島を去る者と、島に残る者がいる。
私は、残る者だった。
調査兵団がマーレへの潜入に発ち、空気から一気に温度が抜けたような気分だった。
私の急な出発取りやめに、驚かない人はいなかった。突然の中止はハンジ団長を慌てさせてしまったし、ミカサやサシャは何か異常があったのかと心配してくれた。アルミンは私の体調を気遣い、ジャンやコニーは「船が怖くなったか」と茶化しながらも私を気にかけていた。
エレンだけは「分かった」と言ってくれた。それだけだった。彼は、私が「知っている」ことを分かっていたのだろうか。本人にも、フロックにも確かめたわけじゃない。だから私には、分からなかった。
私に、何があったのか。
誰もフロックの名前を出さなかった。だけど、心のどこかでは皆、彼と何かあったと察していたはずだ。
フロックの名前を出すことは、どこかタブーのような空気を持っていた。誰も口にしないその沈黙が、かえって私たちの間に何かを置いていった。
私が残ったのは、ヒストリアを守るためだった。
彼女は世界の誰よりも「誰かのため」に生きてきた。だから私は、彼女を「誰かのための犠牲」にだけはしないと誓った。あの日から、それは私の戦う理由の一つだった。
けれど……今となっては、それは、最初に思いついた理由でしかなかった。
今の私は何をしている?
島を守るという大義のもとに、他の何かを犠牲にする計画に加担している。守りたかったはずの誰かを守るために、別の誰かを切り捨てようとしている。
誰かを守りたくて調査兵団を志願したはずの私が、今、犯そうとしている「罪の記録」。
廊下ですれ違う顔ぶれが変わった。聞き慣れた冗談の声も、どこかに消えていた。今、私は「島に残された者」だった。
ポケットをまさぐると、そこにブローチが残っている。
いつか、「あの人」に貰った、破棄すべきもの――私は何故、こんなガラクタを捨てずに持っているのだろうか。
夜の兵舎は、人の気配が消えると、こんなにも広く感じるものなのか。
私の足音だけが廊下に響く。窓から中庭を見下ろすと、洗濯縄に干されたマントが夜風に揺れていた。本来ならそこにあるべきはずの数が揃っていない。誰も留めない洗濯ばさみが、虚しく宙を掴み続けている。
イェレナは知っているだろう。フロックが私にだけ口を滑らせたことも、ジークの計画を共有する人間が一人増えたことも。彼女は何も言わないが、あの鋭い眼差しは、言葉など要らないとでも言いたげだった。
そしてフロックもまた、知っている。エレンがマーレで秘密裏にジークに接触することを。その勝手な行動は間違いなく兵団に咎められ、帰国すればエレンが拘束されるであろうことを。
だからこそフロックには、与えられた役割があった。調査兵団の主力が不在となったこの島で勢力を築き、エレンが戻ってくる場所を整えること。
私たち三人は――イェレナ、フロック、そして私――ハンジ団長たちが島を発った直後から、水面下で動き始めていた。兵団の方針に不満を抱く兵士たちを、静かに、しかし着実に取り込んでいく作業を。
エレンはフロックに言ったのだそうだ。「お前にしか頼めない」と。
利用する者と利用される者。だがそれは一方通行ではない。フロックもまた、エレンを島を守るための手段として利用している。
最近、彼の口からは「エルディア帝国」という単語が頻繁にこぼれるようになった。その響きに、私はどこかぞっとした。それは遥か昔、この民族が高らかに掲げた国家の名。
エレンからも他の兵士からも、再びその帝国を復権させようなどという言葉を聞いた覚えはない。
だからこそ理解した。エレンとフロックの間にあるのは、目的達成までの一時的な協力関係に過ぎないのだと。それは信頼ではなかった。互いが互いを必要とするだけの、打算的な繋がりだった――今のところは。
これは後に「イェーガー派」と呼ばれる集団の、名もなき草創期の物語だ。
私たちは正しいのか? そんな問いは、もう何度も胸の奥で消えた。いや、消した。正しさより、必要かどうかだけが問われる時代に、私たちは来てしまった。
倉庫脇の小部屋を照らす灯りは頼りなく、まるで密談を歓迎するかのように空間を曖昧に染めていた。机いっぱいに広げられた地図と在庫表。窓の外からは、夜勤の兵士たちの声がかすかに響いている。
「これ以上、例のワインの流出を止める方法はない?」
「無理だろうな」
地図の端を指で押さえながら、私は口を開いた。分かりきった答えを求めて。フロックの返事も予想通りだった。
「少しでもおかしな動きをすれば、イェレナに嗅ぎつけられる。それに、あいつがワインの話をエレンに暴露した時点で、もう必要な場所には行き渡ってるってことだろ」
フロックは即答した。私は唇を噛む。わかっていた。それでも言わずにいられなかった。
「今、イェレナを警戒する必要はない」
フロックは淡々と言葉を継いだ。
「エレンの真意を知ってるのは俺とお前だけだ。俺たちが黙ってれば、イェレナが邪魔してくることはない」
「じゃあ、当面の問題は」
「人数だ」
フロックの目が、地図の一点を射抜いた。
「俺たちだけじゃどうにもならない。協力者が必要だ」
「共犯者じゃなくて?」
口が勝手に動いた。私の中にある微かなためらいが、形になって漏れたのだ。
「違う」
しかしフロックは首を振った。
「真意は告げない。あくまで協力者だ。やることだけ共有して、団結させる」
協力者。聞こえはいいが、それも結局のところ、誰かを利用することに他ならない。
フロックは、二つの単語を明確に使い分けていた。それは「共犯者はお前だけだろ」という宣告である。私は少しだけ息を呑んだ。
「どうやって」
「エレンを『この島の唯一の希望』に据える」
フロックの声には熱はなく、冷たい算盤をはじくような硬さがあった。
「兵団の対応が遅いと感じてる兵士は多い。今回のマーレ潜入に疑問を感じている奴らも」
「……」
「エレンの力を他の人間に継承させるなんて論外だと、そういう流れを作る必要がある。権力にしがみつくだけの兵団上層部はそれを理解していない、前線に立つ兵士だけが現実を理解している――そんな言葉を駆使して、エレンを支持する派閥を作る」
私の胸の奥で小さな棘が刺さった。希望――その言葉を口にする彼の表情は、まるで信者のようにも見えた。だが同時に、それが信者の仮面でしかないことも私は知っていた。
「……どこから攻める?」
「駐屯兵団の同期だ」
フロックは即答した。
「それが一番楽だからな」
机の上で、彼の指が地図をなぞる。港から伸ばした指が、壁内の都市へと道筋を辿っていく。私は指の止まった箇所を押さえ、延長線上に小さな印をつけた。
「ここなら、集会とかに向いてるかも。兵団の目も届きにくくて……」
ふと、彼の指先が私の指に触れた。互いに反射的に離す。奇妙な緊張が走り、重たい沈黙が降りた。
この瞬間から、私たちは戻れない場所へと、歩き始めた。
---
「トロスト区に、実家の得意先のパン屋がある」
そう言ってフロックが私やサムエル、ダズを案内したのは、店の軒先にある小さなテラス席だった。昼間は近所の主婦や子供たちで賑わうが、日が落ちれば誰も寄りつかない。そこが定例の待ち合わせ場所となった。
その店では、訓練兵団の同期が働いていた。卒業後に駐屯兵団に所属していたものの、すぐに兵士を辞めてパン屋に弟子入りしたという。
「お前ら、兵士がテーブル陣取るな。客が怖がって、商売の邪魔だ」
「こんな時間に客が来るかよ。あとお前、やっぱ兵士よりパン屋の方が向いてるよ。腹についた贅肉も似合ってる」
「うるせぇ。……ったく、腰の悪い親父に代わってやってんだから、無駄に椅子占拠すんなよ」
最初のうちは、ここに集まるのは私たち四人だけだった。
しかし人と人との結びつきとは不思議なもので、いつしか自然と、集まる人数は増えていった。
誰が呼んだわけでもなく、集まるための具体的な名目もないのに。ここに行けば何かあるらしい、という噂だけが広まっていた。
ある日の夕暮れ、街角の屋台。パンと薄いスープを広げて腰を下ろしたとき、気づけばテーブルの向かいに、まだ幼い印象を残す女性が座っていた。
「こんにちは」
「……? どうも」
「あの、えっと……リディアさんですよね? 調査兵団で、その……女王の護衛をされていた」
彼女の名はルイーゼといった。新兵の制服はまだ糊が落ちておらず、動きに合わせてぎこちなく皺を作った。その足取りもまた、まだ訓練場の延長にいるように頼りない。
「なに勝手に座ってんだよ」
近くに来たフロックが眉をひそめる。
「お二人の噂を聞きました。兵団の指示待ちではなく、自分で動けるような人間を集めている方々がいると」
一言ごとに、彼女の声には微かな震えがあった。私は驚いて口をつぐむ。新兵の耳に届いてしまうほどの噂になっているのか、この「人数集め」は。
ルイーゼは視線を落とし、指でスープの器の縁をなぞった。
「私、ミカサさんみたいになりたいんです。あんなふうに強くて、誰かを守れる人に」
顔を上げたとき、瞳に揺れる光が夕焼けを映していた。
「でも私には力がないから、せめて……外敵からの理不尽な暴力に屈しないよう、島を守れる一員になりたい」
その言葉は、熱狂というより祈りに近かった。
フロックは短く息をつき、私にだけ聞こえる声で言った。
「エレンの信者を集めていたら、ミカサの信者が来たぞ。どうする? こっちを見限って団長側につく可能性がある」
「話、最後まで聞いてあげてから決めなよ」
私は小声でフロックを制止し、ルイーゼに話の続きを促した。彼女は首を縦に振った。
「憧れと信念は違います。私の信念は、ミカサさんに従うことではなく、あくまでもこの島を守ることです」
まっすぐな目をしたルイーゼは、未熟で危うくて、理想だけで走っているようにも見える。けれどその瞳の色は、どう見ても嘘ではない。
それが私には、なぜか放っておけないものに見えた。新兵だった頃の自分を思い出したのかもしれない。
---
ここに集まるメンバーは流動的だったが、五人だけは完全に固定メンバーになっていた。フロック、サムエル、ダズ、ルイーゼ、そして私。
木製のテーブルに腰を下ろすと、サムエルが地図を広げる。ダズは震える手でランプの火を調整し、ルイーゼは椅子にちょこんと座って、膝に手帳を抱えている。テーブルを囲んで肩を寄せ合うその様子は、戦いではなく祭の準備にすら見えた。
「こういう集まりって、名前をつけた方がよくないですか? まとまりが出るというか、団結や結束力が深まると言うか」
ルイーゼがぽつりと言った。
「どうでしょう。『自由の翼の会』とか『未来を信じる者たち』とか」
「やめろ、趣味が悪すぎる。そんなこと考えてる場合か? お前には危機感が足りない」
フロックは即座に切り捨てた。
「名前があったほうが、私たち……ひとつになれる気がして」
「どうせ名前が残るほど長続きしねぇよ」
「発起人がそういうこと言うなって」
ダズがため息をつく。そこでサムエルがにやりと笑った。
「じゃあ代わりに、コードネームでも決めてみるか」
「は?」
思わぬ提案にフロックが眉をひそめるが、サムエルは口を挟む隙を与えず、そのまま彼を指差した。
「まずはフロック、お前は『台風頭』だな」
「うるせぇ」
その身も蓋もない呼び名に思わず笑い、私も流れに乗ってしまった。
「それならダズは『老け顔』ね」
「ひどい!」
ダズが大げさに傷ついたような声を出す。もはやコードネームでも何でもない。ニックネームですらなく、子どもの悪口大会のようだ。
フロックは負けじと私を指さす。
「お前は『脳内お花畑』だ」
「……まぁ、否定はしない」
「そんなことない、リディアさんは素敵ですよ!」
私が肩を落とすと、ルイーゼが慌てて割って入る。でも何のフォローにもなっていない。
「私は『ミカサ信者』とかでいいです」
「それ自分で名乗るのかよ」
サムエルが吹き出した。そして期待混じりに問う。
「俺は?」
ルイーゼはしばらく考え込んでから首をかしげた。
「えっと、サムエルさんは……『優しい人』……?」
サムエルは苦笑した。
「俺、そんなに特徴ないか?」
「なんて頼りねぇ集団だ」
ダズがぼやくと、フロックが静かに言葉を重ねた。
「でも、弱いやつらの言葉のほうが、民衆に近い」
その場がふっと静まり返った。冗談半分の空気の中で、彼の声だけが妙に真っ直ぐに響いた。
「そうだろリディア。弱いやつ代表。なんてったって、訓練兵時代の成績ドベ様だからな」
「今さらそんなこと蒸し返してやるな」
「えっ、リディアさんが?」
ルイーゼの反応に思わず笑い、私は顔を上げてフロックを見た。軽く抗議してやろうと思ったのだ。
いつもなら軽口の続きが飛んでくるはずだった。けれどその後、彼はなぜか一言も発しなかった。何かおかしいと思って私が彼の顔を見たその瞬間――明確な違和感を覚えた。
フロックからの、いつもとは違う目線。
彼はただ目を細めて、静かに私を見ていた。ほんの少しだけ、柔らかい空気をまとって。
それは、戦友に向けるような目じゃなかった。仲間に向けるものでも、友人に向けるものでもない。
男から向けられる、下品な視線だったら慣れている。見てきた連中の、服の隙間や肌のラインをなぞるような、無言の欲求も。でも今のフロックの目に宿っているものは、そういう類の目線ともまた違っていた。
何か……もっと重たくて、複雑で、湿度のある感情。そしてそれは、間違いなく「男」の目線だった。
なぜ今、そんな目で私を見たのか。本人もおそらく気付いていない。でも、何かが逸脱してしまった瞬間を、私は確かに目撃してしまった。
頬をそっと逸らすと、彼の視線もすぐに切れた。
共犯者という関係を崩しかねない、その目線。
自分でもうまく説明できないざわめきが、胸の奥にしつこく残った。
その後の彼は、いつも通りに口を開いて仲間たちに悪態をついていた。まるで、何もなかったかのように。
解散後、私とルイーゼは並んで兵舎へ向かった。
夜気は思ったより冷たく、パン屋で交わした笑いの熱が、指先から少しずつ消えていく。石畳を踏む靴音が、静かな夜に規則正しく響いた。街灯が、私たちの影を細く長く伸ばしていく。
影の先に、人影が現れた。待ち伏せしていたかのように。
「随分と、楽しそうですね」
イェレナだった。背筋をまっすぐに伸ばし、微笑んでいるが、目だけが冷たい。
ルイーゼが反射的に私の隣へ寄る。庇うというより、敵を前にした新兵の癖だ。肩がわずかに上がっている。
「用件は」
「特に。ただ……噂は早いものですから。あなた方が『気の合う』人間を集めていると」
その言い回しが、脇腹をじわりと刺してくる。断定でも確認でもない、逃げ道を残した言葉。
ルイーゼが唇を尖らせて、はっきりと言った。
「詳細を話す必要がありますか。義勇兵とはいえ、あなたはマーレの軍人です。信用できません」
「これは手厳しいお嬢さんだ」
お嬢さん、という呼び方に、ルイーゼの眉がぴくりと動く。
「信用。可愛らしい言葉ですね」
「馬鹿にしないでください」
柔らかい声。柔らかいほど、刃の所在がわからなくなる。
ルイーゼの呼吸が一瞬止まったのがわかり、私はそっと彼女の肩に手を置いた。落ち着け、という合図のつもりで。
イェレナはルイーゼから視線を外し、私を見据えた。
「リディア」
その目が鋭くなる。最初から、私と話すのが目的だったのだ。
「あなた、何のために島に残ったのですか?」
私は答えない。
何も言わなくても、答えなんて知っているだろうに。それでも彼女は、優しげな口調で続けてくる。
「目的のための相棒選びは大切です。信用できる者がいい。ですがそれが男女となると……余計なものが混じりやすい。関係が逸脱すれば、目的は濁る」
「何が言いたいんですか?」
ルイーゼが食い気味に返す。全てを理解しているわけではなくても、苛立ちは正確に反応する。
イェレナは微笑みを崩さず、ゆっくりと言葉を落とした。
「気付いてますよね? 彼が向けている目線の意味。分からないはずがない」
誰の話をしているか、すぐに分かった。
「男というものは、近くにいる女なら誰でもいいんでしょうね。私みたいなのにも、おかしな目線を向けてくる男はいましたよ」
イェレナの目は笑っているが、声は笑っていない。「私みたいなの」という自嘲も、本気なのか計算なのか分からない。
「馬鹿ですよね。私との生殖の可能性でも考えたのでしょうか?」
「せ……っ!?」
ルイーゼの言葉が詰まる。
「女性兵士を馬鹿にしている。崇高な目的を果たすためには、そのような邪な目線など不要です。あなたも、そのように考える軍人のはずです」
イェレナは自分を下げながら、相手の足元を崩す。巧妙だった。
「大好きなヒストリア女王を犠牲にしない唯一の方法……どうか、お忘れなきように」
その囁きは、ほとんど脅しだった。
胸の奥に冷たい指を差し込まれたような感覚。忘れるな、お前の弱点はそこだ、と。
イェレナは一度も瞬きをせず、ただ笑みを深め、そのまま踵を返した。
夜気が頬を撫でる。空気は戻ってきたのに、体の中だけが冷えたままだ。残ったのは、言葉の棘だけだった。
しばらく、私たちはその場に立ち尽くしていたが、ようやく、ルイーゼが息を吐く。
「何だったんでしょうか……今の」
「気にしなくていい。含みがありそうな喋り方をするのが趣味なんでしょう」
口に出してから、自分の声が少し固くなっていることに気づいた。ルイーゼは釈然としない顔で、間を置いてから恐る恐る探ってきた。
「……さっきのって、フロックさんの話ですよね」
「どうかな」
私も言葉を濁す。断言した瞬間、イェレナの言葉が真実になってしまいそうだった。
ルイーゼが首を傾げ、私の顔をじっと覗き込む。
「もしかして、リディアさんへの、嫉妬……とかですか」
「ちょ、ルイーゼ……!」
思わず変な声が出て、咳き込んだ。
笑ったら、張っていた糸が切れる。切れたら、もう戻らない。
「あるわけないでしょ。フロックだよ」
「ですよね」
名無しのパン屋の男は、過去の投稿作品「九つの巨人全部喰う」のオリ主をひっそりと再利用したものです。あんまりオリジナルキャラを増やしても読みにくくなるだけなので、名ありのオリキャラは増やさないよう心がけています。