日もまだ昇りきらない早朝のアルフォネア邸の玄関で。
ノアは旅行鞄を持つと、セリカの方を振り返った。
「セリカ先生、お世話になりました」
「別にいいさ。『遠征学習』、気を付けて行ってこいよ」
「はい」
手を振って快く見送ってくれるセリカにノアはもう一度頭を下げると、待っていたグレンと共に学院へ向かう。
ノアはリィエル達がお見舞いに来てくれた三日後には、無事に学院に復帰していた。
学院では事故にあい休んでいたことになっていたので、いろいろクラスメイト達に心配されたが、ルミアやシスティーナが率先して支えてくれたので何とか乗り切ることができた。
そして、迎えた今日、『遠征学習』の日だ。
『遠征学習』とは、アルザーノ帝国が運営する各地の魔導研究所に赴き、研究所見学と最新の魔術研究に関する講義を開催することを目的で学院が開設している講座だ。そして、ノアたち二年次生の必修単位の一つでもある。
要は、学院とフェジテに引きこもりがちな生徒達を、フェジテの外に強制的に出して、見聞を深めさせるものだ。
行き先はクラスごとに違い、ノアたち二年二組の行き先は、「白金魔導研究所」だ。
「白金魔導研究所」はその名の通り、白金術を研究する施設である。
白金術とは、白魔法と錬金術を利用して生命神秘に関する研究を行う複合術のことで、その研究実験の展開には、大量の綺麗で上質な水が欠かせない。
よって、地脈の関係で大量の綺麗で上質な水が容易に手に入る、サイネリア島に研究所がある。
また、サイネリア島は
この『遠征学習』では自由時間が多いので、海水浴をすることもできる。
授業もあるので、そこが億劫でもあるが、それでもノアの足取りはいつもより軽かった。
それを不思議に思ったのだろうグレンが、ノアに話しかける。
「なんか、楽しそうだな?」
「はい」
珍しくきっぱりと即答するノアにグレンが驚いたように目を丸くする。
その意外だというような視線にノアは少し赤く染まった頬をかいて言った。
「僕、フェジテ以外知らないから」
「ああ……そういえばお前、記憶がないんだったな」
頭をがりがりとかいて、眉を八の字にするグレンに、ノアも少し困ったような顔で笑った。
実はノアは、アルフォネア邸での療養期間中に、ニヒルについて聞かれたときに2年前以前の記憶がないことをグレン達に話していた。
宝物でもある、懐中時計の中の指輪についても。
ノア自身、ニヒルとの接点がどこにあるのかがわからなかったからだ。
(記憶が戻ってほしいかも、わからないけど……)
セリカに一度、もしできるとしたら記憶を取り戻したいかと問われたが、ノアはそれに答えられなかった。
あのテロ事件から続く悪夢、大切な人達を守れなかったということが本当だったら、と事実を知るのが怖いのだ。
(僕は―――)
押し黙ってしまったノアに、幸い、セリカはそれ以上何も聞かず、ただ静かにノアの頭を撫でてくれた。
その温もりと沈黙だけが、ノアにとって救いだった。
「ノア?」
難しい顔で黙り込んでしまったノアを不審に思ったのだろうグレンが顔を覗き込んでくる。
「いえ……。あっ!」
「ノア!先生!」
顔を上げると学院の前でルミアとシスティーナが手を振っているのが見えた。そして、横には二人に支えられながら眠そうに船をこいでいるリィエルも。
ノアが二人に手を振って応える隣りで、グレンがリィエルを見てため息をつく。
「あいつ……。護衛の任務はどうしたんだ」
「まあ、こんな早朝だから……」
「はぁ、全く……」
特務室はどうなってんだ、とぶつぶつ文句をいいながら三人の方へ向かってグレンが歩いていく。
ノアはそれに笑いながらグレンの後を追うように歩き出した。
――――――――――――――――
サイネリア島への旅路はとても楽しいものだった。
夜、遠征学習中に寝泊まりする旅籠の一室。
ノアは与えられたベッドで、いつもとは違う豪奢な天井を見上げながら旅路を思い出していた。
一日目、早朝に学院を出発した馬車に揺られ、フェジテを出た。
そこでノアたちを出迎えていたのは、緑豊かな牧草地だった。
心地のよいそよ風が頬を撫で、地平線の果てまで敷き詰められている若草の絨毯の上には、ふわふわと白い綿毛のような羊が点在していた。
二日目、正午。フェジテ南西にある、港町シーホークへ到達した。
磯の香りが漂う風の中、白い鳥が大空を飛び、眩しいくらいの蒼海がノアの目の前に広がっていた。
その後、ゆらゆらと海に浮かぶ大型帆船に乗って数時間。
地面を踏みしめている感覚とは違う、不思議な感覚がノアの足から伝わってきた。
船縁に立つと、一際強く吹く潮風がノアの髪をなびかせ、うち立つ白波が蒼い海をまた鮮やかに彩っていた。
そんなこんなで、サイネリア島に到着するころにはノアはすっかり興奮していて、近くにいたウェンディやテレサにも笑われたくらいだった。
約一名、ノアと正反対の感想を持つ教師がいたが。
船から降りた後は旅籠に向かい、夕食と入浴をすませて、月が昇るころには就寝時間になった。
だが――
(う……興奮して寝れない……)
ノアにとって初めて見るものが多すぎたせいか、まだ心臓がどきどきして、目がさえてしまう。
病み上がり後の長旅だったので断ったのだが、こんなことなら、ウェンディたちの誘いに乗って一緒にカード・ゲームをした方がよかったかもしれない。
「ちょっと、風にあたってみようかな……ん?」
枕元で丸くなっているクロをひと撫でし、ベッドから足を下ろして窓を開けると、何やら、下の方で叫び声が聞こえてきた。
首をかしげながら、林立した樹木の方へ目を凝らすと、カッシュ率いる一部の男子たちとグレンの姿が。
そして上がる怒声や悲鳴と共に、時折木々の隙間から紫電が走っている。
「ふははは!当たらなければ、どうということはない!」
「あ、アルフぅううううッ!?しっかりしろ!?目指すんだろう、『
「頼む……カッシュ……『
「あ、アルフぅううううッ!?」
これは……大方、カッシュ達が女子の部屋に来ようとして、グレンが阻止しているのだろう。茶番劇の様に。
グレンが来てからどんどんと賑やかになっていく男子たちに、ノアはクスリと笑う。
「ふふ、馬鹿だなぁ。……『
それは、ずっと昔に聞いたことがあるような……どこか懐かしい響きだ。
薄雲がそよ風に髪を靡かせて呟くノアから、月明りを奪う。
(今夜はどんな夢を見るんだろう……)
「にゃあ」
どうやら起こしてしまったみたいだ。ベッドを振り向くとクロが座って尻尾を揺らしていた。
賑やかな声を後に、ノアは静かに窓を閉める。そして、クロに誘われるまま、ベッドに寝転がると、ゆっくり目を閉じた。
「外の世界に行ってみたいんだ」
僕が守りたかった人の声。
「皆はまだ駄目だっていうけど、いつかさ……」
いつも僕を暖かく照らしてくれた人の声。
僕はその声には応えず、ただ隣で静かに耳を傾けていた。
「君だけだよ。こんなこと言っても怒らないの」
それでも、朗らかに笑う太陽みたいな人。
「俺、思うんだ。きっと、外には『
『
「それは、もちろん!皆で――して、――できるんだよ。」
それが本当なら、どんなに――なことだろう。
僕は、その
「だからさ、その時は――――?」
約束。
そう言って絡ませた指と声がどんどん遠ざかっていく。
何を約束したのかは、はっきりと聞き取れなかった。でも、僕は覚えている。
身体が覚えていなくても、心が。心が覚えていなくても、体が。ずっと、ずっと――。
覚えているんだ。