馬から降り、肩に下ろした荷の重さを感じながら兵舎へ戻ると、廊下の途中でフロックがふと立ち止まった。
言葉を探しているのか、それとも決意を固めているのか。その曖昧な表情を読み取れず、私は荷を抱え直した。
「リディアさん、どこ行ってたんですか? フロックさんも一緒だったんですね」
ルイーゼが先に帰営していたらしく、明るい声が廊下に跳ねた。奥にはサムエルやダズの姿も見える。
そして、廊下を行き交う兵士たちが私たちを一様に振り返った。突然消え、同時に帰ってきた二人。疑いと好奇が入り混じった視線が、肌に刺さるようだった。
私は本能的に荷物を胸元へ引き寄せる。
そんな私にフロックが近づき、小声で告げた。
「荷解きが終わったら、部屋に来てほしい。話がある」
「え?」
思わず聞き返す。彼の声は低く、でも確かな響きがあった。
「同室の奴には言っとくから」
その瞬間、その声をしっかり聞き取ったルイーゼが息を呑んだ。
「え、えええっ!?」
廊下が震えるほどの声。私とフロックを交互に見た彼女は瞳を輝かせ、その口元は抑えきれない笑みで歪んでいた。
フロックは聞こえないふりを決め込んだが、ルイーゼは完全に弾けてしまっていた。
「フロックの実家に行ってきたの。私も一緒にね」
説明した途端、彼女の目は更に丸くなる。
「お二人とも、それって、つまり」
「お願いルイーゼ。ちょっとだけ、静かに」
私の顔は焦げつくように熱くなり、周囲の視線はさらに燃え上がる。
サムエルとダズは、荷を抱えたまま苦笑いしていた。何も言わなくても「察した」と一目でわかる顔だ。
「俺たちは何も聞かなかったことにする」
サムエルの言葉にダズも頷き、通り過ぎていく。
フロックは反論しようとして口を開きかけ、結局諦めて唇を噛んだ。その仕草があまりにも不器用で、私は少し笑ってしまう。
戦争の影が濃く落ちる兵舎でさえ、彼らは日常の温度を手放さない。それがひどく眩しかった。
「一時間後に」
フロックの声で、空気が一転した。その瞳には迷いがない。
「うん。分かった」
私は静かに頷き、彼もまた無言で自室へと歩き出した。その背は、どこか固く、緊張を帯びていた。
---
部屋に戻ると、私は鍵を掛けた。
ミカサもサシャもいない。今はただ、静寂だけが私の同居人だった。
荷を下ろしながら、フロックの故郷で過ごした時間が胸に蘇る。母親の優しい笑顔、皺の深い手のぬくもり、温かい食卓、木のテーブルに沈む夕日の橙。
そして、彼の母が私に預けた古い指輪。
指輪を外して、内側の刻印を見る。細く刻まれた、小さな文字。
「Forster」
その文字を静かに読み上げた。
フロックの母が言っていた。森を守る者――Foresterという言葉が転じた姓だという。
「Forest……森、に、er……する者」
言葉を反芻するように呟く。
Forester。森の番人。でも、一文字違う。Foresterは、森を守る者。でも、Forsterは――ただの家族の名前だ。
もう一度、薬指に指輪をはめた。少し大きい。でも不思議と外れはしない。
「家族」
彼の母の微笑みは、私が失った母の面影さえ思い出させた。
指輪を見つめる指先が震えたとき、机の引き出しの奥から、別の記憶が顔を出した。
ライナーからもらったブローチ。小さくて、飾り気のない――嘘でできた紛い物。
金槌を握り、机の上にブローチを置く。心臓の音が早くなり、息が浅くなる。
ガン。
金槌を振り下ろすと、鈍い音が部屋に響いた。ブローチは跳ねかえるだけで壊れない。
何度も振り下ろした。
ガン。ガン。ガン。
リズムのない打音が、部屋に木霊する。
「壊れて」
小さな声が漏れた。
「お願いだから、壊れて……!」
傷が増えて、表面が削れた。それでも原型を留めている。
ふと、このブローチを貰うきっかけになった出来事のことを思い出した。金槌を机の上に置き、ブローチを床に落とす。
床で転がるそれを――今度は、靴で踏みつけた。それはあの日の再現だった。
ガリッという、終わりの音。足を上げると、そこには粉々の残骸だけが残った。
金槌では壊れなかったのに、踏みつければ簡単に壊れた。あの瞬間と同じだ。
悲しみも喜びもなく、私はただ淡々と欠片を拾い集め、ゴミ箱へ落とした。
左手を見る。薬指で、くすんだ銀がかすかに光っている。その重さは、家族の歴史と祈りの重さだった。
今、私が守るべきものは——この指輪が象徴するもの。
時計を見ると、すでに一時間が経過しようとしていた。
上着を羽織って部屋を出る。
これが、私の答えだ。
---
彼の部屋の前に立ち、ドアを静かにノックする。
「今、開ける」
緊張を含んだ声が返る。扉が静かに開くと、少しだけ気まずそうなフロックの表情が目に入った。
上着を脱いで、シャツの袖を捲っている。彼に促されるまま、部屋に足を踏み入れた——その瞬間。
両肩を掴まれた。
「……!」
背中がドアに叩きつけられ、息が跳ねる。
いつの間にか、フロックの顔が目の前にある。
近すぎる。睫毛の一本一本まで見える距離。瞳孔が開いて、焦点が揺れて、瞬きすら忘れたみたいに――理性だけが置き去りになっている目。
「待っ」
言葉の最後が塞がれた。
口づけというより衝突。押しつけられて、離れかけて、すぐ戻ってくる。息を吸う順番を作る前に、また奪われる。
ぴちゃ、と小さく濡れた音がした。でもそんな水音よりも、一瞬の息継ぎの方が、ずっと大きな音を出しているように感じる。
吸いそこねた空気が喉の奥で鳴って、声にならない声が漏れる。
優しさをかなぐり捨てたようなキス。
唇を割るように、舌先が私の唇の端をなぞる。探るんじゃなくて、こちらを急かしてる。はやく、口を開けろ――と。
シャツを掴む指が震える。押し返したいのか引き寄せたいのか、自分でもわからない。気づけば、彼の背中の布を離さない形で握っていた。
唇を離したあと、フロックの額が私の額に押し当てられる。彼がはぁ、と息を吐くと、熱い呼気が混ざり合う。近すぎて、息が戻ってくる。
「……話があるんじゃなかったの」
「あるさ。ただ……」
掠れた声。言い訳みたいに途切れて、でも目だけはまだ戻っていない。
彼の視線が、私の濡れた唇に落ちる。
一拍。そしてまた、重なった。
今度は少しだけゆっくりだった。
私の舌が動いて、自分から応えてしまったことに気づいて、一瞬だけ身体が固まる。でももう遅い。
フロックの呼吸がひときわ大きく乱れたのがわかった、次の瞬間――彼の右手が、シャツの裾を探り当てた。
ためらいなく、布の内側に指が潜り込んでくる。
「話……っ」
「大丈夫」
直接触れた熱。
息が喉で引っかかった。
冷たいはずの指先が、肌に触れた瞬間から熱を帯びる。
指先が、地図を辿るように横に滑る。そして、ある場所でぴたりと止まった。
皮膚の上の細い盛り上がり。肌の中に、一筋だけ残る異質な感触。
奪還作戦のあの日。私の腹に刻まれた、深い傷。
「……」
フロックの手のひらがわずかに強張るのが伝わった。
至近距離で目が合う。鼻が触れそうなくらい近い。私が何も言えずにいると――その指が、傷の縁をそっとなぞった。
端から端まで。ゆっくりと。
触れられたところだけが熱くなって、でも体の芯は冷えていく。神経が敏感になって、指先の動きが、やけに大きく感じる。私は声にならない音を飲み込む。
傷の真ん中で、指が止まる。そして軽く、押された瞬間。
「……っ」
「……いいよな?」
微かに、声が漏れた。フロックの目が、わずかに見開かれる。昨夜のことが、熱を連れて蘇る。
(……確かに、話なんて。別にもう……後でも、いいかな……)
怖さの中に、微かな期待が同じ場所に住んでいて。その手が、もう少しだけ上へ動こうとした――その瞬間だった。
扉の外から、小さな物音が聞こえた。
二人分の足音だ。やがてこの部屋に近づいてきたかと思った途端――扉の前で、止まる。コンコンと、ノックの音。
「すみません、確認したいことが……」
……今?
私たちは互いの目を見たまま、同時に動きを止めた。
シャツの内側に入った手だけが、私の腹の上で固まっている。
止まったのに離れない。指先が微かに震えて、名残みたいに体温が残ったまま。肌に食い込むように、まだ触れている。
フロックの顎が、僅かに動く。歯を噛み締めてる。
「……」
低く長い舌打ちと共に、彼は私から手を引いた――ゆっくりと。
名残惜しいみたいに指先が肌を滑って、最後に腰骨に触れて、それから離れる。髪の乱れも気にせず、フロックは乱暴にドアを開けた。
「何の用だ」
「すみません、確認事項が」
扉の向こうに、新兵のヴィムとホルガーが立っていた。
「……あっ」
二人は部屋の奥にいる私を見つけた瞬間、顔を真っ赤にして、こちらから目を逸らす。床を見つめたまま、身体が硬直している。
私も反射で髪を直そうとして、指が途中で止まった。
乱れたままの髪が指に絡む。口元に触れかけた手も引っ込める。今更だけど、拭ったりしたら……ここで何をしていたのか、一目瞭然だ。
「あ、えっと……その、邪魔するつもりでは……」
「誤解するな。なんだ」
フロックの声が、低く響く。完全に苛立っている。シャツの襟元を乱暴に引き、息を整えようとする仕草がどこか不器用だ。
「いや、その……備品の確認なんですが」
「それはロボフさんの担当になってただろ。俺よりあの人の方がずっと把握してる」
「あ、ああ、そうでした! 申し訳ありません!」
二人が逃げるように去っていくと、フロックは扉に鍵をかけた。
カチャリという音が、やけに大きく感じる。
「ったく。担当者の変更くらい把握しておけよ」
「元師団長が備品なんか担当してるとは思わないよ。間違えても仕方ないって」
「すでに情報連携が狂ってる。こんな調子で本当に大丈夫か?」
「出発前、また全員で確認しておかないとね」
フロックがこちらを見ると、視線が一瞬だけ、私の口元に落ちたのがわかった。
すると急に照れ臭くなってしまったのか、彼は乱暴に自分の髪をかき上げた。そのまま乱れたシャツの裾を直すも、手つきが雑で、どうにも落ち着きがない。
私は少しだけ笑った。緊張が少しだけ和らぐ。
「新兵二人に変なところ見せちゃったね。二人とも気の毒に」
「あいつらが悪い。空気を読め」
「彼ら、ルイーゼの同期だっけ。規則違反で報告されるかも」
「明日には兵舎中に広まってる」
そこでやっと、フロックも小さく笑った。
「まあ、いい」
そう言って、彼は目を伏せた。
短い沈黙の間に、部屋の空気がまた重くなる。さっきの熱と、いまの静けさが混ざって、逃げ場のない湿度になる。
少しの沈黙の後、彼は部屋の真ん中にある椅子をひとつ引いた。私に、そこに座るよう促している。
「本題だ」
私は素直に座った。背中が椅子に触れた瞬間、ようやく「落ち着け」と身体に言い聞かせられる気がした。
フロックも向かいに腰を下ろす……はずが、途中で止まって、いったん浅く息を吐く。
結局、椅子の縁に乱暴に座った。膝が落ち着きなく動いて、止めようとして止まらない。
「レベリオ襲撃の件だ」
静かに告げる声が、現実を引き戻す。
「エレンが巨人の力を奪取する。うまくいけば複数」
私は頷いた。この作戦のことは、既に聞いていた。
「お前の担当は後方だ。信号灯の設置位置は分かってるな?」
「もちろん」
「いいか、リディア」
フロックが、私の目を見た。部屋に入った時の目とは違って、今は真剣で……硬い。
「レベリオでは、民間人も死ぬ」
その言葉に、私の背筋が凍る。まるで、氷の刃が背中を這うような感覚。
「……分かってる」
「本当に分かってるのか? 軍も民間も、老人も子どもも関係ない。あれは敵国だ。犠牲者の種類は関係ない」
フロックの声が低くなる。押し殺すほど、鋭くなる声だ。
「新生エルディア帝国の初陣だ。絶対に勝利で終わらせる必要がある」
私は彼の目を見た。その目には、何か試すような色があった。私の覚悟を、確かめようとしているような。
「私はクーデターの時に、中央憲兵を殺してる」
「……そうだったな」
「自分の手で、目指す未来のために……同胞を殺してまで、ここまで歩んできた」
「……」
「もう、今さら止まれない。私の罪は、この襲撃を躊躇ったところで消えることはない」
私ははっきりと言った。その重さだけが、今の私を支えている。
「そうか」
それだけ言って、フロックは立ち上がった。彼のまなざしが、静かに結論へ至る。
「帰還後、兵団はエレンを拘束するだろう。ジークもな」
「そうだね」
「俺は新兵――さっきのヴィムたちと、報道機関に情報を流す」
窓の外へ視線を投げてから、彼は続けた。
「前にパン屋で会った記者、覚えてるよな」
「うん。話を脚色してもいいかって言ってた」
「そう、あいつだ。エレンが不当に拘束されていること、兵団が民意を無視していること。すべてを世間に知らせる」
「私は別行動」
「ああ。その方が動きやすい」
言葉は冷静なのに、空気だけが熱い。
フロックがこちらへ戻り、私の肩を掴んだ。温かく確かな重み。さっきは乱暴だった指が、今は震えも押さえ込んでいる。
「これは兵団への裏切りだ。だけど祖国への裏切りじゃない」
「知ってるよ」
「俺たちはあくまでも同胞のために動いてる。仮に一時的に対立したとしても、最後には壁中人類の全てが救われることになる」
「……そうだね」
「ジャンたちだけじゃない。ハンジ団長やリヴァイ兵長とも、彼らの出方によっては対立することになる。でも敵になるわけじゃない。全部終われば、みんなが救われる」
「分かってる」
私は彼を真っ直ぐに見た。
「何があっても、私はあなたといる。私はエレンの……違う。あなたの共犯者なんだから」
私がそう言うと、目の前のフロックが突然立ち上がり、こちらに歩みを進めた。
そして座ったままの私に近づき、息を深く吸い込んだかと思うと、そのまま、私を強く抱きしめた。
「……だったら、いい」
腕にこもった力とは裏腹に、その声は囁くように小さかった。
頬が私の髪に擦れて、乱れたままの毛先が指に絡む。さっき「寸前」で止まった手の名残が、まだ身体の内側で熱を持っているのがわかった。
彼が私の手を取った。引かれるまま立ち上がると……彼は、私をベッドへ誘った。
「え、ちょっと」
私は思わず声を上げた。
「同室の人が戻ってくるでしょ」
「交渉済み」
「どのくらい?」
「一時間」
私は、彼の顔を見た。約束の一時間まで、あと四十分程度。
「本当に?」
私が疑うようにフロックを見ると、彼は少しだけ視線を逸らした。
「……いや、本当は二時間」
私は呆れ、彼は悪戯のように笑う。さっきまでの強引さが、変なところで子どもみたいに揺れる。
「一晩中って頼めばよかった」
「強欲すぎ!」
「だって仕方ないだろ」
言い訳みたいに言うフロックの顔が、少しだけ赤い。
そういう私も、頬の熱が引かない。心臓の音がやけに大きく聞こえる。
フロックが一歩、近づく。
私が一歩、後ろに下がる。
また一歩進んで後退して、繰り返すうちに、体がベッドの縁に当たった。
フロックの手が私の肩を優しく押して、二人でそのまま倒れ込んだ。古い木枠がギシッと小さく鳴る。
「二時間ある」
言葉が肌に触れて、じんわり熱に変わる。
「故郷では、深夜だったから……」
胸の奥が震える。彼は、私の反応を見落とさない目で見ている。
「今の時間帯なら、お前の顔がよく見える」
彼の手が、私の頬に触れる。そして頬から顎へ。顎から首筋へ。
その指先が、何かを確かめるように私の体温を辿っていった。
だいぶアレな感じの共依存ストーリーに寄ってしまいましたが、次回からようやくレベリオ襲撃と地鳴らしが始まります。
そもそもこの話は誰向けの何?とか、色々思われるかもしれませんが…(ごめんなさい)
次話以降、ifで一番書きたかった話が始まるので、あと少しだけお付き合いいただけたら嬉しいです。