戦場の後始末というのは、いつだって駐屯兵団の役目だった。
私――リコ・ブレツェンスカは今日、医療班の補助として、この医療施設に駆り出されている。本来なら今頃、ここは奪還作戦から帰還した負傷兵たちの呻き声と看護兵の足音で満ちているはずだった。しかし現実は違う。大部屋に等間隔で並ぶベッドの白いシーツが、まるで墓標のように空虚だった。
二百名近い犠牲者に対して、生存者は数えるほどしかいない。死者は別棟に運ばれるから、誰もいない病室は静寂に満ちている。当然のことだった。
戦後の医療体制は常に混乱していた。ベッドの半分以上が空いた病棟では、医師の目もかえって届きにくくなり、面会の制限など有名無実と化していた。
「リコさん。あいつ、また来てます」
班員の一人が、窓際のベッドを顎で示した。八床の病室の奥で、一人の兵士が椅子に浅く腰を下ろしている。調査兵団の生き残り、フロック・フォルスターだ。
「またか。何時間いるんだ、あれは」
「途中でうとうとはしていましたが、基本的にずっと起きています」
「まさか、夜通し居座っていたのか。面会の許可はどうなっている」
「さあ……追い払いましょうか?」
彼の視線の先には、重体から回復期に入ったばかりのリディア・ノイマンが眠っている。長い髪が枕に広がり、包帯に覆われた額が病室の光を鈍く映していた。
フロックは、まるで自分も患者であるかのようにじっと座り続けている。医療班の兵士が通りかかれば「お疲れさまです」と丁寧に会釈し、用事を聞かれれば「大丈夫です、お構いなく」と静かに答える。その丁寧さが、逆に周囲の不安を煽るのだ。
最初はこちらも警戒していた。だが彼は何も壊さず、何も要求せず、ただ静かに座っているだけ。
同じ地獄を味わった同期が、仲間を見舞いに来ているだけ――そう言われてしまえば、これ以上問う理由もない。要は、誰も疑う側になどなりたくないのだ。
若い兵士が、ある日こぼしたのを聞いた。
「誰か座っててくれる方がいいですよ。患者が目を覚まして、一人で叫び出すよりは」
それは感傷だった。
戦後最も厄介なのは、英雄にもなれず、名もないままに生き残ってしまった者たちだ。彼らは往々にして、自分の存在理由を他者の中に永遠に探し続ける。
「フロック。あんまり近くで見すぎると、リディアもびっくりしちゃいますよ」
リディアの手前にあるベッドから、退院を控えたサシャ・ブラウスが遠慮がちに声をかけているのが見えた。リディアと同じ部屋で療養していた彼女は、フロックという男の存在を最初から疑問視しているようだった。
「……」
「あー……でも、そっか。助けてあげたんですもんね」
「……まあな」
「だけど、やっぱりちょっと、変ですよ」
サシャの率直な言葉に、フロックは初めて表情を動かした。ほんの少し、口元が歪んだ。
「変、か?」
「あなたとリディア、仲良かった記憶ありませんから。訓練兵の頃も、そんなに話してませんでしたよね?」
長い沈黙が流れた。フロックは再び前を向き、眠るリディアの顔を見つめた。
「……確かに。仲は良くなかった」
「じゃあ、どうして?」
「わからない」
サシャが退院し、リディア一人だけが残された。本来なら個室に移されるはずだが、医療施設の混乱の中、それは叶わなかった。目を覚さないままの彼女は、大部屋にぽつんと一人きりになっている。
とある夜の見回りで、私は再びフロックを見つけた。椅子に浅く腰かけ、手を膝に置き、瞑想する僧侶のようにじっとしていた。
「出ろ。寝るなら仮眠室がある」
声をかけると、彼は静かに目を開けた。起きていたのか、眠っていたのかも判別がつかない。
「君は彼女の親族か何かか?」
「いえ。違います」
フロックの口調は穏やかで、丁寧で、だからこそ不気味だった。
「それなら君がここにいる理由は何だ」
彼は少しだけ黙った。頭の中の何かに照らし合わせるみたいに。そして小さく言った。
「あそこで生き残ったのが、俺とリディアだけなんです」
「それで?」
「それで、彼女が……死んだら」
そこで言葉が切れたが、続きを聞く必要はなかった。
生存者が他にもいることくらい、彼だって知っている。にも関わらず、自分たちだけが生き残ったかのような言い方をする理由――間違いなく彼は、自分の存在証明をリディアに委ねている。
黙り込んだフロックは、リディアの額に置かれた冷布を取り替え、絡まった髪をそっと解き、汗ばんだ頬を濡れた布で拭った。慣れたような、当然のような動きだった。
「毎日のように来て、何時間も付き添って……自分でも不気味だって分かってるだろ?」
私には、その献身の正体が見えていた。彼は看病をしているのではない。目を離したら世界が消えると怯えて、見張っている。
「フロック」
私は意を決して声をかけた。
「二百人分の亡霊を、たった一人に背負わせるようなことはやめろ」
彼の手が、リディアの髪から離れた。
「わかってます……そんなことくらい」
「私もそうだったから分かる。いつかの私も……死んだ仲間の顔が忘れられず、生き残った仲間と共に、彼らの名前を手帳に書き続けていた」
振り返った彼の顔は、月光のせいで青白く見えた。
「あのときの私は……忘れたくないだけじゃない。彼らを忘れないような自分でいたかった」
生き残った者は、死んだ者の重さを背負って生きていかなければならない。問題は、その重さを一人で背負うか、誰かを道連れにして一緒に抱えるかということだった。
「リディアが目覚めたとき、どうするつもりだ? これだけ献身的に付き添ったのだからと、その見返りを求めるつもりか」
フロックは何も答えなかった。
これは、まずい。
目を覚ましたとき、リディアは彼の献身的な看護も、必死の声かけも、何も知らない。だがフロックは、彼の体験の全てをリディアが共有しているつもりになっているかもしれない。
この二人は、すれ違う。
避けようもなく、きっと。
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施設の裏手で、私は駐屯兵団の同僚と立ち話をしていた。夕暮れの薄明かりが、煉瓦造りの建物の壁面を赤く染めている。同僚は疲れたようにため息をついて、呟いた。
「また来てたな、あの彼氏ヅラ」
いつの間にか、フロックは「いて当たり前の存在」になっていた。兵士たちも、リディアの看護に関しては「とりあえずフロックがいるなら大丈夫だろ」「任せときゃなんとかなるか」と顔を見合わせ、そっと目を逸らすようになっていた。
「恋人じゃないってさ。本人が何回も否定してた」
「じゃあ何なんだよ、あれは」
同僚の声には苛立ちが滲んでいた。
「医者からも身内扱いされてたぞ」
そこに、エレン・イェーガーたち104期生がやってきた。面会のためだろう。彼らの足音が石畳に響く。
「おーい、エレン」
同僚が声をかける。
「フロックって奴、昔からあんなんだったのか? お前らの同期だろ」
エレンは困惑したような表情で首を振った。
「もっと普通のヤツでしたよ。成績も中くらいで、目立つようなタイプじゃなかった。口は達者だったけど、どちらかといえば臆病で……」
「喧嘩以外でリディアと会話してるとこ、見たことないな」
コニー・スプリンガーが首をかしげる。彼の言葉は、私たち全員が感じている疑問を代弁していた。
「どうなっちまったんだか」
同僚が吐き捨てるように言った。
「まるで骨抜きだ」
私たちの視線の先で、病棟から静かに離れていくフロックの姿が見えた。いつものように控えめな足取りで、しかしその目には、生者が持つべき光が宿っていない。まるで死者が歩いているかのような虚無の瞳で、彼は去っていく。
「あいつ、このまま放っておいて大丈夫か?」
同僚がフロックを顎で指し示すと、ジャン・キルシュタインが眉をひそめた。
「……変に止めたらそれこそ、リディアが目覚めたときに『恩知らず』になります」
「でもあれ、もう看病じゃなくて呪縛だぞ」
同僚の言うとおりだった。フロックの行動には、もはや正常な人間関係の範疇を超えた何かがある。それは愛情でも友情でもない。もっと屈折した、もっと病的な何かだ。
「まだ、様子を見ます」
アルミン・アルレルトが思案深げに、しかし断固とした口調で答える。そして、エレンが再び呟いた。
「リディアが目を覚ましたとき、あいつが隣にいたら……どう思うんだろうな」
「怖がるだろ。多分」
ジャンの答えは簡潔で、しかし的確だった。私たちは皆、その通りだと思っていた。
しばらくの沈黙の後、同僚がぽつりと口を開いた。
「……一緒に生き残ったのが男じゃなくて女だったのが、最悪だな」
その言葉が空気を重くした。
「俺だけじゃない。みんな思ってる……分かってるだろ?」
誰もが薄々感じていた不安を、彼は言葉にしてしまった。
戦場で生死を共にした男女。片方が意識を失い、もう片方がその傍らに付きっきり。
危険な方向に転ぶのは、明白だ。
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リディアが目を覚ましたと聞いて、人が押し寄せた。彼女の目が開いたのを見ると、誰もが同じ言葉を言った。「よかった」と。その言葉が、私の喉で詰まった。
リディアの目は、どこか遠くを見ていた。生還を喜ぶような眼差しではなかった。焦点の定まらないその視線は、まるで過去に置き去りにされた何かを探しているようだった。
翌日、医師が一通りの検査を終えると、フロックが椅子を彼女のベッドサイドに引き寄せた。まるで、それが自分の当然の権利であるかのように。
「気分はどうだ?」
彼の声は優しかった。しかし、その優しさには不穏な響きがあった。
「……大丈夫」
リディアの声は小さく、どこかぎこちなかった。彼女は記憶を手繰り寄せるように、慎重に言葉を選んでいるように見えた。
「ありがとう。付き添ってくれて……」
「別にいい」
フロックは彼女の手に触れようとして、しかし途中で止めた。彼女が微かに身を引いたからだ。
数日後、廊下での引き継ぎ中、私は病室の扉の隙間から彼らの会話を耳にした。
「ジャンもコニーも、お前のことはもう戦力外だと思ってる」
抑えた声だった。語気に怒りはない。ただ、氷のように冷たかった。
「お前がいなくても困らない、ってさ」
私は足を止めた。扉を開けることも、通り過ぎることもできず、ただその場に立ち尽くしていた。この会話の異常性に、身体が硬直してしまったのだ。
若い看護師が私に囁く。
「あれ……何なんですか?」
「あいつ」
私は首を横に振った。フロックがやっているのは、彼女を外界から切り離すことに他ならない。
「お前なにやってる。用事がないなら帰れ」
私は部屋に遠慮なく入り込み、フロックを病室から追い払った。
彼女が歩けるようになったと聞いて、コニーとサシャは果物を買ってきたし、ジャンは替えの外套を寄付した。ミカサとアルミンは彼女の回復を気にかけて、何度も様子を尋ねに来ている。エレンだって彼女を心配していた。
全て知っているはずのに、なぜフロックはあのようなことを口にするのか。
だがリディアは、それでも彼を嫌ってはいないようだった。
リハビリを続ける彼女に、一度だけ訊ねたことがある。
「あいつ、うるさくないか?」
「何も言わないときの方が、ちょっと怖いんです」
彼女は少しだけ目を伏せて言った。それが、彼女なりの答えだったのだろう。フロックの沈黙は、彼女にとって言葉よりも恐ろしいものだった。
「なぜ拒絶しない?」
私は思い切って尋ねた。リディアは長い間考えてから、ためらいがちに答えた。
「フロックがいなかったら、私は死んでいました。それは事実です」
「だからといって、君の人生を捧げる必要はない」
彼女はそう言ったあと、自分の手を見つめていた。それが今も自分のものであるかどうか、確かめるように。
「そう、ですよね……」
その声には、救いを求める響きがあった。だが同時に、諦めの色も濃く滲んでいた。
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ほどなくしてリディアは退院することになった。私が医療班でいた時期はわずかな期間だったので、リディアが復帰する前に、私はすでに駐屯兵団の任務に戻っていた。
彼らの奇妙な関係は、その後も平行線のままだったようだ。
同期として、兵団の同僚として、戦場を共有する者として。それは「共に生き延びた」という事実によって結びつけられた歪な絆だった。
支え合っていたのではない。ただ、お互いに「見捨てられなかった」のだろう。
一度だけ、兵舎の外で二人の姿を見かけた。口論になっていた。リディアが何かに同意しなかったのか、フロックの声は普段の抑制を失い、荒れていた。
「お前は分かってない」
彼の言葉が聞こえてきた。
リディアの返事は聞こえなかった。だが、彼女の背中は小さく震えているように見えた。堪えているのか、怒っているのか、それとも両方なのか。
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後日、リディアがヒストリア女王の視察に同行する護衛に推薦されたという話が届いた。それは彼女にとって久々の大きな任務であり、そして何より、フロックから離れる機会でもあった。
私も偶然トロスト区内でリディアを見かけ、声をかけてやろうと思ったら、彼女は同期の仲間たちと短い会話を交わしているところだった。
「大丈夫、うん。戻ったらまた連絡する」
そんな言葉が聞こえた。今にもかすれそうな声だったが、はっきりと、笑っていた。
荷物を持ち、女王の護衛に就く一行の中で、リディアは軽く片手を挙げて見送る仲間たちに応えていた。足取りはまだ本調子ではない。だが、表情は晴れていた。
そのとき私は、建物の影に立つフロックを見つけた。彼はじっと、声も出さず、ただリディアの姿を睨みつけていた。
誰も彼に声をかけなかった。彼もまた、声をかけられることを期待していないようだった。
リディアは、フロックがそこにいることに気づいているのだろうか。一度も振り返ることなく、彼女は仲間たちと共に歩いていく。
影の中に立つ男と、光の中を歩く女。
二人の間には、もう取り返しのつかない距離が生まれているように見えた。
救われるために、救った者から離れる。どれほど残酷な選択に見えたとしても、それはおそらく最良の結末だったのだろう。
この時はもう、二人の関係はこれで終わったものだと思っていた。
数年後――リディアが、誰の目から見ても不可解な選択をするまでは。
導入長くてすみません。