サムエル・リンケ=ジャクソン。
随分と大層な名前を付けられたものだと、自分でも思う。
カラネス区とウォール・マリアを隔てる重厚な壁の前で、調査兵団のマントが風に煽られて翻った。背負われた翼の模様が、軽々しく風に揺れている。命を預けたはずの布があんなにヒラヒラしていていいのか、いつも不安になる。
名前の重さだけが取り柄の俺とは、まるで真逆だな。
そんなことを考えた。
調査兵団による第57回壁外調査の前日。俺は彼らが荷を運ぶための手伝いをした。志願したわけじゃない。たまたま人手が足りなくて、怪我人でも使えるところに回された、それだけだ。
それでも、目は勝手に探してしまう。
エレン、コニー、サシャ。そして……もういないはずの、トーマスとミーナ。あの日、トロスト区の壁上で一緒に固定砲台の整備を担当していた同期たち。同じ訓練所にいた連中が当たり前のように調査兵団の隊列に加わる姿を、俺は遠くから見ていた。
俺だけは駐屯兵団にいた。
残された、と言うほうが正しい。トロスト区でやらかした結果のふくらはぎは、今でも寒いと鈍く疼く。全力で飛ぶのが怖いが、それを認めたくないままに、ここにいる。
あいつらは違った。怖いはずなのに、前に出た。出られなかった俺は、その背中に勝手に借りを作った。
生きて帰れよ、なんて言えない。言ってしまえば、同じ場所に立っているみたいだ。だからせめて、黙って荷の紐を結んで、頷いて、見送るふりをした。
負い目は薄くなるどころか、日を増すごとに強まっていく。誰かの死を聞かされるたび、あいつらの誰かかもしれない、と思う。でも、そう思うたびに「じゃあ俺はここで何をしてるんだ」と返ってくる。
だから決めた。無謀な夢は見ない。見ないほうが楽だ。
そうやって、負い目と一緒に、駐屯兵団に居座っていた。
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夜の見張り台は、世界が縮む。灯りと闇の境目だけがはっきりして、人間の声も、足音も、ぜんぶ不自然に大きくなる。
手すりに肘を乗せて街並みを眺めながら、俺は脚の違和感を誤魔化すように体重を移した。寒いし、痛いし、眠い。こういう夜は、頭の隙間から昔の記憶が這い出てくる。
肉……。
トロスト区で、サシャが上官の食糧庫から盗んできた肉。土地を奪還したらもっと食ってやる、って、俺たちは笑って言った。あんなことを本気で言えたのが、今では信じられない。
記憶を追い払おうとした瞬間、背後で足音がした。二人分。しかも、ためらいがない。夜番の見回りの歩き方じゃない。目的を持って近づく足音だ。俺は反射で武器を構えた。
「サムエル。話があるんだが」
低い声。次の瞬間、隣に立つ影が、月明かりに輪郭を取った。
一人は、フロック・フォルスター。もう一人は、リディア・ノイマン……なんだ、この奇妙な組み合わせは。
俺は一度だけ、下を見た。見張り台の梯子の方。誰にも気づかれずに上がってきたというわけじゃないらしい。上がってきたのに、止められていない。つまりこいつらは、堂々と来ている。誰かに見られてもいいように、あるいは見られる前提で。
胸の奥が嫌な音を立てた。
「驚かすなよ……珍しい組み合わせだな」
軽口を叩いたつもりだった。でも声が少しだけ固かった。
リディアは俺の足元――脚に、一瞬だけ目を落とした。言葉はない。けど、その視線が一番痛い。お前は「ここ」なんだな、って言われた気がした。
フロックは手すりに腕を預けた。見張り台の上にいる兵士みたいな顔で、自然に、ここの空気を自分のものにする。
「お前、今の兵団についてどう思う」
話が唐突すぎる。でも、理由は少しだけ分かる。ここは長話できるような場所じゃない。夜番は交代があって、時間が経てば誰かが上がってくる。つまり二人は、俺が返事をするまでの時間も計算に入れて来た。
「なんだよいきなり。別に思うことなんかない。怪我して使いものにならない俺を雇い続けてくれるんだ。不満なんかないよ」
言いながら、胸の奥が熱くなる。不満がないわけがない。不満を言う資格があるかどうか、の方が問題だ。俺は前線に出なかったが、こいつらは出た。その差を俺は、ずっと都合よく見ないふりしてきた。
「それ、本心か?」
フロックの声は淡々としていた。責めているんじゃなく、慰めてもいない。ただ、それでも逃げ道を塞ぐみたいに静かだった。
「……お前ら。何を企んでるんだか知らないが」
俺は小さく苦笑して、先に釘を刺した。
「俺はもう、無謀な夢は見ないって決めたんだ。一瞬でも調査兵団志望だった昔とは、もう違う」
言い切ったはずなのに、リディアの顔を見た瞬間、喉がひりついた。違う、って何だ。俺は、自分が変わってしまったようなつもりになってるだけじゃないのか。
リディアが口を開いた。フロックが言わせてる、というより――リディアが言う必要がある、と分かってる空気だった。
「でもサムエル。私たち、まだ『肉』を食べていない」
「肉? なんの話だ」
口ではそう返しながら、心のほうが先に思い出してしまった。トロスト区。サシャ。あの匂い、あの笑い。そして、いまだに土地を奪還できていない現実。
「みんなで食べるって約束したんでしょ。サシャが内緒で食糧庫から盗み出した、あの肉を」
おい、なんでその話を知ってる?
その疑問が遅れて湧いた。でも、答えもすぐ出た。サシャの珍妙なエピソードはとにかく多い。誰かがこいつらに話したんだろう。
俺はそこで、さっきの違和感の形がはっきりした。この二人、ただ一緒にいるんじゃない。わざわざ俺を口説くために、役割を分けて来てる。フロックは煽り、リディアは過去を持ち出す。刺さる順番を知ってる。
嫌なはずなのに、心のどこかが、妙に楽だった。こいつら、俺のことを「使える」と思ってる。つまり、俺にもまだ役目があるってことだ。
「そんなこともあったな……」
俺はマントの襟を引き寄せて、視線を逸らすように空を仰いだ。言葉にしたら、負い目が溢れそうだった。
「土地を奪還したら、肉にも食糧にも困らなくなるって。あの頃は本気で、そんな夢を見ていたな」
声が少しだけ軽くなった。遠くから夢に触れているみたいに。フロックが、その隙を逃さない。
「夢を見たのはお前だけじゃない。俺たちもそうだった」
俺は横目でフロックを見た。こいつ、いつからこんな言い方をするようになった。
そしてリディア。彼女はかつて俺が見送った側の人間だ。そんな奴が、今こうして夜の見張り台まで来ている。
その事実だけで、胸の奥がきゅっとなる。
二人はわざわざ、俺のところまで来た。こんな寂れた見張り台に足を運んでまで。
俺は探るように言った。
「肉の話、よく知ってたな。リディアはあの場にいなかったのに」
リディアはほんの一瞬だけ目を伏せて、それから俺をまっすぐ見た。
「あなたが手を貸してくれたら、きっと変えられることがある」
ずるい言い方だ。変えられるなんて言葉は調査兵団の常套手段で、そして俺が言えなくなってしまった言葉だ。
「俺程度の奴に何ができるってんだ」
吐き捨てたつもりなのに、怒りにならない。断りたいのに、断り切るだけの芯がない。
「そう思ってる奴だから誘いに来たんだ。夢を怖がるやつは、ちゃんと現実を見てる」
俺は笑いかけて、止めた。笑ったら全部が軽くなる。軽くしたら、俺はまた逃げてしまう。逃げたくない気持ちが、今夜に限っては勝っていた。
しばらくの沈黙のあと、俺は息を吐いた。白い息が風に千切れる。
「……お前ら、二人して何を企んでる?」
疑うような言葉のはずなのに、口元にかすかな笑みが浮かんでしまった。自分でも分かる。話を聞く理由を、俺はもう作ってしまっている。
「サムエル……」
「話を聞かせてくれ。あのときの約束、俺に叶えさせてくれるんだろ?」
手すりに片手をかけて呟くと、フロックとリディアは何も言わずに頷いた。その頷きは、俺に居場所を与える合図だった。
夢を見ないと決めた男が、負い目を言い訳にして、もう一度だけ前に足を出してしまう。そんな夜だった。
サムエルのフルネームを調べたときの正直な感想
さ……サミュエル・L・ジャクソン!?
長々とした導入ばかりが続く中、気長に付き合っていただけるのは本当にありがたいです。今日はもう1話更新しますね。