「楽園の島の魔女」(完結)   作:雄魔雌

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03 軽率な衝動

「リディア。昨日か今日、なんかあったろ」

 

 エレンとリディアが二人で旧調査兵団本部の一室を掃除している時だった。

 

「お前おかしいよ。妙にソワソワしてるというか、心ここにあらずって感じだ。見ろ、ここの埃。先に埃を落とさず雑に机を拭くからこうなるんだ。こんなの兵長にバレたらめちゃくちゃ怒られるぞ」

 

 エレンの小言にリディアはろくな返事をせず、虚空を見つめるようにしてぼんやりと言葉を発した。

 

「……はーい」

「なんだその反応。みんなが帰ってくる前にちゃんとやり直して……」

「エレン、私、実はね……」

 

 

 

***

 

 

 

 先日、104期の仲間たちとリディアが再会した時の出来事だった。

 

「ライナー、ベルトルト! 久しぶり!」

「よぉ、リディア。元気か?」

 

 走り寄ってきたリディアの頭を、ライナーがわしわしと撫で、ベルトルトが少し引いた目でそれを見ている。

 

「やめなよライナー……リディアも嫌がってる」

「髪がぐしゃぐしゃになったんだけど」

「悪い悪い、お前を見てるとつい構いたくなる」

「近所の子供じゃないんだからさ」

 

 アニと同様に憲兵団に入ると思っていた二人がここにいる。二人の間でどんな決意や葛藤があったのかは分からないが、リディアは嬉しかった。

 

「僕らも調査兵団に入ることに決めたよ」

「意外だったけど、嬉しいよ。二人が揃うとやっぱり頼もしいね」

「リディアもすっかり兵士の顔つきになったな。訓練兵の頃とは既に全然違う。色々辛いことがあったし、これからも大変な仕事だらけだが……お互い長く生き残れるよう、頑張ろうぜ」

 

 ライナーが笑いながらまたしても頭に手を伸ばしてきたので、リディアもにこにこと笑いながら片手でそれを制す。

 

「もう、頭触るのやめてって」

「はは、悪かった。つい、な」

 

 ライナーは明るく笑う。そのまなざしは澄んで力強かった。リディアはその笑顔を見つめながら、ふと違和感を覚えた。

 

 何かが変わっている。

 

 訓練兵時代から知っているライナーだが、今の彼はどこか違う。以前のライナーは、明るく振る舞いながらも、どこか遠くを見るような目をしていたり、時折言葉に詰まったりすることがあった。特に疲れている時や、故郷の話になると、目が泳ぐような感じがあった。

 でも今日は違う。その動作も言葉も笑顔も、すべてがくっきりと鮮明で、迷いがない。

 

「ライナーも、なんだか別の人みたい」

 

 まるで違う人間のようだ。その考えが頭の中で形になるのと同時に、思わず言葉が口をついて出てしまった。

 

「は?」

「……つ、疲れてるからだよ」

 

 ライナーはリディアの言葉の意味がよく分かっていない様子だったが、慌ててベルトルトが会話を遮ってきた。

 

 確かに、兵士という仕事は、精神的にも肉体的にも疲弊することだらけだ。それなら仕方がないと思い、リディアが二人と別れようとした、その時。

 

(あれ?)

 

 なぜか分からないが、突然、胸に冷たいものが広がった。まるでもう二度と会えなくなるような予感、不吉な悪感がリディアを襲った。

 

(なに、これ?)

 

 マントを留めているブローチに手を伸ばす。無機物よりも、生きている自分の手の方が冷たい。小さく震えていることが分かる。

 

「……ライナー!」

 

 思わずライナーのことを呼び止めた。

 

「ん、どうした?」

「少し時間ある? 話したいことが」

「話? まぁ、時間はあるな」

「駄目だ。ライナー、急がないと」

「何を言ってるんだベルトルト。今日は作戦の確認と、他の仕事ももう終えてるから、急ぐことなんて残ってないだろ」

「それはそうだけど……」

「俺はリディアと話してから戻る。先に行っててくれ」

「……」

 

 ベルトルトはどうしても納得がいかないような顔をしている。

 

「リディア」

 

 焦燥した様子で、ベルトルトがリディアに声をかける。

 

「頼むから、あまりライナーを刺激するようなことは言わないでくれ。彼は今……」

 

 何かを言いかけて、途中で止める。

 

「……いや、何でもない。手短に頼むよ。僕は向こうで待ってるから」

「刺激?」

 

 ベルトルトがこんなに強張った表情をリディアに見せるのは初めてだ。しかし、その言葉の意味がリディアにはまるで分からない。

 

「刺激って何……?」

 

 

 

 

 

「待たせたなリディア。で、話って何だ?」

 

 ベルトルトが離れた後、兵舎の裏手にある人気のない場所で二人きりになった。夕暮れの柔らかな光が二人を照らしている。

 リディアはベルトルトの言っていることが気になっていたのだが、ライナーは特に気にしていないらしい。

 刺激という言葉が何を指すのか分からない。今から伝えようとしていることは、明らかにライナーを刺激するようなことなのだが。

 

 しかし、ジャンの言葉を思い出す。「言いたいことは言っておく。これができるのは生者の特権だ。」という言葉。

 

 明日は分からない。次の作戦で、自分が死ぬかもしれない。ライナーが死ぬかもしれない。

 この胸の想いを伝えずに死ぬのだけは、どうしても耐えられない。

 自分は、伝えなければいけない。

 

「あのね、ライナー。本当は、こんなこと伝えるつもりはなかったんだけど。今言っておかないと、もう伝えられないような気がして」

 

 リディアはもう、覚悟を決めていた。

 

「なんだ改まって。愛の告白か? ハハ、まさかな」

「……」

 

 ……なんてデリカシーのない男なんだ。

 リディアは拍子抜けして、少し呆れた。こんなに緊張している自分が馬鹿なんじゃないかと思う。

 

「……そうだよ」

「え」

 

 照れと呆れと恥ずかしさがごちゃ混ぜになり、態度がやや投げやり気味になってしまった。しかしすぐに背筋を伸ばし、まっすぐにライナーと向き合う。

 

「ずっとあなたのことが好きだった。訓練兵の時から、今も……ずっと」

 

 

 すると、目の前のライナーから笑顔が消えた。

 今リディアが何を言っているのか、まだ頭の中で処理しきれていないような、そんな表情だ。

 

「きっと私はあなたより早く死ぬ。だから今、言っておきたかったんだ」

「……そんな」

 

 ライナーは明らかに困惑している。

 リディアも自分の言葉が重すぎるような気はしていたが、一度口から吐き出された恋の言葉は、もう止めることができない。

 

「でもね。私が死んでも、あなたを好きだった女がいたということだけは、覚えていて欲しい。そしてたまにでいいから思い出して欲しい。私のことを……忘れないでいて欲しい」

「……」

「今後辛いことがあったとき、案外そんな事実が生きる支えになったりするかもしれないから……なんてね、はは……」

 

 乾いた笑いだけが響く。

 

「あはは……」

 

 ライナーからの返事がないせいか、どんどん気まずくなり、空気が沈んでいく。リディアは顔を赤くして俯いた。

 

「重いね、私」

 

 ブローチを握りしめる。手が暑すぎてブローチが溶けそうな気がした。

 

「あー、言っちゃった……」

「……」

「ごめん。いきなりこんなこと言われても、迷惑だよね」

「……いや」

 

 完全に想定外の言葉をぶつけられたライナーは、一旦完全にフリーズしてしまったが、リディアの言葉を脳内でもう一度繰り返して、言われた言葉をゆっくりと整理して、ようやく処理が追いついた。

 そして、言葉に詰まった。

 

 

 兵士として、ライナーがリディアの告白をどう思ったか。

 そもそもまず、彼の本命はクリスタだ。あの可愛らしい外見に、誰にでも優しい心。クリスタと一緒にいる自分を想像すると、いつも心が温かくなる。それは揺るがない事実だった。

 

 だが、リディアのことが嫌いなわけではなかった。訓練兵時代から、彼女の明るさや素直さには何度も救われてきた。失礼な話だが「同期の中なら、クリスタの次はリディアかな」と思ったことだって、正直、何度かある。頭の中に気になる女が何人もいるなんて、男なら別に普通のことだ。言い方は悪いが……要は、二番手。

 

 でも、まさか。リディアが自分を好きだったなんて。

 

 真面目なライナーが、自分を真剣に慕う女性のことを無碍にできるわけがない。「あなたが好き」だなんて、そんなことを言われたら、一気に序列と比重がひっくり返ってしまって、もはやリディアのことしか考えられない。今このとき、クリスタのことを思い出そうとしても、目の前のリディアの顔しか見えなかった。

 

 好きだと言われたから好きになる。そういう幼いところがライナーには残っていた。

 そして次の瞬間にはもう、自分も前からリディアのことが好きだったんじゃないかとさえ思った。

 

 

 リディアの両肩に手を置くと、彼女が驚いたようにライナーを見上げる。無言で見つめ合う。改めて見ると、やはり彼女はとても可愛かった。

 

 こんなに細い肩で、重たい責任を背負って、すでに最前線で戦っていて。なんて健気なんだろう。先に死ぬ、という彼女の言葉が胸に突き刺さる。そんなことは考えたくもない。少しでも負担を軽くしてやりたいし、守ってあげたい。確かに彼女を大切にしたいという気持ちがある。この瞬間だけは、他の誰のことも考えられなかった。

 

 

「えっと、その……」

 

 何も言わないままのライナーが急に接近してきたせいか、リディアは困惑してあちこちをキョロキョロと見回し始める。

 

 ライナーは、こっちを見てほしいと思い、自分の片手をリディアの頬に添え、その顔を自分の方に向けさせる。リディアの顔が、今まで見たことないくらいに赤い。頬の柔らかさが愛おしい。

 

「リディア……俺は」

 

 彼女の真剣な想いに応えたい。

 そう思ったが、何故かその先の言葉が出てこない。何かがブレーキになっている。それが何なのか、自分でも分からない。

 

「あ、あの……ライナー」

 

 うるんだ瞳で見つめられると、理性が揺らぐ。今この瞬間、目の前にいるリディアの存在が世界を埋め尽くしていく。

 

 片手を頬に添えたまま見つめあっていると、沈黙とこの状況に耐えかねたリディアが口を開いた。

 

「どんな答えでも私は受け入れるから、その」

 

 リディアはもう、周囲の様子を伺うようなことはしていない。

 

「せめてひとつだけ、思い出が欲しい……なんて……ね」

「思い出?」

 

 何のことだ……? とライナーは考えながらも、片手はリディアの頬に添えたまま、リディアと見つめ合う。

 

 心臓の音がわかるくらい、自分の鼓動が速まっているのを感じる。リディアもそうなのだろうか。

 飽きるほど瞳を見つめたあと、指先の柔らかな頬の感触を堪能し、その体温を指先で感じる。

 ……もっと触りたい。

 視線が赤くて形の良い唇に向かう。柔らかそうだ。ぐっと唾を飲み込む。

 

 自分が何をしようとしているのか、頭の片隅では分かっていた。だが、目の前の彼女への感情は確かに実在する。衝動的かもしれないが、嘘ではない。

 もういっそこのまま抱きしめてしまおうかと思ったそのとき、リディアが、ライナーの最後の理性を溶かすようなことを言い出した。

 

「……してくれないの?」

「え……」

 

 少し間を置いて、リディアの震える唇から漏れ出た言葉。

 

「……キス」

 

 その台詞に、何かが弾けた。

 身も蓋もない言い方をすると、衝動に負けただけとも言えるが……。

 

 大胆な言葉に恥じらう顔が、あまりにも可愛すぎた。

 もう駄目だと思った。

 

 

 我慢できなくなったライナーは、すぐにリディアに顔を近づけて、唇を重ね合わせた。

 軽く重ねただけでは触れあったような気がしなくて、一度離した後にもう一度、今度は少し押し付けるように長めの口付けをした。

 

 唇を離すと、少し熱い吐息が顔にかかって、それもまた欲を刺激した。リディアは照れるように微笑んで、そっとライナーの胸に額を寄せた。

 本当はもっと深いキスもしてみたかったが、一旦そこは我慢して、ライナーは腕をリディアの背中に回し、その小さな体を優しく抱きしめる。

 

「嬉しい、ライナー……あなたのことを好きになって、本当に良かった」

「あ、あぁ、俺も……」

 

 これは正しいことなのか、それとも単なる衝動なのか。心の中でリディアの気持ちに対する明確な答えが出ていないにも関わらず、この瞬間の熱に浮かされたまま、ライナーは軽率にリディアの気持ちに応じてしまった。

 

「好きだ」

 

 思わず口から飛び出た言葉も、今、この瞬間だけに限って言えば、真実だ。

 

 彼女のことを絶対に大切にしよう。そう誓ったライナーだったが、この瞬間がお互いにとって青春の終わりになることも、永遠に続く呪いとなることも、二人はまだ気が付いていない。

 

 

 

 

 しばらくお互いの体温を確認した後、人が通る気配がして、ライナーとリディアは別れた。

 

 高揚感に包まれながら、ライナーは機嫌よく考えた。

 

(リディアといると心が安らぐ。調査兵として出世したら、絶対にリディアと結婚しよう)

 

 そう思いながらも、頭の片隅では「でもクリスタが俺に気があると分かったら……」という思いも消えない。複雑な気持ちを抱えつつも、それでもちゃんとリディアへの責任を果たそうという気持ちが強かった。

 

(俺が彼女を守る。危険を冒してほしくないからできれば前線から退いてほしいところだが、リディアの性格上、それは難しいだろう。でも、子供ができればさすがに……いや、前線から下がらせるために子供を作ろうなんて言ったら、あいつは絶対に怒る。……でも、やっぱり子供は、いつかは欲しいよな。そうだ、先に母さんに会わせるのが先だったか。リディアは良い子だから母さんも喜ぶに違いないし、すぐに仲良くなれるはずだ。レベリオにいる母さんと……それから……)

 

 

……レベリオ?

 

 その言葉を思い出した瞬間、時間が止まった。

 記憶の断片が交錯し、現実と幻想の境界線が一気に崩れ落ちる。

 レベリオ。そんな地名は、壁内にない。

 

 

 歩みを止める。

 いや、自然と止まった。

 

 震える手で唇に手をやる。ものすごく汗をかいているのに、寒気が止まらない。

 

(……俺は、一体、何をした?)

 

 壁内の兵士ライナーと、マーレの戦士ライナーの境界線が一気に崩れ落ちる。現実が歪み、真実が押し寄せてくる。自分が何者なのか、何のためにここにいるのか、あの誓いは何だったのか。全てが一度に押し寄せてきた。

 

 

「うっ……オェッ……!」

 

 兵舎から少し離れた小道を歩いている時、突然胃にこみあげてくるものがあり、足をもつれさせながら道端の草むらに駆け寄り、その場に嘔吐した。

 震えと冷や汗が止まらない。顔面蒼白になっているのが自分でも分かる。視界がくるくると回る。その場にしゃがみこんで頭を抱えた。

 

 自分は、何をした。

 何をした、って……!

 なぜ、よりによって、リディアに、あんな……!

 

 取り返しのつかないことをしてしまった。全部記憶から消し去ってしまいたいくらいの強烈な後悔が、頭の中で自分を責め立てる。

 

 

 

「ライナー!?」

 

 どこからか駆け寄ってくるベルトルトの姿が、視界の端に映る。ライナーは震える手を伸ばし、彼を制止しようとした。

 近づかないでほしい。自分が何をしでかしたか、悟られたくない。

 

 だが、ライナーのただならぬ様子に、ベルトルトは止まらずに近づいてきた。彼の顔には、何か悪いことが起きたと察した不安が浮かんでいる。

 

「すごく顔色が悪い。リディアと何かあったのか?」

 

 その名前を聞いただけで、胃が再び捻れるような感覚がした。

 たった今まで、彼女の唇の感触、温もり、笑顔を愛おしく思っていたというのに。

 

「とりあえず水を飲んだ方が……」

 

 ベルトルトが差し出した手を、ライナーは弱々しく払いのけた。

 

「いい、いい……俺は大丈夫だ。戦士なんだから、この程度で……」

 

 戦士という言葉を口にした瞬間、壁内の「兵士ライナー」が少し遠のいていく感覚があった。頭の中で、再び自分の立場と任務が整理されていく。

 

「……」

 

 ベルトルトは黙って友の顔を観察していた。

 やはり、リディアと何かあったに違いない。二人きりになんてするべきじゃなかった。

 

 ベルトルトの目には一種の諦めと、わずかな怒りが宿っていた。

 でも、今のライナーはちゃんと「戦士」だ。彼の瞳に宿る冷たさが、それを物語っていた。おそらく何があったかは答えてくれないだろう。

 

「ライナー、何があったか知らないが、これだけは教えて欲しい」

 

 夕暮れの影が二人の顔に深い影を落とす。ベルトルトの声は、いつもより低く、重々しい。

 

「あ、あぁ、何だ」

 

 ライナーの声は少し震えていた。まだ完全には立ち直れていない。

 

「君は……リディアを殺せるか?」

 

 

 その問いは、まるで鋭い刃のようにライナーの心臓を貫いた。

 たった今、温もりを交わした少女の顔が浮かぶ。彼女の笑顔、信頼に満ちた瞳、ずっと好きだったという告白。それを消し去ることができるのか。

 ライナーの内側では、二つの人格が激しく衝突していた。「兵士」は彼女を守りたいと囁き、「戦士」は任務の完遂を求めていた。

 

「……」

 

 長い沈黙の後、ライナーの目が変わった。それは、もう迷いのない、冷たい決意に満ちた目だった。

 

「……当然だ。壁内人類に死んでもらう以外の選択はない。例外はない」

 

 自分の口から出る言葉が、まるで別人のものであるかのように感じられた。喉が焼けるように痛い。しかし、それが戦士としての真実だった。たとえそれが、彼自身の心を引き裂くものだとしても。

 

「そうか」

 

 ベルトルトの表情が少し和らいだ。ライナーの瞳を見つめ、その言葉に嘘が感じられないことを悟る。そして、共犯者のような、悲しみに満ちた微笑みを浮かべた。

 

「それが言えるなら、君は大丈夫だ……」

 

 その言葉の裏には、諦めが隠されていた。二人とも、とうに気が付いている。彼らの選んだ道に、愛や優しさを選ぶ余地はないということを。

 

 夕日が完全に沈み、二人の姿が暗闇に溶けていく。ライナーの心の中では、リディアと交わした一瞬の温かい記憶が、任務という冷酷な現実の下に葬られていった。

 しかし、それは表面上だけのことで、完全に消えることはない。その甘さが、これから彼を何よりも苦しめることになるというのに。

 

 

 

***

 

 

 

 エレンは手に持っていた箒を思わず落としそうになった。瞳が驚きで見開かれ、口が小さく「え」と形作られた。

 リディアとライナーが交際を始めた、らしい。

 

「……それ、本当の話か?」

 

 リディアが恥ずかしそうに小さく頷く。俯いた顔は赤く、彼女が告げたことが事実であることの裏付けになっていた。

 

 リディアが今日ずっとぼんやりしていた原因はそれなのかと納得したが、同時にあまりにも予想外だったので、非常に驚いてしまった。

 

「やったじゃねぇか! なんか……すげー嬉しいよ! そうか、ライナーが……へぇ!」

 

 エレンは、ライナーは女に興味がないものだと思っていた。だからこそ意外だし、正直言ってリディアが想いを叶えることは無理だと思っていた。

 かつてリディアを散々からかっていた同期も同じようなことを言っていた。気の毒だけど、脈があるとは思えないんだよなぁ、と。

 

「私もまだ現実感がなくて……てっきりライナーはクリスタが好きなんだと思ってたから」

「は、はぁ? クリスタ? あー……まぁ、男なんだからそういうこともあるだろ。とにかく今はお前がライナーと付き合ってるんだ。他に気にすることなんか何もないって!」

 

 なぜ急にクリスタの名前が飛び出たのかエレンには理解できなかったが、まぁ恋愛なんて色々情緒が不安定になるものなんだろう。

 かつてフランツにも相談されたことがある。「ハンナが、僕が浮気してるんじゃないかって疑ってて。そんなことないのに、どうしたらいいと思う?」とか。その時は知るかよと思ったが、恐らく今のリディアも似たような感じなんだろうと理解した。

 

「えへへ……」

 

 不安を口にしたくせに、リディアの笑顔はとても輝いていた。

 リディアは、巨人の恐怖に満ちた日々の中で、初めて手に入れた小さな幸せをゆっくりと噛みしめているようにも見えた。その姿はエレンの胸の中にも暖かさを広げ、残酷なこの世界が少し違って見えるような気さえした。

 

「なんだよアイツ、今まで一度もそんな素振り見せなかったくせに……なぁ! いやー本当、良かったよ。自分のことみたいに嬉しい」

「ありがと……」

 

 その後もリディアは掃除を全然まともにやらず、ブローチばかり触っていて、この後エレンと二人で兵長から指導されるはめになった。それでも二人とも、とても楽しかった。

 

 

 

***

 

 

 

 しかし、交際を始めたといっても、何かが変わるようなことは一切なかった。

 リディアの胸の高鳴りと期待感とは裏腹に、現実は冷たかった。二人の間には、あの夕暮れの告白と唇の感触以外、何も共有するものがないように思えた。

 

 まず班が違う。新兵はリディアを除いて作戦に応じて各班に振り分けられていたが、そうなると訓練も仕事も全然違うし、二人で話せるような機会はほとんどない。

 それでもたまに姿が確認できる程度の距離にいる時はあって、そんな時、リディアは遠くからじっとライナーの姿を見つめた。

 彼の生存が確認できるというだけでも幸福を感じたが、その一方で、ライナーの方からリディアに視線が送られることはなかった。

 

 重要な作戦の前なのだ、浮かれていられるわけがない。そう思いつつもリディアは、こっち見てくれないかな、と思わずにはいられなかった。

 それでも、その願いが通じることはなく、彼と目が合うことはほとんどなかった。

 

 なんなら、リディアの仕事の都合上、エレンと顔を合わせる機会の方がずっと多かった。

 交際についてはエレン以外の誰にも伝えていない。こんな状況下でわざわざ報告するようなことではないと思っていたし、多分ライナーも同じことを考えているものだとリディアは思っていた。

 

 エレン以外には誰も知らない、二人の関係。本当に交際が始まっているのか疑わしいくらい、何もかも今まで通りだった。

 

 今日もたまたま訓練場の端からライナーを見つけた。離れた広場で何やら話し込む彼と、ベルトルトの姿が見える。

 

(あれ、あの二人って違う班じゃなかったっけ?)

 

 二人をじっと見つめていたら、少し前からそうだったのだが、今日も何だか彼の態度に違和感があると思った。何かが不自然な気がする。

 

 不自然といえばベルトルトもだ。むしろベルトルトの方がおかしい。ライナーとは全然目が合わないのに、ベルトルトとは何度か目が合うことがあった。いつもライナーと一緒にいるのは訓練兵の頃からそうだったが、それにしたって……一緒にいる時間が、長すぎる。

 

 リディアは以前から、ベルトルトにうっすら嫌われているような気がしていた。いや、嫌いというほど積極的な感情ではなく、獣が敵を警戒する時のような、もっと本能的な、何か。

 

 ベルトルトはライナーとリディアの交際について知っているのだろうか。あれだけ一緒にいるんだから知らない方が不自然だと思う一方で、リディアの直感は、彼は本当に何も知らないんじゃないかとも思っていた。

 

 しかし、これだけの違和感を抱えつつもリディアは(まぁ、訓練兵の頃とは環境も変わるしね)と、深く考えずに流してしまっていた。

 無意識に、自分の知らない深淵を覗くことを、恐れていたのかもしれない。

 

 

 

 

 そんな違和感を抱えながらも、リディアは自分の調査兵団での立場について考えていた。

 

 リディアには、所属している班がない。

 普段は壁外調査に向けた長距離索敵陣形の把握や訓練の他、ハンジの、というよりモブリットの補助的な仕事を主に行っていた。

 そのため周囲からはハンジ班だと思われていたが、仕事にエレンの監視が含まれているので、正式なハンジ班とは言い切れない。

 

 エレンの監視はリヴァイ班的な役割とも言えるし、通常業務や訓練についてはハンジ班的な役割であるとも言えるため、実に中途半端な状態で組織内を泳がされていた。

 しかしとにかく忙しかったので、正直に言って、所属がどうとかを気に留めることもなかった。雑務の量は他の新兵よりも明らかに多い。

 

 それはリディアにとってありがたいことだった。自分の入団はいわば父親のコネで、別に何かを期待されていたわけではない。

 だからこそ、仕事を人より多く任されるということは、自分は価値がある兵士であると周りに証明させてくれるものであり、リディアにとっても必要なものであることは間違いなかった。

 

 

 

 

 ある時、モブリットの補助で書類が積まれた机の前で資料整理をしていたところに、ハンジが部屋に入ってきた。

 ハンジはリディアの向かいの椅子に腰掛けガシガシと頭をかき、ソニーやビーンが殺されたことを改めて嘆いている。被験体から得られたであろう貴重な情報を失ったこと、そして彼らという存在の興味深さ……モブリットは聞き入っているのか聞き流しているのか、慣れた様子で話を聞いている。

 

 巨人の謎について延々と語り続けるハンジを見ているうちに、リディアはつい、以前からの疑念を口走ってしまった。

 ハンジが以前、巨人の重量がその質量に見合わないという話をエレンに聞かせていた際、リディアもそこに同席していたのだが、それに関連して。

 

「巨人が自由に体の大きさを変えるという可能性はありますか」

 

 リディアはハンジに、そう尋ねた。

 

「今までの被験体ではそのような事例は確認できなかったね」

「どうしてそんなことを考えたの?」

 

 腕を組んだモブリットが答え、ハンジが頭をかくのをやめてリディアに問う。

 

「ずっと違和感があったんです。超大型巨人や鎧の巨人は、殺されることもなくどこに消えたのか。巨人の質量と重量が噛み合わないということなら、質量自体を変えてしまうことができるんじゃないか、そうしたら、人間程度の大きさになることも可能なんじゃないか、と……」

 

 話していて少し恥ずかしくなってきた。根拠もない自分の想像が、あまりにも子供っぽいような気がしたからだ。

 人間程度の大きさになって、それから? 長年調査兵団で勤める先輩方に、巨人が人間に交じって生活しているとか、そんな妄想のような話を続けるのか?

 

「すみません、おかしなことを言って。仕事の続きをします」

「リディア」

 

 しかしハンジは真剣に話を聞いている。

 

「そのままもう少し話してごらん。少し遠慮して話していない?」

「ここには我々しかいないから、もっと思ったままのことを口にして欲しい」

 

 モブリットも告げる。二人の表情は真剣そのもので、茶化してやろうという雰囲気は一切ない。

 

「……」

 

 本当に続けても良いのだろうか。以前の自分なら、こんな大胆な推測を口にすることはなかっただろう。だが今の自分は、真実を追い求める調査兵団の一員として、恐れずに考えを述べる義務がある。

 リディアは躊躇しながらも、ぽつりと続きを口に出した。確かにさっきの発言は、本当に言いたいことを遠慮して隠していた節がある。

 

「超大型巨人や鎧の巨人は」

 

 リディアが本当に思い至っていたこと。

 

「エレンと同じように、人間として、この壁の中に……」

 

 リディアの言葉が部屋に響いた瞬間、自分でもその言葉の重みに息をのんだ。この考えが正しければ、常識が覆り、敵は既に身近にいるということになる。

 

 リディアはようやく言いたいことを口にできた小さな爽快感を感じるとともに、うっすらとした後悔を同時に感じていた。

 本当にこんなことを発言して良かったのか? これは兵士という仲間を、そして壁の中で生き残る全人類に疑いをかけるような、裏切り行為だと思われるのではないか?

 

 自分には巨人化したエレンをかばおうとした前科がある。下手なことをしたら、さすがにもう許されないだろう。ただ、エレンの巨人化実験に何度も付き合い、鎧の巨人が姿をくらました理由をずっと考えてきたからこそ、この疑問に行きついたのだ。

 拳に力を入れて、上官の反応を待つ。

 

 

「よくやったね、リディア」

「え……」

 

 ハンジとモブリットは、リディアの予想に反して温かい反応を返した。

 

「君ならその考えに至ると思っていたよ」

 

 モブリットが、うんうんと頷く。

 二人とも同じことを考えていたのか。いや……二人の反応からして、既に多くの兵士がそれを事実として把握しているのかもしれない。ただ、二人がリディアに慎重に発言させたところを見ると、現段階ではあまり表立って主張するべきではない事項なのだろう。

 いずれにしても、この考え方はリディア自身の立ち位置を変えるに値するものであったらしい。ハンジがリディアの手を取り、真面目に話を始めた。

 

「今日まで正式な所属を与えず遊ばせていて申し訳なかった。リディアには、正式に私の班の一員になってもらう。次の壁外調査も一緒だ」

「は、はい!」

 

 疑問を話しただけなのに、急遽配属が決定してしまった。驚きと喜びが入り混じり、胸が熱くなる。ようやく自分の場所が見つかった気がした。

 

「君は前の分隊長の娘だから、どの新兵よりも出自がはっきりしていた。だから本当はすぐにでも私の班に加えたかったところなんだけど……これでも組織だから、色々あってね」

 

 ハンジは続ける。

 

「君の父のことも、その妻のことも、二人の馴れ初めも、親バカなところも……あの頃から生き残り続けている兵士なら、全部覚えている」

 

 ハンジの目は少し潤み、遠い記憶を辿るように柔らかくなった。

 

「だからこそ、君を調査兵団で確保しておきたかった。君は、君の父親が築き上げた『信頼』という力で、自分が思っている以上に守られている。そしてそれは君の武器でもある。だけど、それだけじゃない。今日、君の考えを聞いて、改めて一緒に働いてほしいと思った」

「よろしく、リディア」

 

 モブリットが手を伸ばして握手を求める。リディアはすぐにその手をとり、ハンジにも握手をする。

 

「……はい、よろしくお願いいたします!」

「この先の作戦で、説明できないまま進んでいく不可解なものがいくつも現れるかもしれない。ただそれでも、私を信じて作戦に従ってほしい」

 

 ハンジの発言には、今後の作戦についてまだリディアに話していない、話せないような内容が含まれていることを示唆していた。しかしリディアはそれについて詳しく問うことはせず、黙って頷く。

 

「私達が君を信じるように、君にも私達を信じてほしい」

 

 リディアは改めて父親の存在の大きさを知った。

 自分が今こうしてハンジ班に迎え入れてもらえたのも、自分が成し遂げた成果ではなく、父が作ってくれた道にただ乗りしているだけに過ぎない。でもハンジはそれがリディアの武器だと言ってくれた。恥じる必要は何もない。そして、自分も父のようになりたいと思った。今はまだ無理でも、誰かを導いてあげられるような存在に。

 

「はい。私は、父の名に恥じない立派な兵士になります。どうかこれからもご指導をお願いします、ハンジ分隊長、モブリット副長」

「うん……あれ?」

 

 何かに気付いたハンジが、突然話題を切り替えた。その目は科学的発見を見つけた時のように輝いている。

 

「リディア、ブローチが違う」

 

 ハンジはそう言って、目線をリディアのマントにつけられているブローチに移していた。

 

「あ……分かりますか?」

 

 リディアは思わず両手でブローチを隠そうとしたが、そんな動きは怪しさを増すだけだと気づいて止めた。

 

「前のはどうしたの? お父さんのブローチ」

 ハンジが首を傾げ、リディアを見つめる。

 

「訓練所で壊れてしまいました。だいぶ年季も入っていましたし、寿命だったのかと……」

「あぁ、覚えているよ。留め具もかなりガタが来ていたね」

「これは、壊れる瞬間に居合わせた同期がプレゼントしてくれたものなんです。彼が悪いわけではないんですが、自分が壊したと思っていて、責任を感じたようで……」

 

 リディアの説明には、少しだけ浮かれた嘘が含まれていた。

 その話に何かを察したようなモブリットが、思わず微笑む。その笑みには「ああ、若いねぇ」という年長者特有の慈愛が含まれていた。

 しかしハンジは難しい表情で顔をしかめ、まるで巨人の生態の謎を解くかのように、リディアに疑問を投げかける。

 

「うーん」

「ハンジ分隊長?」

 

 リディアが訪ねる。その声は少し震えていた。

 

「どうして形見でもないブローチを付けているの?」

「えっ」

 

 ハンジは、巨人の謎を追及するときと同じ真剣な表情と、子供のような純粋な瞳で質問した。

 思わぬ質問に、リディアの顔が徐々に熱くなっていく。頭の中で必死に答えを探すが、口からは「あ、え、あの、それは...」という支離滅裂な言葉しか出てこない。

 

「君のマントはまだ新しいから、あえてブローチで留めておく必要はないよね?」

「分隊長」

 

 モブリットが制止の声を掛けるが、巨人研究モードに入ったハンジは止まらない。

 

「今リディアが付けているブローチは壊れた形見の埋め合わせとして貰った別物なんだから、わざわざマントに付けておく必要性を感じない気がするけど……」

 

 ハンジの分析は容赦なく続く。机を叩きながら畳みかけるように。

 

「分隊長!」

「これが若者のお洒落ってやつかな? それともお父さんの真似をしているのかな?」

 

 ハンジは自問自答を始め、頭をかきながら部屋を行ったり来たりし始めた。

 

「分隊長、リディアをこれ以上追い詰めるのはやめてあげてください!」

 

 モブリットが両手を広げて制止するが、時既に遅し。

 かつてないほど顔を真っ赤にしたリディアが、そこに立ち尽くしていた。その顔は熟れたリンゴのように赤く、耳まで真っ赤に染まっていた。頭からは今にも湯気が出そうな勢いで、その場に溶けて消えてしまいたいという気持ちが全身から溢れ出している。

 

 何も言い返せない。

 言われてみればハンジの言う通りで、これは父の物真似ファッションでしかなく、新兵がそんなことをしているのは、はたから見れば、目立ちたがりで自己主張の強い、厄介そうな奴にしか見えないわけで……!

 

「あ、あの、これは、その、私が……」

 

 リディアの声は次第に小さくなり、最後は蚊の鳴くような音量になった。

 両手で顔を覆い隠したいのを必死に我慢している。彼女の頭上には見えない黒い雲が垂れ込め、その場にへたり込みそうになっている。

 

「形見でもないブローチを、わざわざ父親の真似をしてまで付けるという、その心理的背景にあるもの……そこから見えてくるのは」

 

 もう、泣きそう。

 リディアがブルブルと震えながら羞恥心に耐え、今にも床に穴でも開いて潜り込みたいという表情をしていると。

 

「オイ、新兵イビリはその辺にしとけ」

 

 丁度よく、呆れたようなリヴァイが部屋に入ってきた。その冷静な声は、まるで救世主のようにリディアの耳に響いた。

 

「そんなことしてないよ。ただ私は、どうしてリディアが形見でもないブローチを付けているのか気になっただけで」

「と……特別なものなんです」

 

 ハンジは両手を振りながら、まるで研究の邪魔をされた子供のように抗議する。

 かすれた声でリディアが答える。その声は半分泣きそうで、半分必死だった。

 

「本人がこう言ってる。それでいいだろ」

 

 リヴァイは冷たい目でハンジを一瞥し、それ以上の詮索を諦めさせようとする。

 

「そう? その特別っていうのは」

 

 しかしハンジはまだ食い下がる。調査報告書を書くための情報が足りないとでも言いたげな表情で。

 

「その話は終わりだ。次の用事がある……急げ」

 

 リヴァイがチラッとリディアを見た。その目線には「今のうちに逃げろ」と大きく書いてあった。まるで作戦図を見せるかのように明確に。

 

 リヴァイ兵長に、フォローに入らせてしまった……!

 

 調子に乗ったブローチ装着、エレンの巨人化実験での上官への反抗、そして、今。

 短期間でこれだけの黒歴史を作ったことに怯えながらも、リディアはその場にいる全員に大きく頭を下げて、まるで巨人から逃げるかのような勢いでその場から下がらせてもらうことにした。

 

 そのあわてふためいた背中を見送りながら、ハンジはまだ「でもなぜブローチを……」と呟いていた。それを聞いたモブリットは深いため息をつきながら、「分隊長、若い女性の心というものは、巨人の生態以上に複雑なんですよ」と諦めたように答えるのだった。

 

 

 

 

「あの、私……こんなブローチ付けてて、痛いですか……?」

 

 通称ハンジ班に正式配属ということで、リディアは先輩方に改めて挨拶に向かった。

 既に初対面ではないので温かく迎え入れられたのだが、リディアの発言を聞きしばらく考えた後、全員が一斉に噴き出した。

 

「ハハハ、なんだそりゃ! よっぽど分隊長に弄られたんだな」

「痛くないよ。覚えやすい特徴になってて私はいいと思う」

「これも第四分隊の洗礼だと思ってくれ」

 

 ニファ、ケイジ、アーベル。

 先輩達が、お腹を抱えて笑っている。

 

「ありがとうございます、本当に、ものすごく恥ずかしかったです……」

「兵長にフォローさせたんだって? やるなぁ、新兵」

「何から何まで生意気な新兵で申し訳ありません……」

「生意気上等、ただし仕事でキッチリ成果として返してくれよ」

「はい!」

「うん。いい返事」

 

 信じられないほど平和な時間だった。

 しかしその裏の現実として、壁外調査の日が一刻一刻と迫っている。

 

 

 

***

 

 

 

 一方、憲兵団に配属されたアニのもとには、一通の手紙が届いていた。

 

「ねぇ、それ男から?」

 

 ヒッチが驚きながらもニヤニヤとアニに問う。送り主はリディアだった。

 

「えっ、女? そっちが趣味だったの?」

「違う、訓練兵の同期。ただの事務連絡」

「事務連絡なんかわざわざ個人的な手紙で届くわけないでしょ。ちょっと見せてよ」

「……」

 

 アニは無視して手紙に目を通す。本当に大したことは書いていない。

 

『アニへ。憲兵団の仕事はいかがですか? 同僚とは仲良くしていますか? アニは誤解されやすいので心配です。私の方はというと、調査兵団の仕事は機密情報も多いのでここには全く書けません、ごめんね。でも、毎日自分の未熟さを思い知ることばかりです。早く父のように立派な兵士になりたいです。アニもお父さんに格闘技術を教わったと言っていましたね。早く会えるといいね……』

 

 あまりにもとりとめない文章で、その上どうでもいいことだらけだ。何枚あるんだこれは。

 

『……それではまた。返事は期待してないけど、一通くらい貰えたら嬉しいです。ではまた、リディアより』

 

『P.S. 個人的にとても嬉しいことがありました。ここには恥ずかしくてとても書けません。そのうち会えたら聞いてください』

 

 ……なんなんだこれは。

 まるでリディアの日記を読まされているようなものだ。書けないことだらけの手紙をわざわざ寄越してどうする?

 相変わらず呑気で、お人好しの、バカなやつ……アニが手紙をしまおうとすると、横から手を伸ばしたヒッチに手紙を取られてしまった。

 

「へえ。あんたにもこんな手紙くれる友達がいたんだ」

「ちょっと、返して」

「返事の一通くらい書いてあげたら? 向こうも諦めてるみたいだけど」

「……」

 

 アニは無言で手紙を取り返し、丁寧に畳んで上着のポケットの中にしまった。

 ヒッチといいリディアといい、どうして放っておいてくれないのか。リディアに至っては、どうせ訓練兵の間だけだろうと思っていたのに、手紙まで寄越してきて。

 

 本当に、呆れる。

 ため息をつくアニだったが、その表情がわずかに緩んでいることにヒッチは気づいていた。

 

 アニ自身も気づいていないかもしれないが、馬鹿正直な同期の手紙が、少しだけ彼女の心の氷を溶かしていたのかもしれない。




訓練兵団編やトロスト区の戦闘をがっつりカットしたのは、さっさとこの展開に持っていきたかったからです。
マーレの戦士3人は、グイグイ来るタイプには割と絆されるイメージがあります。受け身でウジウジとした人間に執着したり追いかけたりすることはないと思ったので、主人公は割と積極的に攻めていくタイプになりました。
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