない何かが隠されているようだった。
再び手元の作業に戻りかける。そんなリディアとマルコを見ながら、アルミンが少し真剣な表情で続けた。
「調査兵団に入ることが即死ぬこと、だとは思わないけれど、やっぱり死亡率が高いことは事実だ」
アルミンが続ける。
「ずっと一緒に訓練してきた仲間に死んでほしいなんて、誰も思わないよ」
「うん。私は周りに恵まれてるって本当に思う。心配してもらえるのって、本当にありがたいこと」
リディアは手元の部品を見つめながら、一瞬だけ鎧の巨人の姿を思い浮かべた。
そして静かに、しかし強い決意を込めて続けた。
「だけど、それでも私は調査兵団に入るよ。……鎧の巨人を殺すために」
「だよね」
アルミンとマルコが頷いた。
「ずっと一緒に訓練してきたんだ。君がそう言うだろうってことも、分かってたからね」
マルコが少し寂しそうな笑顔を浮かべながら、リディアの肩をそっと叩いた。
その優しい仕草に、リディアは救われるような安心感を覚えた。数年間の訓練は、訓練兵達の間で確かな絆を結んでいた。
***
時間が経つのは早い。落ちこぼれと言われ続けたリディアだったが、成績上位には全く届かないものの、卒業模擬戦闘試験を特に問題なく合格し、解散式の夜を迎えることになった。
兵舎の食堂では、卒業を前にした訓練兵たちが思い思いに集まり、思い出話や将来の夢を語り合っていた。
途中にジャンとエレンの乱闘を挟み、空気も静かになっていたのだが、しばらくすると室内にも会話が戻り、少しずつ明るさが戻ってきた。
「リディアも調査兵団志望でしたよね」
サシャが話しかけてくる。
「……そういやいたな、ここにももう一人、やべぇのが」
机に肘をついたジャンが大きくため息をつく。
「もちろん。命を懸けても鎧の巨人を殺すって、前から言ってるでしょ?」
「もはや聞きすぎてネタみたいになってんだよ。改めて聞くと本当にイカれてるな、お前」
エレンと散々やりあっていたせいか、ジャンの言葉には少し力がない。
そこにコニーが入ってきて、茶々を入れる。
「最初はひどかったけど、最後にはだいぶ成績も伸ばしてきたよな。まっ、天才の俺に届くほどではなかったようだけどな」
そうやってコニーが胸を張ると、周囲が笑う。先ほどまでの張り詰めた空気が和んできた。
ジャンの隣にいたマルコが微笑みながらリディアに声をかける。
「僕はリディアの一途な目的意識の高さ、ずっと尊敬してたよ。すごいと思う、本当に」
「え……そんなこと初めて言われた。ありがとう、マルコ」
すると、つまらなそうな顔をしていたジャンが急に目を大きくして、ガタっと音を立てて椅子から立ち上がる。
「おっ、なんだなんだー? マルコお前ー!」
立ち上がったジャンはテーブルを回り込み、嬉しそうにマルコの背後から肩を組み、空いた方の拳で彼の頭を何度も小突く。
何かに勘付いたマルコが顔を赤くしてジャンを引きはがそうとするも、ジャンはしつこくマルコに絡み続ける。
「なっ……そういうことじゃない、何を言ってるんだ、ジャン!」
「いいっていいって、隠すなよ! お前も言ってたじゃねーか、訓練兵の中で誰がいいかって話のときに……」
「あぁもう、うるさいな! そんなんじゃない、いつの話を蒸し返すつもりだよ!」
盛り上がり出すと、人が近くに集まってくる。野次を飛ばす兵士まで現れる始末だ。
「えっ、マルコ、お前そんな望み薄いところいったの?」
「違う、やめろって!」
さすがにリディアも会話の輪から外れてしまったことに気が付いた。どうやら自分の話題で盛り上がっているようだが、話題の対象である自分そっちのけで、男たちだけで盛り上がり始めてしまった。
まぁ、たまにあることだ。こういう時は勝手にやらせておいた方がいいと思い、リディアがその場を離れようとすると、同じくジャンたちの会話から離れていたサシャがニヤニヤとしながら声をかけてきた。
「ところで……ライナーに何か言っておかなくていいんですか?」
コニーが「あ? この期に及んでなんか用事でもあんのか?」と言った。
「だってほら、リディアはライナーに……ねぇ?」
コニーは表情に疑問符を浮かべたままで、全く会話を理解していないようだった。
リディアが「いやいや……」と濁してその場から逃げようとすると、様子を伺っていたであろうハンナとフランツが声をかけてきた。
「リディア、思っていることは伝えた方が絶対にいいよ。私たちも、お互いがいたから頑張ってこれたんだもん! それに……」
「リディアが調査兵団志望なら、尚のこと今しかないんだよ」
「……そうだね、二人の言いたいことも、わかるよ」
つくづく、自分の恋は周りに(コニーを除いて)バレバレだったんだなぁ、とリディアは実感する。しかし、リディアには特に何かしようという気持ちは全くなかった。
「あっちは憲兵、自分は調査兵で、先に死ぬのは間違いなく私。仮に気持ちを受け入れてもらえたとしても、私には調査兵団を諦めるなんて選択肢はないから。そんな無責任な状態で、気持ちだけ伝えるなんてのは、相手の負担になるだけだよ」
リディアは少し寂しそうに微笑んだ。
もとよりこれは、訓練兵の間だけの、最初から成就させるつもりのない恋だった。
「そっか……」
ハンナが悲しそうな顔をして、フランツの左手が彼女の右手を優しく包む。
諦めたはずの恋とはいえ、少しだけ、目の前の二人のことが羨ましくなった。
「はーあ、殊勝なことで」
そこに、ユミルがクリスタと共に現れた。
「ま、訓練兵時代の麗しい思い出を抱えたまま死ぬのがお前の望みってことなら、別にいいんじゃないか」
ユミルはどこか呆れたような笑いを浮かべている。
「赤の他人に対して妹みたいな存在だとか言っている男、簡単に落とせると私は睨んでいたけどな」
「からかわないの、ユミル。それだけ真剣に誰かのことを想えるのって、私は素敵だと思うよ」
「はは、ありがと……」
だんだん、周りから微笑ましい目で見られているという事実が恥ずかしくなってきた。
ちらりと周囲の様子を伺うと、部屋の反対側でライナーがベルトルトと話している姿が見えた。一瞬、目が合ったような気がする。しかしなんだか気恥ずかしくて、リディアはすぐに目をそらした。
窓際の方に目をやると、そこには一人ぽつんと立っているアニがいた。リディアはユミルとクリスタから逃げるように、アニのもとへ歩み寄る。
「アニ」
「……」
「逃げてきちゃった。最後だからって、みんな好き放題にからかってくるんだもん」
「あんなのに入れ込むなんて趣味が悪い」
「またそういう……もう、いいって」
そのまま、しばらく二人で、何を話すわけでもなく立ったままでいた。
会話がなくても、アニと一緒にいるとなぜか落ち着き、居心地が良い。しかしそんな時間も、今日でもう終わり。アニはいつまでもリディアと一緒にいてくれる存在ではないのだ。
思っていることは伝えた方がいいと、ハンナとフランツが言っていた。流れとしては恋愛の話だったけれど、それは友人に対しても同じことだと思った。
「アニ」
「なに」
普段は照れて言えないようなことも、今、伝えられることは言葉にしておいた方がいい。
「ありがとう、私の友達になってくれて」
普段言わないような感謝の言葉を口にしたせいか、アニは驚いて肩をびくっと動かし、リディアの方を見た。
「何を突然、そんな大袈裟なこと……」
「アニがいないと寂しくなるよ」
「私は……別にそうでもない」
「もう朝も起こしてあげられないから、頑張って起きてね」
「そんなこと頼んでなかった」
「あんまり夜更かししちゃ駄目だよ。内地の町は、刺激が強いから」
「……夜更かしって」
アニの顔色が一瞬で変わった。
まるで凍りついたように動きを止め、周囲の様子を警戒するように素早く視線を走らせると、ただでさえ小さな声をさらに潜めて言葉を続けた。
「いつから気づいていたの」
「アニがどこで何をしていたかは知らないけど、さすがに分かるよ。でも、アニが話してくれるまで聞かないでおこうと思ってた。それに今も、話すつもりはないんでしょう?」
「……」
「いいよ。それについてはいつか、また」
アニが思った以上に警戒する素振りを見せたため、リディアも少し驚いた。しかしリディアには、アニを責めるつもりなど毛頭ない。
アニは、遠くに見えるライナーとベルトルトの方をちらりと見た。二人とも誰かと話しているようだが、明らかにこちらを気にしている。
「アニが憲兵団に入ってからも、仕事の合間にまた会って、たくさん話をしようね。壁の外の話とか、色々聞いてほしいから」
何も気づいていないリディアが、馬鹿みたいに将来の夢想を口にする。
「そんな恥ずかしいこと、よく言えるね。あんたは本当に……趣味が悪いと思う」
「ふふ、アニってそればっか」
アニが少し疲れているように見えたのか、そう言って、リディアはこの場から去っていった。
リディアの後ろ姿を見送りながら、アニは一人で呟いた。
「私には、そういうことを言うのか」
胸に込み上げる複雑な感情を押し殺して、アニは心の中で続けた。
どうせ、先に死んでしまうくせに。どうせいずれ、こちらの名前だって呼ばなくなるくせに。それなのに、どうして。
ライナーとベルトルトが、遠くからアニの様子をじっと見ていた。アニの片目にほんの少しの涙が浮かぶ。アニはそれをなかったことにするように乱暴に手でぬぐい、ライナーとベルトルトから感じる嫌な視線を無視したまま、この場を立ち去った。
***
訓練兵を卒業した暁にはスカウトに行く、というハンジの宣言通り、リディアは新兵勧誘式よりも先に調査兵団へ正式に配属されることが決まった。
ハンジがリディアを訪ねたのは、思い出したくもないほど辛い、トロスト区奪還作戦の直後だった。
見知った仲間が、たくさん死んだ。リディアは勇敢に巨人に立ち向かうことさえできなかった。
自分は、いや自分だけじゃない。人類は、無力だ。ジャンの言葉通り、それが現実だったのだ。自分が生き延びたという事実が奇跡のように感じる。胸に残る後悔と罪悪感が重く圧し掛かる。
リディアが調査兵団としてハンジにスカウトされたのは、トロスト区の戦場で遺体の回収と確認をしている最中だった。
新兵を勧誘するようなタイミングではなく、本当にどうかしているとしか言えないが、ハンジとしては生存する新兵の中に見覚えのある少女を確認できたことの衝撃が先走り、つい声をかけてしまったのだという。
「ごめん、変なタイミングになってしまって。モブリットにも怒られたよ。新兵の勧誘なんて後でいつでもできるだろうって」
「いいえ、ありがとうございます。私のことを覚えていてくださり光栄です、ハンジさん」
「成長したね、リディア。前はもっと小さかった」
「成長したのは見た目だけです、本当に。まだ……受け止めきれないことだらけで」
「あぁ……初陣がこれではね」
二人は並んで立ち、無言で戦場を見渡した。その目線の先には無数の死体が投げ出されたまま放置されていた。砂埃に混じる異臭が町中に立ち込めていたが、すでにリディアの鼻は麻痺してしまっていた。
確かにハンジは幼い頃のリディアに約束した。訓練兵を卒業した暁には、調査兵団の一員として迎えに行くと。
しかし、トロスト区での出来事をまだ受け止めきれていない状況で、まさか……こんなことになるとは思わなかった。
「お前があいつの娘か」
「は、はい。はじめまして、お世話になります」
リディアの目の前で口を開いたのは、人類最強、リヴァイ兵長だった。
ハンジに連れられて行った先の部屋では、エルヴィンが机の向こうに座り、リヴァイが窓際に腕を組んで立っていた。他にも分隊長や副長といった上官がずらりと部屋の周囲に配置され、中央に立つリディアを取り囲んでいた。
リディアは呼吸が止まりそうなほど緊張した。
なんなんだ、この状況。新兵一人にこんなに集まる必要があるのか。
するとミケが無言でリディアに近づき、その首筋に顔を寄せ、スンと彼女の匂いを嗅いだ。
「えっ!?」
「あぁ、気にしないで。いつものことだから」
ハンジは慣れたように笑っている。
気にしないでと言われても。
リディアは非常に困惑したが、匂いをかいだミケは少し鼻で笑い「父親と同じ匂いがする」とリディアに告げた。
「それは……あまり嬉しくないですね……」
リディアの反応を見て、リヴァイの口元が微かに動いたような気がした。表情はほとんど変わらないが、確かに笑ったのだろう。
「ハハハ、年頃の娘なら当然の反応だ」
そう言って大きく笑ったのはエルヴィンだった。
「緊張させてすまない。奴の娘が志願していると聞いて、どうしても一度会っておきたかったんだ。君の父とは、よく語り合った仲だったからな。彼は……特別な視点を持った男だったよ」
エルヴィンはそれ以上何も言わず微笑んだが、リディアにはその言葉の真意が掴めなかった。
「あまり父親に似てるとは思えねぇな……で、どうなんだ」
リヴァイがリディアの目をじっと見て問う。リディアも緊張して背筋を伸ばす。
「どうせハンジに無理やり連れて来られたんだろ。本当に調査兵団に入る気があるのか」
しかしリディアがその問いに答える前に、エルヴィンが再び口を開いた。
「君はなぜ調査兵団を志願した?」
「……オイ」
会話に割り込まれたリヴァイが不服そうにエルヴィンに声を掛けたが、それでもエルヴィンはお構いなしにリディアに問い続ける。
「単に巨人を倒すためか? それとも、もっと見たいものがあるのか?」
エルヴィンの目が一際大きく開く。
その質問には何か特別な意味が込められているようにも聞こえたが、リディアにはその意図がまるで分からない。
「私が志願した理由は……母の仇である鎧の巨人を倒すためです。それだけです」
「……そうか」
エルヴィンの表情に、一瞬だけ寂しさが浮かんだような気がした。
面談が終わり、リディアの初仕事はすぐに決められた。
これから特別兵法会議にかけられるエレンを調査兵として迎え入れた後、基本的にハンジに従いつつ、エレンの様子を監視し、何かあれば上に報告すること。それがリディアの役目となった。
調査兵団に入る気持ちに変わりはない。鎧の巨人を殺したい、その気持ちだって揺るがない。しかしその一方で、胸に少しの違和感があった。
超大型巨人は、扉を破壊後、姿を消した。シガンシナ区が襲撃された時も、破壊後にその姿を見たり退治したという報告はなかったはず。鎧の巨人だってそうだ。あの日以来、一体どこに消えたのか。そしてエレンの巨人。エレンに戻ると、巨人も消える。
なんだか嫌な感じだ。鎧の巨人の姿を思い出す。何か、違和感はなかったか?
(駄目。何もわからない)
違和感だけで何も確証を得られなかったリディアは、後に実験用の巨人が殺害された際にエルヴィン団長に「敵は何だと思う?」と問われたときも、何も答えることができなかった。
***
「リディア! なんでお前ここに!」
「エレンと同じ。一足先に調査兵団に入隊したんだよ」
旧調査兵団本部の廊下で、エレンとリディアは再会した。
リディアはハンジと共に、リヴァイ班に加えられたエレンのもとを訪れていた。エレンは最初こそ驚いた顔をしていたが、見知った顔が現れたことで安心したのか、表情はすぐに笑顔に変わった。
「そっか。お前、ずっと言ってたもんな。良かったよ……無事で」
「エレンも元気そうで良かった」
リディアは胸をなでおろした。生きていた。仲間が生きているという事実だけで、心の中に小さな灯火が灯ったような気がした。
「他の奴らはどうなってる?」
リディアは自分の状況を説明した。
戦後処理の途中で調査兵団に加わったため、犠牲者の詳細が分からないこと。同期の誰が無事なのか、今どこでどうしているのか、全く分かっていないということ。
エレンはその言葉に多少ショックを受けたようだったが、すぐに落ち着きを取り戻した。
「もうすぐ新兵が集められて配属を問われるから、それが終われば話が聞けると思うよ」
「あぁ、そうだよな」
「大丈夫だよ、きっと……あんなに訓練したんだから」
「……だといいけどな」
再会は喜ばしいものだったが、それがたった二人だけでは、安心して喜びきれるようなものではなかった。
後日、エレンの巨人化実験が始まった。
リディアもハンジやモブリットと共にその実験に加わっていたのだが、問題があった。
「勝手な行動をとり、申し訳ありませんでした」
「謝る必要はない。お前はエレンをかばう必要があると思って、それを選択した。ただそれだけだ」
実験後、リディアは堅く背筋を伸ばし、リヴァイの前で深く頭を下げることになった。
なぜこのようなことになったか。
理由は明確だ。実験の合間、リディアは突然巨人化したエレンをかばい――リヴァイ班の全員に刃を向けようとしたのだった。
恐怖よりも先に体が動いていた。仲間を守るという一心だった。どう考えても、新兵に許されるような行動ではない。
「監視が私の仕事だったのに、監視どころか……エレンの巨人化後も自己判断で彼をかばいました」
「眺めているだけで巨人になる時が分かるなら、こんな辺鄙な場所で実験をするわけがない。新兵にそこまで求めるような奴はここにはいないから安心しろ」
「……はい。心得ます。ありがとうございます、リヴァイ兵長」
特にお咎めはなかったが、組織の一員としては明らかに問題のある行動だ。
リディアは大きくため息をついた。クビになってもおかしくないのに、寛大にも許されたのだ。今が非常事態ということもあるだろうが。
自分が情けない。再び大きくため息をついて外に出ると、扉の外でリディアを待っていたであろうエレンに声をかけられた。ハンジやリヴァイ班との話は終わっているようだった。
「オレの監視が仕事だったのか」
「建前上はね。私に監視なんて、とても……。ひと足先に調査兵団に入るというからには、何かしらの理由づけがあった方がいいだろうって、ハンジ分隊長が役目を与えてくれたんだよ」
「……」
エレンの脳裏に、巨人化した直後の光景が思い出される。
なぜ突然巨人化したのか問うリヴァイ班の面々と、彼らに落ち着くよう促す兵長。そして、誰よりも声を荒げて叫んでいた、リディアの姿。
「違います、エレンは人間です!」
リディアは終始エレンをかばうように、今まで聞いたこともないような大きな声で叫び続けていた。
「なぁ。なんであの状況でオレをかばったんだ?」
薄暗い廊下に二人だけが残され、エレンの声は壁に吸い込まれるように静かに響いた。彼の瞳には、混乱と不思議さが交錯している。
いくら104期の仲間とはいえ、ミカサやアルミンのような幼馴染でもないのに、リディアがあんな状況でエレンをかばったことが、どうしても理解できなかった。
巨人に変わった自分を恐れずに、全ての責任を背負うように前に立ったリディアの姿が、今も瞼の裏に焼き付いている。そんなことをしたってリディアに得はない。下手したら調査兵団どころか兵士でもいられなくなるというのに。そんな覚悟はどこから来るのか。
「どうしてって」
リディアは首を傾げ、エレンの問い自体が不思議でならないという表情を浮かべた。窓から差し込む夕日に照らされたその横顔が、柔らかな光を帯びている。
「エレンは同期で、戦友で、仲間だから」
そう言い切る彼女の声には迷いがなかった。揺るぎない確信に満ちた表情。エレンの胸に何かが静かに波立つ。
「私はさ、エレンが思ってる以上にエレンに救われてるんだよ」
リディアの声が少し震えた。彼女は窓の外を見やり、懐かしむような瞳で続けた。
「調査兵団に入りたいなんておかしなこと、エレンがいなきゃ言い続けられなかった。私、あなたの存在に救われていたんだよ」
一瞬の沈黙の後、リディアはゆっくりとエレンの方を振り向いた。夕陽に照らされた彼女の目には、決意の光が宿っていた。
「だから信じた。エレンを本当に信じているのは、ミカサやアルミンだけじゃない」
リディアは一歩前に踏み出し、真っ直ぐにエレンの目を見つめた。その瞳には嘘も打算もなく、ただ純粋な信頼だけがあった。
エレンの胸に何かが熱く込み上げた。思わぬ告白に言葉を失い、喉の奥が熱くなる。今まで感じたことのない感情が、彼の内側を満たしていく。
自分のことも仲間たちの安否も分からないなかで、まっすぐに自分を信頼してくれる人がいる。その存在の重みが、これまでの孤独感を少しずつ溶かしていく。その温かさに対して、返す言葉が見つからない。
「……ねぇ、もしかして泣いてる?」
リディアが身を乗り出し、エレンの顔を覗き込んだ。
「なっ、泣いてねーよ!」
エレンは慌てて顔を背けた。泣いていないのは事実だが、泣きたくなるような気持ちになっていることも事実だった。自分を化け物だと思わず、人間として見てくれるリディアの目に映る自分は、どんな姿なのだろう。
「みんなはどうしているかな」
リディアの声が、エレンの思考を優しく引き戻した。
「そうだな」
「無事だといいね」
「……あぁ」
しばらく二人の間に沈黙の時間が流れた。けれどそれは重い沈黙ではなく、互いの存在を確かめ合うような静かな時間だった。
二人だけでは頼りないと思っていた気持ちも、今はもうない。お互いの存在がそれぞれに温かな安心感を与えてくれる。ここに信じてくれる人がいる。だから自分も、目の前のこの人を信じる。エレンもリディアも、同じ気持ちだった。
「オレだって、リディアがここにいるって分かった時、本当に頼もしかった」
エレンは自分の心の内を素直に打ち明けた。そして、長い間忘れていたような柔らかな笑顔を浮かべながら、リディアの目を真っ直ぐに見つめた。その目には、新たな決意と希望の光が宿っていた。
「……ありがとうな、信じてくれて」
エレンの声は低く、しかし確かな響きを持っていた。
「ん。これからもよろしく」
リディアの微笑みに、エレンの緊張がほどけていく。
そして、まるで子供のように、二人はくすくすと笑い合った。その笑い声は、暗い未来への不安を一瞬だけ忘れさせるほど、澄んだ音色だった。
***
「リディア、エレンは本当に無事なの。何もされていない? 酷い目に遭わされたり、怪我をするようなことだったり」
「落ち着けミカサ。リディアと会うのも久々なのに、いきなりエレンの話かよ」
焦った様子でリディアに詰め寄るミカサの肩を、ジャンが軽く叩いた。
「あ……ごめんなさい、リディア。私は冷静ではなかった……」
「気にしないで。エレンは大丈夫。私もハンジ分隊長の所で厳しく鍛えてもらってる」
新兵勧誘式の翌日。調査兵団に入ることを決めた104期の仲間達に再会した。思っていたより調査兵団に入隊した同期は多かったが、リディアが思っていた以上に、多くの命が失われていた。
解散式の後に調査兵団に入ると言っていたミーナもトーマスも、ここにいない。駐屯兵団になったわけではない。そして、マルコも。
「ジャンがここにいるとは思わなかった」
「俺が調査兵団で悪いかよ」
「……マルコは、亡くなったんだね」
言葉にすることで現実が確定してしまうような、そんな痛みを胸に感じた。ジャンの表情からは、それ以上の苦しみが読み取れた。
「あぁ。どこで、どんな状況だったんだか。誰にも分からない」
空気が沈む。立体機動装置も装着されていない状態で亡くなるという状況は全く理解できないが、今はその理由を議論しようという気にもなれない。
「後悔なく生きるってのは、贅沢な望みってやつだな」
ジャン声には、失ったものの重みが滲んでいた。
「マルコの奴、お前に……いや」
言葉が途中で途切れた。ジャンは口を引き結び、頭を軽く振った。
「何でもない。他人が勝手に言うことじゃない」
沈黙が二人の間に流れた。リディアは黙ってジャンの横顔を見つめていた。彼の目には、語られない悲しみが宿っている。
風が吹き、二人の髪を揺らした。ジャンは深く息を吸い込み、決意したように顔を上げた。
「言いたいことは言っておく。これができるのは生者の特権だ」
その声には、親友を失った痛みと、それでも前に進もうとする決意が混ざり合っていた。ジャンはリディアの方へ体を向け、まっすぐに彼女の目を見た。
「お前も、言いたいことは生きてるうちに口にしておくべきだ。同じ調査兵になったわけだし、ライナーに告白くらいしとけ。その方が悔いなく生きられるだろ」
彼の瞳の奥には、言葉にできない思いが渦巻いていた。
――マルコだって、生きてるうちにお前に好きだって言いたかったと思う。
そう言いかけて、ジャンは唇を噛んで言葉を飲み込んだ。
「……ジャンの方こそ」
そんな思いも知らず、リディアは唐突なジャンの発言にチクリと言い返した。彼女の声には、友人への優しさと、自分の気持ちを誤魔化そうとする恥じらいが混ざっていた。
「はっ!? なんで俺……俺は関係ねぇだろ、クソッ……」
ジャンは顔を赤らめて目を逸らした。その慌てぶりに、少しだけ、二人の間に流れる空気が軽くなった。
死の影が濃い日々の中で、こんな何気ない会話が、どれほど貴重なものか。
リディアはふっと肩の力を抜いて、小さく息をついた。
「ジャンが調査兵団に来てくれて良かった」
「なんだ、そりゃ」
リディアの声は静かだが、真実味を帯びていた。
照れ隠しのように、ジャンは鼻を鳴らした。だが、その表情には微かな安堵の色が浮かんでいる。
「ジャンの言うことはいつも本質を捉えてる」
リディアは空を見上げた。
「私も、勇ましいことばかり言ってきた割に、巨人を前にして全然動くことができなかった。あの日、足がすくんで、頭が真っ白になって」
リディアの声が震えた。トロスト区での記憶が蘇る。恐怖と戦場の混乱。仲間たちの叫び声。そして、自分の無力さ。
「……全員そんなもんだ」
ジャンの言葉は短かったが、それがリディアの肩にかかっていた見えない重荷を少し軽くした。彼は決して優しい言葉で慰めはしないが、その率直さが逆に心に染みる。
「だからこれからも、頼らせてね」
リディアが寂しそうに微笑んだ。その目には、失われた仲間への悲しみと、生き残った者としての決意が混ざり合っていた。
夕日に照らされた彼女の横顔に、ジャンは一瞬、言葉を失った。
ジャンは指で頬を触り、少し居心地悪そうにしながら、その言葉を聞いた。彼の心の中では矛盾した感情が渦巻いていた。
マルコと言いリディアと言い、少々自分を買いかぶりすぎてないか? 自分は何も特別じゃない。
そう思ったが、わざわざ否定するようなものでもないので、とりあえず流しておく。
「……そういうことも、ちゃんとライナーに言えよ」
「うん、そうする」
ジャンが話題を逸らすように言うと、リディアは素直に頷いた。
やけに素直だな、とジャンは思った。その表情には、何か覚悟を決めたような強さがあった。
太陽の光が二人の姿を長く伸ばし、いくつもの影が交わり合っている。そこには、もう二度と戻ってこない仲間たちの影も、重なっているように見えた。
「後悔ないように生きたいね、お互いに……」
リディアはそう言いながら、胸に手を当てた。明日がないかもしれない世界で、今日を精一杯生きる覚悟を固めるように。ジャンもまた、静かに頷いた。
その目には、マルコへの約束と、生き残った者の責任が宿っていた。
まさかのトロスト区の初陣全部カットですが、主人公の介入する余地がない部分というか、原作をなぞるだけになりそうな部分は今後もバシバシと省略していきます。
マルコは好きな人がいたとしても「尊敬してた」とか言いそうなイメージがあります。そして主人公同様、志望してる兵団が違う相手には何も伝えないと思います。
「想いを伝える」という一見正しそうにも見える行為で自己満足に浸ったりしない、無責任になれない優しさを持った人なんじゃないかなと思ってます。