08 死に損ないの兵士
夕陽が兵舎の窓から差し込み、調理場に赤い光を投げかけていた。
訓練兵のフロックは、適当に食事当番の仕事をこなしていた。彼だけではない。周囲の訓練兵たちも、手を動かしながら、お喋りに夢中になっている。
「食べるものが減ってるからな……口減らしで兵隊送りさ。ひでぇ親だよなぁ」
「私もね、手先が器用じゃないし、家事もできないし、それならいっそ兵士にでもなれって家から放り出されて」
それぞれが様々な事情を抱えて訓練兵になっている。食事を作りながら過去を語り合うのは、ここでは珍しくない光景だった。
「リディアは何だっけ?」
会話にも参加せず黙々と芋の皮を剥いていたリディアに、ミーナが優しく声をかけた。フロックは手を止めずに、耳だけそちらに傾けた。
「母が鎧の巨人に殺されたから」
「あ……」
調理場が静かになって、フロックも思わず顔を上げた。
思い出したのは、エレンとリディアが二人して調査兵団志望だと熱く語り合っていた日のこと。あのときの二人の目は、周りが引くほど異様な光を放っていた。
「憲兵団も駐屯兵団も興味ない。私はただ、調査兵団に入って鎧の巨人を殺したい」
食堂に沈黙が落ち、ナイフで野菜を切る音だけが響く。
「う、うん……」
「……あ」
ミーナの困ったような声を受け、リディアもようやくこの空気に気がついた。黙々と野菜を切るベルトルトが、驚いたような目でリディアを凝視している。
「えっと、その……殺すのが無理でも、刺し違えてでも、少しでもいいから……とにかく鎧の巨人を傷つけたい」
「そ、そうなんだ……すごいね。なんか……」
リディアは慌てて言い直したが、すでに手遅れだ。ミーナの返事が空虚に響いた。部屋の空気はどんどん凍っていく。
「あいつやばくない?」
「刺激しない方がいいよ」
「調査兵団って……本気で言ってたんだ」
周りでひそひそ声が聞こえてくる。リディアの肩は小さく震えていた。
「ごめんね……なんか、昂っちゃって。変だよね、やっぱ」
「う、ううん、そんなことないよ!」
ミーナが必死にリディアをフォローしようとしたが、取り返しのつかない沈黙が調理場を覆い尽くしていた。
フロックは黙って作業を続けながら、リディアを横目で見た。
――成績不振のドベで、何一つ特技もないのに、大風呂敷を広げるバカ女。
フロックは、彼女の言葉にはまるで現実味がないと思っていた。
(鎧の巨人を殺す? ちゃんと現実見えてんのか?)
フロックは訓練を経て、自分が特別ではないということをすでに自覚し、悟ったつもりになっていた。だからこそ、実力もないのに過度な理想を語るリディアのことを軽蔑した。
(俺は限界を知っている。でも、あいつは違うらしい。自分が特別だとでも思っているのか?)
フロックはさらに滑稽な話を思い出した。リディアがライナーに片想いしているという話だ。一応は秘密ということになっていたが、もはや訓練兵の誰もが知っている。
成績優秀でリーダーシップもあるライナーと、卒業すら危うい落ちこぼれのリディア。身の丈に合わない恋をするなんて、やっぱりあいつは馬鹿だとフロックは思った。
影からは光がよく見えるのだろう。ただ、光の方からはどうだ? 有象無象の影なんか、見えるわけがない。
お前みたいな「影」側の人間が、相手にされるわけないだろ。フロックはそう思いながらも、他の同期と一緒に、応援する振りをしてリディアをネタにしていた。それはある種の残酷な娯楽だった。
食事が終わっても、リディアはなかなか席を立たなかった。フロックは何となくその様子が気になって、誰もいない食堂で思わず彼女に声をかけた。
「よう、大志を抱くリディアさんよ」
その軽い声に、リディアは顔を上げた。目元が少し赤くなっていた。
「どうした。あの後、皆にシカトされたから落ち込んでるのか」
「……別に。そんなことない」
リディアは視線を逸らした。
「そうか? でもさ、せっかく鎧の巨人を殺すって高らかに宣言したんだから、もっと自信持てよ」
フロックは意地悪く笑った。
「私、本気だよ。笑い話じゃない」
「自分の立ち位置も分からないで大口叩くなよ。俺みたいに最初から諦めてりゃ、こんな惨めな思いしなくて済んだのに」
リディアは黙って立ち上がり、去ろうとした。
「おい、逃げんなよ」
彼女の肩を掴んだ。
「現実見ろって。お前が調査兵団に入ったところで、せいぜい使い捨ての兵士にされるだけだ」
その言葉にリディアは振り返り、フロックの目をまっすぐ見つめた。
「使い捨てでもいい。私は鎧の巨人を殺す。それが母への約束だから」
フロックは一瞬、言葉に詰まった。リディアの瞳に映る決意は、あまりにも純粋で、あまりにも馬鹿げていて、そして恐ろしいほど真実味を帯びていた。
「……ハハ、お前、本当に狂ってるんだな」
思わず、苦笑いを浮かべた。
「死にたいなら、他の方法はいくらでもあるぞ」
「死にたいわけじゃない。ただ、約束を守りたいだけ」
そう言ってリディアは静かに立ち上がり、食堂を後にした。
残されたフロックは、胸の奥にどこか居心地の悪いものが渦巻くのを感じていた。それは「生きる意味」を明確に持っている彼女への嫉妬なのか、恐怖なのか、それとも羨望なのか、彼には分からなかった。
理想なんて持たず、ただ生き延びることだけを考えていたフロックと、不可能を約束するリディアとの間にある深い溝。
訓練兵の頃から、二人の間には決して埋められない距離があった。
***
「……生きてる」
リディアがまぶたを開けると、そこには殺風景な天井があった。
頭がぼんやりしている。痛みはある。でも、なぜか心の中は妙に空っぽだった。意識はまるで霧の中を彷徨うようだった。生きているという事実と、生きているべきではないという感覚が入り混じり、何も感じない空虚さだけが胸の中に広がる。
そんな中、テーブル脇でリンゴをかじろうとしていたサシャが、はっと目を丸くして叫んだ。
「良かったー! 全然目を覚まさないから、本当に死んじゃったかと思ってたんですよ!!」
サシャが手元のリンゴを放棄して、ベッドの上のリディアに飛びついた。彼女の頭の包帯が、リディアの視界いっぱいに広がる。サシャもかなり大きな怪我をしているのだ。
「痛っ!」
「ああっ、すみませんすみません!」
サシャは慌てて飛び退いた。リディアはベッドの上に投げ出されたリンゴをそっと拾い、そばにあるテーブルの皿の上に戻した。
サシャの大きな声に釣られるようにして、104期生たちが次々と部屋に駆け込んできた。
「リディア、よかった……」
ミカサが微笑み、ベッドに駆け寄って手を握る。アルミンが息を切らして走り寄り、ジャンとコニーも安堵するようなぎこちない笑みを浮かべた。エレンだけは少し遅れて、静かに部屋に入ってきた。そして、そこにフロックの姿はない。
リディアはアルミンから奪還作戦の顛末を聞いた。
「生き残ったのが……たった、これだけ……?」
呟いた声は、誰にも届かなかった。
生存者は、自分を含めた十名。
みんなが笑顔でリディアの無事を喜んでくれている。それなのに、当人がその輪に入れない。
心が、あの戦場に残ったままだった。
世界はまるで戦争が終わった後のように振る舞っているが、リディアの中では何一つ終わっていない。砲弾のような投石の音は耳にこびりついたまま、今も離れない。
突撃という団長の声。
視界をくらます煙弾。
血と臓物と土の臭い。
「……っ!」
思わず両耳を塞いで俯く。
(……私、ここにいてもいいのだろうか)
皆の無事を喜びたかった。でも、あまりにも犠牲が多すぎる。
自分だけが、あの戦場に取り残されているような気がした。
勲章授与式は数日前に終わっていた。ベッド脇の小さなテーブルには、リディアに授与された勲章のペンダント付きループタイと……ブローチが置かれている。
リディアはブローチを睨みつける。あれだけ傷つけようとしたのに、まだ壊れていなかったのか。
すると、無意識に腹部を押さえるリディアを見て、エレンの目が鋭く光った。仲間たちより一歩後ろにいたはずの彼が、リディアに向かってズカズカと歩み寄る。
「お前それ、ライナーにやられたのか」
低い声でエレンが問う。そしてリディアが何かを答える前に、エレンは唐突に彼女の服の裾を掴んだ。
「エレン、何してるの!」
ミカサが声を張り上げる。ジャンも「おい!」と続く。
だが、エレンは振り返らない。彼は乱暴に服を捲り上げ、仲間たちの前にリディアの傷痕を晒した。包帯越しでもわかる。腹に、深く抉られた刃の跡。
室内に、息を呑む音が満ちる。誰もが言葉を失った。
ミカサがそっと手を伸ばし、リディアの服を静かに戻す。
「そうだけど……関係ない」
リディアはその言葉に自分でも驚いた。かつての自分なら、怒りと悔しさに涙すら流していたはずなのに。今はその痛みすら、ただ虚無の一部になっていた。
傷痕を見たエレンの表情には、怒りと悔しさ、そして決意のようなものが滲んでいた。
「私だって、逆の立場なら切りつけてる。エレンたちもあの戦場で、そうしたんでしょう?」
「……」
「だから仕方がないんだよ。今さら、どうしたの?」
エレンは眉間に皺を寄せ、リディアの言葉に納得していないような顔をした。
***
時間は少し遡る。
リディアの意識がまだ戻らない頃、勲章授与式を控えたフロックは、仲間たちに奪還作戦での出来事について淡々と話していた。
「生き残ってる兵士がいるなら、もう誰でもよかった」
控えめな語調だが、彼の内に籠もるものは強かった。
「とにかく誰か……生きてる奴に会いたかった。生き延びたのは俺だけじゃない、そんなわけない、他にも生存者がいるはずだって……」
「人生で一番の喜びって知ってるか? 俺はあの時、初めて分かったよ」
エレンたちは静かに話を聞いている。
「無数に散らばる静かな屍の山の中で、生存者に出会うこと。それに勝る喜びなんて、この世に存在しない」
「……リディアやエルヴィン団長を見つけた時、心の底からそう思った」
誰もが、心の中で同意した。
屍の道を歩いてきたのはフロックだけではない。ウォール・マリアを奪還するために、二百人近い犠牲を払ったのだ。だからこそフロックの言葉とその思いは、エレン達にも強く響いた。
しかし彼らの共感も、ここまでだった。
「でも、団長は選ばれなかった。俺が必死で助けたリディアだって、今やただの死に損ないだ」
「そんな言い方……」
ミカサが一歩前に出たが、アルミンが肩を押さえて制止する。
「リディアが戦場で何を言って倒れていたか知ってるか?」
「……誰も知らねぇよ」
ジャンが返事をする。
「あいつ、もう生きられないって言ったんだ」
それを聞いた瞬間、フロック以外の全員が言葉を失った。
コニーがすぐに反論する。
「嘘言うな、そんなわけないだろ。あいつは作戦の前、自分は絶対に大丈夫だって……」
「嘘じゃない。リディアはもう、自分には何もないと言った」
フロックは簡単にコニーの反論を封じてしまった。
エレンもまた、その言葉が信じられなかった。フロックが嘘をついていると思いたかった。エレンの知っているリディアなら、そんな弱音は吐かないはずだった。
「俺の命だって、何のために残されたのか……」
フロックは淡々と続ける。
「悪魔になれるのは誰だ。今後、こんな世界を一体誰が率いていける? 俺の生きる意味なんてとうに失われた。お前らがエルヴィン団長を選ばなかったからな」
「もう……いいだろ。その話は」
ジャンが止めようとしても、フロックは続ける。
「俺みたいな、自分じゃ何もできない腰抜けに与えられた、唯一の使命だったんだよ。まぁ、こんなこと……どうせお前らに言ってもわからないか」
「……俺が兵士として残した成果は、リディアという生き残りを一人救ったということだけ……」
フロックは自分の掌を眺めながら、静かに呟いた。
「……今後、リディアの面倒は俺が見るよ」
「は?」
唐突なフロックの宣言に、ずっと黙っていたアルミンも思わず声を出した。
「リディアが目を覚ましたところで、もう今まで通りじゃいられない。心はあの戦地から帰れない。だからきっと、現実に打ちのめされて……また死にたくなるはずだ」
フロックの目は真剣そのものだった。
「俺にはあいつの気持ちがわかる。だからこそ死なせたくない。この無意味な世界で、何もできずにただ戦い続けると言う地獄……それを理解できるのは、もう俺たち二人しかいないんだよ」
エレンがフロックに詰め寄り、ミカサまでもがフロックの説得を試みようとする。
「……何言ってんだ。お前、正気か?」
「生き残ったのは、あなたたち二人だけじゃない。私たちだっている。だから、閉じこもる必要はない」
「違う」
しかし、誰の声も彼には届かなかった。
「俺に残ってるのはリディアだけなんだ。部外者は口出ししないでくれ」
「部外者?」
アルミンが聞き返すとほぼ同時に、ジャンがフロックの胸ぐらを掴んだ。
「おい、今のどういう意味だ。俺たち全員、同じ仲間だろうが!」
「そのままの意味だ」
胸ぐらを掴まれても、フロックの目は空虚なままだった。
「俺たちは、影だ」
「お前らみたいに勇敢で優秀な、選ばれた兵士なんかに……入って欲しくない領域があるんだよ」
***
フロックは、同期が部屋からはけたのを見計らったようなタイミングで病室に現れた。彼らを避けているようにも見える。
フロックは先ほどサシャが放り投げたリンゴを手に取ると、「食べるか。切るぞ」とリディアに尋ねた。
「いいよ、そんなことしなくて。丸かじりする」
「いや、俺がしたいんだ。皮も剥くか?」
「じゃあ……お願い」
フロックはベッドの横に腰掛け、ポケットから取り出したナイフで器用にリンゴの皮を剥き始めた。
「団長は駄目だったが、お前を救助することはできた。戦場から瀕死のお前をここまで連れて帰ったのも俺だ」
「……本当に、ありがとう」
礼を言うしかなかった。でも、その言葉がフロックを救ったとも思えない。
「あの日、無数の屍の中、大声で叫ぶお前を見て……俺は、ようやく自分もまだ生きてるんだってことが分かった」
フロックはリディアの方を見ることなく、ただ淡々とリンゴの皮を剥いている。
「俺たちに何かを変える力なんてない。それでも俺はお前を助けた。お前は俺に借りを作ったんだ」
「……」
「だから、もう生きられないとか言うな」
「……そうだね。ごめん」
皮を剥かれ、小さく切られたリンゴが皿の上に乗せられた。
「ほら」
「うん、ありが……」
差し出された皿にリディアが手を伸ばした、その時。
フロックが急に身を乗り出し、リディアの顔の前に自分の顔を寄せた。
「なあ。俺だけはお前のこと、分かってやれてるよな?」
フロックが、正面からリディアの目を覗き込んでいた。
しかしその目はリディアを見ているようで、まるで見ていない。何か別のものを、リディアの瞳の中に探しているかのようだった。
「お前もこっち側の人間だろ?」
その声は震えていた。まるで、確認しなければ自分が崩れてしまうかのように。
「……こっち、というのは……」
リディアは皿のリンゴに手を伸ばすのをやめ、フロックから身を離し、目を逸らした。
リディアはフロックの言葉の端々に引っかかる物言いを感じつつも、彼の孤独に理解を示そうと努めた。
しかしその一方で、差し出された皿とその上のリンゴに手を伸ばすことはできず、手付かずのリンゴはそのままテーブルの上に寂しく残り続けた。
「そう言えば、もう聞いたか」
リディアはフロックから、知性巨人の寿命が十三年であることを聞かされた。
「お前の復讐は、たとえライナーを殺したところで、最初から果たせない目標だった」
「……」
ライナーを殺したとしても、どこかの子供がその力を継承して生まれてきたら、鎧の巨人への復讐は終わらない。そうなればリディアは継承者を世界中から探し出し、永遠に殺し合いを続けなければならない。
だが今のリディアには、もはやどうでもよかった。
鎧の巨人のことよりも、エレンとアルミンに残された寿命、そしてそれを知って苦しむミカサのことの方が気がかりだった。
「そうだ。団長に挨拶に行く」
ベッドから立ちあがろうとするリディアの腕を、フロックが掴んで引き留めた。
「やめろ。団長がわざわざお前のために時間を作るわけないだろ、俺が報告しておくよ」
「でも、ずっと寝てるわけにはいかないし」
「そんな体で何かあったらどうする? 俺に迷惑をかけるなよ」
「ちょっと……なに、その言い方」
「お前のためだ。リディアを助けたのは、俺なんだから」
フロックはまるで縛りつけるかのように、リディアの手首を離さなかった。それは「だから俺の言うことを聞けよ」と言っているかのようだった。
リディアがフロックを睨むと、フロックもまた同じようにリディアを睨み返す。
二人の間に、埋めようのない溝がある。
フロックの目には、何かが崩れていく焦りのようなものが混じっていた。その指がリディアの手首に食い込み、爪の跡が残る。コントロールを失うことへの恐怖が、その握力に現れていた。
「あ、あのー……」
光のように、扉の隙間から声が差し込んだ。
扉がゆっくりと開き、気まずそうな表情でサシャが顔を半分だけ覗かせていた。その背後には険しい表情で腕を組んだミカサの姿があった。
二人の姿を確認するなり、フロックはリディアの腕を離す。そして無言で部屋から立ち去っていった。
「そろそろ、ハンジ団長が来ますよ」
「ありがとう。正直、助かったよ……リンゴ食べる?」
「いただきます!」
皿の上で手付かずになっていたリンゴをサシャに差し出すと、彼女は嬉しそうに受け取り、さっそくかじりつく。
「フロックの言うことは気にしなくていい」
ミカサとサシャがベッドの横の椅子に座った。サシャはリンゴを頬張りながらモゴモゴと「そうですよ……なんなんですかあの彼氏ヅラは……」と喋っていた。
「エレンたちの話を聞いたよ。父親のことも、地下室のことも……寿命のことも」
「うん……」
リディアがそう告げると、ミカサの声が急に弱々しくなった。
リディアはベッドの端に移動し、腰掛けたミカサの肩を軽く叩く。ミカサは少し鼻を鳴らして黙り込んだが、すぐに喋り始めた。
「エレンの寿命まであと数年しかない。じっとしていられない」
リディアが頷く。
「エレンとアルミンのためにも、私はできることを何でもやる。壁外調査でも巨人の討伐でも、それ以外でも何でも。そしてリディアにもサシャにも、手伝って欲しい」
「もちろんですよ!」
リンゴをペロリと平らげたサシャが即答する。
「でもリディアは治療を優先してくださいね」
「……うん」
返事が鈍い。リディアは小さく頷いたが、目は虚なままで、両手はかすかに震えていた。
彼女の両手が震えていることに、ミカサとサシャはそこでようやく気付いた。……リディアの心はまだ、この場所に帰ってきていない。
それが分かると、ミカサは急に気まずさを感じ、下唇を噛みながら俯いた。
サシャにも気まずさはあったが、この空気を何とかするために、慌てて口を開く。
「馬に乗れるくらいまで回復したら、一緒に私の実家に行きませんか?」
「実家?」
「今は両親が孤児を預かって厩舎をやっているんです。馬以外に何があるってわけじゃないですけど。私もたまには顔を出したいし、そのー……気分転換にはなるかもしれません」
サシャの懸命さに、リディアは思わず微笑んだ。
「厩舎かぁ……行ってみたいな」
リディアがそう言うと、サシャは前のめりになって自分の手でリディアの両手を包んだ。
「ですよね! 約束ですよ、絶対に!」
ミカサはサシャの勢いに少し押されたが、リディアがサシャを見て小さく笑ったのを見て、ようやく安心することができた。
***
瀕死の重傷を負ったリディアが再び馬に乗れるようになるまで、数か月を要した。本来はもっと時間をかけて治療するべきだと医者は主張したが、立体機動などの無理な動きさえ避ければ、リディアは既にそれなりに動けるようになっていた。
腹の切り傷だけは、消えそうになかったが。
今は、ハンジと二人でウォール・マリア内の道を馬でゆっくりと歩いている。
すでに巨人の討伐が完了したとされる区域内のため、リハビリを兼ねた様子見を許可された。立体機動もできないリディアが今のウォール・マリア内を出歩くなど通常なら論外だが、すでに巨人を見かける機会も非常に減っているほか、ハンジにはどうしてもリディアを連れ出したい場所があった。
リディアとハンジの二人は、馬に乗って目的地に辿り着いた。ウォール・マリアよりも更に南にある、その場所。
「……シガンシナ区」
「あぁ」
「エレンの自宅地下室で、例の資料を発見したんですよね」
「今は兵舎で厳重に保管してあるよ」
「私が整理しておきます。モブリットさん、写真と呼ばれたものについては……」
そこまで言って、リディアははっとした。
思わずモブリットに声をかけた。彼はここにいない、いるわけがない。シガンシナ区での戦いでハンジをかばい、既に亡くなっているからだ。
最悪なタイミングで名前を出してしまった。
「……」
リディアは黙る。
ハンジは何も答えなかったが、道行く先にある井戸に、一瞬だけ視線を寄せた。
そのまま進むと、一軒の家が見えてくる。
「ここは……」
「……君の家だ。懐かしいね」
屋根の一部が破損しているものの、壁や柱は全く崩れていなかった。
緊張しながら室内に入ると、食卓の上には埃が積もっていた。机の上にはフルーツナイフ。床には腐って黒ずんだ食べ物のようなものが転がって、異臭を放っている。
あの日、巨人が出る直前まで、ここで母と楽しく談笑していた。母が「今日はリディアの好きな果物があるよ」と言っていた。
室内の壁には落書きが残っていた。いつかのリディアが描き残した、自由の翼を模した拙い絵。
「可愛らしいね」
それを見たハンジが思わず微笑んだ。
落書きを眺めてから部屋の奥に進むと、洗面台の鏡もすっかり埃をかぶっていた。
素手で拭い、鏡に映った姿を見てぎょっとした。ひどい顔だ。やつれた顔には、過去の面影がほとんど残っていない。空ろな目、引き締まった頬。母が生きていたら、この姿を見てなんと言うだろう。その想像すら、今は痛みを伴った。
たった二人で暮らすには広すぎる家だと思っていたが、ここは今のリディアには随分と小さく見えた。
「放置されて傷んでいるところはあるけど、建物としてはしっかり維持できている」
ハンジとともに、窓から空を見る。
「シガンシナ区への入植が始まれば、ここはもう君の家ではなくなる。新しい家族がやって来て、ここで新たな暮らしを始めるんだ。忘れ物があれば、回収しておいて」
「忘れ物……」
室内を見回しても、リディアが取り戻したいものは、もうどこにも残っていなかった。
帰り道、二人並んで馬に乗りながら、先に口を開いたのはハンジだった。
「父親のことは、やっぱり許せないかい」
リディアが告げた父の真実は、ハンジにも強い衝撃を与えていた。ハンジの問いかけは穏やかだったが、その裏に様々な感情が滲んでいるのをリディアは感じた。
「……分かりません。父は調査兵団として、家族に嘘の夢を伝えてまで、自分の夢想に浸り続けていました。その事実は……まだ飲み込めていません」
口にした瞬間、自分でも改めてその重さを痛感する。
「エルヴィンと仲が良かったわけだ……」
ハンジは、昔を懐かしむような顔を見せた。
リディアはゆっくりと言葉を選んで、続ける。
「でも、壁の外に人類がいるという話は事実でした。父が家族を捨ててまで追いかけた夢を、私は結果的に叶えようとしている」
皮肉にも、自分が生きて戦ってきたことで、父が抱いていた夢の証明者になってしまった。その事実が胸を締め付ける。
「私自身の夢は……もう、なくなってしまいました」
リディアは俯いた。地面を見つめる視線が揺れている。
「追いかけたいものが、知りたいことが、助けたいものが……何一つ、なくなってしまいました。私は調査兵団失格です」
その言葉にハンジはため息交じりに口を開く。
「……私のせいでもあるな。壁の外の迷子だなんて、君を惑わせて焚き付けるようなことを言ったから」
「いえ、団長に責任は……」
「ハンジと呼んでくれ。君にそう呼ばれると、どうもしっくりこない」
肩肘張った空気を、ハンジは少し砕いてみせた。
「君は捨てられたという意識が強いから許せないかもしれないけど、私は君のお父さんは間違っていないと思うよ」
ハンジの声は優しかった。
「だってまだ、誰も壁の外を探しきれていない」
「私は見てみたい。いや、見に行くんだ。そうしなければ、たくさんの仲間を犠牲にしてここに辿り着いた、その長い道の全てが無駄になる」
まっすぐな決意に満ちた声が、リディアの胸に響いた。
「……私は……」
ハンジはもう先を見据えて動いている。仲間たちだってそうだ。
自分だけが、どこにも進めないままでいる。
たくさんの仲間を犠牲にして、捧げられた心臓に意味を与えるどころか……分かっていてもなお、自分のことしか考えられない。自分の器は、とても小さい。
心がもう、調査兵団ではないのだ。
リディアが黙って馬を歩かせていると、ハンジが言いづらそうに切り出した。
「君の配置について、女王陛下から打診があった」
「ヒストリアからですか? 一体どんな……」
「怪我が完治するまで、巨人と戦えない君を前線に置くことはできない。それは確かだ。ただ……いくら女王陛下の命令とはいえ、私としては、同意したいとは思わない」
ハンジは正直に感情を吐き出した。その表情には、明らかな怒りと寂しさが滲んでいた。
「何でしょうか」
「君を女王付きの護衛として派遣して欲しいと言われた」
リディアは目を丸くした。
「……戦えないのに、護衛?」
「あぁ。あとは兵団と女王の調整役とか、伝令係とか……要は肩書きはなんでもいいんだ、ヒストリアは君のことを確保して、手元に起きたいだけなんだから」
ハンジは珍しく苛立ちを隠さずに言った。普段のハンジらしからぬ、不器用な怒りがそこにはあった。
「君の選択次第だ。でも、私は……できれば、君を手放したくはない」
いつかのヒストリアを思い出した。どうしても耐えられない時は、絶対に助ける。そう高らかに宣言した、彼女の姿を。ヒストリアはきっと、今のリディアがどんな状態にあるのか、誰かに聞いたのだろう。
「私は……」
友人が、約束を守るために、手を差し伸ばしてくれている。
ヒストリアはなぜ、こんな自分を手元に置こうとするのだろうか。戦えない兵士になんの価値がある? これからどうすればいいのかも分かっていないのに?
差し伸ばされた手は、憐れみなのか、友情なのか、責任感なのか。
ふと、あの日孤児院で見た、夕日を背負う英雄のようなヒストリアの姿が思い出された。
――まだ諦めるのは早い! 護衛でも何でも役割は与えてやるから、ウジウジしてないでとりあえず立て、この弱虫!
突然、ヒストリアに叱られているような気がした。
こんな自分が生きていていいのか、まだ分からない。だけどもし、まだ役目があるなら。ここで彼女の手を取れば……また新しい道が開けるのかもしれない。
生きる意味を探すために、まずは生き続けなければならない。
父の夢ではなく、自分の道を見つけるために。
「ハンジさん、私は……あなたのようになりたいんです」
「え? 何そんな、急に。照れるな」
ハンジは、驚きつつも優しく笑った。
「自分のためだけじゃなくて、皆のために働けるような兵士になりたいんです」
「……私はそんな立派な人間ではないよ」
「そんなことありません。私にとっては、誰よりも尊敬できる人なんです」
真っ直ぐに見上げるリディアの瞳に、ハンジは返す言葉を失った。
「私が今の状態で調査兵団に戻っても、確実に足を引っ張ります。怪我もそうですが、それ以上に……心根が」
心の弱さを、リディアはようやく言葉にできた。
「私は本当に周りに恵まれている。辛い時に支えてくれる人たちがたくさんいる。だから今度こそ、理想の兵士に近づけるように……」
そして、リディアは馬の上で、ハンジに向けてはっきりと敬礼した。
「女王のもとで、鍛え直してきます」
ハンジは小さく目を伏せる。
「……仕方がないね。君が、そう言うなら」
「でも、約束してくれ。絶対に調査兵団に……私のもとに、戻ってくると」
「はい、もちろんです。私はいつまでもハンジ班ですよ」
その言葉にハンジが珍しく言葉を詰まらせる。ぐっと唾を飲み込んで告げる。
「わかった」
震えるように、けれど確かにハンジは頷いた。
「リディア・ノイマン。ヒストリア女王からの要請により、君に女王のもとで勤めるよう命ずる。派遣期間は怪我が完治し、支障なく巨人との戦闘を行えると私が認めるまで。それまでは女王の護衛として励むように」
「……はい!」
リディアの返事は、ようやく少しだけ前を向いていた。再び空を見上げる力が――リディアにも、戻り始めていた。