ありふれた悲劇(アニ・レオンハートの嫌いなもの)
私、アニ・レオンハートには、嫌いなものがたくさんある。
人間が嫌い。世界が嫌い。全部嫌い。
でも、その中でも特に嫌いなものは……自分の悲劇に酔いしれるだけで、そのくせ何も行動を起こそうとしない奴。
私たちが壁の中に潜入してからのこと。
私、ライナー、ベルトルトの三人は、ウォール・ローゼ内の大きな教会内部に設けられた臨時避難所に身を寄せていた。
ここに居座り始めてから、もう三日も経つ。近くにあった集会所も避難所として開かれていたが、今朝になって突如閉鎖されてしまったらしく、追い出された人々が虚ろな目で街にたむろしていた。
他人事ではない。私たちのいる場所も、いつ追い出されるかわからない。居場所を失ったウォール・マリアの住民がこれほどいるというのに、ウォール・ローゼ内の現実は驚くほど冷淡だった。
私は配給のパンを三人分、腕に抱えていた。それを避難所に持ち帰ろうとしていた。
しばらく歩いていると、背中に視線を感じた。
振り返ると、こちらを物欲しそうに眺める少女がいた。目が合ってしまった。胸の奥で警戒心が疼く。
「ねぇ、ねぇ……それ」
ああ、やはり。人のパンを奪う気だな、こいつ。
私は瞬時に理解した。
二日前にも同じようなことがあった。身体の小さい私のことを侮って、力づくで配給品を奪い取ろうとしてきた男がいたのだ。
だが、私がそいつを蹴り飛ばして、その巨体を石畳に押さえ込む瞬間を、この街の多くの人間が目撃していた。そのおかげか、私に喧嘩を売るような輩はいなくなった。
だから私がこうして三人分ものパンを抱えていても、誰も絡んでこなくなっていた……はずだったのに。
今日のやつはどこか違う。蚊の鳴くような小声を投げかけてきたかと思うと、その後はひたすら、ただ物欲しそうにこちらを見詰めているだけだった。どうやら、私が先に何か言うのを待っているらしい。
「ごめん、ごめんね」
自分から話しかけてきたくせに、いつまでも本題に移らない少女の姿に、言い知れない不快感が湧き上がる。
私が踵を返してその場を立ち去ろうとすると、少女は慌てたように口を開いた。
「ねぇ、ねぇ。あなたも、一人なの……? あたしもそうなの、だから……」
その声色で、手口が見えた。涙目で他人の同情を買うことで、何かを恵んでもらおうという魂胆なのだ。
その手慣れた様子と可憐な容姿から、この少女が感情に訴えかける強奪の常習犯であることや、今までどうやって生き延びてきたのかが、全て透けて見えるような気がした。
そしてそれが理解できた途端……私の中に、理由のわからない猛烈な苛立ちが込み上げてきた。
「あのさ。こっちだって必死なんだよ」
子ども同士なんだから協力すればいいのに、と周りは思うのかもしれない。でも、見ず知らずの人間にわざわざ同情してあげられるほど、私には余裕がない。
慣れない世界で、カビ臭く古びた壁の中の世界で、私だって生き延びることで精一杯なんだ。巨人の力なんて、今は何のアドバンテージにもならない。飢えたら死ぬ、それは他の奴らと同じだ。
「並べば」
「えっ……?」
私が配給の列を指差すと、少女は目を丸くして驚いたようだった。
やはり。少女の甘ったるい声は、自力で食料を確保するという最低限の競争すら既に放棄しているという証明だった。
「配給があるんだから、他人にたかるな」
「だ、だって、あたし子供だし、身体も小さいから、ちゃんとしたパンを貰えなくて。昨日は半分に割られちゃったし、今日は列から弾き出されちゃったの。このままじゃ、お腹が空いて死んじゃう……」
「知らない。勝手に死ねよ」
「なっ……」
少女は絶句し、顔を耳まで真っ赤にした。同年代からこんな酷い言葉をぶつけられたことなど一度もないとでも言いたげな、あからさまな被害者の表情を浮かべた。
「……ごめんなさい、そうだよね。あたしが悪いの、あたしがちゃんとしてないから、あたしが悪い子だから、あたしが……」
しかし少女の方も必死だった。その媚びるようなクネクネした仕草と、あからさまな口先だけの謝罪が、私の神経を逆撫でしていく。
「あ、あた、あたしのお母さん、あたしの代わりに巨人に食べられちゃったの……あたしのせいなの、あたしがみんなを犠牲にして、あたしだけが生き残って、それで……」
あたし。
あたしあたしあたしあたしあたし。
その舌足らずで幼い一人称が、頭の中でこだまする。
うっざいな。だから何なんだよ。
そんなのお前だけじゃない。周りを見渡したことがないのか? 似たような理由で逃げてきた奴なんか、ここにいくらでもいるだろう!
お前の母親が本当に身代わりになってくれたんだか、お前が勝手に身代わりに捧げて逃げてきたんだか知らないが……そんな「ありふれた不幸」で、よくここまで悲劇のヒロイン面ができるな。
パンを抱える腕に、思わず力が入る。その時、すぐ近くから怒号が響いた。
「泥棒!」
振り返ると、一人の少年が兵士に首根っこを掴まれていた。その手にはパンが握られていたが、すぐに取り上げられてしまった。
そんなに誰かのパンが欲しいなら、私じゃなくてあの少年に声をかければよかったんだ。その綺麗な瞳で見詰めたら、きっと一発で落ちたんじゃないか?
私は再び目の前の少女に向き直る。彼女を強く睨み付けると、彼女が上目遣いで瞳を潤ませながらこちらを見詰めてきた。胃の奥から、さらなる嫌悪感が湧き上がる。
「私はあんたの神様じゃない」
助けてくれる人が欲しいんなら、見込み違いだ。依存先が欲しいんだったら、縋るものが欲しいんだったら……そうしてくれる男でも見つければ? その麗しい顔面を使えば、何とでもなるんだろう? 今までもそうしてきたんじゃないのか?
そんな罵詈雑言の嵐が口から出かかって、私は慌てて唇を噛んだ。
周囲がこちらを見ているのに気づいたのだ。大人たちのヒソヒソ声が聞こえてくる。
「可哀想に……」
同情の目線がどちらに向けられているのかは明らかだった。
可哀想な「悲劇の美少女」と、それに冷たく当たる、パンを三人分も確保している「強欲な娘」。
なんでだよ。
私は知らない奴に絡まれて、一方的にたかられているだけなのに。なぜ私が責められるような目で見られなければならないんだ!
それもこれも、ライナーとベルトルトが私一人にこんな仕事を任せたせいだ。
「あ、ねぇ、待って……」
私は小さく舌打ちした後、少女を振り切るように駆け出し、その場から逃げ去った。
嫌い。嫌いだ、ああいう奴が一番嫌い。
自分の悲劇に酔うだけで、誰かの救いを待っているだけで、すぐ他人に寄りかかろうとして、主体性がなくて、甘ったれた奴なんて……。
なのに、なぜだろう。
胸の奥で、何か小さく疼くものがある。それが何なのか、私にはわからなかった。
***
避難所の夜はいつもながら最悪だった。
汗と体臭の入り混じった独特の臭いが湿度に混ざって、それは何日経っても慣れるようなものじゃない。そのうえ窓だけは大きいから、月明かりが眩しくて眠りにつくのにも苦労する。
いびきや寝言のうるさい奴も最悪だったが、一番嫌なのは、啜り泣きながら眠る子供たちだった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
近くで眠る誰かが、眠りながらそう呟いているのが聞こえてきた。これもよくある避難所の風景だった。
ライナーやベルトルトはそういう人間を見て、時々胸を痛ませるような目をすることがあった。
しかし私にはとても理解できなかった。
どうして眠りながら謝罪するのだろう。夢の中で謝ったところで実利はない。贖罪の相手に直接向き合えない夢の中で、わざわざその言葉を口にする……そんなの、自分の善良さを周囲にアピールしたいだけなんじゃないか。
みんな、寝ている時ですら自分が可愛いのだろうか。理解不能だった。
「最悪……」
それから数日後、三人で開拓地送りにされてからも、私の気持ちは何も変わらなかった。
だが、時折思い出すのだ。あの少女の、上目遣いで潤んだ瞳を。
***
訓練兵団への入団初日から、ライナーの様子はどこかおかしかった。悲壮な顔をした人間だらけの開拓地と違って、明るい同年代だらけの環境に移ったことで調子に乗ったのか、彼は唐突に兄貴風を吹かせるようになっていた。
見ていられない。「俺がマルセルになる」って、そういうことじゃないだろう。
マルセル。思い出すだけで、胸の奥に重い石が沈んでいく。別に、今のライナーがマルセルに似てるとも思えない。私はどちらにもそこまで興味がなかったからだ。
ああ、本来ならさっさと始祖を奪還して、父の元に帰るはずだったのに。こんな、遠回りか近道かも分からないところで、私たちはずっと足踏みを続けている。
そもそもライナーのせいで、今こんなところにいるのに。
そう心の中でつぶやいた瞬間、なぜかその言葉に鋭い痛みを感じた。まるで自分の心に刃を突き立てたかのような、予期しない痛み。
……ライナーだけのせいじゃないって、本当はもう分かっているからだ。
だけど、でも、いや。違う。やっぱりそれでもライナーが悪い。こんなことになったのも、やっぱりライナーのせいだろう? そうだ、そうに違いない。
戦士として厳しい訓練を経てきたライナーやベルトルトは、同年代の訓練兵たちより明らかに体格が優れていた。
それに加えてライナーは開拓地ですくすくと大きく育っていて、大人たちからも重宝され、よく褒められていた。ベルトルトもどんどん身長を伸ばしていって、もはや小さな巨人に匹敵するくらいのサイズだ。
対して私は、あまり身長も伸びなかった。開拓地でも避難所でも、ほとんど誰とも話さなかった。話す必要もなかった。
「ライナーがいると安心感があるよな」
「そんなことはない。お前らだって、こうして開拓地にも戻らず、兵士としての務めを果たそうと努力しているじゃないか。それだけで既に十分立派だよ」
「お前、やっぱすごいな……。ライナーに比べると、自分がまだまだ子どもなんだなって思い知らされるよ」
あいつ、また誰かと話している。
戦士の使命がどうとか、悪魔の末裔を殲滅するとか、そういうことばかり口にしてきた奴が、島の悪魔どもにちやほやとされて褒められて、鼻の穴を大きく膨らませている。見ていて気持ちの良いものではない。
早く帰りたい。
こんな場所に長居したくない。
誰かとの繋がりなんかいらない。父がいる故郷に、一刻も早く帰りたい……。
そんな苛立ちが頂点に達しそうなある日、私は「彼女」の後ろ姿を見つけた。
訓練初日、教官に入団理由を問われて「鎧の巨人を殺すためです」などと宣言していた女。あそこまではっきり言われたら、さすがに印象には残る。
鎧の巨人を殺したい女。
ライナーを殺したい女。
「ねぇ」
「え?」
わかるよ。私もちょうど今、あいつを殺してやりたいところだった。
「あんた、鎧の巨人を殺したいんだって?」
気がついたら、なぜか声をかけていた。
それが、訓練兵リディア・ノイマンとの最初の会話だった。
***
女子寮では、二段ベッドを一段ずつ使う。
そこまではよかったのだが、最悪なのは、二人一組で一つの布団を使うように割り振られていたことだ。845年の襲撃以降、訓練兵の数が膨れ上がってしまったのが原因らしい。
私たちのせいだって? 知るか。嫌なものは嫌だ。衛生的にありえない。泥まみれで怪我まみれの奴と寝具を共有しろと言われているようで、入団初日はとにかく憂鬱だった。
でも当初、私の隣には誰もいなかった。そこに来るはずの女は、初日で早々に開拓地に帰ったらしい。
運が良かった。どうせ深夜には王都の調査でここを抜け出さなければならない。誰かが隣にいたらやりづらくなる。
それなのに。ある時から、一人の女が勝手に隣を陣取るようになってしまった。
それがリディアだった。彼女が勝手にベッドを移動してきたのは、私がうっかり「格闘技術を教える」なんて約束を承諾してしまったからだ。
誰もリディアの勝手を咎めなかった。理由は明白。私も彼女も「浮いて」いたからだ。
調査兵団に入って鎧の巨人を殺すと豪語する女と、誰とも関わろうとしない無愛想な女。そんな二人がつるみ始める流れは、特に不自然なものではなかったらしい。
なんでこんなことになっただろう。
その夜、私は天井を見上げながら考えていた。なぜリディアに声をかけたのか。なぜ格闘技術を教えると約束してしまったのか。自分でも理由がわからない。ただ、彼女の中にライナーへの敵意を見つけた時、なぜか安堵のような感情が湧いたのだ。私と同じ感情を抱いている人間がいる、という奇妙な連帯感。
彼女は喧嘩の経験すらないと言っていたが、それは立ち姿ですぐに分かった。
受け身の取り方すら知らない相手への指導とは非常に骨が折れるもので、私は毎日のようにリディアを怒鳴りつけていた。
「今ので首の骨が折れてる!」
受け身は命綱だ。格闘だろうが転倒だろうが、これができなければ骨折一直線。
リディアはそんな基礎すらできていなかった。私に言わせればこれは生きるために必要な最低限の技術だったが、この壁の中は、そんなことを知らなくても生きていけるくらいには平和だったのだ。
「怖いならもっと丸くなれ。前腕から肩まで体重を流して、斜め前に転がって、反対の腰まで送る。ほら、首が伸びてる! ちゃんと顎を引け!」
「こ、こう?」
「それはただの前転だ、馬鹿!」
人間の防御本能は、怪我の温床だ。支えようとするから壊れる。
砂埃が舞う地面は今日も冷たい。ここに叩きつけられれば、誰だって一度は心が折れる。私はこいつにそれを味わわせるつもりだった。甘え癖を削ぎ落とすために。
「アニ先生、痛いです」
「誰が先生だ。地面につくとき、手を先につくからだよ。手首に来ただろ?」
「うん。でも、ちょっとずつ分かってきたかも」
「これは倒れた時の痛みを分散させる技術だ。格闘技術以前の問題だよ。立体機動だって、体重移動がうまくできなければ話にならない。脱落したくなければ、黙って体に覚えさせることだね」
「ありがとう。アニも、昔はこうやって何回も失敗しながら覚えたの? お父さんと?」
「……まあね」
リディアはよく喋るやつだった。
そのせいで、私もつい、余計なことを教えてしまったのだ。父の話なんか、誰に話すつもりもなかったのに。
リディアはいつも、私の返事を待たずにベラベラと喋ってきた。そのせいで私はすっかり彼女の家庭事情についても把握してしまった。
父親が調査兵団の分隊長だったこと。母親が鎧の巨人に殺されたこと。避難所を一人で転々とし、開拓地を経て、訓練兵団に入団したこと。
壁破壊後の動きは私たちと同じだ。でも、だからといってどうということもない。こいつの境遇もまた「ありふれた悲劇」の一つ。
「もっと早く、いろんなことができるようになりたい。アニの練習になるくらいには。だから……今日はあと十本、私に付き合ってくれる?」
それは挑むような目だった。疲れ切っているはずなのに、そこにはまだ余力ではなく意志が燃えている。
こいつは弱いくせに、同じ土俵から言葉を投げてきている。その瞳を見ていると、胸の奥で何かが熱くなる。それは嫌悪感とは違う、もっと複雑な感情だった。
「……わかった」
後ろ、横、前回り。わざと失敗させ、衝撃を叩き込む。膝が笑い、額から汗が滝のように落ちても、リディアは一言も泣き言を言わなかった。
肩から腰までの接地。最後には迷わずできていた。頭で分かれば、体もついてくる。
「あんたさ。こんなに一方的にやられて、本当に悔しくないわけ?」
約束の十本が終わったあと、私は静かに問いかけた。
「やられた分、いつか倍にして返してあげる」
「言ってろ」
リディアは静かに微笑みながらそう言ったせいなのか、私の胸の奥で、何かがひとつ、静かに鳴った。
***
訓練を終えた一日の終わり、食堂の前でエレン、アルミン、ライナー、ベルトルトが四人で会話しているのが耳に入った。
「リディアって知ってるか? オレやアルミンと同じシガンシナ区出身なんだけど、結構いいヤツでさ。しかも調査兵団志望」
「エレンは結構前から仲良くしてたよね。そのせいでミカサがずっとそわそわしてて」
知っている名前が聞こえたせいで、思わず聞き耳を立ててしまった。深い意味はない、と自分に言い聞かせる。だが胸の奥で、小さな警戒心が頭をもたげる。エレンがリディアと「以前から」親しげに話していたということ。それがなぜか、私の中に奇妙な焦燥感を生んでいた。
「ごめん、分からないな。どんな子?」
ベルトルトがエレンに尋ねている。
「入団式で、鎧の巨人を殺すって言ってたヤツのことだよ。覚えてないか?」
その言葉にライナーとベルトルトが顔を引き攣らせているのが分かった。私の心臓も、一瞬強く跳ねる。
「そ……そうか。そんな奴がいるんだな。離れていたせいだろう、俺には覚えがない」
ライナーの顔にあからさまな動揺が走った瞬間を、私は見逃していなかった。
そしてその動揺を見て、私の中に複雑な感情が湧き上がる。ライナーが恐れているのはリディアではない。自分の正体がバレることへの恐怖だ。つまり、彼もまた、この偽りの日常を失うことを恐れている。
私と同じように。
***
リディアという存在については、深夜の密会の場で何度か話題にあがった。
私はこの場が嫌いだった。新しい情報を与えるのはいつも私だけ。深夜の王都をドブネズミのように這い回って、命懸けで情報を掴んで、それを聞いたライナーやベルトルトは……何をしてくれた? 二人は私に気を遣うような台詞こそ吐くけれど、それは何の慰めにもならなかった。
危険を冒すのは常に私。二人は安全な場所で情報を受け取るだけ。この不公平さが、私の心の奥で小さな怒りの火種となって燻っている。
もともと空気の悪い報告会だったけれど、リディアの話題はさらに空気を悪化させた。
「あんたを殺したがっている訓練兵がいる。で? だから何」
「いや、気をつけた方がいいと思っただけだ。アニ、お前もそのリディアとかいう奴には近づきすぎるな。万が一俺たちの素性がバレたら、その時は……生かしてはおけない」
「……気の毒だけど、仕方ないことだ。そういう人間がいること自体は想定内だから、ライナーもアニも気にしない方がいいよ」
ベルトルトは比較的落ち着いているように見えたし、私も彼のいう通りだと思った。リディアは脅威になるような存在なんかじゃない。ライナーは何にそんなに怯えているのか。
「いや、これまで出会ってきた民間人たちとは訳が違うだろ。今まさに巨人を殺すための技術を学んでるんだからな。警戒を怠らず距離感を意識して、気を引き締めていかなければならない」
その優等生のような話しぶりに、つい苛立った。
「まるで兵士みたいな喋り方」
「なんだと?」
ライナーが顔を歪めた。
彼の癖は知っている。自分が不利になりそうな時、言葉と態度で相手を威圧しようとするときがある。
この態度、苦手だ。ライナーは言葉を操るのがやけに上手い。こっちが言われたら嫌なことを的確に選ぶうえ、反論できないくらいの速度で捲し立ててくる。
しかしその時の私は怯まなかった。
「似たような奴なんて他にもいる。全ての巨人を駆逐するとか言って、一日中喚いてるような奴とかね」
「……エレンのことか」
「避難所でも開拓地でも、そういう奴ならたくさん見てきた」
家族を亡くして自分だけ生き残ってしまった男性。
瓦礫から聞こえる声をわざと無視した兵士。
親を亡くしてから窃盗で食い繋いでた子ども。
全員、私たちに憎しみを抱いていた。数え上げればキリがない。
「両親を巨人に殺されたとか、故郷を追われたとか。そんな境遇、全く特別なものじゃない。その程度の悲劇、ここじゃよくあることでしょ」
「……僕たちの行いが、ありふれたものにしてしまったんだ」
「だったら何? 反省して心を入れ替えて、この作戦を取りやめるとでも?」
「絡むな。ベルトルトはそういうことを言いたいわけじゃない」
言葉が止まらなかった。普段言えない本音が、苛立ちとともに溢れ出す。この怒りは一体何なのだろう。
「他人を巨人の犠牲にして、自分だけ生き延びたっていう奴もいたよ。あんたみたいにね」
その瞬間、私は何か一線を越えてしまったことを理解した。ライナーの表情が、一瞬で凍りつく。
「やめなよ、アニ……」
「俺は覚えていない」
ライナーの声は低く、抑制されていた。だが私は止まれなかった。
「自分が悪いんだとか、贖罪がどうとか、そういうことばかり言ってた。口先だけは立派だったけど、結局は戦いも償いもせず、勝手にくたばったらしいけど」
「アニ。なぜ今、そんな話をする? 俺へのあてつけのつもりか?」
「別に」
そう言いながら、私はマルセルが喰われたあの日のことを思い出していた。
これだけライナーを責めておきながら、私の心は妙に落ち着きを取り戻し始めていた。
もしもあれからライナーが、マルセルを失ってからの彼が……自分の悲劇に酔いながら「俺を許してくれ」「俺が死ねばよかったんだ」「贖罪させてくれ」などとのたまい続けていたら。
それこそもう、どこかで彼を殺していたかもしれない。
そう考えると、この男は、自分の悲劇を肴にした酔っ払い連中よりは、まだマシなのかもしれない。責任を自覚しつつも、それに押し潰されることなく前に進もうとしている。
だが今、そんなことを口にしてライナーを庇う必要なんて全くない。私は心の中でそう思いながら、立ち上がった。
「戻る。こんな無駄話するくらいなら、もう休ませてもらう」
「おいアニ、話はまだ終わっていない」
「そうだ。あんたに復讐したがってる、リディアとかいう奴のことだけど」
私は立ち上がったまま、二人を見下ろしながら言った。
「そいつ、女子寮で……私の隣でいつもぐっすり眠ってる。私が深夜に外出してることさえ、たぶん気がついてない。兵士としては鈍すぎる。だからまぁ、放っといてもすぐに死ぬと思う。構うほどのもんじゃない」
「……そうか」
弱い人間はすぐに訓練兵団から脱落する。きっとリディアも……いつかどこかで、目の前から消えてくれる。
***
密会の後、私は女子寮の寝床にひっそりと滑り込んだ。大丈夫、今日も誰にも見つかっていない。
隣で眠るのは、話題の「リディア」。こちらが引くほど熟睡している。
別に情が湧いたわけじゃない。特別なものは何もない。彼女といるのは、ただの暇つぶし。そう自分に言い聞かせながら、私は彼女の寝息に耳を澄ませている自分に気づく。規則正しく、穏やかな呼吸音。
誰とも何も話さないというのは、案外しんどいものだ。内容がなくても、どんなにくだらないものでも、会話というものはストレスを軽減させることがある。それくらいは、日々の実感としてあった。だから自分は、こいつを利用してるだけ。こいつと話すことで、自分にも利益があるから。
だがそれだけなら、なぜ私はこうして彼女の寝顔を見つめているのだろう。なぜ彼女が安らかに眠っていることに、安堵感を覚えるのだろう。
そして彼女が少なくとも、眠りながらメソメソと泣くような人間ではないことが、せめてもの救いだった。避難所で聞いた、あの嫌な啜り泣きとは違う。
「狭い」
「うぅ……ん」
リディアの体を押して、寝床を占領するように身体を広げている彼女に悪態をついた。
その寝顔はどこまでも安らかで、復讐を誓った訓練兵なんかにはとても見えない。無防備で、純粋で、まるで罪のない子供のよう。
この顔が、いつかライナーに復讐の刃を向けることになるのだろうか。この手が、私たちを殺そうと武器を握ることになるのだろうか。その想像が、胸の奥に鈍い痛みを呼び起こす。
「ん……?」
しまった、起こしたか?
そう思って私が黙ると、リディアが寝言の続きを始めた。
「……いも……」
「は?」
「芋の……芽は……食べるもんじゃないぞ……」
「……」
思わず口元が緩んだ。
少しだけ笑いそうになってしまった。こんな奴の何に警戒しろと?
眠るリディアの手元に、とある装身具が光るのが見えた。
聞いてもいないのにリディアが教えてきたから、私はこのブローチを知っている。こいつの父親の形見だ。ベッドから落ちそうになっているそれを、私はそっとリディアの手のひらに握らせた。
それは優しさじゃない。朝から騒がれても困るから。それだけだった。そう自分に言い聞かせながらも、私の指はしばらく彼女の手に触れていた。
そのブローチがライナーによって粉々に踏み潰されてしまったのは、その翌日のことだった。
***
「もしアニが巨人だったとしたらさ」
「何だって?」
リディアが突拍子もないことを言い出すのはいつものことだが、さすがにその発言には警戒せざるを得なかった。心臓が高鳴る。まさか、気づかれたのか?
一日の終わり、二人で一つの、ベッドの上。
発言に深い意味は全くなかったらしく、リディアはのんびりと話を続けた。
「こんなに一緒に訓練してたらさ。アニが巨人になったとしても、私には、動きでアニだって分かっちゃいそう」
「ハッ」
いかにも素人らしい、馬鹿の発想だと思った。
確かに女型の巨人は、普段の私に比較的近い形状をしている。それでも巨人化すれば、骨格も、筋肉も、手足の長さも何もかも変わってしまう。動き方は同じかもしれないが、サイズや重心の変化で、モーションなんか全然違ってくる。
「巨人相手に戦う時、人間相手のように冷静に観察して動きを見極める時間なんて、あると思う?」
生死が一瞬で決まる状況で「動きが似てるから分かる」なんて、甘い。
ましてやリディアは女型の巨人なんか見たこともないのだ。一般的な巨人の姿を想定してこういうことを言っているなら、それこそとんでもない馬鹿だ。
「あんた座学も成績悪かったね」
「お、馬鹿だと言われてるってことは私でも分かった」
リディアは特に傷ついた様子もなく答える。
「成績にも繋がらない対人格闘技なんてもうやめれば。他にもやるべきことがあるんじゃない」
私は彼女を突き放そうとしていた。
少しずつ、気が付いていたのだ。このまま近くにいては、いつか耐えられなくなってしまいそうだということに。
「ふふふ。実は既に対策済み」
「は? なに、カンニングでもするつもり?」
「違うよ。この前ね、クリスタとユミルと、一緒に馬術訓練をする約束をしたんだ。クリスタって馬にすごく懐かれるから、いろいろ教えて欲しいなって前から思ってて。ユミルも口は悪いけど、実は何だってできるんだよね。馬術の成績はかなり点数に響くって教えてくれたのもユミルで」
クリスタ。ユミル。リディアは私以外の人間とも、そんなに親しげに話すようになったのか。
「……ふぅん」
「ジャンにも色々聞いたんだ。立体機動中のガスの配分とか、ブレードの角度とか……すごく器用だし、意外と、教え方が上手かった。マルコも一緒だったから、そこで戦術の話とかもできて……」
そんなもの、私だって教えられるのに――そこまで言いかけて口を閉じた。
知っていたはずだ。
リディアは他人を頼ることを恥じないやつだ。それは甘えや依存じゃない。できないことがあるから、できる人に頼む。それを認めることは、彼女にとっては自然なことなのだ。
だからあの日、私を引き止めてまで頼ってきたんだ。別に私じゃなくても良かったんだ。あのときリディアに声をかけたのがミカサだったら。リディアはきっと別の言葉でミカサを引き止めて、それで――
私はリディアにとって、特別な存在ではない。代替可能な、ただの一人。
その現実が、胸の奥を鈍く痛ませる。
訓練兵の中で浮いていたはずのリディアは、日を追うごとに、どんどん訓練兵たちの輪の中に混じっていった。私を置いて、一人で。
「……アニ? どうかしたの?」
声をかけられて我に返った。
「それで今度、サシャと野営訓練のとき、食べられる草を見つけようって話してて。アニもどう?」
「いらない」
その冷たい返事は、自分を守るための精一杯の虚勢だった。
「いらないかぁ。まぁ草なんていらないよね、アニは。あ、それなら次の調整日、一緒に街まで出ようよ。安くて美味しいミートパイの店があるらしくて、サシャがお土産を貰ったんだって」
彼女はまだ私を誘ってくる。苦しい。いつまでこんな偽りの関係を続けられるのだろう。彼女の善意に応えることもできず、真実を告白することもできない。私はただ、この曖昧な距離の中で溺れ続けている。
そう話すリディアの手元を見ると、そこには見たくもないものが握られていた。
それは、新しい、ブローチ――。
胸の奥で、何かが崩れ落ちる音がした。ライナーが渡したというブローチ。罪悪感からか、それとも計算からか。その小さな装身具が、私と彼女の間に横たわる深い溝を象徴しているように見えた。
「……気持ち悪い……」
その言葉は、ライナーに向けられたものなのか、それとも自分に向けられたものなのか、もうわからなかった。吐き気にも似た感情が胃の奥から込み上げてくる。すべてが偽りで塗り固められた、この状況への嫌悪感。
「え、大丈夫? 水、持ってくるよ」
そういうことではなかった。私の抱えている苦悩は、水で洗い流せるようなものではない。
しかしリディアはベッドから降りて、そのまま部屋の外に出ていってしまった。
その背中を見送りながら、私は自分がどれほど彼女を重要視しているか、認めざるを得なくなった。これは暇つぶしなんかじゃない。利用なんかじゃない。私は、彼女を――この感情に名前をつけることさえ恐ろしい。
「アニ、大丈夫ー?」
同室の奴らが軽く声をかけてくる。私とリディアの会話が聞こえていたのだろう。
でも、みんな口先だけで、誰も動かない。リディア以外は。リディアだけが、本気で心配してくれる。それが私には、耐えられない。
最近の私はおかしい。どうかしている。感情の制御が効かなくなってきている。
あんな紛い物のブローチを大切にするリディアが許せない。保身だけで罪を贖おうとするライナーが許せない。何もしないで黙ったままのベルトルトが許せない。許せない。全部。この壁の中の、何もかもが。
なんでリディアは、あんなやつなんかに。心の中で叫ぶ。
ライナーはあんたを騙してる。全部全部、嘘で塗り固めてる。あんたへの好意なんか一ミリもない。
あいつは昔からそういう奴なんだ。媚びるような作文だけが上手いって、戦士候補生の頃にも言われてただろ。リディアに何を言ったのか分からないけど、そんなの絶対、本心じゃない。
私は、私は……私だけは、あんたに嘘なんか、ついていない……!
私。
わたしわたしわたしわたしわたし。
幼い一人称が頭にこだまする。
その瞬間、私は愕然とした。自分の嫌いなものが何だったのか、全て思い出したのだ。
自分の悲劇に酔うだけで、誰かの救いを待ってるだけで、すぐ他人に寄りかかろうとして、主体性がなくて、甘ったれた奴。
なんだ。私自身のことじゃないか。
誰かにすがって、依存して。
あの日、配給所で出会った少女。それは鏡に写った自分の姿。
***
全身を硬質化させて逃げてから、どれほどの時間が流れただろう。
アルミンやヒッチが話しかけてくる時だけ、私の意識は現在に引き戻される。それ以外は、まるで深い水の底に沈んでいるように、茫漠とした時間が過ぎていく。
夢と現の境を漂いながら、ひたすら過去に想いを馳せる。ここから救い出してくれる誰かを、半ば諦めながらも待ち続けている。
父さん、助けて。ここは狭くて暗いだけ。
リディア、どうして来ないの。話しかけてよ。どうして声が聞こえないの。あんたが先に言ったんだろ、私のことを――友達だって。
その時だった。遠くから、リディアの声が聞こえた。
「私が女型の巨人を継承する」
その一言は、やけに鮮やかに響いた。
やめろ。
やめろ、やめろ!!
そんなことしたって、何の意味もない!
声を大にして叫びたかった。
私は、私の友人を、そんな形で失いたくないと願っていた。
***
四年ぶりに暗闇から解放された直後、身体の感覚を取り戻すのに非常に手間取った。
まずヒッチに負けた。あれは油断があったから仕方がないことだと思ってる。
でも、それよりも意外だったのは、あの森でリディアが……あのどんくさいリディアが、本気で私を投げ飛ばしたこと。背中が地面に叩きつけられたとき、痛みよりも驚きが先に立った。
リディアが私に掴みかかった直後、世界が回転した。訓練で何度も経験した技だったが、今回は全く違っていた。彼女の手に込められた力は、あの頃の訓練とは違う。これは本気の怒りによるものだった。リディアの声にも、私が今まで聞いたことのない冷たい怒りが滲んでいた。
喧嘩はしばらく続いた。リディアが私を突き飛ばす。その勢いで、私は地面に腰をついた。しかし、物理的な痛みよりも、心の痛みの方がはるかに大きかった。
リディアに近付いた理由も負い目も、私にはどちらだって存在した。罪悪感も、利用する意図も、最初は確実にあった。でも。
声が震える。でも、言わなければならない。もうこれ以上、嘘をつくのは嫌だった。
「あんたのことは、傷つけたくなかった」
涙が頬を伝った。情けない。
「……友達、だったから……」
こんなところで泣くなんて。でも、もう感情を抑えることができない。
友達。その言葉がどれほど重いものかを、私は今になって理解したのだった。
私には、この四年間リディアが考えていたことなんて何も分からない。
でもきっと、リディアにも私の考えなど分からないだろう。彼女が一度しか訪ねて来なかったという事実。それが私をどれほど苦しめていたか、きっと想像もつかないだろう。一番大切な人の声が聞こえないことが、どれほど辛いことなのか。
でもきっと、それで良い。喧嘩の時間は、もう終わったから。正直もう疲れていた。感情を吐き出しすぎて、心が空っぽになっている。
***
天と地の戦いの後、リディアに料理を教えてもらうことになった。
正直、最初は耳を疑った。彼女に人に教えられるほどの腕前があるとは思えなかったのだ。
しかしアルミンが言うには、実はリディアは意外と器用らしい。サシャやヒストリアも、リディアに髪を整えてもらったことがあるとか。私が知らないところで、彼女は自分の世界をどんどん広げていた。でも、それが彼女らしいと思う。
キッチンに並んで立ち、彼女が用意してくれた食材を眺めた。野菜、肉、調味料。どれも見慣れた材料だが、これらをどう組み合わせて料理にするのか、私には見当もつかない。
「この前髪、違和感あるんだけど……髪を垂らしたままなのも、邪魔」
手鏡に映る自分の顔を見ながら、私はそう呟いた。いつもなら後ろに縛っていた髪が、今は肩に流れている。
戦いを終えて、連合国の代表として、正装を身にまとうことが増えた。そのためには、もっと身なりを整える必要があるらしい。私も今まで通りの髪型のままではいられなくて、幼い頃から慣れていたスタイルを変えざるを得なくなっていた。
「すぐに慣れるよ。よく似合ってる」
「あんたはそのままでいいの?」
私はリディアの髪を見る。おろされただけの髪が、無造作に肩に垂れている。
「切るか結うか、まだ悩んでて」
「今後のことはいいけど、今。料理するなら、長いと邪魔でしょ。束ねるくらいしたらどう?」
「えっと……じゃあ、アニがやってくれる?」
「は? 私にできるわけないでしょ」
「いいから」
リディアは屈託なく笑って、近くにある椅子に突然腰掛けた。昔と変わらず、私に何か頼むことを少しも躊躇していない。
私はリディアの後ろに立ち、その髪を見下ろした。サラサラとした手触りの髪が柔らかく光っている。でも、私には他人の髪の整え方なんてわからない。
「……」
とりあえず、毛束を一気につかんだ。乱雑にまとめて、一か所に束ね、手近にあった紐で縛る。雑で、不格好で、到底上手いとは言えない仕上がりだった。
「はい、終わり」
私がそう言って、リディアが手鏡を覗き込んだ。その瞬間。
「ねえ! これ、昔のアニじゃん!」
リディアがケタケタと笑った。その笑い声がキッチンに響く。
確かに、彼女の髪型はあの頃の私にそっくりだった。後ろで一つにまとめただけの、実用的で飾り気のないスタイル。
「笑うなよ……」
私は不機嫌そうに言ったけれど、内心では彼女の笑顔に安堵していた。
「でも、懐かしい。昔を思い出すな」
「そんなに昔じゃないでしょ」
「そうかな。私にとっては、すごく遠い昔みたい」
彼女の声が、少しだけ遠くなった。きっと、あの頃のことを思い出しているのだろう。先のことなど何も知らず、ただ一緒に訓練をしていた日々を。
私もつられて、あの頃を思い出していた。初めてリディアと出会った日。彼女が私に声をかけてくれた日。一緒にベッドで話をした夜。
「でも、今の方がいいかも」
リディアが突然そう言った。私は彼女の方を見る。
「今の方が、アニと、本当の意味で向き合えている気がするから」
その言葉に、私の胸が温かくなった。本当の意味で向き合う――確かに昔の私たちは、お互いを完全に理解していたわけではなかった。私は嘘をつき、彼女は私の正体を知らなかった。
でも今は違う。すべてを知った上で、私たちはここにいる。互いの痛みも、過ちも、すべてを受け入れて。
「……そうかもね」
私は小さく微笑んだ。自分でも驚くほど自然な笑顔だった。
リディアも微笑み返してくれる。その笑顔は、昔よりも深く、温かい。痛みを知った分だけ、優しさも増している。
「さ、始めよ」
リディアが立ち上がり、エプロンを身につける。
「まず、野菜を切るところから。アニ、包丁使えるかな?」
「馬鹿にしてる? あんたよりは上手いよ」
私は恐る恐る包丁を手に取った。刃物の扱いは慣れているはずなのに、なぜか手が震える。
「大丈夫、ゆっくりでいいから」
リディアが私の隣に立ち、そっと私の手を包み込むように包丁を支えてくれた。その温かさが、私の緊張を和らげる。
「こうやって少しずつ、一口サイズの棒状にして……」
彼女の指導のもと、私はゆっくりとパプリカを刻み始めた。最初はぎこちなかったが、だんだんリズムが掴めてくる。
「上手じゃない。さすがアニ」
リディアの褒め言葉に、私の頬が緩む。隣でリディアは子羊の肉を刻んでいる。
「次は玉ねぎね、つけあわせ用のじゃかいもも」
玉ねぎを切り始めると、目から涙が溢れてきた。
「泣いちゃった?」
「玉ねぎのせい」
リディアが心配そうに覗き込む。私は素っ気なく答えたが、声が少し震えていた。
「私もよく泣いちゃう。でも、慣れるとコツがあるよ」
彼女は優しく微笑みながら、口で息を吐きながら切る方法を教えてくれた。そのちょっとした技術が、確かに効果的だった。
二人で協力して材料を準備し、フライパンに火を点ける。野菜や肉に火を通して、白ワインを加えて――だんだん部屋に美味しそうな匂いが立ち込めてきた。
「アニ」
調理の合間に、リディアが私を呼んだ。
「何?」
「また一緒にいられて、嬉しい」
その言葉が、私の心の奥底まで響いた。涙が出そうになったけれど、こらえる。代わりに、そっと彼女の肩に手を置いた。
「……私も」
短い言葉だったけれど、そこには私の全ての想いが込められていた。失ったと思っていた大切なもの。もう戻らないと諦めていた日々。それらすべてが、今、ここに戻ってきている。
窓の外では、新しい世界が静かに息づいている。戦いは終わり、人々は新たな未来に向かって歩き始めている。
残ったジャガイモでつけあわせを作りながら、私は心の中で誓った。どんなに償えない過去があっても――私は歩き続けなければならない。私が取り戻した「日常」の代償は、いつかどこかで、支払う時が来る。
「アルコール、飛んだかな?」
リディアがフライパンを覗き込んで、調味料を加えている。湯気の向こうで、彼女の顔が柔らかく微笑んでいる。
「味見してみて」
彼女がスプーンで少しすくって、私の口元に持ってきてくれた。温かい味が口の中に広がる。野菜の甘み、肉の旨み、すべてが絶妙に調和している。
「美味しい」
「本当? よかった」
「次は……」
私の素直な感想に、リディアの顔がぱっと明るくなった。
「私が別の料理を覚えたら、あんたに作ってあげる」
私がそう言うと、リディアが嬉しそうに笑った。
「期待してるよ、アニ」
陽だまりのキッチンで、私たちは静かに微笑み合った。