病院の中は清潔でチリひとつなく、薬品と魔術の残滓と、微かな死の匂いで満たされている。
それは静謐で厳かで、戦場と対極にあるようでいて、命が交わされる場としては、どうしようもなく近しい。
――いっそのこと、医師であることをやめるべきなのかもしれない。
私は戦場に慣れて疲れたのではなく、繰り返される生と死に疲れたのではないだろうか。
「彼女だが」
廊下を先導するスタンフォードはその大きな背中を震わせて、どこか楽しみをこらえきれないような様子でおもむろに口を開いた。
「彼女だが、実験室を貸しているものの、うちの所属ではないんだ」
「つまり医師でも医学生でもない。それでは、外様の研究者というわけかな」
「そのようなものだな。といっても彼女はただの研究者の器でもないわけだが…」
「随分もったいぶるじゃないか、スタンフォード」
「はは、すまない。わずかながらも、私は君と彼女の両者を知っている。だからこそ、互いが何者かを知らないままで君たちが出会ったら、どのような反応が起きるのか。つい確かめたくなってね」
いくら寿命において魔種族に圧倒的な差を付けられている人間であっても、海千山千、スタンフォードは医師として多くの経験と知見を得てきたはずだ。その彼をもってして私との「反応」が見たくなるとは、どのような相手なのだろうか。
「さあ、着いた。普段であれば、ここにいるはずだ」
案内された先は実験室とは思えないほど狭苦しいものに見えて、よくよく目を配ると実に様々な薬品、機材、刻印魔術用の装置などが目いっぱいに並べられ積み上げられている。
まさに雑多という言葉がふさわしく、これが学生の仕業であれば教授に叩きだされること請け合いであるが、しかし、各々の機能が損なわれる限界までに距離が詰められている。意図したものか否かに関わらず、普通の実験室の風景からは程遠い。この部屋の主は確かに、変わり者のようだ。
「これは、なかなかの設備だな」
積み上げられた機材の間、わずかなスペースに彼女はいた。その長身のせいか窮屈そうな姿勢で、されど熱心に顕微鏡を覗き込んでいる。私たちの来訪に気付いたようだが、何らリアクションを起こすことなく、彼女の視線はプレパラートに落とされたままだ。
――ダークエルフ。
エルフィンド事変を受けて、次第に国外でも姿を見せるようになった彼女たち。
褐色の肌。オークに並ぶ身の丈に、人間並みの細さ。抜群の体格。
こと彼女に至っては、ただ細いだけではなく官能さを覚えるほど肉感的であり、無造作に羽織られた白衣の下にあっても、四肢に充溢するしなやかな筋肉が見て取れる。
私がこうしてキャメロットに降り立ってから幾人ものエルフたちを見かけたが、その体躯だけでも、彼女ほど目を奪われる牝はいなかった。戦場においても、何度も何度もエルフたちと相まみえたが、改めて思い返すと、こうやって落ち着いて眺める機会はなかったと気付く。
初対面であるのに不躾に、つぶさに観察してしまう。
艶やかな栗髪は長く尖った耳の後ろにまとめられているが、目を引くのは彼女の顔に付けられた眼帯であった。白銀の変わった意匠を施された黒い革の眼帯が左目を覆っている。眼帯の黒と肌の褐色のコントラストのおかげで、彼女がダークであっても黒ではないことがはっきりした。
そして、更に気になる点が。
――ない。あるはずのものが、ない。
奇妙だ。エルフたちが生まれてから肌身離さず身に付け続ける護符、守りの木塊が見当たらない。これまで出会ったどんなエルフでも、その首には研磨によって宝石のように光沢を帯びる木塊を下げていた。
生まれ変わる際の道しるべとして、死ぬまで、そして文字通り死んでも離さない護符。戦場において命の価値をも凌駕し、仮にそれを奪おうと狙ったのであれば、どのような反撃でも許されてしまうような護符。
それを彼女は身に着けていない。彼女の艶めかしい首元には、一切の装飾品が見当たらなかった。別の形で携帯しているのかもしれないが、もう一つ、別の事実が疑念を膨らませる。
――魔術力が感じられない。
エルフは一般的に魔術への適性がとても高い種族だ。その身体から溢れる魔術の奔流が、この数メートルの距離で感じられないはずがない。
そのはずであるのに、彼女からは一切の魔術力が、感じられない。絶無であった。エルフに限らず魔種族であれば、このようなことはあり得ないはずだ。
例外がないわけではない。
聞くところによると、道洋においては鍛錬によって気配を消すかの如く、身体から発する魔術の奔流を遮断する術があるらしい。その道の達人曰く、気の流れを操るのだそうだが、途方もない話であり、キャメロット在住のダークエルフが体得しているとは思えない。
魔術力を遮断する技術自体も、既に存在する。戦争の在り方が変化するにつれ、隠密活動および秘匿作戦が重視されるようになり、魔術を探知する手段と遮断する手段は終わりなき競争に入り込んでいるほど。特に人間族は魔種族には珍しくない暗視が不得手であることから、魔術力の検出に力を注いできた。
しかし、そのような場合であっても絶無ということはない。むしろある空間から魔術力が完全に排除されていれば、明るい部屋に突然暗闇が現れることと同義で、感応できるものにとっては位置を示すことと変わらないからだ。加えて、実戦投入されている遮蔽装置は全身を覆う奇抜なデザインのものがほとんどで、魔術力を遮断する以外には役に立たない。
それが彼女の場合は、何も感じられない。言ってしまえば、死体よりも人間よりも、感じられないのだ。魔の流れが彼女の表皮を避けて通っているかのようだった。
――いや、それよりも注意を向けるべきであるのは。
「どうやって」ではなく、「なぜ」だ。
今、この場所で魔術を遮断する理由が見つからない。排他的な人間族だけの集団に紛れるのであれば理解できなくもないが、ここは多民族国家となったキャメロット。誰も魔種族であること、魔術力を保持していることを隠す必要がない。
つまり、彼女にとっては身体から魔術が遮断された状態が平常ということになる。それは守りの木塊がないことと関係があるのだろうか。また眼帯によって隠された左目にも関わるのだろうか。
と、つらつらと湧き上がる疑問に圧倒されていると、顕微鏡を覗き込んでいたはずの彼女は面を上げないままにこちらを、いや、私をじっと見つめていた。
――視られている。観察されている。
栗色の、ひとつだけの瞳が私を貫いていた。なぜ、顕微鏡を使っているのだ。彼女の瞳は、この世のいかなる光学機器よりも詳細に、丹念に、見るがままに私を解剖しているようであるのに。
観察、関心、興味、そして好奇。その瞳はレンズを切り替えるように、目まぐるしく表情を変える。
視線が交錯した一瞬の間に私は、壮年期を迎えつつあるオークの牡は、確かに寒気を感じた。
彼女の形のよい、真一文字に結ばれていた唇が緩む。
私の現在と過去、そして未来までもが彼女の瞳によって解剖され、解体され、つまびらかにされていると感じたその直後に、自分でも呆れてしまうほど彼女に見惚れていた。
容姿に優れたダークエルフの中にあっても、彼女は抜きん出て魅力的だった。が、それが理由ではない。なぜか、どうしてか、会ったことがある気がするのだ。会ったことが一度でもあるならば、忘れられるはずもなく、それゆえに彼女を目にするのは初めてのはず。
――しかし。
彼女のことを、木塊も魔術力も含めて何も知らない。しかし、多くを知っている。気がする。
初対面にも関わらず、何度も出会い、肌を重ねたことさえあるほどに知っている。気がする。
気のせいだとは思えない。気のせいに頼ることは随分前に辞めた。
だが、この強烈な違和感。いや、これは安心感にも似て――。
「紹介しよう、グスタフ・ファルケンハインだ」
スタンフォードがいることを忘れるくらい、長く、見つめ合っていた気がした。そして彼女はスタンフォードに目もくれずに、不敵な笑みだけを浮かべて、軽く会釈してみせる。
「私は」
自分でも驚くほど、乾いた声が喉の奥から響く。何が私をこれほどまでに緊張させるのか。
「ちょっと待ってほしい。今いいところなんだ」
彼女は敢えて突き放すようにつぶやくと、顕微鏡に視線を戻した。
レンズを覗く彼女の微笑みは、私がその仕草に不満を持たないと確信しているかのようで――。
私の、この自負はいったいどこから湧いてきている?
「各種族の血中に含まれる、魔術の残滓を措定する新しい手法を試している」
「なる、ほど?」
「どう思う?」
質問はスタンフォードではなく、私に向けられたものであることは明白だった。
とんでもない。彼女が試しているのは手法ではなく、私の資質であると直感した。
そして、なぜだか退けない。ここは退いてはいけない気がするのだ。先からなぜかなぜか、わからないことばかりだ。だが、慌てるばかりの私ではない。数多の戦場が、私に思考の中断を限りなく短くするように求め続けてきたのだから。
「私はそういった科学的捜査は専門ではないが、実現すればとても有用なはずだ。遺伝子検査が実用化されて久しいものの、解析にはまだ時間がかかる。コボルトやオークの鼻に頼ってもよいが、これも当世に求められる科学的客観性には欠ける。
対して、体液に含まれる残滓はおそらく偽装も難しく、事故や交雑などによって複数の種類が混ざり合っても、遺伝子マーカーのように判別はつくはずだ。もちろん残滓は時間によって急速に消失するが、遺伝子検査の欠点を互いに補える」
彼女はゆっくりと面をあげて、知識を総動員して見解を述べ尽くした私を、興味深そうに見つめてきた。それは人よりも物を観察するかのような油断ならない視線であったが、この知的なダークエルフに関心を向けられて、柄にもなく、胸が高鳴った。
何より、彼女の表情。新しい洋服を与えられたような、少女のように無垢な笑顔。ダークエルフの持つ山刀のような抜き身の、冷徹で隙のない威圧感にあって、突如あらわれた笑顔が、私を惑わせる。
「しかし、しかし。そんなことが可能なのだろうか?」
「ああ、可能になりつつある。このプレパラートには各種族の魔術スペクトラムを解析する特殊な刻印魔術を施してある。現状ではあまりにも高価過ぎる上に、この刻印自体が時間経過によって減衰するため、使い道は限られているが、役に立つ機会は必ずあるはずだ。もちろん、改良の余地は大いにあるが」
彼女は呆れるほど自信満々に言い放つと、スタンフォードに向き直った。
「だから言っただろう、スタンフォード。この牡は私の一言だけでも理解したぞ」
「いやいや、ディネルースさん。彼と比べられても困りますし、私は何も研究が役に立たないとは一言も口にしていませんよ。ただ、うちの実験室で警察が不自由になるような技術を研究されますと、色々と面倒だと申し上げただけです」
「そうだったか?」
スタンフォードの言い分は一理ある。
この魔術を元にした新しい科学的な捜査が実用化されれば、警察の捜査はより正確になる一方で、より科学的でない手法による捜査、あるいは過去の捜査には特別の釈明が必要になるだろう。それは警察にとっては望ましい方向ではなく、しかも外部からの提案となれば、面子にも関わる。
が、彼女はもごもごと反論するスタンフォードを無視して、私の方につかつかと近付いてきた。私の頭の先からつま先までを一瞥すると、
「アフェルカか?イスマイルか?」
彼女は二つの係争地を唐突に呟いた。鼻をつく薬品の匂いに混じって、彼女の深く、切なく、芳醇な香りが漂う。
「いや、答えなくていい。アフェルカであることは明らかだ。ふん、これは面白い」
思わずスタンフォードを見やるが、彼は肩をすくめてみせた。どうやらいつものことらしい。
「バイオリン、リュート、そして葉巻だ」
意図は読めないものの、これが彼女の発言のパターンのようだ。力強く、短く、それでいて雄弁。相手の戸惑いをまるで顧慮しない。
「同居、いやルームシェアか。ルームシェアにあたって私の欠点を共有した」
「まだ私はルームシェアとは一言も」
スタンフォードに助け船を求めて目を向けると、彼は首を振った。事前に彼女に何かを伝えたわけではないようだ。それもそのはず、彼と数十年ぶりに出会ったその足で、ここまで来たのだから。
「明日の午前十時、下見に行こう」
彼女のペースは一歩どころか二手三手、それ以上に私の理解を跳躍していた。
「なぜ、ルームシェアと」
「スタンフォードの小僧がアフェルカ帰り、左腕を負傷した元軍医のオークを連れてきた。キャメロットに馴染みがなく、ホテル暮らし。観光が目的ではなく、職探しに奔走中。そして、ルームシェアについて私は今朝スタンフォードと話したばかりだ」
私は思わずこめかみを抑えた。
「しかし私は君のことを知らない。ルームシェア先の住所さえ。それに私は、一応は牡なのだぞ。異種族とはいえ、知り合って間もない二人が同じ屋根の下になど」
「ぷっ。ははは!そんなことか!安心したまえ、私には情愛のあれこれには一切興味がない」
彼女はまた少女のように、しかし老齢の淑女のように、からからと笑った。
心配したのは私ではなく彼女の方だったのだが。私は彼女のペースにすっかり乗せられていた。
「私はディネルース・アンダリエル、ダークエルフ。君は私を知らないというが、既によく知っているはずだ。住所はベイカー街221B、それではまた明日」
彼女は片目だけでウインクすると、からからと笑いながら風のように私の横をすり抜けて、実験室から出て行った。
小僧呼ばわりされたスタンフォードは「どうだった?」といわんばかりに、手もみしながら私を見やる。
――反応、ね。
人と人。男と女。魔と魔。そして、牡と牝。
特別な出会いによって醸成される関係性は、化学反応とも呼ばれる。
彼女ディネルース・アンダリエルと、私グスタフ・ファルケンハインの間には疑いようもなく、確実に、新たな化学反応が起きた。この反応はどのような形で連鎖するのだろうか。
――ああ、そうとも。気になって仕方がない。
これが、私とディネルース・アンダリエルの出会いであった。