「楽園の島の魔女」(完結)   作:雄魔雌

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EP.6 Begin Again 2(ダズと雪)

 煤けた暖炉の前にしゃがみ込むと、石の冷たさが膝から骨へじわじわ上がってくる。

 誰も使わなくなった補給倉庫は、古い木と湿った麻袋のにおいがした。隙間風がどこからともなく流れ込み、火のない暖炉の中の灰を、かすかに撫でていく。耳を澄ますと、崩れるでもなく、ただ、さらりと形を変える音がする。

 俺は手のひらをこすり合わせた。擦っても擦っても、温かさは戻ってこない。あの夜と同じだ。

 

「……俺なんか、何したって足手まといだろ」

 

 口に出した瞬間、喉の奥がきゅっと縮んだ。言いたいことはそれじゃない。けど、いきなり本題に触れたら、ここで息が止まってしまいそうだった。

 

 今、目の前にいるのは同期だ。フロックとリディアがいる。暗がりでもわかるくらい、二人は目が鋭い。別に嫌いな奴らじゃない。そもそも俺は、誰かを嫌いになれるほど強くない。

 

「臆病だから生き残るんだ。そういう奴が必要なんだよ」

 

 フロックがさらっと言う。ただの事実みたいな口ぶりで、腹が立つはずなのに、俺の胸は少しだけ軽くなる。こういう言い方をされると、逃げ道を用意してもらったみたいで。

 

「本当にそう思ってんのか?」

 

 それでも声は、自分でも情けないくらい弱かった。でも、目だけは逸らしたくなかった。答えが欲しくて仕方なかった。

 フロックは俺を見た。何か言いかけて、やめる。代わりに、顎をわずかに上げた。……話せ、とでも言うみたいに。

 

 俺は唇を噛んだ。息が白い。倉庫の暗がりの中で、自分の吐息だけがやけに目立つ。

 言うなら、今しかない。

 そう思った瞬間、脳裏に雪が降った。

 

 

 

---

 

 

 

 雪山訓練のあの日、夜の寒さは何かの罰みたいだった。

 ただ寒いだけじゃない。寒さが、手足の先から心臓に向かってじわじわ侵入してくる。息を吸うたび、肺の内側が痛い。鼻の奥がつんとする。瞬きをすると、まつげに雪が絡みついて、視界が滲む。

 

「……ちょ、ちょっと休ませて……死ぬ……」

 

 言った声が、自分の耳にさえ届かないくらい細い。隣を歩く誰かの足音も、風にすぐ持っていかれる。仲間の顔を見ようとしても、みんな雪に埋もれた影みたいで、表情が読めない。

 

 怖かった。凍えることじゃない……いや、もちろんそれも怖かったけれど、本当に怖いのは、ここで倒れて誰かの足を止めてしまうことだ。倒れた自分に誰かが気づいて、引き返して、隊列が乱れて……俺のせいで誰かが死ぬということ。そんな想像が、寒さより先に心臓を締めつけた。

 

「ダズ、大丈夫? 休憩する?」

「やめろ。こんな吹雪のどこに休憩場所があんだよ」

 

 クリスタたちの声がした。俺は頷いたつもりだったけど、でも首は動かない。体が言うことをきかない。恐怖と冷えが混ざって、頭の中が白くなる。

 

 だめだ。だめだ。倒れるな。

 そう思った瞬間、膝が勝手に折れた。

 雪に顔を押しつけられて、口の中に冷たい粒が入った。舌がしびれる。涙が出たのかもしれない。でもすぐに凍っていく気がした。

 誰かの声がする。怒鳴り声みたいに荒くて、でも、必死さが混じっていて。

 

「寝袋! おい、寝袋出せ!」

「火を……!」

「こんなとこで着火するわけないだろ!」

 

 次の瞬間、俺の体が持ち上がった。

 誰かの腕。強い。肩に担がれるみたいな感覚。雪が頬をかすめて、視界がぐるりと回る。

 

「おい、しっかりしろよ。死にたいのか、臆病者」

 

 耳元で、あの声がした。

 ユミルだ。

 俺は返事をしようとして、息が漏れただけだった。気づけば寝袋に押し込まれていた。布の中は湿っていて、誰かの体温の残り香がする。ありがたいはずなのに、申し訳なさで胸が痛い。

 

「……ごめ……」

 

 かすれた声が出た。ユミルの舌打ちが吹雪に混じった。

 

 

 

 

 

 

 寝袋の中で、俺は気を失っていた。

 しかし突然、雪と風の音の向こうで何かが割れるような音がして、思わず目を開いた。

 

 骨のような木のような、硬いものが無理矢理ひび割れていく音。空気が震えて、雪がざわっと跳ねた。俺は寝袋の隙間から、必死に外を覗いた。

 

 白い視界に、眩しい光が走った。

 何か大きな影が立ち上がる。

 

 それが人間じゃないと理解するより先に、胃がひっくり返るような恐怖が来た。背中の皮が剥がれるみたいにぞっとして、口が勝手に開いた。でも声は出ない。

 

 影の輪郭。長い腕。大きすぎる体。

 ……巨人?

 

 俺は見てしまった。

 そして運悪く、理解してしまったのだ。あの影の中心にいたのが、間違いなくユミルなのだと。

 

「……っ!」

 

 叫びたかった。助けてって言いたかった。違う、違う。誰かに知らせなきゃいけなかった。ここに巨人がいる。このままじゃ仲間が……いや、でも。その仲間がユミル?

 

 寝袋の中で、俺はただ硬直した。

 あの瞬間から、俺の中の時間はずっと凍ったままだ。

 

 

 

 

 訓練生活が戻っても、俺の体のどこかはずっと雪山に置き去りになっていた。

 すれ違うたびに、ユミルの背中を見てしまう。

 ただの人間の背中だ。華奢な肩は骨ばっていて、ちっとも逞しくない。それなのに俺の脳裏では、あの日の影が重なる。

 

 見間違いだ。疲れてた。意識が飛んでた。そうだ、きっと。そう言い聞かせるたびに、別の記憶が刺さってくる。

 寝袋の中の湿った温度。ユミルの腕の強さ。あの舌打ち。

 命の恩人。それなのに俺は、彼女を疑っている。怖がっている。誰かに言おうとしている。最低だ。

 

 

 

 

 昼の訓練場で、クリスタがパンを手渡しに来てくれた。

 

「ダズ。食欲がなくても、少しは食べたほうがいいよ」

 

 小さな手。少し照れた笑顔。細い指がパンを押し出す。俺は受け取る手が震えそうになって、慌てて拳を握った。

 

「……あ、ありがと」

 

 そのとき、背後からユミルの声が飛んだ。

 

「クリスタ。お前、ほんとそういうとこだぞ。自己管理もできない臆病者に餌付けすんな」

 

 冗談みたいに言って、ユミルは俺の頭を軽く小突いた。

 

「おい、痛い……」

 

 笑って返せたはずなのに、口角がうまく動かなかった。俺が固まっているのに気づいたのか、クリスタが困ったように眉を下げる。

 

「ユミル、あんまり……」

「はいはい。女神様がそう言うならやめるよ」

 

 ユミルの笑い方は軽くて意地悪で、いつも通りだった。だからこそ余計に怖い。

 そして彼女の目が、ふと俺を見た。

 

「ダズ。寒いのと……そうだ。眩しいのも、苦手だったよな?」

 

 何気ない台詞。なのに、俺の背中に冷たい汗が滲んだ。

 

 雪山。

 寝袋。

 光。

 骨が割れるような音が、耳の奥で再び響いた。

 

「……え、いや……」

「へー。じゃあ今度、また雪のとこ行くか?」

 

 ユミルは楽しそうに言う。クリスタが「やめてよ」と言いながら彼女の背中を叩く。俺だけが笑えない。

 

 こいつ、気づいてるのか? そんなはずない。俺は誰にも何も言ってない、見ただけだ。ただ、見ただけで……。

 

 もう一度ユミルを見る。

 人間だ。巨人なんかじゃない。そう確認するたびに、胸が少しだけ落ち着く。でも落ち着いた直後に別の声が頭の中で囁く。

 

 ――じゃあ、俺はどうやって助かったんだよ?

 

 もう、自分の記憶を信用できなくなっていった。

 

 

 

---

 

 

 

 そして、今に至る。倉庫の暖炉の前。灰の匂い。手の冷たさ。俺はとうとう、長年黙っていた言葉を吐き出してしまった。

 

「俺、本当は……見てたんだ」

「何を?」

 

 フロックとリディアの視線が刺さる。逃げるなら今。でも逃げたら、また凍った時間に戻るだけだ。

 喉が鳴った。俺は唾を飲み込んで、息を吸う。肺が痛い。雪山みたいだ。

 

「ユミル。あいつが……雪山訓練のあのとき、巨人になった瞬間を……」

 

 言った瞬間、世界が止まった気がした。暖炉の灰が、さらりと崩れる。音だけがやけに大きい。

 フロックは眉ひとつ動かさなかった。けど、その目が少しだけ細くなる。真剣に、俺の言葉の形を測っている。

 

「……言えなかったんだよ」

 

 俺の声は勝手に震えた。怒られたいのに、怒られるのが怖い。矛盾だらけだ。

 

「見間違いだと思ってたし……そんなこと言ったら、何かが変わるかもしれないって思って……怖くて。ユミルは、命の恩人だったし……」

 

 言いながら、自分が情けなくてたまらない。

 見て、黙って、今さら吐く。遅すぎる。臆病者の言い訳だ。

 

「結局、今の今まで、誰にも言えないまま……このザマだ」

 

 言い終えたら、体の芯が空っぽになった。呼吸が浅くなる。俺は膝を抱えた。手の甲に、自分の吐息が当たって、ぬるい。

 フロックがしばらく黙っていた。

 

「……言えなくて当然だ」

 

 ぽつりと落ちる声。石に落ちた水みたいに静かだった。

 

「誰もが全部背負えるわけじゃない。……でも、お前は生き残った。今日ここで話せてる。それだけで十分だ」

 

 俺は顔を上げた。

 フロックは、慰める顔をしていなかった。軽蔑もしていなかった。いつも通り、少しむかつくほどまっすぐな顔だった。

 

「……こんな話、初めて誰かに打ち明けた」

 

 吐息みたいな声。それでも、俺の中の氷が少しだけ軋んだ。

 やっと、動いた。

 俺は立ち上がろうとして、足がもつれた。笑えない。フロックが手を出しかけて、引っ込めた。余計な優しさは与えないって顔だ。ありがたい。

 

「戻ろ」とリディアが言った。

 

「言わないってのは、臆病だけじゃない。守り方の一つだと思う。ダズは今日までユミルを守った。勇敢だよ」

 

 俺の胸の奥がきしんだ。

 守った? 今日までの俺が、一体何を守ったってんだ?




実際にダズがユミル巨人化を目撃していたら、彼は兵士を辞めていたかもしれませんね。でも、どうしてもやりたかったので捏造しました。
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