ウォール・マリア奪還作戦。
あの地獄から、俺は生きて戻った。
栄光の帰還などではない。選ばれたわけでもない。選ばれなかった者として、この世界に置き去りにされただけだ。
戦死を伝える手紙を携え、ハンジ団長と共に遺族の家を訪ね歩いた。
あえて俺を選んだのだろう。最後の特攻を語れる唯一の生還者。だからこそ、彼らにその死を届けなければならなかった。
死んだ者たちの代わりに言葉を紡ぎ、残された者たちの前に立つ。それが、生き残った者に最初に課せられる務めだった。
扉を叩くたび、心臓が縮む。開かれる扉の向こうに、俺は何度も同じものを見た。まだ信じたいという希望と、もう知っているという絶望が、入り混じった目を。
「いりません……そんなもの……!」
最初の家で、女性は手紙を受け取らなかった。差し出した俺の手を、まるで汚れたものでも見るかのように睨みつけ、扉を閉めた。木が軋む音だけが路地に残った。
「人類の勝利のために、息子は役に立ったんですよね? だったら……本望です」
次の家では、父親が背筋を伸ばしたまま手紙を受け取った。声は震えていなかった。だが、握りしめた拳が白く、そこだけが彼の本心を裏切っていた。
「返して……あの子を……あの子を返して……!」
また別の家で、母親が俺の胸倉を掴んだ。振りほどこうとは思わなかった。そうされて当然だと、どこかで思っていた。
どうしてお前だけが、生きている。
言われてもいない言葉が、頭の中で鳴り続ける。
どうして俺だけが、生きている。
帰り道、団長は何も言わなかった。俺の半歩後ろを歩きながら、ただ黙っていた。慰めの言葉など、あの人も持っていなかったのだろう。あるいは、持っていても意味がないと知っていたのかもしれない。
肩を落として故郷に戻った日。
麦畑は刈り入れを終え、茶色い切り株だけが寒風に晒されていた。
玄関先で俺を見た母は、一瞬だけ時間が止まったように立ち尽くし、それから言葉もなく崩れ落ちた。しゃがみ込み、子どもみたいに俺を抱きしめて、泣いていた。母の背中は、いつの間にかこんなにも小さくなっていた。
兄も俺を見つけて駆け寄ってきたが……父は、しばらく何も言わなかった。玄関の柱に寄りかかり、腕を組んだまま、ただ俺を見ていた。
夕食の席についても、誰も口を開かなかった。
「……ゴードンの親父、泣いてた。あいつ、もうすぐで16歳だったんだ」
言葉は湯気とともに立ちのぼり、すぐに消えた。
「サンドラの母親は、もう誰とも話さないらしい。団長が声をかけても、扉も……開けてくれなかった」
喉が詰まる。口に運んだ飯の味など、何も感じなかった。
「マルロの家族には……結局、顔も見せられてない」
匙を握る手が震えた。俯いたまま、絞り出すように言った。
「……俺は、何もできなかった」
沈黙が、重く圧し掛かる。
やがて父が静かに匙を置き、立ち上がる。そして、ぽつりと呟いた。
「違う」
「……え?」
「生きてさえいれば、それでいい」
思わず顔を上げた。父の背中は、窓から差し込む夕暮れの光に縁取られていた。
「お前は……それだけで、十分だ」
その言葉は喉の奥で棘となり、抜け落ちることがなかった。飲み込めないまま、ずっと引っかかって……苦しかった。
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空中で肩を撃ち抜かれて海に落ちた時点で、普通だったら助からない。血も海水も沈む先は同じで、重さに違いなんてない。
それでも俺は、まだ生きている。いつもこうだ。
視界が反転する。空が海へと沈み、海が鉄へと変わっていく。血の味が口いっぱいに広がり、頭の中の声が「終わった」と囁いた。
しかしその瞬間、俺の指は反射のようにトリガーを引いていた。
アンカーが空へ放たれる。手応えはなかったが、次の瞬間……何かに噛んだ。身体が海へ引かれる力を振り切り、逆に引き上げられる。
船の舷側に叩きつけられた。衝撃が腹をえぐると、肺に入った海水が焼けるように苦しい。咳き込んだとたん、鉄と血の味が喉に上がってきた。
ふと目に入ったものがある。格子。船腹に沿って、黒く開いたその口。中に入れるかもしれない。
呼吸は荒く、傷口は焼けた鉄板のように痛む。指の感覚なんて、もう自分のものじゃない。それでも再び、移動のためにトリガーを引いた。
船体の鉄板にアンカーが突き刺さり、ワイヤーがうなりを上げる。船の側面にはリベットが並び、海へ突き出すようにして、格子付きの通気口がいくつか設けられていた。
そのうちの一つ。戦闘で吹き飛ばされたのか、蓋や逆流防止の弁が半ば外れかけている。肩をすぼめなければ通れないほど狭いが、ここしかない。
傷だらけの手を格子に伸ばし、滑る指先を鉄枠にこじ入れるようにして掴んだ。身体を横向きにし、肩を潰すようにして捻じ込む。胸が締めつけられ、肋骨が悲鳴を上げる。それでも、這うようにして押し入った。
ガンッという音。背中が入り口にぶつかり、金属音が響く。
滑り落ちるように船内へ転がり込むと、煤と鉄と油の臭いが染み込んでくる。機械室だろうか。湿った暗がり……ここなら人目につかない。隠れるには最適の場所だった。
耳の奥では波音が絶え間なく鳴り、意識が朧になっていく。うつ伏せで倒れた。今は立ち上がれるような気力もない。
パラディ島の港で焼きつけられた光景だけが、脳裏で明滅していた。
アルミン。ミカサ。ジャン。コニー。あいつらは裏切者だ。ハンジ団長も、リヴァイ兵長も。全員、マーレの残党と手を組んだ。
そして煙と砲声の向こうにいた……鎧の巨人。
リディアに託したはずだった。追え、捕らえろ、復讐を果たせと。
なぜ奴が港にいた?
なぜライナーは生きていた?
リディアが失敗するはずがない。ましてや、今さら情に流されて取り逃すような女じゃない。それなら、残された可能性は……考えたくもない最悪の答えが、喉元までせり上がってくる。
いや、まだだ。まだ決まったわけじゃない。リディアはしぶとい。俺が地獄から連れ戻した女だ。勝手に一人で逝くはずがない。鎧の巨人を発見することができず、まだシガンシナ区で戦ってるだけだ。信じろ。彼女を信じるんだ。
思考を切り替える。他の仲間たちのことを思い出す。
飛行艇が奪われた。巻き付けた爆薬を管理していたのは、ダズとサムエルだった。船が奪われたということは、あいつらも……既にいないということだ。
たくさんの仲間が死んだ。
正義のために。自由のために。未来のために。エルディアのために。
なのに、なぜだ?
なぜ止めようとする。
エレンはエルディアの希望だったはずだ。
あいつが悪魔になることで、俺たちは救われる。だからこそ命をかけて、その背中を支えなきゃならない。それがエルディアの兵士としての責任だ。あいつらだって、そんなこと分かってるはずなのに。
なんでだよ。
なんで止めるんだ!?
段々と意識が闇に落ちていく。鉄の冷たさだけが、俺の命をつないでいた。
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何もない。意識だけが、暗い水の底に沈んでいた。波の音も、血の匂いも――今は届かない。
でも俺の心臓は確かにまだ脈打っていて、未だに俺を死なせるつもりがないらしい。
(生きてさえいれば……)
ふと、故郷の父の言葉が頭をよぎった。
――生きてさえいれば、それでいい。
違う。
それは、違うだろ。
それなら、死んだ奴らには何の意味もなかったのか?
戦わなければ死ぬ。でも、戦えば誰かが死ぬ。誰かが死んで自分だけが残った時、そこから一体、何を支えに立ち上がればいい?
生きていればそれでいい。そんな言葉は、生き残った者への罰だ。
奪還作戦を生き延びてからずっと、自分に課してきたことがある。
生きた者には、果たすべき義務がある。
志半ばで倒れた奴らの死に、意味を与える義務。残された命の価値を証明する義務。そして、奪われたすべてを取り戻す義務。
誇りのために死ぬなんて、その義務から逃げることだ。自分の名誉を守るだけの死にどんな意味がある。生きて義務を果たすんだ。死にたいなんて思うのは、すべて終わってからでいいじゃないか。
それが、俺の正義だった。
それが、俺の自由だった。
薄い意識の中、あの日の誰かが、俺を指差して笑った。
「あいつと一緒に生き残ったのが、男だったらよかったのにな。ほら、いろいろとさ……」
その通りだ。俺だって百回は同じことを思った。
リディアが男なら、全部もっと簡単だった。肩を並べて、同じ旗を見上げて、一緒に戦場で死ねた。
だが現実はそんなに綺麗じゃない。背負うものも違う。目指す先も違う。見ている高ささえ。
リディアは「人を守るために刃を向ける兵士」で、俺は「国を守るために人を殺す兵士」になった。人か、国家か。そこには埋められない溝がある。最初から分かっていた。
それでも俺は、リディアに救いを求めてしまった。泥の中に引きずり込み、引き止め、共犯者に仕立て上げた。
あいつがどういう人間なのかは分かっていた。人を救いたい奴だ。だから俺がどれだけ汚れていても、結局は隣にいてくれると、どこかで甘えていた。
そして結局、予想通り。
俺たちは、共に死ぬことができる戦友にはなれなかった。
理由は単純だ。
俺が、あいつに隣で死んでほしくなかったからだ。
共犯者じゃなくていい。戦友じゃなくていい。俺がリディアに本当に求めていたのは、ひとつだけ。
「生きてさえいれば、それでいい」
皮肉だ。
父の言葉を否定して、命を賭ける道を選んだはずなのに。誰よりもあの言葉を憎んできたのに。
知らないうちに、リディアに同じ願いを抱いていた。
あいつが男だったら。共に立つ戦友だったら。こんな言葉、思い出すこともなかった。
新生エルディア帝国。悪魔。自由。大義。名誉。
声を張って叫び、拳を振り上げ、命を燃やしてきたすべての裏側で。一人の女兵士にだけ「戦場から降りて欲しい」と願っていた。無意味でもいいから、義務なんか果たさなくてもいいから、とにかく生きていてほしかった。
こんな願い、大義の前では矮小だ。だけど、これ以上ないほど正直だった。生き残ってしまった自分自身を救えない代わりに、誰かに生きてほしいと願うことで、俺はようやく立っていられた。
それは組織を率いる者としては最悪な事実で、何よりも都合が悪い真実で、決定的な矛盾。
だが同時に……俺を人間として繋ぎ止めている最後の欠片でもあった。
それでもリディアは戦場へ戻った。あの麦畑には、残ってくれなかった。
仲間を失っても、自分の正義を血で汚しても。あいつは自分の意志で武器を持った。最後まで、自分の筋を曲げなかった。
俺にとってのリディアは、戦場の外にいてほしい存在だったのに。リディアにとっての俺は、血の中に踏み込んだ共犯者でしかなかった。互いの存在に依存しながら、互いを別の場所に置こうとしていた。
それでも。考え方は違っても。
彼女の薬指の、あのくすんだ指輪に。
約束のない未来を象るその輪によって、俺たちはようやく繋がっていられた。
目を開けた。視界は滲み、光と影が混ざり合って本物が分からない。それでも俺は、生きているらしい。どこかで金属が軋んだ。風が動き、海の匂いが鼻の奥を刺す。塩と血と、焦げた油。船が止まっているのだと、そこでようやく気付いた。
このままハッチから出ていけば、すぐに誰かに見つかるだろう。だからもう一度、あの通気口から出る。
皮膚が震えるほど冷えているのに、心臓の音だけがやたらとうるさい。これは夢じゃないと、全身がそう叫んでいる。傷は熱く灼け、手足は鉛みたいに重い。
手を伸ばすと、銃はまだ腰にあった。血で滑る指がそれを掴む。……撃てるのか?
体を起こす。機械室の床に手をついた瞬間、爪が割れて、下から赤が滲んでいるのに気づいた。痛みはすぐ消えた。感じている暇がなかっただけかもしれない。
海に堕ちたあの瞬間、アンカーが鉄の船体に噛みついたのは奇跡か? それとも悪運か?
どちらでもいい。まだ背負わなきゃいけないものが残っている。
止めなければならない。奪われてはならない。俺たちの悪魔を。唯一の希望を。この島の未来を託した、最後の切り札を。
頼む。エレンを止めないでくれ。俺たちが命を懸けて信じたあの背中を、否定しないでくれ。
あの決断の中に、叫びの中に、底なしの絶望の中に、何百もの仲間の心臓が鼓動している。俺一人では背負えない。だからこそ、報いなければならない。捧げられた命に、応えなければならない。
この命がそのためにあるなら。この血が、意味を持てるなら。たとえ誰に笑われても。誰に憎まれても。俺は、やり遂げる。
足が震えていた。それでも立ち上がった。視界はまだぐらついている。吐き気もある。けれど足は前へと動いた。意思が、身体を引っ張っていた。
歩け。捧げられた心臓の数だけ。
この先にも、戦場がある。もう一度、あいつらのいる場所に向かう。
まだ何も、終わっていない。
次回、最終話です。