「楽園の島の魔女」(完結)   作:雄魔雌

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EP.8 Dedicate Your Heart(心臓を捧げよ)

 仲間が増える。それは、希望の光が少しだけ強くなることであると同時に、それまで見えていなかった綻び――連携の難しさや、思想のズレ――が、次々と姿を現し始めることでもある。

 サムエル、ダズ、フロック、ルイーゼ、そして私。私たちはパン屋のテラス席に陣取り、押し寄せる課題の重さに静かに打ちのめされていた。

 

「人数が増えると、どうしても伝達が滞る」

 

 フロックの声には、抑えきれない苛立ちが混じっていた。机の上で組まれた指に力が入り、関節が白く浮かぶ。

 

「兵団に勘づかれずに、俺たちだけの情報網を構築する必要がある」

「新兵を連絡係にして、正規ルートに紛れ込ませるのはどうだ」

 

 と、ダズが口を開く。声は静かだったが、その瞳は鋭い。

 

「新兵? そんな責任、任せて大丈夫か」

「だからこそ目立たない。疑われない奴が必要なんだ」

 

 サムエルが渋い顔をすると、フロックが即座に言い返す。

 

「ルイーゼ。お前なら疑われない」

 

 彼の視線を受けて、ルイーゼは小さく頷いた。確かに、彼女の素直な瞳とあどけなさの残る顔立ちは、上官の警戒心を自然と和らげてしまう。

 

「物資の調達も厄介だ」

 

 サムエルが低く言う。

 

「正規の流通に頼れば、すぐに足がつく。兵団の外部からの供給が要るかもしれない」

「旧兵団施設や廃倉庫……誰の目にも触れない場所に保管しておくべきかな」

 

 私は慎重に言葉を選びながら言った。

 フロックが、こちらを遠巻きに睨んでいたパン屋の店主に目をやる。

 

「おいパン屋。お前なら心当たりがあるだろう」

「冗談じゃない。もう俺は兵士じゃないんだ」

 

 店主の返答は早かったが、その声にはかすかな揺らぎがあった。かつての記憶が、今も彼の背中を離れないのだろう。

 私は静かに切り出した。

 

「イェレナが言っていた。就労許可を得たマーレの捕虜たちがいる。彼らの人権を盾にして接触すれば、裏から物資供給を受けられると」

「そうか」

 

 フロックがわずかに唇を吊り上げ、私にだけ聞こえるように顔を寄せ、耳元で低く囁く。

 

「……あいつ、そうやって例のワインをばらまいたんだな。実践した奴は言うことが違う」

「そこの二人。距離が近いぞ」

 

 サムエルが苦笑まじりに声をかける。

 私は一瞬だけ肩に力が入るのを自覚し、それをごまかすように視線を逸らした。一瞬の空気の緩み。しかし、それもすぐに引き締まる。

 

「摘発されたときの逃走ルートも考えておくべきだ」

 

 咳払い一つで、フロックが話を戻す。

 

「最悪の場合、捕まった仲間を逃すには、準備が要る」

「無人区域、廃墟、下水道……」

 

 ダズが指を折りながら列挙する。

 

「退役兵のツテを辿れば、詳細な地図や内部情報が手に入るかもしれない」

「技術兵も必要になるな。整備兵とか……」

「義勇兵はどうですか?」

 

 と、ルイーゼがそっと問いかけた。その一言に、フロックの顔が強ばる。

 

「……できれば使いたくない」

 

 声には、露骨な拒絶の色が混じっていた。マーレの技術力を必要としつつ、それを借りることへの嫌悪が、隠しようもなくにじみ出ている。

 

「世論の誘導も必要」

 

 私は口を挟んだ。

 

「新聞記者、酒場の店主、司祭……情報をばらまける人間を味方に引き込む必要がある」

「確かに。今は兵団が『正義の顔』をしてるからな」

 

 フロックが頷く。

 

「それなら俺たちは背後の影になって、民衆の心を掌握する」

「新聞社を選ぼう。煽動が得意な連中に書かせれば、街中が踊る」

「見出しはどうする?」

「もう決まっている」

 

 フロックの目が鋭く光る。

 そして、合図でもあったかのように、声が重なった。

 

「心臓を捧げよ」

 

 空気が、止まった。その言葉の重さが、胸の奥で鈍く鳴る。誰一人として軽々しく繰り返す者はいなかった。

 

「なんにせよ金が足りない。……戦没者の追悼集会でも開くか」

 

 フロックが呟く。

 

「偲ぶ夜、って名目で」

 

 その瞬間、私の胸の奥に冷たいものが流れ込んだ。死者を利用する――その現実が、痛いほどに突き刺さる。

 

 死者を英雄に変える。「彼は最後まで『自由を守れ』と叫んでいた」と。

 英雄を金に変える。「彼の意志を継ぐグッズを販売しよう」「基金に寄付しよう」と。

 金を大義に変える。「彼の遺志を継ぐ者たち」として、この集団が正統性を得る。

 物語は価値になり、価値は力となり、力は運動へと転じる。

 

 胸の奥が鈍く重くなる。吐き気に近い。これは正義ではない、ただの手段。

 人は死ぬ。だが死者すら、生き残るための手段として使われる。利用しなければ、この島と壁中人類は、もはや生き残れないのだ。

 

 

 

---

 

 

 

 仮設舞台が町の小さな広場に組まれたのは、それから三日後の晩だった。見回りの兵士には小銭を握らせ、広場の使用許可は「遺族会」の名義で取った。

 白布を垂らしただけの簡素な背景が夜風に揺れ、安物のランタンがかすかに光を落とす。焦げた油の匂いと、観客の密かな囁き声が、薄闇のなかにじわりと染み出していた。

 

 人が集まるのか――胸の奥で不安を燻らせていたが、それは杞憂に終わった。

 最初は数人だった観客が、開演が近づくにつれて倍に、さらに倍に膨れ上がっていった。町民、若い駐屯兵、どこからともなく現れた新兵たち。「亡き兵士を偲ぶ会」の噂は、まるで風に乗った種のように広がり、気づけば広場が人で埋まりはじめていた。

 

 ダズが静かに舞台に上がる。彼は一礼すると、破れた外套を両手で掲げた。その所作には、どこか神事のような厳かさがあった。

 外套は舞台の上から降ろされない。誰の手にも渡らない。遠目に見える形だけが、今は必要だった。

 

「……彼は最後まで戦いました。仲間を守るために、刃が折れるまで」

 

 震える声が夜気に溶け、観客席のあちこちから鼻をすする音が聞こえる。ダズの声は演技なのか、本当の感情なのか、私にも分からない。

 でも、分かっていることもある。その外套は、倉庫に打ち捨てられていた古着にすぎない。血痕に見える染みは、黒や赤の絵の具を混ぜて描いたものだ。離れて見れば血に見えるが、近づいてよく見れば、ただの汚れだ。

 

 次にルイーゼが現れ、軍服を胸に抱く。目元には涙が浮かび、声を震わせて言った。

 

「彼は、未来を信じていました。『必ず全員で生き延びる』って……私に言ってくれました」

 

 彼女の姿に、前列の老婆が嗚咽を洩らし、隣の青年が拳を握りしめる。そのまた隣で、中年の男が無言で涙を拭っていた。そんな言葉を遺した兵士など、どこにもいないのに。

 

 それでも群衆は、信じた。

 信じたかったのだろう。慰めという名の嘘に、すがらずにはいられなかった。終演後、寄付箱に硬貨が投げ込まれてゆく。銀貨も銅貨も、涙に濡れた手のひらから惜しげもなく落ちていった。

 

「私の息子は、骨も墓もなく……壁の外で死んでいった。でもきっと、この夜を……喜んでくれていると思う」

「あなたたちのように、戦死者を忘れずに悼んでくれるような兵隊さんがいて、本当によかった……」

 

 観客たちの言葉が、波のように私たちを包み込んだ。一つ一つが、胸の奥にずしりと重くのしかかる。

 舞台裏に戻ると、私は耐えきれずにつぶやいた。

 

「……追悼なんかじゃない。ただの演劇だった」

「三文芝居でも救われる人がいるなら、それでいいじゃないか」

 

 フロックは箱の底から一枚の硬貨を取り出し、それを平然と指先で弾きながら答えた。

 その横顔は冷ややかでありながら、どこか陶酔したような表情を浮かべていた。フロックは、いつからこんな顔をするようになったんだろう。

 

「死んだ奴の声は、誰にも否定できない」

 

 彼は静かに続ける。

 

「だから使う。真実なんか要らない。必要なのは『今、信じる理由』だけだ」

 

 箱の底で、硬貨が乾いた音を立てた。それはまるで、死者の名誉が貨幣に変わる音のように聞こえた。

 舞台袖から広場を覗けば、群衆はまだざわめきをやめず、誰かが「次はいつか」と問いかけていた。

 そのとき、背後から聞き覚えのある声が届いた。

 

「リディア、フロック。お前たち何をやってるんだ」

 

 振り返ると、そこには駐屯兵団のリコが立っていた。その顔には、怒りも軽蔑もなかった。ただ、困惑と――ひとつ深く息をついたような、戸惑いの影が浮かんでいた。

 私とフロックは顔を見合わせたが、フロックは、彼女が「加わるか否か」だけにしか関心がないような顔をしていた。

 

「ダズが話してた内容、私も聞いたことがある。でも、あれは別の奴じゃなかったか?」

 

 リコは眉をひそめる。

 

「それに、あのルイーゼって子。新兵だろ? 同僚の遺言を聞く機会なんてどこにある」

 

 私は答えに窮した。リコは真実に気づいている。

 それでも――彼女の声には、告発する鋭さはなかった。むしろ、目をつぶりたがっているような曖昧な優しさがあった。

 

「止めたほうがいいと思いますか?」

 

 私の問いに、彼女はわずかに首を振る。

 

「そうは言っていない。ただ……」

 

 そして小さく、吐き捨てるように言った。

 

「……あまり派手にやりすぎるな。今はただ、黙認されてるだけだってことを、忘れるな」

 

 それだけ言い残すと、リコは群衆のなかへと消えていった。その背中は何かを引きずるように重かった。

 私たちの活動は、すでに手の届かないところまで膨れ上がっていた。そして恐ろしいことに、この嘘に気づいている者でさえ、もはや声を上げようとしない。

 

「あの人は、多分こっちに付く」

 

 フロックがリコの背中をじっと見つめながら、ぽつりと呟いた。その声には、確信と――何かを掌の内に収めた者だけが持つ、静かな支配の色が滲んでいた。

 

 

 

---

 

 

 

 あの晩の成功から数日が経った頃には、パン屋のテラス席はもう私たちだけの場所ではなくなっていた。

 机は足りず、椅子は奪い合われ、立ち見の若者たちが二重三重に取り巻く。床にはパン屑が散らばり、笑い声が夜気を震わせていた。

 私たち五人は、もはや群衆の中心ではなかった。膨れ上がった波にただ流されるだけの小さな泡のように、その一角に紛れていた。

 

 サムエルが無駄に声を張り上げ、ダズが真顔で突っ込み、ルイーゼが大笑いして咳き込む。その笑いが連鎖して広がり、見知らぬ若者たちも笑い声を上げる。渦が広がるように、全体がざわめきに包まれた。フロックでさえ珍しく声を上げて笑っていた。

 

 ――青春。たぶん、傍から見ればそう映るのだろう。

 若者が集い、くだらない冗談を飛ばし、笑い合う。

 

 けれど私は、どうしても笑えなかった。

 人々の顔を一つひとつ眺める。笑顔はそこにある。だが瞳の奥には何もなかった。未来を信じる光を宿している者など、一人もいない。

 笑っているのに、底の抜けた闇がある。結局は、私も彼らも同じだった。

 

「また、こうして集まりましょうね」

 

 ルイーゼが杯を掲げる。人々が頷き、再び笑顔を交わす。フロックも軽く杯を掲げたが、その瞳は遠い空の何かを睨んでいた。雲の切れ間で雷鳴が轟き、夜空が白く裂かれた。

 そのとき、パン屋に出入りしていた記者が椅子を引き寄せ、フロックに声をかけた。

 

「ここまでの話、少し脚色してもいいか? その方が人は集まる。あんたがやってるのも、そういうことだろ?」

 

 にやりと笑う記者の笑みには、軽さというより、湿った何かがにじんでいた。

 フロックは答えなかった。ただ雷鳴に目を向けたまま、杯の中身を一気に飲み干した。

 

「ところで」

 

 記者は続ける。

 

「そこの彼女とは、どういう関係だ?」

「兵団の同期」

 

 私を指差す記者に、フロックは面倒そうに答えた。

 事実なので私も特に気にすることはなかったのだが、フロックのあまりの素っ気なさを誤解したのか、ルイーゼが小声で私に囁いた。

 

「心配しなくても大丈夫ですよ。フロックさん、絶対にモテませんから」

「何が大丈夫なのかは知らないけど……」

 

 私は苦笑した。

 

「それは知ってる」

「おい」

 

 フロックが低く抗議の声を上げる。

 そのやり取りに私はふと、先日イェレナにかけられた牽制の言葉を思い出していた。

 

 笑い声が交じり合い、夜は深まっていく。

 しかしその渦の中に――突如、凶報が投げ込まれた。

 

「やられた。捕まった奴がいる」

 

 フロックが低く言った。どこからか回ってきた紙片の端を、拳で押さえ込んでいる。サムエルの顔が蒼白になった。

 

「待て。何の罪に問われるってんだ。たかが集会で? そりゃおかしいだろ」

「通報された。まぁ……許可を取ってない集会なんて、募金箱を置いた時点で興行と同じだからな」

 

 フロックがそう答えると、ようやく自分の行いを思い出したかのように、ダズが膝を震わせた。

 

「軍装の不正使用に、遺族会を騙ったこと……」

「落ち着けダズ。……どれも弱いな。他に本命の理由があるんじゃないか?」

「ああ」

 

 サムエルの問いに、フロックが紙片を握り直す。指先がほんの僅かに震えているように見えた。

 

「捕まった奴の所持品から、写しが出たらしい。技巧班が隠してる、持ち出し禁止の設計書。……義勇兵から兵団に提供されたやつだな」

 

 ざわめきが止まり、時間が軋むように、静寂が広がった。誰かが息を呑む音がして、私たちの周りに残っていた、近しい顔ぶれ――十数人の若者たちが顔を見合わせる。笑いではなく、恐怖が場を覆っていた。

 この沈黙を破ったのは、ルイーゼだった。

 

「通報したの、誰ですか」

「ルイーゼ、やめなさい」

 

 小さな声だったが、その響きは場にいた全員に届いた。

 私は深く息を吐き、彼女を制するための答えを絞り出した。

 

「犯人探しをしたら割れる。それじゃ兵団の思う壺。だから、このまま進む」

 

 何人かが頷いた。その表情には諦めの影が差していた。ルイーゼもまた目を伏せ、黙り込んだ。それが同意なのか、絶望なのか、私には分からなかった。

 雷鳴が再び夜空を裂いた。白い閃光に照らされながら、私たちは全員、すでに戻れない場所に立っていることを受け入れていた。

 

 

 

---

 

 

 

 それから数日後、アズマビトを経由して兵団に一通の指示書が届けられた。

 エレンの筆跡。そこには、レベリオ急襲の日時と手順が簡潔に記されていた。「いつ」「どこで」「どう動くか」。それ以外の一切が、意図的に捨て去られていた。

 

 同じ内容が、マーレ潜入を続けている調査兵団の主力にも伝えられたという。

 その瞬間から、空気は明らかに変わった。誰もが、自分の意志とは無関係に、運命の歯車に巻き込まれていく感覚を覚えた。

 

 詳細を聞かされたとき、フロックの目が一瞬だけ、深く、紅く、熱を帯びたように光った。

 しかし彼は、すぐにその輝きを覆い隠すように表情を引き締め、手際よく支度を始めた。武器を確かめ、装備を整え、いつもの無愛想な仮面を被り直す。

 周囲の兵士たちは、それを緊張の現れだと受け取ったようだった。震える手、硬い口元、落ち着きなく動く視線。そう見えたとしても仕方がない。

 

 けれど私には分かっていた。あれは緊張ではない。怯えでもない。

 陶酔だ。

 エレンの言葉を「授かった」ことで宿った光は――希望などではなかった。破壊の先にしか存在しない未来への歓喜、そして狂気。その怪しげな瞳の輝きを、私は忘れることができなかった。

 そしてフロックが徐々に信仰にも似た熱に取り憑かれ始めていることを……改めて、思い知らされていた。

 

 

 

 

 レベリオ襲撃に向けた準備が佳境を迎えるなか、兵士たちに短い休暇が与えられた。

 サムエルは南の村へ、ダズは家族の待つ町へ、ルイーゼは母のもとへ。別れ際には「お土産話を持って帰りますね」と笑い合い、パン屋のテラスでまた集まろうと約束して散っていった。その笑顔には、かすかに希望の光が差しているように見えた。

 人影の減った石畳を、私はフロックと二人で歩いた。昼間の喧騒が嘘のように静かで、靴音だけが夕闇に響いていた。

 

「お前は、帰らないのか」

 

 不意にフロックが口を開いた。私は苦笑する。

 

「帰る場所なんかない。シガンシナ区の家はもうないし。あそこには、今は別の家族が暮らしてる」

 

 彼は黙ったまま歩き続ける。私は視線を落とし、遠い記憶をたぐった。

 

「勇気あるよね、あんな場所に入植するなんて。壁の落書き、まだ残ってるかな」

 

 声に自分でも驚くほどの寂しさが滲んだ。

 全てを失った日の光景が、脳裏に鮮やかに甦る。巨人に踏み潰された家々、血に染まった石畳、そして――

 

「あの日、超大型巨人が現れて。鎧の巨人が内門を壊した」

 

 言葉は震え、喉に絡まる。

 

「母は瓦礫に潰されて死んだ。鎧の巨人が壁を壊したから、それで……」

 

 夜気に溶けていく声を、フロックは静かに受け止めた。

 

「……そうだったな」

 

 彼の声には、珍しく柔らかな響きがあった。からかいも、皮肉も、反論もなかった。以前の彼なら、わざわざ「ベルトルト、ライナー、アニのことだろ」と訂正してきたかもしれないのに。

 

「フロックは帰るんでしょ? 実家、どこだっけ」

「ローゼ南部の農家」

「そっか。あのパン屋さん、お得意様だって言ってたね」

「今はちょうど、麦の穂が音を立ててる頃だ。風が吹くと、波みたいに揺れる」

 

 彼の声が、ふと遠くを見るように緩む。

 その一瞬のやわらかさに、私は少しだけ、胸の奥が締めつけられる気がした。彼もまた「帰る場所」を持つ一人の青年なのだと、少しだけ思った。

 

 会話はそこで途切れた。沈黙が二人の間に降り積もり、歩調だけが一定のリズムを刻む。

 

 やがて、フロックが立ち止まった。そしてためらうように口を開き、低く言った。

 

「……来るか?」

 

 風が吹いた。

 その声には、制御しきれない戸惑いと、消えかけた希望のような何かが混じっていた。

 誘いの意味を、彼自身も測りかねているのだろう。本当に故郷の風景を見せたいのか、帰る場所を共有したいのか、あるいは――

 

 言葉の真意を、彼は必死に隠そうとしている。

 けれど私には分かっていた。彼が私に向ける視線の意味を、ずっと前から。

 

 私はすぐに返事をしなかった。答えれば何かが変わってしまう気がして、唇を閉ざしたまま視線を落とし、再び歩き出す。

 

「別に、気が向いたらでいい。どうせヒマだろ。今の時期は人手が足りなくて、誰かが来た方が、ちょっとはマシってだけで」

 

 彼の声は上ずっていた。気持ちを誤魔化すように、理由を並べ立てている。

 

「行く」

「は?」

「……行くから。連れてって」

 

 私は彼の目を見つめて言った。驚愕に見開かれたその瞳の奥に、隠しきれない感情が浮かんでいるのを見つめながら。

 彼の故郷を訪れること。それは、今以上に彼の内面に踏み込むことを意味する。けれど、それでも私は一歩踏み出していた。

 夜風が吹き抜け、私たちの間の空気を変えていった。残ったのは、石畳に響く足音と、胸の奥深くで静かに燃える、名前のつけられない感情だけだった。

 

 




あけましておめでとうございます。
本シリーズは予約投稿のため、新年だろうがお構いなしに連続投稿します。最終話までは毎日21時更新です。
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