マーレの義勇兵イェレナが初めて近づいてきたあの日。風は俺を責めるかのように冷たかった。
靴音は一歩ごとに均等で規則正しく、表情は笑みを浮かべているのに、その足取りは笑っていなかった。妙な違和感が背筋を這い上がってきたことを、今でもよく覚えている。
「こんにちは、フロック・フォルスター」
「何の用だ」
「あの人、リディアでしたっけ。あれはずいぶんと恩知らずな女ですね」
開口一番それだった。イェレナの目は笑っていたが、その声には爪のような鋭さがあった。
「ウォール・マリア奪還作戦。あなたがリディアを助けたのに、彼女は他の連中とばかりつるんでいる」
「関係ない。元を辿れば、お前らマーレが原因だ」
「おっと……それを言われると辛いところです」
イェレナの肩が、ひとつ軽く揺れた。
「もう一度だけ聞く。何の用だ」
「調査兵団が計画しているマーレへの潜入調査に、あなたが参加されないと聞きました」
「それがどうした」
「正解です、とだけ申し上げておきましょう」
イェレナは薄く笑った。
「調査兵団の皆さんは『自分の目で見なければわからない』と主張なさる。実に素晴らしい性質だ。だが我々義勇兵は、世界がエルディア人をどう見ているかをすでに知っている。潜入なんて無駄足ですよ。今、そんな悠長な時間はない」
「……俺には関係ない話だ」
「ただ、あの集団の中で一人だけ。エレンだけは違う。エレンと、お遊び気分の他の連中は根本的に違う。何が違うか、おわかりですか?」
声の奥に、冷たい刃のようなものがあった。それは答えを求めていない問いかけだと思った。彼女は既に、自分なりの答えを用意している。
「危機意識、そして切迫感です。あなたが潜入調査を拒んだのも、同じ理由でしょう?」
イェレナは不気味な微笑みを浮かべながら続けた。
「今できることは、呑気な話し合いなどではない。軍備を固め、女王による巨人継承の時期を見極め、技術の遅れを取り戻し、世界と渡り合う時間を稼ぐ……たとえ部分的でも、地鳴らしに頼らなければ、敵から身を守ることはできない。この島にできるのはそれだけです」
「よくもまあ、ぺらぺらと語ってくれるな……この女狐が」
「世界情勢や巨人の生態については、パラディ島の方々より少しだけ詳しいものですから」
皮肉はイェレナには全く刺さっていないようだった。彼女の笑みは微動だにしない。
「急がなければ間に合いませんよ」
イェレナは声音を落とした。
「ここだけの話ですが、すでにマーレは宣戦布告の準備を進めています。一年もしないうちに世界連合を結成し、この島に総攻撃を仕掛けるつもりだと」
その言葉に、衝撃が走った。
「……なんだその話は。もう兵団には伝えてあるのか?」
「いいえ。今、あなたに初めてお話ししています」
「は?」
彼女の意図が測れず、思わず声が漏れた。
「俺に? 人望も権限もない末端の俺に、わざわざそんな機密を?」
「目的のためです。単刀直入に申します。私をエレンに会わせてください。誰よりも早く彼に伝えなければ、この島はなすすべもなく海に沈む」
「そんなこと……兵団の上層部から伝えさせろ」
「へえ」
彼女の目が細められる。
「あなたが兵団を信用なさるとは。ずっと不満をお持ちのように見えていましたが」
「……」
「今の兵団や政権を、本当に信用していらっしゃる?」
その言い回しは、鍵穴に差し込まれた細いピックのようだった。少し回せば扉が開く。俺が自分で回したのか、それとも勝手に回ったのか。今でもよくわからない。
「別に裏切れと言っているわけではありません」
イェレナは両手を軽く挙げて見せる。
「ただ、少しばかりの協力をお願いしたいだけです」
その声は、扉の鍵を開けるための囁きだった。
結局、俺はエレンとイェレナを引き合わせてしまった。
動機なんて整っていなかった。イェレナに求められたという事実が、空洞だった俺の胸に、わずかでも形を与えたのは確かだ。どんな相手だろうと、どんな目的だろうと――役割を求められるという感触は、いつだって人を酔わせる麻薬になる。
あるいは、絶望で鈍くなっていた舌が「もう全部どうでもいい」と呟いていたのかもしれない。
どちらでもよかった。理由など後からついてくる。結果だけが静かに動いた。
密会の部屋で、エレンは黙ってイェレナの話に耳を傾けていた。彼女の言葉は乾いた薪のようで、少し火をつければ、よく燃えた。
ジークの安楽死計画。脊髄液入りのワイン。兵団上層部には、はるか以前からそれが出回っていたという事実。
イェレナは俺が盗み聞きすることを見越していたのだろう。すべては計算済みであることが、今となっては明白だった。
彼女が去った後、部屋の空気は張り詰めたまま、音もなく千切れた。俺とエレンは、その静寂の中で目的を共有した。島の外にあるすべてを、地鳴らしの力で完全に消し去る――そんな、真の目的を。
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「世界を滅ぼす」
エレンの言葉を聞いた時、俺の心は躍った。無気力だった身体に突然電流が走ったかのように、生気が戻り、血が熱くなるのを感じた。
「なぜ俺に話した。ミカサやアルミンはどうするつもりだ」
「あいつらは何もわかっていない。ミカサは人の言いなりで、アルミンはアニのところに通ってばかり……敵兵に心を奪われているという意味では、サシャもリディアも同じだ。誰も信用できない」
「リディアだと?」
その名前が出た瞬間、俺の背筋が硬直した。
「リディアとライナーは恋人同士だった。知らないのか?」
頭が真っ白になった。
「は? ライナーと、リディアが?」
「あいつはまだ、ライナーに貰ったブローチを捨てていない。そんな奴をオレが信用できると思うか」
言葉が胸に落ちてくる前に、エレンは続けた。
「……嘘だろ」
喉の奥から絞り出すように声が出た。
「リディアの母親を殺したのは、ライナーだぞ。それなのに恋人? ふざけてんのか?」
「現実だ。ライナーの奴、何を考えていたんだか」
「遊びにしたって、他にいくらでも相手は選べただろうが」
「まぁ、深くは知らん」
エレンの声は冷たかった。
「ただな、リディアはマーレへの潜入調査を志願している。会いたかったんじゃないか? 昔の恋人に」
その言葉が、胸を抉った。
頭の中で、何かがぐちゃぐちゃに掻き混ぜられていく。怒りなのか。悲しみなのか。失望なのか。それとも、ただの空虚なのか。
「フロック。お前だけが事態を理解している。パラディ島がどうあるべきか、何を守り、何を切り捨てるべきか。この役割を務められるのは、お前だけだ」
「……」
「オレは、海の向こうにいる人類を殲滅する。お前は島を導け」
「俺が?」
「この地獄から、島の人類を救うんだ。オレたちにしかできない」
後からよく考えれば、エレンの言葉は、俺にとってあまりにも都合が良すぎるものばかりだった。今までほとんど話したこともなかったエレンが、ここに来て突然俺なんかを選ぶわけがない。
だが――別に利用されても構わないと思った。
エレンは今、俺が心から渇望してきた悪魔になると言っているのだ。その手を取らない理由がどこにある?
悪魔。そんな単語が優しく聞こえるくらいの何かになることを、エレンは選んだ。
闇が晴れる。そんな予感がした。
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「おい、何してる」
「マーレに発つための準備だけど」
リディアは淡々と返事をしたが、俺にはその緊張が伝わっていた。
彼女が警戒するような表情を見せたのを見逃さず、俺は意図的に扉を開けたままにして室内に足を踏み入れた。
リディアは一瞬だけ顔を上げて俺を見た。その視線には「何を企んでいる?」という疑念が浮かんでいた。俺はそれを受け流し、部屋の中へと一歩、また一歩と進んだ。
「前にも言ったよな。俺たちに必要なものは、人類を導く悪魔だって」
「またエルヴィン団長の話?」
リディアは背を向けたまま荷物の整理を続け、視線を合わせようとしなかった。
準備室には、紙と皮紐の匂いが充満していた。地図は畳まれては開かれ、リディアの指が線をなぞるたび、島の外に小さな穴が空いていくようにも見えた。
俺とリディアは、二人きりで部屋の中にいた。彼女と面と向かって話をするのは、ずいぶん久しぶりのように思えた。
「マーレに潜入なんかしてる場合じゃない」
気がつけば、そんな言葉が口をついて出ていた。リディアがようやくこちらを振り向き、俺は真正面からリディアを見据えた。
「義勇兵から情報は出尽くしてる。市井を覗いて、何が変わる?」
彼女の表情に動揺は見られない。
「自分の目で見て知ることに意味がある。ハンジさんも、オニャンコポンもそう言ってた」
「それも誰かの判断に寄りかかってるだけだろ。お前自身の決意は一体どこにあるんだ?」
「どうして私にだけ言うの? 放っといてよ」
「兵団を一致団結させる方が先だろ。今、壁内には迷っている兵士たちがたくさんいる。誰かが導いてやらないと、島を守ることはできない」
一歩リディアに近づいた。リディアが後ずさりしたのが分かったが、彼女の背後には机がある。
「俺たちは今度こそ、心臓を捧げた仲間たちに意味を与えられるんだ」
俺は決然とした足取りでリディアに近づき、彼女の右手首を掴んだ。彼女は身を引こうとしたが、俺は手を離さなかった。
「なぁリディア、お前は」
「……私だって、潜入調査に疑問がないわけじゃない」
リディアが突如、言葉を遮った。そしてそのまま俺の手を振り払う。
「でも、どう探したってヒストリアの犠牲を避ける方法が見つからない。だったら平和的な解決方法を探しに行くことなんて、当然でしょう」
その言葉に額の奥が軋むような気がして、右のこめかみを人差し指で押さえた。
「……無茶な理想ばかり語るな。死線をくぐっても相変わらずだな、このお花畑が」
リディアは女王の護衛任務を経てから、異常なまでにヒストリアに固執するようになっていた。その理由を俺はなんとなく察していた。
誰かに選ばれたという、あの甘美な喜び。自分がただの一兵士ではなく、何かの意味を託された存在であるという実感。それを彼女は手放せずにいるのだろう。
俺には、痛いほどそれがわかる。やっぱりリディアは、俺に似ている。
「女王を犠牲にしないで済む方法だと? そんな手段を選べる奴なんて、この世界で……」
「選ぶ?」
その瞬間、リディアの瞳がわずかに細められた。微かな変化だったが、鋭い光が差し込んだように感じられた。
「今、選ぶって言った?」
口の中が急に砂のように乾いた。
エレンに「誰にも話すな」と釘を刺されていたことが、遅れて脳裏で警鐘を鳴らす。だが、もうすでに一歩を踏み越えてしまっていた。そして今、さらにもう一歩を踏み越えようとしている音が聞こえる。
「フロック。何か別の選択肢を知っているの?」
言葉を呑み込んだ俺の沈黙を、リディアは長い間見つめていた。そこには責めも怒りもない。ただ、何かを測ろうとする冷静な眼差しがあるだけだった。天秤に乗せられているのは、俺の舌が抱え込んだ秘密の重みだ。
俺とリディアは、埃くさい準備室から静かな別室に移った。
「……飲んで」
そう言って、リディアが俺に紅茶を差し出した。安物の茶葉でも、立ち上る湯気は、どこかやさしい匂いを運んでくる。
カップを両手で包み込むと、掌に熱が伝わってきた。熱いものに触れるたびに思う。俺はまだ生きている、と。
「知っていることは、いま全部話した」
ジークの安楽死計画。脊髄液入りのワイン。兵団上層部に出回っていた事実。マーレの宣戦布告が迫っていること。俺はすべてを語った。
「この話が兵団に伝われば、義勇兵は即刻、全員拘束されるだろう。もしも話の出所が追われたら……俺たちは報復を受けるかもな」
リディアは紅茶の琥珀色を静かに見つめていた。注がれた液面は穏やかで、俺の声が作った小さな波紋も、すぐに消えていく。そんな風に見えた。
俺は吐き捨てるように言った。
「お前が言わせたんだ。ここまで聞いたなら、お前ももう戻れない」
自己弁護に聞こえるのはわかっていた。だが、俺の口が選んだ言葉はそれだった。
「その上でもう一度言う。マーレに行くのはやめろ。意味がないって、分かっただろ」
そして、もう一つ。頭の中で言葉の重さを測ってから、俺は口を開いた。
「報われない想いに固執するなんて、ただの自殺願望だ。だから……」
「わかった」
しかしリディアは俺の言葉を遮って、言った。
「私は島に残る」
彼女はそこで一度息を吸い、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「ここで……あなたと一緒に、エレンの共犯者になる」
彼女はその言葉を放ってから、紅茶を口に含んで、喉を通す温度を確かめるように、ゆっくりと飲み下した。そして、少しだけ頷いた。
共犯者。リディアの放った言葉に眉をひそめる。
それは同志でも、仲間でもない。救いでもない。味方でもない。それでも――妙にしっくりきた。今の二人にぴったり合う単語は、それしかなかった。
なぜこの時リディアが頷いたのか。後になっても、俺にその理由が分かることはなかった。
海の外を見に行くと言った彼女が計画を取りやめたのは、ヒストリアのためか、エレンのためか。少なくとも、俺のためではなかっただろう。
でも、分からなくてよかった。
分からないままでも、俺は久しぶりに救われたような気がしていた。彼女が昏睡から戻って以来、そんな感情は初めてだった。湯気が目にしみる。熱のせいにできるうちに、息を吐いた。
俺たちは、やれることをやる。兵団にこの情報は渡さない。エレンのため、ヒストリアのため、そして同胞たちのためだけに動く。この選択が正しいかどうかは、後でこの島が決めるだろう。
俺がティーカップを置くと、彼女も置いた。音は小さかった。
約束というのは、細い糸みたいに軽いくせに、喉元に巻きつくと重い。俺はずっと、その重さが欲しかった。重さがないと、人間は簡単に風で転ぶ。
俺はすっかり染みついた癖で、つい自分の髪を指で整えようとしたが、やめた。誰かに見つけてもらうための目印なんて、もう必要ない。そんなことをしなくても、たった一人の共犯者は、救われた命の借りを返すために、今だけだとしても……隣にいる。
サブタイトルはnecessary evilをもじったものです。
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