煤けた暖炉の前にしゃがみ込むと、石の冷たさが膝から骨へじわじわ上がってくる。
誰も使わなくなった補給倉庫は、古い木と湿った麻袋のにおいがした。隙間風がどこからともなく流れ込み、火のない暖炉の中の灰を、かすかに撫でていく。耳を澄ますと、崩れるでもなく、ただ、さらりと形を変える音がする。
俺は手のひらをこすり合わせた。擦っても擦っても、温かさは戻ってこない。あの夜と同じだ。
「……俺なんか、何したって足手まといだろ」
口に出した瞬間、喉の奥がきゅっと縮んだ。言いたいことはそれじゃない。けど、いきなり本題に触れたら、ここで息が止まってしまいそうだった。
今、目の前にいるのは同期だ。フロックとリディアがいる。暗がりでもわかるくらい、二人は目が鋭い。別に嫌いな奴らじゃない。そもそも俺は、誰かを嫌いになれるほど強くない。
「臆病だから生き残るんだ。そういう奴が必要なんだよ」
フロックがさらっと言う。ただの事実みたいな口ぶりで、腹が立つはずなのに、俺の胸は少しだけ軽くなる。こういう言い方をされると、逃げ道を用意してもらったみたいで。
「本当にそう思ってんのか?」
それでも声は、自分でも情けないくらい弱かった。でも、目だけは逸らしたくなかった。答えが欲しくて仕方なかった。
フロックは俺を見た。何か言いかけて、やめる。代わりに、顎をわずかに上げた。……話せ、とでも言うみたいに。
俺は唇を噛んだ。息が白い。倉庫の暗がりの中で、自分の吐息だけがやけに目立つ。
言うなら、今しかない。
そう思った瞬間、脳裏に雪が降った。
---
雪山訓練のあの日、夜の寒さは何かの罰みたいだった。
ただ寒いだけじゃない。寒さが、手足の先から心臓に向かってじわじわ侵入してくる。息を吸うたび、肺の内側が痛い。鼻の奥がつんとする。瞬きをすると、まつげに雪が絡みついて、視界が滲む。
「……ちょ、ちょっと休ませて……死ぬ……」
言った声が、自分の耳にさえ届かないくらい細い。隣を歩く誰かの足音も、風にすぐ持っていかれる。仲間の顔を見ようとしても、みんな雪に埋もれた影みたいで、表情が読めない。
怖かった。凍えることじゃない……いや、もちろんそれも怖かったけれど、本当に怖いのは、ここで倒れて誰かの足を止めてしまうことだ。倒れた自分に誰かが気づいて、引き返して、隊列が乱れて……俺のせいで誰かが死ぬということ。そんな想像が、寒さより先に心臓を締めつけた。
「ダズ、大丈夫? 休憩する?」
「やめろ。こんな吹雪のどこに休憩場所があんだよ」
クリスタたちの声がした。俺は頷いたつもりだったけど、でも首は動かない。体が言うことをきかない。恐怖と冷えが混ざって、頭の中が白くなる。
だめだ。だめだ。倒れるな。
そう思った瞬間、膝が勝手に折れた。
雪に顔を押しつけられて、口の中に冷たい粒が入った。舌がしびれる。涙が出たのかもしれない。でもすぐに凍っていく気がした。
誰かの声がする。怒鳴り声みたいに荒くて、でも、必死さが混じっていて。
「寝袋! おい、寝袋出せ!」
「火を……!」
「こんなとこで着火するわけないだろ!」
次の瞬間、俺の体が持ち上がった。
誰かの腕。強い。肩に担がれるみたいな感覚。雪が頬をかすめて、視界がぐるりと回る。
「おい、しっかりしろよ。死にたいのか、臆病者」
耳元で、あの声がした。
ユミルだ。
俺は返事をしようとして、息が漏れただけだった。気づけば寝袋に押し込まれていた。布の中は湿っていて、誰かの体温の残り香がする。ありがたいはずなのに、申し訳なさで胸が痛い。
「……ごめ……」
かすれた声が出た。ユミルの舌打ちが吹雪に混じった。
寝袋の中で、俺は気を失っていた。
しかし突然、雪と風の音の向こうで何かが割れるような音がして、思わず目を開いた。
骨のような木のような、硬いものが無理矢理ひび割れていく音。空気が震えて、雪がざわっと跳ねた。俺は寝袋の隙間から、必死に外を覗いた。
白い視界に、眩しい光が走った。
何か大きな影が立ち上がる。
それが人間じゃないと理解するより先に、胃がひっくり返るような恐怖が来た。背中の皮が剥がれるみたいにぞっとして、口が勝手に開いた。でも声は出ない。
影の輪郭。長い腕。大きすぎる体。
……巨人?
俺は見てしまった。
そして運悪く、理解してしまったのだ。あの影の中心にいたのが、間違いなくユミルなのだと。
「……っ!」
叫びたかった。助けてって言いたかった。違う、違う。誰かに知らせなきゃいけなかった。ここに巨人がいる。このままじゃ仲間が……いや、でも。その仲間がユミル?
寝袋の中で、俺はただ硬直した。
あの瞬間から、俺の中の時間はずっと凍ったままだ。
訓練生活が戻っても、俺の体のどこかはずっと雪山に置き去りになっていた。
すれ違うたびに、ユミルの背中を見てしまう。
ただの人間の背中だ。華奢な肩は骨ばっていて、ちっとも逞しくない。それなのに俺の脳裏では、あの日の影が重なる。
見間違いだ。疲れてた。意識が飛んでた。そうだ、きっと。そう言い聞かせるたびに、別の記憶が刺さってくる。
寝袋の中の湿った温度。ユミルの腕の強さ。あの舌打ち。
命の恩人。それなのに俺は、彼女を疑っている。怖がっている。誰かに言おうとしている。最低だ。
昼の訓練場で、クリスタがパンを手渡しに来てくれた。
「ダズ。食欲がなくても、少しは食べたほうがいいよ」
小さな手。少し照れた笑顔。細い指がパンを押し出す。俺は受け取る手が震えそうになって、慌てて拳を握った。
「……あ、ありがと」
そのとき、背後からユミルの声が飛んだ。
「クリスタ。お前、ほんとそういうとこだぞ。自己管理もできない臆病者に餌付けすんな」
冗談みたいに言って、ユミルは俺の頭を軽く小突いた。
「おい、痛い……」
笑って返せたはずなのに、口角がうまく動かなかった。俺が固まっているのに気づいたのか、クリスタが困ったように眉を下げる。
「ユミル、あんまり……」
「はいはい。女神様がそう言うならやめるよ」
ユミルの笑い方は軽くて意地悪で、いつも通りだった。だからこそ余計に怖い。
そして彼女の目が、ふと俺を見た。
「ダズ。寒いのと……そうだ。眩しいのも、苦手だったよな?」
何気ない台詞。なのに、俺の背中に冷たい汗が滲んだ。
雪山。
寝袋。
光。
骨が割れるような音が、耳の奥で再び響いた。
「……え、いや……」
「へー。じゃあ今度、また雪のとこ行くか?」
ユミルは楽しそうに言う。クリスタが「やめてよ」と言いながら彼女の背中を叩く。俺だけが笑えない。
こいつ、気づいてるのか? そんなはずない。俺は誰にも何も言ってない、見ただけだ。ただ、見ただけで……。
もう一度ユミルを見る。
人間だ。巨人なんかじゃない。そう確認するたびに、胸が少しだけ落ち着く。でも落ち着いた直後に別の声が頭の中で囁く。
――じゃあ、俺はどうやって助かったんだよ?
もう、自分の記憶を信用できなくなっていった。
---
そして、今に至る。倉庫の暖炉の前。灰の匂い。手の冷たさ。俺はとうとう、長年黙っていた言葉を吐き出してしまった。
「俺、本当は……見てたんだ」
「何を?」
フロックとリディアの視線が刺さる。逃げるなら今。でも逃げたら、また凍った時間に戻るだけだ。
喉が鳴った。俺は唾を飲み込んで、息を吸う。肺が痛い。雪山みたいだ。
「ユミル。あいつが……雪山訓練のあのとき、巨人になった瞬間を……」
言った瞬間、世界が止まった気がした。暖炉の灰が、さらりと崩れる。音だけがやけに大きい。
フロックは眉ひとつ動かさなかった。けど、その目が少しだけ細くなる。真剣に、俺の言葉の形を測っている。
「……言えなかったんだよ」
俺の声は勝手に震えた。怒られたいのに、怒られるのが怖い。矛盾だらけだ。
「見間違いだと思ってたし……そんなこと言ったら、何かが変わるかもしれないって思って……怖くて。ユミルは、命の恩人だったし……」
言いながら、自分が情けなくてたまらない。
見て、黙って、今さら吐く。遅すぎる。臆病者の言い訳だ。
「結局、今の今まで、誰にも言えないまま……このザマだ」
言い終えたら、体の芯が空っぽになった。呼吸が浅くなる。俺は膝を抱えた。手の甲に、自分の吐息が当たって、ぬるい。
フロックがしばらく黙っていた。
「……言えなくて当然だ」
ぽつりと落ちる声。石に落ちた水みたいに静かだった。
「誰もが全部背負えるわけじゃない。……でも、お前は生き残った。今日ここで話せてる。それだけで十分だ」
俺は顔を上げた。
フロックは、慰める顔をしていなかった。軽蔑もしていなかった。いつも通り、少しむかつくほどまっすぐな顔だった。
「……こんな話、初めて誰かに打ち明けた」
吐息みたいな声。それでも、俺の中の氷が少しだけ軋んだ。
やっと、動いた。
俺は立ち上がろうとして、足がもつれた。笑えない。フロックが手を出しかけて、引っ込めた。余計な優しさは与えないって顔だ。ありがたい。
「戻ろ」とリディアが言った。
「言わないってのは、臆病だけじゃない。守り方の一つだと思う。ダズは今日までユミルを守った。勇敢だよ」
俺の胸の奥がきしんだ。
守った? 今日までの俺が、一体何を守ったってんだ?
実際にダズがユミル巨人化を目撃していたら、彼は兵士を辞めていたかもしれませんね。でも、どうしてもやりたかったので捏造しました。