「楽園の島の魔女」(完結)   作:雄魔雌

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05 みじめな道化

 リディアは幼い頃の夢を見ていた。

 

「こら。お父さんの仕事道具なんだから、触っちゃダメ」

 

 机に置いてあった父のマントを触ろうとして、母に注意された。自分もそれが欲しいと言うと、兵士になるなんて絶対に許さないと叱られた。

 

「リディアはずっとここにいなさい」

 

 母が言った。

 

「知らなければ、知ろうとしなければ、こうやって生きていけるんだから」

 

 リディアは子供心に、本当にそれでいいのかな、と思った。

 空は境界なく広がって、鳥たちは簡単に壁を越える。それでもその行先を知らない方が、本当に幸せなんだろうか?

 

 母は、父が調査兵団の兵士であることを止めようとはしなかった。諦めていたのかもしれない。「あの人は、そういうふうに生まれてきた人だから」と言っていたから。そして、そんな夫に愛想を尽かすことができない自分自身のことも「私はそういう人間だから」と思って、諦めていたのかもしれない。

 

 

 夢の世界に時間の概念はない。次の夢の中で、リディアは訓練兵だった。

 

「お前さ、そんな調子で本当に巨人倒せると思ってんの?」

 

 同期に笑われた。立体機動訓練でまた失敗したのだ。何度やっても、馬で移動しながら立体機動に移ることが上手くできない。それでも何度も同じ動きを繰り返す。身体が動きを覚えるまで、何度も、何度も。

 

「大丈夫だ、お前なら。父の名に恥じない兵士になるんだろ」

 

 あの人がいつも励ましてくれた。頭を撫でられるのは好きじゃなかったけど、彼に触れてもらえるのは嬉しかった。

 

 

 次の夢では調査兵だった。

 あの人が、好きだと言って抱きしめてくれた。唇はあのときの感触をずっと覚えている。時が止まったような、永遠のような、本当に幸せな一瞬だった。

 

 でも、そこに真実などなかった。

 仲間でも友人でも恋人でもなくて、あの人にとっての「リディア」とは、一体何だったんだろう。

 

 自分がマントに着けているこのブローチ、これも一体何なんだろう。いつだったか、ハンジ分隊長が「どうして形見でもないブローチを着けているの?」と聞いてきた。全くもって、その通りだ。すがっていたものは全て幻で、自分は舞台で一人踊る間抜けな道化に過ぎなかったのだ。

 こんな残酷な冗談があるだろうか。母を奪った手で自分を抱きしめ、父の形見を奪った瞳でこちらを優しく見つめていたのだ。思い出すと寒気がして、身体の内側から何かが崩れていく感覚がする。

 

 ごめんなさい、お母さん。

 今度はちゃんと、あなたの仇を討つから。

 

 リディアの夢はそこで終わった。

 

 

 

***

 

 

 

「痛っ」

 

 流れる一筋の涙が顔の傷にしみ込んで、その痛みでリディアは目を覚ました。手や顔の一部が火傷を負って爛れていて、ヒリヒリと痛む。喉も焼けたのか、うまく声が出せない。

 

「ここは……」

「リディア! よかった、目が覚めたんだね」

「アルミン……?」

 

 エレンと鎧の巨人の戦いから、既にかなりの時間が経過していた。

 

 

 

 数時間前。壁の上で超大型巨人をかわした後、リディアはハンジらと共に鎧の巨人に対峙した。

 リディアは恐ろしく冷静だった。無駄なくまっすぐ、最大の仇のうなじに向かって飛び、勢いをつけて切り掛かる。

 

「……ぐっ!」

 

 刃は弾かれ、折れた。

 リディアの動きは訓練兵時代からは考えられないほど正確かつ洗練されていたが、鎧の巨人の硬すぎる身体に兵士の刃はまるで通らない。壁に戻って鎧の巨人を睨み、その身体をじっと見る。

 硬質な部分、伸縮する部分。直接うなじを削げないなら、どこを削げば奴を仕留められる?

 

 殺したい。殺してやりたい、今すぐに。削げる部分なら何でもいい。足でも、脇でも、どこでもいい。奴を傷つけられるなら……!

 

 戦闘は結局エレンの巨人頼みになり、兵士たちは鎧の巨人の近くを飛び回って様子を伺う形になった。エレンがアニを思わせる格闘技で鎧の巨人を追い詰め、隙をついてミカサが膝の裏を切った。勝てる。殺せる。あと少しで、エレンが首を引きちぎる!

 その瞬間、鎧の巨人が叫びを上げた。状況が変わった。

 

 超大型巨人の落下の衝撃による熱と風圧を間近で喰らい、リディアを含む多くの兵士らは再起不能レベルのダメージを受けた。リディアもそこで意識を失い、目を覚ましたのが、今。

 

 

 

 ハンジを含めた上官たちも多くが重症を負っており、未だに意識が戻らない兵士もいるという。

 リディアも火傷を負ったとはいえ、上官に比べれば軽症だった。戦闘中はかつてないほど集中しており、今までの自分からは考えられないくらい身体がよく動いたので、そのおかげだった。

 

「私はまだ、戦える」

 

 リディアは両の手を握っては開き、自分の感覚を確認した。爛れた皮膚でも、慣れてしまえば痛みを忘れる。アルミンがそんなリディアの肩を軽く叩いた。

 

「今はまだ移動手段がない。馬の確保ができ次第出発するから、それまで皆の様子を見ておいてほしい」

「了解した」

 

 リディアが立ち上がる。

 アルミンは立ち去るリディアの後ろ姿を見て、彼女の纏う雰囲気がこれまでとは明らかに変わっていることに気がついた。朗らかで明るい、いつものリディアはここにいない。その背中には、強い殺意だけが宿っているように見えた。

 

 

 

 

「その火傷で本当に動けんのかよ」

 

 出発直前、コニーがリディアに話しかけた。

 

「コニーこそ大丈夫なの」

「俺はどこも問題ない。装備も準備してもらったし、万全だ」

「そう。私も問題ない。いつだって戦える」

 

 コニーは複雑な表情でリディアに問う。

 

「お前さ……なんでそんなに冷静でいられるんだよ。俺はまだ、あいつらが巨人だなんて言われても、受け入れられない」

「相手が誰であろうと関係ない。鎧の巨人を殺すこと、私が調査兵団に入った理由はこれだけだから」

 

 コニーはリディアの答えにどうしても納得いかなかったらしい。もっと違う答えを期待していたのか、頭をかきながら話を続ける。

 

「俺、お前の切り替えの早さが怖いよ。ライナーもベルトルトも、ずっと仲間だっただろ」

「仲間……かな」

 

 少し間をおいて、リディアは続けた。

 

「私はこの目で全てを見た。彼らが壁を壊す瞬間も、どうやって人を殺すのかも」

「……」

「それに彼らは、人間の体だけじゃなく、心の壊し方まで熟知してるみたい」

 

 リディアは微笑んだつもりだった。しかしコニーにはそう見えなかったらしい。

 

「……なんかあったのか」

「沢山あった。母親を殺されたりね」

「そういうことじゃなくて」

 

 ためらう気持ちに共感してもらいたいのか、背中を押してもらいたいのか。リディアにコニーの真意は分からなかったが、どちらにしても話しかける人選を間違っているとしか思えなかった。

 

「あの二人は、エレンとユミルを連れ去った。無関係な兵士から装備を奪い、丸腰になった兵士を用済みと言わんばかりに打ち捨てて。人を、使い捨てるように」

 

 大切な気持ちも、信頼も、全てが踏みにじられた。

 

「そんな奴らを、私は絶対に許さない」

 

 リディアに残ったのは、冷たく澄んだ殺意だけだった。

 

「だったら、それ。外した方が良いんじゃねーか」

 

 すると、コニーが言いづらそうにしながら、リディアのマントを留めるブローチを指差した。

 リディアは、コニーの言いたいことをようやく理解した。彼はただ、純粋に心配してくれていたのだ。

 

「外さない」

「何でだよ」

「これは私を戒めるためのものだから」

 

 過ちを繰り返さないために。決意を揺るぎないものにするために。かつて恋心の象徴だったブローチは、今や己を呪い、縛るためのものに変わっていた。

 

 

 

***

 

 

 

 巨大樹の森、その枝の上。

 ライナーが、意味不明なことを話していた。

 

 ふざけているのかと問うエレンに、ライナーはなぜエレンがそんなに怒っているのか分からないといった表情で、そのまま意味の分からない話を継続した。

 

「まぁ確かに、俺にはもうリディアがいるからな……クリスタの気持ちにまで応えてやることができないのは残念だ。あ、今のリディアには絶対に言うなよ。あいつ意外と嫉妬深くて……そういうところも可愛いんだが。これでも将来のことはちゃんと真剣に考えてるんだ。だからこそ兵士としての働きに見合った報酬でもなきゃ、割に合わないというか……」

「おい」

 

 ユミルが半笑いでエレンに訊ねた。

 

「待て。今あいつ、リディアが何だって?」

 

 エレンには何も言えなかった。恋人だなんて、そんな吐き気がするような寒い言葉、もはや口に出すのも嫌だった。しかしエレンの表情は、言葉で説明する以上に正直な事実をユミルに語っていた。

 

「……チッ」

 

 ユミルが舌打ちする。

 

「そういうことか……クソみたいな気分だ。聞かなきゃよかったよ」

 

 

 

 

 その後、クリスタの話を持ち出されてから、ユミルまでエレンの問いを無視するようになった。ユミルもそうだが、エレンの両腕修復はなかなか進まない。

 

 調査兵団はすでに自分たちの居場所を特定している可能性がある。そうなれば、夜を待たずにここを移動することになる……今は、ライナーたちから少しでも多くの情報を引き出したい。エレンは考えた。情報を引き出すには、感情的にさせた方がいい。今、自分が持っている手札は何だ。彼らを揺さぶれるような、何か。

 

 エレンの瞳に、ライナーが映る。この男は、本当に奴なのか。

 

「おい」

「……」

「無視か」

 

 エレンが呼びかけてもライナーは返事をせず、じっと遠くの様子を伺っている。エレンの血管に怒りが滲む。

 

「聞きたいことがある」

「……何だ」

 

 睨み続けていると、ようやくライナーが言葉を返した。ベルトルトが不安そうに彼のことを見た。その目はライナーに「無視し続けろ、反応するな」と言っているようだった。

 

「リディアのことだよ」

 

 その名前を挙げた瞬間、この場の全員が反応を示した。ユミルの顔が強張り、ライナーの視線が一瞬揺れ、ベルトルトが唇をかむ。

 かかった。

 

「最初から全部切り捨てるつもりなら、なんであんなことした? お前らのこと、オレが知らないとでも思ってんのか?」

 

 冷静に切り出すつもりが、エレンの声は無意識のうちにだんだんと大きくなる。

 

「お前、知ってたんだろ。訓練兵の頃、オレが最初に教えたもんな。リディアの母親を殺したのは、鎧の巨人なんだって。あいつは復讐のために調査兵団を目指してる、オレとよく似たヤツなんだって」

 

 ライナーがエレンに背を向け、ベルトルトは聞こえないふりをしている。ユミルだけがしっかりとその言葉を聞いていることが分かったが、エレンは声を荒くして続ける。

 

「母親を殺して、父親の形見を踏み壊して、それでいて気を持たせるように振る舞って……人の心をなんだと思ってんだ?」

 

 話しているうちに、エレンの胸の奥から熱いものが込み上げる。

 エレンは、ライナーがリディアを「恋人」という、約束事レベルの関係に引きずりこんだことに憤っていた。それは一種の契約だ。知人や友人といった、ふわっとした関係性ではない。

 

「リディアがどう思うか、一回でも想像したことあんのかよ! このクソ無責任野郎が!!」

 

 叫びながら、エレンは断片的な記憶の欠片に捕らわれる。リディアが掃除も手につけられないくらいボンヤリしていたあの日。

 

「ライナーが、好きって、言ってくれて……」

 

 あの紅潮した頬と耳。期待に震える声。涙を溜めた瞳に映る、小さな幸せ。

 二人の交際を聞いて、エレンは自分のことのように嬉しかった。自分の大切な友人同士が結ばれるということが、あれほど嬉しいとは思っていなかった。あのときのリディアの笑顔は、かつて失った何かを思い出させてくれた。

 

 だが、その笑顔は、もう……

 

「だったら何だ。今さら、俺にどうしろと言うんだ」

 

 いつの間にかエレンの方を見ていたライナーの声が、エレンの頭に冷たく響く。ライナーの表情は硬く、まるで目に感情が見えない。

 

「リディアは俺を殺すために兵士になったんだ。そんな奴に、どう接するのが正解だったって言うんだ?」

 

 静かに話し始めたライナーだったが、その声には明確な苛立ちが滲んでいる。

 

「お前が教えてくれよ。親を殺して形見も踏み潰して、それでも俺を好きだって、ありゃ一体何なんだ? 親の仇の姿くらい、見て分からないのか?」

 

 ライナーの言葉が錯乱している。言葉の速度が増し、内容が支離滅裂になっている。その姿には、どこか取り乱したような、自分を正当化したいという焦りが見える。

 

「それじゃあ何だ、リディアを放っておけないなら、こっちの正体がバレないうちに……殺しておけばよかったのか?」

 

 ライナーの声が響き渡る。エレンの隣で、ユミルの表情がわずかに暗くなる。

 

「お前に言わせれば、俺がリディアに好意を抱かせるようなことをしたのかもしれないが……そんな感情、あいつの勝手だろうが! そうなるように俺が仕向けたとでも言いたいのか!?」

「は……?」

 

 エレンの耳に、信じられない言葉が飛び込んだ。

 あいつの勝手、だと? 胸の内で怒りが爆発しそうになった。こいつは一体、何を言っている? そんな無茶苦茶な正当化がまかり通ると思っているのか?

 

「ハッ。リディアに聞かせてやりたかったな。これ見りゃ百年の恋も冷めただろ」

 

 ずっとエレンを無視していたユミルが、ようやく口を開いた。その目には何か、哀れみのようなものが浮かんでいる。

 エレンはもう、情報を引き出す目的など忘れていた。渦巻く怒りが全身を震わせる。

 

「そりゃ、はじめはリディアの一方的な感情だったかもしれないけど……」

 

 体温が一気に上昇したように感じる。

 

「何なんだよ。お前、何なんだよ!」

 

 エレンが怒りに任せて叫ぶ。

 

「リディアのこと、何だと思ってんだよ!!」

 

 そこには、大切な友人を傷つけられ、その心が弄ばれたことへの強い憤りがあった。

 

「一時でも、恋人だったんだろ? そんな相手にしていい仕打ちじゃねぇよ、こんなの!」

 

 エレンの怒鳴り声が、静かな森に響く。

 

「リディアの気持ちに応えたのは、お前一人の責任だろうが!!」

 

 エレンは黙って座っているベルトルトにも矛先を向ける。

 

「おいベルトルト、なに無関係なツラしてやがる! お前だって同罪だろうが、なんとか言えよこの腰巾着が!」

「僕は」

 

 ようやくベルトルトが口を開いた。

 

「リディア……いや、彼女に限らず、みんなには……」

 

 低く、確かな声で彼は続ける。

 

「知らないうちに、知らないどこかで、死んでいてほしかった」

 

 静かだが、それは紛れもない本音だった。

 

「僕が思うのは、それだけだ……」

 

 その言葉に、エレンが凍りついたように動きを止めた。ライナーがベルトルトの言葉に静かに頷く。

 

「ああ、そうだ。お前たちに、それ以外の感情を抱いたことはない」

 

 ライナーとベルトルトの目に浮かぶものは、もはや人間の感情ではなかった。そこにエレンが見たのは、冷酷な意志だけだった。

 エレンの肩が震える。過去の記憶――訓練時代の笑顔や、共に食べた食事、語り合った夢――それらが全て、偽りだったというのか。

 

「この、クズが……!」

 

 もはやこれ以上の適切な罵倒が思いつかない。胸が強く締め付けられる。

 

「お前ら、こんなに残酷な奴らだったか?」

 

 その問いに答える者はいなかった。エレンの目に映るのは、かつての同期の姿を借りた、見知らぬ敵の顔だけ。

 

「好きなだけ言え、それで気が済むならな。それで何だ。こんな話で揺さぶったつもりか」

「クソが……」

 

 思惑は完全に読まれていた。そもそも自分が途中で激昂した時点で負けていたのだ。

 

 

 

 

 

「まぁ、面白い話だったな。時間潰しにはちょうどいい」

 

 すると、ユミルが再び口を開いた。彼女の顔に浮かぶ笑みは、不気味なほどに冷たかった。

 

「リディアってのは本当に……みじめで哀れで、馬鹿な女だな」

 

 その言葉一つ一つが刃物のようにエレンの耳に突き刺さる。

 

「こんな特大のハズレ引く奴、普通いるか?」

「……何、笑ってんだよ」

 

 エレンの声が震える。怒りのせいなのか、それとも別の感情なのか。

 

「ユミル、お前、オレの質問にも答えないで……」

 

 ユミルは問いかけてくるエレンを一旦無視し、まるで芝居のようにライナーの方を向いて続ける。彼女の声には、妙な熱が込められていた。

 

「あいつ、あんたらとの繋がりを疑われて、今ごろ独房行きかもな。アッハハ、だとしたら傑作だ」

 

 ユミルの笑い声に、この場の空気が一層重くなる。

 

「想像してみなよ、エレン」

 

 今度はエレンに向き直る。

 

「リディアが今、どんな目に遭ってるか。壁のない暗い部屋で、手首を縛られて、尋問されてる姿」

 

 ユミルの言葉がリディアの姿を脳裏に浮かび上がらせる。

 

「あぁ、ライナーさん、別にあんたのせいじゃない。これもリディアの自己責任で、あいつの勝手だ。そういう話だったよな?」

 

 ライナーは黙り続ける。その沈黙が、ユミルの言葉を肯定しているかのようだった。エレンは歯を食いしばった。言わせておけばよかった。でも、もう限界だった。

 

「なんか言えよ、この野郎……」

 

 ユミルは止まらない。彼女の顔が歪み、言葉は次第に残酷さを増していく。

 

「……まぁ、別に惚れてもいない女が拷問されようが拘束されようが、どうだっていいよな」

 

 ユミルがわざとらしくため息をつく。

 

「どうせリディアに好きって言われて、一瞬だけその気になっちまっただけだろ?」

 

 ユミルの目が細められ、唇が不敵な笑みを形作る。

 

「あいつ結構可愛い顔してるし、身体の方も……なかなかだよなぁ?」

 

 その言葉に、エレンが思わずユミルを睨みつける。 彼女の言葉は、まるで毒を含んでいるかのようだった。

 

「あれに迫られてクラっとくる気持ちは分からんでもない。少しは楽しんだんだろ?」

「……ユミル、お前は自分とクリスタのことだけ考えていろ。余計な口を挟むな、立場が不利になるぞ」

 

 ライナーの声は低く、けれど明確な怒りを含んでいた。彼の目がユミルを一瞬だけ睨みつける。

 ユミルはそれを見て、さらに笑顔を広げた。彼女はライナーの反応を試しているようにも見えた。

 

「つまみ食いぐらいしたんだろ。どうなんだ、ん?」

「黙れ」

 

 わざとらしく肩を上げてくすくすと笑うユミルの仕草には、相手を追い詰めるような意図が見え隠れしていた。

 そしてライナーの反応には、怒りよりももっと深い、名状しがたい感情が込められているようだった。

 

 言われた通りに黙り込んだユミルだったが、その目にはなお、何かが燃えていた。他人の苦痛を楽しむような、あるいは自分自身の痛みを分かち合おうとするような。

 ベルトルトも、もはや何も言わなかった。彼の顔は石のように無表情だった。

 

 結局、エレンは何も情報を引き出せなかった。引き出そうとして、意味もなくリディアへの侮辱を聞かされただけだった。怒り、失望、痛み……エレンはユミルとライナーのやり取りを見つめながら、胸の内でさまざまな感情が渦巻くのを感じていた。

 

 日没が近づいている。エレンの体の修復はなかなか進まない。ユミルの手足は、元の形を取り戻し始めている。再び四人は沈黙する。その静寂には、言葉以上に重い意味が込められていた。それぞれが抱える秘密と感情の重さが、空気を鉛のように重くしていた。

 

 

 

***

 

 

 

 エルヴィンの指示のもと、兵士たちは索敵陣形を組み、ライナーたちを追いかけた。当然リディアもそこにおり、辿り着いた森の中で、彼女は他の兵士とともに素早く立体機動に移った。

 

 しかし、戦況は混迷を極めた。森にいた巨人はユミルだとコニーが言ったが……味方だと確信していたはずのユミルは、クリスタを喰い、逃げ去った。

 

 どういうことだ。ユミルも敵だったのか?

 またしてもリディアは、何も理解できない状況に放り込まれた。しかし今、理解不理解なんて関係ない。巨人を追い、エレンを奪い返す。それが使命であることは変わらない。

 

「敵対するなら……たとえユミルであっても殺す」

 

 立体機動でユミルの巨人を追いかけながら、リディアは表情を歪めて吐き捨てる。もう誰に裏切られようが、全部どうでもよかった。

 

「同意」

 

 ミカサが小さく頷いた。

 

 森を抜け、馬で平地を駆け抜け……ついに鎧の巨人に追いついた。エレンはそこにいる。鎧の巨人に守られて、ベルトルトと共にいる。

 

 ジャンやコニーがベルトルトを説得しようとする中、ミカサとリディアは冷静さを欠いていた。「一刻も早く、裏切り者の首をはねなければ」……その気持ちだけは共通していたが、根本にある感情が違う。

 ミカサが「そうしなければエレンを助けられない」と思う一方、リディアは「そうしなければ二人を殺せない」と思っていた。

 

 リディアにはもう、殺意以外、何の感情も残っていなかった。

 

 彼女は鎧の巨人に飛びかかり、その手の甲、指と指の間にあたる場所……その赤い筋に向けて、勢いよくブレードで切りかかった。切りつける前に硬質化されるかと思ったが、エレンとベルトルトをその掌の内部に匿っているせいか、その皮膚が硬質化されることはなかった。

 

「その手を離せ、鎧の巨人」

 

 リディアの冷たい瞳が喋りかける。彼女の刃は鎧の巨人に少しだけ傷を付けたが、その指や手を切り落とすには至らず、大したダメージを与えることすらできなかった。

 

 ベルトルトの悲痛な叫びが仲間たちを動揺させる。

 

「確かに皆騙した……けど、すべてが嘘じゃない!」

 

 彼の声は、今や殺意にまみれたリディアですら、嘘だと思えなかった。

 

「本当に仲間だと思ってたよ!」

 

 全員が沈黙する。ミカサがベルトルトにエレンを返すよう告げる。しかし交渉はすぐに決裂した。

 

「……私は、信じない」

 

 リディアはベルトルトに冷たく言い放った。コニーが泣きそうな顔をして振り向いたのが分かる。しかし誰も彼女を非難することなどできない。

 それからリディアはまっすぐに、まるで指をさすかのように、鎧の巨人の瞳にブレードを突きつけた。

 

「卑怯者」

 

 一言だけ言い放ち、鎧の巨人を睨みつける。

 

「お前だけは絶対に、私が殺してやる」

 

 

 

 

 しかし、エルヴィンが引き連れてきた大量の巨人達の襲来によって、ベルトルトとの対話は強制的に打ち切られることになった。

 リディアは飛び、自分の馬に戻る。無数の巨人が、鎧の巨人に群がってくる。しかし全ての巨人ではない。混乱した状況の中、巨人に片腕を奪われたエルヴィンが、総員突撃を命じる。

 

 兵士たちが、次々と喰われていく。

 余計な戦闘は避けなければならない。しかし、エレンを鎧の巨人から取り戻せるとしたら、それができる可能性があるのは、団長か、手練れの兵士か、ミカサだ。周囲の余計な巨人を薙ぎ倒し、他の兵士に道を作るのが、自分の仕事……!

 

 目の前を馬で駆けていた兵士が、突如、巨人に掴まれた。

 リディアは素早く立体機動に移り、高く舞い上がる。そして上空から――その巨人の手首めがけて、急降下。

 鋭い刃が肉を引き裂き、その巨人の手首を切り落とした。

 巨人の手の中でもがいていた兵士は地面に落下したが、切り落とした巨人の手がクッションとなり、地面への直撃は避けられたようだ。

 

 リディアはその勢いと身体の流れを残したまま、近くにいた別の巨人にアンカーを射出する。そして、さっき手首を切り落とした巨人のうなじに、とどめを刺す。

 更に、空を舞うように回転し、もう一体、違う巨人のうなじを切り裂いた。

 

「すまん、助かった!」

「礼はいいから、馬! 早く乗って、前を見てください!」

 

 助けた兵士に声をかけながらも、リディアは馬に戻り、進む。一瞬で二体もの巨人を薙ぎ倒したその動きには、一切の迷いや無駄がなかった。

 

「嘘だろ……」

 

 ジャンがその姿を見て唖然とした。

 

「あれは俺の知ってるリディアなのか?」

 

 

 

 

 

 エレンが回収され、撤退命令が出た。リディアも他の兵士達に続く。しかし鎧の巨人が、こともあろうに巨人をエレンに向かって投げ飛ばすという暴挙に出た。

 

「あの野郎……」

 

 リディアは舌打ちしながら振り返り、背後に遠ざかっていく鎧の巨人を睨みつけた。

 

 飛ばされてきた巨人は避けるしかない。

 リディアは馬で駆けながら、今の自分に鎧の巨人を殺せる力がないことを悔やんだ。ここで無駄に命を削って鎧の巨人に挑んでも、復讐は果たせない。今、自分の命の正しい使い方はそれじゃない。

 エレンが無事に帰還できるまで、彼を守り、囮となり、盾になること。それが今の正解だ。

 

「……!」

 

 そのとき、視界に一体の巨人が入りこんだ。それはリディアのすぐそばに投げ飛ばされている。

 

 落下してくる巨人を避けるため、リディアは咄嗟に立体機動に移り、馬を逃すように足で合図し、その背中から飛び出した。

 しかし、その瞬間。近くにいた別の巨人にワイヤーを掴まれた。

 

「しまっ……」

 

 調子に乗りすぎた。冷静さを失い、こんなに近くの巨人を見失っていた。

 

 ワイヤーを掴まれたリディアは、地面に強く叩きつけられた。背中から落下し、衝撃で一瞬、息が詰まる。肋骨にひびが入ったような鋭い痛みが走った。

 

「……うっ……!」

 

 立ち上がれない。馬は更に遠くへ去っていく。

 近くに、巨人が二体。投げ飛ばされてきた一体と、ワイヤーを掴んだ一体。彼らはじわじわと、リディアとの距離を詰める。

 もう、間に合わない。巨人がリディアに手を伸ばす。でも、リディアの体はもう、動かない。

 

 

 これが、最期か。

 ……ろくでもない人生だった。

 リディアは静かに瞼を閉じ、その瞬間を待った。

 

 

 しかし、その瞬間は訪れなかった。

 巨人の手がリディアを掴み取ることはなかった。

 

「え……?」

 

 理由は分からない。しかし突然、すべての巨人が一か所に向かって走り出した。どういうわけだか、助かったらしい。

 

「おい、大丈夫か! 乗れ!」

 

 先ほどリディアが巨人から救い出した兵士が、馬に乗ってこちらに駆けてくる。地面に放り出されて仰向けになっていたリディアの腕を掴み、拾い上げ、自分の馬の後ろに座らせた。

 

「痛っ……!」

 

 馬に乗りながら、リディアは歯を食いしばる。身体を駆け巡る激しい痛みに耐えながら、目の前の兵士の背中にしがみつく。

 

「悪いが、撤退完了まで、我慢してくれよ……!」

 

 消えそうな意識の中、リディアは撤退を完了した。

 

 

 

***

 

 

 

「生きてたか」

 

 目覚めた時、リディアは壁の上で寝かされていた。ジャンが心配そうな顔でこちらを覗き込んでいる。

 

「無茶しすぎだ。あんな動き方、お前じゃないみたいだった」

「そう、かも」

「ほら水だ。飲めるか?」

「ごめん。ちょっと厳しい」

 

 全身が軋むように痛む。身体を酷使しすぎた。今日の自分は、明らかに限界を超えた動きをしていた。

 うまく起き上がれないリディアの背中をジャンが支え、水を飲ませる。

 

「……おい、泣くなよ」

「泣いてない」

「泣いてるぞ」

「うそ」

 

 リディアは自分の頬に触れる。冷たかったので、すぐに手の甲で拭った。

 

「泣いてなかった。ジャンの水の飲ませ方が下手なだけ」

「お前なぁ……」

 

 ジャンはリディアを支えながら、マントに付けられたままのブローチをチラリと盗み見た。

 

 

 リディアが目を覚ます前、ジャンはアルミンからリディアとライナーの間にあったことについて、報告を受けた。

 それは聞くに耐えない、あまりにも残酷な報告だった。

 少し前なら、純粋に歓迎できたのに。今となっては思い出したくもない、非常におぞましい内容だった。ジャンと一緒にいたコニーは、泣きながら話を聞いていた。

 

「なんなんだよそれ……ありえないだろ……」

 

 怒りと哀しみとが混ざり合ったような複雑な表情で、彼は現実を嘆いていた。

 

「ただでさえ色んなことがあって、まだ全部、受け止めきれてないのに……そんなこと、絶対にあっちゃダメだろ……」

 

 アルミンもジャンも、コニーと同じ気持ちだった。

 コニーは嗚咽混じりに喋る。

 

「なぁ、あれは本当にライナーとベルトルトだったんだよな? 俺の知ってるあいつらは、そんな酷い事するような奴じゃ……なかったよ。女泣かせるとか、そういうレベルの話じゃねーじゃん、これ……いや……あれだけ人を殺せるなら、それくらい、やるのか……リディアだって、母親、殺されてるわけだし。はは、は……」

 

 ジャンは後悔していた。

 ライナーが何を考えていたのかなんて全く分からないが、少なくともリディアの悲劇の始まりは、自分が彼女をけしかけたことにあった。告白しておけなんて、無責任なことを言ったから。

 

「この話、どこまで広がってる」

「僕とエレンとミカサ、後は君たちだけだ」

「同期以外には絶対に漏らすなよ……あいつの立場が危なくなる」

「僕も最初からそのつもりだ。君たちに話したのは、共有しておく必要があると思ったから」

 

 ジャンにとってのリディアは、同期の仲間であると同時に、マルコが惚れていた女という、特殊な立ち位置にある存在でもあった。

 ライナーとリディアの関係についてジャンに責任がないのは明らかなのだが、それでもジャンは、親友が惚れた女を自分が間接的に傷つけてしまったような、居心地の悪い気持ちを抱いていた。

 

 

 

 

 水を飲むリディアのもとに、エレンが現れた。

 

「エレン、おかえり。無事でよかった」

「ああ、オレは、まぁ」

 

 ジャンは自分がここにいない方が良いような気がしていたが、エレンもリディアも特に気にしていない様子だったので、留まることを選んだ。

 

「ライナーとベルトルトのことなんだが」

「……うん」

 

 その名前を聞いて、ジャンはリディアよりも緊張した表情になった。

 

「何か、言ってたの?」

 

 リディアの問いに、エレンがためらっているのが分かる。ジャンは静かに祈った。頼むから、余計なことだけは言うな、と。

 

 エレンは確かに迷っていた。心臓が痛いほど早く鼓動している。

 あの時のライナーの冷たい目、無感情に近い声音が忘れられない。こんなことを言っても、リディアをいたずらに傷つけるだけじゃないか。そんな思いが頭をよぎる。しかしこのままだと、リディアは幻想にすがり続け、全てをきちんと終わらせることができない。真実は残酷だとしても、嘘の優しさより必要なものだと……エレンは、そう信じることにした。

 

「あいつら、さ」

 

 言って、いいんだよな? これは、間違いじゃないよな?

 エレンはジャンに助けを求めるような視線を送ったが、ジャンはすぐに目を逸らした。

 エレンは深呼吸をしてから、続けた。

 

「オレたちには、どこか知らないところで、知らないうちに……死んでいて欲しかったって。そう、言ってたよ」

 

 その言葉を聞いたリディアの顔には……何の感情も浮かんでいなかった。

 彼女はひたすら、無言と無表情を貫いた。エレンの言葉を受け入れたのか拒否したのか、誰にもその判断がつかないほどの、無、だった。

 

 だが、ジャンはそうはいかなかった。

 

「な……おい! 何なんだよそれ、ふざけんなよ!!」

 

 ジャンは勢いよくエレンの胸ぐらを掴んだが、エレンは抵抗もせずにそれを受け入れた。

 

「そんな言葉で、全部終わらせる気かよ!?」

 

 ジャンは胸ぐらを掴む拳をわなわなと震わせたが、しばらくして、あっさりとその手を放した。

 

「……クソが……」

 

 

 

「悪い」

「いや」

 

 ジャンがエレンに詫びる。その後にあったのは、重苦しい沈黙だった。

 

「エレン」

 

 突如、無言を貫いていたリディアが口を開いた。

 

「はっきりと伝えてくれてありがとう」

 

「おかげで……目が醒めた」

 

 その言葉とは裏腹に、リディアは自分の片手で目元を覆い、両の瞼をゆっくりと閉じた。

 指の間から涙が流れ落ちる。その涙は悲しみのためだけではなく、自分の中の何かが最後の一線を越えたことを、静かに告げているようでもあった。




ユミルはライナーとベルトルトの立場を慮りつつ、それでも彼女なりに同期の善良な友人を酷い形で傷つけた男に一言くらい言っておきたかったのかもしれません。
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