明け方の空が薄い乳白色に染まり、街の輪郭がぼんやりと浮かび上がる頃だった。
男だらけの飲み会の翌朝。たまたま外を歩くライナーを見かけたので、逃げられる前にとっ捕まえてやった。昨日の詳細を問い詰めるためだ。
湿った朝の空気が、肌にまとわりつく。けれど、ライナーの顔には見慣れない穏やかさがあった。いつもの自責の表情じゃない。長い冬を越えて、やっと春を迎えたような、そんな顔だった。
予想に反して、ライナーの報告はあまりにもあっさりしたものだった。
「リディアと話した。結婚することになった」
昨日の夜は飲みすぎた。みたいなテンションで言うな。
口から何かが出そうになったが、飲み込んだ。驚き、焦り、そして安堵。それらが混ざった言葉が、舌の上で溶けていくようだった。
「そうか。やっとか」
言えたのは、それだけだった。本当は「おめでとう」の一言も言えたはずなのに、なぜか喉に引っかかる。
……こいつらのガチガチに固まった鈍器みたいな関係、どこに稼働スイッチあったんだよ。
俺は黙ってライナーを見た。奴もまっすぐ視線を返してくる。昨日みたいな、少し俯いた申し訳なさそうな顔ではない。肩の荷を下ろした人間の顔をしていた。
「まぁ、よかったんじゃねーの」
とりあえず冷静に返事をした。喉の奥で引っかかった感情は、朝の風に吹き流した。
「昨日は何時まで飲んでたんだ? お前らのことだから、また長々と揉めてたんだろ」
「……」
「送ってやったんだよな? ちゃんと部屋まで」
「……」
「おい。なんだその間は」
「……なんでもない」
なんでもないわけねぇだろ。
黙るな。目を逸らすな。耳、赤ぇんだよ。よく見たら髪もボサボサだし、シャツの襟元はきちんと整えられてはいるが、どこか慌ただしさを残していて……いや、まさか。
再び目を見ると、今度はあからさまに逸らされた。
「お前、さては」
脳がフル回転する。頭の中では断片的な情報が高速で組み合わさり、一つの結論へと収束していく。
昨日、確かに覚悟を決めろと言った。はっきりしろって、ケジメつけろって。散々煽って、尻叩いて、それでようやく動いたと思ったら。
――覚悟って、そっちの意味じゃねぇよ!
なに数時間で全部のコマを進めてんだ。人生の岐路にしては唐突すぎる。せめて一呼吸置け、ワンクッション置け、このボケ!
いや、確かに結ばれてくれて安心はした。あのグズグズな関係を延々と見せつけられた身としては、やっとかよとも思う。
数年に渡る淀みと、一夜の激流。時間とはなんと不思議なものか。
でも、でもな。一晩で全部って、どんな速度だよ!
「まぁ……そういうことだ」
「うるせぇ。喋るな。具体的に聞きたくない」
朝の光の中で立ちすくむ俺の頭の中は、安堵と呆れが入り混じった感情で満ちていた。
***
初夏の風が木々を揺らし、青々とした葉の匂いが鼻をくすぐる。
「おいマルコ。負けたんだから、好きなヤツ教えろよ」
木陰の下。まだ訓練兵の俺は、草の上に寝転びながら石ころで指を遊ばせていた。
訓練の合間のひととき、汗と泥にまみれた制服も、この瞬間だけは気にならなかった。
「なんだよそれ」
マルコの声には、いつもの穏やかさと少しの困惑が混ざっていた。マルコは素直だから、からかう側としては絶好の相手だ。
「昨日の討伐模擬訓練。オレの圧勝だったろ。だから罰ゲーム」
「後出しは卑怯だろ。勝負するなんて言ってないし」
「お、逃げんのか? まぁ無理には聞かねーけど? ただ、マルコは男の勝負から逃げる奴、ってだけの話だ」
「意地が悪いなぁ、まったく」
俺はニヤニヤと笑いながらマルコをつついた。
別に答えを期待しているわけじゃなかった。ただマルコをからかいたかっただけだ。真っ赤になって焦ったマルコの顔を想像すると、なぜか面白くて仕方がない。
マルコはしばらく黙っていたが、そのうち、目を逸らしながらもため息まじりに小さな声で白状した。
「……リディア」
「は?」
俺は一瞬きょとんとして、思わず小さく笑ってしまった。夏の日差しに瞳が細まる。
「はぁ? リディア? あのいかれた調査兵団志望の?」
「言い方!」
マルコが苦笑いを浮かべながら、小声で言う。
近くにリディアはいなかったが、俺の言葉を気にしているらしい。この場にいない相手を気遣うなんて、こいつのどうしようもない優しさだ。
「いや、悪い悪い。けどマジで意外だわ。どこが良かったんだ。顔か?」
「身も蓋もないこと言うなよ……可愛いとは思うよ、顔も。でもそれより、一途でまっすぐなところとか」
「一途ねぇ」
マルコの話を聞きながら遠くを見て、俺はとある話を思い出した。リディアがライナーに片想いしているという噂。マルコだって知らないはずがない。
「なんつーか、お前。分かってて選んでんのか?」
マルコは小さく笑った。その笑顔には、切なさと諦めが混じっていた。
なんだかんだ、こいつは全て承知の上だったんだな。
「そうかもしれない。慰めてくれよ」
「バーカ。俺にそんな趣味ねぇっつの」
二人の笑い声が、ささやかな風と一緒に流れていった。夏の雲が、ゆっくりと形を変えながら頭上を通り過ぎていく。
マルコの答えに俺は笑った。ただ、詳しく話を聞いているうちに、心のどこかで「なるほどな」とも思った。
マルコが言うには、リディアはたまに、見えない何かを見ているような顔をするらしい。戦いたい、殺したい、死んでもいい。そんな風に突っ走るタイプに見えて、急に寂しそうな顔をする。まるで心の中に大きな穴が空いているようなんだと。
――人の本質をよく見抜いていて、やっぱりマルコは指導者に向いてると俺は思った。
当時の俺には、そこまで見えていなかった。最初にこの話を聞かされた時も「へぇ」って思っただけ。
けど気づけば、リディアをたまに目で追っている自分がいた。マルコが気にした「不思議な顔」とやらを、俺も少しだけ覗いてみたかったんだと思う。
訓練場でリディアが見せる、決意に満ちた横顔や、孤独な背中。俺は別にそれをなんだとは思わなかったし、思わないようにしていた。
ただ、マルコが名前を出したその瞬間から、なんとなくリディアが少しだけ特別になった。いや別に変な意味じゃなくて。不思議なもんだ。
彼女の目標はエレン以上に死に急いでいるようにも見えたが、それでも「死に急ぎ野郎」とは呼ばないようにしてやった。俺なりの遠慮だ。感謝しろ。その代わり「マヌケ」とか「意地っ張り」とか別の言葉で罵ってたけどな。
マルコの生きた痕跡がこの世界からなくなってしまった後、リディアもどんどん変わっていった。
復讐心に飲まれて異常な動きで戦場を舞ったかと思ったら、ぽっきり心が折れたような虚な目で立っていたり。
矛盾した感情が彼女の中で渦巻き、時に爆発し、時に凍りついていた。精神の振り子のブレが、見ていて恐ろしいほど大きかった。
一度だけ、目の前でリディアの涙を見たことがある。本人は否定していたけど、あいつは泣いていた。
その時の俺は、気の利いたことの一つも言えなかった。
背中を支えて水を飲ませて。本当は触れることすら躊躇った。たぶん俺じゃ何もしてやれないって、自分で分かってたんだと思う。きっとマルコならもっとうまく対処できたんだろうな、なんて思って、それも無性に腹が立った。
「リディアとライナーは交際関係にあった」
そうアルミンに聞かされた時、頭を鈍器で殴られたような衝撃が走った。
胸の奥に何かが引っかかるような息苦しさの中、頭には「マジかよ」「嘘だろ」「最悪だ」という言葉が無限ループした。
その時すでに、俺の中でリディアは絶対に傷つけてはいけない存在になっていたんだと思う。
言葉にして交わしたわけではないが、それはマルコとの約束ということになっていて、確かに存在する残された絆のようなものだった。
心をズタズタに引き裂かれたリディアを見て、マルコは何て言うだろうか。……あいつならこんな真似、絶対にしなかった。
リディアの進む道はいつも茨の道だった。もっと穏やかな道筋があるだろうに、よりによってそっちかよ、という道にばかり進んでいく。
それは自罰のつもりなのか、それとも彼女なりに真実を選んだ結果なのか。歪んだ光が照らす道は、時に最も明瞭に見えるのかもしれない。
しかも彼女は、無自覚に周りの人間を巻き込んだ。
ウォール・マリア奪還作戦の後、瀕死のリディアが目を覚さなかったとき。ベッドの傍から離れないフロックを見つけた。
青白い顔で横たわるリディアと、その傍らで疲れた表情で座り込むフロック。その姿を見た時は、正直かなりゾッとした。
「お前、ずっとここにいたのか」
何気なくかけたつもりの言葉に、フロックは振り返りもしなかった。ただ、リディアの額に落ちた髪をそっと払って彼は言った。
「……他に誰もいないだろ。だから、俺が付いていないと」
その言葉を、正面からは否定できなかった。
フロックの中にある執着と庇護欲を、どこか理解できてしまったから。自分の中にもどこか似たような感情があることを感じて、恐ろしくなった。
それからフロックの執着はどんどん異常さを増していったが、全てが彼の罪だったとは言えない。
リディアという存在は、本人が思っている以上に罪作りだった。人間関係に関して言えば、彼女はこれといった罪もないのに――間違いなく罪人だった。
***
ライナーとの話を切り上げた後、ひっそりと歩く細身の人影を見つけた。リディアだ。
朝日に照らされた彼女の姿は、どこか儚げで透明感があった。同時に、これまでになかった確かな存在感も纏っている。
なんか……違う女になってやがる。寝癖の残る髪を無理やりまとめたのか、少しだけ乱れている。歩き方も変だ。顔色は妙にいい。
リディアは俺の姿を確認するなり、虚を突かれたような表情で、あからさまに「うわ」と口に出した。見なかったことにしてくれって顔だ。
俺は確信した。朝の空気と、彼女の様子が全てを物語っていた。
(こいつ……ついさっきまで、ライナーの部屋にいたな)
無言で腕を組んでリディアを睨むと、リディアも眉をひそめた。その仕草は昔から変わらない。いかにも「ジャンのバカ」って顔だ。
「なに」
「なに、じゃねぇ。お前、顔くらい洗ってこいよ」
「……失礼な。私は常に清潔ですけど。言いがかりじゃない?」
「言いがかりだったらどんだけよかったか……」
リディアが視線を逸らした。その頬がわずかに赤く染まる。
これは……確実に、俺の想像以上のことが起きてる。
それからリディアはすぐに肩をすくめて、わざとらしく開き直り始めた。どこか子供っぽさが残る仕草だ。相変わらず素直じゃねぇ奴だ。
「別に今、やましいことしてないけど」
「へぇ。じゃあ『やましくないこと』を朝まで」
俺の言葉にリディアが黙った。その沈黙が全てを語っていた。顔がさっきより真っ赤だ。
俺は思わずため息をついた。
目の前のリディアは、かつて共に訓練した仲間であり、戦場を共にした戦友であり、そして今は……ただの一人の女性だった。
「……ったく。早く帰れ、今日は休みなんだろ」
リディアが軽く頷き、俺に背中を向けた。
しかしその瞬間、頭の中に、ふと過去に交わした会話が浮かぶ。
俺は、立ち去ろうとするリディアを思わず呼び止めていた。
「昔さ」
「ん?」
言うべきではないという理性と、言わずにはいられないという感情の狭間で、声が漏れ出た。
「俺みたいな奴を好きになれたら良かったのにって、言ってたことあるよな」
リディアが振り返る。小さく首をかしげた。
「そんなこと言ったっけ?」
記憶にすら残っていないような軽さ。
それは胸の奥に、少しだけ針のようにちくりと刺さった。
言った本人は覚えていなくても、聞いた側は忘れられないこともある。
「……お前、本当にライナー以外の男に興味ないんだな。他に目移りしたことないのかよ」
「ない」
「怖いわ。即答すんな。ちょっとは迷え」
リディアは軽く笑った。
その目は、昔も今も、何も変わっていない。ずっと一緒に戦ってきたから分かる。でも、今の彼女は……どこか綺麗になっていた。
戦いを経て大人になったのだ。信じて、裏切られて、それでも大切な人と生きることを選んだ、大人の女の顔。
「結婚するんだってな」
「うん。また改めてちゃんと報告する」
幸せになれとか、もう泣かされるなよとか、そういう月並みな台詞で祝う気にはなれない。リディアの歩んできた道は、あまりにも険しく曲がりくねっていたから。
「赦したんだな。色々と」
「違うよ、ジャン」
リディアは微笑みながら続ける。
「赦さないけど愛してる。だから一緒にいる」
その笑顔には、深い悲しみと静かな決意が混ざり合っていた。
リディアとライナーの関係は、はたから見たら非常に歪だ。常識の枠に収まらない形をしていた。
ピークなんか、二人の経緯を聞いてめちゃくちゃ引いていた。彼女の素直な反応が、二人の関係の異常さを際立たせた。
「親の仇で、形見を壊して、代替品をあげて、交際して、破局して? 情報量が多すぎるね」
顔を引き攣らせたピークの顔を思い出す。最近は受け入れたようだが。
「まぁ私のことじゃないし。別にいいかなって」
とか言って。彼女なりの理解と受容の形だったのだろう。
愛することは、赦すことだと思っていた。相手の存在を受け入れて、少しずつ噛み砕いて、そうやって整理するもんだと思っていた。
でも二人にとってはそうじゃないらしい。赦しと愛は別に存在していて、その違いを受け入れたうえで一緒にいることを選んだ。
普通じゃない。だから二人の関係は歪に見える。
愛は、過去の清算によって得られるものではなく。
赦しとは、誰かから与えられるものではなく。
生きるとは、罪を抱えたまま、それでも隣に人を置くことだと。
他者から理解されなくても、自分を偽らない。どこか歪んだまま、それでも真っ直ぐに生きる。
――残念だったな、マルコ。お前が好きになった女は、あれから一層面倒くさくなって、ずっと愛情深くなって、めちゃくちゃ芯が強くなって、ついに誰の手にも負えなくなった。きっとライナー以外の奴じゃ、隣に立つなんてとても無理だ。こいつらの関係なんて、外から見たら狂気の沙汰だよ。
朝の光の中で、去っていくリディアの背中を見つめながら、静かにそう思った。胸の奥に広がる感情は、友情と羨望と、ほんの少しだけの後悔が混ざり合っていた。
でもきっと、それでいいんだろうな。今のリディアを見てると、そう思える。
それぞれが選ぶ道があり、重なり合うときもあれば、離れていくときもある。
でもな、マルコ。あいつはちゃんと前に進んでる。俺はただ見てただけだけどな。何を期待してたのかは、今でも分からねぇけど。それでも、ちゃんと見てた。お前が好きだった奴を。
「……おめでとさん」
それだけ言ったら、もう十分だった。朝の空気の中に、その言葉が溶けていった。
あとで、ちゃんと二人から報告を受けて。コニーと少し話した。
「お祝いとか渡した方が良いのか?」
とコニーが聞いてきたから、鼻で笑って返す。その素直な反応に、少し救われた気がした。
「財布に余裕ができたらな」
窓から差し込む光が、部屋の中を明るく照らしていた。
今日からもまた、戦う日々は続くんだろう。でもどこか、世界は変わった気がした。あの二人が変われたんなら、俺だって少しは前に進めるんじゃないかって。クソみたいな希望だけど、それでも光は差してるんだ。
……あいつらのせいで、朝っぱらから情緒が忙しい。
窓の向こうを見つめながら、静かに微笑んだ。新しい物語が、ここから始まるのかもしれない。