パラレル・なんかいい感じの・マスターズ 作:アマルティア・テーベ
※精神的リョナ描写あり
ただ、名前を呼びたかった。
役職でも所属でも階級でもない、ただひとつだけの証を口にしたかった。「友達」と距離を縮めたかった。自分の名を呼んでくれた相手に報いたかった。
──そう思うことは、罪であったのだろうか。
その答えをくれる筈の人は、たった今崩れ落ちた。
「……ぇ?」
ごとん。人が倒れて固い床に転がる音。
見開かれた瞳は虚で、胸は弱々しく揺れるばかり。生きてはいるが、正常ではない。
「なん…で?ねぇ、起きてよ、どうしたの?」
「神託の通りでしたね。信徒エモーショナル・ハードコア」
底冷えするような声が少女の背後から聞こえた。人を人とも思わないような無機質極まりない声だった。
振り向いた先に、純白のフードで顔を覆い隠した男がいた。
「誰…?」
「単なるイザナイに過ぎませんよ。さて…仕上がりは上々、と言ったところですか」
「まさか…あなたがこの子を!」
「人聞きの悪い。やったのは貴女自身ではありませんか」
「……え?」
少女の思考が停滞する。
「一人のサトリが受け取った神託によれば…名を呼び聞かせるだけで魂を縛り付け、肉体を空虚な抜け殻と化す術に目覚める者が現れる、とのことでした。それが貴女なのです」
「私の……せい、で?」
全身から力が抜けていく。立つ気力を失った少女の膝が地に着く。
「貴女には既にあるどの階級とも違う特殊な役職が与えられます。オラクルに逆らう無法者や、教団の教義に逆らう背信者たちをその力で無力化していただかねば」
「同じことを…他の人間にもやれって?これから何人もこの子と同じ目に遭わせろって言うの!?」
「先に伝えておきますが、逃走も抵抗も無意味です。貴女が教団に協力しないのであれば、そこに転がっている者を生かす理由もなくなりますので」
向けられるのは静かな、しかし明確な殺意。
少女の喉が引き攣り、手が意思を無視して震え出す。
「単純明快でしょう。教団のために働くか、教団に背き二人して死ぬか。幼い子供であっても決して間違えることはない二択の筈です」
音もなくエモーショナル・ハードコアの首筋に刃が当てられた。動きを縫われた彼女が視線だけを向ければ、倒れ伏した抜け殻の傍でも黒衣を纏った者たちが同様に武器を向けていた。
「名を呼ぶことを起点に魂を縛るその力は、貴女が名を知らぬ者には何の影響も与えられない。そこに控えている彼等の名前を貴女は知っていますか?」
「……ッ」
歯噛みする少女を尻目に、イザナイは語ることをやめない。
「まあ仮に知っていたとしても、貴女が全員の名前を呼び終わるより先にまとめて始末できますがね」
「……でも、でも私は」
「はぁ……強情な。名を呼ぶだけで人の魂を縛り付ける怪物の居場所が、教団以外にあると思っているのですか?」
ぴしり、と。
軋み続けていた心の中で何かが砕ける感覚があった。
目を逸らし続けていた事実を、彼女の心は受け入れることができない。
「オラクル教団は万人を受け入れます。たとえ貴女のような、常軌を逸した力をもつ怪物であろうとも。しかし背くのであれば…排除せねば」
この男の言う通り、エモーショナル・ハードコアの居場所なんてどこにもないのかもしれない。
名前を呼ぶだけで全てを空っぽにしてしまうような怪物の生きる道は、教団に縋る以外にないのかもしれない。
「サトリ曰く、貴女の次の名は『神聖龍』。何も考える必要はありません。何も難しいことは要求しません──ただ、名前を呼ぶだけでいい」
ゆっくりと思考が溶かされていく。善意を装った甘言が、少女のひび割れた心へ染み込んでいく。
「大丈夫。貴女がその力を自在に扱えるようになれば、いつかそこに転がっている者を解放することだってできるようになるかもしれない」
そんなこと心にも思っていないくせに…と言い返そうとして、やめた。
もう、何もかもが億劫だった。
少女はイザナイの手を取った。
イザナイはフードの下で悪辣に微笑んだ。
これから先、彼女の存在は畏怖と共に語り継がれることになるが──彼女の名を呼び、その想いに真に寄り添える者は、もう二度と現れない。