848年。
南方訓練兵団、入団から二年目。
訓練所の外はまだ夜の気配を残し、空はようやく青く滲み始めていた。
石造りの洗面所では、冷気がしっとりと肌にまとわりつく。水の音、桶のきしみ、濡れたブーツが床を叩く音。顔を洗った同期が雑にタオルで水気を拭き、次々と走り去って行く。
通りがかりのエレンが、洗面所の入り口から声を飛ばしてきた。
「おいフロック、お前また髪いじってんのかよ。朝の点呼ギリギリだぞ」
俺は一人、鏡の前で立ち尽くしていた。
指先に触れる赤い髪が、どうにも整わない。水で軽く濡らして、手ぐしで起こして、また潰して。寝癖を装いながら、実はこうして毎日きっちり整えている。横から見ると不自然に跳ねたトップが、少しでも人目を引けばと願っていた。
目の前に映る顔は、今朝も平凡そのもの。目立つ特徴もなくて、訓練の成績も中途半端。それならせめて、髪型だけでも。そうやって自分に言い訳を作りながら、手だけが止まらない。
そのまま赤毛と格闘していると、いつの間にか隣にジャンが立っていた。俺と同じように鏡をじっと見ていたけど、ジャンの髪は俺のよりずっと従順そうだった。
ようやく諦めて洗面場を飛び出すと、外気が頬を刺した。空はすでに白み、吐く息が白くほどける。同じように訓練場へ急ぐ足音が重なり、砂利がざくざくと鳴った。
俺は無意識に前髪へ手を伸ばしかけて、途中で止める。今触ったら崩れる。結局、拳を握って腕を振り、走った。集合場所にはすでに列ができはじめている。
「整列! 班長、点呼!」
砂利の上でブーツが揃い、ざわめきが一斉に引く。名前が呼ばれるたび、返事だけが乾いて響いた。
「遅刻者なし。だが貴様ら、身だしなみを整えろ。襟、靴紐、髪。乱れている者は、武器の扱いも乱れる」
教官の口から「髪」という単語が出た瞬間、何人かが小さく肩を振るわせた。さすがに笑うような奴はいなかったが、隣の列から一瞬、視線を感じた。俺の方を見た奴がいた。
「ねえ」
点呼の後。背後で足音が止まった。振り向くと、同期のリディアが不思議そうに俺を見ている。
「その髪、わざと?」
「は?」
「毎日毎日、どうやってんのかなって」
俺というより、俺の頭を見ていた。
髪を後ろで雑に束ねただけの女。結び目は緩くて、短い毛がぴょんぴょん跳ねている。
「別に。お前に関係ねぇだろ」
「身だしなみ? 教官が言ってたやつ」
「だから関係ないし、何だっていいだろ」
「しょっちゅう必死に触ってるし。寝癖風なんだろうけど、さすがに分かるよ」
図星を突いた言葉。頭を殴られたような衝撃が走った。ここで笑って誤魔化してしまえば、注目なんか集めず、丸く収められたはずなのに。
「うるっせぇな、髪なんかどうでもいいだろ! 成績ドベのくせして偉そうに……この、夢ばっか見てるお花畑がよ!」
プライドは、俺の口を先に開かせていた。必要以上の暴言だったが、止められなかった。
こんな女に見抜かれるなんて。訓練にしろ成績にしろ、俺よりずっと下位にいるリディアなんかに。
「それこそ関係ないでしょ。夢見て何が悪いの、変なあたま」
そして彼女の反論は的確だった。こちらの攻撃をするりとかわして、別の角度から刺してくる。
「はああ? どっちが変な頭だよ。お前の髪だって、無造作に伸ばしてるだけのくせに」
余裕に満ちたリディアの口調が腹立たしく、俺が強く言い返すと、困った顔をしたクリスタが「喧嘩は駄目だよ」と言いながら割って入ってきた。
周囲の連中はクスクスと俺たちを笑っている。リディアはクリスタやユミルと共に歩き去って行ったが、俺の中ではモヤモヤした感情ががくすぶり続けていた。
「なぁ、あの女マジで調査兵団志望って言ってんのか? あの成績で?」
汗と土まみれのまま、水筒を地面に落とし、誰にともなく毒を吐いた。
立体機動がまるで制御できず、今日の訓練も散々な結果だった。装置のせいか、自分のせいか。はっきりとした答えが出ないまま、苛立ちが胸で暴れていた。
向かいで訓練用のロープを巻き直していたジャンが肩をすくめる。
「ああ。壁の外に自由があるとかなんとか。エレンと二人で盛り上がってたぞ」
調査兵団。巨人と正面からぶつかる最前線。そんな場所に、俺以下の実力で行こうとは。思わず鼻で笑った。
「馬鹿じゃねぇの。どうせ三日ともたねぇわ」
「聞こえてるんだけど」
その瞬間、背中に冷たいものが走った。
振り向いたときには遅く、リディアがすぐ近くに立っていた。怒ってはおらず、むしろ静かで、諦めたみたいな顔。その表情は余計に苛つく。怒られた方が楽だった。
「あ? ああ、悪かったって。でも事実だろ。お前、立体機動の評価も下から数えた方が早いしさ」
開き直りの言葉を吐きながら、俺は自分の醜さを感じていた。でも後には引けない。今朝みたいに、周囲の視線が俺たち二人に注がれている。ここで謝ったら、また俺の立場がなくなる。
「今日はフロックよりまっすぐ飛べてたと思う」
「は?」
「重心が左に偏ってたよ。変な方向に流れてて、バランス悪かった。その髪のせいじゃない?」
瞬間、俺の思考が停止した。
立体機動の技術的な話から、なぜ髪型の話に?
「髪でバランス崩れるって、どんな理屈だよ!」
近くでコニーが吹き出した瞬間、横でジャンも肩を震わせた。
「この跳ねっ毛だけで居場所バレるってか、巨人に!?」
「風受けて帆みたいに膨らむんじゃねえの?」
「うるせぇよ……!」
そばにいた同期が次々と笑い始める。俺は顔が熱くなるのを感じて、無意識に髪を直すフリをしながら舌打ちした。
するとリディアがふと真顔に戻り、小さく呟いた。
「でも、目印があるのって案外いいことかもよ。その『変なあたま』なら、戦場でもすぐに見つけられそうだし」
「は、目印?」
「入団式で、私も教官に言われた。死んだときに誰だか分かるよう、目印でも付けておけって」
その瞬間、場の空気がぴたりと固まった。
「……死んだときって、お前……」
俺が言いかけるより早く、周囲がざわつき始めた。
「縁起でもねぇことを……」
「いやでも、確かにあの頭が倒れてりゃ、判別はできるわな」
再び、訓練兵たちの押し殺した笑いが漏れ始める。
「……っ、勝手に人を殺してんじゃねぇよ!」
怒鳴った瞬間、場が爆ぜた。俺の怒りは、皮肉にも笑いの起爆剤だった。笑いは伝染し、俺を置き去りにしていく。止めたくても、もう止まらない。
「ははは! フロックお前、死体のなり方まで心配してんのかよ!」
「ぷっ……いい目印ができてよかったな」
「うるせぇっつってんだろ!」
ジャンは腹を抱えて俯き、コニーは涙をぬぐいながら俺の背中を叩いてきた。何人かが俺の髪をちらちら見ては、口元を押さえて肩を震わせている。マルコが小さく「やめろよ、人の外見的特徴をからかうのは」と呟いていたが、大勢の笑い声にすぐかき消された。
そんな喧騒の中で、リディアは肩をひょいと上げ、手をひらひらと振った。
「ごめんごめん。本気で怒るとは思わなかったんだって」
「この、クソ女が……!」
リディアは悪びれもせず、その場を離れていった。周囲の笑い声だけが、耳の奥にいつまでもこびりついていた。
夜。寝台に仰向けになったまま、俺は天井を見つめていた。周囲からは静かな寝息が聞こえる。
でも、俺の目だけは冴えたまま。今日のリディアとの会話が、頭の中で何度も再生されていたせいだ。
あれだ、あの発言。変なあたま、とかいう。
俺の頭は、入団時からたびたび同期にからかわれてきた。寝癖王だの、鳥の巣頭だの……それはもう散々な言われようだった。
でも俺はこれを絶対に崩さない。この髪型は自分を――他人と違う、個性的、目立つ存在として――意識したい、自己主張の象徴だったから。
平凡な自分に、何かひとつでも特別なものを。そんな幼稚な願いから始まった習慣が、いつの間にか俺自身を証明するものになっていた。鏡の前で整えるたび、少しだけ自信を持てるような気がしていたのだ。
しかしそれは虚勢の証明でもある。武装したつもりの、ハリボテの鎧。注目されたくても、実力も覚悟も追いついていない。
リディアに腹が立ったのは、見透かされたことに対する反発でもあっただろう。俺をバカにしているようでいて、彼女の言葉は一つの正解でもあった。……それにしたって、デリカシーがなさすぎるような気もするが。
そしてもう一つ。「戦場でもすぐに見つけられそうだし」とかいう発言。
戦場で見つけられる目印。つまりあいつは、俺のことを、今後も一緒に戦う仲間として承認している。リディアは、俺が「そこ」にいる前提で話してる。
「……あいつ、馬鹿か」
毛布を被って横になり、小さくため息をついた。
「俺は調査兵団なんか志願しない」
リディアの発言はいつも変だ。どう受け取ったらいいのか、判断に迷う。
弱いくせに一歩も引かない。劣等生のくせに目標だけは大きい。綺麗な髪してるのに手入れもしない。今朝の点呼、なんでこっち見てたんだよ。重心の傾きとか、なんで分かるんだよ。
ムカつく。あいつのことなんか考えたくもないのに、頭から離れない。枕に顔をうずめながら、心の中で呟いた。
……変なあたましてんのは、どっちだよ。
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850年。
訓練兵団卒業後、ウォール・ローゼ南東部基地。
トロスト区の地獄のような初陣を生き延びてから三週間。俺は予定通り、駐屯兵団に入団した。
安全だと思っていた。だがそれは、入る前の希望的観測だった。実際の駐屯兵団は、それほど安全でもない。戦場ではないというだけだ。
午前、壁上で砲台整備。巨人が現れる可能性を前提に、誰もが一秒たりとも視線を外さない。
午後、街の巡回。酔っぱらいの喧嘩の仲裁、窃盗の処理、倒壊建物の監視。「巨人より人間の方が面倒だ」という言葉が、嫌というほど身に染みた。あと憲兵団の仕事を肩代わりしている感覚があって、少しだけむかつく。
夕方、立体機動訓練。調査兵団の演習ほど苛烈ではないが、壁外を想定した夜間訓練もある。油断したら普通に死ぬ。
想像していたほどお気楽な部隊ではなかった。俺たちはいつでも次の襲撃を警戒している。トロスト区のように唐突に超大型巨人が現れたら、最初に死ぬのは調査兵団ではなく駐屯兵団だろう。
「よお。どうした、ぼんやりして」
同期のゴードンが疲れた顔で言った。
「今日も何もなかった。まぁそれが一番だな」
「だな。お前、慣れたか? 駐屯兵団」
「まあまあかな。意外と規律に厳しい人が多い」
彼は肩を竦めた。
「でも時々考えるんだ。俺、本当にこのままでいいのかって」
「おい、それサンドラも全く同じこと言ってたぞ」
「まじかよ」
ゴードンは乾いた笑いを漏らし、調査兵団の演習場を指さした。
「見たか? 調査兵団の連中」
ゴードンがあごで演習場を示し、俺も笑いながら返す。
「ああ。さっきまで見てた」
「狂ってるよな、相変わらず」
「まぁ、あいつらがいなきゃ土地も奪還できないし」
「それはそうだけどよ……」
エレンという爆弾を抱えた調査兵団は、やはり連日混乱しているらしい。それでも一部の兵士たちは演習を続けていた。何人か、同期の新兵の姿も見える。
訓練の激しさが、駐屯兵団とは違う。埃まみれの装備、土の匂い、そしてどこか壊れた目をした兵士たち。それでも、彼らは空を飛ぶように立体機動で駆けていく。
あの姿に憧れていた時期が、俺にもあった。訓練兵になって間もない頃、初めて立体機動装置を使った日。脚がもつれて木に激突し、腕にひびが入った。それでも楽しかった。
あの感覚。空を駆けて、まるで自由な鳥になったような瞬間。木製の巨人模型を倒した時なんて、本気で世界を救えるような気がしていた。「人類のために戦うんだ」って。純粋に、心の底からそう信じていた。胸の奥で何かが燃えるような、熱い衝動があった。
でも。所詮、夢は夢だ。
トロスト区の初陣。仲間が巨人に喰われるのをただ眺めて、最後には遺体を残さず燃やし尽くしたあの日――ようやく現実を知った。血の臭いと、絶望の重さを。戦場の真実を。
巨人殺しを生業にするだって? そんなの、狂った連中の集まりだ。全員例外なく、ただの死に急ぎ野郎どもだ。
俺には死ぬつもりなんてなかった。憲兵団までとは言わなくとも、駐屯兵団にいれば生き延びられる。家族にも会えるし、住民たちからは頼られる。こうやって生きているうちに、誰かと恋愛だってできるかもしれない。まぁとにかく、普通の人生を送れる。平凡でも、確実に明日がある人生を。
ゴードンと別れた後、街の巡回中に住民から礼を言われた。迷子になっていた子供を母親のもとに連れて行った。ただそれだけで、彼女は涙を流して俺に礼を言った。
胸の奥が少しだけ熱くなった。
それでいい。誰かの小さな役に立って、生きていけばいい。調査兵団みたいな英雄志願者じゃなくたって、意味はある。
その時、ふと誰かの声がよみがえった。
――調査兵団は、死に場所を探すところじゃない。未来をつかみに行く場所だ。
誰が言ったのかは、もう思い出せない。エレンだったか……もしかしたら、リディアだったかもしれない。
あいつ、今も生きてるんだろうか。
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850年。
引き続き、駐屯兵団。トロスト区近郊。
初陣からまだ数か月しか経ってないのに、いきなり政治がひっくり返った。
調査兵団がクーデターを成功させ、訓練兵団の同期クリスタ――本名はヒストリア・レイス――を担ぎ、彼女を女王に即位させてしまったのだ。
あいつら何やってんだ。いつの間に、そんな過激派みたいな組織になったんだ。
兵団も民衆も、前代未聞のクーデター後の熱狂に沸いていた。街角では旗が翻り、人々は拳を突き上げて叫んでいる。
で、俺は?
まんまとその空気に吞まれてしまった、馬鹿な凡人の一人だった。
「血の流れない変革はない!」
調査兵団の勧誘演説は、かつてないほどの熱を帯びていた。演説台に立った兵士の声は、広場の隅々まで響き渡った。
「先のクーデターもそうだった。君たちも感じたはずだ。誰かが矢面に立たなければ、世界は何も変わらないのだと。誰かが、自らの命を差し出してでも、巨人との戦いを終わらせなければならないのだと」
俺の胸の奥で、何かがざわめいていた。
右隣に立つゴードンが喉を鳴らし、唾を飲み込んだ。左隣のサンドラなんか、口を半開きにして演説に聞き入っている。
「……だが諸君。こうも思わなかったか? その『誰か』とは……」
演説者の声が静まり返り、両隣の友人たちが、息を殺して次の言葉を待っている。俺も、自分の鼓動が異様に大きく聞こえるのを感じていた。
「本当に、君自身のことではないのか?」
演説者の言葉と、これまで何度も耳にしてきた決まり文句が、ごちゃ混ぜになって頭の中に流れ込んでくる。
――今こそ人類が誇りを取り戻す時、心臓を捧げる時だ。
――志願者には栄誉ある任務が。
――歴史に名を残す、勇者たちの戦いである。
「問おう。誰かが犠牲になるというのなら、その『誰か』とは……本当に、君自身のことではないのか?」
演説者は静かに続ける。
「君が本当に他人事だと思っているのなら、なぜ今、ここに立っている? なぜ立体機動装置を握りしめ、仲間と共に訓練を重ねている?」
気づけば俺は、あの日のことを思い出していた。
トロスト区の初陣。偶然が重なって、奇跡みたいに俺は生き残った。
「世界を変えるのは、どこかの誰かではない。自分の血で、自分の足で、自分の誇りで、人類の未来を取り戻すのだ」
都合の悪い事実は、ゆっくりと煙みたいに消えていく。
あの日のワイヤーの誤射も、震える手も、胃酸の逆流も、巨人の手から逃げた時の自分の情けない悲鳴も。全部が、記憶の隅に押しこめられていく。
「もし諸君の中に『それは自分だ』と、『自分がやらなきゃいけないんだ』と、そう感じた者がいるのなら――」
演説者の声が最高潮に達する。周囲の兵士たちが息を飲むのが分かった。
「君こそが、本当の英雄だ!」
その熱狂は、まるで火事みたいに一気に燃え広がっていった。
実力じゃない? 偶然? 違う。俺は今日まで生き残った、それは揺るぎない事実だ。
頭の片隅で引き留める声がした。
――駐屯兵団でいいって決めただろ。討伐数0の兵士で充分だって、自分で言っただろ。
その声は一瞬でかき消された。歓声と、血の騒ぎと、演説の言葉に。
気づけば拳を胸に当てていた。隣でゴードンとサンドラも続く。拳が三つ。心臓が三つ。
「やめろ。乗せられるな、あれは詭弁だ」
背後から上官の声が聞こえたが、俺はそれを無視していた。もう誰の言葉も届かなかった。
その夜、兵舎で家族に手紙を書いた。
俺が世界を取り戻す、と。
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850年。
調査兵団。ウォール・マリア奪還作戦。
獣の巨人が消えた。
焼けた土と潰れた肉の匂いが入り混じって、息を吸うだけでむせ返る。地面は血で濡れていた。誰のものかなんて、もうわからない。多すぎて、区別がつかない。人間の血も、馬の血も、全てが一つになって大地を染めている。
ここにはもう、死体しかないと思っていた。
俺は一人、ふらふらと生き残りを探している。もう足元の死体に目を向ける気力すら残っていなかった。
そうか。俺以外……
「全員……死んだのか」
返事をよこすやつはいない。
特攻の直前、サンドラが震える唇で言った。
「みんなで……ここで、一緒に、死のう」
「ふざけんなよ、死にたくねぇよ。こんなの、間違ってる……!」
「でも……でももう、行くしか、ないじゃない……」
サンドラが涙をこらえているのが分かった。ゴードンは歯を食いしばり、馬のたてがみを握りしめていた。
「英雄になるんだって、人類のために戦うんだって……!」
「その結果が、こんな……」
マルロは顔色を失って、それでもまっすぐ前を見ていた。落馬しないように手綱に指を食い込ませて。
その時、風の中に別の足音が混じった。
よろめきながら馬にまたがる影。体を支えきれず、片手で腹を押さえ、もう片手だけで手綱をつかんでいた。
リディアだった。服は裂け、血で濡れ、包帯は赤く膨れ上がっていた。顔色は死人のようで、まともに息もできていないのに、それでも馬に乗る姿勢だけは崩していなかった。
「……私も行くから」
唇を噛んで、震えた声で言った。帰る場所がもうどこにもない人間の声だった。
あの時の光景が、風の音と一緒に頭の奥にこびりついている。全員で一緒に死ぬつもりだった仲間たち。涙を飲み込みながら、前へ進んだ仲間たち。
今は誰一人、返事をくれない。
戦闘が終わった後。俺は壁の上から、戦場だった場所の様子を伺っていた。向こうで「生き返ったばかり」のアルミンが震えているが、声をかけられなかった。
俺の足だってまだ震えているし、膝はガクガクと笑っている。それでも倒れずにいるのは、もはや意志の力ではなく、ただの惰性かもしれない。
今は、ハンジ分隊長――いや、エルヴィン団長が死んだから今はこの人が団長になったんだった――と、リヴァイ兵長、エレン、ミカサが、四人でエレンの生家の調査に向かっている。残された俺たちは、彼らが調査を終えてここに帰ってくるのを待っている。
ウォール・マリア奪還作戦はもうとっくに終わっていて、こんなところから街の様子を見る必要なんてない。もう、誰の叫び声も、誰の命令も聞こえなかった。辺り一帯を支配するのは、死の静寂だけ。
俺は、立っていた。ただ、立ち尽くしていた。
双眼鏡の向こうに、無数の屍が転がっている。馬のもの、人間のもの。血の区別はつかない。身体とて、全てが等しく、ただの肉塊と化している。
つい数時間前まで、あの塊たちは生きていた。意志があり、感情があり、誰かを愛し、誰かに愛されていた。しかし今は違う。太陽に晒され、蝿がたかり、やがて土に還るだけの物質に成り下がった。
俺も、いずれはああなる。
エルヴィン・スミスは死んだ。
己の両腕で背負って兵長のもとに向かったときの重さは、まだこの肩に残っている。それは英雄と呼ばれた男の、最期の重量だった。
だが今や、それもただの抜け殻になった。もはや英雄でも悪魔でもない。ただの肉の塊になった。彼は再び「選ばれる」こともなく、ただ他の兵士と同じように、虚しく命を落とした。
俺はここで何も残せなかった。
エルヴィン団長を生かすという選択を取らせることもできず、ただ死体となった彼がベッドに安置され、その顔に布がかけられていく様を見守ることしかできなかった。新兵たちは弔われることもなく地獄に朽ちていったのに。エルヴィン団長だけが、こんなにも丁寧に。
その選択をしたのはリヴァイ兵長だ。団長を許してほしいと言った兵長は、最後まで俺の目を見なかった。兵長は団長を許すことを選び、俺を許さなかった。
そしてエレンもミカサも、私情でアルミンを選んだ。
調査兵団の精鋭たちはどいつもこいつも自分の感情にすがり、俺の話なんか誰も聞いちゃいなかった。
私情で選択をした強者たちは、これからもきっと弱者を切り捨てる。あれほどの兵士を犠牲にしておいて、結局は「楽にしてやりたい」「友だちを救いたい」だなんて。馬鹿げてるだろ、そんなの。
俺は何のために戦った? 今、何のために立っている?
どこに英雄がいるんだ?
帰還は徒歩になった。馬もとっくに全滅していたからだ。
俺以外の八人は、死体の様子をいちいち確認しながら歩いていた。生存者を探しているのだろう。俺にはそれが無意味な行為だと分かっていた。確認したところで、どうせ全員死んでいる。俺はもう全部知っている。あの投石と特攻を知らないジャンたちには、何度言ってもそれが分からないらしい。
でも、俺は彼らを止めなかった。俺にも一人、見つけなければならない兵士がいたからだ。
記憶を辿る。
あの時、あの場所に……たった一人だけ、生存者がいた。俺はそいつを捨て置いた。団長を優先するために。最後に会話を交わした場所。確かこのあたりで――
視界の隅に、目的の人物は転がっていた。
リディア。
瓦礫の中で、ぐしゃりと潰れたように倒れていた。血が、流れていた。腹から。足から。口の端から。赤い筋が、頬を伝って砂埃の中に消えている。
ふらつく足を引きずって、急いで駆け寄った。まだ温かい。だが、声はない。
「……ふざけんなよ」
喉が、かすれた音を吐いた。自分の声だとは思えないほど震えていた。
「まだ死ぬなって、言っただろうが……ッ」
意識はない。だが、皮膚の色がまだ生きていた。冷たくない。血色も、完全には失われていない。俺は彼女の手を取った。その手は確かに温かく、微かに脈打っているのを感じることができた。
「せめて……せめて一人ぐらい……」
言葉が風に流れる。それはひとりごとだったのか、リディアに向けて告げたのか、死んでいった全ての仲間に対する宣言だったのか。
ディルク班長。優しい人だった。後頭部を砕かれて、顔がひしゃげていた。
マレーネ班長。明るい人だった。背中に食い込んだ石で、胸ごと吹き飛んでいた。
クラース班長。頼れる人だった。腹を割かれたまま、壁にもたれていた。
マルロ。判断力に長けた、優秀な奴だった。死体は見つからなかった。
ゴードン。訓練兵の頃から、馬鹿話でよく盛り上がってた。顔半分が欠けていた。
サンドラ。英雄になるんだって息巻いてた。半身しか見つからなかった。
他にも、他にも、他にも。
そして、リディア。彼女だけが、まだかろうじで生きている。
この地獄の中でまだ息をしている命を、どうかひとつだけでも連れて帰りたかった。
俺がこの戦場で成し遂げたことなんて何ひとつない。みっともなく泣き喚いて、弱音を吐いて、そうして無傷で生き残ったものの、本当に何もできなかった。
それでも、まだ遅くない。
この女だけは絶対に死なせない。それだけでもいい。もし彼女を救えなければ、俺は本当の意味で「ただ何もせずに生き残った」帰還兵にしかならない。
自己満足だと言われても構わない。偽善だと嘲られても構わない。この命を救うことで、俺は初めて自分がここにいる意味を見つけられるような気がしていた。
歯を食いしばって、リディアの身体を担ぎ上げる。軽いと思った。あれほど口うるさく、あれほど真っ直ぐで、あれほど生命力に満ちていた彼女の身体は、無惨なほど軽かった。
このときの俺には、その軽い重量だけが、唯一残された現実だった。地獄と化したウォール・マリアで、血と死に囲まれた廃墟の中で、ただ一つ。彼女の体温だけが、俺にまだ生きていることを教えてくれていた。この温度と重みを、俺は絶対に落とすわけにはいかなかった。
背後で、誰かの声がした。
「生存者か!?」
ジャンだった。俺の動きに気づいて駆け寄ろうとする足音。けれど、その一歩が近づいた瞬間。
「来るな!」
俺は怒鳴っていた。
ジャンが一瞬止まった。驚いたように目を見開いて、何も言わない。ミカサも近付いてきた。その目は、俺の背中に担がれたリディアに向けられている。無言のまま、歩み寄ろうとする気配があった。
「お前もだ、ミカサ。誰も来るな」
声が掠れているのは、自分でも分かっていた。けれど、身体の奥から噴き上がるような怒りと恐怖と執着が、全身を突き動かしていた。
こいつは。せめてこいつだけは、誰にも託さない。エルヴィン団長のようにはしない。俺が運ぶ。俺が責任を持つ。
なぜそこまで頑なになるのか、自分でもよくわからなかった。ただ、この重みを手放した瞬間、俺という人間が完全に無意味な存在になってしまうような恐怖があった。
「なにやってんだ、お前……」
エレンが眉をひそめながら、俺とリディアを見る。言葉には呆れと戸惑いが混ざっていた。ただ、彼もそれ以上は俺の方に踏み込もうとはしなかった。関わるべきじゃないと感じたのだろうか。
サシャを乗せた荷台を運んでいたコニーも、様子がおかしいことに気が付いたのか、足を止めてこちらに声をかけた。
「リディア……だよな? お前が担いでるの……」
「……生きてたんですね、よかった……」
負傷していて自力では歩けないサシャの声は、かろうじて聞き取れるほどの小さな音だった。
それに応える代わりに、俺は歯を食いしばって前を向いた。乱雑な応急処置だけが施された身体を、俺の背で揺らさぬよう、細心の注意を払う。
そのとき、後ろから低い声が聞こえた。
「フロック」
振り向かなくても分かる。リヴァイ兵長の声だ。声は冷静だったが、確実に俺の態度に不信を抱いていた。
「そいつは、まだ息をしてるのか」
「してます。だから連れて帰ります」
背中越しに感じるリディアの体温。それだけが、今の俺の根拠だった。
「荷台に乗せろ。下手に揺らせば持たねえぞ」
「俺がやります。運搬もいらない。俺が、背負っていきます」
リヴァイ兵長の沈黙が、妙に長く感じた。その横で、ハンジ団長が小さく息を呑んだ。
「本当に、リディアだよね……? 生きていてくれたのか……」
「生かします。絶対に、死なせない」
俺は振り返らずに歩き出した。誰かがついてこようとする気配があれば、睨み返した。
そうするたびに、皆が一歩ずつ下がった。俺の剣幕に押されたわけじゃない。たぶん、俺が壊れかけているのを察したんだろう。
それでもよかった。狂っていても、壊れていても、どう思われても、この命だけは絶対に離さない。
目を覚ませ。頼むから、ここで俺を独りにしないでくれ。生きられないなんて言うな。お前と俺は、支え合って生きていくしかないんだ。ここまで来て誰も救えなかったなんて結末、耐えられそうにない。
リディア。お前が証人になれ。
俺だけじゃない。死んでいった俺「たち」全員の、無駄ではなかった命の証人になるんだ。