「楽園の島の魔女」(完結)   作:雄魔雌

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06 怒りの矛先、感情の感覚

 新生リヴァイ班として指名された一部の同期達は今、人里離れた家屋に潜伏している。

 リディアはエレン奪還後もハンジ班の一員として同期とは別行動をとっており、今は興奮した馬をなだめながら、ハンジとコニーが本部から戻るのを待っていた。二人は今、団長にラガコ村での調査結果を報告している。

 

「やっぱり同期と一緒が良かったか?」

「いえ、そんなことは」

 

 ハンジ班の先輩であるケイジに声をかけられた。

 

「そうしてやりたいのも山々だが、先日の件で多くの兵士が失われたからな。こちらもとにかく人手が欲しい」

 

 アーベルがケイジに続いてリディアに話しかける。

 

「そういえば、お前に巨人から助けられたって奴が感謝してたよ。うちの新兵だって言ったら驚いてた。すごい動き方するもんだから、どこの手練れかと思ったって」

「やるね。分隊長が直々にスカウトするわけだ」

 

 ニファが笑いながらリディアのことを褒めた。

 

 リディアはその言葉に少しだけ驚いた。ニファはリディアの父のことなど知らないのだ。だからハンジがリディアを連れてきた理由もよく知らない。それはケイジもアーベルも同じようで、リディアはただ「分隊長が直々にスカウトしてきた期待の新兵」ということになっていたのだ。

 一兵士として少しだけ認められたような気がして、リディアは嬉しかった。

 

「少しは兵士らしくなれたでしょうか」

「何言ってんだ! 最初から頼りにしてるよ」

 

 ケイジに背中を軽く叩かれた。

 この班に馴染めてきたことを嬉しく思う一方で、リディアはラガコ村での出来事を思い出していた。

 

 

 

***

 

 

 

 リディアはコニーと共に、彼の故郷であるラガコ村を訪れていた。

 手元の資料を見た。何度見返しても、先日現れた巨人の数が、住民の数と一致してしまう。そんなわけがないと資料をめくり続けても、結果は変わらない。

 

 これはつまり、兵士たちが手にかけてきた相手は……。

 リディアは資料から目を離した。そして、目の前で仰向けのまま倒れている巨人を見つめ、先ほど確認したコニーの母親が描かれた絵を思い出した。

 似ているだなんて思いたくなかったのに、そう言わざるを得ないほど、彼女の特徴と似通っていた。

 

「ずっと調査兵団にこだわってたお前やエレンの気持ちが分からなかったけど、今ならわかるよ」

 

 そばに立つコニーが小さな声で呟いた。彼はリディアが一度も見たことのない表情をしており、それは溢れる激情を必死に押し殺しているようにも見えた。

 

「許せないよな、こんなの」

「コニー……」

「俺の家族も、故郷も、友達も……母ちゃん以外は、全部なくなっちまったんだ……」

 

 コニーは立っているだけでも精一杯なようだった。その目は焦点が合わず、虚空を見つめている。手は小刻みに震え、顔色は土のように青ざめていた。

 リディアは今にも倒れそうなコニーの肩を支え、彼の呼吸が落ち着くのを静かに待った。

 

 時折、彼の肩が大きく震える。それは泣いているのではなく、怒りと悲しみが身体の内側から沸き起こる時に見せる、抑制の効かない反応だった。リディアにはその感覚が痛いほどよく分かる。

 だからこそ適切な言葉が見つからない。自分にできるのは、こうやって肩を支えてあげることしかない。その肩は小刻みに震え、時折大きく上下した。リディアは静かにコニーを支え続けた。

 

 巨人を殺した瞬間のことを思い出す。

 恐怖、怒り、そして……うなじをそぎ落とした時に覚えた、確かな高揚感。

 そんなもの、知るべきではなかったのだ。あの時自分が殺した巨人がコニーの弟や妹、友人ではないと、誰が自信を持って言える?

 

 静寂だけが残るラガコ村の風景は、リディアの心に再び怒りの感情を湧き起こした。

 しかし、その怒りを向けるべき対象が分からない。もし巨人が人間だったというなら、この手は既に、知らず知らずのうちに、人の血で染められているのだ。

 

「誰だよ、誰なんだよ……」

 

 コニーの悲痛な声だけが哀しく響く。その言葉に応えるように、リディアも静かに呟いた。

 

「私たち、この怒りを……どこに向ければいいんだろうね」

 

 村の惨状を見て、リディアは理解した。

 もはや、鎧の巨人への復讐だけを考えていればいいという時間は終わってしまったのだ。

 

 この世界は、狂っている。

 コニーを支えながら、片手で胸元のブローチを強く握りしめた。しかし、火傷の名残で、手のひらの皮膚に鈍い傷みが残るだけだった。

 

 

 

 

 コニーが水を飲みに行くと言ってリディアの元を離れると、ハンジが話しかけてきた。

 

「巨人の正体については、今やこの村に入った全員が同じことを考えている」

 

 リディアはハンジの言葉に静かに頷いた。

 

「割り切れないことは各々たくさんあるだろうけど、今はやるべきことをやる。この件を報告し、エレンの実験を再開させよう」

 

「それから」

 

 ハンジがリディアの肩に手を乗せる。

 

「怒りだけではない在り方を探そう」

「……!」

 

 その言葉に、リディアは目を見開いた。

 

「君の怒りは、君だけのものじゃないよ。だからこそ、その感情をどこに向けるのか……ちゃんと考えなきゃいけない」

 

 コニーとの会話を聞かれていたのかと思い、リディアはハンジの目を見る。

 

「今のコニーに聞かせるのは酷だと思ったから、君にだけ言うんだけど」

 

 ハンジは微笑みながら続ける。

 

「怒りは悪いことではない、それは原動力になるから。でも間違えてはいけない。それを晴らすことだけを目的にしてしまうと、自分を見失ってしまうからね」

「……ハンジ分隊長も、そうだったんですか?」

「私もかつてはそうだった。怒りに呑まれてばかりの日々だったけど……でも今は、私は私を失わない方法を手に入れたからね」

「自分を失わない方法、ですか」

「あぁ。でも、そればっかりは自分で探すしかない」

 

 ハンジと話していると、モブリットが近づいてきた。

 

「分隊長、コニーが落ち着いたら撤収しましょう」

「あぁ、分かった。リディアも準備をしておいて」

「はい。急ぎます」

 

 返事だけはまっすぐだが、リディアは悩んでいた。

 復讐以外の何か。自分にそんなものがあるのだろうか?

 

 悩みながらも、撤収の準備のためにその場を去ろうとした、そのとき。再びハンジがリディアに声をかけた。

 

「リディアにもあるじゃないか。忘れちゃったのかい?」

 

 リディアは動きを止め、もう一度ハンジの方を振り向いた。

 

「壁の外の迷子を探すんだろ? 君が、自分でそう言ってたよ!」

 

 ハンジが笑顔でそう言った。

 

 その言葉を聞いて、リディアは思わず、両手でブローチを握りしめた。

 父が壁外調査で死んだことを告げられた、遠いあの日のことを思い出した。

 あの日リディアは、かつて父が語っていた夢をハンジに伝え、自分もその遺志を継ぎたいと言った。「壁の外で行方不明になっている人達を助けたい」という、父の思いを。

 

 ハンジはそんなリディアの言葉を「壁の外の迷子」という表現で、覚えてくれていた。

 

 まだ、自分は戦える。立っていられる。

 この手が血に濡れていたとしても、叶えるべき夢がある。

 

(大丈夫だ、私は)

 

 迷子を探す。

 リディアは自分の胸の内に、ようやく小さな光を見出した気がした。ただの復讐者ではなく、何かを守り、誰かを救うための兵士になるという選択肢。それは父が歩もうとした道でもあった。憎しみだけでは自分を支えきれないことを……体が、心が、ようやく思い出した。

 

 リディアはハンジの言葉から、自分に対する強い慈しみを感じた。

 気を遣わせないよう振る舞いながらも、こちらが傷ついていないか確認してくれる。激しい戦闘で火傷を負い、眼鏡の下の目元に疲労の色が濃いにもかかわらず、その痛みを他の人に悟らせようとしない。

 

(ハンジ分隊長は、本当に立派な人だ)

 

 リディアの胸に温かいものが広がった。失った親に代わるような存在ではない。それでも、新たな絆が少しずつ形作られていくことを、彼女は確かに感じていた。

 

 リディアはラガコ村を訪れる前、自身の立場が非常に危ういものであることに気が付いていた。

 ライナーの件があったから、調査兵団の中でも特に重要な情報が行き来するハンジの部隊には、きっともう所属できないと思っていた。

 

 それどころか、ライナーとの関係が他の上官に知られていたら、兵士の身分すら失っていたかもしれない。

 憲兵団に突き出され、持ってもいない「敵の情報」を吐き出すよう拷問され、何もないと分かったら用済みだとして捨てられて、哀れな馬鹿として世間の晒し者になる……そこまで覚悟していたのだが、リディアの身柄について、危惧したような事態は何も起きなかった。

 もちろん同期が内密にしてくれたことが大きいのだろうが、おそらくハンジやモブリットも、何かしら働きかけてくれたのだろう。情報処理に長けたこの上官たちが、新兵の人間関係に関わる些細な秘密を把握していないわけがない。

 

 自分も、彼らの支えになりたい。だからもっと、強くなりたい。

 

「こんなに気にかけていただいて……本当にありがとうございます」

「あーまぁ……本当は良くないけど、どうしても贔屓しちゃってるかもね」

「ですね」

 

 モブリットが苦笑しながら頷く。

 

「そうなんですか?」

「なんせリディアは私にとって……」

「なんせ分隊長はリディアのことを……」

 

 突然、ハンジとモブリットの言葉が重なった。二人は一瞬互いを見て、そして同時に言った。

 

「妹」

「娘」

「に近いものだと思っているから……」

 

 妙な間があった。

 

「……ん?」

「あ」

 

 沈黙ののち、ハンジがモブリットの目をじっと見た。

 

「いや娘って」

 

 モブリットが、しまったという顔で青ざめた。

 

「今のは、本当に申し訳ありませんでした……」

「モブリットは一体私を何歳だと思っているのかな」

 

 リディアは思わず、小さく笑ってしまった。

 

 

 

***

 

 

 

 リヴァイ班の隠れ場所に到着すると、家の前でサシャが元気に待ち構えていた。彼女は玄関から飛び出してきて、リディアとコニーに駆け寄った。

 

「リディア! お久しぶりです!」

「サシャ!」

 

 気落ちしているコニーも、サシャの顔を見て少しだけ明るい表情になった。

 しかしそれは一瞬の微笑みに過ぎず、すぐに彼の目は虚ろになった。コニーは努めて普通に振る舞おうとしていたが、その笑顔は引きつり、言葉も少なかった。

 

「聞いてくださいよ、ジャンが私のことをパン泥棒だとかなんとか」

「濡れ衣を着せられたような声を出すな。鞄に隠してるもん出せ」

「チッ」

「マジでまだ持ってんのかよ……」

 

 舌打ちするサシャが逃げようとしたので、アルミンがミカサに指示する。

 

「ミカサ、サシャを確保して」

「了解」

 

 ミカサが容赦なくサシャの片手をねじり上げた。

 

「痛い痛い! アルミン、ミカサは怪我人なんですよ! こんなことさせちゃ……」

「私は大丈夫。サシャ、早くパンを返して」

「わかりましたって!」

 

 サシャが諦めて鞄から小さなパンの欠片を取り出した。

 

「丸々一個だとすぐにばれたから、今度は半分に割っていたのか」

「嘘だろ、そんなところで知恵を働かせて……」

 

 ジャンとアルミンが呆れながらパンを回収し、ミカサが手を離す。

 サシャは獲物を奪われた獣のような目でジャンを睨みつけていたが、再びリディアとコニーの姿を見て、すぐに落ち着きを取り戻した。

 

「あ、あと、その……大丈夫ですか?」

 

 サシャは本当に心配そうな目をして、リディアとコニーに話しかける。

 

「何が?」

「……」

 

 コニーは何も語らない。

 

「えっと、ほら、あははは! 何でしょうね、私ったら! 最近の口癖なんですよ、人に大丈夫かどうか聞くのが」

 

 ラガコ村のこと、ライナー達のこと。二つの意味が含まれているのだろうとリディアは思った。

 

「ありがとう」

 

 具体的な内容には触れず、リディアはサシャと同期たちに感謝した。

 

 

 

 

 同期は順に、屋内に戻っていった。この場にまだ残っているのはミカサ、サシャ、ヒストリア、そしてリディアのみ。

 さっきからエレンの姿が見当たらなかったが、ミカサ曰く、まだ室内で掃除の続きをしているらしい。それを聞いて、リディアは少し前のことを思い出した。

 

「私がいい加減な掃除をしていたせいで、エレンと一緒に兵長に叱られたことがあってね……」

 

 旧調査兵団で起きた懐かしい出来事を聞かせると、ミカサとサシャがくすくすと笑った。

 

 

 そんな中、ヒストリアは少し離れた場所で黙って立っていた。

 クリスタであれば笑顔で仲間を迎え入れていたはずの場面で、彼女は壁に寄りかかり、誰とも目を合わせようとしなかった。ミカサとサシャがリディアと談笑している様子を見つめるその目は、すっかり感情を閉ざしている。

 しかしリディアがエレンの話題で笑った瞬間、ヒストリアの表情が微かに歪む。それは怒りというよりも、何かもっと深い、言葉にできない感情のようだった。

 

「ねぇ」

 

 ヒストリアは突然、リディアの方に歩み寄った。その声は冷たく、以前の優しいクリスタからは想像できないほどの鋭さを持っていた。

 

「あのブローチ、もう捨てたの」

 

 この場の空気が凍った。

 

 

 ヒストリアの胸の中では、矛盾した感情が渦巻いていた。リディアが傷ついてくれないかという願望と、彼女が立ち直っていることへの理不尽な怒り。そして何より、ユミルが連れ去られたのに、自分だけがここにいることへの罪悪感。

 彼女はリディアの反応を見つめながら、その目に同じ絶望を探していた。自分と同じ痛みを抱えた人間を見つけたいという、独りよがりな願望を。

 それなのに、リディアの目には確かな芯のようなものが見えた。

 

「ヒストリア? どうしたんですか突然……」

 

 ヒストリアは、声をかけてくるサシャを無視した。

 そして更にリディアに近づき、他の誰でもなく、彼女だけを見つめていた。

 その冷たい視線に気づいたサシャとミカサは、互いに不安げな表情を交わした。リディアも困惑しながら答える。

 

「捨ててないよ。今はマントをしていないから、外しているだけで……」

「なんで?」

 

 ヒストリアは淡々と続ける。その声には怒りこそ感じられないが、質問の意図が見えず、リディアも困惑した。

 

「みんな言いたくても言えないでいるだけ。ジャンだって、自分のせいでリディアが傷つくことになったって言ってた」

「ヒストリア、やめなさい」

「あなたとその……元恋人? の話なんて、私は心底興味がないけれど。どうでも良くない? ユミルを奪った人たちの寄越したものなんて、取っておく必要があるの」

 

 制止しようとするミカサを無視したヒストリアを見て、リディアはなんとなく状況を理解した。

 

 これは、八つ当たりだ。

 ただ、それが分かったところで……。

 

「驚いた? クリスタならこんなこと言わなかっただろうね。あなたみたいに、いい子だったから」

 

 わざわざ「いい子」を強調する言い方は、ユミルにそっくりだった。

 

 サシャはヒストリアを止めるべきかどうか分からず、ハラハラしながら様子を見守っていた。

 ヒストリアが久々にまともに喋ったと思ったら、なぜかリディアに喧嘩を売り始めた。

 

(なんで?)

 

 なぜリディアにきつく当たるのか、サシャには心当たりがなさすぎて、非常に困惑していた。

 

(でも、今のヒストリアはリディア以外と話す意思がないようだし、一体どうすれば……!)

 

 ミカサの方を見ると、彼女はサシャと同じようにソワソワとしていたが、間に入れないと思っていることだけは確かだった。戦闘時と違って、こういうときのミカサは、頼りにならない。

 

 

 

 しかし喧嘩を売られた当人であるリディアは、それほど動じていなかった。

 ヒストリアの事情は、報告としてリディアも聞いていた。彼女の口から直接聞いたわけではないため、詳細までは知らないが。

 

 ヒストリアは今、生まれて初めて孤独というものを感じているのかもしれない。リディアはそう思った。

 独りぼっちで過ごすこと。それが、かつての彼女の日常だったという。そこに突然ユミルが現れて、ヒストリアの孤独をすっかり奪い去ってしまった。

 

 諦めていたものを一度でも与えられて、更にそれを失えば、人はそれに執着する。

 ヒストリアにとって、ユミル以外にそんなものを与えてくれる人はいなかった。

 自分は、誰かのかけがえのない存在だったことなどない……そんな哀しい思いが、今のヒストリアをユミルに執着させている。その喪失感を、彼女はまだ受け入れていない。

 

 だから今、リディアがどんな言葉をかけたとしても……ヒストリアに響くことはないだろう。

 それでもリディアは、ゆっくりと口を開いた。

 

「壁の中では、私の両親がこの世界に存在していたという証明が、日ごとに消えている」

 

 拒絶されることを知りながら、それでもリディアはヒストリアとの対話を試みることにした。

 

「戦いを重ねるたび、どんどん人が亡くなっていく。私の父や母の存在を覚えている人なんて、もうほとんど残っていない。私だって、絶対に忘れたくないのに……それでも日に日に、二人の顔や輪郭がおぼろげになっていく」

「……」

「愛されていたという記憶だって、そう」

 

 リディアはゆっくりと続ける。

 

「人が本当に死ぬのは、忘れられてしまったとき。私が忘れてしまえば、両親は完全に死んだことになってしまう」

 

 ヒストリアはリディアの言葉を聞きながら、自分の中に広がる空虚感を感じていた。

 両親に愛された記憶。そんなものを持たない彼女には、リディアの言葉がまるで別世界の話のように響く。

 

 リディアが、ポケットからブローチを取り出した。

 

「だから、これを見て自分を奮い立たせる。私だけは、この怒りを忘れてはいけないと」

 

 それを見て、ヒストリアの胸に鈍い痛みが走った。

 

「今の私にとって、このブローチは自分自身を戒めるためのもの。私が、私を愛してくれた人たちの記憶を忘れないための……怒りの象徴」

 

 マントに装着していない時も、リディアはブローチを肌身離さず持ち歩いている。

 

「だから、捨てたりなんかしない」

 

 

 ヒストリアは黙って話を聞いていたが、リディアの話に区切りが付くと、無表情のままで返事をした。

 

「過去に両親に愛された事実があるなら、それだけで十分でしょ? 愛されて育ったリディアには、私のことなんて分からないんだね」

 

 言葉を放つ瞬間、ヒストリアは自分の声が震えているのを感じた。

 

 リディアの推察通り、これは、ヒストリアの八つ当たりに過ぎなかった。

 彼女は、自分でもよく分からない感情の吐口として、リディアを選んでしまった。

 誰からも愛されていないことへの嫉妬なのか、ユミルを失ったことへの絶望なのか、それとも自分がどうあるべきかわからない混乱なのか。リディアの強さが、自分の弱さを引き立てているかのように感じられた。

 

「ヒストリア……」

 

 リディアの目が、悲しそうに揺れる。

 ヒストリアはその表情を見た瞬間、罪悪感と、どこか歪んだ満足感を同時に覚えてしまった。

 

「……っ」

 

 しかし、それ以上の感情が溢れ出すのを恐れるように、急いでその場から立ち去った。

 残されたミカサとサシャは、ヒストリアを追いかけるべきか、残されたリディアを気遣うべきか、どうしたらいいのか分からないといった様子で、結局この場に立ち尽くしていた。

 

 

 

***

 

 

 

 訓練兵の頃、ヒストリアはユミルと二人でリディアについて話をしたことがあった。

 

「あのなぁ、あいつの真似なんて絶対にやめろよ。あれは異常だ。どっかネジ外れてんだよ」

「普通の、いい子だと思うんだけど……」

 

 それは、リディアの形見のブローチが食堂で壊された頃よりも、少し後のことだ。

 

「普通の『いい子』が、そのまま復讐を誓ってる時点で、イカれてるんだ」

「どういうこと? ユミルの言ってること、よく分からないよ」

「まぁ要するに、リディアはクリスタみたいな『いい子』とは根本的に違う人間ってことだ」

「なにその言い方……」

 

 ヒストリアは表情を歪めた。ユミルが「いい子」と言う時は、いつもあまりいい意味ではない。

 

「目的意識が高いとか一途だとか……そう言えば聞こえはいいが、要は生き方を曲げられないだけだ。そんな危ない性質の奴は、一番怖いぞ」

 

 ユミルはヒストリアの肩に腕を回した。

 

「ちょっとでも恨みを買うか、逆に特別扱いでもしてみろ。一生つきまとわれること間違いなしだ」

「?」

「今まさにアニが絡め取られてるような気もするけどな。満更でもなさそうだし、面白いから放っておこう」

 

 ユミルの発言の意味はヒストリアにはよく分からなかったが、彼女はリディアの性格に潜む、何らかの病的な性質を理解しているようだった。

 しかし、そう言われてアニとリディアの様子を見ても、ヒストリアには二人が普通に仲の良い友人同士にしか見えなかった。

 

 そのうち、リディアがライナーのことを好いているという噂が出回ってきたとき、ユミルは誰よりも腹を抱えて爆笑していた。

 

「マジかよ、あいつやっちまったなぁ! しかも聞いたか? ライナーの奴、リディアは妹みたいなもんだとか言ってるらしいぞ。そんなこと本気で言う男がいるもんか、嘘に決まってんだろ!」

「笑いすぎじゃない? リディアは真剣なのに……」

「こりゃもう時間の問題だ。私は訓練兵のうちにリディアがライナーを落とす方に賭ける。たぶん楽勝だ」

「だ、ダメだよ、そんなことしたら!」

「賭けに負けた方が市場で奢りな! 私にも指輪の一つくらい買ってくれ」

 

 ユミルは機嫌良く言った。まだヒストリアが賭けに乗るだなんて言っていないのに、完全に自分が勝つつもりでいる。

 

「リディアのだっせぇブローチより、ずっとセンスの良いやつな!」

 

 ユミルはそう笑っていた。

 あの時の彼女の声、表情、すべてが鮮明に蘇る。笑うときに少し歪む口元、冗談を言うときの意地悪そうな目の輝き。それらの記憶はヒストリアの心を締め付けた。

 

 結局ユミルの予想は外れ、訓練兵の間、リディアとライナーの間には何も起きることがなかった。その上、リディアはライナーに想いを伝える気がなかった。そう聞いた時のユミルは不貞腐れていたが、それでもいつか、市場で奢ってくれると約束した。

 

 でも、一緒に市場で買い物をする機会はついに訪れなかった。

 ユミルはもう、いなくなってしまったから。

 

 

 

***

 

 

 

 アルミンに聞かされた話だと、調査兵団に入ってからリディアとライナーの間には色々あったらしいが、ヒストリアには全てどうでもいいことだった。

 それでも、彼女は後悔していた。

 なぜ、リディアにあんな言葉を吐いてしまったのか。自分の感情という感情はもう全て死んだと思っていたのに、なぜか罪悪感で胸が痛い。

 

 最初、そんなつもりは全くなかった。ただリディアの様子を見ていると、どうしても黙っていられなくなったのだ。

 リディアには自分と同じであって欲しかったのかもしれない。そうすれば、この空虚さも正当化できると思っていた。それなのに、現れた彼女は以前のままで、あのブローチだって、持ったまま……。

 

 たくさん傷つけられたはずなのに、どうしてそのままでいられるのか。

 ユミルがいなくなったのにそのままでいるなんて、自分には絶対に無理だ。どうして、そんな平気そうな顔で笑うのか。

 

(……やめてよ! 本当は限界なくせに、傷ついているくせに!)

 

 誰かに八つ当たりするなんて、ヒストリアにとっては人生で初めてのことだった。

 

 クリスタではない自分とは、一体何なのか。自分を偽ることなく生きるとは、このように他人を傷つけることなのか。

 ユミルがいなくなってから、ヒストリアは自分の行動の指針を失っていた。クリスタの仮面を脱ぎ捨てたものの、その下に何があるのか、まだ分からない。

 ただ一つ確かなことは、リディアへの言葉は本心からではなかったということ。それは自分の空虚さを埋めるための、醜い行為だった。

 

(まだ、クリスタのままでいた方が……良かったのかもしれない)

 

 その考えが頭をよぎるが、すぐに打ち消した。ユミルはそれを望まなかった。ユミルは本当の自分を生きろと言った。たとえそれが、どんなに難しくても。

 

 

 

 

 

 

 それからのリディアは、ヒストリアとろくに話す機会もないまま、次々と変わる事態への対応を余儀なくされた。

 隠された真実。中央憲兵。真の王家。王政に対するクーデター……

 

 そして、ハンジ班の先輩方が亡くなったことを知らされた。

 リディアはずっとハンジとモブリットに付き従っていたため、偶然生存することになった。

 

 また、みんな死んだ。自分だけが、生き残った。

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 民衆の大きな歓声が響く中、リディアは広場の端に立ち、遠くからヒストリアの戴冠式を眺めていた。人々の頭越しに見える壇上の彼女は、まるで別世界の存在のように輝いていた。

 冠を授けられるヒストリアの姿は、自分と同じ人間だとは思えないほどに美しい。リディアは視線を自分の手元に落とし、あの地下で起きたことを考えた。

 

 何人、殺したんだろう。

 巨人と戦うために磨き続けてきた技術を、人間相手に行使した。

 ヒストリアが即位する、この瞬間のために。

 

「女王様、本当に綺麗だね」

「やっぱりこれまでの王政はおかしかったんだ、俺だけは気付いていたよ」

「またまた。この人ったらすぐ調子の良いことを……」

 

 人々の騒がしい声も、耳を素通りするだけだった。

 リディアは一人、人間の身体を切り裂くときの刃の感覚だけを思い出していた。巨人の肉ではなく、人間を貫く、その感覚を。

 

 今さら何を考えているんだろうか。初めて巨人を討伐したその瞬間から、この手はとっくに汚れていたというのに。

 ポケットの中にしまっているブローチを触った。もはやその行為に深い意味などなく、ただリディアの癖になっていた。

 

 この怒りを忘れてはならない。でも、怒りを晴らすことだけを目的にしてはいけない……

 リディアは必死にハンジの言葉を思い出し、深呼吸を繰り返したが、それでも居心地の悪さは消えなかった。

 

 

 

***

 

 

 

 戴冠式から数日。リディアは執務室でハンジを待ちながら、書類の整理をしていた。今はモブリットもいない。二人はそろそろ戻るはずだが、恐らく事後処理に手こずることがあったのだろう。

 

「ハンジは不在か」

「リヴァイ兵長」

 

 暖炉の火に向かって不要な書類を投げ入れていると、そこにリヴァイが現れた。

 

「ここでお待ちになりますか?」

「あぁ」

「お茶を淹れますね」

 

 室内は書類だらけで荒れていたが、簡単な調理器具やティーセットくらいは用意できる。調査兵団の名誉が回復したことで、少しいい部屋を使わせてもらっているらしい。

 リディアは茶葉を保管している箱を取り出した。書類の破棄をやめ、湯を沸かす。薪と紙のチリチリと燃える音だけが室内に響いた。

 静かだ。

 

 

「俺はお前の父親のことはよく知らないが」

 

 静寂に包まれた部屋の中で、リヴァイがリディアに話しかけた。

 

「エルヴィンとはたまに酒場に行っていたようだな」

「あ、覚えています。エルヴィン団長が、酔っ払った父を送り届けに来てくれたことがありました。それなのに母は父だけじゃなく団長のことまで叱りつけて……あ、当時は団長ではありませんでしたね」

 

 リヴァイがふっと鼻で笑った。

 

「叱られるエルヴィンか。見物だな」

「二人で何を話していたんでしょう。父は団長より歳上だと思いますが」

「さあな。今度本人に聞いてみろ」

 

 リディアが立ち上がって、紅茶の準備を始める。

 リヴァイは椅子に腰かけながら、書類で荒れた部屋を眺めていた。

 

「汚ねぇ部屋だな……」

「お待たせしました」

 

 リディアがテーブルにカップを置き、紅茶を注ぐ。リヴァイは置かれたカップをすぐに口元に運んだが、その中身を一口含むなり顔をしかめた。

 

「おい。お前のところは、いつもこんなもん飲んでるのか」

「お、お口に合いませんでしたか?」

 

 リヴァイに睨まれたように感じて、リディアの肩がピクリと跳ねた。

 

「それ以前の問題だ」

 

「湯や水に草でも入れときゃ、確かに紅茶みてぇなモンにはなる。液体であることに変わりはない……だが」

 

 リヴァイがティーポットをリディアから奪い取り、近くで乱雑に転がっていたカップを拾い上げ、そこにリディアの分の紅茶を注いだ。

 

「お前も飲んでみろ」

「は、はい」

「……チッ。汚ねぇカップだ」

 

 差し出されたカップをそっと口に運び、紅茶を口に含む。

 

「……申し訳ありません。味や、匂いが……よくわかりません」

「どういうことだ」

「実は少し前から、美味しいとか美味しくないとか、そういう感覚があまり……」

 

 リディアは言葉を選びながら続けた。

 

「味覚や嗅覚だけじゃなくて、他の感覚も……何か、鈍くなっているようで」

 

 リヴァイの目に、一瞬だけ理解の色が浮かんだ。彼は、多くの兵士がこうして感覚を失っていく姿を見てきた。喪失と罪悪感が人の感覚を奪うことを、リヴァイは誰よりも知っていた。

 

「そうか」

 

 リヴァイは少し思案するような様子を見せたが、それから何も言わずに椅子から立ち上がり、茶葉が入った箱を手に取った。

 

「貴族連中のやり方は知らん。だから俺のやり方が正しいとも限らない。だが、色付きの水よりはマシになる」

「へ、兵長?」

「覚えろ」

 

 リヴァイの目は真剣そのものだ。

 

「こんなもん、飲ませられる方が拷問だ」

「は、はい!」

 

 突如、リディアの仕事が、資料整理から紅茶の淹れ方レッスンに変わってしまった。

 

 

 

 

 リヴァイはリディアの横に立ち、眉をひそめながらティーポットを手に取った。

 リディアは一歩下がり、上官の指導に身構える。暖炉の火が二人の影を壁に映し、その動きが部屋に独特の緊張感をもたらしていた。

 

 まず茶葉の量。そして適切な温度。正しく淹れれば茶葉が開き、香りや味がしっかりと引き出される。抽出時間、注ぎ方。

 リヴァイに言わせればどれも基本的なことだったが、リディアは今まで意識したこともなかった。紅茶を自分で淹れて飲むような機会なんてなかった。

 リディアはリヴァイの言葉を全てしっかりと手帳に書き残し、先ほど自分が上官にどれだけ酷いものを出していたのかを知った。

 

「兵長、すごいです。いつもこんなことを?」

「いつもじゃない。壁外でこんなチンタラ遊んでられるか。要は飲めるものであればいい」

「そうですよね……」

 

 さっきの紅茶は飲めたもんじゃなかったという意味だ。自分のせいとはいえ、流石に少し落ち込む。

 

「全部守る必要はない。要点を掴んでおけば、道具も何もない場所でもそれなりになる」

 

 リヴァイが紅茶の入ったカップをリディアに差し出す。

 

「飲んでみろ」

 

 おずおずと、カップを口に運ぶ。

 

「味や香りについては、正直……まだ分かりません」

「そうか」

「でも兵長、紅茶って……温かいですね」

「熱湯を使うんだから当然だ」

 

 リディアの言葉に、リヴァイが呆れたように呟いた。

 

 リディアは、リヴァイに教わったことをびっしりと記録した手帳を見た。茶葉の量、湯の温度、抽出時間、注ぎ方……そして最後に、リヴァイが一度も言わなかったことを書き加えた。

 相手のことをちゃんと考えて淹れる、と。

 それはあまりにも幼稚な言葉で、自分でも笑ってしまうような記録だったが、今のリディアには必要なことだった。

 

「ご指導、ありがとうございました」

 

 リヴァイが淹れてくれた紅茶は、時間が経ってからも温かかった。

 

 

 

***

 

 

 

 あっという間に、戴冠式から二か月も過ぎた。

 リディアとヒストリアは孤児院近くの木陰に腰を下ろし、子供たちが遊ぶ様子を見守りながら話していた。少し離れた場所では、ジャンやサシャが子供たちと戯れている。

 

「あの時はごめんなさい」

 

 さっきまで孤児院の子供達にもみくちゃにされていたリディアに、ヒストリアがそう言った。

 二人だけで会話するのは、ヒストリアがリディアに八つ当たりをした、あの時以来のことだった。

 

 すでにヒストリアは「牛飼いの女神様」として民衆の大きな支持を得て、日々を忙しなく過ごしている。すでに自分のような一兵士が気軽に話しかけられるような立場ではないのだが、女王の意向ということで、リディアを含む104期の兵士達はこうして気軽に彼女の運営する孤児院を訪ねることができた。

 

「不思議だよね。お互いのことをそんなに知っているわけじゃなかったのに、なぜかあなたは私と同じように虚しい気持ちになっているって、あのときは勝手に期待して、確信していたの」

 

 リディアは、ヒストリアのその直感は間違いではないと思った。

 

「でも今は、もうそんなこと言わないよ。この子たちを不安にさせてちゃ、女王なんて務まらない」

 

 ヒストリアの視線の先には、元気に走り回る子供たちの姿がある。リディアも、その視線の先を見た。

 一人のやんちゃな子がジャンの背中に蹴りを入れて、怒ったジャンに追いかけまわされている。ひたすらサシャの髪を引っ張っている子もいる。ミカサはエレンの倍とも言えるほどの荷物を運んでいて、それを羨望のまなざしで見つめている子もいた。

 みんな、楽しそう。

 リディアは、これがヒストリアの見たかった景色なんだと思った。

 

「あの日、どうしてブローチを捨てないのかって、私に言ったよね」

「うん」

「その時、このブローチは怒りの象徴だとか言ったけど……正直なことを言うと、今はもう自分でもよく分からない」

 

 ヒストリアは静かに話を聞いている。

 

「私の手はすでに汚れている。兵士を続けていけば、この手はこれからどんどん血に塗れていく。人同士の争いはきっと避けられない。あんなに人を殺しておいて、今更こんなことを思うのはおかしいかもしれないけど、私……」

 

 ライナーたちと何が違うのかな、と言おうとした。

 

 だが、そこで言葉を紡ぐのを止められた。

 ヒストリアが、人差し指をリディアの唇に当てていた。

 

「ストップ」

 

 リディアも、はっとして気が付いた。

 ここでそんなことを言ってしまうと、ここにいる同期全員を巻き込むことになる。皆が同じ罪を背負っているのだから、自分だけがそんな弱音を吐くのはおかしい。

 黙りこむリディアを見て、ヒストリアは言った。

 

「今のリディアを見て、ユミルの言っていたことが分かった気がする」

「私のこと?」

「うん。素直で優しくてまっすぐだけど、ちょっと頭が硬くて、頑固者。だから自分の考えに固執しがち。そこは私によく似てる」

「……本当にそんなこと言ってた? あのユミルが?」

「うーん、今のは私の解釈だから」

 

 復讐に囚われながらも善良な性格であり続けようとする変わり者で、それでいて執着心が強く、目標に囚われ続ける性質のせいで、余計な苦労を背負い込むタイプ。

 ユミルの言っていたことを正しくまとめるとしたら、本来はそうなる。でも、そんなことをリディアに伝えたところで意味がない。

 

「あなたはそれで良いと思う。だって今さら、性格なんて変えられないよ。だからたくさん悩むことがあるかもしれないけど、それは自分で選んだ道だから、仕方ないこと」

 

 ヒストリアは笑った。

 

「……ねぇ、ヒストリア」

 

 優しく微笑むヒストリアを見ていると、リディアもつい、隠していた気持ちがこぼれそうになる。

 

「もしも私が、このまま」

 

 そしてつい、口をついて出た言葉。

 

「ただ人を殺すだけの兵士になったら、どうすればいいのかな……」

「……」

 

 リディアは気まずそうにして、沈黙する。また失言をした、というような表情だった。

 しかし、リディアの本音を聞き逃さなかったヒストリアは、彼女の肩を両手でしっかりと掴んだ。

 

「どうしても耐えられなくなったら、そのときは」

 

 夕陽に照らされた彼女の瞳は、かつてのクリスタの優しさと、新たなヒストリアの強さを同時に宿していた。

 

「私が絶対に助けてあげる」

 

 その言葉には揺るぎない決意が込められていた。それは慰めではなく、誓いだった。

 

「女王として、友人として、約束する」

 

 そう言ったヒストリアの背後から現れた夕陽はあまりにも眩しくて、リディアの瞳に強く染みた。

 

「かっ……こいい、ヒストリア。女神様なんかじゃなくて……英雄みたい」

「えぇ? 何それ」

 

 思わず漏れたリディアの本音に、ヒストリアは嬉しそうに笑った。

 

「でも、神様とか女神様とか……ちょっとくすぐったいし、そう言われる方が嬉しいかな」

 

 

 

***

 

 

 

 ついにウォール・マリア奪還作戦を翌日に控えた夜。

 酒や肉の香りが立ち込める室内では、あちこちで兵士たちの笑い声が響いていた。

 明日の命運を賭けた戦いを前に、皆が束の間の安らぎを求めて集まっている。テーブルの上には空になった皿や、半分だけ中身を飲まれた木製のジョッキが並び、その光景は奇妙な祝宴のようでもあった。

 

 そんな中、リディアはエレンとコニーと共に、肉を巡って滅茶苦茶に暴れ回るサシャを柱に拘束していた。エレンが口、コニーが体、リディアが両手を縛る。

 

 一仕事を終えて二人と共にテーブルに戻ろうとした時、懐かしい同期に声をかけられた。

 

「よ。久しぶり」

「フロック」

 

 駐屯兵団から調査兵団に編入してきたフロックだった。

 

「万年ドベのリディアが今や調査兵団の熟練兵士か。不思議なこともあるもんだ」

「そうだね、私も不思議。フロックは変わりないみたいで良かった」

「……やっぱりなんか変わったな。まぁ、それはお前だけじゃないけど」

 

 フロックはジャンたちを一瞥した。

 リディアは以前にも、他の同期から「変わった」と言われたことがある。そのことについて、リディアはあまり深く話したい気分ではなかった。

 

「戻ろ。サシャの分まで貴重な肉を頂戴する予定なの」

「うぉっ、そりゃいいな!」

 

 立ち話を早々に打ち切り、二人はそれぞれのテーブルに戻っていった。

 

 

 

 テーブルに戻ったリディアの目の前にあるのは、肉。しかも、見た目からして絶対に良い肉だ。

 マルロ曰く、憲兵団に所属している兵士であれば、この程度の肉なら普段からそれなりに食べることができたらしい。なんという格差だ。

 リディアは自分の肉を確保し、そのうちの一切れを口に入れた。味わうように、よく噛む、噛む、噛みきって……飲み込む。

 

「美味しい……のかな。たぶん」

「なんで疑問系なんだよ。肉だぞ肉。サシャがいないうちにもっと食え」

 

 隣に座っていたエレンがリディアにもっと食べるよう薦めてくる。しかしリディアが口にしたのは一切れだけで、それ以上食べることはなかった。

 残った分は後でサシャにあげよう。さっきは彼女の分まで頂戴するなんて浅ましいことをフロックに宣言したけれど、やっぱり美味しいものは美味しいものを必要とする人に渡るべきだ。

 

「食欲がないの?」

 

 ミカサがリディアに尋ねた。

 

「そんなことないよ。でも私はいつものパンでいいや」

 

 リディアがパンをちぎる様子を見て、ジャンが話しかけてきた。

 

「気にしてんのか、明日のこと」

「え? そりゃもちろん。みんなそうでしょ?」

「本当の本当に、大丈夫なんだろうな?」

「何が」

「だから……! おい、今日こそは言わせてもらうぞ」

「どうぞ」

「明日、お前が直接ライナーに対峙する可能性もあるんだ。それで食欲がないとか言わないよな?」

「は……」

 

 この場でマルロだけが「何の話だ?」というような顔をしている。

 

「まさか!」

 

 リディアが机を叩いて立ち上がり、拳を握りしめながらこの場の仲間達に宣言した。

 

「確かに私は、男に騙されて弄ばれたみじめな女だけど! もうだいぶ時間も経ってるし、別に体を許したわけでもないし! 大丈夫に決まっているでしょうが!!」

 

 

「……ブッ!」

 

 その言葉を聞いて、アルミンが飲み物を噴き出した。

 ミカサは目を丸くして固まって、食べようとしていたパンの欠片をスープに落とした。

 

「あっはっは! お前すげえなぁ! そんな言い方できる奴だと思ってなかったよ、なんかユミルみてーだな!」

「何の話か知らんが、もっと慎みを持て。言葉は選んだ方がいい」

 コニーは少し考えてから、ゲラゲラと笑った。マルロがリディアに注意した。

 

「か、か……体とか、お前なぁ! こっちがどんな気持ちで……!」

 

 ジャンは顔を真っ赤にして机を叩いた。椅子から慌てて立ち上がって中腰になり、片手でリディアを指差す。

 しかしエレンだけは、話を聞いていたのかいなかったのか分からないくらいに普段通りだった。

 

「そっか。お前がそう言えるようになって、良かったよ」

 

 

「……」

 

 エレンがあまりにも普段通りだったせいで、自分一人だけが過剰反応しているような気がしたジャンは、わざと乱暴に椅子に座りなおした。

 

「ったく」

「あはは、ごめんねジャン」

「……冗談にできる程度には吹っ切れたってことでいいな」

「心配してくれてありがとう。でも本当に気を遣わないで。親の仇を討つことと、変な男に引っかかったことは、別の話だって割り切ってるから。しっかり調査兵団として……彼らを殺すよ」

「そうか。そこまで腹括ってるんなら、もう何も言わねーよ。ただな……」

「何も言わないんじゃなかったの?」

「うっせ。……お前も、相手はマルコみたいな男にしておくべきだったな」

「呼んだか」

「マルロじゃねーよ」

 

 

 

 

 そのうち、ジャンとエレンの乱闘が発生した。止める人はいない。誰もが、宴の余興だと思っている。

 懐かしい。訓練兵の頃だったら、ミカサが乱入してエレンを回収するか、ライナーが二人の間に入って……そこまで考えて、リディアは過去に思いを馳せるのをやめた。

 

「でもよ」

 

 エレン達の動きが鈍くなってきた頃、コニーがリディアに話しかけてきた。

 

「さっきの話の続きになるけど、お前、本当にどうするんだよ」

 

 さっきは爆笑していたコニーが、今度は真剣な顔をしている。

 

「巨人の力を奪うことについては、ちゃんと納得してるよ。たとえ継承者が誰になっても、それで私の復讐は終わり」

「そうじゃなくて。鎧の巨人との戦いが終わったら、お前どうすんの? って思って」

「どういうこと?」

「俺はお前が心配だよ。なんか、前のヒストリアみたいになっちまわねーかって」

「……」

 

「んー! んー!」

 

 サシャのもだえる声で会話が途切れた。リディアはサシャの口を拘束していた布を外す。

 

「私の肉はっ!」

「はい」

 

 リディアが余らせていた肉の一切れを見せると、サシャは全力で頭を動かしてそれを奪い取った。

 

「ありがとうございます……ありがとうございます!」

「もう残ってないからな」

「うぅ……そんなひどい……」

 

 コニーやサシャと話している内に、エレンとジャンの乱闘という余興は強制終了となっていた。

 

「片付けしようか。あと掃除」

「もうそんな時間か」

「あと、さっきの話だけど」

 

 リディアが続ける。

 

「私はきっと大丈夫。話してなかったけど、本当はもう一つあるの。調査兵団に入りたかった理由」

 

 コニーとサシャが、リディアの話に耳を傾ける。

 

「父が調査兵団の兵士だった頃、壁の外で行方不明になって彷徨っている人がいるなら、その人を助けたいって言ってた。その遺志を継ぐことが、私の夢。私には復讐以外の目的がある。だから、大丈夫だよ」

 

 サシャが肉を咀嚼しながら、純粋に頷く。

 

「はー、行方不明の人ですか……」

「うん。壁の外にいる迷子を見つけるの」

 

 一方で、リディアの話を聞いたコニーは微妙な表情を浮かべていた。

 

「……なぁ」

「なに?」

「それ、変じゃねぇ?」

 

 

「壁の外で彷徨ってる人って、そこら中をうろついてる巨人だって当てはまるわけだろ」

「あ……」

「確かにそうですね。それに、馬も武器もない状態で人間が生き残るのは難しいって、私たちもこれまでの戦いで散々実感してきたわけですし……」

「リディアの夢を否定したいわけじゃないけど、なんか、矛盾してんなーと思って……」

「……」

 

 

「ほんとだ……」

 

 リディアは立ち尽くした。

 これまで全く気付いていなかった盲点。そうだ、この話には根本的な矛盾がある。父の言葉をそのまま信じ、疑問を持たずに受け入れてきた自分自身に、初めて違和感を覚えた。

 もし壁の外の迷子が巨人だとしたら、自分は何を救おうとしているのか。巨人を殺すことと、迷子を救うことは、相容れない行為なのではないか。今まで抱いていた確信が、砂のように崩れていく感覚に襲われた。

 

「だ、大丈夫ですよ。まだ壁の外をしっかり探索したわけじゃないんですから!」

「まぁ、人間に戻す手段があるって言うんなら、救いたいって気持ちもわかるけどな」

 

 リディアは、コニーがラガコ村の母親のことを思い出しているのだろうと思った。

 

「とりあえず、さっきお前も大丈夫って言ってたし、今は一旦その言葉を信じる。でも、何かあったら俺らに相談しろよ、絶対に。よし! 片付け、始めるか」

「そうですよリディア……そして、あの! 手と体の拘束も解いてもらえませんか!?」

 

 巨人の正体が人間だとわかった今、壁の外にいる迷子という言葉は、普通に考えれば、壁の外を彷徨う巨人という意味にしかならない。

 鎧の巨人を殺すこと、壁の外の迷子を救うこと。この二つは、両立しない夢なのかもしれない。

 

「……ん!」

 

 バシッと自分の両頬を叩く。

 自分には変な癖がある。自分の抱いた思いに固執してしまう頭の硬さ。そのせいで、こんな簡単な矛盾にも気が付かなかった。

 

「うわっ、何ですか急に」

 

 拘束から解放されたサシャが、そんなリディアを見て少し引いていた。

 

「なんでもない。決意表明」

 

 リディアは笑顔を見せたが、その目は笑っていなかった。

 内側では激しい葛藤が続いていた。父の教えと自分の目的、復讐と救済――相反する思いを抱えたまま、明日の戦いに臨まなければならない。それでも今は、一つの目標だけを見据えることにした。

 

 あくまでも今の目標は、鎧の巨人への復讐を果たすこと。たとえ自分の手で直接殺せなくても、その巨人の力が失われれば、復讐は成立する。それが終わった後のことは、その時考えればいい。

 復讐さえ果たせれば……きっと、大丈夫。リディアは、自分にそう言い聞かせた。

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