メインキャラはフロックです。ライナーや調査兵団の主力メンバーは終盤までほとんど出てきません。本編とはノリが非常に異なりますので、無理せず体調の優れない時は閲覧をお控えいただくことをおすすめします。
EP.1 Prologue(目印のある死体)
自由って、大好きな言葉のはずだったのに、どうしてこんなに怖いんだろう。
誰にも命令されない。誰の顔色も見ない。好きに生きていい。そう言われた瞬間、胸の奥が軽くなる人もいるのだろう。
でも、私のように足元が抜けてしまう人もいる。支えが消えるからだ。立体機動装置を取り上げられた壁の上で、いきなり「自分の足で飛べ」と言われるようなものだ。
自由への解放は、孤独の始まりだ。だから人は、自由を手に入れると逃げたくなる。矛盾しているようで、よくある話。私が兵士になった理由も、結局はそういうことだった。
十歳の頃から、頭の中で私を支え続けてきた言葉がある。
家族の死と故郷からの追放という事実が唐突にもたらした「自由」は、何よりも恐ろしい存在で。ただ壁の中でぼんやりと生きていた少女時代の私が耐え切れるようなものじゃなかった。
だからこそ、目先の分かりやすい感情に身を寄せた。この残酷な世界で、自分を考えなくて済むための、唯一の依存先。
それが「鎧の巨人への復讐」。
兵士になって戦えば、迷わなくていい。正解は単純。巨人を殺せばいい、それだけ。
殺せば、自分は無力じゃないと錯覚できる。兵団の言葉を自分の言葉みたいに語れば、みんなと同じになる。服も、言葉も、価値観も。全部まとめて、兵士になる。
違いを消せば、孤独の恐怖は薄まる。けれどそれで得られる安心は、代わりに「私」を薄くする。
じゃあ、自由って、何なんだろう?
もし自由が「何をしてもいい」だけなら、それは白紙だ。文字の一つも書かれていないページを渡されて、「好きに物語を始めていい」と言われる。可能性は無限。でも、最初の一行を書けるのは私だけだ。
最初は気楽かもしれない。でも、やがて息が詰まる。誰も導いてくれない白紙の重さに潰される。
結局のところ、自由っていうのは「何をしてもいい」という放縦じゃない。「自分の生を、自分の行為で形にし続ける」という呪いだ。
恐怖をごまかすために権威に膝をつくか。空気に溶けて自分を消すか。それとも、怖いまま……選ぶか。
自由は、誰かから与えられるプレゼントじゃない。毎日「自分を生きる」という、地味で重たいばかりの、地獄のような作業の名前だ。その地獄を引き受ける決意を、希望と呼ぶ人だっているもしれない。
だからこそ、この物語は。
私が、私自身の自由のもとに――自分で始めた物語だ。
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854年。
地鳴らしから半月が経過し、マーレ軍との最前線であったシガンシナ区には奇妙な静けさだけが残っていた。
憲兵ヒッチ・ドリスは、粉々になった石畳を踏みしめながら歩いていた。砕けた瓦礫がブーツの下で小さく弾け、乾いた音を立てる。戦争は終わり、巨人は消え、エレンは死んだ。それでも終わらないものが残っている。行方不明者の捜索、遺体の収容、身元の確認。
「ヒッチ、こっちだ」
前方で、崩れ落ちかけた家の影から同僚が手を振った。ヒッチは深く息を吐き、背筋を伸ばして歩みを早めた。もう死体を数えるのはやめた。今も街中のどこかに、誰かの死が転がっている。数えてしまえば、心のどこかが壊れそうになる。
「誰かいたの?」
「奥の部屋に。女性だ」
「巨人の犠牲者って感じじゃなさそうね」
家の中は、外よりも静かだった。
ヒッチの鼻を、甘く重い腐臭が打った。湿った土の匂いに似ているが、それよりも肌に貼りつくような生臭さだ。割れた窓から朝の光が差し込み、舞い上がる埃を白く浮かび上がらせる。傾いた柱が、風に軋むたびに弱々しく揺れた。
奥の部屋は特に酷かった。外気がほとんど入らず、ベッドの周囲に、脂肪が溶け出したような匂いがこもっている。ヒッチは思わず口元を押さえ、浅く息を吸った。
小さなベッドの上――遺体はそこに横たわっていた。
「腐敗が進んでる。発見が遅れたな」
同僚の声は、部屋の静寂に吸い込まれるように低く響いた。ヒッチは眉をひそめながらベッドに近づく。
調査兵団の制服だ。硬い布の上からでも、胸元を撃ち抜いた銃創がはっきりと分かる。即死だったのだろう。乾いた血が服と床に黒褐色の跡を作り、そこだけ時間が止まったように沈んでいる。
だが不可解なのは、遺体の扱いがあまりにも丁寧だったことだ。髪は乱されておらず、両手は祈るように胸元へ整えられ、シーツは皺ひとつなく整えられている。枕元にはぬいぐるみまで置かれている。
「誰が、こんな……」
ヒッチは息を呑み、ゆっくりと遺体の顔を覗き込む。
皮膚はたるみ、目元は潰れて形を失い、鼻梁は崩れていた。どれほど探しても、そこに個人を示す面影は見当たらない。けれど体格は小柄で、骨の出方は繊細だ。若い女性。それだけは確信できた。
「身元は?」
「まだ分からない。でも、これを」
同僚が遺体の左手を指差す。薬指に、古びた指輪が固く嵌まっていた。
「既婚者? 調査兵団で、若くて……そんな子いたかしら」
「どうだろうな。ただ、刻印があるなら手がかりになる」
ヒッチは手袋をはめ、慎重に指輪をつまむ。そっと回してみる。しかし、死後の膨張で浮腫んでしまったせいだろうか。指輪は皮膚に食い込むほど固く、まったく動かなかった。
「無理に外さなくていい。そのまま記録するぞ」
「分かってる」
ヒッチは手帳を開き、淡々とメモを取った。
――発見場所:シガンシナ区・住宅地
――身元不明の女性
――調査兵団の制服
――左手薬指に指輪
――胸部に銃創
記録し終えた瞬間、ヒッチはもう一度遺体に目を向けた。この女性がどんな人間だったのか、どんな人生を送ってきたのか。何ひとつ分からない。ここに一人、名前のない死体があるだけだ。
ヒッチが静かに息を吐いたその時、家の外から声が飛び込んできた。
「憲兵さん! ちょっとよろしいですか!」
突然の呼び声に、ヒッチは思わず振り返った。玄関の向こうに、記者らしき男が立っていた。手にはノートとペン。埃を払う気配もなく、興味と後悔と焦りを混ぜ合わせたような目をしている。彼は遠慮もせず、ずかずかと部屋の中へ入ってきた。そしてヒッチと同僚の横に並ぶと、遺体を一瞥し、鼻をすぼめた。
「うわ、腐ってますね」
「取材? 後にして。今は捜査の邪魔」
ヒッチが刺すように言うと、男は肩をすくめた。
「鼻が曲がる。こりゃひでえ」
「言い方ってもんがあるでしょ、あんた」
「すみません、でも邪魔をしたいわけじゃなくて」
記者は視線を遺体へ戻す。冷たいはずの表情なのに、どこか痛みを堪えるような影が見える。
「見ておきたいんですよ。亡くなった人たちを、きちんと『誰か』として記録したい」
「へえ。記者らしい綺麗事ね」
ヒッチは鼻で笑ったが、記者は続ける。
「確かに……綺麗事です。自分はイェーガー派を持ち上げる記事ばかり書いてましたから」
男はわずかに目を伏せた。
「地鳴らしが終わって、街がこんな姿になって。急に自分の書いてきた言葉が怖くなったんです。本当に正しかったのか? なんて。今さらですがね」
「……そう」
「だから記録したい。地鳴らしで何が起きたのか、誰が死んだのか。一つ一つをこの目で確かめて、島の人々に伝えたい」
「贖罪のつもりかしら」
「特定の相手がいない謝罪ほど虚しいものもないでしょう」
記者は苦笑しながら続けた。
「でも、やらないよりはマシだと思ってます」
ヒッチは舌打ちし、腕を組んだ。記者の言っていることは理解できる。ヒッチとて、この記者が間違っていたと断定できるような立場ではない。
「五分だけよ」
「感謝します」
男は小さく頭を下げた。そして再び遺体へ向き直ると、その表情が歪む。
「若いですね」
「ああ。二十歳前後の女性ってところか」
「身元は?」
「不明だ。でも、調査兵団の制服を着ている」
記者はノートを取りながら部屋を見渡した。傾いた本棚、割れた食器。失われた生活の名残が散らばっている。
「この人の家だったんでしょうか?」
「まだ何も分からない」
「左手に指輪がある」
「ああ」
「配偶者がいたのかもしれない。でも、この家にはいない。一体どこへ」
「変な憶測はやめなさい」
「そうですね。でも、どう書けばいいのか……」
記者はペンを握る手に力をこめ、しばらく黙り込んでいたが、やがて絞り出すように言った。
「このままだとジェーン・ドゥって名前になる。それかN.N……ノーネームってやつですか」
その言葉は、部屋の空気をさらに冷たくした。名もなき者の死という現実が、そこにある遺体の重さを一段と際立たせる。ヒッチは息を吐いた。
「身元が判明するまでは、そうなるわね」
「……虚しいもんですね」
記者は遺体の顔から目を離せずにいる。少しの間を置いて、震える声で続けた。
「名前も、家族も、恋人も……何も分からないまま、たった一人で腐っていくなんて。こんなの、記事に書く以前に……人として耐え難い」
言葉に滲んだ悔しさは、彼自身への怒りにも聞こえた。記者は迷いを浮かべたまま、遺体の手元へと視線を落とす。細い薬指、そこに嵌まる古びた指輪。まるでその銀の輪だけが、彼女の生きた証を掴んでいるかのようだ。
「せめて、この指輪が手がかりになるなら」
そう呟き、記者はそっと手を伸ばした。
「ちょっと、何してるの!」
ヒッチが止めるより早く、記者の指先は指輪に触れていた。
「サイズ合ってないんじゃないですか? 贈った男、彼女の指の太さすら分かってなかったんですかね」
軽い口調。だがその裏には、何か確かめたいという焦りが混じっていた。
「やめなさいって! せめて手袋つけてから……」
「あ」
抵抗していたはずの指輪が、不意に外れた。
記者が指輪を拾い上げ、彼の視線は指輪の裏へと吸い込まれるように落ちていった。ヒッチとその同僚も、思わず息を呑む。
銀の内側に刻まれた、ひとつの名前。記者の息が止まった。
「……これ」
低く震える声が、かすれた空気を揺らした。ヒッチが手を伸ばすより早く、同僚が詰め寄る。
「おい、なんて書いてある?」
だが記者は応えられない。指輪の裏に刻まれた文字から、視線を離せずにいる。
しばらくして、記者はようやく唇を動かした。
「この人。僕の……知ってる人かもしれないです」
その言葉は、室内の静けさの中で重く沈んだ。
遠くで、鳥の声が響いた。