「楽園の島の魔女」(完結)   作:雄魔雌

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04 嘘と裏切り

 訓練兵の頃、リディアに誘われて、二人で市場に行った。

 この壁の中の世界に存在するものは何もかも時代が止まったままのように古くて、アニの目を奪い興味を引くようなものなんて何一つなかった。

 

 それなのに、何も知らないリディアはずっと楽しそうに笑っていて、露店でしょうもない馬鹿みたいな形の装飾品を見つけては、その度にアニに装着しようとした。

 アニはいい加減にしろとリディアを叱ったが、二人でじゃれ合っていると思われたのか、普段話さないような同期までもがこちらに寄ってきて、リディアと一緒になってアニで遊ぼうとした。

 

 変な髪飾りをつけられた姿を見て馬鹿笑いするコニーを蹴り飛ばし、露店の食べ物を見てはいちいちよだれを垂らすサシャに呆れ、常に三人で行動するエレン、アルミン、ミカサと合流してから、揃って街を歩いて。

 

 同期が自分にわざわざ話しかけてくるのは、いつだってリディアが一緒にいる時だった。

 彼女が架け橋だったのだ。どれだけ特別な時間を過ごしていたのかなんて、その時は知る由もなかった。

 大切なものはいつだって失ってから分かる。あの時こうしていれば、ああしていれば。後悔から見えてくる反省点は、失った過去には適用できないことばかり。結果論で自分を責めることでしか、己の心を慰めることができない。

 

 

 

 水晶の中の暗闇には、喜びも、苦痛も、悲しみも、時間の経過も、何もない。

 そこには何もなかった。

 

 周囲の声は、勝手に耳に入ってきた。裏切り者、女型の巨人、スパイ……誰もが「役割」を指して罵声を浴びせてくるだけで、「アニ」に呼びかける者はいない。

 ……ただ一人、金切り声の持ち主を除いて。

 

「ねぇ、アニ! なんとか言ってよ!」

 

 姿を見なくても、アニには声の主が誰だか分かる。

 

「この無口、無愛想、臆病者! 私のことも、周りのことも、ずっと馬鹿だと思っていたんでしょう!?」

「おいリディア、落ち着け!」

 

 あのバカが暴れている。本当に、馬鹿。上官に反発してまで何をやっているんだ。

 

「なんとか言ってみろ! ……何か事情があるんだよね!? 正直に話して、情報を渡せば、まだきっと……」

 

 こんなに声を荒げている姿は初めて見た。否、初めて聞いた。

 

(……今だって「アニ」に声をかけてくれる存在が、あんたしかいない)

 

 数年間の潜入調査で得られたものが、たったそれだけだった。

 もう二度と、リディアが話しかけてくることはないだろう。彼女はとんだ大馬鹿だ。どうしてこんな暗い奴と友達になろうだなんて思ったのだろう。

 

(最初から私は、うるさいあんたのことが凄く迷惑で……)

 

「嘘つき、嘘つき……!」

 

(うっとうしくて……)

 

「友達、なのに……」

 

(……友達、だった)

 

 もう、全部終わりだ。全てが過去なのだから。

 水晶の中では涙すら流せない。アニの最終手段は、現実逃避としか言えない消極的なものだったが、兵団の手を焼くには十分な手段ではあった。

 

 

 

***

 

 

 

 第57回壁外調査は対外的には失敗に終わっていた。あまりにも大きな犠牲を出し、得られた成果は客観的には何もない。

 リディアはハンジ達と行動を共にしていたが、裏の作戦については何も詳細を知らされず、表向きの作戦のとおりに動いていた。

 ハンジ班ほか、上官を信じることを決めていたので、そこに迷いはなかった。たとえ、森の中に突然現れた女型の巨人を、何も知らないままで急遽捕獲することになっても。

 

 しかし、捕獲は失敗した。

 今回の壁外調査では、あまりにも多くの兵士が失われた。リヴァイ班も、エレンとリヴァイ兵長を除いた全員が亡くなったという。

 旧調査兵団本部で、リディアは彼らと一緒に掃除をしたり、時間がある時には紅茶をご馳走になったり、将来の希望だってたくさん話した。それなのに、多くの兵士は遺体すら持ち帰られることなく壁外に放棄され、今も寒空の下で沈黙を続けている……。

 

 初めての壁外調査を経て、リディアは思った。立体起動装置もなく馬もない状態で生き残るなんて、不可能だと。

 

 かつて父は言った。「壁の外には、行方不明のまま生き続けている人達が今もさまよっているかもしれない」と。こんな悲惨な現実を何度も見てきただろうに、なぜ父はそんな夢を語ったのだろう。「彼は、特別な視点を持っていた」というエルヴィンの言葉を思い出す。特別な視点とは? 父の目には、一体何が見えていたというのか?

 

 

 

 調査兵団の信頼は失墜し、エレンの身柄は憲兵団に引き渡されることになった。

 リディアはハンジ達と共にストヘス区での捕縛作戦に加えられることになったのだが、彼女に容疑者であるアニの名前が正確に伝えられることはなかった。

 理由は一つ。リディアが、アニの唯一とも言える友人だったからだ。

 

 アルミンはエルヴィンやリヴァイらに告げた。

 

「アニを捕らえるまで、リディアには容疑者として別人の名前を教えておくべきだと思います。少しでも怪しい動きがあれば、二人とも捕縛する」

「なっ……!」

 

 エレンが動揺する。

 

「リディアは調査兵団分隊長の娘だぞ!? 両親を巨人に殺されてるのに、その共謀者扱いだなんて、あんまりだろ!」

 

 怒鳴るエレンに、ミカサが冷静に告げる。

 

「リディアはアニに手紙を送っていた形跡もある。共謀していないとは言いきれない」

「そんなわけ……」

「違うなら、二人の容疑は晴れる。私も……リディアのことは疑いたくない」

「……アニのことはいいのかよ」

「アニには、状況証拠が多すぎる」

 

 いくらリディアの出自が明確とはいえ、彼女のこれまでの行動はあまりにも疑わしすぎた。アニが捕えられるまで、リディアも容疑者だったのだ。

 

 

 

 

 しかし結局、アニの捕縛という形によって、リディアの疑いは簡単に晴れることになった。

 水晶体となったアニが縄でくくりつけられる中、リディアは自分が持つ罵詈雑言の語彙をすべて使って、何度も彼女を罵った。

 

「最低、最悪、馬鹿、馬鹿……大馬鹿!」

 

 彼女の罵倒には、貧弱な語彙しかなかった。それでも何か言ってやろうと声を荒げ、何度も何度も水晶体をブレードで殴りつける。

 

「何か、言ってよ……!」

 

 あまりに痛ましいその姿を見て、もはやリディアが共謀者だという疑いを持つ者は一人としていなかった。そこにいるのは、信じてきた友人に裏切られ、情緒不安定でヒステリックになった、未熟な若い兵士でしかなかった。

 

「この、この……っ!」

 

 リディアの手が震え、ブレードを握る指の関節が白く浮かび上がる。

 喉から絞り出す言葉は途切れがちで、それすら怒りで歪んでいた。頭の中は真っ白で、ただアニへの怒りと裏切られた痛みだけが渦巻いている。

 すると、ハンジがリディアの肩に手を置いた。その手は意外なほど優しく、しかし確かな力強さがあった。

 

「冷静になるんだ。辛いかもしれないけど、現実を見て、その上でこれからのことを判断をしなければならない」

 

 ハンジの言葉が遠くから聞こえてくるようだった。リディアは水晶化したアニを見つめ、その中に閉じ込められた友人の姿に再び怒りが湧き上がるのを感じた。

 だが同時に、ハンジの手の温もりが少しずつ彼女を現実に引き戻していく。

 

「できるね。できないとは言わせないよ」

 

 リディアは深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。その度に体の震えが僅かに落ち着いていく。瞳に溜まった涙を必死に押し戻し、背筋を伸ばした。

 

「……はい、ハンジ分隊長。取り乱してしまい、申し訳ありませんでした……」

 

 声は震えていたが、少なくとも自分の言葉をコントロールできるようになっていた。心の奥では怒りと悲しみが依然として渦巻いているが、それを表に出すことは許されない。

 兵士として、今は感情よりも任務を優先しなければならない。そう自分に言い聞かせた。

 

 ハンジは一瞬リディアの目を見つめ、彼女が本当に冷静さを取り戻したのか確かめるように観察してから、静かに言った。

 

「まず、事実を改めて確認する。彼女は君の友人を装っていた巨人だ」

 

 友人を、装う。

 今のリディアにはその言葉すら遠く響いた。

 友人関係とは、約束や契約によって築かれるものではない。二人の関係を縛り付けるものは何もない。だからこそ、いくら自分が、裏切り者だと叫んだところで……

 

「装う、以前に……」

 

 アニにとってのリディアとは、裏切るような関係すら存在しない、路傍の石ころのような存在だったのかもしれない。その事実は、リディアの胸を強く締め付けた。

 

 

 

***

 

 

 

 ベッドでエレンが眠っている。

 ミカサは椅子に座りながらエレンを見守り、アルミンとジャンは窓際で小声で話し、リディアは離れた壁際でうつむき続けている。アニは既に地下深くに拘束された。

 

 ミカサは無言を貫くリディアの表情を確認した。

 壁の中に存在する巨人のことや、今まで想像したこともなかった事実が次々と突きつけられる中、リディアは誰よりも沈んだ顔をしているように見えた。

 巨人の共謀者だという疑いをかけられていたことなど気にも留めていない様子だが、きっと今はそんなことよりも……アニのことで頭がいっぱいになっているに違いない。

 

 そのうちアルミンが会議に呼ばれ、ジャンも部屋を出ていった。ハンジの直接の部下であるリディアも会議に参加するべきではないかとミカサは思ったが、彼女は共にこの部屋に残ることを選んだ。

 ミカサは椅子に腰掛けたまま、眠るエレンの様子を見守りながら時折リディアの方を見る。何か声をかけるべきだと思いつつも、適切な言葉が見つからない。

 

「リディア……」

 

 リディアと、何を話せばいいのか分からない。

 

「エレンは……実験の後はいつもこんな感じだったの?」

「ううん、実験でこんなに疲労困憊することはなかったかな」

「……そう」

 

 部屋の空気は重く、二人の間には言葉にできない緊張感が漂っていた。

 

「……」

 

 結局、エレンの話しかできない。

 ミカサは、自分の話題の少なさが辛かった。でも今、下手に慰めの言葉をかけるのも、かえってリディアを傷つけそうで怖かった。自分がアニとリディアの友情についてどう思うか、どう言葉をかけるべきか。ミカサにはそんな経験がなく、ただ戸惑うことしかできなかった。

 

「私、いつもミカサたちが羨ましかった」

 

 突然、リディアが静かに話し始めた。彼女は壁を背にして、膝を抱え込むようにして座り込み、床を見つめながら言葉を紡いだ。

 

「三人は何があってもお互いを信頼してて、信じているからこそ、離れていたとしても平気でいられる」

 

 リディアの声がかすれる。微かに肩が震え、感情を抑えようとしているのが伝わってきた。

 

「そんな関係を、私は築くことができなかった」

「そんなことは……」

 

 ミカサは反射的に言いかけたが、リディアは彼女の言葉を待たずに続けた。

 

「アニのこと、何も分かっていなかった。確かに違和感はあったのに、いつか私には話してくれるだろうって勝手に思い込んで、詳しく聞いてあげることもできなかった」

 

 リディアは、まるで自分自身に言い聞かせるように言葉を紡いでいく。

 ミカサはリディアの言葉に驚き、言葉を失った。彼女は泣くこともせず、淡々と話している。アニに裏切られたという事実よりも、彼女のことを理解しきれず、その凶行を止められなかった自分自身のことを悔いているのだ。

 

 その姿は、責めるべき対象を自分自身にすることで、壊れそうな心を守っているようにも見えた。

 ミカサはゆっくりと立ち上がり、リディアの方へ一歩近づき、迷いながらも言葉を選んだ。

 

「リディア。その考え方は美しいけれど……あまり良くないと思う」

「……良くない?」

 

 リディアがミカサの目をまっすぐ見上げ、問いかけた。

 その目に宿る感情は複雑で、ミカサは一瞬たじろぎそうになった。

 

「アニは私たちを裏切っていた。今確定している事実はこれだけで、他のことは何も分からない。どれだけ仲が良かったとしても、その人の考えていることの全てが分かるなんて……絶対にないと、思う」

 

 ミカサは自分の言葉が荒っぽすぎたかもしれないと感じた。しかし、悪い方向へと進むリディアの思考をどうしても止めておきたかった。

 

「……そう、かな」

 

 リディアは再び床を見つめた。怒りは既に消え、ただ虚ろな目をしている。それでも時折、拳を握りしめる仕草に、まだ感情が完全には鎮まっていないことがうかがえた。

 

「ミカサも、そうなの?」

 

 リディアは暗いままの瞳でミカサに問う。

 

「私も……エレンやアルミンの全てが理解できるわけではなくて。でもそれで関係が失われるようなことはないし……ええと、つまり、それは……今ここに存在する事実を変えるようなことでもなく……」

 

 ミカサは、自分でも何を喋っているのか分からなくなってきた。感情について語ることは、彼女が最も不得意とすることだった。言葉が上手く繋がらず、自分の思いをうまく伝えられないもどかしさを感じる。

 

 パニック寸前のミカサを見て、ようやくリディアが少しだけ微笑んだ。

 

「そうだよね。私の存在程度で彼女が変わるなんて……思い上がりだったのかも」

「……」

 

 少し歪んで伝わってしまったのではないか?

 ミカサは不安になる。自分の言葉がリディアをさらに傷つけたのではないかと思い、少し焦る。

 しかし、リディアの声はもうかすれていなかった。

 

「今はただ現実を受け止めて、私にできる務めを果たす。そしてもし、アニが目を覚ましたら」

 

 一息置いて、リディアは続ける。

 

「私の全力であの子を投げ飛ばして、全部白状させる」

 

 リディアの言葉は頼もしかった。しかし重要な現実に触れていない。アニが目を覚まして全ての情報を吐き出す時。それは……彼女を殺す時、という意味だ。

 

 もちろんリディアもそれをわかっていた。しかし今はまだ、それを直接的に口に出す勇気がない。

 

 ミカサはリディアの背中を見つめながら、彼女の強さに少し安心した。自分にできることは、この時点では限られている。しかし、少なくともリディアを一人にしないことはできる。

 

「その時は……私も協力する」

 

 ミカサに言えるのは、これだけだった。二人は黙ってエレンを見守りながら、それぞれの思いを胸に、佇んでいた。

 

 

 

***

 

 

 

 一方ウォール・ローゼでは、武器も戦闘服も取り上げられた104期生達が、事情を聞かされることもなく隔離されていた。

 

 トロスト区での戦闘以降、ライナーは自分が今「どっち」なのかわからなくなることが増えていた。

 厄介なことに、ライナーの思考はシームレスに行ったり来たりするので、もはや自分でも手に負えないということが多々あった。

 

 ここ最近は兵士として真面目に勤めることが常態化していたが、ふとした瞬間に本来の戦士としての使命を思い出すこともあり、そんな時には肉体に負荷を与えることで痛みを紛らわしてきた。自由時間になると唐突に腕立て伏せを始めるライナーの姿は、誰が見ても明らかに「なんか変」だったが、ライナーの性格を知る人間からは、それが彼のストイックさの現れだとして、むしろ評価されていた。

 

 なぜ自分達はこんな状態で隔離されているのか?

 ライナーは考えた。ここに集められているのは104期生のようだが、全員ではない。エレンがいないのは当然だとして、アルミンやミカサ、ジャン、そしてリディアの姿もない。

 

 リディアは無事だろうか。

 作戦の間、彼女がどこに配置されていたのか、ライナーは知らない。

 泣きそうな顔で恋心を告白してきた彼女の姿を思い出すと、いつも胸が痛む。絶対に守ると誓っておきながら、自分は彼女が今どこで何をしているのかすら把握できていない。ライナーの口からは自嘲的なため息が漏れた。

 

 リディアの笑顔を思い出す。

 ……生きていてほしい。

 記憶の中の彼女は、いつも輝いた目でこちらに笑いかけてくる。もう一度、笑っている姿を見たい。

 

 深く考え込んでいると、少しだけ苛立ちが露になる。

 ライナーは、窓際に座って呑気な会話を続けているサシャとコニーに話しかけた。

 

「エレンたちはともかくとして、なぜジャンまでいないんだ。ここにいない奴らは今どこにいる?」

「さぁな。生きてるかどうかも分かんねぇよ」

 

 コニーが窓の外を眺めながら答える。作戦で多くの人間が死んだのだから、その反応は正しい。

 

「それからリディアだ。あいつがどこにいるか、誰か知らないか」

「ここにいないのは確かですけど、分かりませんね。最近は話す機会も減りましたし……ハンジ分隊長のもとにいるなら、今もそうなんじゃないですか」

「なんでライナーがリディアの安否を気にするんだよ」

「……いや、いい。少し気になることがあっただけだ」

「ライナー、忘れよう。今はこの状況について、自分達のことを考えた方がいい」

 

 ベルトルトが、机に置かれたチェスの駒を動かす。

 

「あぁ、そうだな」

 

 駒に触れると、ライナーも少し落ち着きを取り戻す。

 

 装備を外されているということは、自分達が疑われているということじゃないか?

 調査兵団はどこまで把握している。アニはどうなった、エレンの確保には成功したのか。

 せめてリディアがここにいれば。そうすれば、エレンの状況や実験結果で得た情報について聞き出すことができたんだが。まさか、リディアも壁外調査で死んだのか?

 

 

 ……まあ、死んでいてくれた方が、助かるな……。

 

 

 それよりも、ここからどう動く。このままでは、故郷に帰ることも難しくなる一方だ……。

 

 

 ライナーの思考は、本人すら自覚しないうちに「戦士」のそれに移っていた。「生きていてほしい」という願いが「死んでいてほしい」に変わっていることにも、まるで気が付いていない。そして、無意識のうちに拳を強く握っていた。

 

 外を見ていたサシャが何気なくライナーの方を見る。そう言えば、リディアはライナーに好意を持っていた。そんな話をしたのも、もはや遠い昔のことのようだ。

 ライナーはいつもより落ち着きがないように見える。こんな時こそ冷静でいるべきなのに。上官に指示された以上、我々はそれに従うほかないのだから。休息時間を確保できただけありがたいと思うべきだ。そう思いつつ、サシャは一応ライナーに返事をしておいた。

 

「リディアなら生きてると思いますよ」

 

 根拠はないが、とりあえず希望を持たせるようなことを言ってみた。

 

 しかしライナーは既にサシャの返事を気にも留めておらず、今は違うことを考えているようだった。どうやらライナーはリディアに個人的な感情を持っていないらしい。サシャの中では、そういう結論になった。

 

 

 

***

 

 

 

「オレ以外にもいるよ、調査兵団志望の奴」

 

 ライナーがリディアの存在を認識したきっかけは、訓練兵時代のエレンとの会話だった。

 

 父が調査兵団の兵士だった。壁外調査で巨人に喰われて死んだ。母は鎧の巨人に殺された。だからリディアは兵士になり、鎧の巨人を殺すことを目指している。

 気にするな、関わるな。

 何度もそう言い聞かせたのに……気づけば、リディアはライナーの中で無視できない存在になっていた。

 

 リディアが、本当に、いい子だったからだ。

 

 ライナーが何かすると、それがどれだけ小さなことであっても、リディアは期待の倍以上に喜んでくれた。

 高いところにあるものを取ってやった、訓練で転んだ彼女に手を差し伸べた、座学でわからないところを教えてあげた、食事の準備の時に芋の皮のむき方が上手いと褒めた……たったそれだけの、取るに足りないようなことなのに、どの記憶のリディアも笑顔だった。

 

 自分が何をしても、彼女は嬉しそうに笑う。その笑顔を見るのが、いつの間にか当たり前になっていた。

 

 クリスタの場合は、誰にでも平等に優しかった。みんなに笑顔を振りまいて、優しくして、そこには絶対に差を作らない。まさに理想的な女の子。結婚したい。

 

 対してリディアは、いつでもニコニコしているわけではない。厳しい顔もするし、無表情で近寄りがたい空気の時もある。そんな彼女が満面の笑みを見せるのは、自惚れかもしれないが、自分が声をかけたとき。

 

 彼女が自分だけに見せる、あからさまな「特別扱い」。そこには抗えないほどの強い力があった。

 

 リディアの笑顔は兵士のライナーにとっては嬉しいものであり、戦士のライナーにとっては非常に恐ろしいものだった。

 

 兵士の自分は呑気なもので、

(……やっぱり、リディアもいいよなぁ)

 などと思うことさえあったが、そんな時、いつももう一人の自分が影のように心の中で蠢く。

 

(何を考えているんだ。彼女の親を殺したのは自分かもしれないんだぞ。今にその復讐を果たしに来るに違いない)

 

 罪悪感と恐怖が交互に胸を締め付ける。そんな葛藤の繰り返しの中でも、リディアの笑顔だけは消せない記憶として残り続けた。

 

 リディアに優しくするのは、後ろめたさがあったから。別に気があるわけじゃない。そう自分に言い聞かせつつ、何度か馬鹿な妄想だってした。

 せめて彼女が、もっと性格が悪くて、暗くて、自分に好意なんか寄せて来ないような子であれば……あの時、衝動的に好きだと思ってしまうようなことは、きっと、なかった。

 

 でも、そんなものは「兵士」が生んだ余計な感情に過ぎない。

 それは切り捨てなければならないもの。兵士としての自分を捨てられないということは悪魔に屈するということを意味し、それは故郷や家族を捨て去る行為に他ならない。

 

 一時の情――それも、「兵士」という本来の自分ではない姿が抱いたもの――そんなものに屈してしまえば、それからの人生はずっと負け犬だ。

 負け犬は大切なものを平気で切り捨てる。かつて鎧の巨人だった人物の過去を見たことがあるが、そんな人物は一人や二人じゃなかった。

 

 一度負ければ、負け癖のついた人生は元通りにならない。自分は絶対にそうはならない。家族に誓った使命だけが、「本当の自分」の道標なのだから。

 

 

 

***

 

 

 

「なぁ、リディア。絶対に大丈夫だ。ライナーもベルトルトも、オレたちの仲間だよ」

 

 ウォール・ローゼに移動する直前のこと。

 エレンがリディアに声をかけたが、ミカサやアルミンはしばらく無言のままでいた。

 

 ライナー、そしてベルトルト。彼らこそが、女型の巨人の共謀者かもしれないという事実。

 先ほどハンジがその場の全員に彼らの疑いについて告げた。アルミンの推察通りなら、この事実が覆る可能性は限りなく低い。

 偽造されたと思しき戸籍資料とはいえ、三人が同郷出身だなんて話、リディアはアニからもライナーからも、聞いたことがなかった。

 

 アニの時は、彼女自身の交友関係の狭さや、彼女がリディアの特別な友人だったということもあり、ミカサ達にはまだリディアを心配するだけの余裕があったとも言える。

 しかし今回は相手が違う。あまり自分たちと深く関わろうとしてこなかったベルトルトはさておき、ライナーはそうではない。104期生の全員が信用を置いている、皆の兄貴分的な存在。だからこそ全員が衝撃を受け、この報告を未だに受け止めきれずにいる。

 

 特にエレンとリディアのショックの受け方は顕著だった。絶対的な安全圏、信頼できる人。二人にとってライナーはそんな存在だった。

 

「大丈夫、絶対に大丈夫だ、だから落ち着けって……」

 

 エレンの声には不自然な高揚感があった。彼自身も信じたくないその疑惑を、言葉で打ち消そうとするかのようにしている。それは、何よりもエレン自身が動揺しているせいだ。ライナーへの信頼と尊敬の念が、今まさに崩れ去ろうとしている恐怖がある。それでもリディアの前では強がらなければと、必死に取り繕っていた。

 

 

 

 エレンとリディアの様子が明らかにおかしいことに、アルミンは気がついた。

 リディアの目線はあちこちに泳ぎ、手の震えを抑えるように、マントに付けたブローチを両手で握りしめていた。そしてエレンがそんなリディアを見て相当な焦りを感じているのも分かる。エレンは「大丈夫だ」という言葉を、リディアだけではなく、自分自身にも言い聞かせているようにも見えた。

 

「二人とも、大丈夫?」

「うん……」

 

 リディアは、松明で照らさなくても分かるくらいに青ざめた顔をしている。

 彼女がライナーに好意を寄せていることは、アルミンも以前から知っていた。とはいえこの反応は過剰すぎないか。アニのこともあってナーバスになっているのか、それとも。

 

「リディア、もしかして何か心当たりがあるの?」

「違う、そんなの、ない……だけど」

 

 すると、苦々しい顔をしたエレンが、震えるリディアの代わりに答えた。

 

「……リディアはライナーの恋人だ」

「え……」

 

 一瞬の間があった。

 

「え!?」

 

 ミカサにとってもアルミンにとっても、それは全く想定外の事実だった。みるみるうちに二人の顔が赤く染まる。

 

「い、いつの間にそんなことに……」

 

 交際が始まったのは、調査兵団に入隊して間もない頃のことだとリディアは言った。

 

「私は……気持ちを受け入れてもらえたと、思ってた……」

「……リディア……」

 

 リディアの言葉は震え、目には涙が浮かんでいた。どれだけ感情を抑えようとしても、声には心の痛みが染み出ていた。

   

 アルミンには、目に絶望の色を宿したリディアにかける言葉が見当たらなかった。

 

 両親を失い、故郷を追われ、親友を失い、そのうえ恋人までもが裏切り者だったとしたら。彼女はいったいどうなる? そんな仕打ちを受けて平気でいられるほど、リディアの精神は強靭か?

 それだけじゃない、リディアの調査兵団での立場はどうなってしまうのか。アニの時のように、また疑われてしまうのか?

 

 エレンみたいに「大丈夫だ」なんて、アルミンにはとても言えなかった。

 

「私は……ライナーとベルトルトに会いたい。会って、ちゃんと確かめたい」

 

 そう言うリディアの目には輝きがない。

 声は冷静を装っていたが、その両手は胸元のブローチを握りしめ、食い込むほど力が入っていた。

 

「あぁ、オレもだ。ライナーは誰より責任感の強い奴だ。だから何かの手違いのはずで、きっとベルトルトだって……」

「……確かに、まだ断定されたわけじゃない。だから今は、進もう」

 

 既にアルミンは二人への疑いが晴れる可能性は殆どないと踏んでいた。しかしそれでも、可能性はゼロではない。だからこそ歩みを止めてはならない。

 進むのを止めれば、心は簡単に折れてしまう。アルミンはそう思った。

 

 

 

 

 リディアがライナーに心を寄せていたことはミカサも当然知っていたが、まさか関係が進展しているとは夢にも思わなかった。

 リディアが今どれだけ傷ついているかは想像に難くなかったが、ここにいる誰もが、これ以上他人の心配をしていられるほどの余裕を持っていなかった。

 

 それでもミカサは、リディアのことが心底心配で仕方なかった。

 もしも自分が、エレンやアルミンを失うだけでなく、そんなかけがえのない二人と袂を分つようなことがあったら。自分は生きていけるだろうか。考えただけで胸が引き裂かれそうになる。

 

 エレンは人類に味方する巨人だったが、もしも……自我を失い、仇となる存在になっていたら? そしてアルミンまでいなくなってしまったら? リディアが今、そんな痛みと闘っていると思うと……。

 

「っ……」

 

 ミカサに頭痛が走った。片手で頭を押さえながらも、馬に乗ろうとするリディアに声をかけた。彼女の震える手は、手綱をうまく掴めずにいた。

 

「リディア。私たちは、あなたの味方。どんな事態が起きたとしてもそれだけは変わらない。もうあなたを疑ったりしない」

「ミカサ……」

「だから……これからも、よろしく」

「何それ……ふふ。でもありがとう、ミカサ」

 

 悲壮な顔をしていたリディアが少しだけ笑ったのを見て、ミカサの頭痛はすっと消えた。

 リディアが浮かべたのが本当の笑顔ではなく、形だけのものだとミカサも分かっていた。それでも、少しでも彼女の心に光を灯せたのなら、それだけでよかった。

 

 

 

 

 リディアは一刻も早くライナーに会いたかった。気持ちは馬よりも先走る。「俺が巨人だって? なんだそりゃ、確かにリディアを簡単に担げるくらいの体格差はあるけどな」と言って、こんな疑惑を全部笑い飛ばしてほしかった。

 

 そうでなければおかしい。人類を裏切っておきながらあんな振る舞いができるなんて、誰かと交際しようだなんて。

 そんなの、狂っているとしか言いようがない。ライナーに限って、そんなことあるわけが……

 

 ……いや。

 そうやって自分は、アニに騙されていたじゃないか。

 

(嫌だ)

 

 もしもライナーが、自分の知るライナーじゃなかったとしたら。

 

(嫌だ、嫌だ)

 

 そうすると、ベルトルトがリディアを警戒していた理由だって、自ずと見えてくる。

 

(違う、そんなことない!)

 

 

 胸元のブローチにすがっても答えが出ることはない。

 ライナーと想いが通じたあの日。この先もずっと彼を好きでいるのだと、何の疑いもなく思っていた。それは初恋ゆえの幼い純粋さからくる発想だったが、それでも、何があっても、ずっと彼のことを好きであり続けようと思った。

 今も、そう思いたいと信じている。

 

 だが、この先。現実が覆ることはなかった。

 

 

 

***

 

 

 

 急いで馬を走らせ、たどり着いた場所は、かつてウトガルド城と呼ばれた城だったらしい。すでにその古城は崩れており、一面が瓦礫の山になっていた。

 仮にも城と呼ばれるくらいの建物だったのに、どんな大規模な交戦を行えばこんなことになってしまうのだろうか。

 

 リディアは馬で駆けながら、一体の巨人に狙いを定めた。鮮やかに巨人を討伐したミカサに続くようにして、アンカーを飛ばして馬の背中から飛び立つ。

 狙いはあの5メートル級。大きすぎることはないが、動きが早く、ここで一気に仕留められなければ厄介なことになりそうだ。

 でも、まだこちらに気が付いていない。

 

「はぁっ!」

 

 リディアは空中を駆けた。

 そして対象のうなじに刃を……手ごたえがあった! 一気に肉をそぎ落とす。巨人を一体、一撃で仕留めることができた!

 

「……よしっ」

 

 すぐにアンカーを引き戻して自分の馬の背中に戻る。巨人の残りはどこにいる。他の兵士の補佐に入らなければ……そう思いながら、リディアは瓦礫の山を駆け回った。

 

 

 

 

 

 思った以上の短時間で、この場における戦いは終わった。今ここにいる巨人は、兵士たちの働きによって全て駆逐されたのだ。

 

 そして全員が呆然と、目を覚まさないユミルの姿を見ていた。

 ユミルが巨人だった。こんな情報、誰も把握していない。

 兵士達の間に動揺が広がる。

 

「こいつ……捕らえるべきなのか?」

「そりゃ、まぁ……」

「だって巨人なんだろ……」

 

 直接的な巨人の脅威が一旦去ったことで、次の脅威となっているのは、いつ巨人化するのかも分からないユミルだった。

 彼女が人間の姿をしているうちに捕縛してしまうべきではないか。そういう空気が場を支配しそうになった時、クリスタが叫んだ。

 

「ユミルは私達を助けるために戦っていたんです! 決して人類に仇なす存在ではありません!」

 

 しかしその言葉に積極的に賛同する者は誰も現れない。状況の分からないリディア達も、様子を見ることしかできなかった。もはや誰が味方で誰が敵なのか、この場の誰にも分からない。

 

 結局この場を制したのはハンジだった。

 

「全員、早急に壁の上に移動する! 当然ユミルもだ! こんな所に固まっていたら巨人の餌食になるだけだよ!」

 

 

 

 

 ユミルの壁上への運搬は屈強で実績のある兵士達に任されることになった。万が一の事態に備えているのだろう。

 

 残されたリディアは瓦礫の山の高い場所に登り、取り残されている兵士がいないか、そして……兵士の遺体が残されてないか確認していた。今は誰も見当たらない。瓦礫の下敷きになっているだけかもしれないが……。

 

 そのまま辺りの様子を伺っていると、ライナーがこちらに駆け寄ってくるのが分かった。

 

「リディア!」

 

 数メートル先に、腕を怪我しているライナーの姿があった。

 

 一瞬だけ空気がぴりついたのがリディアには分かった。

 周囲の兵士たちは、さりげなく距離を取りながらも、リディアに近付くライナーの様子をうかがっている。

 誰もが、何も聞こえていないふりを装いながらも、明らかにこちらを気にしている。

 

 リディアはハンジが出発前に言った「こちらの疑いを悟られないように振る舞え」という言葉を思い出す。兵士がこれだけいて、全員が突然黙り込むのは不自然じゃないか? こんなあからさまな警戒、ライナーが気づかないわけが……

 

 リディアは慎重にライナーの方に振り向いた。

 しかし予想に反して、ライナーは周りのことなど気にしていないようだった。

 

 近づいてきたライナーは、リディアのことしか見ていなかった。

 

「無事でよかった」

 

 そして、怪我をしていない方の手を、ぽんと頭に軽く乗せた。

 

 ……頭を触るのはやめてって、何度も言ったのに。

 それでも今は、そんな行為さえたまらなく愛しかった。

 

 胸の奥に刺すような痛みと、温もりを求める切ない気持ちが混ざり合う。

 ライナーの手が、優しくリディアの髪を撫でる。温かい。……温かすぎる。この手が敵のものだなんて、そんなこと、絶対に信じたくなかった。

 

 安心したような彼の声を聞くだけで、泣きたくなるような胸の痛みを感じる。彼が生きているということが、嬉しくてたまらなかった。

 

 ライナーは布で腕を固定している。巨人にやられたのだろうか。一刻も早く適切な処置を施した方が良いような状態だというのに、それでも自分のことよりリディアのことを心配している。

 

 恋人になってからかえって二人で話す機会を逸していたが、目を見ればわかる。

 

(やっぱり、この人は私を好いてくれている)

 

 こんなに思いやり深い人を、どうして疑えようか。

 

「ライナーも、無事で良かった……」

 

 

 

 

 

「……?」

 

 兵士達に指示をしていたハンジは、ライナーやベルトルトの挙動を注視していた兵士達の緊張がやや緩んでいることに気がついた。

 彼らの視線の先で、リディアがライナーと会話している。二人はずいぶんと親密そうだ。

 緊張が緩んだ原因はそれか。確かにあんなの見せられちゃ気抜けもするか……と思いつつ、ハンジは不自然にならない程度に二人に近づき、その会話に耳を傾ける。

 

「その腕……」

「あぁ。巨人に噛み砕かれて、持っていかれそうになった……本当に色々あった。さすがにもうダメだと何度思ったか」

 

 あまりにも自然な会話だ。裏切り者の態度だとはとても思えない。……やはり情報が誤っていた可能性もあるのか?

 

「布はクリスタが用意してくれたんだ。やっぱりあいつはすごいな、俺のために躊躇なく自分のスカートを裂いて……」

「……へー」

「おいおい、なんだ、その顔は」

「別に? なんでもないよ」

 

 ハンジはこれ以上二人の会話を聞いておく必要はないと判断し、兵士達の指示に戻った。もう多くの兵士が壁の上に移動し始めている。

 

「全員壁の上に、急げ!」

 

 

 

 

 

 ユミルは壁の上に運ばれた。リディアはニファ達と共にユミルをトロスト区に送り届けるようハンジに指示され、その準備を行っている。

 

「クリスタ……じゃない、ヒストリア」

 

 エレン達とは少し離れた場所で、リディアはヒストリアと共にユミルを見守っていた。

 先ほどのハンジとの会話で、リディアもクリスタの本名を知った。ヒストリア・レイス。貴族家の姓だ。

 

「ユミルは私達に任せて。彼女が無事に戻れるよう、しっかりと守るから」

 

 リディアは、皮膚から蒸気を発しながら昏睡を続けるユミルを見た。

 アニの時とは違う。アニは体全体を水晶で覆い、外部とのコミュニケーションを完全に放棄した。それは、ひとつの情報すら渡さないという彼女の決意だったのだろう。

 

 しかしユミルは、依然として生身のままだ。

 女型の巨人と違って、体を硬質化できないからだと言ってしまえばそうだ。しかしユミルの安らかな表情は、全てをヒストリアに託して、安心して眠っているかのようにも見える。

 

 彼女は何も隠すつもりがないのだ。

 ユミルは、敵じゃない。リディアは確信した。

 

「リディア、ユミルをお願い。まだ話せていないことがたくさんあるの」

「そうだね。ヒストリアとユミルなら、きっと……」

 

 私とアニのようにはならない。そう言いかけて、リディアは口をつぐんだ。そこには機密情報を秘匿する以外の意志もあった。

 ユミルを無条件に信じるヒストリアの姿は、少し前の自分のように見えた。

 

 しかし直後、背後から断末魔のような悲鳴が聞こえた。

 

「え……!?」

 

 リディアとヒストリアが後ろを振り返る。壁の上で、誰かが……ミカサが戦闘を行っている!

 

「エレン! 逃げろ!」

 

 アルミンの叫び声がリディアにも聞こえた。

 

 戦闘が始まったということ、それはつまり。

 裏切り者が、そこにいるということだ。

 

 リディアが立ち上がろうとしたその瞬間。激しい熱風を伴った爆発が、壁の上の兵士達に襲い掛かった。

 

「うっ……!」

 

 容赦ない熱風が身体を覆いつくす。熱い、でも目を逸らしてはならない。

 なぜなら、そこにいるのは……

 

 超大型巨人。

 そして蒸気の向こうに見える、鎧の巨人……!

 

 吹き飛ばされそうなヒストリアをリディアが受け止めた。

 

「ユミル!」

 

 ヒストリアの視線の先……ユミルが奪われた! リディアはすぐに立ち上がる。

 

「この……待て!」

 

 ヒストリアをその場に残し、リディアはユミルを奪い返そうとアンカーを飛ばした。

 

 しかし超大型巨人から発される熱風の余波がアンカーを跳ね飛ばし、うまく飛ぶことができない。

 リディアは立体機動を諦め、ユミルを奪った超大型巨人の腕を追おうと駆けだした。

 

 だがその時、見えた。ユミルを捕らえた方と逆の腕が、こちらに迫っている。

 

「全員壁から跳べ!」

 

 ハンジが叫ぶ。その声に従い、壁の外に跳ぶ。直後、超大型巨人の攻撃の衝撃が全員を襲う。

 飛んできた壁の破片はリディアの頬に傷をつけた。しかしそんなことを気にする暇さえない。

 

「総員戦闘用意! 超大型巨人を仕留めよ!」

 

 

 

 リディアの脳内に「あの日」の記憶が一気に蘇った。

 845年のあの日。焦げた肉の臭いと埃。母は一瞬でこの世からいなくなった。逃げ惑う人々の怒号、叫び、泣き喚く声。誰も、リディアの母が死んだことに気が付いていない。どうして? ここにいたんだよ、さっきまで……。

 立ち止まる幼いリディアの腕を引っ張って、避難する船まで連れて行ってくれた、知らないおじさん。

 炎が広がり、瓦礫にまみれ、崩れていく街。

 思い出が、遠ざかる。船は残酷に故郷とリディアを引きはがす。

 

 母を、あの瓦礫の下に、残したまま……。

 

 

 

 アニ、ベルトルト、ライナー。

 女型の巨人、超大型巨人、鎧の巨人。

 あぁ。

 ……あれも。これも。

 全部、嘘だったのか。

 

 

 

 体中の血が煮え繰り返るほどの激しい怒り。耳の奥で脈打つ鼓動が、怒りのリズムを刻んでいた。

 リディアを包んだ強い憎悪の感情は、彼女の集中力を恐ろしく引き上げた。視界が鮮明になり、全ての動きがスローモーションのように見える。

 

 ……落ち着いて、確実に殺すんだ。

 鎧の巨人を……殺す。

 殺す、殺す、殺す。

 

 握りしめた刃に力が入り、指先が痺れるほど。それでも、リディアの手は震えていなかった。

 

 目標、鎧の巨人。

 絶対に、殺してやる……!!

 

 立体機動で飛び出したリディアは、かつてないほどの高い精度で空を駆けた。

 恐怖も悲しみも全て燃え尽き、今は冷たい怒りだけが彼女の全身を支配していた。その目には、鎧の巨人の姿だけが映っていた。

 

 

 

 




戦士としての使命感に支えられているうちは、原作に存在しない島の悪魔が一人増えたところで、ライナーの分裂が原作より加速することはまずないと思ってます。情に絆された程度で崩壊が早まるなんてことは絶対にない。彼の目的意識の強さをなめてはいけない。恋も友情も青春も、任務完遂まで彼を壊すことはない。
ただしそうやって後回しにして耐えたぶん、後からドカンと来るんでしょうね。
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