「楽園の島の魔女」(完結)   作:雄魔雌

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EP.10 Forester(この森の中で)

 馬から降り、肩に下ろした荷の重さを感じながら兵舎へ戻ると、廊下の途中でフロックがふと立ち止まった。

 言葉を探しているのか、それとも決意を固めているのか。その曖昧な表情を読み取れず、私は荷を抱え直した。

 

「リディアさん、どこ行ってたんですか? フロックさんも一緒だったんですね」

 

 ルイーゼが先に帰営していたらしく、明るい声が廊下に跳ねた。奥にはサムエルやダズの姿も見える。

 そして、廊下を行き交う兵士たちが私たちを一様に振り返った。突然消え、同時に帰ってきた二人。疑いと好奇が入り混じった視線が、肌に刺さるようだった。

 私は本能的に荷物を胸元へ引き寄せる。

 そんな私にフロックが近づき、小声で告げた。

 

「荷解きが終わったら、部屋に来てほしい。話がある」

「え?」

 

 思わず聞き返す。彼の声は低く、でも確かな響きがあった。

 

「同室の奴には言っとくから」

 

 その瞬間、その声をしっかり聞き取ったルイーゼが息を呑んだ。

 

「え、えええっ!?」

 

 廊下が震えるほどの声。私とフロックを交互に見た彼女は瞳を輝かせ、その口元は抑えきれない笑みで歪んでいた。

 フロックは聞こえないふりを決め込んだが、ルイーゼは完全に弾けてしまっていた。

 

「フロックの実家に行ってきたの。私も一緒にね」

 

 説明した途端、彼女の目は更に丸くなる。

 

「お二人とも、それって、つまり」

「お願いルイーゼ。ちょっとだけ、静かに」

 

 私の顔は焦げつくように熱くなり、周囲の視線はさらに燃え上がる。

 サムエルとダズは、荷を抱えたまま苦笑いしていた。何も言わなくても「察した」と一目でわかる顔だ。

 

「俺たちは何も聞かなかったことにする」

 

 サムエルの言葉にダズも頷き、通り過ぎていく。

 フロックは反論しようとして口を開きかけ、結局諦めて唇を噛んだ。その仕草があまりにも不器用で、私は少し笑ってしまう。

 戦争の影が濃く落ちる兵舎でさえ、彼らは日常の温度を手放さない。それがひどく眩しかった。

 

「一時間後に」

 

 フロックの声で、空気が一転した。その瞳には迷いがない。

 

「うん。分かった」

 

 私は静かに頷き、彼もまた無言で自室へと歩き出した。その背は、どこか固く、緊張を帯びていた。

 

 

 

---

 

 

 

 部屋に戻ると、私は鍵を掛けた。

 ミカサもサシャもいない。今はただ、静寂だけが私の同居人だった。

 

 荷を下ろしながら、フロックの故郷で過ごした時間が胸に蘇る。母親の優しい笑顔、皺の深い手のぬくもり、温かい食卓、木のテーブルに沈む夕日の橙。

 そして、彼の母が私に預けた古い指輪。

 

 指輪を外して、内側の刻印を見る。細く刻まれた、小さな文字。

 

「Forster」

 

 その文字を静かに読み上げた。

 フロックの母が言っていた。森を守る者――Foresterという言葉が転じた姓だという。

 

「Forest……森、に、er……する者」

 

 言葉を反芻するように呟く。

 Forester。森の番人。でも、一文字違う。Foresterは、森を守る者。でも、Forsterは――ただの家族の名前だ。

 もう一度、薬指に指輪をはめた。少し大きい。でも不思議と外れはしない。

 

「家族」

 

 彼の母の微笑みは、私が失った母の面影さえ思い出させた。

 

 指輪を見つめる指先が震えたとき、机の引き出しの奥から、別の記憶が顔を出した。

 ライナーからもらったブローチ。小さくて、飾り気のない――嘘でできた紛い物。

 

 金槌を握り、机の上にブローチを置く。心臓の音が早くなり、息が浅くなる。

 

 ガン。

 金槌を振り下ろすと、鈍い音が部屋に響いた。ブローチは跳ねかえるだけで壊れない。

 

 何度も振り下ろした。

 ガン。ガン。ガン。

 リズムのない打音が、部屋に木霊する。

 

「壊れて」

 

 小さな声が漏れた。

 

「お願いだから、壊れて……!」

 

 傷が増えて、表面が削れた。それでも原型を留めている。

 ふと、このブローチを貰うきっかけになった出来事のことを思い出した。金槌を机の上に置き、ブローチを床に落とす。

 

 床で転がるそれを――今度は、靴で踏みつけた。それはあの日の再現だった。

 

 ガリッという、終わりの音。足を上げると、そこには粉々の残骸だけが残った。

 金槌では壊れなかったのに、踏みつければ簡単に壊れた。あの瞬間と同じだ。

 悲しみも喜びもなく、私はただ淡々と欠片を拾い集め、ゴミ箱へ落とした。

 

 左手を見る。薬指で、くすんだ銀がかすかに光っている。その重さは、家族の歴史と祈りの重さだった。

 今、私が守るべきものは——この指輪が象徴するもの。

 

 時計を見ると、すでに一時間が経過しようとしていた。

 上着を羽織って部屋を出る。

 これが、私の答えだ。

 

 

 

---

 

 

 

 彼の部屋の前に立ち、ドアを静かにノックする。

 

「今、開ける」

 

 緊張を含んだ声が返る。扉が静かに開くと、少しだけ気まずそうなフロックの表情が目に入った。

 上着を脱いで、シャツの袖を捲っている。彼に促されるまま、部屋に足を踏み入れた——その瞬間。

 両肩を掴まれた。

 

「……!」

 

 背中がドアに叩きつけられ、息が跳ねる。

 いつの間にか、フロックの顔が目の前にある。

 近すぎる。睫毛の一本一本まで見える距離。瞳孔が開いて、焦点が揺れて、瞬きすら忘れたみたいに――理性だけが置き去りになっている目。

 

「待っ」

 

 言葉の最後が塞がれた。

 口づけというより衝突。押しつけられて、離れかけて、すぐ戻ってくる。息を吸う順番を作る前に、また奪われる。

 

 ぴちゃ、と小さく濡れた音がした。でもそんな水音よりも、一瞬の息継ぎの方が、ずっと大きな音を出しているように感じる。

 吸いそこねた空気が喉の奥で鳴って、声にならない声が漏れる。

 

 優しさをかなぐり捨てたようなキス。

 唇を割るように、舌先が私の唇の端をなぞる。探るんじゃなくて、こちらを急かしてる。はやく、口を開けろ――と。

 

 シャツを掴む指が震える。押し返したいのか引き寄せたいのか、自分でもわからない。気づけば、彼の背中の布を離さない形で握っていた。

 

 唇を離したあと、フロックの額が私の額に押し当てられる。彼がはぁ、と息を吐くと、熱い呼気が混ざり合う。近すぎて、息が戻ってくる。

 

「……話があるんじゃなかったの」

「あるさ。ただ……」

 

 掠れた声。言い訳みたいに途切れて、でも目だけはまだ戻っていない。

 彼の視線が、私の濡れた唇に落ちる。

 一拍。そしてまた、重なった。

 

 今度は少しだけゆっくりだった。

 私の舌が動いて、自分から応えてしまったことに気づいて、一瞬だけ身体が固まる。でももう遅い。

 フロックの呼吸がひときわ大きく乱れたのがわかった、次の瞬間――彼の右手が、シャツの裾を探り当てた。

 ためらいなく、布の内側に指が潜り込んでくる。

 

「話……っ」

「大丈夫」

 

 直接触れた熱。

 息が喉で引っかかった。

 

 冷たいはずの指先が、肌に触れた瞬間から熱を帯びる。

 指先が、地図を辿るように横に滑る。そして、ある場所でぴたりと止まった。

 

 皮膚の上の細い盛り上がり。肌の中に、一筋だけ残る異質な感触。

 奪還作戦のあの日。私の腹に刻まれた、深い傷。

 

「……」

 

 フロックの手のひらがわずかに強張るのが伝わった。

 至近距離で目が合う。鼻が触れそうなくらい近い。私が何も言えずにいると――その指が、傷の縁をそっとなぞった。

 

 端から端まで。ゆっくりと。

 触れられたところだけが熱くなって、でも体の芯は冷えていく。神経が敏感になって、指先の動きが、やけに大きく感じる。私は声にならない音を飲み込む。

 傷の真ん中で、指が止まる。そして軽く、押された瞬間。

 

「……っ」

「……いいよな?」

 

 微かに、声が漏れた。フロックの目が、わずかに見開かれる。昨夜のことが、熱を連れて蘇る。

 

(……確かに、話なんて。別にもう……後でも、いいかな……)

 

 怖さの中に、微かな期待が同じ場所に住んでいて。その手が、もう少しだけ上へ動こうとした――その瞬間だった。

 扉の外から、小さな物音が聞こえた。

 二人分の足音だ。やがてこの部屋に近づいてきたかと思った途端――扉の前で、止まる。コンコンと、ノックの音。

 

「すみません、確認したいことが……」

 

 ……今?

 私たちは互いの目を見たまま、同時に動きを止めた。

 

 シャツの内側に入った手だけが、私の腹の上で固まっている。

 止まったのに離れない。指先が微かに震えて、名残みたいに体温が残ったまま。肌に食い込むように、まだ触れている。

 フロックの顎が、僅かに動く。歯を噛み締めてる。

 

「……」

 

 低く長い舌打ちと共に、彼は私から手を引いた――ゆっくりと。

 名残惜しいみたいに指先が肌を滑って、最後に腰骨に触れて、それから離れる。髪の乱れも気にせず、フロックは乱暴にドアを開けた。

 

「何の用だ」

「すみません、確認事項が」

 

 扉の向こうに、新兵のヴィムとホルガーが立っていた。

 

「……あっ」

 

 二人は部屋の奥にいる私を見つけた瞬間、顔を真っ赤にして、こちらから目を逸らす。床を見つめたまま、身体が硬直している。

 私も反射で髪を直そうとして、指が途中で止まった。

 乱れたままの髪が指に絡む。口元に触れかけた手も引っ込める。今更だけど、拭ったりしたら……ここで何をしていたのか、一目瞭然だ。

 

「あ、えっと……その、邪魔するつもりでは……」

「誤解するな。なんだ」

 

 フロックの声が、低く響く。完全に苛立っている。シャツの襟元を乱暴に引き、息を整えようとする仕草がどこか不器用だ。

 

「いや、その……備品の確認なんですが」

「それはロボフさんの担当になってただろ。俺よりあの人の方がずっと把握してる」

「あ、ああ、そうでした! 申し訳ありません!」

 

 二人が逃げるように去っていくと、フロックは扉に鍵をかけた。

 カチャリという音が、やけに大きく感じる。

 

「ったく。担当者の変更くらい把握しておけよ」

「元師団長が備品なんか担当してるとは思わないよ。間違えても仕方ないって」

「すでに情報連携が狂ってる。こんな調子で本当に大丈夫か?」

「出発前、また全員で確認しておかないとね」

 

 フロックがこちらを見ると、視線が一瞬だけ、私の口元に落ちたのがわかった。

 すると急に照れ臭くなってしまったのか、彼は乱暴に自分の髪をかき上げた。そのまま乱れたシャツの裾を直すも、手つきが雑で、どうにも落ち着きがない。

 私は少しだけ笑った。緊張が少しだけ和らぐ。

 

「新兵二人に変なところ見せちゃったね。二人とも気の毒に」

「あいつらが悪い。空気を読め」

「彼ら、ルイーゼの同期だっけ。規則違反で報告されるかも」

「明日には兵舎中に広まってる」

 

 そこでやっと、フロックも小さく笑った。

 

「まあ、いい」

 

 そう言って、彼は目を伏せた。

 短い沈黙の間に、部屋の空気がまた重くなる。さっきの熱と、いまの静けさが混ざって、逃げ場のない湿度になる。

 少しの沈黙の後、彼は部屋の真ん中にある椅子をひとつ引いた。私に、そこに座るよう促している。

 

「本題だ」

 

 私は素直に座った。背中が椅子に触れた瞬間、ようやく「落ち着け」と身体に言い聞かせられる気がした。

 

 フロックも向かいに腰を下ろす……はずが、途中で止まって、いったん浅く息を吐く。

 結局、椅子の縁に乱暴に座った。膝が落ち着きなく動いて、止めようとして止まらない。

 

「レベリオ襲撃の件だ」

 

 静かに告げる声が、現実を引き戻す。

 

「エレンが巨人の力を奪取する。うまくいけば複数」

 

 私は頷いた。この作戦のことは、既に聞いていた。

 

「お前の担当は後方だ。信号灯の設置位置は分かってるな?」

「もちろん」

「いいか、リディア」

 

 フロックが、私の目を見た。部屋に入った時の目とは違って、今は真剣で……硬い。

 

「レベリオでは、民間人も死ぬ」

 

 その言葉に、私の背筋が凍る。まるで、氷の刃が背中を這うような感覚。

 

「……分かってる」

「本当に分かってるのか? 軍も民間も、老人も子どもも関係ない。あれは敵国だ。犠牲者の種類は関係ない」

 

 フロックの声が低くなる。押し殺すほど、鋭くなる声だ。

 

「新生エルディア帝国の初陣だ。絶対に勝利で終わらせる必要がある」

 

 私は彼の目を見た。その目には、何か試すような色があった。私の覚悟を、確かめようとしているような。

 

「私はクーデターの時に、中央憲兵を殺してる」

「……そうだったな」

「自分の手で、目指す未来のために……同胞を殺してまで、ここまで歩んできた」

「……」

「もう、今さら止まれない。私の罪は、この襲撃を躊躇ったところで消えることはない」

 

 私ははっきりと言った。その重さだけが、今の私を支えている。

 

「そうか」

 

 それだけ言って、フロックは立ち上がった。彼のまなざしが、静かに結論へ至る。

 

「帰還後、兵団はエレンを拘束するだろう。ジークもな」

「そうだね」

「俺は新兵――さっきのヴィムたちと、報道機関に情報を流す」

 

 窓の外へ視線を投げてから、彼は続けた。

 

「前にパン屋で会った記者、覚えてるよな」

「うん。話を脚色してもいいかって言ってた」

「そう、あいつだ。エレンが不当に拘束されていること、兵団が民意を無視していること。すべてを世間に知らせる」

「私は別行動」

「ああ。その方が動きやすい」

 

 言葉は冷静なのに、空気だけが熱い。

 フロックがこちらへ戻り、私の肩を掴んだ。温かく確かな重み。さっきは乱暴だった指が、今は震えも押さえ込んでいる。

 

「これは兵団への裏切りだ。だけど祖国への裏切りじゃない」

「知ってるよ」

「俺たちはあくまでも同胞のために動いてる。仮に一時的に対立したとしても、最後には壁中人類の全てが救われることになる」

「……そうだね」

「ジャンたちだけじゃない。ハンジ団長やリヴァイ兵長とも、彼らの出方によっては対立することになる。でも敵になるわけじゃない。全部終われば、みんなが救われる」

「分かってる」

 

 私は彼を真っ直ぐに見た。

 

「何があっても、私はあなたといる。私はエレンの……違う。あなたの共犯者なんだから」

 

 私がそう言うと、目の前のフロックが突然立ち上がり、こちらに歩みを進めた。

 そして座ったままの私に近づき、息を深く吸い込んだかと思うと、そのまま、私を強く抱きしめた。

 

「……だったら、いい」

 

 腕にこもった力とは裏腹に、その声は囁くように小さかった。

 頬が私の髪に擦れて、乱れたままの毛先が指に絡む。さっき「寸前」で止まった手の名残が、まだ身体の内側で熱を持っているのがわかった。

 彼が私の手を取った。引かれるまま立ち上がると……彼は、私をベッドへ誘った。

 

「え、ちょっと」

 

 私は思わず声を上げた。

 

「同室の人が戻ってくるでしょ」

「交渉済み」

「どのくらい?」

「一時間」

 

 私は、彼の顔を見た。約束の一時間まで、あと四十分程度。

 

「本当に?」

 

 私が疑うようにフロックを見ると、彼は少しだけ視線を逸らした。

 

「……いや、本当は二時間」

 

 私は呆れ、彼は悪戯のように笑う。さっきまでの強引さが、変なところで子どもみたいに揺れる。

 

「一晩中って頼めばよかった」

「強欲すぎ!」

「だって仕方ないだろ」

 

 言い訳みたいに言うフロックの顔が、少しだけ赤い。

 

 そういう私も、頬の熱が引かない。心臓の音がやけに大きく聞こえる。

 

 フロックが一歩、近づく。

 私が一歩、後ろに下がる。

 また一歩進んで後退して、繰り返すうちに、体がベッドの縁に当たった。

 

 フロックの手が私の肩を優しく押して、二人でそのまま倒れ込んだ。古い木枠がギシッと小さく鳴る。

 

「二時間ある」

 

 言葉が肌に触れて、じんわり熱に変わる。

 

「故郷では、深夜だったから……」

 

 胸の奥が震える。彼は、私の反応を見落とさない目で見ている。

 

「今の時間帯なら、お前の顔がよく見える」

 

 彼の手が、私の頬に触れる。そして頬から顎へ。顎から首筋へ。

 その指先が、何かを確かめるように私の体温を辿っていった。

 

 

 




だいぶアレな感じの共依存ストーリーに寄ってしまいましたが、次回からようやくレベリオ襲撃と地鳴らしが始まります。
そもそもこの話は誰向けの何?とか、色々思われるかもしれませんが…(ごめんなさい)
次話以降、ifで一番書きたかった話が始まるので、あと少しだけお付き合いいただけたら嬉しいです。
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