安全な場所など、どこにもない。
レベリオ収容区の石畳を銃弾が跳ね、崩れ落ちた建物の瓦礫が空を舞う。石畳に血が飛び散り、煙が空を覆い尽くしていく。攻め込む側の立場とはいえ、一瞬でも油断すればそこで終わりだ。
パラディ島の兵士たちは今、立体機動装置を駆使してマーレ軍を翻弄している。そして巨人と化したエレンの咆哮が大地を揺るがし、建物の壁を震わせ、私の骨まで響いてくる。
私も建物の間を縫うように飛び、屋根から屋根へと跳ぶ。飛行船の道筋を示す明かりを設置し、「光の道」を作るために。ワイヤーが空を切る音と、ガスが噴射される音だけが、私の存在を証明していた。
上空から街を見下ろす。煙の向こうに逃げ惑う人々の姿が、蟻のように小さく見えた。
この場所はまるで――845年の、あの日のシガンシナ区のようだった。
壁が壊され、巨人が侵入し、すべてが崩壊したあの日。
逃げ惑う人々の怒号、叫び、泣き喚く声。あの日と同じ絶望の音が、今ここで響いている。
私の母はあの日、瓦礫に潰され、一瞬でこの世からいなくなった。助けを求める手を伸ばすことすらできずに。私は母の名を叫び続けた。喉が潰れるまで叫んだ。でも、母は二度と答えなかった。
今は、逆だ。
あの日現れた巨人は――今の私だ。
私が、壁を壊している。私が、侵入している。私が、人々を殺している。私の存在が、誰かの絶望を作り出している。
眼下で誰かが子どもの名を呼んでいる。その声は、あの日の私と同じ絶望を孕んでいた。
次の建物に着地したとき、眼下に広場が見えた。
逃げ惑う人々の姿があった。老人、女性、子ども。みんな必死に走っている。どこへ逃げればいいのかも分からないまま、ただ生き延びるために走っている。老人が転び、若い女性がその手を引こうとしている。子どもが泣き叫びながら母親の服を掴んでいる。
何も考えてはいけない。任務を続けなければ。
私は明かりを建物の屋上に固定し、次の地点へ向かおうとした。指先が、震えている。それでも動かす。動かし続けなければ、立ち止まってしまう。
そのとき、斜め前方の建物の屋上にフロックの姿が見えた。彼は屋上の縁に立ち、下を見下ろしている。彼の近くで、火が建物の壁を這い始めていた。
「フロック! 収容区ごと燃やすつもりか!?」
ジャンの声が、銃声と悲鳴の合間を縫って響いた。
彼も同じ建物の屋上にいた。おそらくフロックを追ったのだろう。その足取りに、怒りと焦りが滲んでいた。
言い合いになっているようだが、距離があって言葉は聞き取れない。風が煙を運び、二人の姿を霞ませる。
しばらくして、ジャンがフロックの腕を掴もうと手を伸ばすのが見えたが、フロックはその手を振り払った。ジャンの体がよろめく。縁に近い。危ない。
そして、フロックが銃を取り出した。
私の心臓が跳ねる。何かが起こる。何かが――。
銃声が、空気を裂いた。
下の広場で、誰かが倒れる。走っていた人が、糸が切れた人形のように地面に崩れ落ちる。血が、石畳の隙間に滲み、広がっていく。赤い液体が、まるで生き物のように這っていく。
悲鳴が悲鳴を呼び、恐怖が波紋のように広がる。人々が散り散りになり、互いを押しのけ、踏みつけ合って逃げていく。
フロックは躊躇しなかった。
民間人だろうと、彼にとってこの場所にいるものは全て「敵」だった。パラディ島を脅かす存在は、すべて排除されるべき対象でしかなかった。
私は目を逸らした。
見てはいけない。今は、自分の任務に集中しなければ。
ワイヤーを放ち、次の建物へ跳ぶ。風が頬を叩き、煙が目に染みた。涙が溢れる。煙のせいだ、と自分に言い聞かせる。
しばらくして、別の建物の屋上に着地したとき、背後から声が聞こえた。
「リディア!」
振り返ると、サシャだった。
彼女は立体機動装置で空を滑り、私の隣の屋上に着地した。髪が風に揺れ、頬には煤がついている。
「こっちの道は塞ぎました。そろそろ撤退準備のはずなんですが」
「わかった」
短く答える。それ以上、言葉が出てこない。喉が詰まっているような感覚があった。
サシャは少しだけ私の顔を見つめた。
「……なんか、雰囲気変わりましたね」
「え?」
サシャは首を傾げた。銃を背負ったまま、少しだけ体を傾ける。私は何も言えなかった。否定する言葉が、喉の奥で固まっている。
「気のせいだよ」
ようやく絞り出した声も、短かった。
サシャは少しだけ哀しそうに笑った。何かを見透かされているような、そんな居心地の悪さが胸を過ぎる。
「まあ、後にしましょう。戦場ですからね」
「ええ」
「では。また帰りの船で」
サシャはそう言って、ワイヤーを放ち、空へと飛び去っていった。その背中が煙の向こうに消えていくのを、私はただ見送ることしかできなかった。
また帰りの船で。
サシャの言葉が、耳の奥で反響する。
彼女の勘は、いつも鋭い。彼女は一体、私の何を見抜いていたのだろう。そして――私は、彼女に何を見せてしまっていたのだろう。
そしてこれが、私と彼女にとって最期の会話になった。
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飛行船の中で、ガビとファルコを捕らえたフロックの声に優しさなどなかった。
「こいつらを生かしておく理由はない。ジャン、お前はどうする?」
体を縄で拘束され、膝をついたガビは顔を上げ、こちらを睨みつけている。恐怖よりも憎悪がその目に宿っていた。少女の瞳に、殺意が燃えている。彼女はまだ、何も諦めていない。
ジャンが壁から身を起こし、低い声で言った。
「やめろ。こいつら、まだ……子どもじゃねぇか」
「子どもだと? たった今、サシャを一撃で仕留めた子どもだぞ」
フロックの声が、一段と低くなる。
「それでも生かすのか。その優しさで味方が生き返るか?」
「こいつらを、殺しても……」
「ああ、犠牲になった仲間たちは帰ってこない。生かしたところで同じだけどな」
フロックがガビの髪を掴む。ガビは抵抗し立ち上がろうとしたが、周囲の兵士に押さえつけられた。それでも、彼女は叫ぶ。
「島の悪魔どもめ、私に触れるな! 殺すなら好きにしろ !私が死んでも、真のエルディア人の同胞がお前たちを殲滅する!」
ガビの言葉に、船内の空気が凍りつく。
「見ろ」
フロックが周囲を見回した。
「こいつは戦意を失ってない。普通の子どもじゃないんだよ」
兵士たちは黙っていたが、フロックの意見が場の空気を支配し始めている。でも今、決定権があるのはジャンだ。
誰も賛成しない。でも、反対もしない。重苦しい沈黙が、船内を支配していた。その沈黙は、肯定にも否定にも聞こえた。誰もが、この決断から逃れたがっていた。
そして私も大多数と同じように、この光景を見ていることしかできなかった。
フロックは本気だ。子どもだろうとなんだろうと、敵であれば殺す。その覚悟が、彼の全身から滲み出ていた。
あの日私を見つめて微笑んだ瞳は、今、目の前の子どもに死を宣告している。
私の頬に触れ、優しく髪を撫でた手は、今、民間人の命を奪うことに何の痛痒も感じていない。
私の耳元で囁いた声は、今、殺戮を正当化し、憎悪を正義と呼んでいる。
分かっていたはずだ。それが彼の正義なのだと。そしてそれを肯定したのも自分なのだと。それなのに私は黙ったままだった。
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島に帰ってから、怒涛の時間が過ぎた。
エレンの拘束は想定内。居場所こそ分からないが、ジークの拘束も。情報が錯綜し、噂が飛び交い、島全体が不穏な空気に包まれていった。
レストランの外壁に背を預けると、不意にサシャの顔が浮かんだ。
こんなときに限って、記憶はやけに鮮明になる。食べ物を前にしたときの無邪気な笑顔。訓練兵時代に腹を抱えて笑った声。そして、それらすべてが消えた瞬間。
飛行艇の中の光景が蘇る。銃声。肉が裂ける音。誰かが崩れ落ちる気配。絶叫と嗚咽。
あのとき隣にいたフロックは、真っ先にガビを見た。銃を構えたマーレの戦士候補生を。倒れたサシャではなく、敵を。
彼はレベリオで、民間人の殺害を厭わなかった。敵兵とはいえ、子どもを空から突き落とそうとした。
兵士としては正しい反応だったのかもしれない。敵は殺さなければならない。そのことしか、もう彼には見えていなかった。
けれど私には、あのとき彼がサシャを見なかったことが、どうしても忘れられなかった。
冷たい風が頬を撫で、私は小さく息を吐いた。ポケットの中で紙片を探る。
マーレ人捕虜グリーズから渡されたメモ。開くとこう書かれている。「ハンジ団長がレストランに向かっている」と。
この紙切れを仲間に渡せば、彼らが動き出す。
止まれないと分かっていても、喉の奥に苦いものがこみ上げる。
フロック、ルイーゼ、ホルガー、ヴィム。彼らはすでに情報漏洩の罪で拘束された。
新聞社に託した資料は、競うように紙面を飾った。最初に「民意を動かせ」と言ったのは、ほかでもない私だ。だから彼らが記者たちに内部情報を流した。
かつてハンジ団長は言った。情報は、納税者に委ねられるべきだと。
だから私たちのしていることは、決して間違いではない。そう……信じた。信じようとしていた。
ハンジ団長は、まだ私を信頼しているだろうか。イェーガー派の密偵でしかない私を。
いずれにせよ、時間の問題だ。情報戦は終わった。これから始まるのは、力と力のぶつかり合い。
私たちはついに「反兵団破壊工作組織・イェーガー派」などと呼称されるようになった。可笑しな話だ。調査兵団に拾われた私が、その団長に刃を向けている。
ザックレー総統の爆殺は想定外だった。
いや違う。私が知らされていなかっただけだ。フロックに問い質したとき、彼は驚きもしなかった。彼が放った言葉は「そういうことだ」――ただ、それだけ。
もし私が事前に知っていたとして、止められただろうか。そんなはずはない。私にそんな力はない。
壁から身を起こし、震える手で紙片を見つめる。
「このレストランに、イェーガー派を……エレンを誘導する」
声に出した瞬間、胸の奥で何かが静かに軋んだ。これが「みんな」と私を隔てる、決定的な境界線になる。
痛みはじんわりと広がり、足は重かった。それでも動かさなければならない。私はもう、進むべき道を選んでしまったのだから。
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足元が裂けた瞬間、大地そのものが悲鳴を上げた。壁が崩れ、街が、世界が、音を立てて沈んでいく。
兵士たちの悲鳴。名前を叫ぶ声。肉が潰れる音。
本能だけが私を動かし、ワイヤーを放った。アンカーが近くの建物の壁に食い込む。強く引かれた身体が風に舞い上がり、視界が一瞬、白に溶けた。
――地鳴らし。
とうとう、始まってしまったのだ。この島を守るために。
「リディアさん!」
振り返った瞬間、ルイーゼの足元が崩れた。瓦礫が崩れ落ち、彼女の身体が宙に浮かぶ。
細い身体が宙に投げ出される。無重力の中で伸ばされた手、見開かれた瞳――すべてがスローモーションのように焼き付いた。
迷わず飛び込む。アンカーを打ち、空中でルイーゼを抱きとめる。風が巻き上がり、体がぐらりと揺れた。
「しっかり掴まって!」
「は、はい……!」
肩越しに伝わる息が震えている。
着地と同時に膝が崩れ、肺が焼けるように呼吸を繰り返した。
そのときだった。風の向こうから、重く、濁った足音が聞こえてきた。
巨人。
蒸気をまとった影が、崩れた壁の向こうから現れる。あれは、ジークの脊髄液入りワインを口にした――かつての、壁内の兵士たち。仲間だった者たちの成れの果て。
「リディアさん、今度は私が!」
ルイーゼが腕を振りほどく。
「待って、ルイーゼ!」
声は届かない。彼女はすでに宙を駆けていた。
小柄な身体が雷槍を構え、巨人のうなじを真っ直ぐに狙う。風に靡く髪。真っすぐな目。あの気弱そうな少女は、もうどこにもいなかった。
本当に、立派になった。
そう思った、ほんの一瞬の後だった。
乾いた破裂音。ルイーゼの雷槍は発射せず、空中で暴発した。
「ルイーゼ……ッ!!」
爆煙の中から、彼女の身体が吹き飛んで落ちてくる。
私は叫びと共に、宙を駆けた。風が耳を裂く。胸が張り裂けそうだった。間に合えと祈りながら、彼女に追いつく。
血だらけの制服。焼けた袖。それでも、瞳はまだ閉じていなかった。
「だい……じょうぶ、です。巨人を……早く……」
「黙って!」
彼女を必死で抱きかかえ、立体機動を駆使する。血と蒸気で視界が霞む。巨人が次々と迫る。かわすしかない。戦えない――片腕では。
私は泣いていた。たぶん。それすら曖昧だった。
最後の巨人を振り切ったとき、力が抜けて膝が崩れる。刃が手から滑り落ち、金属音が石畳に響いた。
ルイーゼの制服の腹部が赤黒く染まっている。血が地面に広がっていく。
「ルイーゼ! 目を覚まして!」
返事がない。顔色が蝋のように白い。首に手を当てる――脈はある。弱いけれど、まだある。
「リディア! こっちだ!」
駆けつけた兵士たちが声を上げた。彼らもルイーゼを見て顔を凍らせる。
「担架を……!」
「待ってられない!」
私は彼女を抱き上げた。軽い。血の匂いが鼻を突く。頭が肩にもたれかかり、髪が私の頬に触れた。
「救護所はどこ!?」
「こっちだ!」
兵士が走り出す。私はその背を追った。足が重い。腕が痺れる。それでも止まれない。止まれば終わる。
「っ……あ……」
か細い呻き声が聞こえた。ルイーゼが薄く目を開けている。
「大丈夫、もうすぐ……すぐに着くから」
嘘だと分かっている。でも、他に言える言葉がなかった。
「痛い……」
「もう少しだから!」
声が震えていた。不安を与えてはいけないのに。
足元の瓦礫に躓きそうになる。バランスを崩しかけて、慌てて踏みとどまった。その拍子に、ルイーゼの身体が揺れる。
「うっ……」
彼女が小さく呻いた。きっと傷に響いたのだ。
もっと慎重に歩かなければ。でも急がなければ。どれだけ血を失っているのか分からない。この、一分一秒が――
「ルイーゼ、起きて。眠っては駄目!」
応答はない。呼吸は浅く、弱い。
もう走るしかなかった。慎重さなど捨てて、私は全力で駆け出した。胸が苦しい。息が切れる。でも止まれない。
「軍医! 軍医はどこ!?」
私の叫びに応じるように、返り血で汚れた白い布を着用した男が駆け寄ってきた。
「こちらへ!」
「止血と気道確保! 急げ!」
鋭い指示が飛び、ルイーゼの身体が私の腕から担架へと移される。軽くなったはずの腕が、まだ彼女の重みを覚えているかのように震えて止まらない。
「君、もう大丈夫だ。あんたも相当顔色が悪い……座りなさい」
男は血で濡れた手を無造作に自分の服で拭い、私の顔を心配そうに覗き込んだ。
「腹部に雷槍の破片が深く刺さっている。取り出す方が危険だ」
軍医の診断を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。
これはルイーゼの自己責任? 自己決定?
違う。全て私の責任だ。
私がフロックと共に彼女たちを誘ったのだ。耳障りのいい大義名分を並べて、本当の意味を隠して。
震える手でルイーゼの指先に触れる。意識はある。会話だってできる。ただ、彼女は確実に衰弱していた。
しばらくして、救護所の扉が静かに開いた。振り返らずとも分かった。足音の間隔、床を踏む重さ……ミカサだ。共に刃を交え、幾度も背中を預けた戦友。心から信頼していた、私の大切な友人――だったはずの人。
彼女は一直線に歩いてくる。私を見ることもなく、ルイーゼの枕元へ。そして短く、冷たく言った。
「返して」
ルイーゼの首に巻かれた赤いマフラー。ミカサがいつも身につけてきた、過去の象徴。何よりも大切なもの。そして、世界の全てだったもの。
ミカサはそれを無言で受け取ると、私に目もくれずに踵を返した。
胸の奥で、何かがひび割れる音がした。深い寂しさが胸を満たしていく。
ルイーゼの肩が、小刻みに震え始めた。噛み締めた唇からはかすかに吐息が漏れる。
「……悔いなんか、ないって……」
声が掠れていた。
「嘘でした。ミカサさんに、弱い自分を見せたくなかっただけで……」
小さな嗚咽が続く。見上げてくる瞳に、涙が滲んでいた。
私はもう言葉を失っていた。代わりに両手で彼女の手を包み込む。細い。冷たい。その手は雪のように儚くて、今にも溶けて消えてしまいそうだった。
「リディアさん。私たち、間違ってたんでしょうか」
喉の奥が詰まって、声が出なかった。
「あなたとフロックさんは、ずっと知ってたんですよね。イェーガーさんの……この計画を」
「……えぇ。十ヶ月も前から」
やっとのことで絞り出した声は、自分のものとは思えなかった。
「騙し討ちのようなことをした……みんなを巻き込んで」
「責めてなんかいません」
ルイーゼの声が、わずかに強くなった。
「だって私、この計画を知っていたとしても、きっと同じ選択をしてました」
「……」
「地鳴らしを否定して、世界の報復を待つのが正義だなんて……そうは思えない」
その問いに、私は何も答えられなかった。正解などあるはずもない問いに。
「私たちのしてること、大量虐殺の共犯です」
彼女の声に、かすかな笑いが混じる。自嘲的な、諦めにも似た笑い。
「世界を更地にする大罪人。だからミカサさんも、私たちを見る目が冷たかった。でも、そんなこと、分かってます。でも、でも……」
言葉が途切れ、また涙が頬を伝った。
「それなら私たち、どうすればよかったんですか?」
「ルイーゼ……」
「……死にたくない……」
突然、彼女の身体が大きく震えた。
「死にたくない、死にたくない、死にたくない……お母さんに会いたい、お父さんに会いたい……!」
今度は声を上げて泣いた。幼い少女のような、生を乞う叫びだった。
「こんなところで、死にたくない……!」
私は彼女を抱きしめた。細い背中が激しく上下している。生きている。まだ生きている。この温もりが、この鼓動が、確実にそこにある。
「パン屋の前で、五人だけで集まったあの日に……」
声が段々と小さくなっていく。まるで遠ざかっていくようだった。
「……帰りたい……」
ゆっくりと、彼女の瞼が重くなっていく。
「ルイーゼ、起きて、ルイーゼ……!」
その顔は、不思議と穏やかだった。
私はその手を握り続けた。
窓の外で風が吹いていた。どこか遠くで鳥が鳴いている。地鳴らしの音は、時間と共に遠ざかっていく。この島は何事もなかったように回り始めている。でもこの小さな部屋では、一つの世界が静かに終わりを迎えようとしている。
それでも私は、彼女の手を離すことができなかった。小さな手が冷たくなっていくのを感じながらも、硬直していく指先を、それでも私は離せなかった。
これは「尊い犠牲」などではない。
ただ生きたかった少女が、家族に会いたかった少女が、無惨に命を奪われているだけ。
――フロックならこんな時、どうするのだろう。
今の彼なら、この死を即座に意味づけ、声高に叫んだかもしれない。「彼女の死は無駄ではない」「島の未来を守るための犠牲だ」と。悲嘆に暮れる者を鼓舞し、怒りに変え、前へと押し出しただろう。
私にはできない。
でも、それでも……進まなければならない。
戦わなければ、勝つことなどできないのだから。
---
ルイーゼの手を離してから、時間の感覚が曖昧になった。私の掌には、まだ彼女の冷たい指先の記憶が焼き付いている。幻のような温もりが、皮膚の奥で疼き続けていた。
あんなにも眩しく、まっすぐで、愚かしいほど純粋だった少女。その命が今、白い布の下に沈んでいる。声も、笑顔も、未来も、すべて闇に呑まれた。
息を吸うたび、肺が軋む。喉に血の味が広がり、吐き気が込み上げる。
それでも私は歩いた。兵団本部へと続く石畳を。足を止めれば崩れ落ちる。立ち止まれば、胸に溜め込んだ何かが一気に溢れ出してしまう。
だから歩き続けた。歩くこと自体が、生きている証明であるかのように。
「……やられた」
兵団本部で待っていたフロックの声は、氷のように冷たかった。彼の周囲には兵士たちが控え、武器を手にしながらも誰ひとり口を開かない。
「何が起こったの?」
私の問いに、フロックの表情が一瞬だけ曇る。
「車力の巨人に、ジャンと義勇兵を食われて逃げられた」
「ジャンが?」
視界が歪んだ。再び、膝から力が抜けそうになる。
「うそ、ジャンがそんな」
「あぁ。嘘だろうな」
フロックは乾いた笑みを浮かべた。
「奴は生きている。食われたのも芝居だ。俺を突き飛ばした時の動き……逃亡のための茶番劇だ」
「……」
「今から機関車で移動する。奴らが本当にグルだとしたら、目的地は飛行艇のある港だろう。先にアズマビトの連中を抑えておきたい」
フロックの声に、兵士たちが一斉に動き出す。銃弾を込める音、刃を収める音。救護所の静寂とは対照的に、ここには戦いを迎える音が響いていた。
私は一歩前に出る。
「私も行く」
そう言った瞬間、フロックの視線が突き刺さった。長く、静かに。私の中身を覗き込むような、逃げ場のない目。
やがて、低く告げられた。
「お前はここに残れ」
「……え?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「アルミンとコニーも姿を消した。顎の巨人の継承者と行動しているという情報もある。奴らの動向も警戒が必要だ」
「ここにいても彼らは戻らない。だから私も……」
「女型の巨人はユトピア区に拘束されているはずだったな。硬質化が解けて脱走しているかもしれないが、それは憲兵団に任せるしかない」
「えぇ。でもそれも、私が残る理由にはならない」
「問題は」
フロックが言葉を切る。その瞬間、空気が張りつめた。
「鎧の巨人だ」
その名を聞いた瞬間、胸の奥で何かが砕けた。
ライナー・ブラウン。
その名前が、脳裏に赤い文字で刻まれる。
「奴だけが、まだ行方不明だ」
フロックの声に、不穏な静けさがあった。
「これはお前の仕事だ、リディア」
喉が凍りつく。次に来る言葉が分かってしまった。
「鎧の巨人を見つけ出せ。そして……」
時が止まった。
「殺せ。母親の仇を討て」
――復讐。
私が、兵士になった理由。
845年。あの日の光景が蘇る。
崩れ落ちる家。裂けた地面。血に塗れた手。母の声。一瞬で瓦礫に潰された母の姿。背後に迫った鎧の巨人。
私の中の「少女」は、あの日からずっと止まったままだった。
「これは任務だ」
フロックはそう付け加えた。だがその言葉は、私の個人的な恨みを正当化するための免罪符を与えているようにも聞こえた。
幼く、愚かで、決して報われることのない「私情」。私がそれを終わらせるために――フロックは命じていた。
ようやく書きたい部分が始まりました!