いつもブローチでマントを留めていたが、今日だけはそれもポケットの中にある。
ウォール・マリア奪還作戦当日。誰がエレンなのか分からないようにするために、少しでも特徴を消さなければならない。
いざたどり着いた故郷は、静寂に包まれていた。敵の姿が見当たらない。リディアはハンジ達に従い、エレンの硬質化が滞りなく進んだことを確認した。
ここまで何も起きていない。……あまりにも静かすぎる。そう思いながら内門に向かって移動していると、作戦中止の煙弾が上がった。リディアも壁の上に散らばって待機するよう命じられ、その立ち位置はアルミンのすぐそばだった。
「おい、あんた」
壁の上でリディアは、一人の兵士に声を掛けられた。彼はかつて、ウォール・ローゼ内でリディアが巨人の手から救い出した兵士だった。
「久しぶりだな。あの時は本当に助かった。ありがとよ……ところで、隣、手伝ってくれないか」
そう言って兵士は壁面の調査に向かった。リディアが目配せをするとアルミンも静かに頷いたので、立体機動装置を壁の上に固定し、リディアも壁面の調査に加わることにした。
リディアは壁をブレードで軽く叩いた。反応はない。
もう一度叩く。変化はない。
三度目も、やはり異常は――ない。
「ここに空洞があるぞ!」
異変を発見した隣の兵士が煙弾を上げた、その直後だった。壁の中から現れた影は、彼の腹を、鋭い刃物で貫いた。
「危ない!」
隣の兵士が腹を貫かれたその瞬間、リディアは咄嗟に隣に飛び出した。落下していく兵士に手を伸ばす。彼を抱え、落下から救うために。
それが間違いだった。
落下する兵士を確保するより先に、リディアは横から、腹部を切りつけられた。
振り向くと、壁から現れたのはライナーだった。
腹を貫かれた兵士はまっすぐに壁の下に落ちていく。そしてリディア自身も体勢を崩す。その時、壁の上に固定していた立体機動装置のアンカーが、片方だけ外れたのがわかった。
落ちる。
いや、外れたのは片方だけ。まだ、もう片方のアンカーが身体を支えているから、急げば体勢を戻せる。急いでワイヤーを回収して、壁のどこかに突き刺せば……
リディアは空に手を伸ばした。その瞬間、ほんの一瞬。ライナーと目が合った。
リディアの脳裏に、訓練兵の頃の記憶が蘇る。
それは、初めての立体機動訓練のとき。木から木へ移動しようとするリディアが狙いを外して落下しそうになったときのこと。
大丈夫かと言って、リディアの体ごと拾い上げてくれた――あの頃のライナーの姿が思い出された。
「リディア!」
アルミンが叫ぶ。
間髪入れず、リヴァイが壁の上からライナーに切りかかった。しかし、仕留めきれない。地に落とされたライナーが巨人化し、地面には爆風が巻き起こる。
奇しくもその風は、リディアの命を救うことになった。爆風の勢いで少しだけ体が持ち上がり、その風の流れに乗って、体勢を持ち直す。すでにワイヤーは回収できている。再び、立体機動装置を壁に向かって解き放つ。
「……っ!」
アンカーを射出し、近くの壁に飛び立った。体勢を安定させると、腹部からボタボタと血が溢れていた。立体機動の衝撃が、容赦なくその傷口をえぐる。
それでもリディアは再び立体機動に戻り、なんとか壁の上まで戻った。
そこから地面を覗き見る。ライナーに腹部を貫かれた兵士の姿は、もうどこにも見えない。かつて巨人の手から救いだした兵士を、もう一度助けることはできなかった。
壁の下に、鎧の巨人が見える。
動きを止めても、腹部からの出血は止まりそうにない。己の身体が、重力に逆らった反動を与えているかのようだった。リディアは自分のマントを破き、止血のためにそれを腹部に巻き付ける。
兵士たちが、周囲の様子を伺うために慌ただしく走る。その瞬間、もう一体の巨人が現れた。
今度は、獣の巨人だ。
エルヴィン団長の指示はまだか?
リディアは片膝立ちで腹部を押さえながら、町の様子を見る。鎧の巨人が、壁をよじ登り始めている。
「リディア」
ハンジがリディアに駆け寄る。
「その身体で雷槍を扱うのは無理だ」
「……はい」
その言葉が意味することは一つ。
今のリディアには、鎧の巨人と直接戦闘するような力がない、ということだった。
エルヴィン団長が指示を発する。リヴァイ班とハンジ班は鎧の巨人を仕留めるように、と。負傷したリディアは、そこに加わることはできない。
「君はあちら側で、馬を死守するんだ。新兵たちを頼んだよ」
「……はい!」
腹の傷を押さえながら、リディアはハンジとは別方向へ飛び降りた。
「こんなところで、死んでいられるか……!」
今、ここで無駄死にするわけにはいかない。
まだ何も成し遂げていない。リディアは痛みを押し殺し、死への恐怖を怒りに変えていった。
馬を引く新兵達を守り、彼らに進行方向の指示をする。もっと前方ではディルク、マレーネ、クラース班が小型の巨人討伐をしていたが、そこで取りこぼされた巨人を、リディアは次々に狩っていった。
「マルロ! 馬を西側へ!」
「あ、あぁ……わかった」
「向こうに3、4メートル級が来てるぞ!」
「クソ……私がやる!」
傷口から血が止まらない。さっきからずっと、頭がフラフラしている。
今、どうやって動いているのか?
ここは現実か、幻か、それとも地獄なのか?
戦争という異常事態が巻き起こす強烈な使命感は、脳の強烈な興奮に繋がり、リディアに傷の痛みを忘れさせた。
目の前に現れた比較的小柄な巨人に、リディアは上空から強烈な一撃を加える。そのまま勢いを落とすことなく、流れに身体を任せて、その背後にいた巨人を連続で二体狩る。
倒した巨人が新兵たちの方向に倒れそうになったので、すでにうなじを削ぎ落とした巨人に追加の斬撃を加え、転倒方向を変える。
リディアは立体機動中、出血のことも忘れて、ずっとハイになっていた。
しかしそれも、獣の巨人による投石が身体を掠めるまでのことだった。
砲弾のような無数の石が衝撃波を伴い、その投石は、縦横無尽に空を駆けるリディアを、ついに地へ叩き落とした。
「落ちる!」
誰かの悲鳴が聞こえた。
「……っ、はっ……」
一瞬だけ気を失っていたようだった。意識を取り戻したとき、リディアは地上で仰向けになっていた。
比較的後方にいたおかげか、投石による致命傷は避けられたらしい。下唇をかみながら体制を変え、膝立ちで起きあがろうとすると、再び大砲のような音がした。リディアは頭を抱えて、その場にしゃがみこむ。
「くっ……」
倒れていたのが家屋の陰だったおかげで、なんとか難を逃れた。
だが、腹部からの出血は止まらない。それに加えて、地面に叩きつけられたときの衝撃が、肋骨のあたりに激しい痛みを追加する。落下したときに打ちつけたのか、手首の動きもどこかおかしい。頭部から流れる一筋の血が、頬を伝って首筋まで流れた。
包帯代わりに巻きつけていたマントは既に、元の面影を残さないどす黒い赤に染まっていた。
砲弾のような投石を逃れ、意識を朦朧とさせながらも、リディアはなんとか立ち上がった。
何度も膝の力を失いながらも、ゆっくりと歩き出す。団長たちのもとへ、いかなければ。
まだ、この命に――使い道があるうちは。
「……お前は」
「無事だったか」
ボロボロのリディアが、エルヴィンとリヴァイの元に姿を現した。リディアは心臓に拳を当て、二人に敬礼する。
その間も、大砲のような投石は続いている。
「やれるか」
「はい」
リヴァイは、何を、とは言わなかった。
「どんな指示でも、死に向かう準備はできています」
「そうか」
リヴァイは、全身を真っ赤に染めながらも顔面蒼白なリディアの姿を見た。この出血では、どのみち長くはない。
一方エルヴィンは、リディアの姿に、その父の面影を見ていた。
思い出すのは、二人で何度も酒の席で語り合った夢の話。
この娘は、何も知らない。それでも彼女の父は、夢を諦めて、仲間を生かすことを選んだ。
「突撃!!」
エルヴィンが叫び、兵士たちはまっすぐに馬で駆ける。力強い声が特攻の悲壮さを覆い隠すように、彼らを熱く鼓舞する。兵士たちの力強く、そして悲痛な叫びが、戦場の空気を切り裂いていく。
しかしリディアには、誰の声も聞こえていなかった。エルヴィンの声すらも。頭が朦朧としていて、周りが何を叫んでいるのか分からない。
でも、状況だけは理解した。
今から、死ぬのだ。
これが最後の任務になるのだろう。そう思うと、不思議と恐怖はなかった。
生まれてきた意味を、兵士としての役割を、この瞬間に託すのだ。このろくでもない人生に、ようやく何かを残すことができる。
もはやリディアには、馬を駆る力すら残っていなかった。
特攻しているのは馬であり、リディアはただ必死にしがみついているだけだ。
巨人を何体も薙ぎ倒していた瞬間のような興奮は、もはやない。頭の中に靄がかかって、特攻前のエルヴィンの演説すら思い出せなくなってきた。
そもそも、どうして自分はこんなところで戦っているんだっけ?
何のために、誰のために……こんなことをしているんだっけ……
「頼んだぞ、期待の新兵」
脳裏に浮かんだのは、ハンジ班の先輩達だった。
その時、リディアのすぐ前方を走っていたエルヴィンが、その馬ごと獣の巨人による投石に直撃し、倒れた。
リディアの馬がそれに足を取られ、バランスを崩したリディアは放り出されるようにして、落馬した。
「……っ!」
着地に失敗し、全身を強く地面に打ち付ける。意識が遠のく中、わずかに残った視界には空と、兵士たちが撃ち上げた煙弾が広がっていた。二発目の投石が来る合図だ。
地面に倒れているリディアも、獣の巨人に向かって煙弾を撃ち上げる。その行為にもう意味がなくても、誰の助けにならなくても。
ここまでか。リディアは自分の死を悟った。
血が足りない。出血は、いつまでも止まりそうにない。もう、動けない……。
再び、獣の巨人の投石があった。
近くで乗り手を失い暴走していた馬が、投石に直撃した。上空から覆い被さるように、倒れこんでくる。
(……潰される!)
咄嗟に横に転がった。馬は、すぐそばの地面に叩きつけられた。
リディアはかろうじで下敷きになることを避けたものの、無理に体を横転させたことが仇になったのか、思わず口から吐血した。あちこちの骨も折れているに違いなかった。
周囲の音が聞こえなくなった。何も見えなくなって、意識が遠のいていく。
生暖かくてむせかえるような血の匂いで意識を取り戻した時、あたりはすっかり静まり返っていた。
意識を取り戻したとはいえ、酷い出血で頭は朦朧としており、全身の骨や筋肉が痛みに蝕まれ、起き上がることもできない。仰向けのまま、かろうじで天に手を伸ばすことしかできなかった。
「生きてる……?」
今、どんな状況なんだ?
獣の巨人は、鎧の巨人は……どうなった?
近くに目をやると、ポケットから転がり落ちたであろう、リディアのブローチが転がっていた。
そしてその先に……エルヴィンが倒れている。
「団長……!」
リディアは歯を食いしばり、なんとかうつ伏せになった。そして、エルヴィンのもとに必死で這い寄る。その肩が少しだけ動いた。――まだ生きている!
「誰、だ……」
倒れたままのエルヴィンが、震える手を伸ばした。その指先に触れるようにして、リディアのブローチが転がっている。
そしてエルヴィンがブローチに触れた瞬間、リディアははっと息をのんだ。
エルヴィンが、彼女の父の名を呼んだのだ。
「何をしてるんだ……娘が、帰りを待ってるん、だろう……」
リディアはうつ伏せのまま、エルヴィンの言葉の続きを待った。
「お前、くらいだよ……この歳になっても、あんな夢を一緒に、語れるのは……」
「……夢……?」
こうしている間にも、リディアの出血は続いている。それでも彼女は、なんとか意識を保とうとした。エルヴィンの言葉の続きを聞きたかった。
「……壁の外には、まだ人類が生きているとか……会ってみたい、だとか……」
「え……」
リディアは這いつくばったまま硬直した。
「そのために調査兵団に入るなんて……本当に、変わり者だったな……お前は……」
そんな話、知らない。父から聞いたことがない。
「……周囲には、黙っていろ……特に娘には、そんな話、するなよ……」
「俺たちのようにしては……いけないからな……」
そこまで言って力尽きたのか、エルヴィンは黙ってしまった。
うつ伏せのまま、もう、喋らない。
リディアも、動けなかった。
自分の中の何かが、壊れていくような気がした。
「団長……エルヴィン団長!」
リディアは這いつくばりながら叫んだ。
「私です、リディア・ノイマンです!」
父の遺志を継ぐことが、自分の生きる意味だと信じてきた。そんな意志が今、崩れ落ちそうになっている。
「死なないでください、私たちにはまだ、あなたが必要なんです!」
リディアは必死でエルヴィンに這寄ろうとした。
「私が兵長のもとに連れて行きます! 皆を導いて、そして……」
しかしその身体がすでに限界を迎えているのか、まるで前に進めない。血と砂と涙交じりの瞳で、必死に叫び続ける。
「壁の外に、人がいるというなら……その話と、父のことを、もっと……」
目の前のエルヴィンは、ついに動くこともなくなった。
リディアも地面を這うような姿勢のまま、そこから動けない。
リディアの父は、壁外調査で行方不明になった兵士を探していたわけではなかった。
そんな話は、憲兵に睨まれないための建前に過ぎなかったのだ。
壁の外に人間がいる?
それは、壁の外の迷子のことではない。
外で生活を営む人間の存在を父は信じていて、ただそれを探しに行きたかったのだ。
妻子がありながら調査兵団に居続けたのは、高尚な目的のためなんかじゃない。
妻よりも子供よりも、自分の夢のためだったのだ。
仮にも調査兵団の分隊長であったなら、壁の外で彷徨う人間が生き延びられるわけがないと、理解していたはずだ。そのくらい、自分だってもう知っている。
どれだけの兵士を見送ったか。
どれだけの遺体を回収したか。
どれだけの遺体が回収できなかったか。
母の遺体がどうなったか。
幼かった娘はもう、全てを知っているのだ。
それでも、父の遺志を継ぐのが自分の夢でもあった。
壁の外で行方不明になった人を、探すこと。
壁の外で迷子になっている人を、見つけること。
……すべて、嘘だったのだ。
リディアがずっと信じてきた言葉は、父が自分の夢を叶えるための方便でしかなかった。
「う、うぁ……」
リディアは地面に額を乗せ、はいつくばった姿勢のまま……泣いた。
信じてきた父に、こんな形で裏切られるなんて。
「嘘だ、嘘だ……嘘だ!」
そして何度も、己の拳を地面に叩きつける。
母は知っていたのだろうか。「知らなければ、知ろうとしなければ生きていける」と言った、あの言葉はそういう意味だったのか。知るべきでないと言っていたのは、壁の外の世界ではなく、父の本願のことだったのだ。
結局、この世界でリディア一人だけが、叶わぬ矛盾した夢を見ていた。
自分の人生の指針すら、幻想に過ぎなかったのか。
何のために戦ってきたのか。何のために生きてきたのか。すべてが崩れ去っていく。
父は、母がどんな死に方をしたかも知ることなく、夢見るままに、死に至った。自分たち家族のことなど、顧みることもなく――!
「あああああああああああ!!!!!!」
リディアは地面に拳を叩きつけるのをやめ、その手で頭をかきむしって慟哭した。
その声は静寂に響き渡ったが、それを聞いているのは馬と兵士の死体ばかりだった。
***
ここにはもう、死体しかないと思っていた。
フロックは一人、ふらふらと生き残りを探している。
だがもう、足元の死体に目を向ける気力すら残っていなかった。
最初のうちは、倒れている兵士の肩を揺さぶって、その生死を確認していた。でも今や、そんなことをする必要はない。そんなことをしなくても……もう、全員死んでいる。
それでも彼は、生き残りを探していた。彼にできることは、他に何もなかった。
誰かの泣き叫ぶ声が聞こえたが、また幻聴かもしれない。
ここは現実なのか、地獄なのか。そもそも自分は、本当にまだ生きているのか?
「……っ、うぁ……」
しかし、その耳に届いた声は現実だった。
無数の死体の中、倒れながら慟哭している兵士を、フロックはついに見つけた。
「おい、お前……リディアか!?」
泣き叫ぶ声は、同期のリディアのものだった。
酷い有様だった。
全身が血に塗れ、片足は不自然な方向に折れ曲がり、その顔も体も、泥と血に汚れていた。
だが、まだ生きている。生きて、泣いている。
「死ぬな! まだ死ぬな!」
震えながら叫ぶフロックに、リディアは、まるで遠くから帰ってきたかのような弱々しい声で答えた。
「……フロック」
顔は涙と血でぐしゃぐしゃだった。それでも、フロックの声に反応した。
「やっと、生き残りを見つけた……」
「……他の人たちは……?」
震える声。その問いを聞いた瞬間、フロックの胸が締めつけられる。
「誰も……いない。全員死んだ」
途端に、リディアの瞳から力が抜けた。絶望はとうに底を尽きたはずなのに、感情は更に彼女に追い討ちをかけた。
「わ、私……どうして生きてる、の」
「喋るな、今から手当する!」
「いいよ、もう……」
「だから喋るなって! ……お前を兵長のところに連れていく、それでいいな!?」
「私……私なんか巨人にしたって、意味ない。何もできない、何も変えられない」
リディアの指先が小さく震え、その手が虚空を掴もうとする。声は嗚咽交じりだった。
「生き残ったことに、意味なんてない。このまま、死なせて……もう、無理だよ……」
「そんなこと言うな!」
「フロック……私のことは放っておいて」
フロックはリディアの懇願を無視した。そして慌てながらも、てきぱきと応急手当の準備を始める。
「訓練兵の頃、ドベだなんだっていつもからかって……悪かったよ。だからどうか、生きて……生きてくれ……」
フロックはリディアのマントをはぎとり、近くに倒れている別の兵士のマントを包帯に代用した。圧迫だけで止められるような出血だとは思えないが、意識があるなら、見た目ほどリディアの傷は深くないのかもしれない。
「死ぬな、まだ死なないでくれよ……」
「私……本当に、みじめだ……」
必死なフロックにその身を委ねながら、リディアが独り言のようにつぶやく。
「鎧の巨人をこの手で殺せると思っていたこと、壁の外に迷子がいて、それを助けられるって信じてたこと……」
「……」
「全部、叶えられない」
その呟きは、まるで誰にも届かない独白のようだった。
「鎧の巨人は殺せない、壁の外に迷子なんていない!!」
リディアが急に声を荒げたが、フロックは何も言わず、止血と怪我した手足の固定を続ける。
「それに今も、仲間の死より、自分の絶望ばかり考えていて……こんなの、父と同じ……」
「いいから、静かに……」
「これは、報いだ。視野の狭い私への報い。親の仇に恋をして、味方の仇を親友だと思いこんで、本当に無様で、愚かで……あはは……」
その笑いは、涙混じりで、崩れていた。
「……私にはもう、何もない……」
「だからもう、いいって」
「もうこれ以上、生きられない……」
「リディア! ちょっと黙っててくれないか!?」
黙っていたフロックが、突如叫んだ。
「生きられないとか言わないでくれ! 今、俺にとってお前が唯一の生存者なんだ! 今ここでお前を助けられなきゃ、俺にだって生きてる意味なんてない! お前一人のわがままで、俺の生きる意味まで奪おうとしないでくれよ!!」
フロックの言葉を聞いたリディアは、一瞬だけ目を見開き、その口を閉じた。
「……ごめんなさい……」
自分のような無能な兵士の命に、価値があるとは思えなかった。
でも、この荒涼とした地で、自分を必要とする人間がいるという事実が、わずかに彼女の心を動かした。もはや信じるものがなくなった今、彼の叫びだけが現実味を帯びて聞こえた。
そのとき、リディアの視界の端で、何かが動いた。倒れこんだままのその肩が、わずかに上下したように見えた。
「フロック、あっち……」
リディアは震える指でその先を指した。
フロックが、リディアの指差す先に視線を向ける。その指先は、息も絶え絶えのエルヴィン団長へと向かっていた。
「エルヴィン団長……!」
「さっきまで喋っていたから……まだ息があるかもしれない」
リディアは呟く。その声はか細く、今にも消え入りそうだ。しかし、わずかに、確かに希望を感じていた。
「私のことはいいから、団長を……」
その言葉に、フロックは目を見開く。
「わっ……わかった」
フロックはすぐさまエルヴィンのもとに駆け寄った。
フロックが去った後、リディアは自分の状態があまりにも酷いということに改めて気がついた。フロックが手当てをしてくれたものの、おそらく骨も、内臓もやられている。
フロックが、エルヴィンの手元にあったブローチを見つけて、リディアに投げ渡してきた。
「おい、これ! お前のだろ!」
ブローチを片手で受け取った後、再び意識が遠のいていくのが分かった。
リディアの視界の端で、フロックはエルヴィンを見てしばらく何か葛藤していたようだったが、すぐに彼を背負ってこの場所を離れていった。
ブローチとリディアと、大量の死体だけがここに残った。
リディアは血に濡れた右手でブローチを握りしめると、それを力任せに地面へ叩きつけた。
「こんなもの!」
何度も何度も、強く叩きつけた。
「なんの意味もない! こんな……っ……こんなもの……!」
だが、傷ひとつ付けられない。どれだけ叩きつけても、どれだけ叫んでも、変わらない。
ブローチが、過去は決して変わらないと告げているかのように感じた。
そう、過去は変えられない。母の死も、父の嘘も、喪失した仲間も、偽物の恋も、友の裏切りも……そして、自分の愚かさも。
拳を叩く動作が、徐々に弱くなっていく。身体から力が抜けていく。
どれだけ叫んでも、何も変わらない。
それを悟ったとき、怒りは嘘のように冷めていった。
残ったのは、ただの空虚だった。悲しみでも絶望でもない。全てを手放す、静かな虚無。
力を振り絞って仰向けになると、視界に血の赤が混じりつつ、それでも空はとても明るかった。
泣き疲れたリディアは、改めてもう生きられないと思った。ただ静かに、この空に溶けてしまいたかった。
目を閉じれば、死んでいるかもしれない。
そう思い、静かに眠りについた。
フロックにとっての主人公は、同じ戦場を生き延びた唯一の仲間であると同時に、彼女の本心からの慟哭を聞いたのが自分だけ……という複雑な存在になってしまいました。