「楽園の島の魔女」(完結)   作:雄魔雌

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20.1話 女王と連合国大使、和平交渉に臨む

番外編 女王と連合国大使、和平交渉に臨む

 夫と子どもが眠りについたあとの夜更け。静まり返った部屋に、パタンと本を閉じる音だけが響いた。

 

 ベッドサイドの小さなランプの光に照らされ、子ども向けの絵本が塔のように積み上げられている。その中の一冊に、まだ手つかずの本の背表紙に金色の文字で「教育用図書・推薦マーク付き」と刻まれている。

 

「これ、人気らしいよ。英雄譚として面白いって」

 

 先日、幼い子を腕に抱いた夫が、どこか誇らしげな表情でそう言っていたのを思い出す。その時、ヒストリアは口元に苦い笑みを浮かべながら答えた。

 

「これのどこが教育用なのよ……」

 

 彼が何も知らずに買ってきた本の束の中に、その一冊は何の罪もないように紛れ込んでいた。

 

『ふたりの英雄がいました』

 

 表紙を開けば、そこには美しい挿絵とともに物語が始まる。

 

『ひとりは、島のために立ち上がった兵士、エレン・イェーガー。もうひとりは、民を守り続けた光、ヒストリア・レイス女王。ふたりの歩みは、厳しくも、まっすぐでした。今のわたしたちの平和は、この二人によって守られたのです』

 

 巻末には、こう記されている。

 

『※本書は、女王陛下と教育省の承認のもと作成されています。一部の関係者は、教育上の観点から登場を省いています』

 

 一部の関係者。近く連合国から和平交渉のためにこの島を訪れるはずの大使たちは、そんな一言で教育用資料から存在を抹消されている。歴史の書き換えは、このように静かに、しかし確実に行われていく。

 

 思わず眉間を片手で押さえた。全員の記述がないのは不自然なことではない。だが一人だけ、明らかに扱いの落差が激しい人物がいた。

 公文書からは不自然なまでに名が削られ、教育用資料には一切の記述がない。その一方、雑誌・演劇・娯楽の世界では、その物語は異様な熱量で消費され続けている。

 

 それが、ヒストリアの友人。世界でいちばん教育に悪い元兵士こと、リディアだ。

 

 本を静かに閉じ、手元の新聞を取る。指先に残るインクの匂いが、現実の世界を思い出させる。

 そこには興味本位な記事を売り物にした、扇情的な見出しが踊っている。

 

 

『暴かれる旧調査兵団の裏側! 魔女の素顔とは?』

 

『英雄エレンの友人でありながら、彼の計画に反旗を翻した元兵士リディア・ノイマン。一部ではヒストリア女王の影の側近とも呼ばれていた彼女だが、実際の評判は散々だったという。彼女の裏切りによって命を落とした者は数知れず――』

 

 

 一歩でも教育の世界からはみ出せば、これが世間の「真実」となる。

 記事の片隅にぼんやりと描かれたリディアの横顔は、ヒストリアの記憶の彼女とは似ても似つかないものだった。

 そして記事の中に、彼女の夫の名前は一度も出てこない。この意図的な省略に気づき、ヒストリアはしばらく沈黙した後、小さく笑いながら呟いた。

 

「……分かってやってるわね」

 

 リディアは世間にとって、最も分かりやすい悪役であるべきなのだろう。

 軽薄で、気まぐれで、奔放で、他人の人生を狂わせる女。

 世間はリディアにそういう存在であってほしいから、配偶者の存在は意図的に伏せられている。真実より物語の方が大切な世界。

 

 ただ、この意図的な省略に気が付いたとき、ヒストリアは思わずふっと笑ってしまった。

 友人が選んだ相手に自分が口を出す権利なんてどこにもないのだが、ヒストリアはリディアの配偶者にあまり良い印象を持っていない。彼らの事情は分かるが、どうしても納得できない心が奥底にある。

 

 ふたたび、記事に目を落とす。

 

『女王の香水をつけていた。侍女を差し置いて髪を結っていた。夜に私室から出てくる姿を見た』

 

 当時の王宮関係者とされる謎の人物の証言は、噂とも証拠ともつかぬ形で、今なお流布している。

 その証言は真実に近い。けれど、それらの行為に込められた思いは、噂話で語られるような軽薄なものではなかった。

 

『イェーガー派筆頭との怪しい関係、そしてまたエレン・イェーガー自身とも深い繋がりがあったとの証言も残っている。いずれにせよ、島の英雄たちの傍らには、常に彼女の姿があった。まるで沈黙の影のように――』

 

 その記述に、ヒストリアは思わず声を出して笑った。

 

「エレンと深い繋がり? ミカサの前でそんな命知らずなことするわけないでしょ」

 

 どれだけ風説を禁じても、物語の中でしか語られない彼女の人生を、今日も誰かが勝手に紡いでいく。すべての噂は出所不明、裏付けなし。

 真実はもう関係ない、誰もそこには興味がないのだ。

 

 それでも彼女がこの島に帰ってくるのを、人々は心待ちにしている。

 誰かを嫌ったり、笑ったり、持ち上げたりすることでしか癒せない心がある。それが今のこの島の現実だ。

 歴史は勝者だけでなく、語り手によっても書き換えられていく。

 

 新聞をそっと伏せて、机の引き出しから古びた日記を取り出す。ページの端が少し色あせ、指先に紙のざらつきが残る。

 ヒストリアはページをゆっくりと開き、そこに記された自分自身の言葉をそっとなぞった。そこには、リディアが自分の護衛兵として側にいてくれた頃の、あの短い日々の記憶が残されていた。

 

 

 

***

 

 

 

X月X日 曇り

 政務官が苦言を呈してきた。「リディアの配属は不適切だ」と。

 もっともな意見だ。護衛兵として彼女を選んだ理由を、私はうまく説明できない。

 護衛の制服を着たリディアは、今こうして日記を書いている私の斜め後ろに控えている。黙って、私の命を守っている。いつものように、何も言わずに。

 振り返ってその姿を見た時、彼女はどこか遠い目をしていた。

 私は何と声をかけていいのか分からなかった。

 

 

 

X月X日 小雨

 今日、取り返しのつかないことを言ってしまった。

 リディアの前でライナーの名前を出すのはずっと避けてきた。ユミルの手紙の話をしたとき、彼女が動揺したことがわかったから。

 なのに、窓際で物思いに耽るリディアの寂しそうな横顔を見て、思わず口走ってしまった。

「ライナーは、自分が傷つくことしか考えてない人よね」

 言った瞬間、彼女の体が固まった。その後ろ姿に手を伸ばそうか迷った。

 あの男はリディアを壊した。それでも、まだ彼女には彼への気持ちが残っている。

 嫉妬。認めたくなかった。ユミル、ごめん。私、すこしだけ、汚い気持ちを持っている。

 

 

 

X月X日 雨

 今日、私室に入ろうとしたら、侍女たちが慌てて私語を止めた。

「陛下、失礼いたしました」と。

 彼女たちが隠したがっていた話題は、私のことではない。侍女たちは私に忠誠を誓いながらも、リディアが私室に出入りするたびに冷たい目を向けている。

 それはリディアへの非難に見えるが、実際は私が馬鹿にされているということだ。

 なのに不思議と悔しくない。むしろ嬉しい。彼女が、私の傍にいる存在だと思われていることが。

 

 

 

***

 

 

 

 

 数日後、ヒストリアは一人で静かに鏡の前に立っていた。

 部屋の窓からは、和平交渉の準備に急ぐ人々の影が見える。

 

 もうすぐ「彼ら」が船に乗って現れる。それがどれだけ懐かしくても、どれだけ嬉しかったとしても、女王として公平な立場で彼らに対応しなければならない。

 

 鏡に映る自分の姿は、昔と変わらぬように見えた。しかし、目の奥に宿る光だけは、確かに違っていた。

 ヒストリアは微かに微笑み、鏡越しに囁いた。

 

「分かるかしら。あなたの選んだ香水、まだ現役よ」

 

 そう呟いて、香りを肌にまとわせた。古い記憶が、波のように押し寄せる。

 あの日々が、今も続いているかのように。女王としての装いを整え、ヒストリアは港へと足を進めた。

 

 

 

 

 

 連合国の船が港に滑り込んだ。

 重厚な木の板を踏みしめる靴音が、静かな桟橋に響く。降り立った瞬間から、彼らを取り囲む警備の厳しさは明らかだった。黒々とした制服の兵士たちが、まるで生きた壁のように立ち並び、一行を導く。

 

 みんなだ。

 大使として、同じ制服に身を包んでいる姿。

 その中に一人……胸元に、古いブローチを付けた女性がいる。

 

 時が止まったように感じた。二人の視線が交わる一瞬。その眼差しだけで、言葉よりも多くのことが伝わる。

 しかし、女王として、ヒストリアは表情を変えずに視線を逸らした。公の場である。感情を表に出すわけにはいかない。けれど、心の中では嵐のように感情が渦巻いていた。

 

 二人の間にある真実は、この公の場では語られることはない。互いの心に秘めた思いは、いつか二人で確かめ合えばいい。今はただ、再会の喜びを胸に抱くだけで十分だ。

 ヒストリアの唇が、微かに動いた。言葉は音になることなく、風と共に消えた。

 

 

 

***

 

 

 

「なあ、まだ着かねぇのか?」

 

 コニーの小さな愚痴が、静寂を破る。

 

 港では女王に直接出迎えられたとはいえ、個人的な会話を交わせたわけではない。

 大使たちは長い廊下と幾つもの扉を抜け、大きな建物の広間へと案内された。窓の外には美しい庭園が広がっているが、部屋の扉は重々しく閉ざされている。

 

「まるで牢屋だな。これが要人に対するおもてなしか」

「牢にぶち込まれるのは慣れたもんだけどな」

 

 ジャンが苛立ちを隠さず言うと、コニーが笑いながら返事をした。その言葉に、部屋の空気が少しだけ緩んだ。

 

 壁には島の歴史を描いた絵画が飾られ、調度品も重厚で美しい。だが、それらの豪華さとは不釣り合いに、テーブルの上には一冊の雑誌が何気なく置かれていた。誰かの忘れ物だろう。

 

 表紙には煌びやかな色彩で描かれた長身の女性が描かれ、その指先から炎が生まれる様子が鮮やかに彩色されていた。

 

「ねぇ。これ……もしかして、リディア?」

「あらら、ずいぶんと可愛らしくなって」

 

 アニが顔をしかめ、ピークが雑誌の表紙を見て微笑む。

 リディアは雑誌を取り上げ、眉をひそめた。表紙にいるのは長い長い髪を地の果てまで伸ばしたような美女だったが、それは明らかにリディアの外見とは異なっていた。

 コニーもその表紙を覗き込み、思わず噴き出す。

 

「ぶはっ……いやいやいや。誰だよこれ描いたの」

「エレンらしき人物が後ろに追いやられてるんだが……」

 

 ライナーもまじまじと表紙を見ていた。彼の視線はリディアと表紙の間を行き来し、何かを感じ取ったように沈黙した。

 アルミンが冷静に応じる。

 

「架空の人物ってことにされてるんだ。案外、その方が島にとっても都合いいのかもね」

 

 コニーが本を奪い取り、その表紙にガリガリと「リディア・ノイマン」と大げさな署名を刻み始めた。

 

「やめんか」

「リディアの筆跡はもっと美しい」

 

 リディアがコニーの頭を軽く叩くと、静かにライナーが言う。彼の目には複雑な感情が宿っていた。

 

「それにノイマンじゃなくてブラウンだろう」

「そこじゃないんだよなぁ」

 

 そんなライナーを見てリディアは呆れたように首を振ったが、その表情には柔らかな影があった。

 

 

 

 

 扉がノックされる音が、和やかな空気を引き裂いた。

 

「御一行様、移動のご準備を」

 

 厳格な声に、リディアたちは再び現実に引き戻される。

 和平交渉を務める大使としての使命。島との将来。そして、過去との対峙。

 

 誰も言葉にはしなかったが、全員が分かっていた。この旅がただの政治的なやり取りではないことを。各々が、過去に置き去りにした何かに触れる時間になるということを。

 

 リディアは雑誌をテーブルに戻した。フィクションの世界に別れを告げるように。

 

 

 

 

 

 部屋に入る直前、ドアの前に控えていた兵士が一礼しながら告げた。

 

「女王陛下はお立ちのまま、お待ちです。ご到着の際、まず一礼を。その後、会釈以上の言葉は控えてください。発言は代表者であるアルレルト氏のみに許可されています」

 

 誰も返事はしなかった。この部屋のドアを開けた瞬間から、「再会」ではなく、「外交」になることを、全員が理解していた。

 

 

 

 

 

 案内された謁見の間は、静かすぎるほど静かだった。兵士たちの足音すら、重厚な絨毯に吸い込まれる。

 部屋の奥にヒストリアが立っている。昔と変わらない瞳で、まっすぐ大使たちを見つめていた。

 

 その瞬間、懐かしい香りが、ふわりと届く。思わず、リディアの胸がきゅっと痛んだ。

 目の奥がかすかに揺れる。あの頃、誰よりもすぐそばで感じた香り。一瞬過ぎ去った記憶が、目の前の光景と重なった。

 

 部屋の奥で、ヒストリアは何も言わない。

 リディアはゆっくりと目を伏せ、微かに唇の端を上げる。誰にも気づかれない、小さな微笑み。

 

 そして、しっかりと部屋の中心に歩き出す。島で語られる「魔女の物語」ではない存在として。「彼女の物語」を伝えるために。

 

 ――ただいま、女王様。

 

 ――おかえりなさい、私の魔女。

 

 二人にしか分からない香りの記憶が、言葉にならない想いをそれぞれに伝えていた。

 

 

 

***

 

 

 

 和平交渉は形式通りに進行した。

 だが、誰もが感じていた。言葉の一つひとつの裏に、別の言葉が潜んでいることを。机を挟んで向き合う彼らは、外交官である前に、歴史の当事者たちだった。

 

 提案書、保障条約、再生インフラ。話題は未来のための現実的な手続きに終始したが、空気のどこかに濃い沈黙が漂っていた。

 

 リディアは女王の視線を正面から受け止め、黙ってそれに応えた。

 互いに交わす言葉はなかった。だが、目の奥にある何かが、相手に伝わっていると確信できた。

 

 代表者として言葉を選びながら話すアルミンの声だけが、会議の場を保っている。

 

「……以上が我々の提案です。女王陛下のお考えを、お聞かせいただけますか?」

 

 アルミンが女王からの言葉を直接求めたことで、部屋に緊張が走る。

 島の外交官に目配せをしたヒストリアは、姿勢を崩さず、ゆっくりと頷いた。

 

「ありがとうございます。貴殿らの提案は、誠実で、現実的なものであると感じました」

 

 ヒストリアが席を立つ。

 

「ですが」

 

 その一言に、部屋の空気が張りつめた。

 

「この和平が、歴史の帳尻合わせとして終わるのなら、私は賛同できません」

 

 視線は、大使たち一人ひとりの目を射貫き――最後には、まっすぐリディアへと向けられた。

 そして、ヒストリアはふと表情を和らげた。公の場で許される最大限の、感情の滲む笑みだった。

 

「この和平の本当の価値は、私たちが過去をどう扱うかにかかっている。私はそう考えています」

 

 場内に、深い沈黙が流れる。

 やがてアルミンが小さく頷き、口を開いた。

 

「陛下の意思、しかと受け取りました」

 

 その言葉を皮切りに、交渉の場は徐々に穏やかな呼吸を取り戻していく。

 

 

 

***

 

 

 

 外交の緊張が解かれた後。

 大使たちはヒストリアが静かに暮らす家に私人として招かれていた。陽光は柔らかく、木々の間を縫って野原に影を落としている。

 

「あー! 疲れた!!」

 

 ヒストリアの声が庭に響いた。公の場での仮面を脱ぎ捨てた彼女の声には、久しく封印されていた少女の面影があった。

 肩を大きく回しながら、彼女は無邪気に伸びをする。その仕草は、かつて王宮の重い扉の向こうで見せていた素顔そのものだった。

 

「肩がこっちゃった。リディア、さすってくれる?」

 

 言葉と共に振り返った時、ヒストリアの瞳には無意識の甘えが宿っていた。それは条件反射のように口をついて出た言葉だった。

 

「駄目だよ、彼女はもう君のものじゃないんだから……」

 

 夫の声は優しかった。苦笑いの中に、妻への理解と、同時に彼女の過去への複雑な感情が混じり合っている。

 彼は野外に設えられたテーブルに、心を込めて準備した料理を並べながら、二人の間に漂う微妙な空気を感じ取っていた。

 リディアは何も言わなかった。ただ、かすかに微笑んだだけだった。その微笑みは、かつて女王に向けていたものと同じでありながら、今は異なる距離を保っていた。

 

 

 

 庭の一角で、ライナーはヒストリアの子どもを抱き上げていた。

 子どもは泣きそうな顔で抱えられている。その表情すらも、ライナーには神聖なもののように見えているようだった。

 

「なんて可愛らしい子なんだ……」

 

 彼の声は恍惚としていた。

 

「きっと将来は今のヒストリアのように気高く美しい子になるに違いない。ほら、見ろ。指の一本一本にも気品が宿っている」

 

 小さな手を自分の掌に包みながら、ライナーは夢見るような表情を浮かべる。

 

「この白魚のような手、そうだ、ヒストリアも……」

 

 ライナーはうっとりとつぶやいた。その目に、もう周囲は映っていない。一体誰に話しかけているつもりなのか。

 

「はっ……今、俺の目を見た。魂を見抜かれてる。賢い……」

 

 ジャンはその場から少し距離を取った。あまりにも現実離れした言葉の数々に、呆れを通り越して少し心配になっていた。

 

「おう、そうか。全部心にしまっとけ」

「お前さぁ……何回も言うけど、よくリディアの前でそういうことできるよな……」

 

 ジャンとコニーの言葉には諦めの響きがあった。ライナーが冗談とも本気ともつかないような奇妙な発言をすることに、呆れと慣れが混在していた。

 

 すると、抱き上げられたヒストリアの子どもがくしゃみをした。その瞬間、ライナーの表情がさらに恍惚となった。

 

「ああ……祝福だ」

 

 その瞬間、庭の空気が凍りついたような静寂が流れた。

 

「あれは正気で言ってるの?」

「正気でも狂気でもどっちでもいいけど。黙らせとく?」

 

 ピークが問うと、アニが蹴り飛ばそうかというモーションを見せた。しかしリディアは静かに首を振った。

 

「相手したら余計に調子に乗るから。ほっとこ」

 

 彼女の声は平静だった。しかし、その平静さの裏には、長い年月をかけて培われた忍耐があった。

 

 

 

 それぞれが他愛のない会話に興じる中、ヒストリアとリディアは自然と少し離れた場所に身を寄せていた。

 陽光が二人の間に柔らかな影を作り、時が止まったような静寂が流れている。

 

「香水、変わらないね」

「もちろん。みんなを家に招くって決めてたから、本当は、もう消えててほしいんだけど」

「私たちを招くこと……反対されたでしょう?」

「うん。結構……大変だった。いろんな調整とか、キヨミさんにかなり無理を言っちゃったしね」

「でも、来られてよかった。もう会えないんじゃないかって。そう思っていたから」

 

 リディアの言葉を受けて、ヒストリアはリディアの肩にもたれかかった。

 その仕草が、二人を過去へと引き戻していく。リディアの肩に感じる温もりは、記憶の中のものと同じだった。

 

「ねぇ、今から……」

 

 ヒストリアの声は、甘えるように小さくなった。

 無意識に、いつかのように髪を結ってもらおうと思っていた。

 

 しかし、ふと視線を上げた先に、夫と子どもの姿があった。

 

 現実が、優しく、しかし確実に彼女を現在に引き戻していく。子どもがこちらに駆けよってきた。小さな足音が響く。

 

「あら、遊んでもらってたんじゃないの?」

「あのおじさん、こわい」

 

 子どもの率直な感想に、リディアは噴き出しそうになった。必死に笑いをこらえながら、彼女は唇を噛んだ。

 

 ヒストリアと再び視線を交わす。その瞬間、二人の間には無言の理解が流れた。

 もう、護衛に甘えられる女王は、ここにいない。それぞれがお互いの家庭を持ち、それぞれの道を歩んでいる。過去は美しい記憶として心に残り、現在は新しい形の愛情で満たされている。

 

「この子の髪を結ってくれない?」

 

 ヒストリアの願いは、祈りのように静かだった。それは過去への郷愁ではなく、現在への祝福を求める言葉だった。

 

「もちろん」

 

 リディアの返事は即座だった。彼女は膝をつき、子どもの前にしゃがみ込んだ。その動作は、かつて女王の前で見せていた優雅さと同じでありながら、今はより深い愛情に満ちていた。

 

 そっと髪に手を伸ばす。絡まった部分を丁寧にほどく。櫛の代わりに指を通す姿は、かつて女王の髪を結ったときと同じ――いや、それ以上に丁寧だった。

 

「くすぐったい」

 

 子どもがくすぐったそうに肩をすくめて笑う。その無邪気な笑い声が、庭の空気を柔らかく包んだ。

 ヒストリアはその様子を黙って見つめていた。自分の髪に触れていたあの指先が、今は未来へ向かって結び直している。

 

 ヒストリアの中で、まだ終わっていない何かがあった。

 それは恋愛でも執着でもない、もっと深い、名前のつけられない感情だった。けれど、それに名前をつけることは、もう必要ない気がしていた。愛情は時に形を変えながら、永遠に続いていくものなのだから。

 

 

 

 子どもの髪を結び終えたリディアのもとに、コニーが駆け寄ってきた。

 

「なあ、俺も結ってくれ! 三つ編みで、ちゃんとおしゃれに!」

 

 彼の屈託のない笑顔が、庭の空気を一変させた。

 

「コニーのどこを編むのよ」

 

 ヒストリアがくすりと笑った。

 

「ジャンもやってほしいってよ」

「言うか!」

「アルミンとジャンの長さくらいならできるよ。リボンも付けちゃおっか」

 

 そう言ってポケットをまさぐるリディアを見て、ジャンが慌てている。その様子に、みんなが笑い声を上げる。

 

 すると、ライナーが黙ってリディアに近付いた。先ほどまでの恍惚とした表情は消え、代わりに複雑な感情が顔に浮かんでいる。

 

「何か?」

「あ、いや……」

 

 リディアの問いかけに、ライナーは言葉を失った。

 

「さっきの饒舌はどうしたの。リディアが他の男に触るのが嫌だって、ちゃんと言えばいいのに」

「めんどくさ……」

 

 ピークの鋭い指摘に、アニが呟いて逃げていく。その後ろ姿には、複雑な人間関係への疲れが滲んでいた。

 

 

 

 

 リボンを持って、ジャンを追いかけるリディア。子どもとコニーも、一緒になって駆け回っている。ヒストリアの夫はアルミンと談笑しながら、彼らの様子を眺めている。アニとピークが呆れていて、ライナーが気まずそうに水を飲んでいる。

 

 ヒストリアはずっと、不安だった。

 大使と女王として再会したとき、果たしてあの頃のように話すことができるのか。立場が変われば、もう戻れなくなるのではないかと。

 でも、そんなもの。全部杞憂だった。

 

 愛する人たちの愚かしさは、今でも、何よりも美しく見えるものだったから。

 

「みんな、バカね……」

 

 でも、そんなバカたちが、この世界をやっと優しくしてくれる。

 

 ヒストリアは涙をそっと拭った。

 手首には、いつかリディアが選んだ香水の香りが、まだその余韻を残していた。

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