「楽園の島の魔女」(完結)   作:雄魔雌

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EP.12 The Yeagerist(イェーガー派の女兵士)

[列車:フロック]

 

 鉄の車輪がレールを打つたび、一定のリズムが車内に染み渡る。外の世界が崩れ去っていく中で、この車両だけが、現実から切り離された密室のように静まり返っていた。

 イェーガー派の兵士たちはそれぞれの席で身体を休め、移動の揺れに身を委ねている。俺は窓際に立ち、窓越しに見える瓦礫の景色を見つめていた。

 隣で、サムエルとダズが小声で話していた。

 

「……なぁ。エレンを止めに来る奴なんて、いると思うか?」

 

 ダズの声には、すがるような響きが混じっていた。サムエルが即座に反応する。

 

「まさか。エレンの真意をエルディア人全員が知った今、地鳴らしを止める理由なんてない。アルミンもミカサも同じはずだろ……だから、マーレと手を組んで港に現れるなんて……ないって」

「だよな……」

 

 ダズの口調に、かすかな安堵が滲んでいる。

 

「俺たちが警戒すべきはマーレの残党だけだ。内輪揉めは終わりだ。もう誰も傷つく必要はないし、全てが終われば、生きて帰ることができる」

「長かった。でも、戦いはもうじき終わる」

 

 二人の視線が、床に置かれた銃器に落ちた。武器は彼らの足元で列車の振動に合わせて静かに揺れている。

 

 

---

 

 

[シガンシナ区:リディア]

 

 誰かが……いや、何かが私を呼んでいた。

 音もなく張りつめた空気のなか、見えない糸に引かれるように、足が勝手に動いていた。生き残った兵士たちと共にシガンシナ区を巡回していたはずなのに、気がつけば私は一人、その懐かしい場所に立ちつくしていた。

 

 間違いない。ここは私の家だった。私がずっと帰りたかった場所。

 古い木の扉に手をかける。蝶番が錆びているのか、重く、頑固に引っかかった。体重をかけると、扉は低く不快な軋み音を立てて開いた。

 

 ライナーが中にいた。床に横たわっている。

 巨人化の力を使い切ったせいだろうか、顔色は灰色で、呼吸は浅い。朝の光が窓から入り、彼の顔をさらに白く漂白していた。

 

「……リディア……?」

 

 彼の目が私を捉えた瞬間、表情が歪んだ。

 

「……」

「リディア……俺は……」

 

 その目に、諦めと自己嫌悪が沈殿していた。

 

「悪……かった」

「……何が」

「俺のことを、憎んでいるだろう」

 

 答えを聞くのが怖いのか、私の顔を見るのが怖いのか。彼は天井を見つめたまま言った。声は紙みたいに薄い。

 

 部屋の隅の時計だけが喋っていた。

 カチ、カチ、カチ。

 遅い針の音が沈黙を刻み、その隙間を、過去が何度も横切った。外で鳥が鳴く。遠く、無関係に。

 

「……」

 

 言葉は形にならず部屋に沈み、重たい空気だけが二人の間に残る。私は腰の柄へ手を伸ばした。

 

「殺してくれ」

 

 痛みを瞼の裏に閉じ込めるように、彼は瞼を閉じた。

 

「それしか、お前に返せるものがない」

 

 生きる意味を失った人間の声だった。

 光が差し込み、私たちの影が壁に長く伸びる。輪郭は歪み、互いを引き裂こうとしているみたいだった。

 

 右手が柄へ走り、刃を抜く。金属が擦れる音が鋭く響く。

 二歩。三歩。私は彼の上に膝で跨がった。

 冷たい刃先が喉元に浮かぶ。触れれば皮膚を這う寒気がする距離。右手は柄を握り潰すみたいに固まり、左手の平で床を押し体重を支えた。

 

「動くな。鎧の巨人」

 

 彼の呼吸が止まった。見開かれた目に、震える私が映る。私は顔を寄せた。浅い息の熱が伝わる。

 

 少しでも動けば刃が食い込み、全てが終わるだろう。胸の中で怒りが燃え、その下で、底無しの悲しみが潮流のように渦を巻く。

 震える指先が彼の運命を握っている。涙が光を拾って私の視界を覆い、眩しい。堪えるほどに、己の脆さが露わになる。

 

 ライナーは今、私の手で殺されることで、己の罪を清算しようとしている。かつて愛した女――実際は私への個人的な感情など微塵も存在していなかったのだが――に引導を渡されるという、悲劇の幕引きを望んでいる。

 

 ここで死んで、祖国マーレの英雄になるために。

 私の手に、彼を殺したという一生消えない血の感触を刻みつけてまで。彼は自分の魂の救済を求めている。

 私を巻き込んで、自殺しようとしている。

 

 どこまでいっても、二人の気持ちは釣り合わない。彼にとっての私は、大勢の中の一人。でも私にとっての彼は、一瞬だけでも、たった一人の、全部だった。

 

 吐き気がした。

 私が捧げた初恋も、憎悪も。所詮すべては彼の「聖なる自決」を飾るための小道具に過ぎないのだ。

 

 でも。

 だったらもう、それでもいい。望み通りに、殺してやる。

 

「さよなら」

 

 両手で柄を握り、刃を頭上に掲げる。縁が光を拾って、不吉に煌めく。ライナーは全てを受け入れたように静かだった。

 

 本当に、どこまでも……残酷な人だ。

 

 でも、これで終わり。私もこの人も、これでようやく互いを縛る宿命から解放される。

 だから、これでいい。

 

 

---

 

 

[列車:フロック]

 

 しばらく沈黙が車内を支配したが、不意にサムエルが口を開いた。

 

「フロック。リディアとルイーゼは?」

 

 その言葉に、俺は一瞬だけ視線を落とした。

 

「ルイーゼは死んだ。雷槍の暴発に巻き込まれたと、リディアから報告があった」

「なっ……!」

 

 ダズが息を呑んだ。顔が青ざめている。

 

「暴発だなんて、そんな」

「リディアは本部に残らせた。鎧の巨人の行方を、まだ掴めていないからな」

 

 俺は事実だけを淡々と告げた。感情を込める余裕はない。今は、指揮官として冷静でいなければならない。

 

 

---

 

 

[シガンシナ区:リディア] 

 

 鈍い音。

 

 刃は喉をかすらず、床に深く刺さっていた。

 衝撃が木を震わせたのだろう。ライナーが恐る恐る目を開けるのが見えた。

 

「……なぜ……?」

「わからない」

 

 柄から手を離し、私は砂みたいに床へ崩れた。額が床に当たる。

 

「……なんでだろうね」

 

 窓から入る柔らかな風を感じて、私の肩は小さく、ひどく醜い震え方をした。

 

 どうして外した? 何をしている?

 

「……できる。私は、イェーガー派の……」

 

 床に転がったまま、理由もなく、サシャの父がレストランで言っていた言葉が蘇る。

 人が人を殺し続ける、広い森。壁の外も内も、どこにいたって変わらない。今の私も、その森にいる。

 私はこの道を自分で選んだ。フロックと共に、共犯者として森を出ない道を選んだ。海の向こうとの対話を拒み、憎しみの連鎖を止めることさえ拒んだ。私が選んだのは、この森の番人であることだ。

 仰向けのライナーを見る。苦痛に顔を歪めながら、どこか変に穏やかでもある。

 

「ねえ」

 

 私の声は静かだった。朝の光に満ちた部屋で、言葉だけが立つ。

 

「私が死んでいたら、もっと楽だった?」

 

 ライナーの表情はまだ、私から「死という名の救済」を与えられるのを待っているかのように見える。

 彼はきっと、迷子だったのだろう。壁の内にも外にも居場所がなく、森の中を彷徨う迷い子。

 だけど、森の番人は迷子なんか助けない。この森から逃げようとする者を、決して許さない。

 私は床に刺さった刃の柄へ手を伸ばした。

 

 その時、複数の足音が近づくのが聞こえた。バン、と扉が乱暴に開く。

 最初に現れたのはアルミン。次にミカサ。互いの背中を預けてきた仲間たち。

 

「ライナー……に、リディア」

 

 アルミンが両腕を広げて駆け寄る。

 

「よかった……こっちも巨人を捕まえて、兵団に引き渡すところで……」

 

 嘘だ。言葉がつっかえていた。彼が目を逸らしたその瞬間、私はすべてを理解した。

 アルミンは誰よりも冷静で、誰よりも聡明で、何より誠実だった。そんな彼が、こんなにも稚拙な嘘をつくだなんて。

 

「アルミン」

 

 自分でも驚くほど静かな声で、私は床から刃を引き抜いた。

 

「どうしてそんな嘘をつくの? いつから私たちは敵になった?」

 

 アルミンは答えない。沈黙が答えだった。

 

「ここは狭いね」

 

 私は言う。

 

「外で話そう」

 

 

---

 

 

[列車:フロック]

 

「……鎧の巨人か」

 

 サムエルが遠い目をしながら呟く。

 

「あれは確か、リディアの母親の仇、だったよな」

「訓練兵の頃は、そんなこと知らずにからかってたよな。リディアがライナーのことを、好……」

「その話はやめろ」

 

 サムエルが苦しげにダズの言葉を遮った。そしてちらりと、俺の方を見る。その目に宿った気遣いは、逆に居心地が悪くなる。

 

「別に。俺は気にしてない」

 

 俺は窓の外を見たまま答えた。

 

「あいつが今さらライナーを前にして躊躇するなんて、それこそ絶対にありえないからな」

 

 サムエルとダズが目を伏せた。二人とも、言葉にならない複雑な感情を抱えているのがわかった。

 

「全員で、エレンを死守する。この島の未来、そして新生エルディア帝国の勝利のためにも」

 

 その言葉を口にすると、二人が頷いた。

 

 

---

 

 

[シガンシナ区:リディア]

 

 家を出る。

 コニー。アニ。ガビ。ファルコ。ジャンはいない。少し離れた場所に荷車があった。ライナーも足を引きずりながら外へ出てくる。

 一歩、また一歩。金属の震えが静かに鳴る。

 

「リディア、やめて」

 

 ミカサが前に出る。その瞳に、揺るがぬ意志を宿している。

 

「あなたは私に勝てない」

「知ってる」

「なあ、リディア……」

 

 コニーの声には、すりきれた懇願が滲んでいた。

 

「お前は違うよな? 海の向こうを見たいって、いつも言ってたろ。お前がイェーガー派なんて言われても……やっぱり信じらんねーよ。フロックが首謀者で、お前は巻き込まれただけだよな? 総統の爆殺だって、新兵が勝手に……」

 

 声は震え、それでも必死に続ける。

 

「本当にお前じゃないんだろ!? 嘘だって言ってくれよ、リディア!」

 

 アルミンも震える声で言った。

 

「君はあの日、マーレへの潜入調査を中止してこの島に残った。そこで何かがあって、追い詰められて……」

「違う!」

 

 瓦礫の空が、私の声を跳ね返す。

 

「仕方がなかったとか、追い詰められてたとか、他に選択肢がなかったとか! そうやって誰かに同情してもらうことを期待して、それを言い訳にして逃げるなんて……」

 

 喉が焼ける。息が詰まる。

 

「そんなクズに成り下がるくらいなら、死んだ方がマシ」

 

 私は再び刃を構え直した。誰もが息を飲んだ。

 

「全部、私がやった。……総統の爆殺も、報道機関への情報流出も、教官への暴行も、エレンの解放も!」

 

 一つ一つの言葉が、硝煙のように空気を焦がす。

 

「全部、私が……自由な意志で選んだ道」

 

 その瞬間、世界から音が消えた。

 

「そんな……」

「私がイェーガー派の筆頭。邪魔をするなら、全員ここで足止めさせてもらう」

 

 風も、鳥の声も、呼吸音も。もう何も聞こえない。

 

「顎の巨人、鎧の巨人、女型の巨人。全員こちらに引き渡しなさい」

「リディア、僕たちが戦う理由なんてどこにもない!」

 

 アルミンの声が震えていた。

 

「君も来るんだ、もう時間がない! エレンを止めるために……君なら分かるはずだ!」

「分かんないよ!」

 

 私は叫んだ。声が裏返り、頬に何かが流れた。

 

「ここは……」

 

 言葉が喉の奥で詰まる。

 

「ここは、私の生まれ育った家だった」

 

 その言葉に、ずっと黙っていたライナーの顔が青ざめるのが分かった。

 

「どうしてそんな場所に鎧の巨人がいるの? どこまで私を侮辱すれば気が済むの?」

 

 声が震えていた。怒りと悲しみが胸の中でぐちゃぐちゃに混じり合って、もう何が何だか分からない。

 

「こんな場所で……私の帰りたかった場所で手を下すようなこと……させないで」

「リディア……俺は……」

 

 ライナーの声が、かすれていた。私は無視して言葉をつなぐ。

 

「みんなに死んでほしくない。仲間だから、大切だから……誰も失いたくない」

 

 私の声は、もう囁くように小さくなっていた。

 涙が止まらない。一度流れ始めた涙は、決壊した堤防のように止まることを知らなかった。

 

「だけど今更ついて行くことなんて、できない」

 

 ブレードを再び構える。太陽を反射したその刃が、十字架のように光った。

 

「私は、鎧の巨人を殺すために兵士になった。それ以外の理由なんて……最初からどこにもなかった」

 

 深く息を吸う。生まれ育った家の、懐かしい空気を。

 

「だから」

 

 私の声は、もう震えていなかった。

 

「ライナー、アニ、ファルコ。投降しなさい。三人は私が拘束する。従わないなら……」

 

 最後の言葉は、風に消えそうなほど小さかった。

 

「三人とも、殺すしかない」

 

 

---

 

 

[列車:フロック]

 

 車輪の音が、三人の間に静かな誓いのリズムを刻む。しばらくして、サムエルが躊躇うような口調で切り出した。

 

「今さら聞くけど……」

「なんだ」

「その新生エルディア帝国ってやつ、本当に実現可能だと思ってんのか」

「え、本当に今更それ聞くのかよ」

 

 ダズが驚いたような声を上げる。その声に、僅かな安堵が混じっていた。きっと彼も、同じ疑問を抱いていたのだろう。

 

「当然だろ」

 

 俺は即答した。

 

「ほら、お前はともかく、リディアの口からは一回も聞いたことなかったからさ」

 

 サムエルの言葉には、隠しきれない不安が滲んでいる。俺は振り返って二人を見据えた。

 

「言い続けなきゃやってられない。現実はクソだ」

 

 胸の奥で、冷たい炎が燃えているのを感じる。

 

「人は死ぬし、仲間は裏切るし、組織は一向にまとまらない上に、ここまでやっても俺らには金も権力もない。そうなりゃ残るのは夢だけだ。実現できるかどうかじゃない。リーダーが理想や夢を捨てたら、誰もついてこなくなるだろ」

 

 車輪の音が、その言葉を庇護するように響いた。

 

「先導する人間なんてのは、誰よりも現実的で……それでいて理想主義であるべきだ。そう見せかけることが必要なんだ」

「……」

「で、誰もやらないから、俺がやってる」

 

 ダズが呆れたように、しかしどこか敬意を込めて言う。

 

「お前、なんちゅう態度の悪さだ。壁中人類の危機を煽りまくってる時に比べて、随分といい加減なことを言うじゃないか」

「まぁ、それでいいさ。少しだけ安心できた」

 

 サムエルの顔に、微かな安心の色が宿る。

 

「お前がまだ、人間性を捨ててないってことが分かったから」

「人間性?」

「あぁ。人間性を捨てた悪魔になって、海の向こうの敵を全て駆逐できるやつなんか……」

 

「……エレン一人で、十分だよ」

 

 サムエルは少しだけ寂しそうに呟いた。俺は再び窓の外に目を戻した。風景は変わらず荒涼としている。

 

「エレンはこの島に残された唯一の希望だ。今は彼に縋るしかない」

「それが、人間であることを捨てられない……俺たちみたいな凡人の限界だもんな」

 

 少しの間、誰も口を開かなかった。それでも鉄道は静かに、確実に終点へと近づいていく。

 

 

---

 

 

[シガンシナ区:リディア]

 

 世界が動き出した。トリガーを握り、撃つ。ワイヤーが生家の屋根へ刺さり、身体が跳ね上がる。屋根に着地し、隣の建物の壁へ二本目。ガス噴射。大きく弧を描く。風が頬を叩き、髪が乱れる。

 標的は一人。ライナー・ブラウン。

 

「やめろ、リディア! やめてくれよ!!」

 

 コニーが叫び、ミカサが電光石火で反応する。

 でもこの一瞬だけは、私は誰より速く、誰より鋭かった。何年も積み上げた怒りと絶望が理性を押し潰し、身体を前へ押す。

 狂気に近い集中。ガスを限界まで焚き、軌道を切る。ミカサの刃が髪一筋で外れる。アルミンの声も届かない。コニーの叫びは遠雷になる。

 

 今、世界にいるのはライナーと、私だけ。

 

 瓦礫を蹴って、最後のワイヤーを背後の壁へ。身体が一直線に引き寄せられる。

 刃が彼の首筋に迫る。金色の瞳に映る恐怖と、諦めと……そして不思議な、安堵のような色。

 

 その時。パン、という音が響いて……胸の中心に、何かが入り込んできた。

 バランスが崩れ、身体が重力に引きずり降ろされる。背中から地面に叩きつけられ、息が一気に抜けて、口の中に血が溢れ、視界が赤く滲む。

 

 

---

 

 

 ふと、サムエルが笑いながら言った。

 

「あのさ、フロック」

「どうした」

「結婚するのか?」

「……はぁ? 誰が。誰と。なんの話だよ」

 

 俺は思わず眉をひそめた。

 

「お前マジでとぼけんなよ。どうせなあなあで済ませてんだろ」

「クソが。勝ち組め、ボケ」

 

 ダズが笑いながら肩を揺らしている。

 俺はしばらく黙っていた。

 もちろん、分かっていた。ダズとサムエルが、誰のことを言っているかなんて。

 しかし脳裏に浮かびそうになるあの表情をすぐに振り切って、俺は顔を少し背けながら立ち上がった。

 

「気を緩めてる場合か。港の作戦に関する会議がある。……また後でな」

「おう。帰ったらちゃんとしろよ」

 

 サムエルは、何でもないふうを装って笑ってみせた。

 俺は振り返らず、車両の奥へと歩いていった。窓の向こうには、終着点が近づいている。

 

 

---

 

 

 

「あ……っ……ぐ……」

 

 声にならない声が喉をこじ開ける。

 

「リディア!」

 

 誰かの叫びが届いた。足音が駆け寄ってくる。誰かが膝をつき、私の身体を支えた。肩の下に腕が入る。喉に詰まった血が、咳き込むように零れ落ちる。頬に触れる手が震えている。

 

「まだ意識がある……止血……何か……布を……!」

「呼吸が浅い……肺か、肺をやられてる……!」

 

 声が揺れている。誰の声だろう。ミカサ? アルミン? でももう、はっきりしない。

 

 なんで私、空を見てるんだろう。

 熱い。熱くて、痛くて、でも最初は痛みじゃなかった。ただ、何かが「ある」という違和感。そこにあってはいけないものが、私の中に存在している。

 

「っ、か……はっ……」

 

 喉の奥で何かが泡立つ。言葉にならない叫びが、破れた肺から漏れ出す。

 何かが詰まっている。温かくて、鉄臭くて、それが喉の奥からこみ上げてくる。咳をしようとした。でも、口から溢れたのは、赤黒い液体。顎を伝って、生温かさが首筋に流れる。

 

 霞む視界の中で、ガビが見えた。震える手でライフルを握り、銃口から煙。

 

「……こうしなきゃ、ライナーが殺されてた……」

 

 その目尻に、恐怖と哀れみ、そして怒りの涙が光っていた。

 

 

---

 

 

 港に行けば、避けようのない戦闘が待っているだろう。ジャンたちは、間違いなく飛行艇を奪いに来る。アルミンやミカサも合流するだろう。リヴァイ班だった連中は全員、エレンを止めようとするだろう。

 アルミンたちが飛行艇を奪いにくるなんて……ダズやサムエルも含めて、そんな想像を確信している兵士など、殆どいないだろう。彼らが調査兵団として残してきた功績や信頼は、今も失われていないのだ。

 

 正直、ここ数か月で急にリーダーのように振る舞いはじめた俺なんかより、ジャンやアルミンの方がよっぽど兵士たちからの人望がある。

 

 ここにいる兵士たちは、俺についてきているわけじゃない。俺の背後にあるエレンにすがっているだけだ。

 エレンという名の希望に。エレンという名の力に。俺はただ、その代弁者に過ぎない。声を届ける道具。エレンの意志を形にする、ただの兵士。

 

 でも、リディアは違う。

 彼女は共犯者。エレンではなく、俺の共犯者だ。

 

 ただ、一つだけ懸念があったのも事実。

 鎧の巨人。ライナー・ブラウン。

 彼女は奴との因縁にケリをつけない限り、死ぬまで兵士でいることをやめられない。復讐という呪いに縛られたまま、彼女は戦い続ける。そこから解放されない限り、彼女は決して自由にはなれない。

 

 あの日のことを思い出す。

 ウォール・マリア奪還作戦。

 ハンジ班だったリディアは本来、獣の巨人に相対する予定ではなかった。彼女はあの日、直接鎧の巨人と戦うはずだった。雷槍を手に、ライナーを仕留めるはずだった。

 

 なぜそうならなかったのか。

 リディアが、壁の中に隠れていたライナーを見つけてしまったからだ。

 見つけてしまったが故に、彼女はライナーに切りつけられ、雷槍を扱えなくなるほどの怪我を負った。その結果、エルヴィン団長の指揮のもと、俺と同じように、馬で獣の巨人に特攻を仕掛けた。

 

 リディアはいつだって、ライナーを見つけてしまうのだろう。どんなときでも。まるで運命に引き寄せられるように。赤い糸で繋がれているかのように。だからきっと、この任務でも、不思議な引力で、奴に引き寄せられてしまうのだろう。

 

 

---

 

 

 胸の奥がひくりと跳ねて、次の瞬間、熱い何かが喉までせり上がった。

 

「……っ、げ……」

 

 押さえきれず、口の端から血が零れ落ちる。止めようとしても、顎が勝手に震えて、歯がかちかちと鳴った。息を吸おうとするたび、胸の中で何かが潰れる。空気が入らない。吸えない。

 

「……っ、は……は……」

 

 喘ぐ音が、自分のものだと分かるまでに時間がかかった。呼吸のたびに、喉の奥で泡が弾ける。温かくて、鉄臭くて、咳をするたびに口の中がぬるぬるになる。

 

 視界が揺れる。ライナーが駆け寄ってくるのが見えた。さっきまで私に殺されかけていたのに、どうしてそんな悲しそうな顔でこちらを見るのだろう。

 アニが膝をついて、私の肩を抱いた。強く掴まれているはずなのに、感覚が薄い。自分の身体が、もう自分のものじゃないみたいだった。

 

「……この、馬鹿! なんでこんなマネした!? あんたがこの人数に一人で勝てるわけないだろ!!」

「……ァ……に……」

 

 名前を呼んだつもりだった。でも、それが言葉になったのかどうか、自分でも分からない。

 胸がもう一度、大きく跳ねた。その拍動が最後だと、身体のどこかが理解している。

 視界が滲む。赤く、黒く、まだらに。ライナーの顔が近づいて、また離れる。焦点が合わない。

 

 私の記憶にいるライナー・ブラウンはもっと、太陽のように笑う人だった。頼りがいのある広い背中と、優しくて大きな手。

 でも今、目の前にいるのは、痩せ細った頬と、濁った目をした、知らない誰かだ。

 

 これは、誰?

 もう思い出せない。

 思い出そうとすると、頭の奥がずきりと痛む。

 

(誰だっけ。……ねえ、フロック、この人たちって……?)

 

 フロックは今、どこにいるんだろう。まだ移動中か。ダズとサムエルはどうしてる? 二人は戦闘が苦手って言ってたから、前線じゃないといいな。

 

 みんな、まだ、生きてるよね。

 そう思ったところで、胸がもう一度だけ、ひくりと痙攣した。

 

 

---

 

 

 宿命というものは、怖い。リディアがライナーを前にして何を選ぶのか、俺には正直分からない。かつて彼女が抱いていた感情の残滓は、まだどこかに燻っているかもしれない。

 だからこそ、その手で断ち切ってほしかった。

 少しのつながりも、どんなに細い糸でも。ライナーに繋がるすべてを、自分の手で薙ぎ払ってほしい。母親の仇を討ち、呪いから解放されてほしい。

 

 

 ……フロック。

 私の同期。

 私の仲間。

 私の共犯者。

 

 

 これは、リディアが自由を勝ち取るための、最後の機会でもある。鎧の巨人を討つことで、彼女はようやく前を向けるようになる。過去に囚われず、未来を見られるようになる。

 

  

 私が最後に必要としたはずの、人。

 

 

 生きろ。俺と違って、お前にはまだ、自分の意志で選べる自由が残ってる。

 

 

 ごめん。

 指輪。

 

 

 俺の心臓なんか、とっくにこの国に捧げてしまった後だ。まだ脈は打ってるが、それは生きてる証じゃない。捧げ終わった心臓が、惰性で動いてるだけだ。

 

 

 あなたのお母さんに、

 

 

 リディアには、未来にいてほしい。俺の命なんか、別にどうだっていい。

 

 

 返せそうに、

 

 

 だから命じた。復讐を遂げろ、と。

 

 

 ない、

 

 

 や。

 

 

 

 

 

---

 

 

 

 

 

 シガンシナ区の崩れた壁と瓦礫の間に、リディアは静かに横たわっていた。

 

「急ごう」

 

 アルミンの声は、感情を削ぎ落としたようにかすれていた。

 

「リディアは……」

「このまま置いて行くしかない」

 

 ミカサが、わずかに鼻を鳴らす。コニーは唇を噛み、アニは遺体から視線を逸らしたまま動かない。

 

 誰も叫ばない。誰も嘆かない。わざわざ「リディアは死んだ」などと言って、一目瞭然の事実を突きつけるような者もいなかった。

 語るべき言葉が尽きたからではない。目の前の死だけを特別扱いする資格も、時間も、これから島の裏切り者になる彼らには残されていなかった。

 

「待ってくれ」

 

 ただ一人、ライナーだけが声を出した。小さく、震える声だった。

 

 彼は膝をつき、まだ温もりの残る身体に手を伸ばす。触れる指先が、ためらう。壊れ物を扱うように、慎重に彼女を抱き上げた。

 

「こんな……こんな場所に、一人で……」

 

 言葉が最後まで続かない。赦されない罪が、ようやく彼の身体を動かしていた。

 

 焼け落ちた柱の間を縫うようにして、ライナーは歩く。向かった先は、彼自身が身を隠していた場所、リディアの生家だった。

 奥に、小さなベッドがある。きっと少女時代の彼女が、母の子守唄を聞きながら眠りについた場所。

 

 ライナーは、彼女をそこへ寝かせた。

 枕元に、かすかに焦げたぬいぐるみが転がっている。彼は無言でそれを拾い、彼女の傍に寄せた。そして、彼女の手を胸の上で組ませようとした、その瞬間だった。

 

「……!」

 

 指先に、異物。

 ライナーの視線が止まる。微かに光を反射するものがあった。

 

 左手の、薬指。色褪せた銀の指輪。

 思わず、ライナーはその手を取った。その場にいた誰もが言葉を失った。

 

「……これ、は?」

 

 誰も答えなかった。答えられなかった。

 ここにいる全員が、知らなかったのだ。彼女がいつからそのようなものを身につけていたのか。そして、それが何を意味するのかを。

 

「リディア……結婚してたのか?」

「知らない。そんな話は、一度も」

 

 コニーとミカサが困惑の表情を浮かべる中、アルミンが、逃げ場を与えない声で呟いた。

 

「……全てを葬ってでも守りたい別の幸せが、彼女にはもうあったんだ」

 

 悪意のない言葉だからこそ、鋭かった。

 ライナーは完全に黙り込んだ。指輪を見つめたまま、時間の流れから取り残されたように。

 脳裏に、過去が蘇る。

 

『ブローチ、絶対に大切にするね』

 

『ずっとあなたのことが好きだった』

 

 彼女を騙し、自分を慰めるために使った言葉。戦士と兵士の間で引き裂かれそうな自分を、正当化するための「嘘」。

 その後の空白を……名も知らぬ男が、埋めていた。リディアが欲していた居場所を、自分ではない誰かが与えていた。

 

『私が死んでも、あなたを好きだった女がいたということだけは、覚えていて欲しい』

 

 かつての願いは今、呪いとして完成した。

 

『たまにでいいから思い出して欲しい。私のことを……忘れないでいて欲しい』

 

 彼女が願ったとおり、ライナーは生涯、その存在を忘れないだろう。だが、これから彼が思い出すリディアの指には、必ず、自分ではない誰かが嵌めた指輪がある。

 

 自分を愛してくれた女はもうどこにもおらず、記憶に居座るのは、誓いを守り抜いて死んだ、誰かの伴侶であり、既婚者だ。

 自分が与えられなかったものを、誰かが彼女に与えていた。それはあまりにも正当で、かつライナーにとっては逃げ場のない報いだった。

 

「リディアはもう、私たちと同じ場所に、立っていなかった。いつからなのかは、分からない」

 

 ミカサの声が、静かに響く。それは決して誰かを責めるような響きではなかったが、それがどこまでも正しいということが、ライナーには何よりもこたえた。淡々と告げられた事実は、言い訳も願いも寄りつく余地のない、静かすぎる断絶だった。

 ライナーは震える手で、指輪のあるリディアの手を、胸の上に戻す。触れる資格すら、もう自分には残っていないと悟りながら。

 

「……お前には、救いがあったのか」

 

 ライナーはそっとリディアに手を伸ばし、かつて彼がよくしていたように、その髪に触れようとした。

 だが、次の瞬間。窓から微かに届いた風が、リディアの髪をふわりとライナーの指から逃がすように揺らした。

 指は、彼女の髪に触れることなく、ぴたりと止まった。一歩も動かぬ身体が、まるで「やめて」と言っているかのように見えたのだろう。

 

「そうか……そうだよな。こんな男に触られるなんて、そりゃ、嫌、だよな……」

 

 生前、彼女は頭に触れられることを嫌がった。しかしライナーは、一度もそれを本気で受け止めたことなどなかった。じゃれあいだと信じていたからだ。だから何度でも繰り返した。

 今思えば、それは彼女にとって、ただの我慢と譲歩だったのかもしれない。頭を撫でるという、ただそれだけの仕草でも。不快なことを譲ってまで継続するような絆など、もはや二人にはどこにも存在しない。

 

 すると、ずっと黙っていたアニが、静かにベッドに近づいた。

 

「どいて」

 

 手を引いたライナーの代わりに、リディアの髪をそっと整える。手の甲がわずかに震えていた。

 アニは祈りの言葉など呟かない。けれど間違いなく、その指先に別れの寂しさを宿している。長い睫毛に影を落としたまま、アニは顔を上げることなく立ち尽くしていた。

 

 やがて、アニは一度だけライナーを見た。

 彼の視線が、リディアの胸元、襟、ポケットへとわずかに動くのを、彼女は見逃さなかった。

 執拗なまでの視線。ライナーは、何かを探していた。

 

「何」

「……いや」

 

 かつて、彼がリディアに渡したものがある。

 訓練兵の頃のこと。ライナーはリディアに、小さなブローチを渡していた。

 それは彼の贖罪の証であり、犯した罪の重荷であり、彼女の中にライナー・ブラウンという人間が確かに存在していた、唯一の痕跡。

 

 今はもう、どこにもなかった。胸にも、襟にも、ポケットにも。

 

 リディアの身体に唯一残されていた装身具は、古びた指輪ただ一つ。それが、すべてだった。それは彼女が最後に何を選び、誰と生き、どこで死ぬと決めたのかを雄弁に物語っていた。

 アニは何も言わず、リディアに背を向けた。振り返ることなく、重い足取りで歩き出す。

 

『アニがいないと寂しくなるよ』

『私は……別にそうでもない』

 

 記憶が蘇る。何故あんなことしか言えなかったのだろうか。

 ここで泣きわめけば、友情の証明になるのかもしれない。叫ぶのは簡単だろう。「ふざけないで」「冗談でしょ」「友達だったのに」と。でも、アニにはできなかった。

 

「どうして、一度しか来なかったの」

 

 それだけが、口からこぼれた。

 水晶の中でぼんやりと漂っていた意識の奥に、あの日のリディアの声だけが鮮やかに焼きついていた。彼女は一度だけ訪れて、静かに去っていった。それっきりだった。ずっとどこかで引きずっていた。だが――

 

(たった一度”しか”じゃない。一度”でも”、リディアは来てくれたじゃないか)

 

 ずるいのは、自分のほうだった。

 友達だと言ってくれた人を裏切った。それなのに、口の中に引っかかった棘のように、ずっと「もしも」を考えてしまう。

 

「……私が……」

「おい、アニ」

 

 次の瞬間、真っ直ぐな声が、遠慮なく割り込んできた。

 

「自分が殺しておけばよかったとか言うなよ」

 

 コニーだった。アニが振り返ると、彼は目を伏せたまま、低い声で続けた。

 

「お前らが本当に親友だったなら。そんな言葉、侮辱だって分かるだろ」

 

 アニは何も返さなかった。

 アニだけではない。全員が何も言えなかった。たった一人への感傷だけでいつまでも立ち止まっていられるほど、彼らはもう青くない。

 

 時間がなかった。

 

 

 

 

 

 せめてと願ったライナーが、リディアを生家に安置したこと。それは彼にできる唯一の贖罪だったのかもしれない。だがそれは、何よりも残酷な選択でもあった。

 遺体が道端に放置されていれば、すぐに兵士が発見しただろう。しかし部屋の奥に眠る亡骸は、確実に発見が遅れる。

 

 つまり、誰の耳にもリディアの死は届かない。

 港へ向かうフロックにも、ダズにも、サムエルにも。

 誰にも知られないまま、リディアはこの家で静かに、ひとりぼっちで終わっていく。たった一つの指輪と共に、その身体を少しずつ腐らせながら。

 

 

 




本編でライナーひとすじ一直線だったオリ主の心を徹底的に引き剥がすために、ここまで話数をかけてしまいました。
ライナーって「自分"が"好きになった人」の心が離れていくより「自分"を"好きになってくれた人」の心が離れていく方が圧倒的に傷つきそうだよなぁ、それやりたいよなぁ…とずっと思っていたので、ようやく書けてよかったです。
あと2話ほどお付き合いください。
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