土の匂いが、ひどく濃く感じられた。
長く離れていた故郷の匂いは、ときに記憶の扉を容赦なくこじ開ける。溢れ出すのは懐かしさだけではなく、忘れたかった痛みや後悔までも。
足下の小道で、踏みしめるたびに砂がかすかに鳴った。
かつては素足で駆け回った道だ。今は硬い靴底で、その記憶を押し潰すように歩いている。
道の両側には、熟れきったライ麦の海が広がっていた。背丈に迫る長い茎に、くすんだ金の穂が重たげに揺れている。風が吹くたびに麦同士が擦れ合い、遠い浜辺の波音のようなざわめきが広がった。
畑の色も、匂いも、風の音も――記憶と変わらないはずなのに、どこか決定的に違って見えた。変わったのは風景ではなく、それを見ている自分の方なのだろう。
西日が傾きかけている。子どもの頃には気にも留めなかった光景だった。だが今は、夕暮れに宿る物悲しさが胸を締めつける。
「いつ以来?」
隣を歩くリディアが、ぽつりと声をかけた。
「奪還作戦が終わって、生存報告に来て以来だ」
「……そっか」
前方に、見慣れた屋根の輪郭が現れた。灰色の石壁に、わずかに傾いた煙突。ぽつんと佇む石造りの家。間違いなく、俺の生まれ育った家だった。
玄関の前に立つと、胸の奥で何かが重く沈んだ。事前の連絡など、一切していない。扉を開けたとき、家族はどんな顔をするのだろうか。驚きか、喜びか、それとも困惑か。
「……フロック?」
戸口に立っていたのは長男だった。朝から干し上げた麦を粉にしていたのだろう、白くなった両手を前掛けで拭いながら、目を大きく見開いている。
「おい、みんな来い! フロックが帰ってきたぞ!」
その声に応じ、家の奥から人影が次々と現れる。長男の妻、彼らの子どもたち、そして――父と、母。
「あんた、急にどうしたのさ。連絡もなしに……」
母は目元を押さえ、声を詰まらせた。気まずさが胸に広がり、俺はただ頷くしかなかった。説明の言葉は、何一つ出てこなかった。
だが次の瞬間、家族の視線は一斉に俺の背後へと移る。そこに立つリディアを見て。
長男がわざとらしく咳払いをして、にやりと笑った。
「ああ……そういうことか。なるほどな」
「は?」
「急に女の子を連れて帰ってきたってことは、そういうことだろ? なあ父さん、母さん」
母は涙を拭いながら、リディアの手を両手で包み込む。
「まあ、よく来てくれたねえ。こんな息子でよかったのかい?」
「ちょっと待てよ。そういう話じゃ……」
俺の声を遮るように、長男が茶化すように笑い、子どもたちが歓声を上げて騒ぎ立てる。父はむっつりと黙ったまま、両腕を組んでこちらを見つめている。
完全に誤解されている。全員、リディアを「嫁」だと思い込んでいるのだ。
リディアは一瞬だけ戸惑いの色を浮かべた。だが、すぐに背筋を伸ばし、真っ直ぐに言った。
「お世話になります」
その声は小さいのに、不思議と揺るがなかった。冗談ではなく、本気で覚悟を含んでいた。そのせいで、俺も彼らに返す言葉を失ってしまった。
---
案の定、囲い込みが始まった。
お茶、お菓子、膝掛け、年季の入ったティーカップ……母は昔からこういうことに抜かりがない。まるで久しぶりの来客を逃すまいとするかのように、次から次へと持ち出してくる。
「どちらのお生まれ? まさか兵団関係のお嬢さん? ご両親はどちらに? お父様のお仕事は?」
口々に浴びせられる質問に、俺は内心で「まずい」という言葉を繰り返していた。
悪気のない好奇心だと分かっている。むしろ善意から出たものなのだ。それでも、ありがた迷惑という言葉しか浮かばなかった。
ちらりと横目でリディアを見やる。
彼女は微笑みを浮かべたまま、湯気の立つ紅茶に視線を落としている。笑みは柔らかい。だがその微笑みの奥に、確かな強さと――同時に、どこか遠さが滲んでいた。
舞台の外に立っているかのような表情。自分はここにいながら、決して混じらない。そんな隔たりを感じさせた。
兄たちが茶化すように笑う。
「お前は昔から、本当に運がいい奴だった。生き残っただけじゃなくて、こんな美人の嫁さんまでもらって……で、いつからだ?」
俺は居心地の悪さに顔をしかめ、答えを探した。けれど言葉は見つからない。どう言葉を選んでも嘘になる気がした。
その沈黙を、リディアが破った。彼女はゆっくりと顔を上げ、家族一人ひとりの目を順に見つめる。
「フロックさんには、何度も助けてもらいました」
「助けた? 生意気で甘ったれたクソガキの、あのフロックが?」
「うっせーな……」
彼女の言葉に、部屋の空気が少し柔らかくなる。母が目頭を押さえ、長男と次男がうんうんと頷き、子どもたちは意味も分からぬままはしゃいでいた。ずっと黙ったままの父も、口元を少しだけ緩めている。
俺は黙ったまま、紅茶の表面に映る自分の顔を見つめていた。
彼女の言葉は、家族への気遣いにすぎないのか。それとも、本心の一端なのか。分からない。
リディアが夕食の準備を手伝うといって母と兄嫁と厨房に向かっている間、俺は裏庭の作業場に向かった。
そこでは、収穫した麦の脱穀作業が行われていた。木製の脱穀機に麦束を通し、穂から粒を落とす。脱穀機がギィギィと軋む音を立てて回り、麦粒が乾いた音を立てて落ちていく。
父が、黙々と作業をしていた。
俺は黙って隣に立った。別の麦束を手に取り、脱穀機に通し始める。
父は昔からこうだった。言葉が少ない。感情を表に出さない。職人気質で、黙々と仕事をする人。
二人で、黙々と麦を扱う。脱穀機の回る音と、麦粒が落ちる音だけが、静かに響く。沈黙が重い。
「お前、まだ兵士を続けるのか」
不意に、父が口を開いた。
「ああ」
「そうか」
父は、溜息をついた。それ以上、何も言わない。その溜息の中に、すべてが込められていた。
――もう十分じゃないのか。
――お前はやれることをやって、生き残った。これ以上、何を求めるんだ。
そう言いたいのだろう。でも父は言わない。言えない。
俺も、何も言えない。
この溝は、埋まらない。言葉にすれば傷つけ合うだけだと分かっていた。だから、黙って、麦を扱い続ける。
脱穀機の音だけが、静かに響いていた。
夜が訪れた。
案の定、用意されたのは一つの部屋と、一つのベッドだった。
「……あの、クソババア……」
思わず声が漏れる。リディアがくすりと笑い、薄暗いランプの灯に頬を揺らした。
「やめなよ、そんな言い方。……でも、まぁ」
彼女は言葉を探すように一度息を置き、慎重に続けた。
「そう思われても仕方がないでしょう」
俺は舌打ちし、視線を壁に逸らした。ベッドに影を落とす木目の模様がやけに鮮明に見え、余計に居心地が悪い。
「俺は他所で寝る。兄貴たちの部屋にでも行くわ」
立ち去ろうとしたとき――袖口を、彼女の指先がそっとつまんだ。
かすかに布が引かれる。その力は弱いのに、妙に抗えない。
「待って」
小さな声だった。感情を抑え込み、迷いを押し殺した声音。
だが不思議と、それだけで足を止めさせる力があった。
「行かなくていい」
「……は?」
振り返った俺に、リディアは目を逸らさずに言った。
その瞳には、怯えと覚悟が同居していた。
俺は息を呑み、袖にかかった細い指を見下ろした。夜の静けさが、心臓の鼓動をやけに大きく響かせる。
ランプを消した後、俺たちは背中合わせにベッドに入った。
最初はできるだけ距離を取ろうとしたのに、古い家の狭いベッドでは無駄な抵抗だった。互いの体温がじわじわと伝わってきて、意識せずにいることができない。
気まずさを隠すように、他愛のない会話を重ねた。
「……家族、すごくあたたかいね」
「昔はもっと狭い部屋に全員で寝てた。兄貴らと布団を取り合って、寝相が悪いってよく叱られた。今日は客人扱いだから別室に通されたんだ」
「ふふ。お母さんの料理も、とてもおいしかった」
「ああ。子どもの頃は、兄貴と皿の取り合いで殴り合いになってた」
「ちょっと羨ましい。賑やかで楽しそうで」
「田舎の家族なんていいもんじゃない。長男以外は出て行くしかない」
「それで兵士に」
「まあな」
仰向けになって天井を仰ぐと、苦笑いが漏れた。肩が少しだけリディアの背中に触れた。
「……女なんて連れて帰ったら、家族じゃなくたって、勘違いするよな……」
リディアが一度こちらを振り向き、すぐに背を向ける。月明かりに照らされ、乱れた髪から覗く首筋の白さがやけに鮮やかに目に入った。
俺は静かに唾を呑んで、リディアに背中を向けた。喉が鳴りそうになり、必死に飲み込む。胸の奥で、焦燥に似た熱がゆっくりと膨れ上がっていく。
「なぁ。さすがに眠れるわけないんだが」
自嘲のように漏らした声は、思った以上に掠れていた。
リディアに背を向けたまま呟くと、しばらくして彼女の声が落ちてきた。
「本当に正直だね」
「お前は素直じゃない」
「普段はね」
そこから先の言葉が続かなかった。そのまま眠りに落ちるのかと思った矢先――
「ほんとはね、こういうの、苦手なんだ」
不意の言葉に、背筋が強張った。
「こういうのって?」
「……」
彼女は答えなかった。沈黙が続き、胸の奥で鼓動が大きくなる。
「……フロック、本当に眠れない?」
「そうだな。緊張してる。ちょっと……本当に息の仕方がわからなくなってる」
ベッドがわずかに揺れた。笑ったのだろう。
「私だって、なんの理由もなく実家に着いてくるほど馬鹿じゃないよ。ちゃんと……覚悟して来た」
リディアは静かに続けた。その声は震えていなかった。
「命の恩人だからじゃない。同期だからじゃない。私はあなたが、あなたの方から踏み出してくれたことが嬉しかった」
「……」
「ありがとう、ここに連れて来てくれて」
「どうも」
「……それにね……」
照れ隠しにぶっきらぼうな返事をすると、リディアは沈黙した。布団の向こう側で、何かを噛みしめているように。
「さすがに、もう疲れたから」
「何に」
「……鈍感なふり、続けるの」
それは、最後の堰を決壊させる言葉だった。
全てを見抜かれていたという衝撃と、そこから逃げ場を失ったような焦燥。背中越しに、心臓を鷲掴みにされた感覚。
もうこれ以上、背中越しに黙っていることはできなかった。
耐えきれずに寝返りを打ち、リディアの背中へ腕を回した。こわばった体を包み込むと、その温度が一気に胸に流れ込み、張り詰めていた理性を容易く砕いていく。
髪から、干し草の匂いがした。それは寝具の匂いと混じり合い、懐かしさと同時に、言いようのない渇望を煽った。
肩は小さく、思った以上に熱かった。抱きしめた腰の細さ、二の腕の感触――そのすべてが、これまでにないほど生々しく迫ってくる。
「……触ってもいいか」
「ちょっと、事後承諾?」
彼女は笑った。その反応に、ようやく実感する――触れていいんだ、と。
その許しに甘えるように、彼女を背後から更に強く抱き寄せる。髪が頬に触れる。柔らかい。温かい。指先で髪を耳の後ろにかきあげると、リディアの体が一瞬びくりとした。
肌越しに伝わる心音が、自分の胸の鼓動と重なる。息が近すぎて、呼吸の仕方を忘れる。
彼女の仕草ひとつで、自分の我慢の限界が目前に迫っていることを痛感する。喉が乾き、血が騒ぎ、思考が熱に呑まれていく。
この温もりが、どれほど自分の中で欠けていたものだったか。これまでの時間が、どれだけ歪んでいたか。皮膚が、記憶を呼び覚ましていく。
「いつから分かってた? どうして一緒に来てくれた?」
「さぁ……でも」
彼女は小さく息をつき、言葉を結んだ。
「たぶん、私も……あなたを必要としてたから」
もう後ろ姿を見ているだけでは物足りなかった。
リディアを自分の方に振り向かせると、その瞳がうっすらと潤んでいるのが見えた。
指先が彼女の頬をなぞり、視線は吸い寄せられるようにその瞳を求める。欲望と安堵と、救われたいという切実な気持ちが渾然となり、もう境界を保つことはできなかった。
短い沈黙。
額を近づけて見つめ合うと、暗闇の中でも、リディアの口元がすこし震えているのが分かった。
「……なあ」
「何?」
「これ、流されてるわけじゃないよな?」
リディアが驚いたように、少しだけ目を見開く。
「家族に囲まれて、嫁扱いされて、仕方なく……とか」
「信用ないなぁ」
リディアが苦笑した。怒っているというよりも、呆れているような……でも、ひどく優しい声だった。
「私、ちゃんと……自分で選んでるよ」
その言葉に俺が反応できずにいると、リディアがそっと顔を近づけてきた。彼女が俺の首に手を回す。確かめるように、ゆっくりと。
次の瞬間。どちらからともなく、影が重なった。
エルヴィン・スミスなら、きっとこんなことはしなかった。
女を連れて故郷に帰り、同じベッドに身を横たえ、温もりを求める――そんな人間的な弱さを、あの人は自分に許さなかったはずだ。
彼には夢があったらしい。すべてを犠牲にしてでも貫かねばならない夢が。だから所帯も持たなかった。誰にも「おかえり」と言わせず、最後まで真実だけを追い求めた。
……それで、俺はどうだ。
口では「島の未来」を語りながら、結局こうして人肌に縋っている。
最初は、なぞってやるつもりだった。あの人みたいに「悪魔」をやってやろうと。でも違う。俺はあの人とは全然違う。悪魔になれるのは、俺みたいな奴じゃなかった。
その道を選んだのは、いや……選ぶことができたのは、俺じゃなくてエレンだった。
理想のために人間性すら切り捨てる覚悟を持った団長と、そんな覚悟のなかった自分。
本心を最後まで胸にしまった団長と、早々にリディアを共犯者に巻き込んだ自分。
仲間とさえ一定の距離を保った団長と、仲間と笑い合う青春を楽しんでしまった自分。
夢に殉じた男と、縋る夢を欲しがっただけの男。
瞳がようやく慣れてきたばかりの暗さ。月明かりもほとんど届かないような部屋で、古いベッドが、動きに合わせて軋む。
「……フロック……」
甘い声は耳に毒だ。
これまずいだろ、いや本当に、まずい。リディアのこと以外、何も考えられなくなる。
そう思った矢先、リディアがかつて惚れていた男の存在が急に頭をよぎった。振り払いたいのに、それは思考のどこかに巣食って離れない。
あいつ……ライナー……あの裏切り者……本当に何を考えてたんだ?
自分を誰よりも強く求めてくれるような存在を、敢えてボロボロに傷つける。それはある種、究極のマゾヒズムであり、同時に自己愛の塊でもある。
俺にはそんなことできない。大切なものは危険から遠ざけたいし、与えられるようなものは全部やりたいし、どこにもいかないでほしい。俺ならこんないい女、絶対に手離さないのに。
汗ばんだ額から滴る熱がこめかみを伝い、彼女の肌に落ちた。肌は水を弾いて揺れる。二人の身体のわずかな隙間にこもる体温が、思考を焼き切っていく。
……何が安楽死計画だ。馬鹿か。全てのエルディア人から生殖能力を奪う? ありえない話だ。イェレナは俺がそんな計画に本当に賛同すると思ったのか?
俺は大切なものを何も捨てられない。この国の未来も、仲間も、家族も、故郷も……そして、惚れた女のことも。
だから「代弁者」なんて立場に甘んじている。弱虫な俺にお似合いの中途半端さだ。
ふと、一つの考えが頭をよぎる。それは無縁だと思っていたはずの未来。
命がこの先、続いていくということ。
ヒストリア女王がそうしたように。彼女にその選択が許されたのなら、リディアだって。
もし、子どもが――
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リディアが小さな寝息を立てている。かすかな月の光がその肩を淡く照らし、俺は髪を指先で撫でた。
熟れた麦を思わせるような、綺麗な、髪。訓練兵の頃から目が離せなかったものの一つ。
リディアを引き込んだのは、俺だ。一緒に戦ってほしいと願ったのも、俺だった。
でも今、この静けさの中で。そうやって並んで戦場を歩く未来なんか――もういらないと思っていた。彼女にはもう、戦場になんか行ってほしくなかった。
この場所で、麦の匂いがする小さな部屋の中で……目を細めたまま、ずっと眠っていてほしかった。
「なあ」
唇からふとこぼれた言葉に、リディアが寝返りを打ち、小さく応えた。
「……ん……何……?」
「……お前だけ、ここに……」
続きは、声にならなかった。
「別に。なんでもない」
リディアが薄く目を開ける。
「朝?」
「違う。まだ寝てろ」
髪を撫でながら、胸の奥に渦巻く矛盾を押し込んだ。
共犯者として引き込んだのに、今さら一人だけ逃がしたいだなんて。そんな身勝手を口にできるはずがなかった。
しばらくすると、リディアが再び静かな寝息をたて始めた。
なぜここまで安心しきったような態度を取れるのだろう。こんなに無防備な寝顔を晒しておいて、なにが女兵士だ。田舎の農場で生まれ育った、外の世界を何も知らない無知な娘にしか見えない。
そこまで考えてから思わず口をついて出そうになった言葉を、俺は舌の奥に押し込んだ。
「……」
はっきりと音に乗せることが、どうしても憚られた。
リディアは動かなかったが、別に聞こえていなくてもよかった。
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朝の光が、窓辺から静かに差し込んでいた。土の匂い。鶏の鳴き声。故郷の朝の、懐かしい調べ。そうだ、ここは俺の実家だった。忘れてた。
そのとき、小さな笑い声がシーツの中から洩れた。リディアが肩を震わせている。
「おい、なんだ。何がおかしい」
「だって……その、髪……!」
「髪?」
リディアは涙を浮かべながら、ようやく言葉を紡ぐ。
「……本当に、あれ寝癖だったんだ……!」
そこで何を言われているのか、ようやく察しがついた。
「訓練兵の頃、わざと変なセットしてるのかと思ってたから……! 半分は本当の癖毛だったんだって、わかって……もう、面白くて……!」
「なっ……」
反射的に手が動き、俺は彼女の前髪を乱暴にかき回した。
「お前だって、髪の毛こんなにグシャグシャのくせに……!」
リディアは驚いて笑いながら顔を隠そうとしたが、それを制して、後ろ髪まで容赦なくかき乱す。
「ちょっ……やめっ……フロック! やめてってば!」
「どっちが『変なあたま』だよ!」
ぐしゃぐしゃの髪の間から、彼女が目を細めて笑っていた。その笑顔が、朝の光を受けてまぶしく映った。
やがて笑いが収まり、沈黙が落ちる。
それは気まずい沈黙ではなかった。何も言わなくても通じ合っている――そう錯覚できるほど、穏やかで優しい沈黙だった。
俺は髪に添えた手をそのままに、リディアの瞳を見つめた。彼女も視線を逸らさない。
気づいたときには、もう遅かった。息が近づき、触れ合い、静かに重なった。
音はなかった。ただ温かくて、柔らかかった。
戦場でも、訓練でも感じたことのない、静かな充足が胸の奥に広がっていく。これが恋なら、もうそれでいい。名前なんて何でもいい。俺はとっくに首まで沈んでる。
距離が離れても、互いに言葉はなかった。やがてリディアが小さくつぶやく。
「お母さんたち、もう起きてるよね」
「ああ……いい加減、顔出すか」
現実が、そっと足音を立てて近づいてくる。だがこのひとときだけは、まだ二人だけの時間だった。
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朝食は、やたらと豪勢だった。親戚筋まで呼ばれたのか、食卓は普段以上に賑わい、笑い声が絶えなかった。俺とリディアは輪の中心に据えられ、まるで祝福の席にでも座らされたようだった。リディアはほとんど言葉を発さなかったが、その笑顔は自然で、昨日までのぎこちなさを感じさせることはなかった。
食後、母が台所の引き出しを開け、小さな箱を持ってきた。箱は古びていて、木の角は擦り切れていた。
「これ、使いなさい」
蓋を開けると、中には銀の指輪がひとつ。石も飾りもない、ただ細いだけの輪。くすんでいて、輝きなどほとんど残っていない。
「後でちゃんと返しに来るんだよ。大したものじゃないけど……」
母はそう言って、俺の顔をじっと見つめた。その視線には、静かな確信と祈りが混じっていた。息子が、ようやく誰かと共に歩もうとしていることへの安堵と、不安と、祝福。
「フロック。あんた、後でちゃんと買いなさいよ。もっと立派なやつをね」
まさか、そんな大層なもんを渡されるとは思っていなかった。俺は言葉を探した。でも何を言えばいいのか分からない。
「いや、俺は……」
「いいから」
声を振り絞ると、リディアによって遮られた。俺は口を閉じるしかなかった。否定の言葉は喉の奥でほどけ、消えていった。
「ありがとうございます。……大切にしますね」
彼女は静かに言った。そしてためらうことなく、箱から指輪を取り出し、左手の薬指にそっとはめた。その仕草はとても落ち着いていて、少しも冗談には見えなかった。
俺は口を閉じるしかなかった。否定の言葉は喉の奥でほどけ、消えていった。
彼女の薬指に光る、小さな銀の輪。
くすんでいるはずなのに、不思議なほど美しく見えた。朝の光を受けて、わずかに輝いている。それは現実を裏打ちする証ではなく、むしろ、叶うことのない未来を錯覚させる幻のようにも見える。
でも今、この瞬間だけは。俺たちは本当に家族になったような気がしていた。
母が嬉しそうに笑っている。親戚たちが、祝福の言葉をかけてくる。
リディアは、静かに微笑んでいる。
その日の午後、俺たちは故郷を後にした。腕を組んだ父の隣で、母が何度も手を振ってくれた。
「今度は先に連絡してから来なさいよ。二人で……人数が増えていてもいいからね!」
その声が、風に乗って届く。故郷での一日は、驚くほど短かった。
馬に乗って帰営する。笑い声も、食卓の温もりも、畑を渡る風の匂いも、すべてが夢の断片のように過ぎ去っていく。
兵舎が近づくにつれ、俺の顔は自然と兵士の顔へと戻っていった。リディアの顔からも、あの朝の輝くような笑みが、少しずつ薄れていった。彼女もまた、兵士であることを思い出さなければならなかったのだ。
任務の準備に、作戦会議。戦争は待ってくれない。心の余白を埋め尽くし、現実へと引き戻していく。
それでも彼女の薬指には、ひとつの指輪が残っていた。
それは束の間の夢の証であり、同時に、決して二人が望んではならないものを象徴する証でもあった。
何がとは言いませんが、pixiv版より描写を控えめにしています。