「楽園の島の魔女」(完結)   作:雄魔雌

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沈まぬ太陽(ハンジ・ゾエ)

「では改めて確認を。今回の壁外調査は、シガンシナ区までの経路を作ることが主な目的。トロスト区の門は封鎖されているため、出発地点は……」

 

 机に広げられた地図の上を、細い棒が静かに滑っていく。

 

 調査兵団第四分隊、通称ハンジ班。

 モブリットに、ケイジ、アーベル、ニファ……いつもの彼らに加えて、新しい顔が並ぶ。訓練兵団を卒業したばかりの新兵、リディア・ノイマン。

 

 第57回壁外調査。班員への説明は全てモブリットに一任した。

 ウォール・マリア陥落後、壁外調査は頻度を増した。人類の活動領域が後退し、早急に補給地点を確保する必要があるからだ。

 私は再び机に目を落とし、地図上の線を目で追った。

 今回はカラネス区から出発し、エレンの生家があるシガンシナ区を目指す。

 

 ウォール・マリアの東側。以前の壁外調査で、このあたりに足を踏み入れたことがある。

 思い出す。あの個体に、あの捕獲作戦。

 記憶は、知識のようには整列してくれない。古い出来事なのに、引き出しが開けば、まずやってくるのは匂いと温度だ。巨人の蒸気の湿り気が、まだ指先に残っている気さえする。

 

「トロスト区から出る時とは、地形がまるで違うな」

 

 ケイジが地図を覗き込みながら言った。

 

「この差は陣形の維持にも影響する」

「煙弾による確実な伝達が重要になりますね」

 

 アーベルとニファが続いた。壁外の怖さを知っているからこその、冷静な声だった。

 

「リディア、煙弾については後で叩き込むからな。新兵は奇行種の発見時にパニックに陥りやすい」

「はい。お願いします」

 

 アーベルが静かに告げると、リディアは元気よく答えた。

 その様子に、モブリットは満足そうに頷く。

 

「補給地点の設定については……」

 

 そして棒の先が地図上で一点に止まり、次の地点へ滑る――が。

 

「いやぁ、東側って久々だね!」

 

 私が、身を乗り出してしまった。

 

「分隊長……」

「以前に東で捕獲した個体、覚えてる!?」

 

 棒の動きが止まった。

 モブリットは目線を動かさず、小さく息を吐いた。ああ、まただ――と分かる溜息。

 

「アルベルトとチカチローニですよね」

「その通りだよケイジ! あれは悔しかったなぁ……誤って殺してしまうなんて、本っ当に申し訳ないことをした」

 

 もはや私が追っているのは目の前の地図ではなく、頭の中にある巨人の動きだ。

 

「分隊長」

「チカチローニは膝の曲がり方が変わっていてね。普通は内側に力を溜めるけど、あれは外側。完全に外。つまり……歩行に適応しきれてない前傾型だったんだ! 重心の癖も、偏ってただろ?」

 

 私が自分の膝を叩きながら説明すると、ニファ、ケイジ、アーベルが、斜め上を見ながら記憶を探っていた。彼ら記憶の中で今、きっとチカチローニが走り出している。

 そう、そうだ。あの個体は何かに引き寄せられるように前へ、前へと進んでいた。まるで――

 

 その時、おずおずと手が上がった。

 リディアだ。地図と私たちを見比べ、言語化されない焦りが目に宿っている。

 

「あの、重心の癖って……どうやって分かるんですか……?」

 

 その質問が、この場の熱をひと呼吸だけ冷ました。班員たちは一斉に答える。

 

「肩の角度」

「つま先と顎の向き」

「筋肉の偏り」

「その通り。みんな全て正しいよ」

「な、なるほど……?」

 

 リディアは答えを聞いても、まだすぐには理解できないようだった。

 この距離感、新兵の頃の自分を思い出す。あの頃も、先輩たちの会話は別世界の言葉に聞こえた。

 

「アルベルトの方は、筋繊維の伸縮が特殊だったんだよ」

「筋……筋繊維の、伸縮ですか?」

「うん。暴走収縮のリズムが普通より速かった。収縮、発熱、蒸散。その循環がね」

 

 私は机をトン、トンと叩く。

 

「つまりアルベルトは、熱に身体を適応させようとする意識が他の子よりも強かった。息の荒さと蒸散量が物語ってる。巨人はね、ただ歩いてるだけじゃない。必死に身体を維持しながら生きているんだよ!」

 

 目の前のリディアが、なんとか話を理解しようと頭を回転させているのがわかる。

 逃げない目だ。この子は決して、理解を諦めない。

 

「表面温度も上がりますね」

「蒸散量が多いほど、活動時間も長くなる傾向があります」

「そう! 巨人は生物として矛盾を抱えてる。食欲と動作、破壊衝動と身体構造。その全部がズレてるんだ!」

 

 同じ話を、別々の角度から言葉にする。その言葉が噛み合った時、巨人の輪郭が僅かに光る。謎が少しだけ形を持つ。

 恐怖ではなく、観察を共有できる瞬間が、私は何より好きだ。

 

「生物としては欠損そのものが歩いていて、まさに奇跡のような――」

「分隊長」

「ん!?」

「作戦の話に戻ってもよろしいですか」

 

 振り返ると、モブリットが静かな目でこちらを見ていた。

 私の頭の中の火事を、見慣れている目。消そうとはしない。ただ、方向を変えようとする目。

 

 そうだった。今は作戦会議中だった。

 

「……悪かった。続けて」

「わかりました」

 

 素直に謝ると、小さな痛みが胸に残る。

 順番を間違えた。

 

 リディアに目をやると、彼女は驚きと尊敬が混ざったような目でモブリットを見つめている。

 ……私より、モブリットの評価の方が一段上がってしまったかもしれない。

 

「モブリットさん、すごい……」

「職人技ってやつ」

 

 リディアの小さなつぶやきに、ニファが真面目な顔で頷く。

 モブリットは笑わず、淡々と地図へ戻る。棒の先が動き出すと、室内の空気が「調査兵団」に戻った。

 私はそっとリディアに声をかける。

 

「リディア」

「はい」

「いずれ君にも見えるようになるよ。巨人の話も、班の空気も」

「……頑張ります」

 

 返事が早い。置いていかれまいとする必死さが透けて見える。その真摯さが、微笑ましい。

 

 彼女の声に、疑いと希望が同量で揺れている。安易に信じず、かといって諦めもしない。とても誠実だ。

 

「大丈夫。世界を知ろうとする人には、世界がちゃんと応えてくれるんだ」

 

 軽く、でも嘘にならないように言った。でもこれは慰めじゃない。確信だ。

 

「君のお父さんに、私もそう教わった」

 

 そう言うと、リディアの表情が少し緩む。目の奥に小さな灯りがともる。

 

「……はい!」

 

 この子はきっと、立派になる。いつか、私たちと同じように世界の謎に魅せられる。

 その日が来ることが、私は怖いほど楽しみだ。

 

「分隊長、聞いてますか?」

 

 モブリットの少し疲れたような声で、現実に戻る。

 

「聞いてる聞いてる! 補給地点の話でしょ?」

「……長距離索敵陣形の話です」

「え」

 

 班員たちの苦笑が広がる。ケイジは肩を揺らし、ニファは小さく笑い、アーベルは口角を僅かに上げる。その笑い方の違いが、また愛おしい。

 モブリットは深く息を吐いて、もう一度説明を始めた。今度こそ、私は集中する。

 ……多分。

 

 

 

 

「うん……?」

 

 目を覚ますと、団長の執務室だった。

 

「夢、か」

 

 執務室の窓から入る朝日が、やけに白々しく感じられた。

 夜の冷たさを微かに留めた空気の中で、机の上に積まれた書類だけが、まるで自分を押しつぶそうとする壁のように見える。

 

 溜息をつきながらペンを走らせる。

 一枚目を終えた頃には、既に肩が重くなり、三枚目に差し掛かる頃には背中まで痛んだ。

 

「えー……ワイヤーの素材変更による強化案について……」

 

 節々が軋む。昔なら、こんな痛みは意識しなかった。いつまでも顕微鏡を眺めていられたし、書類だって何時間も書いていられた。研究に夢中で、自分の身体の痛みですら観察の対象だったから。

 

「承認」

 

 書類の下部に署名する。

 第15代調査兵団団長、ハンジ・ゾエ。

 先代からの指名。間違いなく出世だ。積極的に望んでいたかと問われると、答えに詰まるが。

 

「次。んん、異動希望……?」

 

 肩を回すと、関節の鳴る音がした。いつからこんな音がするようになったのだろう。

 それでも私は手を止めなかった。止めるわけにはいかない。明日までにこの書類の山を片付けなければならない。

 

 公に奉仕する兵士たちの規範となり、彼らを束ねる者。

 それはエルヴィンが背負っていた重さで、今の私には、すがりついてくる亡霊のように感じられる。

 

 王政との交渉。駐屯兵団や憲兵団との連携。調査兵団の維持。予算の折衝。人事の判断。そして……死亡者報告。

 

 目を開けたまま夢を見られる人間などいない。誰かが目の前の現実を肩代わりしてくれなければ、夢を見たままで生きることなどできない。

 調査兵団というのは、得てして夢見がちな集団だ。だからこそ、そんな集団のトップというものは――誰よりも現実を背負わなければならない。

 

(本当に、私には向いていない)

 

 心の中で呟く。何度目かも分からない。でもそんな言葉を口にしてはならない。私が自分でこの椅子に座ると決めたのだから、文句を言う権利などない。

 

 書類の束に区切りがついた頃、ノックの音がした。

 

「入ってくれ」

 

 扉を開いて現れたのはリヴァイだった。ほとんど表情の変わらないその顔に、静かな陰りが見える。彼もまた、眠れていない目をしていた。

 

「ひでぇツラしてやがる」

「はは。ねぇ、団長に休暇ってあるのかな?」

「あるはずだが、お前に使う気がないだけだ」

 

 リヴァイが部屋を見渡し、山積みの書類に眉をひそめた。

 軽口を叩き合えば、昔と同じ空気が一瞬だけ戻る。だが、すぐに沈黙が落ちた。

 

 

 

 

 あの日、リヴァイはエルヴィンの解放を選んだ。だから今、私がこうして団長職を務めている。

 リヴァイはあの日の詳細を語らない。それでも私には、少しだけ察しているものがある。

 

 エルヴィンの最後の作戦。

 調査兵団への勧誘演説で「夢」を見せられた新兵たちに告げられたのは、死以外の選択が許されないという残酷な「現実」。

 もう、現実を肩代わりしてやれる団長はいない。目を開き、夢を捨て、共に死んでくれ――新兵たちは、エルヴィンにこう告げられたようなものだ。

 彼らのことを思うと、今も胸が掻き乱される。

 

 フロックはリヴァイの選択を糾弾した。きっと深く失望しただろう。あれは私情に流された選択だと。

 

「俺たちは夢を捨てて現実を選んだ。それなのに、上官が現実を見ずに感傷に浸るなんて」

 

 いつか、フロックがリディアにそう語っていた。

 リディアはただ黙って話を聞いていた。途中でアルミンに対する配慮のなさにこそ反論したが、フロックの意見そのものを決して否定しなかった。

 

 私も、彼の考えは間違いではないと思う。

 エルヴィンの代役を務められる人間などいない。それでも兵団は、今もエルヴィンのような司令官を必要としている。同じ水準の判断ができる者を求めている。

 

(でも、誰がリヴァイを責められよう)

 

 彼を恨む気持ちなど微塵もない。リヴァイはただ、あまりにも優しすぎるだけなのだ。

 そして私も、彼の選択を許した共犯者だ。リヴァイだけが責任を問われるのは違う。優しすぎる彼は、こんな寄り添いなど不要だと言い切るだろうけど。

 

 エルヴィンは太陽だった。月明かりも星の瞬きもない真っ暗な闇を、彼が白夜に塗り替えた。

 それでもリヴァイは白夜を終わらせた。本当は誰よりも、その夜に居たかったはずなのに。

 

 沈まない太陽があるから、私たちは道を失わない。

 今、自分の順番が来て、初めて理解した。その身を削りながら燃える太陽とは、こんなにも苦しいものなのか。

 

「ねぇ、リヴァイ」

「なんだ」

「エルヴィンの席って、こんなに広かった?」

「椅子の大きさなら同じだ」

「そういう意味じゃないよ」

 

 リヴァイが珍しく目をそらしたので、私は小さく笑った。

 肩を震わせて泣くことが許されない大人は、こうやって笑う。

 

 

 

 

 執務室を出て廊下を歩くと、誰かの声が聞こえた気がして、ふと立ち止まって振り返った。

 斜め後ろ。モブリットがよく控えていた位置だ。

 

 書類の束を受け取る彼の姿。呆れながらも的確に助言してくれる声。危ないとき、迷わずに庇う背中。

 いつも興味を優先して周りが見えなくなってしまう私を「公に奉仕する者」に引き戻してくれる存在。

 彼がいなければ、私はとっくに死んでいた。それも、一度や二度の話じゃない。

 

 でも、もういない。

 

 喉が詰まり、胸が痛んだ。

 

 私が歩みを戻すと、訓練場から若い兵士たちの声が聞こえてきた。そこにリディアの姿があった。奪還作戦で大怪我を負っていた彼女だが、最近はリハビリをこなしながらも訓練の一部に復帰するようになった。

 彼女は木剣を振るっていた。動きはまだぎこちないが、諦めない目をしている。

 

「ハンジさん、お疲れ様です」

 

 こちらに気付いたリディアが、汗をぬぐいながらこちらに駆け寄ってきた。

 

「眠れてないんですか? 目が真っ赤ですよ」

「うん、昨日は徹夜」

「仮眠室、整えてます。いつでも使ってください」

「え? 気が利くね」

「当然です。ハンジさんのことは、ハンジ班の皆さんから、しっかりと託されましたから」

 

 私が苦く笑うと、リディアも少し笑った。

 そしてその笑顔を見たとき、ふと――彼女の父親のことを思い出した。

 

 

 

 

 844年、壁外調査での出来事だった。

  樹々の隙間を縫うように風が吹き抜けていく。森はあまりにも静かで、巨人の気配すら遠く感じられるほどだった。

  だがここは、そんな穏やかさに油断していられるような世界ではない。

 

「ハンジ、前を見ろ。足を止めるな」

 

 低く、くぐもった声が響いた。

 第四分隊のノイマン分隊長だ。

 人当たりのいい笑みを浮かべることの多い男性だが、任務中は別人になる。声に刃が宿り、視線が鋭くなる。

 それでもその時の私は、彼の言葉を耳にしながらも、きちんと聞いていなかった。

 

「分隊長! さっきの巨人、見ました? 顎の形がちょっと変で……ほら、あれは恐らく……」

「ハンジ」

 

 名前を呼ばれると背筋が伸びた。彼は振り返らずに言った。

 

「馬に乗りながら喋るな。舌を噛むぞ」

「し、失礼しました。つい……」

 

 つい、だった。つい。

 巨人の皮膚の構造、筋肉の動き、歩幅。どれも私には宝石のようで、目を奪われる。危険だと分かっていても、好奇心の方が先に走ってしまう。

 観察したい。記録したい。理解したい。その衝動が、いつも私の足を止めてしまう。

 

 やがて、一行は森の奥へ踏み込んだ。鳥の鳴き声が途切れた。

 ――音が消える。巨人の気配が近い。

 

「二手に別れろ!」

 

 分隊長の声と同時に、森に鈍重な振動が走った。木々が揺れ、葉が舞い落ちる。次の瞬間、茂みを割って巨人が姿を現した。

 

「十二メートル級、一体!」

 

 鋭い号令とともに、兵たちは瞬時に立体機動を展開した。ワイヤーが空気を切る音。刃が鞘から抜かれる金属音。訓練通りの、完璧な動き。

 だが、前線に出るはずの私だけが一瞬遅れた。視線が巨人の腕の関節に吸い寄せられていた。

 

(あの関節の動き、おかしい。普通の十二メートル級じゃないように見える)

 

 肘の曲がり方が不自然だ。筋肉の収縮が左右で非対称だ。右腕の三角筋が異様に肥大していて、左は萎縮している。まるで、片方だけを使い続けた人間のようにも見える。

 

(奇行種の一種か? でも動きはそれほど変則的ではない。何か別の変異?)

 

 興奮が全身を駆け抜けた。こんな個体、見たことがない。

 確認しなければ。もっと近付いて……可能であるなら、捕獲も提案したい。

 

 気づけば、私は立体機動で巨人に必要以上に近づいていた。

 

(左腕の動き、やはり遅い……攻撃パターンも違う)

 

 「ハンジさん! 近すぎます!」

 

 モブリットの叫び声が聞こえた。でも、もう少しだけ。右腕は肥大している。だが動きは鈍い――そう思っていた。

 その腕が、いきなり振り上げられた。

 

(――速い!?)

 

 咄嗟にワイヤーを射出しようとした。でも、トリガーが固い。指が滑る。

 普段なら絶対にしないミスだ。握り方を誤るなんて、訓練兵でもやらない。

 

 ワイヤーが出ない。身体が宙に浮く。慣性で、巨人に向かって流されていく。

 巨人の手が迫る。大きく開いた掌。太い指。私を掴みにくる――。

 

(まずい)

 

「ハンジさん!!」

 

 モブリットの悲鳴のような叫び。

 そして次の瞬間――

 

「モブリット、下がれ! 俺が行く!!」

 

 怒鳴り声と同時に、強い衝撃が走った。

 私は地面に叩きつけられ、肺から苦しい空気が漏れる。視界が揺れる――分隊長の背中が見える。彼が私を突き飛ばし、そのまま巨人の腕に弾き飛ばされていた。

 

 彼の身体が宙を舞う。マントが、ひるがえる。

 

「ノイマン分隊長!」

 

 叫ぶ間もなく、巨人が分隊長のマントを噛んだ。

 

「待っ……」

 

 布が裂ける音。彼は木々の間へと引きずられていく。

 

「待って、ノイマン分隊長、待って!」

 

 追いすがるように走ろうとするが、足がもつれる。立体機動装置のトリガーに手をかけようとするが、指が震えて掴めない。

 慌てて掴んだ地面には、銀色の光が落ちていた。

 

 ブローチ。

 分隊長がいつも家族の話をするとき指で触れていた。小さな翼の形をした、安物の銀細工。

 

(妻がね、くれたんだ。俺がいつもマントの留め具を破損するから――)

 

 彼にとっては、何よりも大切なもの。

 

「……っ」

 

 私はそれを拾い上げる。冷たいそれは、信じられないほど小さかった。手のひらに収まるほどの、ちっぽけなもの。でもその重さが、私の手を凍らせる。

 

「ハンジ! 速く戻れ!」

 

 後方から仲間の声が飛んでくる。森の奥では、分隊長の悲鳴も、巨人の咀嚼音も、何も聞こえなかった。

 私は歯を食いしばり、振り返らずに走った。ただ握りしめたブローチだけは、決して手放さなかった。

 

(ごめんなさい、ごめんなさい……!)

 

 自分を庇って消えていった背中。

 娘の話をするとき見せていた柔らかい笑み。「うちのリディアはね、もう九歳になるんだよ」と嬉しそうに語る声。全てが胸の奥で渦を巻く。

 血に染まった銀の輝きだけが、過去を静かに照らししていた。

 

 

 

 

 分隊長の家はシガンシナ区にあった。

 キース・シャーディス団長と二人で、分隊長の死を告げる手紙と、形見となったブローチを届けに行った。扉を叩く音が、やけに重く響いた。私の手は震えていた。

 

 扉が開くと、出てきたのは痩せた女性だった。疲れた目をしている。夫の帰りを待ち続けて、もう何日も眠れていないような顔だ。

 

「調査兵団の……」

 

 団長が静かに頭を下げた。その動作だけで、女性の顔色が変わる。

 

「あの人は……」

 

 声が震えている。答えを知りたくない。でも聞かなければならない。その葛藤が、彼女の表情を歪ませていた。

 団長が手紙を差し出す。受け取った彼女の手が、小刻みに震え始めた。封を開ける音が、静寂を切り裂く。

 

 彼女は手紙を読んだ。

 一行目で、顔が青ざめた。二行目で、唇が震え始めた。三行目で――

 

「あ……あぁ……!」

 

 声にならない悲鳴が漏れた。

 手紙が床に落ちる。彼女は膝から崩れ落ち、両手で顔を覆った。肩が激しく震える。喉の奥から、獣のような嗚咽が絞り出される。

 

 彼女は呼吸を乱しながら、床を叩いた。何度も、何度も。

 私は動けなかった。ブローチを握りしめたまま、ただ、そこにいた。

 

「これを……形見として」

 

 キース団長が私に目配せした。私は震える手でブローチを差し出す。

 女性はそれを見た。一瞬、動きが止まる。そして――

 

「いりません!」

 

 叫ぶと同時に、彼女は私の手を払った。ブローチが銀色の軌跡を描いて、床を転がる。

 

「そんな……そんなものが、あったって……!」

 

 彼女は床に倒れ込み、声を上げて泣いた。言葉にならない悲しみが、部屋中に響き渡る。団長が私の肩を叩き、無言で、外に出るよう顎で促していた。

 

 

 

 外に出ると、空気が冷たかった。

 吐く息が白く凍る。手が震えている。胸が苦しい。喉の奥に何かが詰まっていて、呼吸がうまくできない。

 

 家の裏手に回ると、一人の少女が座っていた。

 一人娘のリディアだった。

 彼女は石段に腰掛け、ぼんやりと空を眺めていた。母親の泣き声が壁越しに聞こえているはずなのに、表情一つ変えない。ただ、じっと空を見つめている。

 

 私は彼女の隣に座った。石段の冷たさが、腰から背中へと這い上がってくる。

 

「君の父は……私をかばったんだ。巨人にマントを噛まれて、森の奥に持っていかれて……」

 

 どう言えばいいのか分からなかった。でも、嘘はつけない。だから、事実だけを告げた。言葉が喉から出るたびに、胸が締め付けられる。

 

 リディアは空を見たまま、小さく頷いた。

 

「そう、ですか」

 

 その声に、感情は宿っていなかった。まるで他人事のように、淡々としている。

 風が吹いて、枯れ葉が足元を転がっていく。家の中から、また嗚咽が聞こえた。リディアは瞬きもしない。

 

「父は、行方不明になっているだけかもしれません」

「え?」

 

 しばらくの沈黙ののち、リディアから予想外の言葉が漏れた。

 

「まだ、食べられていないかも」

 

 彼女は初めて私の方を向いた。その目に、僅かな希望の光が宿っていた。

 

「父がよく言ってました。壁の外で行方不明になった人は、巨人に食われたとは限らなくて。今もどこかで……彷徨っているんじゃないかって……」

 

 その言葉が、胸に深く刺さった。

 分隊長は、娘に……そんな残酷な希望を、握らせていたのか。

 

「……そうか。彼は、そんなことを……」

「父が食べられたところ、誰も見てないんですよね」

 

 少し間を置いて、リディアは続けた。

 

「だったら、可能性は、あります」

 

 私は何も言えなくなった。

 否定することもできない。肯定することもできない。ただ、彼女の小さな希望を奪うことだけは、できなかった。

 

「私、調査兵団に入るつもりです」

 

リディアの声が、少しだけ強くなった。

 

「父は、死んでいるのかもしれないけど……」

 

 空を見る目に、意志の光が宿る。

 

「それでも、私も。行方不明の人を、探しに行きたいんです」

 

 その言葉を聞いて、私は理解した。

 立派な背中、強い言葉、優しい嘘。全てが、この子の世界をずっと照らしていた。

 

 父親が死んだ可能性を聞かされても、この子は諦めていない。沈んだはずの太陽を追いかけて、壁の外へ行こうとしている。壁の向こうに消えた光を、もう一度掴もうとしている。

 

(私は……この子から、父という太陽を奪ってしまったのか)

 

 私はリディアの頭に手を置いた。小さな頭が、手のひらの下で温かい。

 

「訓練兵を卒業するときには、スカウトに行くよ」

 

 その言葉が、自然と口から出ていた。

 

「私と一緒に働いてほしい」

 

 リディアは小さく頷いた。その目に涙は浮かんでいなかった。

 

 家の中から、今も母親の泣き声が聞こえてくる。壁一枚隔てた向こうで、誰かが世界の終わりを嘆いている。

 この勧誘は、正しくないのかもしれない。リディアの母親を裏切るような行為であることは間違いない。

 

 それでも私は立ち上がり、空を見上げた。

 太陽の光が眩しすぎて、目が痛かった。

 

 

 

 

「ハンジさん、入りますよ」

 

 ノックの音で目を覚ました。

 仮眠室の扉の外から、リディアの心配そうな声が聞こえてくる。身体が重い。首が痛い。どれくらい眠っていたのだろう。

 扉が開き、リディアが顔を覗かせた。

 

「おはようございます」

「ありがとう。……今、何時?」

「もうすぐ陽が沈みます」

「……寝すぎた……」

 

 窓の外を見ると、オレンジ色の光が部屋の隅を染めていた。夕暮れだ。あれから、何時間経ったのだろう。身体を起こすと、背中が痛んだ。

 

「お茶、淹れました。温かいうちにどうぞ」

 

 リディアが小さなトレイを持って入ってきた。湯気が立ち上る湯呑みと、簡素な菓子が載っている。その気遣いが、妙に胸に沁みた。

 

「ありがとう」

 

 カップを手に取ると、温かさが手のひらに広がる。一口飲むと、身体の芯が少しだけ温まった気がした。

 

「無理、しないでくださいね」

 

 リディアが心配そうに言う。その目が、あの日の少女と重なる。

 

「大丈夫。これくらい、慣れてるから」

 

 この笑顔がどれだけ嘘くさいかは分かっていたが、それでも私は無理やり微笑んだ。

 リディアは何も言わず、ただ静かに頷いた。

 

 

 

 

 どれだけの時が流れただろう。

 イェーガー派のクーデターがあり、マーレ軍の奇襲があり、エレンが始祖の力を掌握し、壁は崩壊した。

 

 裏切りがあった。仲間が死んだ。絶望があった。

 この一瞬の間にも、世界は塗り替えられている。私たちは必死で世界の速さにしがみつきながら、今――こうしてオディハの港にいる。

 潮の匂いが鋭く鼻を刺す。飛行艇の整備音が響く港で、私は海を眺めていた。

 

「ハンジさん」

 

 背後から声がして、振り返ると、リディアが立っていた。

 

「整備は順調に進んでます」

 

 報告のあと、彼女は少し言い淀み、それから言葉を継いだ。

 

「……しんどいときの顔、してますよ」

 

 その一言に、思わず苦笑が漏れる。

 

「そっか、ごめん」

「いえ」

 

 自嘲気味に笑う私に、リディアは首を横に振った。短い言葉の奥に、隠された何かが宿っていた。何か言いたいことがあるのだろう。

 私は海から目を戻し、しっかりとリディアと向き合った。

 

「……さっきの話が、まだ胸に残っててね」

 

 思い切って口にする。喉の奥につかえていたものを、ようやく吐き出すように。

 

「イェレナは、安楽死計画の正しさを認めろと言って折れなかった」

 

 

 

 

 ベッドの上で、イェレナはすっかり弱りきっていた。

 

「ジークは敗れましたが、安楽死計画は正しかった」

 

 彼女の声に、怒りも悲しみも無かった。

 

「少なくともこれは、今起きているような虐殺ではなかった」

 

 虐殺。その言葉は、部屋の空気を凍らせた。

 

「認めてください。生まれなければ苦しまない……最も合理的で、最も優しかったはずの、ジークの答えを」

「確かに、理屈としては分かるよ」

 

 私は静かに答えたが、その先の言葉が続かなかった。

 イェレナは、私をまっすぐに見据えた。その目には、どこか哀れむような色が浮かんでいた。

 

「生まれてくる子が必ず苦しむなんて、どうして言い切れるの」

 

 イェレナの問いに、リディアが応じた。彼女の拳はわずかに震えていた。

 

「証明など不要です。生まれる前なら人間ではない。自由意志を持たない子種を処分したところで、罪にはならない」

「処分、だと」

「生まれる前なら殺人じゃない、なんて……!」

 

 リディアが唇をかみながら呟く。それは「論理」として語るには、あまりにも残酷な響きを持っていた。

 そのときだった。

 

「……人間じゃねぇ、か」

 

 低い声が、部屋の空気を削り取った。

 近くの椅子に腰掛けていたリヴァイが、腕を組んだまま指先に力を込めた。節が白く浮き上がる。

 

「胎児は人間じゃねぇってことか。ずいぶん都合の良い線引きだな」

「誤解です。安楽死計画は授かった命に手をかける計画ではありません。そんな非道な行為は私にも理解できません」

 

 イェレナは冷静に否定した。その声には、わずかな怒りさえ混ざっていた。自分の理屈を侮辱されたことへの怒りだ。

 

 リヴァイは、椅子も壁も殴らない。それでもただ、真正面からイェレナを射抜くように睨みつける。

 

「反出生を掲げる君が、人間の尊厳を語るのか」

「……私は厳密には反出生主義者ではありませんが……まぁ、もう。いいです」

 

 私が皮肉混じりに言うと、彼女は少しだけ肩を落とし、小さく息を吐いた。

 

「生殖の可能性そのものを止める。そもそも生まれないという選択肢を与える。それのどこに罪があったのですか」

 

 そして彼女は、再び私を刺し貫くように言った。

 

「ハンジさん。あなたはずっと迷っている。団長という『公』を背負いながら、心は『私』を捨てきれない」

 

 図星を突かれた。

 言葉が喉に詰まる。

 

「私の問いにも答えられず、立場も思想も中途半端なまま。その迷いの中で部下を従わせ、死地へ送り続けている」

「……イェレナ、黙りなさい!」

 

 リディアが声を上げたが、私はイェレナに反論できなかった。

 図星というのは、時に刃物より鋭い。

 

「それでも」

 

 私は、ようやく喉の奥に引っかかっていた言葉を絞り出す。

 

「生まれる命は、選べるんだよ」

 

 その一言に、自分でも驚くほど熱がこもっていた。

 

「どう生きるか、何を守るか。何に失望し、何に希望を抱くか。生まれたからこそ、選べるんだ」

 

 言葉が身体の奥からせり上がってくる。止められなかった。

 そう――この世界がどれだけ残酷でも、選択する自由だけは、生きている者のものだ。

 

「……もういいでしょう。生まれなければ苦しまない。この議論は無意味ですね」

 

 イェレナは静かに首を振り、会話を打ち切った。

 

 

 

 

 

「あのとき、ハンジさんが認めたのは安楽死計画の是非ではありませんでしたね」

 

 リディアの言葉が、静かに港の空気を切った。

 

「……ああ、そうだよ」

 

 私は海を見たまま答えた。波の音だけが、やけに大きく聞こえる。

 

「私が認めたのは……代わりを示せなかった、自分の無力さだけ」

 

 笑ってみせたが、その声は弱々しく震えた。自分でも情けなくなる。それでもリディアは、まっすぐに私を見ている。その視線から逃げることができない。

 

「私たちさ、お花畑に住んでるって言われても仕方ないよね」

 

 私は自嘲気味に続けた。

 

「こんな団長じゃ、理想なんて語ったって笑われるだけだ」

「……ハンジさん」

 

 リディアの声が、優しく響いた。彼女はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと言葉を継いだ。

 

「それは違います」

「ん?」

「違います。ハンジさんは最後まで、色々な可能性を選ぼうとしていた」

 

 予想外の否定に、私は思わずリディアを見た。彼女の声には、確かな強さがあった。

 

「代わりを示せなかったから無力だなんて、絶対に違います」

「君は……相変わらず、優しいね」

 

 私は少し笑った。でも、その笑顔は歪んでいたかもしれない。

 

「ハンジさん。私、『他に方法がなかった』とか『仕方なかった』って言葉……すごく嫌いなんです」

 

 彼女の声が、少し震えた。

 

「……どうして?」

「選択や責任から逃げるための言葉だからです」

 

 彼女の口調に、ただならぬものを感じた。

 

「自由を捨てた証みたいで……『仕方なかったよね』って言われた瞬間、人間じゃなくなる気がするんです」

「人間じゃなく……って、それは……」

「選ぶことすらできない存在だと見なされる。それは見捨てられるのと同じです」

 

 言葉が続かない。何を言えばいいのか分からない。

 

「エレンだってそうです」

 

 私は眉をひそめた。その言葉の重さに、胸が締め付けられる。

 

「彼も、『仕方なかった』なんて、絶対に言われたくないと思います。そんなこと言われたら、彼は世界で一番不自由な存在になる」

 

 リディアは話を続けた。

 

「エレンが一番嫌うのは……自身の自由を否定されることですから」

「……ああ、そうだね」

 

 私は小さく頷いた。エレンの強い緑の瞳が、脳裏に浮かぶ。

 

「まぁ、ジークは……わかりませんけど」

 

 リディアはそう言うと、ふっと視線を落とした。心の中で、何かを整理しているのだろう。

 私はその時間を、静かに待った。

 

「私、シガンシナ区で……」

 

 リディアが口を開く。

 

「ずっと復讐したかったはずの相手、ライナーと対峙して。彼を切りつけそうになった時、そこでやっと気付いたんです」

「気付いた?」

 

 私は促すように聞いた。リディアの横顔が、少し強張っている。

 言葉を切ると、リディアは海へ視線を投げた。その遥か先、見えない何かを見つめるように。波の音が、静かに響いている。

 

「地鳴らしも、安楽死計画も……全部、自殺なんだって」

 

 ――自殺。

 その一言が、世界の意味を反転させる。私は息を呑んだ。

 

「自殺……?」

「そうです」

 

 私はその意味を噛み締めるように、言葉を繰り返した。リディアが頷く。

 

「周囲を巻き込んだ、盛大な自殺。殺意の森を彷徨った迷子の選択」

「……かなりきつい言い方だね」

 

 思わず口からこぼれた。けれど否定はできない。彼女の言葉はまっすぐだった。嘘が一つもない。その真摯さが、痛いほど伝わってくる。

 

「だけど、どれだけ追い詰められていようが、最後に選ぶのは自分自身です」

「……なるほどね」

 

 私は小さく呟いた。

 リディアの言っていることを完全に理解したわけじゃない。でも、分かる部分もある。

 確かに、エレンは自分でこの方法を選んだのだ。誰かに強制されたわけではなく、自分で。

 

「エレンは、周りを巻き込んで自殺することを選んでしまった」

 

 リディアの声が、少し強くなった。

 

「だったら……私たちが、止めてあげなきゃ」

「……だけどね、リディア」

 

 私は言葉を選んだ。慎重に、けれど逃げずに。

 

「止める手段が、殺すことしかなかったら? それでも?」

 

 波の音が、二人の間を満たす。リディアは少しの間、何も言わなかった。その沈黙の中で、彼女の中にある決意が固まっていくのを感じた。風が吹いて、彼女の髪が揺れる。

 

「それでも……」

 

 彼女は私をまっすぐに見た。

 

「それでも、自殺なんか許しちゃいけないんです。たとえエレンを殺してでも、私は彼の自殺を止める」

 

 一拍の間。

 その言葉を聞いた瞬間、何かが込み上げてきた。

 波の音だけが聞こえた。胸の奥で、何かが音を立ててひび割れる。

 

「は、はは……っ!」

 

 私は思わず吹き出した。

 もう、笑うしかなかった。涙が出そうなのを、笑いで誤魔化すしかなかった。

 

「実に矛盾してる。君は矛盾の塊だ!」

「……どうぞ、笑ってください」

 

 リディアも少し困ったように笑った。

 

「殺してでも自死を止めるって……君さ、本当におかしいよ!」

「私、巨人を殺しながら、壁外の迷子を救いたいとか言ってたんですよ。結局、今も変わってない。成長してないんです」

「ああ、もう……!」

 

 こぼれ落ちそうな涙を必死で堪えながら、私は笑った。目頭が熱い。でも泣けない。笑うしかない。

 

「でもね、それでもいいと思う。矛盾してるからこそ人間なんだ。完璧に筋が通ってたら、それはもう機械だよ」

「……ハンジさん」

 

 リディアの目が、少し潤んだ。

 

「君をこんな風にしちゃったの、誰だろうね」

「ハンジさんですよ」

「え、私?」

「はい」

 

 予想外の答えに、私は笑いを止めた。

 リディアは小さく笑った。その笑顔が、少し悲しげだった。

 

「みんなには、まだ言えませんけど。……エレンを殺すつもりだなんて」

「今すぐに言わなくていいよ。決断の時は、適切な時に訪れる」

「……ありがとうございます」

 

 私がリディアの肩に手を置くと、彼女は小さく頷いた。

 そして、少し間を置いて、続けた。

 

「あと、ついでに言うと……『人類を救う』なんて言葉も、どうかと思うんですよね」

「へ? どういうこと?」

「散々人を殺しておいて。それでいて『人類』なんて大きな分類にすり替えた挙句、突然上から目線で救うだなんて。虫が良すぎる話じゃないですか?」

 

 それは予想外の言葉だった。

 リディアの口調が強くなっている。しかしそれは怒りではなく、彼女なりの正義の形だった。

 私は苦笑した。言われてみれば――そうだ。

 

「でも、みんなそう思ってるはずです。アルミンも、ミカサも、ジャンも、コニーも。この言葉は私たち調査兵団に刻まれた呪いであり、宿命です」

 

 リディアは拳を握りしめた。

 

「だから今、みんな敢えてその言葉を使ってる。額面通りに受け取ってるような馬鹿がいたら、殴ってでも目を覚ましてやりますよ」

「おお……怖い、怖い。今日はいつもより毒舌だね。どうしちゃったの」

「そう……ですね。だって、フロック……イェーガー派だって、同じようなスローガンを掲げているわけですから」

 

 その名前を聞いて、私は少し表情を曇らせた。

 

「私たちだけが正義だなんて。そんな愚かなこと、今さら言えません。そんな言葉よりも、私は……」

 

 リディアが少し声を震わせる。

 

「生まれてきてよかったって、もっと伝えたい」

 

 そして。

 

「だって。生まれてこなければ、ハンジさんにも会えなかったから」

 

 彼女は、まっすぐに――私を見た。

 

「あなたに怒られたり、褒められたり、笑われたり。そういうの何ひとつ知らないまま終わるなんて。そんな人生、つまらないですよ」

「リディア……」

「私、ずっと苦しかったです。大好きだった人は裏切り者で、私のことなんか好きでもなんでもなくて。父も母もいなくて。大怪我で戦えなくなって……死にたいと思ったこと、何回もありました」

「……うん」

 

 私は小さく言った。喉が、詰まる。

 

「でも、不思議と……生まれてこなければよかったなんて、一度も思ったことはないんです」

 

 リディアは少しだけ微笑んだ。

 

「私には、みんながいました。いつも誰かが、困ったときに手を伸ばしてくれました。……最初に手を差し出してくれたのは、ハンジさんですよ。忘れちゃいましたか?」

 

 記憶を辿るが、思い当たらない。私は首を傾げる。

 

「ハンジさんが、父の死を知らせに来たあの日」

「あっ……」

 

 その言葉に、あの日の記憶がはっきりと蘇る。

 石段に座り、空を見上げていた横顔。声を失っていた、小さな背中。

 

「一緒に調査兵団で働こうって、ハンジさんが言ってくれたから。悩み事だらけの迷路の中で、あなたという光を追いかけて――私はここまで来てしまった」

 

 あの日、シガンシナ区にいた……壁の中の少女。

 

「私を迷子から救ってくれたのは、あなたです」

 

 その言葉に、全てが詰まっていた。

 イェレナが語った「生まれる前に終わらせる慈悲」とは正反対。それは生きる意味の肯定だった。

 

「だから、ハンジさん。団長という肩書きの重みで、心を潰さないで」

 

 リディアは小さく息を整え、続けた。その目は涙を湛えながら、それでも笑っていた。

 

「好奇心のまま突き進むあなたが、私は大好きです。巨人を前にして目を輝かせていたハンジさんが、ずっと私の憧れでした」

「……」

「団長の役割を求められるのは当然です。でも、自己犠牲の果てに、自分の理想まで手放さないで。夢も責任も捨てないハンジさんは、ずっと……私にとっての太陽なんですから」

 

 その言葉を聞いた瞬間、何かが弾けた。

 

「……っ」

 

 胸の奥で、ずっと押し込めていた何かが溢れ出した。

 

「……ありがとう、リディア」

 

 やっと絞り出した言葉は、それだけだった。でも、それで十分だった。

 

「本当に、ありがとう」

 

 私は彼女の頭に手を置いた。あの日と同じように。でも今は、その手が震えていた。

 

「ねぇ。私、そんなに苦しそうに見えてた?」

「はい」

 

 即答だった。その率直さに、思わず笑ってしまう。

 

 太陽は沈まない。

 誰かがそう思ってくれる限り、その光は消えないのだ。

 

 

 

 

 地面が揺れている。熱風が頬を焼く。巨人たちが視界いっぱいに迫っているのに、今、胸がすっと軽くなっている。

 

 とうとう、私の順番が来た。

 

 巨人研究に没頭して、笑って、怒って、騒いで。

 あの頃の私は、私そのもので生きていた。好奇心のまま走り、疑問を追いかけ、発見に歓声を上げた。誰に遠慮することもなく、ただ知りたいという衝動に従って。

 

 団長になった瞬間から、全部後ろに押しやったつもりだった。

 自分の好奇心より、兵団の存続。自分の夢より、仲間の命。自分の感情より、冷静な判断。

 

 ねぇ、エルヴィン。

 あなたは、どうやってあの広すぎる席に座り続けていたの? 誰にも見せない孤独を抱えながら、どうやって太陽であり続けたの?

 

 ねぇ、モブリット。

 あなたは、どうしていつも私を夢から現実に引き戻してくれたの? 呆れながらも、諦めずに、何度も何度も。

 

 聞いてよ、リヴァイ。

 リディアがね、私のことを、太陽だって。生まれてきてよかった、と言ってくれた。私に会えてよかった、と。

 冗談じゃないよ。そんな真っ直ぐな言葉を受けて、どうして涙を堪えられるっていうんだ。

 

 私は、子供を残すという形では、命を繋ぐことはできなかった。

 でもね。命って、血だけで繋がるものじゃない。

 価値観や、眼差しや、生き方。「こうありたい」と願う気持ち。そういうものだって、次の誰かに渡せるんだ。

 

 モブリット、あなたは正しかったよ。「リディアを娘のように思っている」なんて言われた日、さすがに年齢を考えろって睨み返したけど。

 あれは、あながち間違いでもなかった。

 

 私はあの子に、生き方を託したかったんだ。好奇心のまま生きること。世界を知ろうとする勇気を持つこと。そして――選び続けることを、諦めないこと。

 

「……第四分隊、ノイマン分隊長」

 

 うん。いい響きだ。

 

 不思議なものだ。死が目の前に迫っているのに、こんなにも心が澄んでいる。

 私は今、誰よりも高い場所にいる。

 まるで太陽のように。

 

「……やっぱり巨人って」

 

 熱で視界が揺れる。身体が軋む。でも、私は笑っている。心の底から、笑っている。

 

「素晴らしいな」

 

 巨人の群れに突っ込んでいったのは、自己犠牲なんかじゃない。ましてや決して自殺なんかじゃない。

 これは、私が私であるために選んだこと。

 最後に私は、夢と現実の両方を選んだ。これは団長の果たすべき現実的な責任であり、巨人と向かい合って、その群れの中に飛び込んで彼らを理解するという、夢のような世界。

 

 

 私は今、目を開いて現実を見据えたまま。それでもずっと、夢を見ている――

 

 

 世界の理不尽に抗い続けた末、最後に選んだ「私自身の答え」。

 調査兵団という、呆れるほどにおめでたい理想を求め続けた仲間たちとともに、歩み続けた日々。

 

 ああ、本当に。

 

 ――生まれてきて、よかった。




お久しぶりです。
考察の垂れ流しのような番外編になってしまいました。
それでもハンジの最期に納得したかったのと、散々人を殺してきた兵士が「人類を救う」という言葉を選ぶ是非について、ずっと書きたかったんです。イェーガー派だって人類を構成するうちの一人ですから、それでもあえて使うんだったら、オリ主にも相応の覚悟がないとね。
また、捜索掲示板での作品紹介もありがとうございます。作品を気に入っていただけて本当に嬉しいです。
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