「楽園の島の魔女」(完結)   作:雄魔雌

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09 女王陛下のお気に入り

ヒストリア女王の日記 X月X日 晴れ

 

 書斎で本を読んでいたとき、護衛兵のリディアに声をかけようとして、ついユミルの名を口にしかけた。

「ユ……リディア」と。

 彼女は「はい?」と普通に答えたけれど、一瞬だけ不思議そうな顔をした。私はすぐに「この本の内容で気になることがあって」と誤魔化した。

 ユミル、と呼びかけた。ほんの一瞬。その一瞬が私を責める。

 振り返ったリディアの顔に、違和感はなかった。彼女は気づいていなかった。それが余計に胸を締め付ける。名前を間違えるということは、記憶の中で置き換えているということ。

 ユミルを忘れたいわけでもなく、リディアをその代わりにしたいわけでもない。

 似てるんじゃない。似ていてほしいと、願ってしまってる。リディアの声に、ユミルが帰ってきたような錯覚をしてしまった。

 酷い。こんなの、どちらに対しても酷すぎる。

 

 

 

***

 

 

 

 リディアは、籍を調査兵団に置いたまま「女王の護衛兵」として王宮に派遣されることになった。

 とはいえリディアは未だ完全に戦えるような状態ではなく、表向きは「療養を兼ねて護衛任務に就いている」ということになっている。

 

 当然ながら女王の側近や貴族などからは異論が出た。私情があまりにも見え透いていたせいだ。

 しかし、リディアがウォール・マリア奪還という輝かしい成果を上げた兵士の一人であることや、父が調査兵団の元分隊長であり出自についても一切の疑いがないこと、そして最終的には女王自身が信頼できる人物を近くに置いておきたいということが決め手となり、一時的な護衛兵として迎え入れられることが決定した。

 

「おい、またあのリディアとかいう奴が女王陛下の部屋にいるぞ」

「あいつ何者なんだよ。一兵士のくせに、まるで側近気取りだ」

「さしずめ、女王の寵愛を受けた『お気に入り』ってとこだろ」

 

 女王陛下のお気に入り。無論、蔑称である。

 

 実際、はじめはヒストリアの執務室や私室の近くに常駐しているだけの護衛だった。

 それがそのうち、女王の外出に常に随行したり、他の兵士を差し置いて伝令を頼まれたり、終いには女王の執務室どころか私室にまで出入りするようになっていた。

 そうなると、噂や陰口は加速する。静かで退屈な王宮という場所はゴシップに飢えている。そこで働く者達にとって、リディアという存在は格好の餌食だった。

 

 

 しかしそんな状況でも、リディアは調査兵団でいるよりずっと気持ちが楽だった。

 ハンジやリヴァイ、多くの104期生たちは戦えなくなったリディアにも優しかったが、問題はフロックだ。

 護衛兵として派遣される前に言われた言葉を思い出す。

 

「ジャンやコニーは、お前がいなくなっても全然気にしていなかったぞ。休養が必要だとか言ってたけど、実際はもう戦力にならないと思っているんじゃないか」

 

 ……なぜそんなことを言うのだろう。

 彼はリディアと同期の仲を分断させようとするような言動が多く、自身の調査兵団としての存在意義に疑問を感じていたリディアにとって、彼は捨ておけない存在でありつつも、明確な重荷にもなっていた。

 

 対して、ここでヒストリアの傍にいるとき、リディアは不思議な安心感と言いようのない緊張感を覚えた。

 あの青い瞳に見つめられると、まるで心の奥底まで見透かされているような、そして同時に包み込まれているような、奇妙な感覚を覚える。それは心地よく、時に戸惑わせる感情だった。

 

 でも、逃げて甘えるためにここへ来たわけではない。もう一度立ちあがるために、調査兵団に戻るため、そのためにここに来たのだ。

 今できることは何でもやる。そのための場所をヒストリアが与えてくれたのだと理解しながら、リディアは数か月間、女王付きの護衛兵として勤めることになった。

 

 

 

 

 

「これが、ユミルからの手紙」

 

 女王の執務室で、ユミルからヒストリアに宛てられた手紙を見せてもらった。

 ユミルがここまで素直に自分のことを語るとは意外だった。文章は軽快ながらも、そこにはヒストリアに対する、何ものにも代えがたい強い想いを感じる。ユミルはいつも、自分のためだと言い続けながら、最期まで誰かのために生き続けた。その身を犠牲にしてまで。

 

「この手紙は、どうやって?」

 

 二人きりのときはリディアも敬語を使わない。ヒストリアがそう望んだからだ。

 

「ライナーが持っていた」

「そう、なんだ」

 

 その言葉に、リディアは一瞬だけ息を呑んだ。

 

「手足を切り落とされ、瀕死の状態になっても、この手紙だけは私に届けてほしいと……結局、彼も獣の巨人と共に壁の外へ逃れたけれど」

「……」

 

 リディアは自分の感情に驚いた。

 今、どうして一瞬、胸がざわついた?

 

 ライナーは逃げ去ったが、命を懸けてまでこの手紙をヒストリアに届けようとした。リディアに向けられたものなど、当然だが、あるわけがない。

 

 胸の奥で、何かが引き攣る。

 自分がライナーにとって取るに足りないような存在であったことはとっくに明らかで、今更蒸し返すような話でもないのに。なぜ今さら傷つく必要がある? 躊躇なく自分を切り裂いた敵兵のことなんかで……。

 

 

 突如、ウトガルド城で再会した瞬間が脳裏をよぎる。

 無事でよかった。そう言って彼は、優しく髪を撫でた。

 

「……」

 

 ふと蘇ったその記憶は、リディアの心に最悪な影を落とした。

 

 この感情の正体を知っていながら、絶対に認めたくない。自分で自分のことが理解できない。なぜここまで彼にこだわるのか。

 きっと、調査兵団に戻れない自分を誤魔化そうとしているんだ。そうに違いない。これは未練なんかじゃない。ただの、一時的な現実逃避だ。

 

 リディアはこの気持ちに蓋をするために、必死に自分に言い訳をし続けた。

 

 

 

***

 

 

 

 非番の日に、約束通りサシャと厩舎へ行くことにした。

 

「なんか……綺麗になりました?」

「サシャにそんなことを言われるとは……」

 

 久しぶりに会うサシャから、まじまじと外見を観察された。

 

「女王の側にいるわけだから、身なりもいい加減にはできないよ。私の失態は直接ヒストリアに響く」

「あちゃー……もっとはよ行きゃよかった……」

 

 サシャは眉間に皺を寄せ、頭を抱えながらぶつぶつと言う。

 

「せっかくやけん馬の世話でも頼もう思うたっちゃけど……」

「聞こえてるよ」

「今のリディア、振る舞いが貴族のご令嬢っぽくて緊張するんですよ!」

「私は私のままだって」

「むむむ……」

 

 そう言いながらサシャは自分の髪をずっと撫でつけていた。

 

 

 

 しかし二人が厩舎に到着した時、そこには異様な緊張が漂っていた。

 厩舎の主人であるサシャの父親が、二人の兵士を前に困惑した表情を浮かべ、額に汗を滲ませている。

 

「こんなガリガリの馬でも買い取ってやるって言ってんだ。相場の半値だとしても、悪くない話だろ」

 

 兵士の声は低く、威圧感を滲ませ、周囲の気温を一段と下げるようだった。

 

「あんたらなぁ、売るなんて一言も言うとらんやろうが」

 

 一人の兵士が馬の首筋をバシッと叩く。怯えた馬が小さく嘶いた。怯えた馬が小さく嘶き、床を蹄で引っ掻きながら身を引いた。

 サシャの顔がさっと怒りに染まる。

 

「ちょっと、何してるんですか!」

「あなた達、所属と階級は」

 

 リディアも一歩前に踏み出した。

 

「私的な馬の売買交渉、それに一方的な値下げ行為……軍規違反のはずですが」

 

 空気が凍りつく一瞬の沈黙。

 

 兵士の一人が、憤るリディアの顔を見て、鼻で笑った。リディアもサシャも私服のため、男たちは二人が兵士であるとは思ってもいないようだった。

 

「なんだ。ガキとジジイとババアだけかと思ったら、女が二人もいるじゃねぇか。お前らが体で払うなら、考えてやらなくもねぇぜ」

 

 男の言葉に、厩舎全体が一瞬息を呑んだ。

 

「なっ……何てこと言うんですか!」

 

 思わぬ侮辱に、サシャが怒りで顔を朱に染め、両の拳を強く握り締めた。

 

「……だったら、試してみる?」

 

 リディアは唇の端をわずかに上げ、冷たい微笑みを浮かべながら言った。

 

「へぇ。そっちのお嬢ちゃんは話が早くて助かるな」

 

 兵士がリディアの言葉に反応し、下卑た笑みを顔いっぱいに広げた。彼がリディアに近づき、太い指を伸ばした、その瞬間。

 

 空気を切り裂く動きがあった。

 リディアは男の腕を捉え、鮮やかに捻り上げ、関節を極めた。骨と筋が悲鳴を上げる音がかすかに聞こえる。

 

「ぐあっ!」

 

 兵士が悲鳴を上げて膝から崩れ落ちた。そのたゆたう一瞬の間に、リディアは流れるように膝を男の背中に叩き込み、地面に叩きつけた。土埃が舞い上がる。

 

「あっ、おい! テメェ!」

 

 もう一人の男が獣のような声を上げ、反射的に一歩踏み出した。だが、リディアの冷たい瞳と対峙した瞬間、男の表情が恐怖で歪んだ。血の気が引いていく。

 

「お、おい……まずいぞ。こいつ、女王の護衛兵だ……!」

「あっ!?」

 

 転倒した男もリディアの顔を見上げ、ようやく気が付いた。

 

「私もあなたを見たことがある。護衛兵だった時期があるでしょ?」

「なんだ、女王様気取りかよ。ただの『お気に入り』のくせに……」

 

 男の声には毒があったが、その目には既に敗北の色が滲んでいた。

 

「うるさい」

 

 リディアは冷たく言い放ち、転倒した男をうつ伏せに押さえつけたまま、再び彼の腕を背中に捻り上げた。鋭い角度で。

 

「いてぇ!」

「もう終わり? まだ楽しもうよ」

 

 男の悲鳴が厩舎全体に響き渡り、馬たちが不安そうに鼻を鳴らした。

 

 男を地面に押さえつけながら、リディアは少しだけ微笑んだ。倒れた男の仲間は、そんな彼女の表情を見て顔色を変える。今や威圧的な態度は影も形もない。

 

「た、頼むから……もう離してやってくれ。あと上への報告だけは、どうか……」

「ちゃんと報告はしておくから安心して」

 

 リディアがゆっくりと兵士の手を離した。

 

 倒されていた男は、痛みに顔を歪ませながら肩を押さえ、ゆっくりと起き上がる。彼の呼吸は乱れ、リディアを睨みつけたが、怒りの下には明らかな恐怖があり、舌は縺れ、何も言うことができない。

 

「まったく、商売の邪魔しないでくださいよ!」

 

 隣でサシャが腕を組み、呆れたようにため息をついた。

 

 

 

 

 

「さっきの、格好良かったよ」

 

 サシャが父親と部屋に戻った後、カヤがリディアに話しかけてきた。

 

「怪我してるって聞いたのにすごいね。あんなに強いんだ」

 

 カヤの言葉は素直で、その中には無邪気な尊敬が含まれていた。

 

「こう見えて女王の護衛兵だし、このくらいはね。それに、昔……良い師匠がいたの」

 

 喋りながら、アニに格闘術を教わった時のことを思い出した。

 何度も倒され、飛ばされ、蹴られ、殴られ……呆れられてばかりだった日々のことを。関節技だけは、認めてくれていた気がする。リディアは、アニのことを思い出しても不思議と腹が立たなかった。

 

「でも、いくら人間相手に威圧できても、巨人と戦えないんじゃ、立派な兵士とはいえない」

「どうして?」

「巨人を殺して壁外を調査するのが、調査兵団の目的だからだよ」

「ふーん……」

 

 カヤも、少し納得していないような表情を浮かべている。リディアも自分の声が虚しく響くのを感じた。

 

「目的がなきゃ、兵士じゃないの?」

「え」

 

 思わぬカヤの問いに、リディアは言葉を詰まらせた。

 

「おじさんを助けたとき、立派な兵士だったじゃない」

「そ……そうかな」

「巨人を殺せなきゃ兵士じゃないなんて、誰が決めたの? そんなの息苦しいよ」

 

 カヤがまっすぐにリディアの目を見て続ける。その目には曇りひとつない純粋さがあり、リディアは思わず目を逸らしそうになった。

 

「私は毎日ここで馬の世話をしてるけど、生きる目的なんて考えたことない。そういうことは、心のままに生きていたらいつか自然と見えてくるって、おじさん達が言ってくれた」

 

 リディアは口をぽかんと開けたまま、カヤの話に聞き入っていた。

 確かに過去の自分は、常に何かのために動いていないと落ち着かなかった。目的地を見据え、そこに辿り着くためだけに息を吸い、足を前に進めてきた。休むことさえ許されないかのように。

 

「目的がなくても……兵士でいられると思う?」

 

 問いかけながらも、リディアは自分の声が救いを求めているのに気づいた。

 

「それは分からないけど、なんか、急いで生きてるような気はする」

「私、そんなに生き急いでるように見える?」

 

 リディアは小さく笑ったが、その笑みには痛みが滲んでいた。自分自身の姿が、他人の目にはこんなふうに映っているのだと、初めて知った。

 

「リディアも孤児なんでしょ。それなら、ここが家だと思ったらいいよ。帰る場所があれば焦らなくて済むもの」

 

 カヤが真剣な眼差しで語る。その言葉には、一つの嘘も感じられなかった。

 

「それに私、生きる目的はないけど、目標ならあるよ」

「どんな目標?」

「サシャお姉ちゃんみたいになること」

 

「お姉ちゃんがどうして兵士を続けているのかは分からないけど、そんなこと分からなくても私は尊敬してる。私も、あんな人になりたいの」

 

 カヤに言葉には「なぜ」を問わない純粋な尊敬が見えた。そこには打算も条件もない。

 

 

 

(心のままに生きるって何だろう?)

 

 カヤの言葉が、耳から離れない。

 お姉ちゃんみたいになりたいと言ったカヤの心は、父に憧れていた頃の自分、そしてハンジのような兵士になりたいと願う現在の自分と、きっとよく似ている。

 

 兵士になってからのリディアはずっと、その役割や使命に縛られて生きてきた。

 父の遺志を継ぐこと。兵士として高い目的意識を持ち、己の価値を証明すること。復讐を果たすこと。それら全てが消えた今、改めて自分自身の望みと向き合う時期が来たのかもしれない。

 

 

 

***

 

 

 

「リディアはまだ海を見ていませんでしたよね」

 

 近況報告として、サシャから色々な話を聞いた。

 

 海の話、港の建設、新しい技術の話……どれも壁の中で生きてきたリディアにとっては遠い世界の出来事のようで、胸の中に小さな渇きを感じる。自分が立ち止まっている間も、世界は容赦なく進んでいるのだと。

 

 中でもサシャが熱弁したのは、マーレ軍捕虜のニコロが作る絶品料理の数々についてだった。

 

「ニコロさんは天才なんです! あんなに美味しいものは初めて食べました……リディアも絶対に食べるべきですよ!」

 

 サシャの瞳が輝き、声のトーンが上がる。

 ニコロという名前を口にする度に、彼女の顔に特別な光が宿るのをリディアは見逃さなかった。

 心の中で小さく微笑む。戦いの日々の中で、サシャがこんな風に誰かのことを語る姿を見るのは新鮮だった。心の奥では複雑な感情が渦巻く。羨ましさと喜び、そして自分には遠い世界への切なさ。

 

 そんな中、突然、話の途中でサシャが黙ってしまった。

 

「どうかしたの?」

「……あの、急にこんなことを聞くのはおかしいと思われるかもしれませんが」

 

 サシャは恥ずかしそうに自分の髪を触っている。

 

「髪型を、変えようかと思っていて」

「へえ、いいじゃない」

「ただ、整え方なんて私にはよく分からなくて……結局いつも通りになってしまうんです」

「自分の髪は難しいよね。私もたまにヒストリアの髪を結うことがあるけど、サシャのもやろうか?」

「えっ!? それは嬉しいお話ですが……ちょっと待ってください。あなたヒストリアの髪までお世話してるんですか!?」

 

 サシャの目が驚きで見開かれる。

 リディアは、自分が意図せず秘密を明かしてしまったことに気づいた。心臓が一拍飛んだ。

 

「あ、いや、それは本当に時々で……ヒストリアに甘えられるとどうしても……じゃない! 今からやるよ、座って!」

「そんなのユミルが見たらどう思うんでしょうね!」

「忘れてってば! ほら!」

 

 

 

 

 道具はサシャの母親から借りてきた。緊張するサシャの髪に櫛を通し、小さい毛束ごとに丁寧に梳いていく。

 

「どうして急に、髪型を意識したの?」

「ただの気分ですよ……エレンもジャンも髪を伸ばしているし」

 

 サシャの声に浮かぶ小さな嘘。リディアはそれを責めるつもりはなかった。

 

「誰か、見せたい人がいるのかなと思って」

 

 でも、少しだけ突いてみたくなった。友人として、サシャの幸せを見たいという純粋な欲求から。

 

「ちがいます!」

 

 即座の否定と、首筋まで赤くなるサシャの姿に、リディアは心の中で笑った。さっきのニコロという人のことだな、とリディアは確信した。

 

「うまくいくといいね」

「な、な、何がですかっ!」

 

 サシャは怒ったような言い方をしているが、照れているだけだとすぐ分かる。見透かされた心を隠そうとする必死さが、かえって彼女の気持ちを明らかにしていた。

 

 自分には決して訪れることのない幸せな未来を、せめてサシャには掴んでもらいたい。リディアは心からそう思った。

 

 

 

 椅子に座ったサシャの髪をリディアが器用に整えていると、厩舎の子供達が輪になって二人を囲みはじめた。興味深そうな顔で様子を見守っている。

 彼らの無邪気な視線を感じながら、リディアは久しぶりに心が軽くなるのを感じた。今この瞬間だけは、過去も未来も忘れて、ただ目の前の手仕事に没頭できる。

 

「すごい。髪がツヤツヤして、綺麗になってる」

「いいなぁ……」

 

 子供たちの素直な賞賛の言葉が、リディアの心に染みわたる。自分の手が何かを壊すのではなく、何かを美しくできるということ。その小さな事実が、心を癒してくれる。

 

「どうせだし、全員やる?」

 

 リディアが提案すると、子供たちは大喜びではしゃいだ。

 

 

 少し目を離した隙に突如エレガントな髪型になってしまった子供達を見て、サシャの両親は腰を抜かしそうになり、厩舎はひたすら笑いに包まれた。

 

 笑い声の中で、リディアは長い間忘れていた感覚を思い出した。

 家族の温もり。帰る場所の安心感。それは彼女が幼い頃に失ったもの。でも今この瞬間、彼女はその一部を取り戻しているような気がした。

 

 リディアは静かに決意した。この穏やかな日常を、これからも守りたいと。そのためなら、もう一度戦場に立つことさえ厭わない。

 でも今日だけは、ただ笑いと温もりの中で、自分の心を休ませることを許そうと思った。

 

 

 

***

 

 

 

 厩舎の皆に送り出され、サシャとリディアは工事中の港に向かうことにした。

 

「非番の日なのに戻らせてごめんね」

「いいえ、リディアにも早く海を見せたいんです」

 

 サシャの声には純粋な喜びがこもっていた。

 

「私、戻ってもいいのかな」

 

 その言葉は、ほとんど独り言のように、風に乗って流れていった。

 

 問いかけというよりも、自分自身に対する確認。

 戻るという行為が意味すること、それは単に場所を移動するだけではなく、再び自分の役割を引き受けるということ。その覚悟を問う言葉だった。

 

「どこにですか?」

 

 問いかけるサシャに、リディアは少し間を置いて続けた。

 

「……調査兵団に……」

 

 言葉にした瞬間、自分の心臓が強く鼓動するのを感じた。

 自分はまだ、そこで必要とされているのか。そんな問いが、胸の奥で鳴り響く。

 

「もちろん! みんなずっと待ってたんですよ!」

 

 サシャがそう言って笑った。

 

 その明るく澄んだ笑顔に、リディアは思わず目を見開いた。嬉しくて、でも同時に怖くて、心が揺れる。

 

 馬を並べて走らせながら、リディアは遠くに広がる大地に目を向けた。この向こうには、見たことのない「海」が待っているという。

 

 新しい世界、新しい景色。

 風が顔を撫で、髪を揺らす。目的地に辿り着くと、空気は少し塩辛く、嗅いだことのない匂いがした。これが「海」の匂いなのかもしれない。

 

 

 

***

 

 

 

 久々に再会したハンジは、リディアの想像の倍以上に元気だった。

 

「見てよリディア、こんな設計図見たことないだろ!? ホラホラ!」

 

 マーレの義勇兵と捕虜たちから教わった外の世界の技術が、ハンジの目を煌めかせている。

 

「これは何ですか?」

「鉄道ってやつの図面だよ! どんな仕組みをしているか知りたいって? えっとね、この部分を見てもらうと……」

 

 心の準備をしていたつもりだったが、予想をはるかに超えるハンジの活力に、リディアは内心たじろいだ。

 

 でも、その嬉しそうな顔を見ると心が躍る。

 

「世界には、まだまだ知らないことがいっぱいある……ワクワクしないか!?」

 

 その情熱には伝染性があった。リディアも胸の内で同じ興奮が広がるのを感じた。

 

 

 

 

 そして、初めて見る、海。

 

 リディアは地面を舗装された建設中の港に立ち、しゃがんで海の水を片手ですくいとった。すくわれた水は色を失い、ベタベタとした質感が手のひらに残る。

 

「青い……これが全部、塩水なの?」

 

 自分の声に疑いと畏怖が混ざっているのに気づいたが、抑えることができなかった。

 

「ああ。一生かけても取り尽くせないな」

 

 ジャンが、リディアの隣で返事をする。

 なんだか妙にそわそわしているというか、声のトーンに何か企んでいるような響きがあることに僅かな違和感を覚えたが、リディアは特に気にすることもなく、港の端で海を眺め続けた。目の前の壮大な景色に心を奪われていた。

 

「それじゃいくぞ……お前ら」

 

 ジャンが、コニーとサシャに目配せをした。

 リディアの意識が完全に海に向けられていることを確認すると、三人の間で沈黙の合図が交わされた。

 

「おぉ」

「了解です」

「ん?」

 

 リディアは突然、コニーに左腕、ジャンに右腕、サシャに両足を確保された。

 瞬時に状況を理解できず、混乱が頭を支配する。

 

「えっ、ちょっと、何を……」

 

 疑問が声になる前に、体が浮く感覚がした。

 

「せーのっ……今だ!」

 

 三人の合図とともに、リディアの体が宙を舞う。

 

「うわっ! やめ……っ!」

 

 海に向かって、投げ飛ばされた。

 

 心臓が喉元まで飛び上がる感覚と、背中に走る悲鳴のような興奮。予期せぬ出来事に頭が真っ白になった。ジャンとコニーの大声だけが聞こえてくる。

 

「おらぁああああああ!!」

「リディア、沈めええええええええ!!」

 

 投げ飛ばされて空を舞った一瞬、初めて立体機動で空を駆けたときのことを思い出した。あの時と同じ、重力から解放された浮遊感。

 

 しかし、一瞬で空は見えなくなった。

 ドボンという大きな音と共に、周囲に水しぶきが舞う。

 

 リディアは海水の中にいた。足がつかない。最初の衝撃で息が止まり、一瞬パニックが襲った。水の中で必死に体勢を立て直そうともがいた。

 

「ぷはっ……なにこれ、から……い?」

 

 海面から顔を出すと、ゲラゲラと笑う三人の姿が見えた。

 

「どうだ、これが海だ」

 

 ジャンがニヤニヤしながら腕を組んで、ずぶ濡れのリディアを見下ろしている。サシャとコニーも、悪い笑みを浮かべながら仁王立ちでふんぞり返っている。彼らの顔には、悪戯を成功させた子供のような満足感が滲んでいた。

 

「しょっぱいって言うんですよ、辛いじゃなくて」

「なんてったって、海だからな」

 

 なぜ偉そうにするのか分からないが、三人とも、やたらと胸を張っていた。

 

 リディアは彼らの姿を見て、愛おしさと軽い憤りが入り混じった感情を抱いた。

 

「……コノヤロー……」

 

 髪がベタベタして気持ち悪い。リディアはずぶ濡れになりながら、わざと傷ついたような声を出して三人を睨んでみせた。

 

「ひどいよ、三人がかりでこんな……」

 

 演技じみた憤慨の裏で、リディアの頭には既に仕返しの計画が芽生えていた。彼らの予想外の行動に対して、同じように予想外の反応をしてやろうという企みが浮かんだ。

 

「ハハハ、悪い悪い。ほら、手」

 

 ジャンが港の端に近付き、片膝立ちになった。笑いながらリディアに手を差し出す。彼の目には、まだいたずらっ子のような輝きがあった。

 

 その姿を見て、リディアは小さくにやりと笑った。

 ――これ、いけるな。

 

「ありがとう、ジャン」

 

 そして、差し出されたジャンの手を取ろうとする……ふりをした。

 

「……っと!?」

「引っかかったな、こっち来いや!」

 

 リディアはジャンが差し出した右腕を両手でしっかりと掴み取り、そのまま彼の全身を強引に引っ張った。ジャンは体勢を崩し、そのまま頭から海に引きずり込まれる。

 

 ドボンという音と共に、ジャンが沈む。

 

 ジャンはすぐに海面から顔を出した。口から海水をぺっと吐きながら、明らかに怒っている。その瞬間、リディアの心に勝利の喜びが駆け巡る。

 

「テメェ! 何すんだリディア!」

「あはは、見事に釣れた!」

「釣りなら立場が逆だろうが!」

「確かに!」

「うるせぇ、逃げんじゃねぇ!」

 

 顔を真っ赤にしたジャンがリディアを捕まえようとするも、慣れない海ではどこか動きがぎこちない。リディアはもう海に慣れたのか、すいすいと簡単に逃げ回る。水しぶきを上げながら動くたびに、子供の頃に戻ったような開放感を味わった。

 

 陸では、サシャがお腹を抱えて笑っていた。

 

「隙を見せたジャンが悪いんですよー!」

「よし、俺も入る!」

 

 そして、意味もなくコニーまで海に飛び込んだ。水しぶきが上がり、さらに笑い声が響く。

 この瞬間、彼らは皆、すべての重荷から解放されたような気分だった。

 

 

 

 

 遠くからハンジとリヴァイがその様子を見ていた。

 

「ガキどもが……」

「これまた随分とはしゃいでるねー」

 

 リヴァイは紅茶を飲みながら呆れている。リヴァイの眉間にはいつもの皺が刻まれているが、その目には僅かな安堵の色が見えた。

 

「あれ、紅茶なんていつ淹れたの。リディアにやらせた? 私の部下なんだけど」

「あいつが勝手に気を効かせてきただけだ」

「で、どう。王宮仕込みの紅茶のお味は」

「……悪くはない」

 

 リヴァイの口から漏れたその言葉には、認めたくない満足感が滲んでいた。彼もまた、この束の間の平和を密かに味わっていた。

 

 

 

 

 

 そして、ニコロの料理は噂通りに絶品だった。

 

「……美味しい!」

 

 一口食べた瞬間、味覚が目覚めたような感覚に襲われた。素直な驚きと喜びが言葉になって溢れ出た。

 リディアの言葉にアルミンが食いつく。

 

「だよね!? 見た目は不気味で抵抗があるけど、口に含んでみると今まで食べたことのない味が溢れてて……!」

 

 アルミンの言葉には、新たな発見をした時特有の高揚感が込められていた。彼の興奮がリディアにも伝染し、二人の間に共感の糸が張られる。

 そこにミカサも割り込んできた。

 

「リディアにはこっちが良い。こっちの方が胃腸に優しい……気がする」

 

 ミカサはアルミンを押しのけてまで違う食べ物をおすすめしてくる。その仕草には、普段は見せない世話焼きな一面が垣間見えた。

 

 リディアは、食べ物を美味しいと思えるようになった自分に驚いていた。

 少し前まで、味も匂いも分からなかったのに。

 

「そんなに食べられないよ」

 

 皆があれもこれも食べさせようとしてくる。遠慮がちに言ったが、内心では友人たちの親切な強要が嬉しかった。

 

「いいから食え! そしてこれを作ったのが、あちらのニコロだ」

 

 コニーが指した方向で、サシャとニコロが二人で楽しそうに話していた。二人の間に、言葉では表現できない絆が育まれているのが見て取れた。

 

「……あの二人はそういうことなの?」

「おい、やめろって……タイミング間違えたな」

 

 コニーが頭をかく。その仕草に困惑が混ざっていた。

 

「からかうなよ、絶対」

 

 ジャンが忠告するが、その声には緊張感があった。

 二人の反応にリディアは一瞬戸惑ったが、すぐに理解した。彼らはサシャへの配慮から言っているのだ。

 

「そんなことしないよ。ただ……」

「ただ?」

「いいなって思って」

「え……」

 

 リディアの発言に、コニーとジャンがはっとした顔でこちらを見た。二人の目が大きく見開かれ、息を呑むのが見えた。

 その反応に、リディアはそれが失言であったと気が付いた。慌てて弁明する。

 

「今の、別に他意はないからね!?」

「お前ビビらせるようなこと言うなよ! びっくりしたよな、ジャン!?」

「本当に焦ったぞ、こっちはてっきり……」

 

「ビビらせるようなことって何だ」

 

 突然、ジャンとコニー、リディアの間にフロックが割り込んできた。

 その声は冷たく、この場の空気を一変させた。

 

「……フロック」

「お前、いたのかよ」

「さっき来た。いたら悪いか」

「いや別に……」

 

 ジャンの返答は気まずさに満ちていた。

 フロックはリディアの姿に一瞥をくれると、この場の食事に一切手を付けることなく、どこかに去って行ってしまった。その態度にリディアは背筋に冷たいものを感じたが、それを表情に出さないよう努めた。

 

 ジャンとコニーは眉間に皺を寄せる。二人の表情には、フロックへの複雑な感情が浮かんでいた。

 

「あいつ食べないんだよ、ニコロの飯。なんでだろうな」

 

 コニーの言葉には、疑問と共に諦めのような感情も混ざっていた。

 

「そうなんだ……」

 

 リディアの心の中で、フロックの態度と、彼がここでの食事を拒否することの意味がうっすらと結びついた。

 フロックの心には、まだ越えられない壁がある。そして、そんな自分を置き去りにしようとするリディアに苛立っていることも。

 フロックの言動は常にリディアの重荷になっていたとはいえ、それでも命の恩人である彼を捨て置く気持ちにはなれない。

 あとで一人になったときに声をかけてみよう。リディアはそう思った。

 

 

 

 

 

 料理おすすめ合戦から逃れたリディアが一人で食事を続けていると、エレンが声をかけてきた。髪が少しだけ伸びていて、印象が違う。

 

「うまいか、それ」

「不思議な見た目だけど味は美味しいね。エレンの記憶にもあるの、この味も」

「新鮮な喜びってのは、もう分からないな」

「そう、なんだ」

 

 エレンの言葉には諦めと寂しさが滲んでいて、リディアにはそれ以上の言葉が見つからなかった。

 

「お前がヒストリアの護衛兵として派遣された時、オレはそれも構わないんじゃないかと思った。アイツらは複雑そうにしてたけどな」

 

 エレンは遠くにいるジャン達に目線をやった。その視線には、友人たちへの複雑な感情が込められているように見えた。

 リディアはエレンの言葉に少し驚きながらも、返事をする。

 

「ヒストリアは優しくて、強い。だけど戴冠式のあの日から、ずっと一人で戦い続けてる。放っておけないよ。そのうえ私のことまで気にかけて、手を差し伸べてくれて……本当に感謝してる」

「お前が近くにいることでヒストリア自身も救われてるんだ。リディアが一方的に寄りかかってるような状態だとは思わない」

「そうだといいな。でも、いつまでもヒストリアに甘えたままではいられない。いい加減、私も前に進まないと」

 

 リディアがそう言うと、エレンの語気が急に強くなった。

 

「それは、どう言う意味だ」

 

 怒っているわけではないようだが、リディアの胸の内を探ろうとしているような目をしていた。

 

「調査兵団に戻って、お前は何をしたい。今でも復讐か? 全てを奪った相手を、今でも殺したいと思うか?」

 

 早口で尋ねるエレンの表情は、なぜか切羽詰まっているように見えた。

 

「ううん、違う。そんなことはどうでもいいの」

「どうでもいい?」

 

 エレンの目が見開かれる。

 

「別にライナー達を許したわけじゃない。今でもこの怒りは残っているし、消えることもない」

「それなら、何を……」

「無理をしてまで夢を追ったり、先のない目標に縋りつく必要はないって、色々な人に教わった。今はただ、もっと知りたい。この海の向こうのことを」

 

 声に出した願いには、未来を望む気持ちが込められていた。

 

「私は……許されるならもう一度、調査兵団に戻りたい」

 

 エレンの表情から、緊張が解けていくのが見て取れた。

 

「許さない奴がいるかよ」

 

 そして彼は、ようやく微笑んだ。

 

「お前の選ぶ道は……やっぱりこっちなんだな」

 

 だが、その顔は少し寂しそうでもあった。

 

 

 

***

 

 

 

ヒストリア女王の日記 X月X日 曇り

 

 眠れない夜。

 バルコニーに出ると、リディアが夜勤で立っていた。星空の下、二人きり。長い沈黙の後で、私は思わず本音を漏らした。

 

「時々、全部投げ出したくなる。女王の役割とか、そんなの知るかって。全部どうにでもなれって」

 

 リディアは少し黙ってから言った。

 

「それでもあなたは、私の手を取ってくれた」

「あの時の夕日、忘れたことがない。英雄みたいなヒストリアが、私を助けると言ってくれた」

 

 その言葉に、体が震えた。

 リディアはすぐ近くに立っていた。指先が触れそうで、触れない距離だった。

 助けたのは、私じゃない。リディアの方だ。私の作る檻の中に迷いなく入ってきて、この手を取ってくれた。

 ユミルは私の手を取らなかった。それでも私が歩く背中に向けて、大切な言葉と心を残してくれた。

 二人は似ていない。全然違う。

 なのに、この夜空の下で隣に立っている姿に、懐かしさと同時に、新しい何かを感じてしまう自分がいる。

 

 

***

 

 

 ついにハンジから復帰の許可が降りた。リディアの護衛兵としての勤務は、今日が最後になる。

 

「ねぇ、髪を結ってくれない?」

 

 侍女は下がらせており、今は私室に二人きり。

 

「これって護衛の仕事を超えてるよね」

「公の場に出るときに頼んだことはないでしょ。だからいいの」

「もう……」

 

 リディアの指がヒストリアの髪を丁寧にすくい上げると、一瞬だけ彼女の肩が震えた。

 

 金色の髪を指の間に滑らせながら、リディアは鏡越しに映るヒストリアの表情を盗み見た。

 閉じられた瞼と、かすかに上気した頬。二人きりの時間だけに許された親密さに、部屋の空気がわずかに熱を帯びる。ヒストリアは大人しく座ったまま、目を閉じていた。

 リディアはすっかり女王の髪を結うことに慣れていた。護衛兵としては、あるまじき事態である。

 

「……上手になったよね。作法もすっかり貴族みたいだし」

「そうかな」

「ねぇ、本当に調査兵団に戻るの?」

「えぇ。そのつもり」

「無理してない?」

「してないって。自分がどうするべきなのか、完全にわかったわけじゃないけど」

 

 すると、ヒストリアがリディアの言葉を遮った。

 

「それなら、ずっと私のところにいない?」

 

 リディアの手が止まった。

 

「……そうすれば、ずっと一緒にいられるよ」

 

 二人の間で、時が止まったような瞬間が訪れた。

 

 それは、ヒストリアの心の奥底で育まれていた本音でもあった。

 女王の荷を下ろし、ただの少女でいられる安らぎ。その温もりを失いたくないという純粋な恐れと、複雑な感情が絡み合い、彼女の胸を締め付けている。

 

 ヒストリアの瞳は、わずかに不安を湛えながらもリディアを真っすぐに見つめ、その言葉の意味を伝えようとしていた。

 部屋に流れる静寂は、二人の間に漂う言葉にならない感情をさらに濃くして、この瞬間をより親密なものにする。

 

 リディアの指はヒストリアの髪に触れたまま止まり、その温もりがヒストリアの首筋から背中へと広がる。

 言葉を返せず、ただ見つめるリディアの表情に、ヒストリアは自分の言葉の重みを感じ取った。

 

「ごめんなさい。今のは、忘れて……」

 

 空気は張り詰め、二人の呼吸だけが部屋に響いていた。

 

 

 

 ヒストリアはいつになく落ち着かない様子で、爪先で床を小さく叩きながら、言葉を続けた。

 

「あなたが瀕死の重傷を負ったと聞いたとき……居ても立っても居られなかった。もう立ち上がれなくなるんじゃないかと思ったの」

 

 リディアは、静かにヒストリアの言葉に耳を傾ける。

 

「でも、憐れみでここに呼んだわけじゃない。もう一度立ち上がれるって信じていたから、呼び寄せた」

 

 その声は柔らかく、しかし確かな強さを持っていた。細い指が服の裾をつまんでいて、ヒストリアは少し緊張した様子で言葉を選んでいる。

 

「だから、あなたが調査兵団に戻ること、本当は歓迎しなきゃいけない。それが目的だったんだもの」

 

 そう言いながらも、その声には微かな揺らぎがあった。彼女の言葉と本心の間に生まれた小さな溝が、その声色に現れていた。

 

「でも……もしも、私が命令したら」

 

 リディアが鏡越しにヒストリアの目を見つめた。その瞳には言葉以上の思いが込められ、僅かに潤んでいた。

 

 ――ずっとここにいてくれる?

 その表情は、はっきりとそう語っていた。

 

「……私は……」

 

 リディアは、その瞳に女王という立場の重さと苦しみを見た。女王という肩書きに背負わされたものは、一兵士の苦しみとは比較にならないほど重い。

 

「……ヒストリア、ありがとう」

 

 

「怪我で使いものにならなくなった私に居場所を作ってくれたあなたを、本当に尊敬しているし、大切に思ってる。あなたに何かあった時は、どこにいたって、すぐに飛んでいきたいと思ってる」

 

 リディアはゆっくりと言葉を選びながら、しかし確かな声で、彼女に話す。

 

「だけど……」

 

 

「それでも、私は……」

「ううん、いいの。私、ちょっとずるかったね。女王という立場を利用して、あなたを引き留めようとした」

 

 ヒストリアの声は小さく震えていたが、その表情には受け入れる強さがあった。彼女の指先がリディアの手首に触れ、そっと握る。

 

「自由の翼を背負うあなたを、鳥籠に閉じ込めておくことなんてできない」

 

 その接触は、二人の間に流れる言葉のない約束のようだった。

 

 誰かのために犠牲になる生き方ではなく、自分の意志で選び取る人生。ヒストリアもそうしているのだから、自分もそうありたい。

 この数か月間、彼女の傍らで過ごした時間が、リディアに再び前を向く勇気を与えてくれていた。

 

「ごめんなさい、ヒストリア……」

 

 リディアの唇は震えていた。

 

「でも、私の心はいつでもあなたと共にいる。ボロボロで行き場のない私に居場所を作ってくれてありがとう。この数か月は、本当に幸せだった」

「だめだよリディア。そんなこと言われたら、また引き止めたくなっちゃう」

 

 ヒストリアの笑顔には、わずかな涙の輝きが混じっていた。

 二人の間に流れる静かな理解と、これからも変わらない絆の確かさが、この別れの瞬間を美しく彩っていた。

 

 

 あの日ユミルは、ヒストリアに胸を張って生きろと言った。

 今でもヒストリアの中からその言葉が消えることはない。きっと、一生、ずっと。

 ヒストリアは分かっていた。ここでリディアを飼い殺して、調査兵団に戻らないでほしいなんて伝えたら、それはただの甘えでしかない。

 

「こんなの、胸を張って生きてるとは言えないかな。ユミルに怒られちゃう」

 

 

 髪を整え終わったヒストリアは鏡台から立ち上がると、少し強引にリディアの手首をつかみ、自分の香水をまとわせた。

 

「この香水は女王にしか使えないの。私のお気に入り」

 

 ヒストリアはわざと意地悪な顔をして笑ってみせた。しかしその手は、少しだけ震えていた。

 

「……知ってる」

 

 リディアも笑う。

 知らないわけがない。この香水を選んだのは、リディアだったから。

 

 

 

 

 数か月前。あのときも、ヒストリアの私室で二人きりだった。

 

「馬や子供が嫌がるから普段は使いたくないんだけど、公の場ではそうもいかないからね」

 

 ヒストリアが棚から小瓶を取り出し、リディアにそっと差し出す。瓶を開けると、ふわりと優しい香りが広がった。

 

「ほら、これなんかどう?」

「うーん」

 

 リディアは鼻を近づけて、目を細める。

 

「これも悪くないけど……さっきの方が、ヒストリアのイメージに近いかも」

「そう。じゃあ、それにする」

 

 即答だった。迷いなど、微塵もない。

 

「えっ、それだけで決めちゃうの?」

「うん。女王の香りは一つだけでいい。リディアが選んでくれたものにするね」

 

 当たり前のように言われて、リディアは思わず目を逸らした。

 自分の選んだ香りが、ヒストリアの一部になる。その重みに緊張を覚える。

 

 すると、自身の手首に香水を一吹きしたヒストリアが、そっとリディアの手を取った。

 

「ほら、リディアも」

「ちょっと! ダメでしょ、女王と同じ香水の匂いをつけた兵士が部屋から出てきたら!」

「え? いいじゃない。ほら覚えて、これが私の香水」

「もう……」

 

 苦笑しながらも、リディアはヒストリアに身を任せた。

 

 忘れるわけがない。それは、何よりも大切な思い出だった。

 

 

 

***

 

 

 

ヒストリア女王の日記 X月X日 晴れ

 

 明日、リディアは私のもとを離れる。調査兵団に復帰する。それが本来の目的だったはずなのに、胸が痛い。

 ずっとここにいれば? と、言ってしまった。言ってはいけない言葉だったのに。

 

 ユミル。私はまた、自分の欲を、他人に押しつけようとしてしまった。

 リディアは微笑んでくれたけど、それで留まるような子なんかじゃなかった。そんなこと、知ってたのに。

 

 彼女が周囲からどう呼ばれていたか、私は知っている。「女王陛下のお気に入り」——まるで嘲笑うように。

 でも、事実だ。私は彼女を気に入っていた。だからそれは蔑称なんかじゃない。尊敬も、信頼も、感謝も、全部含めて、彼女は私のお気に入りだった。

 だから、最後の時間くらい。わざとらしいくらい、あからさまに主張してやろうと思った。「お気に入り」で何が悪い。それ、真実だから。

 

 私は自分の香水を彼女の肌にまとわせた。少し強引に。

 リディアの肌がわずかに震えた。けれど、拒まない。だけど、瞳にほんの一瞬だけ、迷いが宿ったのを見た。

 

 リディア。あなたも、私に言えない気持ちをどこかに隠していた。

 

 香りは明日には消えるだろう。それでも、触れた手の感触が消えなければいいのにと、馬鹿なことを思った。

 

 ユミルもリディアも、それぞれ違う場所で、私の中に生きている。やっとそのことに気づいた。

 これが護衛兵リディアとの最後の記録になるだろう。

 明日から、また新しい日々が始まる。




個人的に、全話で一番気に入っている話です。
依存先や縋るものを変えることで立ち直るような話にはしたくなかった。自分の足で歩けない者は、この世界ではすぐに死んでしまいますからね。
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